2008/5/31

『噂のアゲメンに恋をした!」』,『シューテム・アップ』  映画

マーク・ヘルフリッチ『噂のアゲメンに恋をした!』
 このしょぼい邦題にあきれる。なぜ原題通り“Good Luck Chuck”じゃダメだったのか。

 ジェシカ・アルバ目的で見に行ったとはいえ、やはりこれだけ中途半端な内容だと、いささか苦痛。路線は『メリーに首ったけ』を(今さら)踏襲しているのだけど、今のジェシカ・アルバの立場で、なぜにこの作品を選ばなければならなかったんだろう。

 自分が肉体関係を持った女性は、自分の次の男性とめぐりあってゴールインするという、不思議なジンクスを持つチャックが主人公。
 彼と体を交えた後は、確実に結婚できるとあって、結婚願望を持つ女性が彼のもとにはひきもきらない。
 そんな立場を利用して、セックス三昧の日々を送っていたものの、ある日ついに意中の女性とめぐり逢う。それがジェシカ・アルバで、悲しいかな彼女と体を重ねることは、彼女が自分以外の男と結ばれるということであるという、くだらぬジレンマが話の中心。

 ジェシカ・アルバはすることなすことドジばかりの、ペンギン飼育係を演じるが、このドジっぷりが冴えない。演出も悪いのかもしれないが、彼女にやっぱりコメディエンヌとしての資質はあまりないように思った。
 またそのドジっぷりが、相手役との絡みの中で生きてこないので、全部がから回り。

 だがそれにしても、このデイン・クックという俳優。全米では人気絶頂のコメディアンのようだが(ビリングもアルバ様より上)、この男の超アップがあまりに多すぎないか。
この映画の観客が求めるものを考えると、あるべきはジェシカ・アルバの超アップのみ。男の顔など必要ない。

マイケル・デイビス『シューテム・アップ』
 ジェシカ・アルバも不思議だったが、この期におよんでクライブ・オーウェンが、今さらこのクラスの映画につきあったのはなぜなのか。悪役のポール・ジアマッティも。ヒロイン(?)のモニカ・ベルッチはまあこの水準かもだが。

 ジョン・ウーをかなり曲解、誤解、勘違いして作られた、C級、いやD級アクション。
徹底的にハメをはずしてくれればそれでよいが、これもどこか不徹底なところが難。

 バカバカしさも悪くはない。冒頭、クライブ・オーウェンが銃撃戦のさなか、敵を撃ちまくりながら妊婦から赤ちゃんをとりあげ、へその緒は銃弾で切るという離れ業。
 モニカ・ベルッチとセックスしている最中に敵に踏み込まれても、腰を動かすのはやめず、挿入したまま敵を撃ちまくり、皆殺しにしながら、かつモニカ・ベルッチをイかせるという、ナイスな場面もあれこれ楽しい。
 
 ただそうはいっても、何発、何十発銃弾が飛び交っても、どれだけ爆発が起こっても、それがアクションを構成するものではないということには、意識的であるべきだ。

 で、モニカ・ベルッチも、とうとう一度も乳首を見せないというのも不徹底だ(胸はべったりとクライブ・オーウェンの胸に押し付けられているから、結局見えないのだ)。
 出るなら出す。出さないなら出るな、と言いたい。

 好きでバカな映画を見に行ってバカバカしいと言うのもなんだけど、それにしても。

2008/5/30

トム・クルーズ公式サイト 開設!!!  映画

 やばい。とんでもないサイトが新設された。
 http://www.tomcruise.com/

 すなわち、トム・クルーズの公式サイトである。
 アクセスしていきなり見ることのできる、約10分にも及ぶ、自分自身のプロモーション映像がすごい。題して“25Years Tom Cruise”。
 ありとあらゆるクルーズさんの出演作品から、これがまた実に実に選りすぐりのシーンばかりを切って集めた、感涙ものの映像集。各作品からの場面の切り方がすばらしく適確だ。

