2008/4/30

水谷豊 その2  ノンセクション

 今晩はNHKの「SONGS」という番組で、水谷豊さんが登場。「今」の水谷豊がバッチリ歌う。『カリフォルニア・コネクション』がフルコーラスで歌われたときには、さすがにこらえきれず滂沱の涙。なんてすばらしいんだ。

 曲は名曲『はーばーらいと』(詩・松本隆 曲・井上陽水)から。
 合間にプロフィールなどをはさんで、これも名曲『表参道軟派ストリート』(詩・阿木耀子 曲・宇崎竜童)。当時この曲が「ザ・ベストテン」で歌われた翌日の学校では、ずいぶんからかわれたものだ。何せ、私の名前が“なん”だからね。うらむぜ水谷豊! と思ったが、何とその問題の「ザ・ベストテン」での映像が流れ、それを見ながら「今」の水谷さんがお歌いになり、いじめられたあの日々の記憶が甦る。

 そして『熱中時代2』主題曲、『やさしさ紙芝居』(詩・松本隆 曲・平尾正晃)。   「1」と違いドラマそのものは見るに耐えなかったが、歌はすばらしい。というか、素朴そのものの水谷さんの歌唱がいい。
 で、今日の頂点として超名曲『カリフォルニア・コネクション』(詩・阿木耀子 曲・平尾正晃)。イントロを少し変えていたのが、やや難点だったが、これには言葉がない。

 この後、水谷豊は歌うのをやめたという。それは、歌詞や決められたリズムの中で歌うという制限の中では、今の自分では十分に表現ができなかったからだとか。くぅ、カッコつけすぎだよ(『横浜BJブルース』の松田優作の声で)。
 最後に自ら詩・曲を書いた『何んて優しい時代』。

 いや、しかしつくづく松田優作が存命だったらなと思う。早すぎたよ。
 松田優作と水谷豊が、それこそ「相棒」として共演し、深作欣二あたりで、なんか1本映画を作っていたら、世界映画史に残っただろうな。

2008/4/29

『ファクトリー・ガール』  映画

ジョージ・ヒッケンルーパー『ファクトリー・ガール』

 ウォーホールのミューズ、イーディ・セジウィックの、華の盛りから転落までを描く。イーディを演じるシエナ・ミラーのそっくりぶりに驚くが、ウォーホールを演じるガイ・ピアースのそっくりぶりもハンパじゃない。
 
 けれど残念ながら、たとえばアレックス・コックスが『シド&ナンシー』で、最近ならイアン・カーティスを描いたアントン・コービン『CONTROL』がそうだったような、スタイリッシュな表現はここではあまり見当たらない。
 過敏な精神の持ち主であるが故に、クスリで転落していくイーディの姿が淡々と描かれるまでだ。
 
 出会った当初は、作品が売れねえとボヤくウォーホールに対して、イーディは既に社交界の華だった。けれどいつしかそれが逆転して、ウォーホールの高まる名声と反比例してイーディの境遇は堕ちていく。
 そんな変化が、エピソードのいくつかをあしらうだけで、そもそもそれはなぜだったのかという説明を含め、時間の推移が十分に表現されないのは、致命的だった。

 こうした映画を作るのはやっぱり難しい。ボブ・ディランやベルベット・アンダーグラウンドがガンガン流れてこないと、時代の気分まるごとが伝わらない。
 せめて、ウォーホール映画のフッテージくらいは見せて欲しかった。
 権利的にそうしたことは泣く泣くあきらめているはずで、そこを断念するならば、別のところで勝負しなければと思うのだが、残念な結果しか出せなかったように感じた。

2008/4/28

『フィクサー』,『王妃の紋章』,『紀元前1万年』  映画

トニー・ギルロイ『フィクサー』
 超力作だが、もうひとつ構成が悪くて、物語に入っていくのにやや時間がかかる。
 やはりジョージ・クルーニーの静かで熱い演技が、映画のすべての中心となる。「フィクサー」=「もみ消し屋」という職業は、どんな理不尽に直面しても、絶対に逆ギレしてはダメなのだ。

 右手に8万ドルの小切手。左手にすべてを明るみに出す重要書類。どっちが重いか、ここでも両方を天秤にかけるクルーニー。降りるかレイズするか。人生は常に選択なのだ。
その重要書類を製本した表紙の真っ赤な色が目に痛い。
 『「赤」の誘惑』を著した蓮實重彦よろしく、「またしても赤なのだ」などとくだらぬことは言わないが、こういう強烈な色を選択する細部は重要なのだ。

