2008/3/31

『バンテージ・ポイント』  映画

昨日、書き忘れてたので追記。
ピート・トラビス『バンテージ・ポイント』

 それなりに面白いけど、しかしテレビドラマみたいだな、と思って監督のプロフィール見たら、本当にテレビ上がりの人だった。(ただしイギリス)
 大統領狙撃の一瞬を、複数の人物の視点から、何度も繰り返すという、ありふれてはいるけれど、実際にやるとなるとけっこう冒険なはずの構成。

 ただ、どこか微妙に時間軸に矛盾があったりとか、そいつが出てきた瞬間、この人が黒幕だとすぐにわかるところとか、誰かの視点が終わるたびに、それがちょうどCMのタイミングみたいだと思わせられるところとか、あれこれケチのつけどころは多い。

 何よりこの映画、はじめから劇場公開での収益はそこそこなら合格で、レンタルやTVの権利料でペイしようと思ってる気配がぷんぷんしているのが、どうも好きになれない。
観ている間は面白かったけど、どこかこう素直になれない映画である。90分というきれいに割り切れる上映時間もまた(それに、この上映時間が長すぎず、短すぎずの絶妙の尺なんだ)。

 まあ、「商品」ということで開き直ってしまえば、これでいいのかなあという気もするが、『ハリポタ』とか『カリブの海賊』とは別の意味で、こういう映画がアメリカ映画の衰退に一役かっているような気もするし、なんだか煮え切らない気分にさせられる。

 なお、前々日のダイアリーに、某球団の応援歌として、「六甲降ろし」とか書きましたが、「六甲颪」が正しいのだそうです。謹んで訂正いたします。何もわかってないのがバレバレです。気分を害された方がいらっしゃいましたら、心からお詫びいたします。

 あ、あともうひとつ。
 平野啓一郎が、春香と結婚したとか。はぁ!???
 そんなことがあっていいのか!!!

2008/3/30

若松孝二、3本  映画

於シネマヴェーラ。
若松孝二『犯された白衣』(1967 35mm 57分 シネスコ)
若松孝二『裸の銃弾』(1969 35mm 72分 シネスコ)
若松孝二『性賊 セックスジャック』(1970 35mm 58分 シネスコ)

 今回の「若松孝二大レトロスペクティブ」。無理もしたけど、なんとか11本クリア。まずまずの成果だろうか。

 『犯された白衣』は2度目。しかし唐十郎の役名が「美少年」というのに、初見のときと同様、笑わされる。
 看護婦寮に深夜潜入し、女どもを惨殺するこの物語は、確かにすごいし、最後に残る女が一番かわいいというのはともかく、観ている間はとにかく息詰まるのだが、結局のところ、子どものあどけない表情の中に、物語を回収してしまうのは、どんなものだろうかと、今回も思う。

 そして、『裸の銃弾』は大和屋竺の脚本によるレアもの。女と逃げたものの結局つかまって、ヤキ入れされたチンピラが、5年後に復讐の鬼と化す、若松生涯のモチーフ「復讐」もの。ただ、鈴木清順『殺しの烙印』にどこか通ずる、こうしたオフビートなギャングものは、根が真面目なせいか(?)、もうひとつ肌に合わず、個人的にはやや興醒める。けれどエンドマークが出た瞬間、会場がざわついたから、高評価だったのだろうなと思う。

 ただし『性賊 セックスジャック』は圧巻。政治活動の中にある、性のバカバカしさ。性と政治がなんで結びついちゃうのか、まるでよくわからないながら、それが若さ故のあれやこれやの噴出という点で、説明がつくような気がする。そのため自ずと敗北は明らかだが、性に対して潔癖な主人公だけが、次のステージへ。

2008/3/29

ピアノの発表会  ノンセクション

 前夜、「朝まで生テレビ」を最後まで見て、すぐ寝ればいいのに、次に書くものどうしようかなあと、あれこれノートに落書きしたり、危なく『サイコ』のDVDを見そうになったり、自分で書いた『花様年華』のレビューを読んで自画自賛したりしていたら、結局朝になってしまい、11時ごろまで爆睡。家族にとても叱られる。

 午後は子どものピアノ発表会。全員のを聴いたら、まさか3時間半もの長丁場になるとは思わなかった。下は未就学児から上は中学生まで。
 いくら無垢な子どもたちの、健気な演奏とはいえ、おぼつかないタッチで、「ガボット」とか「エーデルワイス」とかばかりを、これだけの長時間聴き続けるのはさすがにキツイ。楽しかったけど。
 うちの子の曲だって、「へいしのマーチ」とかだし。