 この長大な自分の紹介映像の中で、いちばん最後を飾った作品は何か。
 これには驚いた。あの巨匠による、あの作品の、あの場面である。それが何かは是非見ていただきたいが、その1カットを最後にガツンと“TOM CRUISE”の名前が浮かび上がる。すげえ。

 フィルモグラフィーのコーナーの充実度がハンパじゃない。とんでもないことだが、全作品のスチール、ストーリーは当然にしても、全作品の予告編映像が収録されている。
 何しろ『タップス』や『アウトサイダー』などの初期作品も全部あるのだ。

 そして、『M:I−2』の予告編! これはなぜか市販DVDにも収録されなかった。
 この予告編を見て、あまりにも感激した私は、日本での封切りを待てず、全米初日を見るためにニューヨークまで行ったのだ。その予告編に再見できて号泣。

 ちなみに、このフィルモグラフィーからは『爆笑!?恋のABC体験』ははずされている(私も未見)。やっぱり主演作として認めてないのだな。あと『エンドレス・ラブ』も(ただし、Biographyには、最初の出演作品として『エンドレス・ラブ』は紹介されている)。

 “Message From Tom”のコーナーを読む。もしかしたら権利的にヤバイのかもしれないが、まあいいや、全訳しちゃおう!

「私の最初の主演作『卒業白書』から25周年を祝えるなんて信じられない思いです。このことと、そして私が映画の世界に入って27年目を迎えたことを記念し、みなさんへの感謝の気持ちとして、このサイトを立ち上げました。私たちの未来がもたらしてくれるものを、共に探しに行こうではありませんか。

 私は映画を愛しています。作ることも、観ることも。そして、ポップコーンとソーダを片手に劇場のシートに腰をおろし、目の前に広がる大スクリーンの中の世界へと身を投げ込むのは、何よりの楽しみです。

 私は子どものときからの夢である仕事を得ることができました。つまり、人を楽しませ、勇気を与え、ときには怖がらせもし、笑ったり泣いたりさせて、椅子から転げ落ちそうにさせてしまうような。どんなものであれ、私は他の人々のため、創造的な仕事に携わりたかったのです。

 私は同時代の多くの偉大なアーティストや映画作家と働けることを、心からうれしく思っています。語られるべき物語はとても多く、いっしょに働きたくて仕方がないアーティストも数多くいます。そして、すでに仕事をしたことのある人々とも、もう一度組みたくてうずうずしているのです。

 このサイトでの私の希望は、シナリオ作成にはじまり、それが撮影され、ついに完成した作品を見るために座席に座り、いよいよ劇場が暗くなるまでの映画製作の過程において、私が毎日経験することを、あなたにお伝えし、そしてその楽しみを共に分かち合うことなのです

 あなたのために。楽しんで!
 愛と感謝をこめて。トム」

 クルーズさんによるこの文が何より素晴らしいのは、彼が「映画を観る」という行為を、あくまでも「映画館」の暗闇の中で観ることとしかとらえていないことだ。
 ここには、DVDやビデオで自分の作品を観てもらおうなんて言葉は一言も出てこない。
 彼にとっての楽しみは、ポップコーンとソーダを片手に、劇場の座席に身を沈めることであり、ファンと共にこのサイトで分かち合いたいのは、劇場のライトが落ちるまでの製作の過程だというのだ。
 クルーズさんの映画館主義! 共感したぞ!
 いや、つくづく生粋の映画人である。

 なお、What’s Newのコーナーには、先日紹介した、オプラ・ウィンフリー・ショーへのリンクと、『卒業白書』がこの夏25周年を迎えたことの告知。

 やれやれ、あまりの楽しさに、4時間も読みふけってしまったよ。

2008/5/29

人生における「一区切り」とは  

 陶芸家・海原雄山とそのご子息・山岡士郎が、30年近くもの確執を経て、歴史的な和解を果たし、ほろりとさせられたと思ったら、いつかどうせその日は来るのだろうと苦々しく思ってはいたが、案の定、島耕作氏が初芝ホールディングスの社長に就任。
世間はたいへんにぎやかだ。

