2008/8/31

『コッポラの胡蝶の夢』  映画

 フランシス・コッポラ『コッポラの胡蝶の夢』
 おおコッポラ・・・、ついにやったな! と感涙。
 商業作品から真っ向背を向けて、思うさま撮った幻想譚。雷に打たれた88歳のティム・ロスが、なぜかどんどん若返りをはじめ、時間軸が歪みに歪んだ人生旅行を体験する。

 基本的なストーリーラインは廃棄し、時間の断片だけに遊んだ124分。これまでのコッポラが、金を稼ぐということが至上命令であったことで、どれだけの強いストレスのもとで映画を作ってきたのだろうか、と思いを馳せる。
 そうした条件から離れられた今、実はこうした映画を作りたかったのか。

 けれど、私が感涙したのは、非商業性に徹することができたことそのものではない。この時間軸をいじるという作風について、結局コッポラは、これまでずっとそれをやり続けていたわけで、時間というものに対するコッポラの一貫した思いに感激したのだ。

 つまり、時間は後に戻らない。後悔は先に立たないが故に、年齢を重ね、成熟した今の目で人生の各時点を見たら、どのように感じられるのだろうかということだ。
 ずばり『コッポラの胡蝶の夢』はそうした映画なのだが、しかし『ペギー・スーの結婚』がそもそもそうした映画だった。(あれが『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の二番煎じなどではなかったのだということが、今ようやくわかる)

 『地獄の黙示録』が時間の進行を凍結しようとした狂人の物語だったことは言うまでもないが、ほとんど誰も見ていない『ジャック』も、『ペギー・スーの結婚』と並び、最も『胡蝶の夢』と親和性の高い、精神年齢は幼いまま肉体だけが老いていく男の悲劇だった。
 また、『ドラキュラ』が時を超えた不老不死の妖怪であることも、指摘しておきたい。

 それに『ゴッドファーザー』三部作は、時の進行に抗い、それに敗北する男たちの話だったと言えようし(だからこそ彼らは「家族」を大切にし、後継者=すなわち自分の分身を後に引き継いでいくのだ。後継者を得られなかったマイケル・コルレオーネの悲劇はそこにある。たぶん「家族」「血脈」とは、時間を温存するための不可欠の何かなのではないだろうか)、このあたりは、コッポラのイタリア人気質と照らし合わせて、とても興味深いテーマとなるような気がする。

 そして、それらすべてに通底するキーワードが、『アウトサイダー』のあの印象的な言葉、“Stay gold.”(永遠に黄金に輝いていろよ)と、考えられるのではないだろうか。
 
 『胡蝶の夢』はすべての時間を走破し、言語の根源にせまろうとする主人公を描く。コッポラにあって、時を我が物にする者は例外なく敗北するが、『胡蝶の夢』ではさて。

 広告宣伝の惹句として、蓮實御大は、『胡蝶の夢』について
「この作品は「これからはゴダールをやる」というコッポラの宣言である」と示したが、ゴダールをやるのであれば、上映時間は90分以内に収めねばならないのではないか、というどーでもいいつっこみを入れたくなるのだが、この作品はスタイルこそ大きく変わったが、ゴダールどころでなく、やはり100%完全無欠のコッポラであると思った。
 コッポラの完全復活、いやRe-Birthだ。コッポラ作品で心から泣く。

 それにしても、毎度のことで恐縮だが、ヒロインのアレクサンドラ・マリア・ララの美貌に、目が釘付けになる。ここ10年くらい見た映画の中で最強の美人だ、これは。

2008/8/30

『セックス・アンド・ザ・シティ』、ほか4本  映画

 たまっている未見作を可能な限りクリア。
 マイケル・パトリック・キング『セックス・アンド・ザ・シティ』
 素直に楽しむ。この映画の好ましいところは、TVシリーズのファンを100%楽しませようと、きっちりと誠実に作っているところだ。

