2008/6/30

『ナルニア国物語/第2章:カスピアン王子の角笛』  映画

 先々週末にちまちま見てた映画の続き。
 アンドリュー・アダムソン『ナルニア国物語/第2章:カスピアン王子の角笛』

 第一章でも痛切思ったけれど、この映画は本当に危険だ。愛と勇気の名のもとに、子どもたちが嬉々として大殺戮を繰り広げる。R18指定にならないのが不思議でならない。

 前作で殺人の喜びに味をしめた主人公の男の子は、日常がものたりず、いまや血に飢えた危険人物と化しており、気に入らない学友を血祭りにあげるのが冒頭のエピソード。
 ガンつけたと因縁つけて、罪のない他者をボコボコにする主人公のこの行為は、完全にヤンキーのそれである。すぐにキレるこの危険極まりない少年が「伝説の王」だ。

 長女は長女でさらにヤバイ。せっかく人のよさそうな少年が声をかけてきても、シャバい奴なんか眼中ねーよ、と言わんばかりに露骨な不快感を示し、嘘八百を並べて排除する。「ウソは泥棒の始まり」という言葉をイギリス人は知らないとはいえ、マナーが悪すぎる。

 ともあれ、人を殺したくて仕方のないこの四兄妹は、再び治外法権で殺人が許される魔法の王国に行くことを熱望し、まんまと願いは叶うが、長女はあいつが悪そうだ、という曖昧な理由で、事情を忖度することなく、人相の悪い奴を早速、弓矢でぶち殺す。

 以後は、あれこれいちゃもんつけて、四兄妹とカスピアン王子が目を覆わんばかりの殺人行為を次々と行い、あげく彼らの論理では悪者と思われるおじさんの首をはねさえする。
 少年も少女も、手当たり次第に殺して殺して殺しまくる。そこに人命を奪うことの心の痛みはかけらもない。だって子どもたちにとって、奴らは「悪人」だから。

 私もかなり映画の本数はこなしている方なので、ちょっとやそっとでは驚かないが、『ナルニア国物語』の残虐性には本当に驚き、さすがに目をそむけてしまう。あり得ない。
 
 そういえば先日何気なく、キネマ旬報の星取り表を見たら、『ランボー/最後の戦場』は嫌悪感を露にしたコメントと共に全員が★ひとつ。
 でも『ナルニア』は案外好評価で、どういう神経しているのか、度し難い評者たちだ。

 『ランボー』のスーパーヴァイオレンスは、怒りと哀しみの高貴な詩である。
 しかし『ナルニア国物語』の暴力は、血と殺人の喜びに打ち震える恐るべき子どもたちの、野蛮きわまりない映画だ。
 その意味では、評価の対象にもできるといえばできるけど、人体損壊を見せていないが故に、これは犯罪なのだ。

 この子たちが殺した人々を、映画は絶対に見せない。首をはね、串刺しにし、手足をはねる瞬間を見せなければ、死体の山を見せることもない。なぜなら、それを見せてしまうと、この子らに何らかの責任が発生するからだ。
 この子たちの殺人は、勇気ある行為という位置づけだから、生きている資格のない連中の死体など、見せる必要はないという論理だ。

 矢を放てば首は飛ぶ。蛮刀をふるえば血を噴き上げて手足は落ちる。腹を切り裂けばはらわたはあふれてこぼれる。人を殺すというのは、途方もない激痛を伴って命を奪う、人として最悪の行為なのだ。だからランボーは「オレは行かない」と言ったのだ。  『ランボー/最後の戦場』のヴァイオレンスのそれが倫理だ。

 客観的な善悪は別として、金髪の美少年美少女が、人相の悪い連中を虐殺することは、これは愛と正義と勇気の証であるという、これはある意味、ブッシュのアメリカらしぃ〜い作品なのかもしれない。しかしディズニー、ほんとに大丈夫か。

2008/6/29

スピルバーグ・コネクション  映画

 時間が合わず『イースタン・プロミス』を観そびれているのだが、クローネンバーグならやっぱり『クラッシュ』が一番好きだな、と思いを巡らせたところで不意にヘンな連想が頭をよぎる。
 『クラッシュ』主演のホリー・ハンターは、一時期、スピルバーグのカメラマン、ヤヌス・カミンスキーと結婚しているのだ(1995年に結婚〜2001年に離婚)。