 先週、中学時代からの初恋をついに実らせ、岩鬼正美さんが夏子はん(昔からとても立派なできた女性である)との結婚に至り、とてもめでたかったわけだが、今度は、殿馬一人さんもマドンナさん(本名不明)との結婚が発表され、非常に驚かされる。

 里中智さんも山田さち子さんとの婚約をすでに果たし、おそらくプレイボーイでならしているに違いない、微笑三太郎さんは独身主義だろうから、次は山田太郎さんの番である。何年か前に感じのいい保育園の先生とめぐりあっていたが、彼女はどうなったのか。

 こうしてかれこれ30年近くも、すったもんだしていた人々が少しずつ落ち着いてきたわけだが、次は誰だろう。
 やっぱり、デューク東郷さんが初めてニコッと微笑むとかだろうか。無理か。いや、あるいはついに殺されるとか。そんなことになったら、力石徹さん以来の葬儀が行われるに違いない。
 または、エーベルバッハ少佐とエロイカことドリアン・レッド・グローリア伯爵との結婚式かな。
 それか、『紅天女』の主演がついに決定するとかね(北島マヤでも姫川亜弓でもない第三者に決まること希望)。

 何書いてるんだ。バカかオレは。

2008/5/28

マドンナ『ハード・キャンディー』  音楽

 マドンナの新譜“Hard Candy”を遅ればせで聴く。
 おや? どうしたことか、あまり面白くない。
 疲れてるからかな? と、通しでもういっぺん聴いてみたが、やはりあまりノれない。
 確かに、練りに練ったリズムセクションのアレンジは洗練の極みで、こうくれば気持ちがいいなと思うところは絶対に裏切らぬよう、ピシッと実にいいビートが叩き込まれる。

 けれど、マドンナのこのアルバムに足りないのは、メロディだと思った。前作“Confessions On A Dance Floor”はダンスミュージック中心とはいえ、やはりメロディが大切にされていた(だから必然的に名盤だった)。
 マドンナにおいて、メロディが大切にされるということは、彼女の「歌」、ひいては「声」が楽曲の中心にあるということだ。

 このアルバムでは、リズムの上にマドンナの声がのっているのであり、マドンナの歌にリズムが刻まれているわけでないように感じる。これは小さいようで大きな差なのだ。

 ギリギリそれが回避されているのは、“Miles Away”と“Devil Wouldn't Recognize You”の2曲くらいか。
 おそらく、今回のアルバムでフィーチャーされた、ジャスティン・ティンバーレイクやカニエ・ウェストの嗜好が加わったからかもしれない。
 マドンナ最良の部分が少し殺されている。まあ、たまにはこういうことも。

2008/5/27

シドニー・ポラック  映画

 シドニー・ポラックには恩がある。
 中学1年のとき、『追憶』の原題“The Way We Were”という英語にピンとこなくって、同級生の大×君に、「これどう訳せばいいと思う?」と相談したところ、彼は少し考えて「私たちがいた道・・・私たちが歩いてきた道とか、そういうことじゃない?」と答えた。
 映画の内容を重ねるとひどく合点がいき、そのとき私はbe動詞の用法というか、大げさにいえば、be動詞の「心」をつかんだような気がした。以来、be動詞に困った記憶はない。

 そんなシドニー・ポラックが亡くなった。73歳。癌だったという。
 信じられない。つい先日、元気そうな姿で『フィクサー』に出演したのを見たばかりだというのに。

 私自身はシドニー・ポラックの映画が持つ、時間経過の表現がものすごく好きだった。
 たとえば、オスカー受賞作の『愛と哀しみの果て』。
 メリル・ストリープが自分のことを話し始め、それをじっと聞くロバート・レッドフォード。そのとき、テーブルにはろうそくが灯っている。巧みなモンタージュによって、ストリープの話が次第に活気づくことが示されるが、そのとき彼女の声を聞くレッドフォードの顔にだぶって、ろうそくの火からやがて、燃え盛る暖炉の火がカットインするのだ。
 このとき、レッドフォードの心に恋の炎が灯ったことがはっきりとわかる。

