2008/7/31

イアン・マキューアン『贖罪』  

 イアン・マキューアン『贖罪』(上・下 小山太一・訳 新潮文庫)読了

 短い小説ではないのに、決して長くはないジョー・ライトによる映画化『つぐない』は、原作である本書をほぼ省略することなく、きっちり映像化していた。すごい。
 だから、一人の青年の一生をめちゃめちゃにした少女ブライオニーの、石のようなかたくなさは、さすがに『つぐない』の方が生々しく表現している。
 何といっても、少女時代のブライオニーを演じたシアーシャ・ローナンの素晴らしさに、活字ごときが太刀打ちできるものか。

 とはいえ、これを書物で読むことの意義は小さくない。というのは、人は本当に罪を贖うことなどできない、という根本的な真実に思いを至らせてくれるからだ。
 映画はさすがにドラマチックな描写が連続するので、思いの届くところは、登場人物たちの行く末であったり、ブライオニーが見つめるものと、彼女が見つめる眼差しそのものだったり、戦場の目の眩むような長回しだったりと、映画的な描写となること否めない。

 けれど書物の方は、語りの温度がより低いので、ブライオニーの意識にもう少しだけ潜入していける。すると、どうしても自分のことのほうがよほど大切な、この女性(おそらくは彼女に代表される人間全般)の心性がはっきり見えてくる。

 そして、本書のオチを読むと一層そのことがはっきりする。この主人公はつぐないの気持ちなど、根本的にはないということ。いや、あるのだろうが、より守りたいのは自分の心のロマンチックな場所にすぎない。ブライオニーの独白や、心的描写を極力廃した、マキューアンの書き方は、そうした読み方に誘っているように思う。

 何より、『贖罪』(または『つぐない』)という物語の構造がメタフィクションであるというこのオチからは、そもそも小説(映画)の物語の中には真実など何もないという、とてもシニカルな警告が読み取れる。

 よき文学作品の中に、叡智を読み取ろうとすることのあさましさを笑うようなかのようなこの作品は、さて「よき文学作品」だろうか、ということで、イアン・マキューアンという人の、作家としてのスタンスに強い関心を持つ。
 もちろん、ものの見方の角度を斜めに斜めにと仕向ける点からも、『贖罪』は疑いなく、よき文学作品だ。

2008/7/30

ダグラス・サークへの痛恨  映画

 世間は右を向いても左を向いても、話題はダグラス・サーク一色だ。こうまで熱狂的な声にあふれていると、さすがにずっしりと後悔の念がひたつのる。世間といっても、いったいどこの世間なのかわからないが。

 21日からはじまった、PFFによるダグラス・サーク特集も今週末で終わる。平日に映画を見るのは不可能なので、とうとうスクリーンにかかるダグラス・サークを1本も見ずに終えるというのは、1年くらい映画自粛くらいの大罪かと思うが致し方ない。

 3連休の3日目からスタートというのも不運だったとか、あれこれ自分に言い訳して、肝心の初日に『ポニョ』と『インディ』の2本立て、とか言ってヘラヘラしていたのだし、今回の11作品すべてを観れないのなら、あきらめようと判断したのも愚かだった。
 それにそもそも、売り出しの当日に専用パス100枚限定を買いにいったところ、すでに売り切れ。買えなかったというのも大きかった。買えていたら、とことん無理していた。
 それほど早々に売り切れてしまうのなら、入れるはずもなかろうと、勝手にあきらめてしまったのだった。

 でも、当日出かけていけば、何とか座席はあるという情報をキャッチしたときは、もう遅かった。それにミロス・フォアマンのとき、主催者からチケット情報の発表もあったが、かなりの無理をしないと入れないだろうと思い込んでしまった。悔やんでも悔やみきれない。

 超高額のDVDボックスセットを2つも入手しているから、決して裕福ではない身分としては、さすがにこれ以上、ダグラス・サークへの出費はキツイと、さらに自分に言い訳しつつ、フィルムでサークを見なかったことの悔恨を噛み締める。
 こうしてスルーし、悔やんでも悔やみきれない経験は数あれど、20年くらい前に、ボリス・バルネットの特集を見そびれたのと同じくらいの痛恨。そのとき『諜報員』を見損ねて、いまだにそれっきりだ。
 映画は帰ってこない。本当にそのとき限りなのだ。

2008/7/29

宮崎駿『折り返し点 1997〜2008』  

 宮崎駿『折り返し点 1997〜2008』(岩波書店)読了
 宮崎研究のバイブルともいえる『出発点 1979〜1996』の続編。時期的には『もののけ姫』から『崖の上のポニョ』制作発表まで。しかし『出発点』の版元が徳間書店だったのに、本書はなぜか岩波から。どうしたんだろ?