 ただ、そんな中に最後の最後で中学生の女の子が1人だけ、ショパンの『幻想即興曲』を見事に弾ききったのに瞠目する。たぶんあの子が、教室のエースだ。
 すげえ。生のピアノの演奏を久々に目にしたせいもあるけど、若いこともあるのか、指が面白いくらいによく回る。これだけ弾けると、演奏も気持ちいいだろうな。
 きっと、血の滲むような練習の成果に違いないのだけど、この難曲をミスタッチなし。素直に感心し、お義理でなく心からの拍手を送る。
 もちろんこの子だけでなく、みんながんばって練習して偉いね。楽器演奏を身につけるのは、本当に大変なことだと思う。

 なお、曲の合間の余興で、「曲当てクイズ」のコーナーがあり、なんだか軍歌みたいな曲が弾かれて、これは何の曲でしょう! という問いに、手もあげてないのに、「これはお父さんに!」とかなぜかオレが当てられてしまい、本当に知らなかったので、素直に「知りません」と言ったら、司会者はじめ会場中から「こいつマジかよ」という目で見られる。
 えっ? なんだ、このKYな雰囲気は!? とビビると、他の人が「六甲颪」と答えて正解のお菓子をもらってた。阪神タイガースの歌なんだそうだ。そんな曲、知らねーよ!

2008/3/28

『魔法にかけられて』 ほか4本  映画

 平日だというのに、奇跡的に午後体があき、一気に本数クリア。なるべく短くまとめ・・・られるかな?

若松孝二『赤軍−PFLP 世界戦争宣言』(1971 71分 16m スタンダード)
 パレスチナ解放人民戦線(PFLP)と赤軍(共産主義者同盟赤軍派)との共同編集による、パレスチナゲリラのド根性を描くプロパガンダフィルム。
 たとえばフレデリック・ワイズマンのフィルムに出てくる、さまざまな人々の顔が、個性とともにはっきりと記憶に残るのに対して、このフィルムにもたくさんの人物が出てくるが、その顔がまったく記憶に残っていない。
 そして、どちらにも膨大なセリフ量があるが、ここではワイズマンのように議論はなされない。一方的に「宣言」を述べるだけである。対話はない。
 これだけで「運動」のありようが何となくつかめるのではないだろうか。とても興味深く観る。於シネマヴェーラ。

ウォン・カーウァイ『マイ・ブルーベリー・ナイツ』
 ノラ・ジョーンズがすばらしくいい。レイチェル・ワイズもいい。ナタリー・ポートマンはまあまあ。
 ウォン・カーウァイにあっては、室内というのはまるで胎内のように、彼らを守ってくれる空間だ。ジュード・ロウの経営するカフェのガラス張りの部屋は、まるで羊膜のように彼らを包む。室内の彼らを写すとき、カメラは必ずこのガラスごしである。それが画面に優しさを生み出している。

 限りなくヴェンダースのような題材のロードムーヴィーだが(音楽もライ・クーダーだ)、なるほどアジアの監督だなあと思うのは、唇のはしに、砂糖の粉をつけたまま寝入ってしまったノラ・ジョーンズに接吻しつつ、それを口で拭い取るジュード・ロウの美しい仕草だ。

 相手の口元についたご飯粒を、彼(もしくは彼女)がとってやって、それを自分の口に入れてしまうという極めてアジア的な振る舞いを、欧米的に翻訳するとしたらこうなるのではないか。こんなの欧米の監督には思いつかないアクションだろう。
 相変わらず最高に美しいウォン・カーウァイ作品。

ジョエル&イーサン・コーエン『ノーカントリー』
 これはたしかに、とんでもない傑作だった。
 この血も涙もない殺人鬼にたいして、保安官のトミー・リー・ジョーンズはまったくなす術がない。そして、彼の諦念は殺人鬼に対して示されるのでなく、そんなものを生んでしまった国と時代の空気に対するもので、評判のいいハビエル・バルデムの演技にさほどの興味は持てなかったが、アメリカの悲劇を一身に引き受けるトミー・リーの顔に深く刻まれた皺に激しく感動する。こんな顔を作れるのは、クリント・イーストウッドただ独りではないか。
 