 あるいは、『トッツィー』。
 名曲“It Might Be You”が美しく流れる中、女装のダスティン・ホフマンが、ジェシカ・ラングの一挙手一投足をじっとみつめている。
 彼女をみつめながら、いつしか眼つきや表情は完全に男性のそれに変わっている。「女」を忘れ、彼女に恋をしてしまったのだ。

 そして『追憶』。
 ヨットだったかに乗りながら、レッドフォードが、友人にこんなことを聞かれる。「いちばん楽しかったのは何年ごろだった?」とかなんとか。
 「・・・19○○年かな・・・。いや、19××年か・・・19△△年かも・・・」と、レッドフォードは明瞭に答えられない。すなわち、別れた恋人、バーブラ・ストライサンドと過ごした日々は、常に最良だったのだ。そして、時代は移ってラストの再会へ・・・。

 空前絶後の傑作を撮る作家ではなかったが、どれもこうした品のいい、感じのよいイメージにあふれた作品ばかりだった。
 俳優もレッドフォードをはじめとして、アル・パチーノ、ポール・ニューマン、ハリソン・フォード、トム・クルーズと、最高の人材ばかりが彼に集った。

 『追憶』以前の初期作品は、ほとんど未見だが、いつの日か是非見たいと思っている。
監督作品以上に、製作者として、俳優としての作品も忘れ難いが字数がない。

 『愛と哀しみの果て』のオスカー独占が決まった瞬間、彼はスピルバーグに握手を求めた。この年は『カラーパープル』と賞を競い、こちらは無冠となったのだった。
 あのときの、シドニー・ポラックの姿は本当によかった。そして、ポラックが差し出す右手を、素直に握り返したスピルバーグも素晴らしかった。

 私自身は『カラーパープル』を映画史上最高の1本と思っているが、前記の理由で、『愛と哀しみの果て』も決して嫌いではない。そして、このときの2人の姿があまりにも素敵だったので、結果は受け入れている。たぶん風貌通りの、立派な人物だったのだと思う。
 結果的にポラックの栄冠がこの時だけだったことを思うと、それはそれでよかったのだ。

 劇映画としての遺作は『ザ・インタープリター』。
 出演はショーン・ペンとニコール・キッドマン。選りすぐりの俳優ばかりを集めた、ポラックらしい見事な人選だと思う。
 また、同年製作のドキュメンタリー、『スケッチ・オブ・フランク・ゲーリー』も忘れられない作品として特記しておきたい。

 お安らかに・・・。

2008/5/26

「表象 02」  

表象文化論学会「表象 02」(月曜社)読了
 東大の表象文化論学会による第2号。特集は「ポストヒューマン」。

 カトリーヌ・マラブーへの冒頭のインタビューで、機械的なもの(サイボーグ)を用いて、人間の心や身体の可能性を押し開くという以上に、今後はそれによってむしろヒューマンなものへと回帰するといった、思考実験をあれこれしているうちは、まだ興味をもって読めた。最近の哲学の潮流はそんな方向にあるんだなと。

 けれど、その後のシンポやいくつかの論文を読むうちに、うすら寒くなってくる。
 必然的にテクノロジーの話に踏み込まざるを得ず、そこに哲学的言質も紛れ込ませつつ、生命や死といったものが、可逆的なものになりつつあることを、こんなふうに「畏れ」も何もなく語られてしまってよいのか。

 私自身は、わかりやすいところでは、DNA解読やクローン技術といった、テクノロジーによる(あえて言うが)暴走を、哲学や芸術こそが歯止めをかけるべきだ。それこそが、哲学や芸術が果たすべき、今後の最も重要な役割なのだと思う。
 ところが、ここではどうかというと、むしろ「思想」のための、新たなテーマが誕生したくらいに考えているのではないかと、そこに漠然とした不安を感じさせられる。

 「表象文化論」がそうした、方向に進むとなると、それはどこか違うのではないか。そんな思いに駆られる特集だった。そして、「表象文化論」がそうしたものを目指すのだとすれば、何か根本的なこと―いっそ形而上学と呼んでしまおうか―を失い、迷走するしかないのではないか。こうなると、科学技術や経済学の暴力を止めてくれるのは何なのかという、ぞっとさせられた第2号である。