 ともあれ、発言量こそ膨大だが、昔からこれほど「映画」の話をしない人も珍しい。影響を受けた作品にしても、一貫して『白蛇伝』と『雪の女王』の2本のみ。
 誤読を恐れずあえてまとめてしまうと、話していることはひたすらに、人はどう生きるべきかという、かなり根源的なこと。だからとてもためになる。
 もちろん、何日か前にも書いたように、「トトロとは森の精なんですか?」とか、そういう質問に悩まされ続けてはいるが、語ることはどこまでも真っ当で、そしておおらかだ。

 ただ、ここに書かれていることを盲信して、正面から受け止めようとすると火傷をする。たとえば、子どもなんて勝手にやらせておけば、自分で好きに遊び始める。上の者は下の子の面倒みるし、下の子は自然と従うもんだ。大人は払うべきお金だけ払って、ひっくり返ってればいいんですよ、といったことを言う。

 それが案外そうでもない。野原に子どもを解き放っても、どう動いたらいいかわからないのが今の子どもだ。遊び方がわからない。下手するとDSを始めて熱中してしまう。DSを持ってない子はもの欲しそうに、持ってる子の肩越しにゲーム画面を眺めている。
 無為に耐えられない子は泣き出しさえする。上の子はそんな子の面倒を見るほど立派じゃない。結局、大人が仕切って遊ばせる必要がある。今の子に自助力は皆無なのだ。
 子どもが一つにまとまれば、自然に鬼ごっこかなんか始めるもんだと、思っているなら認識が甘い。もっとも私なんかより、宮崎駿の方がはるかに実際の子どもと接しているだろうけれど。
 いずれにせよ、生きて動く子どもに接するときは、思い通りになんかいくものではない。

 だから、しつこいようだけど繰り返すと、本書から受け取るべきは、「おおらかさ」なんだと思う。小学校から英語をやらせようなどと、バカな動きがあるが、本当にくだらない。中学から学んで身に付かないものが、小学生から始めてできるようになどなるものか。
 だから些細なことには拘泥せぬ、「まあいいよ」と許せる心を育むことの方がよほど急務だろう。関係ないようだが、小学校からの英語なんてイライラする気持ちを育てるだけだ。
 さすがにくだらなすぎるので下火になった「ゆとり教育」とやらも、それを実行する現場がヒステリックだから、結局、小中学生による凶悪犯罪を増やしてしまった。

 本書の中で宮崎駿は、地元で草刈りかなんかをやるときに、おばあちゃんが「この草、汚らしいから全部刈っちゃおう」と言うので、「いやあそれは残しときましょうよ」と言うと、そのときはそれに従うんだけど、翌朝言ったらきれいにされちゃってる。おばあちゃん、やっぱり刈っちゃったんだね、とかって笑っている。
 本書を読んでいると、こうした「しょーがないなあ、もう」っていう笑顔がいかに大切かということを、教えてくれる。

 そして、そうしたことは賢しらな映画作りの思想とか、カット割りがどうの、といった話より、ずっと大切なのかもしれないと思う。そして、そうした「おおらかさ」が宮崎作品の感動の源泉だと考えるならば、やはり「映画」の本として最良の書ではあるまいか。

2008/7/28

『ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン!』  映画

 エドガー・ライト『ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン!』
 昨日書くの忘れてた。
 署名運動まで起こって日本公開にこぎつけたという、話題の一作。
 そこまですさまじく面白かったかというと、まあ「なるほど」の範囲。
 真面目一辺倒の警官が、マジメを貫けば貫くほど笑えるという映画は、『裸の銃を持つ男』という最初から最後まで笑いっぱなしの大傑作があるので、その意味ではそっちの方が上。
 けれど『ホット・ファズ』が、『裸の銃を持つ男』さえきっちりパロディ化してあるところには、おおいに感心する。

 主人公の相棒で、刑事映画オタクなデブが、最後の銃撃戦で『ハート・ブルー』の超感動的な名シーンをパロディにしている。
 キアヌ・リーブスが、激走につぐ激走の末、パトリック・スウェイジをついに追い詰めるが、彼に対する共感の故に撃てず、痛恨の叫びと共に空に向けて6発撃つというあれだ。
 (それにしてもあの映画のキアヌ・リーブスは最高だった!)
 涙なしでは見れないあの超名シーンを、このデブも映画の中で熱烈に語っていて、そんな彼におおいに共感するが、あれほどすばらしいシーンは、デブがパロディで演じても、なおかつ感動してしまうという、訳のわからない効果を発見して驚く。
 
 キアヌ・リーブスじゃなくとも、こんなデブがやったって、いいアクションは感動しちゃうんだぜという、思いっきりシニカルなイギリス人ならではの、これは計算された演出なのだろうか? それとも私がバカなのだろうか?
 