 だがそれにしても、ハビエル・バルデムとウディ・ハレルソンが、初めて同一フレームに収まる階段シーンはすばらしい。この粘着質なサスペンス! 階段を背景にしたシーンとして、ヒッチコック『サイコ』に匹敵するのではないか。
 ただ、今年のオスカーを争った『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』と比較するなら、『ノーカントリー』の方が、正直大きく見劣りはするかな。テーマ的にも内容的にも、すでにイーストウッドやスタローンやタランティーノや、すぐには思いつかないあの人やこの人がやりつくしたことばかりだから。

ケビン・リマ『魔法にかけられて』
 あまりにもすばらしく、あまりにも幸せなので、号泣号泣また号泣。
アニメ世界から、現実のニューヨークにやってきたアニメヒロインたち。アニメの中ではロマンチックな振る舞いも、現実世界ではただの狂気であるということで、ディズニーが自分自身を笑いのめす。
 けれど、ファンタジーとリアリズムの折り合いというものがあるはずで、このすばらしい傑作は、そのど真ん中はここだ! とばかりに、そのミドルポイントを見事に描いてみせる。

 アニメ気分を残すヒロインが現実世界で思わず歌い出す。その行動そのものは、現実のNYでは単なる奇矯にすぎない。けれど、そこにたまたまストリートミュージシャンがいて、彼女の歌に伴奏をつけると、いきなり祝祭空間に変わる。
 他の楽師もあちこちから加わり、かつ居合わせた結婚式の集団が、それにつられて踊り出すと、現実のセントラル・パークが、たちまちフェスティバル会場となってしまう。
 これがニューヨークだ。そしてセントラル・パークでは実際にこんなことが起こってもまったくおかしくない。このシーンで滂沱の涙。なんて素晴らしい場面を見せてくれるのか!

 さらにクライマックス。ヒロインがガラスの靴を脱ぎ捨て、素足で駆け出し、ドラゴン退治に向かう場面の感動たるや、嗚咽をあげてむせび泣く。(ガラスの靴への素敵なアップ!)周りにほとんど客のいない、レイトショーの回でよかった。何たる傑作!
 『白雪姫』から約70年を経て、その蓄積を持つが故にディズニーが成し得た大偉業!

 ちなみに、アニメパートでは、ヒロインの胸の谷間をきっちり描き込んだという意味でも、ディズニーの歴史を画する事件となるはずだ。ドリームワークスの『シュレック』でさえ、そんなことはやっていない。

 いい映画ばかりを観れて、とてつもなく幸せな1日である。

2008/3/27

クレア・デインズの『もののけ姫』  映画

 なんだかんだ言って(?)、実はクレア・デインズ隠れ(?)ファンの私である。夜、布団をかぶって寝つくまでの4〜5秒の間、クレア・デインズのことを妄想している率はかなり高い。

 それはともかく、何となく棚の『もののけ姫』DVDが目に入ってしまい、平日なのに、こんなもの出しちゃって、うっかり観てしまったら大変! もう500回くらい観てるんだから! と自己を厳しく律するものの、はて、もう何年も前に買ったのに、そういえばこのDVDに収録されたインターナショナル版って、実は観たことなかったな、と思ってしまったのが運の尽き。

 英語版(アメリカ公開版)で、サンの声を吹き替えたのはクレア・デインズなのだ。
 その瞬間、身体のいろんな部分(?)が反応してしまい、ああ・・・ほら、2時間13分もある映画なのに、結局、最後まで観ちゃったじゃん・・・と痛恨。

 一声発せられた瞬間、聞き間違えようのない、クレア・デインズそのものの声で、そんなに好きなら、『自由な女神たち』でも『レインメイカー』でも観てりゃいいじゃんという話なのだが、けれどサンの向こうにクレア・デインズの顔を思い出しつつ声だけ聞くというところに、思いがけない倒錯的な(?)喜びをバカバカしくも発見してしまう。

“Ashitaka,you mean so much to me. But I can’t forget the human for what they’ve done.”(アシタカは好きだ。でも人間を許すことはできない)
の名セリフのあたりの、声の抑揚には萌えに萌える。

 ところで、上記に採録したとおり、『もののけ姫』の見事な英語版脚本はニール・ゲイマン(この“You mean so much to me.”って英語、すごくいいよね! きれいだね!)。
 クレア・デインズも最近出た『スターダスト』の原作者である。思わぬところでつながりができるものだ。