 ヒットTVドラマの映画版としてすぐに思い出す、『ツイン・ピークス/ローラ・パーマー最後の7日間』のように、何の意味があったのやらさっぱりわからんものや、『X-ファイル ザ・ムービー』みたいにTVで謎だったものは映画もやっぱり謎で、何かが解決しているわけでもなんでもないものを考えると、とてもよい作品となっている。TVシリーズのノリが、何ひとつ変わることなく、時間だけがたった形で再開する。これはうれしい。
 ある意味ではドラマの続きを、上映時間にして5話分見ただけとも言えるのだが、楽しいからいいんじゃないだろうか。

 TVのキャラが1人また1人と登場してきて、あの4人が横に並んで5番街を闊歩する様は、ちょっと胸を打つ。そして、その他の脇役たちも、キャスティングが変わることなく、全員登場して、キャラもまったくそのまま。劇場版『ツイン・ピークス』で、最重要というか、一番美人というかの、ララ・フリン・ボイルが別の役者に代わるという、そうしたがっかりが、『セックス・アンド・ザ・シティ』には一切ないのだ。

 主要キャラの2人が、ブルックリン橋で見せるあれこれにはホロリとする。そしてそこに流れるのはビー・ジーズのあれ。(あれといっても“How Deep Is Your Love”ではないので念のため。ただこの曲も別のところでしっかり流れる)完璧な選曲だ。
 そして、4人組が「80年代のヒット曲」にのせて引越しの荷造りをするシーンでかかるのは、Run-DMCの“Walk This Way”。おみごと。
 個人的には、80年代ヒットをいうなら、キム・キャトラル(サマンサ役)に敬意を表して、ここは『マネキン』主題歌でStarshipの“Nothing’s Gonna Stop Us Now”だろう! と思ったが(しかもデッキにCDをセットするのが、キム・キャトラルなんだから!)、でもそういうのはないものねだりだから追求せずにおく。
(というか、私がこのドラマを見たのは、『マネキン』のキム・キャトラルへのノスタルジーだったので。“SATC”については、近いうちにきちんと)

 ともあれ、登場人物の全員が収まるべきところに収まる、気分のいい大団円で、ファン心理をくすぐることうけあい。夏のイベントピクチャーかくあるべし。

 トム・ヴォーン『ベガスの恋に勝つルール』
 いくらなんでもこれはひどすぎる。何から何まで全部ダメ。
 1点だけ。仮面結婚をしていた2人が、いつしか魅かれ合い、最初のダンスの音楽として『フラッシュ・ダンス』の“What A Feeling”が流れる(アイリーン・キャラのでなく、劇中のシンガーが歌うバージョン)。これが今さら聴くと実にいい歌で、映画の場面と溶け合って、そうかこれはそういう愛の始まりを歌った曲なんだと、ここだけ泣かされる。
 なお、劇場用パンフを立ち読んだら、劇中に使われた楽曲に関するエッセイが掲載されており、どーでもいい曲のことばかりうだうだ書いているくせに、肝心の“What A Feeling”については一言も触れられていない。誰か知らないが、アホかこのライター。どーせ若い物書きなんだろうが、まさかこの曲を知らずに音楽ライターやってるんじゃあるまいな。

 デイブ・フィローニ『スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ』
 エピソード2と3の間の、とあるエピソードのCGアニメ。
 ジャバの息子がさらわれる。ジェダイはこの子を救出して、ジャバに恩を売り、分離派との戦いに有効な航路(ジャバがおさえている)の通行権を得ようと画策(オビ・ワンは悪党と手を組むのは・・・といささか気が重い)。アナキンを派遣する。
 しかしこの誘拐は、実のところドゥークー伯爵の陰謀で、この子を殺したうえで、ジェダイに濡れ衣を着せ、一挙にジャバの勢力をも手に入れようという魂胆。
 そして、アナキンもパダ・ワンをとることになったものの、このパダ・ワンが女の子。しかもアナキンに輪をかけた無鉄砲者で、大変に鬱陶しがる次第。