 こういうゴシップは後づけで考えると、とてもイマジネーションを刺激される。
 ヴィム・ヴェンダース『ベルリン 天使の詩』のスピルバーグ的解釈を持つ、『オールウェイズ』で、スピルバーグとホリー・ハンターが組むのは1989年。

 カミンスキーが『シンドラーのリスト』でスピルバーグ初登板を果たしたのは1993年で、いきなりこの年アカデミー撮影賞を受賞。そして、この時の主演女優賞がホリー・ハンター、『ピアノ・レッスン』だった。

 『オールウェイズ』以来、プライベートでも交友の深いスピルバーグとハンターのことだから、その必然でカミンスキーと出会ったのだろうか。あるいはアカデミー賞を含む、各種映画賞の席だったろうか。興味深いところだ。

 その『オールウェイズ』のカメラは、ミカエル・サロモン。その山火事を含む一連の映像感覚に何かを刺激されたロン・ハワードは、まさに火災をテーマとする『バックドラフト』(1991)のカメラにミカエル・サロモンを借り受ける。

 また、『オールウェイズ』にオードリー・ヘップバーンを出演させたスピルバーグにあてられて、『ザ・エージェント』(1996)の製作ではビリー・ワイルダーの出演を熱望し、全力で出演依頼をするが果たせなかったトム・クルーズは、カメラマンにヤヌス・カミンスキーを抜擢。
 このあたりのトム・クルーズの直感には、まこと兜を脱ぐが、後の『マイノリティ・レポート』、『宇宙戦争』での予行演習を果たす。

 ヘップバーンといえば、実のところ生前のキャサリン・ヘップバーンを、何らかの形で出演させることを熱望したに違いないスピルバーグとしては、『クリスタル・スカルの王国』のカレン・アレンに、『アフリカの女王』のヘップバーンの面影を託したことは確実だろう。

 「ユリイカ」スピルバーグ特集での、御大による「スピルバーグのフレンチ・コネクション」もいいかげん刺激的だったが、スピルバーグをめぐるコネクションは興味が尽きない。

2008/6/27

ブラームスはお好き  ノンセクション

 先週、宣伝させていただいた、音楽とトークの夕べ「ブラームスはお好き?」に、何とか駆けつける。汗だく。店に近づき、何とか間に合うと判断したあたりで、竹下通りの少女たちにもまれて、とりあえずコンビニでコーラ2本買ってがぶ飲み。ようやく一息つき、走ったことなどなるべく悟られぬよう、涼しい顔で店内へ。

 軽いディナーとドリンクのあとは、映画評論家の植草信和さんと二井康雄さんによる、うちとけたトーク。
 二井さんのリードで、植草さんが手際よく、映画における音楽のあり方を分類なさった後、定番のルイ・マル『恋人たち』。久々に実際の画面を見て感激する。
 冥界に逝ってしまったかのような、ジャンヌ・モローとジャン・マルク・ボリーの逢引きシーンの美しさ。基本的にはコクトーの画作りが念頭にあるはずだが、そこをブレイクするのが、ブラームス弦楽六重奏のすすり泣きだ。

 ここで思いがけぬお楽しみが。
 佐藤慶子さんの編曲による、ピアノ独奏版の弦六。ウソだろう? と思った。演奏前の解説で佐藤さんも語っておられたとおり、この曲は音をいくらでも延ばせる弦楽器の性能をフルに使った曲であり、減衰楽器のピアノではこの楽想を表現できないのではないか。
 まるで杞憂だった。佐藤さんのアレンジは、伴奏部分を巧みなアルペジオに変えて、主旋律を浮き上がらせる方法をとった。そして、重音のために素人の耳にはわかりにくい、原曲の和音の構造を、きれいに解きほぐしてしまった。美しい。

続いて『チャップリンの独裁者』から、説明の必要のないハンガリー舞曲5番の至芸を見つつ、『ラスト、コーション』に使われた「間奏曲」。これも生演奏で。
そしてもう一つのお楽しみ。これも定番、『さよならをもう一度』。驚いたことに、サントラから数曲聴かせていただく。典型的なクラシック映画のサウンド、アレンジである。
 さらに、佐藤さんによる編曲で交響曲第3番。

 このロマンチックなメロディは、しかし揺れ動くリズムが特徴なので、弦六のようにアルペジオを貫くのは難しい。そこを佐藤アレンジは、和音の厚みと、装飾音符の細かなパッセージを巧みに使いつつ、クライマックスに向けてはジャズ風リズムの連打で楽想を突っ走らせ、聴かせてしまった。楽しそうである。聴いているこちらも楽しい。