 ちなみに米良美一による、あの歌は英語版でもきちんと英語に直してあり、サーシャ・ラザールという、こちらはちゃんと(?)女性歌手が歌っている。

2008/3/26

アンドリュー・モートン『トム・クルーズ 非公認伝記』  

 アンドリュー・モートン『トム・クルーズ 非公認伝記』(小浜沓・訳 青志社)読了
 モニカ・ルインスキー、プリンセス・ダイアナといった、選択肢としてはナイスな人選を行うイギリスのゴシップ・ライターの次の標的はトム・クルーズ。

 もともとハリウッド人の「伝記」なんて、公認だろうが非公認だろうが信頼する方がバカなのだけど、さすがにこれだけ誹謗中傷が書かれていると、あまり気分のいいものではない。(というか、こんな468ページもの通俗本を読み通す物好きなどいるのだろうか?・・・と思って米国amazonを見たら、現在114本ものレビューがアップされている!)

 スターになる以前のクルーズさんのことは話半分に。『トップガン』以後は、かなり詳細に追いかけているつもりだから、書いてあることと自分の知識をつけ合せつつ読む。この本を最後まで読んだ主な目的は、サイエントロジーのことを少し知りたかったからだ。
 教団のトップで、クルーズさんの「無二の親友」デヴィッド・ミスキャヴィッジという人物のだいたいのあらましや教義など。
 
 ちなみにサイエントロジーの世界観はざっとこんな感じ。
「七千五百万年前に宇宙を支配していたジーヌーという帝王が、銀河系の増えすぎた人口問題を解決するために、当時はティージーアックと呼ばれていた地球に十三兆五千億人の異星人を送り、火山の内部に投下したあと、核爆発で蒸発させたというものである。異星人は無数のセイタンと呼ばれる魂となり、神・キリスト・既成宗教などの数々の誤った教えを吹き込まれた。このセイタンが人間の体に入りこんだため、個人が悩みを抱えるようになったばかりでなく、現代社会の不和や軋轢が生まれることになったのである。」(P.264)

 で、信者は「次は体に巣くうセイタンを追い出すという」作業に取り組むため、「Eメーター」なる装置を使って、「テレパシーを使った二十分間の会話により、最大十までのセイタンを除去することができる」というわけ。
 もちろん、そのたびに多額のお金を教団に払わなきゃいけないわけで。
 このへんは、町山智浩さんがレポートされたこととほぼ同じだから、本当なんだろうね。(チック・コリアやマーク・アイシャムもサイエントロジストとは知らなかった!)

 で、クルーズさんがパラマウントから切られたことが、もうひとつピンと来ていなかったのだけど、これはさすがにパラマウントの親会社、バイアコム会長サムナー・レッドストーンの目先が利くと言うべきなんだろう。
 前にこの日記にもとりあげたけど、『M:i:V』の1億3千万ドルという国内収益は、絶対数としては申し分ないが、トム・クルーズ作品としては大いに不満ということだ。

 この本は案外あっさりこの疑問を解決してくれている。
 「ハリウッドでは好きな神を信仰してかまわないが、その神の名は「金」でなくてはならないのである」(P.436)
 なるほど。これはその通りかもしれない。
 この時期、一連の奇行がなければ、『M:i:V』は軽々と2億ドルを超えたはずだ。

 そして『大いなる陰謀』が、あまりにもひどい興行的失敗に終わった事実が、レッドストーンの慧眼を示してあまりある。おかげでパラマウントは大損失を回避できたのだ。
 それにしても、千五百万ドルを稼げぬトム・クルーズ作品ってなんだ? このことも前に書いたが、レッドフォードとメリル・ストリープがいてこの惨状とは?
 繰り返しになるけれど、これより悪いクルーズ作品は『爆笑!?恋のABC体験』ただ1本。『レジェンド/光と闇の伝説』、『栄光の彼方に』よりもなお悪い。

 本書のこれもうなずけそうな情報だが、この時期の行動によって、スピルバーグとの関係も壊れたというのも胸の痛むところだ。総合して考えるとそれはありそうだ。
 ナチスをテーマとする新作『ワルキューレ』を企画し、その撮影を断固としてドイツで敢行したことも、サイエントロジーがナチスとの類似性を指摘されるにおよんで、その噂を払拭するためであるという指摘についても、鼻白む思いはあるが、説得力はある。
 そうした思惑は、監督ブライアン・シンガーの知るところではなかったという部分も。

 とはいえしかし、どんな背景があったにせよ、『ワルキューレ』という企画で、監督にブライアン・シンガーを雇うという、トム・クルーズの「映画人」としての眼力は、誰よりも確かだと思うし、私生活がどうあれ、その作品そのものは間違いなく一級品だ。

