2008/10/31

村治佳織の新譜を買い損ねる  音楽

 ようやく週末が来たので、今週出ているはずの村治佳織の新譜を買いに、行きつけのCDショップに駆け込む。この店では毎週金曜日はポイント2倍なのだ。
 が、どうしたことだ!? ない。売り切れ? まさか。
 店員に聞いてみる。「村治佳織の新譜が出ているはずじゃがのう」
 しかし、例によっていつものことだが、店員は村治佳織が誰かなんて知らない。どんなジャンルですか? とか言ってくる。
 いつだったかも、書店員が武満徹の名前を知らなかったものな。慣れっこである。
(あと、何年か前にコンビニで前売りを買おうと、『バットマン・ビギンズ』のチケットをくださいと言ったら、「コンサートかイベントのチケットですか?」とか言われたことがある。なんと、「ビギンズ」がわかんなくてもいいけど、「バットマン」を知らないのかと、さすがにそれには驚いた)

 話を戻すと、こいつに聞いたのが間違いだったと、クラシックの棚を整理している方の店員に、改めて問いただすと、「あっ、えーっと、全部出ちゃいました!」という返事だ。
 ガーン。この一週間、村治佳織だけを楽しみに生きてきたのに。

 今回はバッハに取り組んでるということもあって、いつも以上に楽しみにしていたのに、よもや売り切れだなんて考えもしなかった。きっと、クラシックだし入荷枚数も少なくて、不届きな連中が(私もだが)ジャケ買いしてなくなってしまったのだろう。

 それにしても今回の村治佳織も、女優とかアイドルでもないのに、その美人さたるや尋常じゃない。
http://www.universal-music.co.jp/classics/kaori_muraji/index.html
 これに匹敵する美人は日本では松たか子くらい?? と、いうことを先だって、ウーロン茶で酔っぱらいながらぼやきつつ(私は酒が飲めないから)、どうしても村治佳織と結婚したいんだとクダを巻いていたら、悪友Yが「ああ、村治佳織と松たか子はちょっと似てるよ。そういえば」と冷静に言い放ち、「あ、そうかも」と突然思い至ったりとかあれこれ。

 ああ、今晩、村治佳織のバッハを聴きそびれた哀しさから、ヘンな内容に・・・。

2008/10/30

『クローズド・ノート』  映画

行定勲『クローズド・ノート』
 DVDにて。それどころじゃないのに、貧乏性なので部屋にあったので見てしまう。

 それにしても竹内結子はお美しくて、これなら妻子など捨ててもよいと本気で思う。
 沢尻エリカもさすがに竹内結子には大きく劣るものの、あまりにもきれいで、これならすべて許されると思うが、これほど美人なのになぜに彼女はこの清純派路線を貫けなかったか。私の中にいまだ残る矢田亜希子ショックを、この映画のこの子の路線なら、癒してくれる可能性を秘めていたと思うのに。

 それはともかく、行定勲演出はどこか徹底しきれぬ岩井俊二じみてるというか。
 きっととにかく考えに考えてるんだろうと思う。カメラ位置とか全体の構図とか光源とかものの位置とかその他あれこれあれこれ。このこだわりには、やはり敬意を感じてしまう。すごく努力して精一杯作っているんだろうと思うので、どうしても拒否できない。ウソくさく散り続けている桜の花びらも、まあ野暮は言うまい。

 こういう美少女が、部屋に残された手紙なり日記なりを思いがけず発見して、そこに書かれた世界に入り込んでいく物語の場合、彼女の部屋は必ず2階にあって、窓が大きく開かれており、いつでもそこから爽やかな風が吹き込んでいるというセオリーにも忠実だし。
 一方、心を閉ざした相手役の男の部屋は、(なぜか)窓が閉ざされていて、けれどカーテンを揺らしておくために、意味不明に扇風機が回っており、それが微妙に男の心象風景を表現していたりとか。
 そういう大きなところではすごく考えぬかれていて、時間もかけているように感じるし、だから拒否できないんだけど、やっぱり好きになれないのは、ふつー人間はそういうことしないよ、という描写ばかりだし、ヘンなところがおろそかになっているからだ。

 出会いの場となる万年筆店での描写をはじめ、竹内結子の挿話のいちいちに至るまで全部。意味不明のシーンも多く、こういうのを見ていると、なんだか本質をつかんでないんじゃないかという気がしてくる。
 それに、風がこっちから吹いているのなら、紙飛行機はそっちには飛んでいかないだろうとか、竹内結子が破りとるノートの破れ目が、さっきまで沢尻が持ってたそれと、形が合わないという、誰の目にもわかるミスとか。そういう細部は絶対にきちんとしないと。
 それはそうとしても、見ても見ても終わる気配がなくて、いったいこの映画はいつ終わるんだろうと思っていたら、なんと136分! 長すぎる!