 終了後、皆さんにご挨拶させていただき、楽しい夜のお礼を申し上げる。決して学究的な催しではないが、その分くつろぎ、リラックスした夜をいただいた。とても満足。
 (ただお店のせいだと思うが、ピアノの調律が悪くて、そこは何だかお気の毒)

2008/6/26

『ラスベガスをぶっつぶせ』,『アウェイ・フロム・ハー』  映画

 続き。ロバート・ルケティック『ラスベガスをぶっつぶせ』

 面白かった。面白かったが、後半からやはりというべきなのか、セオリー通りの展開になって、やや興ざめる。
 つまり、頭脳明晰で好青年だがイケてない高校生→ひょんなことから能力を生かして大成功→調子にのりすぎて失敗→すべてを失う→大逆転→大ドンデン返し、という構成。
 この流れにのせるため、たとえばカジノ壊滅作戦のブレーンとして暗躍する、ケヴィン・スペイシーのキャラクター設定が安定しない。なので観ていてどこか落ち着かない。
 
 では映画の勝負どころ、観どころをどこに設定するかが、演出のポイントとなるはずで、たとえばラスベガスのイメージ作りはとてもうまくいっている。
 ゴージャスには違いないが、どこかダサイ、ラスベガスという街の本質を、『オーシャンズ11〜13』よりもむしろ巧みに描いている。
 だからロケシーンの切り取り方や、風景ショットの選択が的確で、観光映画としても成り立ちそうだ。
 ちなみに撮影はラッセル・カーペンター。誰だっけ! と思いつつ観ていたが、ホテルの厨房をめちゃめちゃにしながら、主人公たちが追っ手から逃げるシーンのタッチで、不意に思い出す。『タイタニック』、『トゥルー・ライズ』のジェームズ・キャメロンのカメラだ。

 まあ、商品としてはOKだと思う。観ている間は楽しんだ。 

 サラ・ポーリー『アウェイ・フロム・ハー 君を想う』
 映画を観ていて久々に心底の恐怖を味わう。
 長年連れ添った妻がアルツハイマーで記憶が失われようとしている。致し方なく施設に預けるが、一ヵ月後に(一ヶ月たつまで面会できないというのが、施設のルールだというのだ)面会に行くと、もう妻は自分のことなど忘れていて、同じ施設にいる他の男性患者と仲睦まじくなっている(この男性患者もすでにアルツハイマーが進行している)。

 この状況に耐えられるか。私なら絶対に耐えられない。こんな状況、これまで想像したこともなかった。
 映画の焦点は、実はアカデミー賞にもノミネートされた、妻役のジュリー・クリスティではない。夫役のゴードン・ビンセントの苦悩だ。
 
 どこからどこまでも白い施設の室内。木材を中心とするので、茶色が基本の家庭の室内。この対比がなんとも目につらい。施設の寒々しい「白」が、頭の中の記憶・思い出といったものが、消去されて真っ白になる、そんなメタファーにも思えてくる。
 「記憶」はなくなってもいい。けれど「思い出」がなくなるのはつらすぎる。物語の進行につれて白身が増す映像。
 
 それだけでなく、この映画のプロットはもう1つひねりを加える。妻は本当は完全に記憶をなくしたのでなく、自分を罰しているのではないかという夫の疑心暗鬼。
 こうした苦悩と嫉妬と愛情と疑惑とを、全て表現するゴードン・ビンセントのきめ細かな演技がむしろオスカー・ノミニーにふさわしくある。よい作品だ。

2008/6/25

『JUNO/ジュノ』  映画

 吉田喜重特集の合間に、ちまちま観ている作品について。
 ジェイソン・ライトマン『JUNO/ジュノ』
 
 16歳の少女の妊娠。この映画を観るかなりの人が感じることと思うが、ここには早すぎる妊娠についての問題意識が見事になく、からっぽだ。生まれてくる子への尊厳や母性、出産のためらいも皆無なままに、主人公は養子縁組の準備をする。
 「映画」だから、物語上の道徳的な「正しさ」など問うまいと思うが、ここにはやはり薄ら寒さを感じずにいられない。ことは生命に属するのだ。これでいいのだろうか。