 まずまずプロットは、せこいとはいえ面白い。だから最後まで見るには見れたが、しかしこのてきとーなキャラ・デザインと、ぎくしゃくした、いいかげんで、手を抜きまくった動画(CGは動画とは言わないのかな?)は、やはり犯罪ものだ。いったい何のために作ったのやら、あまりSWのブランド名で、安っぽい仕事をしてほしくない。
 エンドロールを眺めていると、スタッフの大半が中国系の名前で、どうせすべてを外注したのだろう。どこまでもなめた作品で頭にくる。

 ロブ・コーエン『ハムナプトラ3 呪われた皇帝の秘法』
 もともとインディ・ジョーンズの、たちの悪いパロディとしてはじまったシリーズなのに、マーケティングがやたらにうまく、とうとう3作目まで来てしまった。
 今回も特に感想の持ちようのない内容ながら、サイモン・ダガンの撮影がやたらにいい。焚き火の炎を光源とするロマンス・シーンや、ふりしきる雪中バトルなんか、かなりの見ものだし、クライマックスの砂漠のバトルにしても、上空からのカメラの動きがとても適確。
 ロブ・コーエンは『ステルス』でもかなりいいものを見せてくれたし、もちろんつまらない映画だけど、つまらなくない(何だそりゃ?)。

2008/8/29

『ダークナイト』  映画

 夏休みで旅行に出ており不在でした。再開します。
 クリストファー・ノーラン『ダークナイト』

 帰って早々だけど、SさんとYさんとご一緒いただき、映画史上第2位の興行をあげた『ダークナイト』をようやく観る。
 あまりにも飛びぬけた傑作ぶりは予想をはるかに上回り、言葉が出ない。

 映画にはときどきこうしたことが起こる。映画監督はまったく前触れなく、化けることがあるのだ。たとえばトニー・スコットは『トゥルー・ロマンス』で化けた。スティーブン・ソダーバーグは『アウト・オブ・サイト』で化けた。しかし、クリストファー・ノーランの化けっぷりはそれらの比ではない。
 だって『メメント』で『インソムニア』で『プレステージ』で、まあ『バットマン・ビギンズ』で・・・。その人がなぜにこんな作品を作ってしまえるのか。あらゆる項目でケタが違いすぎていて、何かが憑いたとしか思えない。

 地を這うように走るバット・ポッドを、固定・移動・パンのあらゆる組み合わせで、完璧な走行シーンを見せる。撮影も編集もあまりにも素晴らしく、ウォーリー・フィスター(撮影)、リー・スミス(編集)いずれも、ノーラン組だが、これまでその仕事に「おっ!」と驚かされた記憶はないから、やはり彼らもまた化けたのだ。

 私は自分の「ロン・ハワード論」所収の『身代金』の章※で、小熊英二『市民と武装』(慶應義塾大学出版会)を参照しつつ、きわめて浅薄にして安易ながら、アメリカ人にとっての「自警」について、ほんの少しだけ触れたが、『ダークナイト』はそこに深く踏み込んで、強い感銘を残す。

 自警の必要性を説くバットマンだが、自分を真似て正義を気取る安易な市民には厳しい態度を見せる。
 しかし何よりもバットマンを苦しめるのは、自分が正義のヒーローであるが故に、逆説的に巨大な悪を生み出してしまうというジレンマだ。
 正義の味方としてのバットマンは、その反作用としての巨悪がなければ、存在し得ない。いつかどこかで、切通理作さんが、「夜回り先生」水谷修作の行いを、教育者としての志は高く評価しつつも、しかし実は「夜回り先生」自身、問題を抱える子どもたちがいるからこそ、その存在に意味があり、すなわち自家中毒的になっていはしまいかと、鋭い指摘をしていたが、そのことを少し思い出す。

 ことの2面性=ツー・フェイスというモチーフを、全編に配した『ダークナイト』の最大の二面性はバットマンとジョーカーである。「自警」は必然的な暴力の裏返しだ。バットマンがいるからジョーカーも産まれた。表か裏か。イエスかノーか。
 表と裏、すなわち正義と悪の二元論でしか物語を紡げない合衆国において、『ダークナイト』はクライマックスのジョーカーの罠として、究極にして決定的な場面を設定する。(爆弾の)スイッチを押すか押さないか。
 この感動的なシーンで、クリストファー・ノーランは、まったく完璧な展開をとって、しかも民主主義の本質にまで手を伸ばす。何から何まで、いいところだらけの『ダークナイト』の中でも、際立って見事な着想をみることができる。