 そうした話はほどほどでいいから、『アイズ・ワイド・シャット』の撮影レポとか、『M:I-2』の現場など、もっぱら映画に徹した「伝記」をぜひ読みたいものだ。この本にはそうしたことは、一切何にも書かれていない。あれこれ教えてもらったことは確かだけど、「映画」について何の関心もない点において、本書はやはりゴシップ本にすぎない。

 ちなみに、サイエントロジーの創始者ロン・ハードというのを、ロン・ハードと誤植しているのに大笑い。(P.432の7行目)

2008/3/25

トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』  

トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』(村上春樹・訳 新潮社)
 昔からブレイク・エドワーズの映画『ティファニーで朝食』の、何がそんなにいいと思われているのかよくわからない。オードリー出演作としては、最低ランクの1本と思うのだが。

 けれど、原作であるカポーティのこの本の美しさは抜群だ。カポーティそのもののような村上春樹の日本語で読むとまた格別。確かに無駄ひとつない文章で、1人の女性の肖像が浮かびあがる。

 本書に収められた4つの短編を読むと、カポーティがどれだけ大人になれぬ子ども、大人子どもを愛し、描いたかわかる。
 それはやはり失うべきものを失いたくないという、センチメンタリズムの故である。どの短編も、今では去って行った人の不在についての取り返しのつかなさ、戻らぬ者への哀惜の気持ちがびっしりと書かれている。

 そう感じさせられることの秘密は、この本に収録されたカポーティの短編のどれもが、失うことの哀しみを感じる人物の人称で書かれているからだ。
 その人物の肖像が、いつか作者であるカポーティにかぶり、それが『ノルウェイの森』の作家・村上春樹にかぶり、そしてそれらを読んできた私たち自身にかぶって、胸を締め付けられる。

 こうなると村上春樹の訳で、あの美しい『遠い声 遠い部屋』も読みたいという願望にとりつかれる。

2008/3/24

TOTO  音楽

 いくら来日のための宣伝とはいえ、今日の「SMAP×SMAP」にTOTOが出たのには驚いた。この番組にはもう多少のことでは動じないつもりだったが、TOTOが出る!?

 恥ずかしい言葉を使わせてもらうなら、TOTOの、正確にはTOTOのサウンドは私の青春そのものだ。私はスプリングスティーンやU2やニール・ヤングみたいな、スケールの大きな荒いロックも大好きだが、TOTOのような技術の粋をこらした、知的で美しい西海岸バンドが何より好きなのだ。スティーリー・ダンとかも。

 1stアルバムの“TOTO”から“The Seventh One”までの7枚のアルバムは、擦り切れるほど聴いたものだ。CDだから擦り切れないけど。6枚目の“Fahrenheit”なんかは今でも折に触れて聴く。

 あれこれメンバーが変わり、何よりジェフ・ポーカロが92年に不慮の事故によって死去したのはまったく痛恨で、またそれ以上に、TOTOのサウンドを作っていた、キーボードのスティーブ・ポーカロの脱退がいかにも惜しく(演奏はしてるけど)、以後、私自身もTOTOを聴くことがめっきりなくなったが、今日の「SMAP×SMAP」の演奏を聴いて、往年のサウンドがまるっきり失われていないことに、涙があふれて止まらなくなる。(演奏曲は“Africa”,“Rosanna”,“Bottom of Your Soul”)

 今日聴いた限りでは、大きいのは新加入の黒人メンバー(新加入とはいえ、番組内で木村拓哉が言った通り、マイケル・ジャクソンやクラプトンのバックでガンガン弾いていた達人だ)の、グレッグ・フィリンゲインズの力だ。まるでスティーブ・ポーカロの音そのものではないか。さすがにうまい! ほれぼれする音を出す!
 ずっと偏見を持っていたが、サイモン・フィリップスの正確無比で、軽やかなドラミングも、亡きジェフ・ポーカロを彷彿とさせ、とにかく往年のTOTOそのものを聴くようだ。

 ボーカルのボビー・キンボールを後ろに追いやって、SMAPがフロントで歌うというのは、ちょっと待ってくれよと思うが、まあSMAPの番組だから。

 こんな音が聴けるのならば、ボズ・スキャッグスとの来日コンサートを是非にも行きたくなる・・・、と思わされてしまうということは、プロモ成功ということなんだろうな・・・。