 あ、GAGAはそろそろ「俺たち×××」という邦題は、おやめになったほうがいいと思う。余計なことだけど。

2008/7/27

『スピード・レーサー』,『ハプニング』  映画

 ウォシャウスキー兄弟『スピード・レーサー』
 スピードを表現するために、速度をあえて止めてしまうことで、映像表現のスタンダードを根こそぎ変えた『マトリックス』だったが、ウォシャウスキー兄弟はもう一度それをやろうとする。

 レースカーが爆走して、勢いあまって車体が宙に浮くとき、時空が静止する。だがそれはそれでよいのだけど、車のスピード感はあくまでも走ってこそというのは、『マトリックス・リローデッド』で既に失敗済みだったのではないだろうか。

 そして、本当のスピード感というのは、一直線の暴走ではなく、カーブにおいてあるということは、『崖の上のポニョ』を待つまでもなく、『魔女の宅急便』で既に宮崎駿が最良のものを提示したわけだし、『M:I-2』のジョン・ウーは、『マトリックス』的なスローモーションと『魔女の宅急便』的な曲線を既に融合させている。
 直線にこだわりぬいた、『エピソード1』のジョージ・ルーカスも、『エピソード2』ではずいぶん改善の跡が見られた。
 けれど、『スピード・レーサー』がそれらに学んだような印象は、あまり受けなかった。

 しかし最後の大詰めでようやく、スパイクタイヤをセットした主人公の車が、転落したはずの谷底から、崖を一気に駆け上がって、先行車の前に飛び込んでいった瞬間、おおいに血が騒ぐ。こうした動きが全編にあれば、2時間15分も無駄じゃなかったのにと思える、最高のアクション。(そして、高鳴る「マッハGO!GO!GO!」のテーマ)
 実に実に惜しい一作。

 M・ナイト・シャマラン『ハプニング』
 問答無用のシャマラン最高傑作。骨の髄から恐怖を味わう。黒沢清『カリスマ』は完全に乗り越えられたというくらいに震撼する。

 知ってか知らずか、元ネタは藤子・F・不二雄先生の名作『みどりの守り神』と思うが、だとしても、人類の最後が信じ難い現実味で描かれる。これはあり得るのかも。
 人類は戦争で絶滅するんじゃないな、自ら自滅するんだな、というのでたぶんこれが正解だ。なぜかというと、これだけ戦争をくり返してきた人類が、もし戦争で絶滅するような種ならとっくに滅亡してるんだろう。だから、絶滅するとしたらそれは殺し合いじゃない、自滅だ。これはものすごい説得力だ。

 オフの画面から、一切の情感を排し、自らの脳天を打ち抜いているはずの乾いた銃声が、次々、ぱん、ぱん、ぱん、ぱん・・・と永遠と思われるほど続いていく表現には、思わず耳を覆う。耳は覆うが、眼は画面に釘付けだ。よくもこんなシーン撮ったな。
 傑作の多い2008年度の中で、またしてもベスト10入りの1本が登場・・・。

2008/7/26

PFF 「巨匠ミロス・フォアマンの世界」  映画

 ぴあフィルムフェスティバルの1企画で「巨匠ミロス・フォアマンの世界」。母国、チェコとのあれこれで渡米し、『カッコーの巣の上で』でブレイクする以前の、初期作品4作。
 渡米後のフォアマンはともかく、チェコ時代はすばらしいという高評価は昔から耳にしていたので、ここはぜひ確認に赴く。

 この企画がどれだけレアかというと、日本未公開のデビュー作『黒いピーター』(1963)と、初のアメリカ資本のユニバーサル作品にして、フォアマン自身の言葉では「チェコ時代最後の作品」という『パパ/ずれてるゥ!』(1971)は、それぞれチェコとアメリカから取り寄せたフィルムを、そのまま上映とのこと。
 字幕つきのフィルムがないため、字幕はビデオによるスクリーンへの二重投影。少なくとも字幕つきの上映は、おそらく二度とないだろうとのことだ。そんな変則字幕だから画面の影響を心配したが、まったく違和感はない。主催者の努力が本当にしのばれる。映画を観られるのは、こうした熱意に支えられてのことだ。心から感謝して鑑賞したい。