 帰宅早々で、深く突っ込んで書く気持ちの余裕がないが、とにかくあまりにもの傑作ぶりに絶句。


http://members.aol.com/Studyronhoward/chapter15.htm#_ednref2

2008/8/23

DVD『カラヤンの遺産〜ベルリン市750周年記念コンサート』  音楽

 DVD『カラヤンの遺産〜ベルリン市750周年記念コンサート』(SONY)を見る。
 カラヤン生誕100年はこういうDVDも非常に廉価で手に入るのが、ありがたい。今回私が入手した輸入盤なら、1000円札2枚出して十分おつりがくる値段なのだ。

 このDVDは、タイトル通りベルリン市の建都750周年を祝ったコンサートの記録。収録は1987年5月1日。ベルリンフィルハーモニーザール。カラヤン逝去のわずか2年前の最晩年。
 曲目は、モーツァルト『ディベルティメント第17番K334』とR・シュトラウス交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』。

 モーツァルトの美しさはもちろんだが、特にこのDVDに興味を持ったのは、『2001年宇宙の旅』の「あれ」を、カラヤンの棒はどう振るのか、一度見てみたかったからだ。
 だいたい、指揮者の棒さばきを、ある種の高度に洗練されたダンスと考える私は、最高のダンサーの1人であるカラヤンが、あのかっくいい「ツァラトゥストラ」でどう踊るのか興味津々だ。

 まず、両手をクロスし、腰の高さにかまえてセット。やがてその手が開くと、パイプオルガンの低音が響いてくる。指先がこれは老齢による震えなのか、それとも、団員にしかわからぬ微妙なサインなのか、わなないている。
 そしてトランペットのC−G−C。ここから先、カラヤンは意外なほど普通に正確に拍数を刻む。実にわかりやすい棒だ。
 そして全奏の2音のところは、手の甲を前に押し出すようにタイミングを指示。そしてまた極めて教科書的な拍子振りで、太鼓連打へ。

 かっこよすぎ。この1分数十秒を見れただけでも満足。そこから先はめくるめくシュトラウスの音の洪水が降り注ぐ。ソロ・ヴァイオリンは、必殺レオン・シュピーラー。トップサイドは日本の誇り、安永徹さんだ。
 至福の80分。毎度思うが、これを生で見て聴いている人が、この世にはいるのだ。


【連絡】
いつもお読みいただき、誠にありがとうございます。
夏休みによる不在のため、更新をお休みします。次回再開は8月29日(金)からです。またよろしくお願い致します。

2008/8/22

梁石日『闇の子供たち』  

 梁石日『闇の子供たち』(幻冬舎文庫)読了
 坂本順治による映画化と、扱う内容と重さは同じだが、人物構成はこの梁石日による原作の方がよりシンプルで一面的だ。

 映画で江口洋介が演じる新聞記者にあった暗黒は原作にはない。彼は明朗無垢なジャーナリストだ。宮崎あおいの理想主義も、原作ではずいぶん弱まっている。豊原功輔演じる記者も、出てはくるがほとんど出番はない。だから、映画ではついに相容れなかった、江口・豊原の現実主義と、宮崎の理想主義との鋭い対立はない。
 妻夫木聡のカメラマンも、出てくるがほとんど人格の書き込みはされていない。

 そうした意味では、坂本順次の映画版は、本書を元にかなりの書き込みを加えていて、より一層強い物語へと脚色することに成功していると改めて思った。
 梁石日の小説は、テーマこそ深く重く真摯だが、小説としては通俗の域を出ない。

 ここでまたしても、個人的なバンコックでの経験を書くのをお許しいただきたい。
 10年以上も前に、実は仕事でバンコックに滞在していたのだが、私の他にインドネシア人1名、香港人2名、オーストラリア人2名、フィリピン人1名、日本人=私1名という構成だった。(他、各国の女性もほぼ同数)