 私は先日の秋葉原事件のとき、今の社会から失われているのは「おおらかさ」であり、それを取り戻すことが唯一の希望ではないか、といった意味のことを書いた。
 それに則して書くと、『JUNO/ジュノ』はきわめて暖かい「おおらかさ」に満ちている。娘の妊娠を聞いた父親も、その継母も一瞬ひるむが、立ち直りはきわめて早い。
 それはジュノが、打ち明けるに先立って、生まれてくる子の養子縁組先まで決めているからだ。父親は落ち着いて「では、相手の家庭に私も会いに行こう」と言うのみだ。
 その養子先夫妻も、主人公ジュノ自身も、彼女を妊娠させたBFも、とても「おおらか」に事態に対処し、そこに悩みがない。映画はどの人物もキュートに清潔に見せていく。

 これが現代アメリカの最新の感覚なのかもしれない。けれど、もし早期妊娠についての是非は今さら不毛、時代は後戻りできないということを前提に、ならばそれに人はどう対処すべきか、それが「おおらかさ」=「前向きな生き方」なのだと映画が主張するなら、それはちょっと違う。

 現実にはこの映画ほどうまくいくはずはない。実際に16歳で妊娠する子のほとんどはジュノほど頭はよくなかろうし、これほど家庭に恵まれているはずがない。多少のトラブルもあるが、これほど理想的な縁組先もないだろう。
 LAで娼婦をやっていたって、リチャード・ギアが拾ってくれることなどあり得ないという、『プリティ・ウーマン』の教訓を思い出してもいい。

 なるほど感じのいい映画だ。(ラストで主人公カップルが、庭先でギター片手にデュエットする長回しなんて素晴らしいのだ)けれど、『JUNO』の罪は深いと思う。
 そのせいだと言うつもりはまったくないが、ちょうどこの日曜日、アメリカで17人の高校生の集団妊娠が報道された。

2008/6/24

批評同人誌『アラザル』  

 『アラザル』なる批評同人誌が発表されている。
 これは、【批評家】佐々木敦が主催した【批評家養成ギブス】の受講生たちが、その力作批評文を寄せた同人誌。
 
 3万字におよぶ佐々木敦のロングインタビューがもちろん最大の売りだが、語られるべきはやはり収録された数々の論文だ。音楽、映画、文学などに関する批評文全17本。
 実に実に僭越なことだと思うが、いたずらにヨイショしてもしかたがないと思うので率直に申し上げる。正直なところ水準に達していない論考の方がやはり多かった。

 具体的な論文名を挙げるのは控えるが、たとえそれが同人誌であっても、こうして活字になって、限定的なルートとはいえ、店頭に並ぶということのありがたさ、そして一期一会の覚悟は本当にあったんですか、という思いがどうしてもしてしまう。
 そして、ブログで書くことと、活字にすることとの違いを、きちんと認識していましたか、ということ。
 後からいくらでも編集、消去、または自己レスによるフォローができるブログと、後戻りのきかぬ紙媒体では、対象に立ち向かうときの覚悟は絶対に違うはずなのだ。(これは私を含めてだが)ましてや定期的な発表媒体を持たない人間にとっては。

 そのことを考えるならば、びしっとテーマ設定したことをきちんと論証し、しかるべき結論にまで持っていかなければならない。
 これから自分が何を対象に、何を解き明かし、どんな結論を導きたいのか、そうした骨組みは最低限必要なはずなのだ。
 その結果、この同人誌にある論考のほとんどは、話が横道に逸れすぎる。たとえば音楽のことを書いているはずなのに、いきなり別のジャンルに話が飛んでしまう。
 ある対象を語るにあたって、別ジャンルを参照する引き出しは必要だが、参照に当たっては常に連関性がなければいけない。思いつきではまずい。余談になっていたずらに字数ばかりが増えてしまう。

 あるいは、前置きが長すぎる。何しろ、「前置きが長すぎたが」と書いた時点で、8ページ中残り半ページしかない論考さえあるくらいなのだ。こうなってくると、構成そのものを根本から考え直さねば。それはもはや「前置き」ではない。
 それにさすがに引用が多すぎる。引用は、ここぞというときにだけ許されるもので、連打されるとそもそも読み物として、密度がとても薄くなる。
 
 まったく自分は何様かと思いつつ、批判がましいことを書いたが、佐々木敦の名のもとに、やはりこれではいけないと思った。そして、これだけ知識と知見、書きたいことを持つ執筆者たちが、基本的な構成ができていないために、それを台無しにしていると感じたので、あえて苦言を呈さずにいられなかった。何卒のご寛恕を願う次第だ。