 なお、後半は特集記事から離れた各種論考。
 個人的には音楽家ヴィンツェンツォ・ガリレイ(ガリレオの父親だって!)の目指した音楽を巡る論文、
 成瀬『浮雲』の脚本家・水木洋子の創作背景をつぶさに探った論文、
 ハイデガーが、ヘルダーリンを透かしてリルケに読んだものを巡る論文を、とても興味深く読む。
 特に、水木洋子についての大久保清朗さんの論考は、かなり革命的なものではないか。

2008/5/25

『パリ、恋人たちの二日間』など  映画

イーサン・ホーク『痛いほどきみが好きなのに』
ジュリー・デルピー『パリ、恋人たちの二日間』


『恋人までの距離(ディスタンス)』+『ビフォア・サンセット』の名コンビ2人、それぞれによる監督作品が、同時期に封切られるといううれしい偶然。

しかし作品そのものは、天文学的な差で、ジュリー・デルピーに軍配があがる。
イーサン・ホークの方は、残念ながらプロの域に達していない。
その一方で、ジュリー・デルピーの方は、職人的ともいえる手堅い演出と、映画愛にあふれた脚本、隙のない撮影と編集で、大傑作を生んでしまった。

 考えてみれば、ピーター・ウィアーやリチャード・リンクレイター、アントワン・フークワくらいとしか組んでないイーサン・ホークと、ゴダール、カラックス、キェシュロフスキ、シュレンドルフなど錚々たる面々と組んできたデルピーとでは、自ずと勝敗は明らかか。

 そんなわけで、実は私が世界でいちばん好きなジュリー・デルピー。彼女の製作・監督・脚本・主演による抱腹絶倒のラブコメディ。1時間40分、笑いっぱなしで腹が痛くなる。
 しゃべってしゃべってしゃべり倒す、会話の妙味が最高だが、なお可笑しいのは、そのやりとりを聞いている第三者の表情とか反応といった、細々したところを、きっちりおさえた演出テクニックが心憎い。

 細部のギャグも完璧。飼い猫の名がジャン・リュック(!)というのもすさまじいが、ビル・アケム橋の下を通りかかったアダム・ゴールドバーグが、「『ラスト・タンゴ・イン・パリ』だ!」とはしゃいで、デルピーにマーロン・ブランドごっこをさせるなど、お笑いのセンスが超ハイグレードだ。
 この勢いで、今後も映画作りができるなら、大変な天才監督(しかも美人)の誕生だ。今年最高の1本のひとつのはず!

フランク・ダラボン『ミスト』
 メジャー作品として、絶対にやってはならないことを、この映画のラストではすべてやってしまう。驚いた。さすが最終的にボツをくらったとはいえ、『インディ・ジョーンズ』の脚本に参加した男。いい度胸である。映画がかつて描いた、究極の絶望かもしれない。

 不意に思い出したのが、ジョン・ヒューストンの『黄金』だった。
 あの映画のラストでは、あまりの絶望にウォルター・ヒューストンがボギーに、「笑え! 笑わないと狂うぞ!」と叫び、馬鹿笑いするのだ。

 古きよきハリウッド映画は、こうした絶望への対処法を心得た老人がいた。しかし『ミスト』にそんなものはない。(けれど、老婦人教師を演じたフランシス・スターンハーゲンがすばらしい)
 徹底したユーモアの欠如。これが『ミスト』の欠点であり、同時に、製作者のド根性として評価もされ得る。ここは好みの問題だ。毒にも薬にもならない、『ショーシャンクの空に』や『グリーンマイル』より、フランク・ダラボンとして実に大きな前進だと思う。

2008/5/24

『コロッサル・ユース』+蓮實重彦  映画

ペドロ・コスタ『コロッサル・ユース』
 於イメージ・フォーラム
 上映前にきっかり30分、蓮實重彦による講義。
 今宵の御大の力の入れようがただごとじゃない。作品に本気で入れ込んでいるのが肌でわかる大熱弁。今日のトークは、生で聞けてよかった!