 初日。日中は真面目に働き、夕食の後「やあ、お疲れだね」とばかりに、ホテルのバーで一杯やっており(私は一切飲めないのでコーラ)、だいたい9時を少しまわったあたりで、その場にいた最後の女性が、「じゃ、私はそろそろ」と部屋に戻った直後に、誰からともなく「よし、行くか」と言った。間髪いれずに別の誰かが「よっしゃ」。
 てっきり私は場所を代えるか、お開きにするかという意味だと思ったのだが、そうではなく、「女だ、女」ということだった。マジなのか冗談なのかつかみあぐね、「バカ者、きみたちは結婚している身じゃないのかー」と、おどけた口調で言ってみた。
 すると、「バカだな、ナンバさん、バカだな。家庭を10キロ離れたらその男は独身なんだ」と軽くあしらわれ、「さあ行こう」ということになってしまった。空気がマジだ。

 確かに私だってセックスほど好きなことはこの世にないが、いわゆる「娼婦を買う」という行為はどうしてもダメだ。
 「い、いや、申し訳ない、ぼくはいかない」と固辞すると、わりと本気で顰蹙をかった。
 「何をいう。異国の地にきて、女を抱かずに夜を過ごす奴があるものか、さあ行くぞ!」
 「マジでゴメン。ぼくはこういう場所で女性を買えない。正直、ビョーキもこわい」
 といったやり取りの後、「しょーがないなあ。実に実にboringだ」などと言われつつ、ようやく許してもらえ、彼らだけで夜のバンコックの街に消えていった。

 翌日、まったく何事もなかったかのように、みんなで普通に働き、そうしたことは一切話題にも出なかった。そのことにかえって驚き、冗談めかして「ようよう、昨夜はどうだったんだよ」と聞こうと思っていたのだが、それもできなかった。
 その時ふと思ったが、昨夜最後に部屋に戻っていった女性は、こうしたことをすべてわかっていて、自分がいつまでもいると、男どもが困るからと、気を利かせたのではないか。

 その晩も、夕食まではみんなでとったが、その後は誘ってもらえず(というか、はっきりそのタイミングから無視された)彼らだけ、また夜のバンコックへと流れていった。
 彼らとのグローバル・チームワークを形成するうえで、何だか決定的なしくじりをやってしまったと感じたが、だからといって、そのためにタイ人の女性と、金で関係することは、私にはどうしてもできなかった。

 彼らがいったいどういう場所に行ったのか、セックスしそびれたという意味でなく、見聞しそびれたということに、ある意味で痛恨な思いもなくはないが、性についてのドロドロした闇は実態として確かにある。
 さすがに、『闇の子供たち』で描かれたような、幼児を買ったわけではなかろうが、まあ、ドルを持っている私たちだからこそ、バンコックの地で好き勝手なことができる。そして、日中はごく普通にビジネスマン(しかもいわゆるエリート)として働く彼らが、夜になるとまるで当然のように、女を買いに街に出る。
 もしかしたら、そんなの当たり前じゃんかと思われる向きはもあるかもしれないが、私自身はいささか暗い思いとして残っている。

 『闇の子供たち』に書かれている闇は、絶望的に深く広く重い。撲滅ができるとしたら、マフィアや国家の汚職を糾弾することでは全然なくて、金を持っている白人とアジア人、というか、「男」という生き物を抹殺するしか方法なんかないのだ。
 というと、映画『闇の子供たち』の江口・豊原と同じ側に立ってしまうのだが。この堂々めぐりからの突破は、やはり宮崎あおいの理想主義にしかないのかもしれない。
 目の前の1つの命を救う。その永遠の積み重ね。

 梁石日の原作は、理想を高らかに語りはしないが(そこに節度がある)、「それしかない」というヒロインの決意を明快に描いて、その直球ぶりにいっそ感銘を受ける。きっとそれしかないのだ。