 で、これはお世辞抜きで、さすがだなぁと思ったのが1本だけあって、それが朋輩・天津啓士郎こと、西田博至さんによる論考『TO BE, OR NOT TO BE〜押井守と黒沢清と90年代から00年代の映画に就いて』だ。
 発表前に読ませていただき、この場でも書いた通り、この論考からはたくさんのものを学ばせてもらったし、黒沢清と押井守というちょっと考えたら結び付けようのないものを、90年代以後の映画環境を背景にしながら、巧みに結節点を導き出していく。
 
 対象は黒沢と押井。一見違うものを目指しているはずの二人に、実は共通点があるということが結論。その結論を導くため、同時代の映画的環境と両者の作風を分析していく。すなわち論文としての骨格ができている。その過程で知的関心を存分に満たしてくれる。

 だから、この論文を俎上に私は議論する用意がある。たとえば、後段において西田さんは黒沢清のワンカット性について語りつつ「黒沢清もまた、アニメーションを撮っているのだ」と、いささか突飛な断定をくだす。
 最後にきて、論者の無意識下にある、押井>黒沢という構図が期せずして露になったようで、ある意味、微笑ましくはあるのだが・・・。

 だがちょっと待ってほしい。実写のワンカットは大変な「労働」を必要とするが、逆にアニメならば、その気になれば全編ワンカットの作品製作は十分可能なのだ。
 それなのに、アニメ作家は「カット割り」についてのこだわりが、実写作家にくらべて意識的とはどうしても思えない。
 もちろん抜かりのない西田さんは、中段において押井守の実写性について存分に語っているが、そこについてはフィルムにおける「在/不在」といった観点を出なかった。
 さて、そこをどう接続させるべきか。もちろんこれはないものねだりである。
 
 何を言いたいかというと、これを読むために私はお金を払うことができるということだ。これは西田さんが私の親友だからということを理由とするお世辞ではない。
 
 とはいえ、この西田博至論文を読むためと、それとは別に、実はこれほどの水準の論客が、世の中にはいるんだと焦るためにも、同人誌『アラザル』は読まれるべきだと思う。これもお世辞ではない。
 信じられないことに、この密度でたったの500円(税込み)。タダみたいなものだ。
 都内では、新宿・渋谷のタワーレコードなどで購入可能。
 
 詳細は↓
 http://gips.exblog.jp/

2008/6/23

岡田茉莉子,久保田智子,吉田喜重,et 蓮實重彦  映画

 昨日と一昨日の「吉田喜重レトロスペクティブ」で、記し損ねたことをいくつか追記。

● 御大が吉田監督には次回作をと述べ、ルノワール『十字路の夜』を夢想されているということは一昨日も書いたが、このことは「フランス側」に既に話しており、「それはいい!」という返事をもらっているものの、それきり7年が経過したそうだ。

● 最後に巨匠が登壇されて、客席に言葉を述べられた折に、「私が映画を作っているのではない。映画が私を作っているのです。だから、次回作はあるかもしれない」とおっしゃった瞬間、会場には「おお!」という空気が走ったが、すぐに続けて「けれど、ないかもしれない」とがっかりさせた。
 そのとき、茉莉子さんが「あんたって人は!」といったお顔で、巨匠のお尻を軽くおぶちになり、そのアクションに微妙なエロスを感じてしまう。
 なお、その前に茉莉子さんご自身が、新作を撮るよう「お尻を叩いていきたいと思います」とおっしゃっており、本当に文字通り、私たちの目の前で、実際に、巨匠のお尻をお叩きになったというわけだ。

● 久保田アナが御大に「先生」と呼びかけたところ、「「先生」とはわたくしのことですか」と御大が話を止め、そのときトリュフォーへのインタビューで「日本では、たぶんフランスでも、先生ってのはいささか軽蔑的な称号です」と言っていたのを、ふと思い出す(「トリュフォーそして映画」より(蓮實重彦・山田宏一 話の特集)。
 で、久保田さんが「何とお呼びしたら・・・」と言うと、御大は「いや、蓮實でも蓮實さんでも、蓮實くんでも・・・」と、微妙なギャグをとばすが、久保田さんは「でもまさか、呼び捨てはあり得ないですよねぇ!」と真顔で返したのが個人的には爆笑ものの一幕。