 結論としては、4作品とも見事というほかない作品だった。特に『パパ/ずれてるゥ!』は、70年代ニューシネマの中でも最高傑作ではないか。
 ヒッピー・カルチャーにのめりこむ、15歳の娘の家出におおわらわする親たち。さまざまなフォーク・ロックを、細切れに叩きつけるようにつないだ、前半のヒッピーシーンの描写が圧巻。
 クライマックスは、家出した子どもを持つ親たちのコミュニティで、子の気持ちを知るには子の気分を味わわねばという無茶な理屈で、全員がマリファナでトリップする、悪夢のようなシーン。とんでもなくパワフルな10数分!

 『カッコーの巣の上で』以後のフォアマンは、精神病院ご用達作家のような風情さえあるが、そうした萌芽はすべてこのチェコ時代の4作にある。
 そして、新世代による旧世代の乗り越えと、旧世代の新世代への迎合(無理した理解)、そして内心にひそむ強烈な対立という主題、つまり『アマデウス』、『ラリー・フリント』のモチーフは、より一層ここで鮮明だし、『ヘアー』は『パパ/ずれてるゥ!』の前半部のパワーアップバージョンだ。

 このように考えると、18〜19世紀の欧米を舞台とする『アマデウス』、『恋の掟』、『ラグタイム』も、カウンター・カルチャーど真ん中の『カッコーの巣の上で』、『ヘアー』、『ラリー・フリント』、『マン・オン・ザ・ムーン』と、二つに分かれるフォアマンの時代設定も、語ろうとすることは同じであることがわかった。
 チェコ時代の『消防士の舞踏会』(1967)の信じられぬ狂騒ぶりも、完全に『カッコーの巣の上で』中盤の狂乱ぶりに無理なく接続する。

 ただ1点、すばらしく切ない『ブロンドの恋』(1965)だけは独自の世界を形作って、あまりにも美しいチェコの小都市における、青春恋愛ものである。
 ここにはフォアマン的な毒素は陰をひそめ、恋に夢見る少女のおとぎ話として見事な達成だ。ただ、「精神病院」作家であるミロス・フォアマンという点にこだわりつつ、ひねくれた見方をするならば、この『ブロンドの恋』でさえも、狂った少女の白昼夢という解釈さえ許す点において、ミロス・フォアマンの驚くべき一貫性が感じられる。

 まず観る機会のない4作品ということから、これは近日中にきちんとレビューをまとめておきたい。ここではほんの感想だけ。

 なお、劇場にあの人がいた、この人がいたというのは、ご本人には失礼な話だからあまり書かないようにしているのだけど、私の座った視界の範囲に山田宏一さんがいらして、2つ後ろの座席には四方田犬彦さんがおられるというのには、さすがに緊張する。

2008/7/25

三島由紀夫『殉教』  

 三島由紀夫『殉教』(新潮文庫)読了
 同じく初読。新潮文庫の三島短編集の巻頭は、必ず日本のやんごとなき方々の物語というのが、さすがにうざったくなってきた。なんとか姫とか、何々宮とかの話は正直、鬱陶しい。自分の頭の悪さを棚に上げるようで心苦しいけど。

 この自選短編集は、いわゆる三島の「貴種」談を集めたものだが、しかしそのような紋切り型以外の何かコメントはできぬものだろうか。
 と思いながら、低俗の極みを十分承知のうえで、感じたままを書くならば、これらの短編に描かれた人々の、なんと言う切り換えの下手さ加減よ。
 思い込んだらそこから離れない。気持ちの切り換えがまったくできない。

 それを言うなら、『金閣寺』を頂点として(いや、『豊饒の海』を頂点というべきか)、三島の描く人物たちは、誰もかれもが妄執の固まりだ。
 「うらめしや」や「かたき討ち」の国なのだからしかたがないのかもしれないが、この思い込みの激しさ。信じやすさ。取り返しのつかないことを平気でやる。それこそが日本人の真実なのか。

 だから、というわけではないのだろうが、『嵐が丘』や『ジェーン・エア』の物語なんかは、日本人によくなじむ。
 思い込みが激しすぎて、結局、この現代において腹を切った人らしい、小説と言えば言えるのだと思う。
 知性のかけらもないことを書いて恥ずかしい限りだが、妄執と一途さというものは、似ているようでまるで違う。日本人は妄執を捨てて、一途さを得るべきなのだ。今も昔も、日本には一途さがなくて妄執ばかりがある。