2008/8/21

映画祭「フランス映画の秘法」  映画

 朝日新聞の映画がらみは、とにかく噴飯ものの記事ばかりだが、先日の山根貞男さんの『TOKYO!』といい、ときに本物の批評家に書かせるので、本物の文章ものる。

 今日は1面にわたって、蓮實御大が来月早々の日仏交流150周年記念の映画祭「フランス映画の秘法」について寄稿している。さすがに読み応えありすぎだ。
 冒頭からして、「フランス映画の歴史には、首都のすべての映画館が閉館となり、全土の撮影所が閉鎖されるという空白の一日が存在する。」とこうだ。
 その日がどんな日かは、ぜひとも本文を読むべきだが、なるほど、その日を境にフランス映画がどんな歴史を被っていくかを語って、「映画的」というには言葉が足りない。

 もっともその程度のことに今さら驚いていては身が持たない。さすがだなと思うのは、むしろ蓮實御大の判断の自由闊達さだ。御大が、この映画祭の目が眩むようなラインアップの中で、「個人的なお薦めは『肉屋』」だというのだ。

 さて、ここでラインアップを書いておく。オフュルス『マイエルリンクからサラエヴォへ』、ベッケル『最後の切り札』、ブレッソン『罪の天使たち』、グレミヨン『曳き船』、ギトリ『あなたの目になりたい』、レーナルト『最後の休暇』、メルヴィル『海の沈黙』、オータン・ララ『パリ横断』、ブリソー『野蛮な遊戯』、ピアラ『刑事物語』、ロメール『三重スパイ』、ドワイヨン『誰でもかまわない』、そしてシャブロル『肉屋』。うへ。

 「映画に目が眩」むというのは、まさにこのラインアップだろうが、しかし、このプログラムでシャブロルを一番推薦にするか。
 もちろんシャブロルが、他の映画作家に比べてどうのというわけでは決してないことを断っておきたいが、レア度とか歴史的重要度とかそんなのは、「映画」においては瑣末なことだ、そんな観点は性根の貧しさ、惨めさだと言わんばかりに、オフュルス、ブレッソン、ベッケル、ギトリでなく、『肉屋』というこの大胆さ。

 これを贅沢と言わず他になんだろうか。仮に私がこの作品群でお薦めを1本あげろといわれて、『肉屋』と断定するリッチな振る舞いができるだろうか。できるわけがない。だって、オフュルス『マイエルリンク・・・』があるだけで、驚天動地の大事件じゃないか。
 こんな判断こそ、人としての「豊かさ」であり「余裕」というものなのだ。絶対に。

2008/8/20

坂本龍一・編集長『ラブコト』  

 坂本龍一・編集長 月刊ソトコト9月号増刊『ラブコト』
 こういう雑誌まですみずみ目を通してしまうのも、我ながらどうかと思うが、以前に出た坂本龍一・編集長ソトコト別冊の『エロコト』の姉妹(?)雑誌。
 編集長によると、『エロコト』は「エロ急ぐあまり、内容が過激になり」「お叱りを受けた」んだそうだ。うーん、過激すぎるとはまったく思わなかったが、それ以前に内容的にあまり・・・。

 で、今回ももちろん、読者層は女性にセットされてるようだから、完全にターゲットを外しているとはいえ、どんなもんだか。
 というのは、たとえば「ヴェリィ」、「マリ・クレール」、「グリッター」各誌編集長と蝶々さんによる対談で、蝶々さんが「坂本龍一さんをはじめ、濃い男たちは、女性は色気というものをわかってないっておっしゃってますね。形ばっかり整えて、ガツンとくる女の子がいないって」
 いや、しかしこの雑誌それ自体が、「形ばっかり整え」ることに、ひと役かっているんじゃないかと思う。

 よくわからないのだが、「ラブコト」に限らないけど、世間的には恋をしたり、セックスしたりするのに、こうした本のひと押しや、景気づけとかが必要だったりするのだろうか。
 かつて80年代に、何となくだまされて買ってしまうものの、何の役にも立たなかった「ホットドッグ・プレス」のセックス特集とかと(そういえば今の「an an」にもセックス特集があるようだけど)、目的は変わらないといえば、まあそういうことなのか。
 編集長・坂本龍一という名前があるかないかの違いはあるとはいえ(大きな違いか)。それから「エコ」という能書きがあるかないかの違いと。