● 巨匠が、これまでのキャリアを説明しつつ『戒厳令』を最後に映画から離れ、生活もあるので『美の美』の仕事をはじめるが、いつしかのめりこんでいた。
 けれど重圧もあったのだろう、自分は大病を患って、実は胃の大半がないのだけど、当時自分は髭を生やしていなかったのだが、その髭をそるときにカミソリがどんどん大きくなるように見えはじめた。
 そのことを茉莉子さんに言ったところ、危ないから仕事をやめてください! と言われたのだという。実際、危なかったのだと思うと。
 真の芸術家の情念かくやである。

● 茉莉子さんが、フランスの批評家に「ファン」としてでなく、「尊敬しています」と言われたのがうれしかったと述べられたこと。これほどの批評家が、自分を芸術家としてみなしてくれた、認めてくれたのがうれしかった。
 ここへきて、自分がさらに女優として人間として大きくなれたように思うと、また素敵なことをおっしゃる。が、もちろん茉莉子さんは芸術家に決まっている。

● 茉莉子さんが現在、自伝を執筆中であることは、去年の今頃も発表されていたが、パリの経験でさらによくなるような意味のことをおっしゃった。そして、出版の折には「岡田茉莉子映画祭」が企画されており、吉田作品は19本だが、自分の出演作はケタが違っていて、180本を越える。だからどんな作品が選ばれるのか、自分でも楽しみであるとのうれしい予告。

● お話を終えて降壇されるとき、巨匠はいつも女優を支えるように、気をつけるようにといった様子で手を差しのべられる。
 こんなことを言っては失礼にあたるが、どちらかというと女優の方が巨匠よりも丈夫そうに見える。それでも手を差し伸べるのはいつだって、巨匠の方だ。そんなさりげない様子に、本当に心からの混じりけのない愛が滲む。このお二人と時間と場所を共にすることの喜びは、そこにこそある。
 私はこんな愛情をうちの奥さんに捧げられるだろうか。

2008/6/22

岡田茉莉子 et 吉田喜重  映画

 シネマヴェーラの「吉田喜重レトロスペクティブ」2日目!

 『秋津温泉』に続いて、今日は吉田喜重監督と岡田茉莉子さんのトークが45分ほど。
 何度観たのかわからないが、やはりスクリーンで観る『秋津温泉』は格別。そのあとの『女のみづうみ』も。昨日見た『日本脱出』、『嵐を呼ぶ十八人』ももちろんだ。
 この素晴らしさ、いつか必ず言葉にしてやる。

 そして、今日はこんな言葉を茉莉子さん、その人から聞けたのだからそれ以上もう何一ついらないくらいだ。それはこうだ。
 ポンピドゥで行われた4時間半におよぶシンポの中で、当時の松竹の大スター・岡田茉莉子が、なぜ吉田喜重を監督に起用して『秋津温泉』を作ろうと思ったか、という質問に対して、こう答えたらしい

 「私はただ、吉田喜重という人の才能を愛してしまっただけなのです」

 これは、劇場で売られているポンピドゥの記録パンフの中でも、前田晃一さんが美しくレポートされており、その中ではこう報告されている。

 「簡単に申し上げれば、吉田喜重という人の才能を愛したからです」

 言葉の誤差はあるが、しかしプロデューサーも兼ねる女優であり、妻でもあるその人が、監督であり夫を起用したことに対する言葉として、これほど美しい言葉があるだろうか。(ご結婚は『秋津温泉』の翌年だが)
 こんな言葉を茉莉子さんその人の声で、直接聞けただけで今日は忘れ難い1日である。

 なお、今日は巨匠と女優による、ポンピドゥでの報告が中心となったが、印象に残った点を簡単にあげておく。
 茉莉子さんは、これはあくまでも「吉田喜重」の回顧上映であって、自分がパリにまで出て行くことに意味があるんだろうかと懸念したという。しかし、その前夜祭の場で巨匠はこう言ったそうだ。

 「これは私の回顧上映であり、岡田茉莉子の回顧上映でもある」

 そう言ってもらえて、自分がここにいてもよいのだと思えた、と。
気恥ずかしい言葉を使うならば、これこそ「愛」というものではなかろうか、と本気で思う。

 パーティの場では、80歳にもなる「女優」と名乗る人が茉莉子さんに会いたいとやってきた。その人こそ『24時間の情事』のエマニュエル・リバだったとのこと。
 『24時間の情事』は、巨匠がもっとも愛する作品の1つとして、しばしば言及する作品でもあり、その時のお気持ち、いかばかりだったろうか。