 どうしても悪口言う気になれないし、主演2人も体に毒なくらいきれいなんだけど、やっぱりなんか釈然としない。

2008/10/29

ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『対話』  

ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『対話』(江川隆男・増田靖彦 訳 河出書房新社)読了。
 プラトンの各著作が、いわゆる「対話篇」と言われるところからすると、なんだか身構えてしまうようなタイトルの本書だが、例によって理解できたなどと見栄は張るまい。本書を読んで何かが腑に落ちたわけでは、決してなかった。
 
 本書のように、つまるところよくわからないドゥルーズのテクストを読むとき、心がけようとするのは、いったい頭がどういう状態だったら、何もないところからこんな文章を書けてしまうのか、と常に問うことだ。
 そこに在る言葉を理解しようと、真正面から取り組んでも、何にも伝わってこない。何とかしようと思ったら、恐れ多くもこちらがドゥルーズになることだ。今読みつつある言葉は、すでにある言葉なのでなく、今自分が書きつつある言葉なのだと、自己暗示にかけること。コツがあるとしたらこれしかないと思う。
 それによって、読むことと書くことの両方のニューロンだかなんだかを攪拌する。ほんのいっとき、別の何かになることで自己生成を促す。
 ドゥルーズ読解の十分なトレーニングをしていない、私のような者にとって、道があるとしたらその絶え間ない錯覚の感覚しかない。

 本書が、ドゥルーズとパルネとの共著の形をとっているものの、第1章第1部にドゥルーズ、第2章にパルネのクレジットがある以外は、どの部分をどっちが書いたのかはわからない。これはもちろん、ガタリとの共著の場合も同じであるが、このように2人の手によるテクストが、分担がわからないほど一つに混じり合って在ること。
 「被」と「我」が溶け合い、一つになったそんなテクスト。それをもって「対話」と題された本書を、さらに自分がその筆者であるかのように誤解しつつ読むこと。そうした二重、三重の影のような混合物を自己内生成することで、この読書体験に何とか意味を与えようとする試み。
 そんな背伸びを許す点で、ドゥルーズは他の思想家と一線を画す。

2008/10/28

『P.S.アイラブユー』  映画

 リチャード・ラグラヴェネーズ『P.S.アイラブユー』
 日曜日の続き。一昨日長くなったので書きそびれたが、ものすごくいい作品だ。予告編の内容からは、うざそうだなぁと思っていたが、全然そんなことなかった。

 何がいいって、俳優が全員いい。なるほど、2度にわたるアカデミー主演賞受賞者というのは、これほどの実力かと思い知らされる、さすがのヒラリー・スワンク。
 相手役のジェラルド・バトラーもいい。ヒラリー・スワンクの親友役、リサ・クドローもジーナ・ガーションもいい。キャシー・ベイツに至っては、『タイタニック』を例外として、これまで最高の名演技ではないか。
 そして、たまに映画に出てくると、いつも見事な存在感を見せるハリー・コニック・Jr。この人、俳優に転身しろとは言わないが、もっともっと映画に出るべきだ。

 このキャストたちが一様にいいのは、皆やりすぎないことだ。
 若くして腫瘍で亡くなった夫を想って、失意の日々が続くところ、生前の夫が手配した手紙が届き続けるという、演出によっては10分で劇場脱出になりかねない、ベタベタの題材を見事に知的な印象にまとめあげている。
 ポイントは、笑いすぎない、泣きすぎない、怒りすぎない、落ち込みすぎない、はしゃぎすぎない、話しすぎない、セックスしすぎない、ということに尽きる。