 なお、やっぱりティルダ・スウィントンのこの程度の演技でオスカーは、あり得ない。 てゆーか、出番なんかほとんどないし。出てきても、同じパターンの演技の繰り返しなんだもの。
 これで『つぐない』シアーシャ・ローナンや、『アイム・ノット・ゼア』ケイト・ブランシェットを斥けるというのは、いくらなんでも失礼だ。
 オスカーの陰の暗躍者ジョージ・クルーニーという、私の説はこれで証明されたのだ。

チャン・イーモウ『王妃の紋章』
 こりゃダメだ。ぐっすり眠らせていただく。
 ものすごくちっぽけなテーマを、ものすごく巨大規模で見せようというアンバランスさが、とにかく退屈。

ローランド・エメリッヒ『紀元前1万年』
 これはもっとダメで、かなり驚く。エメリッヒどうしたんだ? いったい。
 『アポカリプト』と、『ジュラシック・パーク』と、山ほどあるファンタジー映画のあれこれを混ぜて、そのどれにも徹しきれない中途半端さで、とにかく見どころのない作品。
 結局、盛り上がりどころが1つもないままで終わってしまう。
 
 エメリッヒにあって、物量面でチャン・イーモウにさえ負けてどうする。
 あと、登場人物が女を含めて、敵も見方も全員同じ顔をしているので、とうとう最後まで区別がつかず、人物関係がわからぬままに終わってしまった。

2008/4/27

水谷豊  ノンセクション

 昨夜の「SMAステーション」では、水谷豊さんの総力特集をやっていて、興奮に我を忘れる。水谷豊の華麗な経歴は、実はテレビ史上でも屈指のものではないか。
 ショーケンと共演した『傷だらけの天使』はもとより、3本のお化け番組『熱中時代』を含め、個人的には小学校5年の時とにかく圧倒された、山口百恵不在の赤いシリーズ『赤い激流』を含め、見事すぎる。
 たしか『赤い激流』は、「赤い」シリーズにあって最高視聴率をとったのではなかったか?(未確認)

 その『赤い激流』。ピアニストを目指す青年・水谷豊が、とにかくあれこれあって、実の父親・緒方拳を殺害した冤罪で、ついに死刑判決まで受けてしまうという、陰陰滅滅ドラマ。
 恋人が竹下景子で、母親・松尾嘉代、再婚後の夫に宇津井健。その弟が石立鉄男という、完璧な布陣。

 海外留学のためのコンクール課題曲として、1次予選が『英雄ポロネーズ』、2次が『ラ・カンパネラ』、本選が『テンペスト(3楽章)』という選曲も鮮やかで、独房の床にチョークで鍵盤を書き、『ラ・カンパネラ』をイメトレする、獄中の鬼気迫る水谷豊の演技には、子ども心にひたすら感動、ただ興奮したものだ。
 「かあさぁん・・・オレ、まだ死にたくないよぉ・・・」と搾り出すように語る、水谷の声は30年以上たった今も、耳にこびりついている。

 あげく水谷は脱獄(!)するのだが、そのとき竹下景子にした暴力すれすれの、ぶちキレたキスシーンは、子どもには強烈だった。全身全霊の演技というものが、確かにあるのだと骨の髄まで刻み込まれたドラマだ。
 そんな水谷豊が、翌年はイメージ一転、『熱中時代』の北野広大先生だもんな。

 「SMAステーション」では、そんな『赤い激流』のことは触れられなかったけど、『熱中時代』やさまざまなドラマの各場面が見れて、ひた感動。
 私は『金曜日の妻たちへPART3〜恋に落ちて』を最後に、テレビドラマなんか見たことないが、その昔はドラマもすごかった。

 水谷豊がゲストの、松田優作『探偵物語』も、個人的にはベストエピソードだ。 
 あれは確か、地方公務員(北海道だったか?)の水谷が、東京に出てきた妹の行方を捜してほしいと、松田に依頼に来るのだった。その妹が原田美枝子なのだからたまらない。
その捜索の中で、松田と水谷が友情を深めていくのだが、バーの場面で、松田優作のギター、水谷豊の歌で、井上陽水の確か『心もよう』を歌うのだった。すげえ。
 番組では、そんな松田/水谷の友情も紹介される。おー、素晴らしい組み合わせだ。