 また、巨匠が珍しく場内から笑いをとったことには、シンポでのフランス側評論家6人が、みなカイエの人間だったと。そのことについて、ポジティフ側から文句を言われ、ポジティフではこれまでこんなにヨシダ特集を組んでいる。それなのになぜカイエの者ばかりなのか、とクレームをつけられた。
 困った監督は「それはポンピドゥ側が決めたことで・・・」と逃げたところ、1人の若い評論家(カイエ側)が、「いや、その人選をやったのは、吉田監督でもポンピドゥでもない。ハスミシゲヒコという人だ」と種を明かし、笑い話になってしまったとのこと。
場内爆笑。
 そしてこんなエピソードを笑いながらひょうきんに語る監督など、めったに見れるものではない。

 終了後はまたサイン会に。いつもながらに親密な空気で、またまたお2人にサインをいただき、握手もいただく。
 実はサインをいただいていない、吉田喜重関連の書物がもうないので、今日はDVDボックスの封入ブックレットを持参する。
 巨匠、珍しくにっこりと目を輝かせてくださり、「はは、これはこれは・・・」とブックレットのページを繰られ、「どこにしましょうかね」などとあれこれ迷いつつ、表紙にご署名してくださる。

 茉莉子さんには、「いつも本当によいお話ばかりで、70になる母にはいつも岡田さんが、こんなこと言っていたと話して聞かせているんですよ」などと申し上げる。
 「まあ、そんな・・・」と、こうした場ではすっかりおなじみになった、どこか泣き出しそうな表情で、また私の手を握ってくださる。

 日本の歴史に並ぶものとてない、世界に誇る偉人お2人である。

2008/6/21

久保田智子 VS 蓮實重彦  映画

 シネマヴェーラにて、「吉田喜重レトロスペクティブ」開始!
 副題は「熱狂ポンピドゥセンターよりの帰還」。これはこの「晩春」に行われた、パリのポンピドゥでの吉田喜重全作品上映が、空前の成功を収めたことによる凱旋だ。

 私は吉田作品を、全作品DVDもそろえて、折に触れて鑑賞し、その都度、深い深い感銘を受けているが、ひとたび劇場でかかるならば足を運ばずにいられない。
 それは、吉田作品を観るたび、「今、おまえはそんなところでいったい何をやっているのか?」と、「作品が自分を見返している」ような気にさせられ、このままではいられない、という創造的な気分へと誘われるからだ。
 吉田作品は、やはり永遠に私にとっての発奮剤である。

 劇場で売られている、ポンピドゥでのパンフから編集された、ミニパンフが素敵である。価格もたった420円。ただちに購入したところ ― この段階で、私のすぐそばに吉田監督と岡田茉莉子さんが現われて、めちゃくちゃ緊張する。なお、岡田さんが、私に軽く目礼をくださって、死ぬほど感激! ―

 とかなんとかやっていたら、いきなりテーブルが組まれてサイン会態勢となり、巨匠と女優のサインを頂戴できるという。直ちにその場で買ったばかりのパンフに、監督と女優のサインをいただく。しかし、我が家にはいったいお2人のサインがいくつあるのだろうか。

 いつものように、巨匠は曖昧な表情を浮かべつつ、手を差し出してくださる。女優には「何10回拝見しても・・・ほんとにすばらしい・・・」とお話しすると、こちらもそっと手を握ってくださり、「ありがとうございます。いつもありがとうございます」と2度繰り返された。

 続いて、蓮實重彦によるトークに入るのだが、今回は趣向がちょっと違っていて、対談の相手がTBSアナウンサー・久保田智子さんである。「どうぶつ奇想天外!」の司会者で我が家の人気者だ。

 たまたま私は最前列に座っており、シネマヴェーラの最前列なら、久保田さんはもうほんの目の前である。あまりにお美しいので目がつぶれる。(家に帰って、家族に久保田智子を見たぞ!と言っても、誰も信じてくれなかった)
 ので、冒頭の数分は御大が何を話していたのか、よくわからなかったのが、つくづく痛恨である。

 さて、その久保田アナとコンビを組むのは、若い世代であり、そして女性であるということ、そうした人が吉田作品をどう見るのかということに意義を感じたからとのこと。
 久保田アナは、「本来なら自分は客席にいるべき人間なのに・・・」と最後まで緊張を隠さない様子だが、本人のお話によると大学時代には小津が好きで、必然的に蓮實本にいきついていたとのこと。かなりの映画通だったのだ!