 有名・無名人を問わず1年中恋をしていて、その行為を実現できている・いないはともかく、ものごころついてから今に至るまで、1ミリも欲望の衰えを金輪際感じたことのない身として、こういう雑誌から得るものはあまりないなあと、編集長が言うところの「食はエコである。性はエコである。女性はエコである。エコな性、エコな食を取り戻そう」という、決してその言葉そのものを否定するわけではないけれど、その意味をもうひとつつかみあぐねている者としては、思うのだった。

 いや、そういう人間にとっては、雑誌の目的を果たしているわけで、おおいにけっこうということなのかな?

2008/8/19

平野啓一郎『顔のない裸体たち』  

 平野啓一郎『顔のない裸体たち』(新潮文庫)読了

 平凡を絵に書いたような女教師が、職務上の必要(?)から登録した、出会い系サイトにうっかりはまり、少しずつ転落していく物語。

 題意は、顔をぼかされてネット上に匿名でアップされた、無数の裸体のことを指す。主人公も自分の知らぬ間に、撮らせた自分の裸体がネットに上がっているのを発見。

 「裸体たち」と複数になっているのは、必ずしも主人公のことだけでなく、そうした写真の数々を指しているからか。そして、「たち」と人を表わす形にしているのは、人格など剥ぎ取られて、即物的な裸体だけがそこにあるように見えながら、それでもなお、そこに人格を見出そうとする作者の配慮だろうか。

 その答えはもちろん本文にあって、少なくとも主人公の女性は「人」としての存在感はきわめて希薄であり、その希薄さに作者は薄暗い悲劇への予感を見出そうとする。
 そして、自分の中に存在感≒感情(裸体+たち)を見出したときはもう遅く、後戻りできないところにまで来てしまっている。

 もう二度と取り返しのつかぬ人生の顛末を、作者の筆は残酷に描く。実際の事件でも、何かことがあったときにしばしば報道される、「あの人がまさか」という、その「まさか」の起源にこの小説は接近しようとしている。
 何しろ短い小説なので、そこまでは至らずに終わったと感じたが、作者の新刊にして長大な『決壊』(未読)はそこに迫っているのだろうか。

2008/8/18

鈴木敏夫『仕事道楽 スタジオジブリの現場』  

 鈴木敏夫『仕事道楽 スタジオジブリの現場』(岩波新書)読了

 ジブリプロデューサー・鈴木敏夫の「アニメージュ」立ち上げから、今に至るまでの逸話の数々。
 こういう人はしかし、ものごとを「勝ち」と「負け」でとらえるのが、やはり根本的な発想としてあるんだろうな、と感じる。

 アニメージュ時代の高畑勲や宮崎駿との交遊が始まった頃の日々。2人と付き合うために、彼らが読む本は全部読むとか、話したことはすべてメモして、その後、喫茶店でまとめて、家でまた正式にノートにして計3回書いたとか。
 大きな人と付き合うには大きなことをしなければならないんだなあと、つくづく驚くが、それについて鈴木敏夫は「そうでないと、この人には勝てない」(P.26)と書くわけだ。そして、この前後に「悔しい」という言葉を2度も使っている。
 また、あれこれ言いに来る宮崎駿に、鈴木敏夫は言い返すわけだが、それを聞くアシスタントが、「百戦百勝ですよ」と。ここでも勝率でものをみる。
 (その後にこのアシスタントは、「でも宮崎さんもすごい。鈴木さんにあれだけ負けながら、それをものともせずまた言いにくるのはすごい」(P.98)と続けたそうだが、本書では、それには大事な前提があり、2人とも忘れっぽく、特に宮崎は忘れる名人だから、安心して言いたいことを言い合っている、と結ぶ)
 制作現場や人間関係において、そのコミュニケーションを相手との勝敗でとらえることで、説得力の権化と化す。