 ひとつの領域にしかるべき才能が集結するのには、ひとつの規則があると、いきなり切り出す御大。
 どのような世代が「映画」に向かったか(あるいは向かわなかったか)。60年代は比較的高かったのだろう。しかし70年代は音楽に向かったはずだ。そして日本に限れば80年代はマンガだったかもしれない。

 しかし1959年生まれのペドロ・コスタはやや例外ではないか。本来ならこの監督は、音楽に進むのが普通だったはずだ。それにポルトガルの軍事政権のため、ごく自然に映画を選択する状態にはなかったに違いない。
 それが可能になったのは、70年代半ばだった。実際、オルヴェイラが本格的に映画製作を開始するのも74年からだ。
 若きペドロ・コスタの「映画」への目覚めが、その時期にかかっていたのは、たいへん幸福だった。

 なお、ペドロコスタの作品には大きな「断層」があり、その断層は、1:1.33という数字にある。これはもちろんスクリーンサイズである。
2007年に1.33というスクリーンサイズで映画を撮ることはまったくないはずだ。
 そして、これは小津のサイズと同じである。また、スクリーンが「横長」ではない映画を観ることになる。そこをよくご覧いただきたい。

 『ヴァンダの部屋』では、ペドロ・コスタも決して1.33に収まるものでなく、どちらかというと、横への広がりを持つ映画だった。しかし『コロッサル・ユース』は左右を切り詰めた、厳密に1.33のサイズで作られたものである。
 それはどこに現われるのか。人物の背が高く見える。これは小津の映画を観ればよくわかる。このサイズでは、人物が八頭身に見えるのだ。

 『コロッサル・ユース』の主人公は、まさに「背が高い」ということがはっきりと見て取れる。これから観る皆さんに「発見」の喜びを妨げてはいけないが、この映画では、まさにその「背が高い」ということが、欠陥であるかのように描かれている。
 というのは、彼は他人と話すことができない。つまり、コミュニケーションをとることができないということが、その一点に現われているのだ。

 孤独ということがどういうことか。単に「孤独」な状況を描いた映画ならいくらでもあるだろう。しかし、この「映画」においては、他とのコミュニケーションを断たれているほどに、「背が高い」ということなのだ・・・。

※※※※・・・といった、恐ろしいほどに映画的な事象を、スクリーンサイズをキイに、解き明かしていく。
 なお、話がほんの少し横滑りし、現在開催中のカンヌ映画祭で、まさに100歳のオルヴェイラが、イーストウッドを祝福するかのように手を差し伸べている写真が、ネットで公開されている。
 こんな写真が見れるのならば、インターネットも悪くないといった発言に続き、このような監督を生んだポルトガルは紛れもなく世界一であり、その人と共にあるクリント・イーストウッドを生んだアメリカも、まさしく世界一の映画大国なのであると。

 さらにペドロ・コスタの兄貴分、モンテイロについても触れ、最後に、いささか時代がかった口調で、
 「どうぞ、よい夕べを、ペドロ・コスタと共に過ごされませんことを、わたくし、心から期待しております」と結ぶ。

***********

 さて、その『コロッサル・ユース』。
 あまりにも豊かな2時間35分を体験してしまい、いまだ感激さめやらぬところ。
 
 私自身は、『ヴァンダの部屋』では、いささか飽和状態になってしまい、素直に感動できなかったのが、この『コロッサル・ユース』は、よりシンプルであるぶん、画面の強さがはっきりと目を射抜く。
 
 それが御大のいう、1.33に因ることは、言われたからわかることだが、さらには、この主人公の老人の眼光するどい眼差しにある。
 こんな眼をした奴は、『ミリオンダラー・ベイビー』のモーガン・フリーマンか、『マイ・ボディガード』のデンゼル・ワシントンくらいだ。