2008/7/24

ビリー・ジョエルとポール・マッカートニー  音楽

 ニューヨークのシェイ・スタジアムの取り壊しが決まって、そのための最後のコンサートとして、ビリー・ジョエルがライブをやるのは知っていた。

 で、eiga.comによると、2日間のライブの最終日、ゲストにポール・マッカートニーが登場したんだそうだ。というのも、同スタジアムの最初のコンサートは、1965年、ビートルズによるものだったとのことで。
 そして、スタジアム最後の演奏曲は、ビリーとポールによる“Let It Be”だとか。

 なんだかこう、理屈ではなく、いいなぁという思いを感じる。これこそニューヨークだといったような。ある歴史的建造物の終わりを記念して、イギリスとアメリカの最高のメロディ・メイカーが2人で声をあわせるということ。
 そういうのは、ショパンとリストが連弾をしたとか、そういうのと同じくらいに音楽史上の事件だと思う。その時に、その場、その空気を体験した5万5千のニューヨーカーが羨ましくてならない。

 私自身が体験できた、究極のライブはその意味では、エルトン・ジョンとビリー・ジョエルのジョイント・ライブだったろうか。けれど、そのときはビリー・ジョエルのパフォーマンスがもう一つだった。
 じゃあ、ジョージ・ハリスンとエリック・クラプトンのジョイント・コンサートかな、とも思うが、クラプトンにやや難のあるステージと言わざるを得なかった。
 というか、どちらも日本でのステージっていうのが、最大のネックか。やっぱアメリカはいいなあと思っていると、さらに同じくeiga.comによると、なんとなんとデビッド・バーンとブライアン・イーノが、この9月から10月にかけてツアーをやるんだとか。
 いやいや、アメリカはいいなあ。

 さすがにアメリカには行けないけど、デビッド・バーンとブライアン・イーノは、年内リリースで、ニューアルバムも出すとのこと。
 これだけでも大事件だ。ライブを聴くことはかなわないが、せめてものビッグプレゼントである。

(注)ポールの他にも、この最終日、トニー・ベネット、ガース・ブルックス、スティーブン・タイラー、ロジャー・ダルトリーも来たそうだ。(初日は、ベネットとドン・ヘンリー、ジョン・メイヤー、ジョン・メレンキャンプ)

2008/7/23

腐海の大気の化学的成分は何ですか?  ノンセクション

 その昔、『風の谷のナウシカ』がロードショー公開中のよき時代。
 今はなき渋谷東急に、ヒット御礼ということで宮崎駿と島本須美が来たことがあった。
 当然ながらいそいそと出かけ、あれこれ2人の話をまぶしく聞き入ったものだ。
 
 進行役が、少女時代のナウシカの声がとてもかわいいという話をして、その声で「母様もいる・・・」って言ってみてもらえませんか、というリクエストをした。場内大拍手。
 けれど、島本須美は照れに照れて、真っ赤になって一言もしゃべれなくなってしまう。そのとき宮崎駿が「いや、この人はそういうことが、パッとできないところがいいところなんですよ」とフォローしていたのが、何ともいい感じの一幕だったのを覚えている。
 
 まあ、今日の話題はそこではなくて、観客との質疑応答のことだ。そのとき客席から手が上がり、真っ先に出たのが、こんな信じられないような質問だった。曰く「瘴気の化学的成分はなんですか?」
 これには耳を疑う。何だそれ? そんなの『ナウシカ』の素晴らしさと何の関係もないじゃんか。で、続く質問が「メーヴェの動力源は何ですか」という同レベルの度し難さ。

 これらに対して、宮崎駿がどう答えたのか覚えていない。ただ、ああ、いわゆるアニメ好きというのは、こんなことを聞いちゃうのか、とがっくりきたのだった。もう二度とこういう場には足を運ぶまいと決意したし、いわゆるアニメというジャンルに、必ずしものめりこめない原因となった一幕だった。

 さて、宮崎駿の発言や文章、インタビューを集めた新刊、『折り返し点 1997〜2008』(岩波書店)を読み進めていて、そうか、そうしたバカな質問はその後20年以上たった今でも変わらないんだ、と思い知る。