 そのセンでいえば、徳間書店社長の徳間康快とのエピソードも面白い。
 徳間が製作した『おろしや国酔夢譚』は、『紅の豚』と公開が重なるとかで、それもそのはず、当時は徳間傘下のジブリにあって、社長が部下に対して公開をぶつけたというのだ。で、「勝負だな」(P.129)と言ったらしいのだから、徳間康快もまた勝敗の人である。

一方『ポニョ』を歌う藤岡藤巻が、いかに仕事ができない、ダメサラリーマンかを説明しつつ、そんな彼を「おもしろい」と感じ、『ポニョ』に抜擢する経緯を読むと、人間とは複雑なものだと思う。勝敗の人が勝敗の人に興味を示すわけでは、必ずしもないのである。

 宮崎駿の手塚治虫追悼文(『出発点』(徳間書店)所収)は、亡くなった人に悪口三昧を書く画期的な文章だが、そこで宮崎駿は、手塚作品がいかに悪いかを説明したうえで「これで手塚治虫とさよならできた」と書いた。
 鈴木敏夫なら同じ内容を、「これで手塚治虫に勝ったと思った」と書くのかもしれない。

 もちろん、いい悪いではなく、そういう人の力で力のある作品が生まれている。この方も、高畑・宮崎と並んでやはり興味の尽きぬ人物だと思ふ。

2008/8/17

『スタジオジブリ・レイアウト展』  美術

 今日は延々と地下鉄で東京都現代美術館へ。「スタジオジブリ・レイアウト展」。

 入場時間指定制がとられているのに、とんでもない入場者数で、ゆっくり見物するのに難儀する。
 「ナウシカ」以後の宮崎作品以外の全作品のレイアウトを1300点展示。感涙ものなのは、第2部の展示として、「ハイジ」、「母をたずねて三千里」、「コナン」、「ルパン」、「ホームズ」のそれをも含む。すごい。


 惜しむらくは『魔女の宅急便』の現存するレイアウトは1点のみとのことで、これだけ1枚だけの展示。だがその1点が、芝に寝そべって憂い顔のキキでこれがまた最高に美しく、この原寸大レプリカはショップで購入(\1050)。うれしい。
 もう1点、殺戮するアスベルの行動を見つめて、奥歯をギュッと噛み締めるナウシカのレイアウトもほしかったのだけど、財布が危機的状態なので我慢する。

 展示されているどのレイアウトも、超ウルトラ細密画ともいえる、こだわりぬいた描き込みで、その美しいタッチは神がかりだ。完璧な遠近法、人物の配置、細部まで考え抜かれたメカデザイン、草木の表情。何から何まで目を疑うほどに見事である。
 実際、鉛筆で描かれたこれらの画は、きちんとセル画で彩色されたカットに比べ、より生の「考え」が伝わってくるし、はっきりと構図の意図が見て取れるので、より一層「凄さ」が感じ取れるのだ。
 
 そんな中、それでもやっぱり『ナウシカ』と『ラピュタ』の絵は、威圧的なまでに突出して素晴らしい。これを見たら、宮崎駿の頂点のそのまた頂点は、やっぱりここにあったかと改めて思う。
 『ナウシカ』の復活シーンからエンドロールまでのレイアウトや、冒頭の腐海に遊ぶナウシカから、王蟲襲撃からのユパ様救出までなど見事に躍動的で、満員の人々の頭ごしに涙が止まらなくなり、「ナウシカ」と「ラピュタ」になるとパパはすぐに泣くからイヤだ、と娘がどっかに逃げてしまう。

 昨日はフェルメールとコローに感激したばかりだが、何のことはない。これら宮崎駿の画面構成はそんなものかるうく凌駕しているじゃないか。
 『紅の豚』ジーナの、見事なたたずまいを見せるレイアウト1枚とっても、さてこれに迫るだけの人物画を、フェルメールは果たして1枚でも描いたか。『ラピュタ』の森に匹敵する風景画を、コローは1枚でも残したか。

 今、東京都現代美術館に対抗しうる美術館は、世界中のどこに行ってもない。



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