 「ザ・ベストテン」第1位獲得の、『熱中時代・刑事編』主題歌『カリフォルニア・コネクション』も流れ、単に自分のノスタルジーかもしれないが、水谷豊の仕事は不滅である。

 『青春の殺人者』と並ぶ代表的映画作品『逃れの町』(工藤栄一監督!)、共演は甲斐智枝美で、ちょうどこの頃にヌード写真集を出して、これにはずいぶんとお世話になったものだが、何年か前に彼女は自殺してしまったのだったか。

 「SMAステーション」で、実は松田優作よりよほどケンカっぱやかったそうですね、という話をふられ、「いや、まあ、まだ若かったんで、2人とも他人を受け入れるキャパがものすごく狭かったっていうかね・・・」と、さすがにうまい表現をするものだなと、ますます敬愛の念を深めるのであった。

 なお、番組中ではあたかも、伊藤蘭との結婚が初婚であるかのように語られ、『熱中時代・刑事編』の相手役、ミッキー・マッケンジーとの結婚・離婚のことはまるで触れられなかったところに、少し笑う。

2008/4/26

『大いなる陰謀』、『つぐない』  映画

ロバート・レッドフォード『大いなる陰謀』
 目を疑う。こういう映画だったか。92分という短い上映時間に、内心、不安を隠せなかったのだが、こういう作りならそれも納得。
 戦闘シーンもあるにはあるが、決してスペクタクルのそれでなく、状況としての戦闘。それを除けば、とうとう最後まで机をはさんだ、会話劇だけで押し通してしまった。

 メリル・ストリープVSトム・クルーズ。ロバート・レッドフォードVSアンドリュー・ガーフィールド。
 やっぱりトム・クルーズが信じられない芝居を見せて、俳優として、人間として、神に授かった己のダークサイドの魅力を爆発させながら、何があっても信じてはならぬ敏腕政治家を演じる。昨今の負の世評までをも、役柄に投影してプラスに変えてしまった。つくづくおそろしい人だ。

 そんなトム・クルーズが目の前にそびえるのだから、メリル・ストリープも大変だ。しかしそこはさすがの貫禄で、逆説的にトム・クルーズの魅力を欺瞞の表象として浮き彫りにする。
 タクシーの窓から、ジェファーソン記念堂、戦没者墓地、そしてホワイトハウスと、ワシントンDCの象徴を見つめて、あまりにも多くの感情が高まって思わず涙をこおすストリープには、こちらの胸もしめつけられる。実に豊かな名場面だ。

 レッドフォードもデスクに座ったままの演技で、理想と現実を天秤にかける。トム・クルーズが語った通り、世間感情と事実をごっちゃにしないために(これをごっちゃにしたため、イラク戦争が起こったと説くわけだ)心を砕く大学教師の役どころ。

 活劇を封印し、俳優としての技量を尽くして魅せるセリフ劇。アメリカでは批評・興行ともに大失敗となったが、興行はともかく、これを評価できぬアメリカの批評ってなんだ? 思うだに、こんな映画を堂々と製作したトム・クルーズの良心に恐れ入る。

ジョー・ライト『つぐない』
 いいわけがないと思い込んでいたが、とんでもないことだった。
 今年のオスカーレースはレベルが高い。これが作品賞であっても、ちっとも恥ずかしくない。
 たった一つの偏見が、姉とその恋人の運命を激しく狂わせてしまう。姉の恋人は戦場にいくが、ダンケルクの戦いの後の浜辺のシーンの言語を絶する長回しに目を疑う。
 その過ちを犯す少女、シアーシャ・ローナンの、無垢であるが故の少女の魔性を、全身で表現してこれがすごい。
 オスカー受賞の『フィクサー』ティルダ・スウィントンはまだ未見だが、この子以上の演技をしているなんて、どうしても思えない。歩き方とか立ち方とか話し方とか、所作の隅々までキャラクターが宿っている。これは監督の演技指導の賜物か。
 
 全体の構成も含めて、考えに考え抜かれた、堂々たる大傑作。すごい。ようやく、英語圏の新作映画に勢いが出てきた。うれしい。

2008/4/25

テレビとランボー  映画

 テレビがぶっこわれて、突然何も映らなくなった。マズイ! てゆーか、なんで? 今日からGWで、夜は映画三昧だと楽しみにしてたのに! タイミングよくAmazonから「ペドロ・コスタBOX」の「ご注文の発送」が来て、「やった!」と思っていたのに!
ちょうど、「HASYMO」ライブのDVDも今日、買ってきちゃったんだよ・・・(涙)

 これは要するに、映画なんか観るのは禁止。読まずにためてる本を読め! 最近、何も書いてないんだから、黙々となんか書け! という神様のおぼしめし?? 意地悪? え〜っ??