 梅原猛と網野善彦、高坂制立との座談会で、梅原にしても「シシ神というのは何ですか」とか、「時代への一種の批判や絶望が「タタリ」とか「もののけ」になったんでしょうか」とか、同レベルの白痴的質問を。
 司会(牧野圭一)は司会で、「トトロとは森の精なのでしょうか、森そのものなのでしょうか?」なんて言い出す始末。さすがに網野はそんな愚な質問はしないし、宮崎駿ものらりくらりとにこやかに逃げているが、心中いかばかりかと、げんなりする。

 で、そうした無意味な質問へのリベンジなのか、本書収録の別のインタビューで、「(千尋の乗った)その電車はどこに繋がっているのですか?」とか、またぞろバカなことを聞かれたのに対し、たぶんキレた宮崎駿はこう答える。
 「普段自分が生きている世界や周りのことに関心を持たない人が、どうして物語の中のことにだけそんなに関心を持つんですか? 家や会社のかたわらを走る電車やトラックの行き先を気にもとめない人に限って、あの電車は? ってたずねてきます。」

 まったくほんとに完全無欠にその通りだよね。『ナウシカ』上映開場での質疑応答のときのモヤモヤを、20数年たってすべて解消してくれたような、爽快な気分に。

2008/7/22

ポニョとカルキと海水と淡水と、それからあれこれ  映画

 ジョーンズ博士が、核の直撃を受けてへっちゃらということは、とりあえず何とも思わない。それを批判する向きもあるようだが、愚かなことである。
 もちろん、アメリカ映画の被曝に対する無神経ぶりには、いささか眉をひそめずにいられないでもない。
 ジェームズ・キャメロンでさえ『トゥルー・ライズ』では不用意に核を破裂させたし、アジア人であるジョン・ウーをもってしても、『ブロークン・アロー』というアメリカ映画においては、生身の人間の目の前で核爆発を起こしさえしている。

 しかし『インディ・ジョーンズ/クリスタルスカルの王国』にあっては、きのこ雲を見上げるジョーンズ博士の姿は、ラストでUFOを呆然と見上げるジョーンズ博士の姿に、構図は左右逆転するが、ピタリとシンクロするが故に、そこに反応すべきだろう。

 ただ、『崖の上のポニョ』だけには、どうしても納得し難いところが1点だけあって、それは、海からポニョを拾った宗介が(あれこれ素敵な号泣シーンを間にはさみつつ)、ポニョをバケツに入れ、そこに水道水をそのまま注ぎ込んだところだった。

 実は、そのシーンだけは「宗介、ちょっと待てっ!」と腹の中で叫んでしまい、海の魚に真水を入れたら絶対に死ぬ、ということと、水の生き物の飼育に水道水を使うときは、カルキ抜きをするのは常識で、そこを宮崎駿がおざなりにするはずはない、とここばっかりは、実は夜も眠れぬほど悩んでいた。

 カルキ抜きをしなかったところは、映画を観ている間に解決した。たぶん、宗介の家は井戸水を使っているんだ。それをくみあげて水道管から出してるんだ。
 ジブリ美術館にも井戸があって、うちの子らはそれをいじるの大好きだし、私も大好きだ。『トトロ』でだって、井戸水をくみあげる見事なシーンがあるし。画面に証拠はないが、宮崎作品でもあり、井戸水なんだということでここは納得。

 しかし海の魚に淡水とは・・・。今日昼過ぎに、ぱっとひらめいた。宗介ははじめ、ポニョのことを、「金魚」と言っていた。ということは、海の魚をつかまえたのでなく、逆に本来は淡水の金魚が、海に落ちたと宗介は思ったわけで、だから真水を入れたということだ。たぶん。
 いやいやすっきりした。だからなんだという話だが、枕を顔に押しつけた瞬間、眠ってしまう私が、この2日間は寝つくのに30秒くらいかかったので、それほど気になっていたのだ。これで睡眠不足解消である。

 ところで、ポニョが宗介の指先の血をなめるシーンには、今思い出しても涙が止まらなくなるのだが、その理由ははっきりしていて、封切直後にそれを書いてしまうのもな、と控えたところ、大久保清朗さんもまったく同じことをお思いになったようで、先に書かれてしまって、めちゃくちゃ悔しい!
 負け惜しみでなく、これは先に書いた者の勝ちだなあと、大久保さんがお書きになったことと、私が思ったことの一部は、ほぼぴたり一致するので、なんだかうれしい気分に。そのブログはこちら。読み応えあり。
http://d.hatena.ne.jp/SomeCameRunning/20080722
※大久保清朗さんの「清」の字を間違ってアップしておりました。
  修正しています。誠に申し訳ありませんでした。



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