 そして、吉田監督との接点は、小津生誕100年のシンポを聞きにいったときで、さる人物から『秋津温泉』のソフトを見せてもらったことによるとのことだ。
 人気アナウンサーが、あのシンポの場にいたということに、とにかく驚く。

 広島出身の久保田アナは、実際に呉にお住まいだったお祖母様の原爆体験を小学校のときに聞いたことがあるのだという。するとお祖母様は「絶句」されて、何も言えなかったのだそうだ。
 ポイントはここだ。御大は、何も言わないことによって、より多くを伝えようとする。それすなわち「映画」にも通じるのではないかと補足する。

 御大からは、「所有は自由を保障しない」というテーマを示される。これは吉田監督が何度も言うことだが、我々は映画を見ているが、それで映画を所有することではなくて、映画を見そびれ続けることが、映画を見ることなのだという謎をかける。
 吉田監督自身も、映画を所有してはいない。だから映画から見返している。同様に男性も女性を所有してはいない。女性が男性を見返しているのだからと。

 所有することが自由だと思っている社会は、擬似家族・擬似社会にしかならない。一般的には、映画を見ている人は「擬似的」なものを好まないのではないか。いつもはっきりしていなければいけないと感じているようだ。
 しかし、吉田作品は「擬似性」こそが本物だと語っているようだ。それは小津の『東京物語』の家族がきわめて擬似的だったように、と逐一、感動的に映画的に話を接続させる。

 それにしても久保田智子アナ。御大にこれから吉田作品を見る人に3本薦めろと言われたら何を挙げるかと聞かれ、
 「秋津温泉を3回」
 だなんて、そんな洒落た返事、なかなかできるものではない。容姿は別としても、一発で好きになる。
 とはいえ、あえて3本というなら『秋津温泉』、『女のみづうみ』、『情炎』とのこと。おお、完全にプロのセレクションである。

 ところで御大は、最新3本を挙げられ、すなわち『人間の約束』、『嵐が丘』、『鏡の女たち』とのことだ。

 しかし、やはりそうではなく、新作を望みたいという御大の言葉。まったく同感で、巨匠からは作るとも作らないとも返事をもらっていないと付け加える。
 御大自身は、新作としてルノワールの『十字路の夜』を地方都市におきかえてリメイクを作らせたいと思っているとのことだ。うむ。

 最後に、巨匠と女優も登壇。いつものことながら、女優の破格のオーラはすべての場をさらってしまう。機会ある限り、この人たちとの場を共にしたいものだと痛切思う。

2008/6/20

四方田犬彦・大嶺沙和 編『沖縄映画論』  

 四方田犬彦・大嶺沙和 編『沖縄映画論』(作品社)読了

 四方田さんプロデュースの、映画シンポジウム書籍化作戦の新刊は「沖縄映画」がテーマだった。
 こういう本は、感想の持ちようがない。学ぶことしかないからだ。意識的に見たこともない。それにそもそも、私は「映画」のローカル性に着目して作品を考えるという自己トレーニングをしていないので、四方田さんの世界映画の考察展開には、刺激を与えられるのみだ。

 そもそも、この本の中では論者全員によって一様に、ほとんど犯罪者なみに断罪されている『ナヴィの恋』などの中江裕司はもちろん、本書では最大級の賛辞を送られて惜しみのない、『ウンタマギルー』などの高嶺剛まで、1本も作品を見ていないのだから、ただただひたすら恥じ入るしかない。
 高嶺作品くらい、きっちりと骨肉化しておかないと、映画のことを語る資格などないはずだ。

 自分のテーマにあえて引きつけさせていただくならば、私はテオ・アンゲロプロス『エレニの旅』のラストをもうひとつ理解し得ないでいた。
 家族を残してアメリカにわたり、兵役を経て、沖縄に死んだと思われる、エレニの夫の末路。彼の描写における、時間軸と空間軸の想像を絶した広がりである。
 本書では、きちんとこの『エレニの旅』についても言及され、東欧から極東へのこの映画の理解に対して、多大なヒントを与えてくれる。

 その映画的環境を把握することで、見えなかったところが見えてくる。四方田さんチームによる一連の仕事は、いつだって啓発の元だ。学ばされる。



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