 そんなわけで、『ランボー』のことを悶々と考えていて、今回のランボーがいいな、と思えるのは、初めてランボーが闘いにあたって、恐怖しているところなのだ。
 本気で「今度ばかりは死ぬかも」と思ってる。そのへんのスタローンの演技の緻密さがわからない奴は、金輪際映画など観なくてもよいと思うが、それにしてもうまいと思うのは、今回、彼に「最後の戦場」に出向くことを決意させる人物の描き方だ。

 「ランボー1〜3」では、リチャード・クレンナ演じるトラウトマン大佐は、「4」ではもういない。けれど、まるでトラウトマンの亡霊のように現われて、ランボーを戦いに誘う人物が登場する。
 豪雨が降っていて(なぜだ!?)、真っ暗な中、顔が判別できない。イーストウッドばりのライティングで、この人物を幽霊のように描くことで、幾重もの意味を与える、バカバカしくも素晴らしい、映画作家スタローン。
 何も考えてないように思われて、その実、考えに考え抜かれているのだ。

 ランボー1〜3。学生時代、劇場でとにかく繰り返し観たから、隅々まで知ってるつもりだったけど、やっぱり再見したいな。きっとものすごい発見がたくさんできるんだろうな。

2008/4/24

『ランボー/最後の戦場』  映画

シルベスター・スタローン『ランボー/最後の戦場』
 19:30より、完成披露試写にて。
 ヴァイオレンスシーンがどうのと、あれこれ前評判が先行しているけれど、これはやっぱりすばらしい。
 冒頭、タイトルの後、アコースティック・ギターのアルペジオを伴奏に、トランペットで哀切感漂う「ランボーのテーマ」を奏でられると、それだけで涙腺はゆるみっぱなしだ。
 おそらく『パピヨン』と並んで、ジェリー・ゴールドスミスが書いた、もっとも美しいメロディだろう。

 封切前にあれこれ書けないけれど、ジョン・ランボーが、還暦スタローンが、密林の中を全力疾走するのだ。小枝を払い、倒木を飛び越え、茂みをかきわけて、走りに走る。ここへ来てまだ、ジャングルを走り抜けるランボーの姿には、それでもなおリングに上るロッキーの姿にも増して、なおいっそう胸を締め付けられる。

 スペクタクルというと、CGと同義になってしまった今、たった1人の軍隊として、生身の肉体をすり減らして密林を駆け抜けるスタローンの、このド根性に匹敵するスターが、現在いったい何人いるだろうか。いないのではないか。
(そしてこの全力疾走では、守るべき人のものを身につけるという、あまりにもスタローン的な記号までばっちりクリアされていることは、要注目だ。しかも物語の必然に沿ったやり方で。)

 この映画は、そんなスタローンが今の肉体(年齢)と、予算と、技術の中で、できることとできないことの限界をきっちり見定めた上で、そのマックスポイントを突破した、ギリギリのところで作られているように思えてならない。

 そして、その政治感はさておくとしても、映画の中では子どもが凄惨に殺され、少女は犯され、手・足・首が吹っ飛び、脳漿が飛散し、喉笛を素手でかっさばき、断刀ではらわたを抉り出す。普通ここまでやらない、ここまでできない。ハリウッドメジャーの禁忌をことごとく破る。表現したいことのためには、いささかの妥協も示さぬこの姿勢は、何者にも負けないはずだ。

 なお、シルベスター・スタローンほど、見事なラストシーンを思いつく人間は無二だと思うが、『ランボー/最後の戦場』のラストシーンは、またひときわ見事だった。これ以上、美しく、かつ胸を打つ終幕など滅多に見られるものではない。
 「最後のスーパーアクションシリーズ」のまごうことなき完結である。