2008/3/23

『ハスラー』から『レイジング・ブル』へ  映画

 気まぐれにロバート・ロッセン『ハスラー』のDVDを引っ張り出して観ていると、あらゆる意味で映画の水準が段違いなのに、今さらながら驚くが、それにしてもスコセッシは、実はロッセンに近づきたくてしかたがないんだろうな、という感想を不意に持つ。

 奥行きを第一義においたロッセンの画作りと、人物を前面に置くことで画面の表面張力を呼び起こすスコセッシの画の好みは、若干違いがあるのだが、2人が切り取ろうとするアメリカは相通じ合っている。
 場末の裏通りであり、その世界の中での狭いプロフェッショナリズム。あふれる才能を持ちながら、気持ちを制御しきれぬ青さがその開花を阻む。そしてその才気だけを掠め取って甘い汁を吸う陰の人物。
 そもそもポール・ニューマン演じるファスト・エディと、ロバート・デ・ニーロ演じるジェイク・ラモッタなんて、まるで同一人物のようだ。

 『ハスラー』はそのまま、スコセッシの『レイジング・ブル』の世界に引き継がれる。マイケル・チャップマンのカメラは、画作りの基本方針こそ前述の通り異なるが、登場人物の生活(行動)空間を隈なく押さえていく方向性において、ほとんど変わらない。
 ただし『ハスラー』の後に続けて『レイジング・ブル』のDVDを観ると、『ハスラー』のカット割りのシャープさはもう失われていることがわかる。
 もちろん作品の内容にも起因するはずだが、『レイジング・ブル』の方がやや鈍重。『ハスラー』以後のアメリカ映画からは、50年代的な編集の妙味が失われていることが如実だ。

 こうなると、『ハスラー2』のDVDも観ずには眠れない。ここでは逆に、編集のシャープさは戻っているが、ミヒャル・バルハウスのカメラが動きすぎる。もちろんあまりにも華麗な動きなのだが。しかし、これはトム・クルーズが機敏に動きすぎるからでもあるだろう。

 こうして続けて観ると、『ハスラー』の若きポール・ニューマンが前半で見せる天真爛漫な微笑みが、『ハスラー2』のトム・クルーズの微笑みといかに似ているかに驚く。老いたポール・ニューマンが、クルーズを相棒に求める必然が瞭然だ。

 こうなるとP・T・Aの『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』を念頭に置きつつ、ロッセンの『オール・ザ・キングス・メン』と、スコセッシの『エイジ・オブ・イノセンス』も観ずにはおさまらなくなったが、無念、夜が明けてしまった。いやはや、それにしても映画というのは面白い。

2008/3/22

若松孝二の『鉛の墓標』と『胎児が密猟する時』  映画

 於シネマヴェーラ。しつこく若松孝二作品を2本。
 若松孝二『鉛の墓標』(1965 35mm シネスコ 86分)
 若松孝二『胎児が密猟する時』(1966 35mm シネスコ 72分)

 『胎児が密猟する時』は3度目だが、何度観ても息詰まる。『鉛の墓標』は驚くほど丹精に作られた、ある意味普通の犯罪青春映画と言えば言えるのだが、ヴァイオレンスシーンの過激さが普通じゃない。

 昨日の2本を観ていて、「(権力に)飼い慣らされる」という言葉を使ったのだけど、改めてこの2本も「飼い慣らされる」ことへの嫌悪と逃れ難さに関する寓話だと思った。

 無軌道なチンピラが、ヤクザ者に拾われて、その徹底した非情さを買われて組織内の出世をほしいままにするが、それによって最も嫌悪するはずの組織に知らぬうちに飼い慣らされ、結局身動きがとれなくなり、そもそも何のための無軌道か、その意味が根本からうしなわれる『鉛の墓標』。

 飼い慣らされてあることのストレスが高じ、妻に出て行かれる=すなわち自分自身は他者を飼い慣らすことに失敗した男が狂気に至り、連れ込んだ女性を飼い慣らす、というよりは監禁し調教する『胎児が密猟する時』。
 ベートーヴェン「エロイカ」を口笛で吹きながら、全裸で縛りつけた女を、果てることなく鞭打ち、折檻し、調教を試みるが、それがかなわぬことから、飼い慣らせるに至らせるほどの権力とは何ぞやといった主題が、逆説的に浮かび上がる。

 とかわかったようなことを書いてしまうが、それにしても花粉で全身ガタガタ。終日、鼻水がとまらず、すべての集中力と気力を奪われ、もどかしい限り。



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