 この主人公の行動には、人間のしかるべき行動が何もない。すなわち、寝る・目覚める・食う・飲む・・・など、生活の中に当然あるべき動作を一切排除されている。
 娘ヴァンダの婿が、ふてぶてしく食うさまを睨む、彼のまなざしはとにかく強烈だが、この主人公からは、他者から切り離されているという以上に、「生」そのものから切り離されてある。
 それが、「現在」や「壮年」を生きるということであるとするならば、これでよいのか。それが「若者よ、前へ(コロッサル・ユース)」という題意に結びつく。

2008/5/23

カラヤン/ベルリン・フィルのチャイコフスキー  音楽

 カラヤン生誕100年のおかげで、いろんなソフトが手に入って、おおいにうれしいというか、ありがた迷惑というか。
 チャイコフスキー交響曲4〜6番のセットをDVD(DG)で観聴きする。ベルリンフィルとの1973年の収録。例によって途轍もない激演。

 映像で観ると、カラヤンがすごいという以上に、ベルリンフィルがものすごいのではないかと思う。
 第一ヴァイオリンに、トマス・ブランディスとミシェル・シュヴァルヴェとレオン・シュピーラーが並んでると思うだけで、そこにスピルバーグとハリソン・フォードとジョージ・ルーカスが並んでるような風格が。
 彼らが率いる、鉄の弦楽合奏部隊が、あの第5番2楽章の、豊饒たる泣きと癒しのアンダンテ・カンタービレがあふれてくるのだ。この世の究極にして豊饒の美。

 それから思ったのが、この弦楽器奏者たちのボウイングを見ていると、カラヤンが設定したテンポというのは、この音量と音質を出すのに、最適なのだろうなと思う。
 このテンポだからこそ、弓を送るスピードと弦への圧力が、最高に適切で、このベルリンフィルの音が出てくるのではないかと思う。

 さらにジェームズ・ゴールウェイ(Fl)、カール・ライスター(Cl)、ローター・コッホ(Ob)の黄金の木管が、4番1楽章の民謡的旋律を合奏し、5番のフィナーレで3匹のシャム猫がじゃれるように狂おしく七色の和音を響かせる。

 そしてゲルト・ザイフェルトのホルンが、チャイコフスキーの旋律を歌いに歌う。オーケストラの至高とはかくや。
(以上、ひょっとしたら名前が違うかもしれない。顔はよく知らないので。ただ、この時期のベルリンフィルならこの人たちのはず)

 そんな面々の音色を、カラヤンの棒がひとつに束ね、次から次へと繰り出される、名旋律の数々が分厚い音の大聖堂として天空から降ってくる。
 けっこういろんな演奏を聴いてきてるつもりだけど、やっぱりこんな演奏ほかにない。

2008/5/22

タイフーンベルトの効能  ノンセクション

 日本に暮らしていると、英会話の機会がまったくないのが致命的である。
 聞くだけなら映画を見ているから、さんざん聞いているけど、映画が英語の勉強には1ミリも役にたたないことは、身をもってわかっている。
 で、去年の今ごろ、キャンベラ大学に招いていただいたはいいが、英会話力が地に堕ちていて、いまだにそのショックから立ち直れていない。

 そんなわけで、NHK外国語講座「テレビで留学! コロンビア大学初級英語講座」をながめて、少しずつカンを取り戻すようにしている次第。

 で、今日も見ていたら(といっても先々週放送分)、講師のおばちゃん先生が、「“hurricane”と“typhoon”の違いは何でしょう!」とか言い出した。えっ!? そういえば知らない。

 なんでも、Pacific Oceanに発生するのがtyphoonで、Atlantic Oceanに発生するのがhurricaneなんだそうだ。目からぼろっと鱗が落ちる。

 だがしかし、今ここで鱗を落としても、明日にはどっちがどっちだか忘れてしまうに違いない。何とかこれを記憶しておく方法はないかと、かなり真剣に思案。

 そういえば、仮面ライダーがつけているのは、タイフーン・ベルトではなかったか。仮面ライダーはもちろん、日本国原産の改造人間だ。日本国といえばPacific Oceanでしょう?
 よって、typhoon=Pacific Oceanだ。

 よし、もう一生忘れない。



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