Very Special Thanks to Mr.Futai

2008/4/23

ソフィア・ローレン  映画

 そういえば書きそびれたが、一昨日21日の「SMAP×SMAP」は、これまたまたまた驚いたことに、ソフィア・ローレンが登場した。
 どうして? なんでソフィア・ローレン? いつぞやの、アラン・ドロンやジェーン・バーキンをさらに上回って謎の仰天ゲストである。相変わらずすごい番組だ。

 たぶん、私がリアルタイムで観ている、ソフィア・ローレン出演作品は皆無ではなかったかと調べてみたら、おお、アルトマンの『プレタポルテ』があった。
 重ねて調べてみたら今年74歳。番組に登場した彼女は、失礼ながら往年のグラマー大女優というよりは、新宿2丁目にでもいそうなおじさんにも見える。無念である。

 やっぱりいいなと思ったのは、ソフィア・ローレンが香取慎吾に「あなたはドラマティックな役と、コミカルな役とどちらが好きなの」と聞いたとき、香取は「どっちも」と答えたのだが、稲垣吾朗が「ソフィア・ローレンさんはどちらですか?」と聞き返すと、「私もどちらも好きだわ。なぜなら、人生とはその両方でなりたっているから」と答えたくだり。
 不意にいろんな映画のあれやこれやを思い出して、胸が熱くなる。

 もちろんあらかじめシナリオに書き込まれたやりとりなのだろうが、これをソフィア・ローレンその人が言うとなると、俄然重みがある。素敵だと思った。

2008/4/22

『The M』  ノンセクション

 今日から開始の、日本テレビ21:00からの新番組、『The M』。

 「TVステーション」やら「東京新聞」やら「読売新聞」やらに、やたらにうちの弟が登場して、コメントを出しているわけだが、この番組はとうとうプロデューサーとして彼が満を持して発表する、ゴールデンタイムの音楽番組。ゲストの歌とその半生記に焦点をあてての構成。

「今は人物に焦点が集まり、リアリティーが求められている時代。潜在的にこういう切り口の番組があったほうがいいという人は少なくないはず」(南波昌人 4/21付 東京新聞)とのこと。ふーむ。

 この番組の準備編(?)は、正月にオンエアされたわけだけど、司会は石井竜也と劇団ひとりと酒井法子にスイッチ。で、第一回ゲストが郷ひろみということで、しかし正月に放送したバージョンと基本構成は同じである。
 案の定、ばっちりSNLの影響下、楽しそうにカメラを振り回している。ただゴールデン枠のせいか、少しおとなしめかな、という印象。

 ここは一発、身内として素直に応援したい。やりたいと思って我慢していたことを、ここで全部吐き出してほしいとそう思ふ。

2008/4/21

見えるものと見えないもの  映画

 よき理解者・天津啓士郎さんがご執筆された、長文のそして、大変な力作論文をお送りいただく。
 ご発表前のようなので、内容の要約・紹介は控えなければならないが、それにしても世界的な某監督と、これまた世界的な某監督を、それぞれのジャンルの違いによって、結びつけようがないところを、見事な筆さばきで、2人が目指していたものには、実のところそれほど差はないのだということを解き明かしてしまった。
 正直、思いもよらない展開で目から鱗が落ちまくる。

 俎上に乗った某監督の2部作のうち、「1」が不可視を欲望し、「2」が可視を欲望としたものであると断じたあたりでは、腰が抜けそうになる。あの映画はそういうことだったのか。
 そして、それと対になるものが、もう一方の某監督の1997年作品と、そのちょうど10年後に撮られた作品であると移行するあたりは、興奮の極みだ。

 とはいっても、そのあたりの論に説得力が与えられているのは、前半にじっくりと書き込まれた視線にまつわる議論を経ているからだ。
 ジジェクもしくは東浩紀経由ではあるが、ラカン理論を十分に咀嚼しながら、見えていることと、見えていないことを丁寧に腑分けし、「意味」などというものを、自ずと読み取ってしまう、私たちの瞳というやつの度し難さ(?)を、説明してのける。

 以上、核心には触れまいと、どうも訳の分からない感想となったが、蓮實御大とかああいう別格な人のを別として、ここ数年で最良の映像論ではないかとお世辞でなくそう思う。
 こんなことを言う無礼・失礼を許していただけるなら、たいへんな好敵手が身近にいたものだ。見事すぎる。



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