 それがどれだけ難しいかは、すべてが中途半端だった『ブーリン家の姉妹』と比較するとはっきりする。そこで主人公を号泣させないのだったら、じゃあその代わりに何をさせるか、と、そこをしっかり考えているかどうかなのだ。
 言わずもがなのセリフをくどくど言わせたりはしないし、基本的に賢い登場人物ばかりなので、ここぞという決定的な一言でそのシーンは終え、次に進めていく手際のよさ。
 きちんとその場面にオチをつけるということだ。

 たとえば「いつまでもいなくなった夫を想ってめそめそするのはよせ」、とたしなめる母キャシー・ベイツ。「お前の父さんがいなくなったときは、私も辛かったのだ」と。
 娘ヒラリー・スワンクは「私の夫は父さんみたいに自分の意思でいなくなったんじゃない、病死なんだ」と反論する。一方キャシー・ベイツは「自分の意思でなかったら、私の気持ちはあなたよりラクだとでも思うのか」と対応。それ以上、一言もできない。そこで娘に逆ギレさせないのがいいところで、彼女は確かにそこで何かを学んだかのような表情を見せるのだ。
 これが「やりすぎない」ということだし、その表情に説得力があるのは、ヒラリー・スワンクに確かな演技力があるからだ。そして、そういう表情を導き、きちんとシーンの最後におさえておく演出の手腕だ。この映画は、こうしたところがとてもいい。

 すごくいい映画だったが、さすがに126分は長い。あと20分くらい短くできたら、もっと間延びせず、映画のレベルがもう数ランク上がったはずだ。それにしても傑作。

2008/10/27

ロン・ハワードがオバマ支持の面白新作発表!  映画

 ロン・ハワードが民主党員ということは知っていたので、必然的にオバマ支持だろう。
 しかし、ロン・ハワード研究者を辞任、もとい、自認する私にとってはもちろん、誰にとってもあっと驚く新作(?)が発表された。
 FunnyorDieという動画サイトにアップされた、“Ron Howard’s Call To Action”なるショートムーヴィーだ。
 http://www.funnyordie.com/videos/cc65ed650d

 撮影中のロン・ハワードが、こちらに向かって語りかける。
 「ちょっと撮影を休憩して、今までやったことのないことをするよ。来るべき選挙についてだ。」ってことで、歩き出しつつ「これはアメリカにとってとっても重要なことだ。何しろこれまでひどいことになっちゃったからね。ぼくらは変化のために投票しなくちゃいけない」とかいいつつ、なんと服を脱ぎ始めて、上半身裸になってしまう。

 で、「これは“本当の”変化なんだ」と言いながら、オバマ言うところの“Change”にひっかけて、ロン・ハワードときたら本当に「変化」をはじめる。「ぼくはバラク・オバマに投票するぞ」とか何とかいいながら、こともあろうに、ひげをきれいにそり落とし、鼻毛もきれいに刈って、かつらもかぶり、若返りメイクをほどこしてしまう。
 で、「こんなことはやったことがなかったんだが、これはアメリカ、きみのためなんだ」
 とか言って、釣竿と釣った鱒を両手に持つ。身をもって「変化」を示そうというのか!

 これはおそろしいことに、ロン・ハワード子役時代の『アンディ・グリフィス・ショー』の扮装である。で、画面はモノクロに反転。さらに驚くことには、アンディ・グリフィスその人が登場。舞台は森の中へ。
 おそらく『アンディ・グリフィス・ショー』でのしゃべりっぷりそのままのアクセントで、アンディ・グリフィスとロニー・ハワードが語り合う。
 「ヤバイってわかってるのに、どうして人は同じことをしたがるんだろうね?」「そうさな、人は時として変化をおそれるものなんだよ」「うーん、鱒釣をするのに餌を変えたら、釣れなくなっちゃうとかそういうのと同じかな」「まあ、そんなもんだね」「でもぼくはオバマに入れるよ」とかなんとか、そんな会話を。

 再び、画面はトレイラーに戻って、現在のロン・ハワードへ。メイク担当が残酷にもかつらをとりはずし、少年ロニー・ハワードから、ハゲ頭のロン・ハワードへ。
 ふたたび、別のかつらをつけると、またまた画面は一点。60年代アメリカへ。
 今度の扮装はロン・ハワード少年子役時代の『ハッピー・デイズ』の主役である。「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が流れる中、さらに驚くことには『ハッピー・デイズ』の共演者、ヘンリー・ウィンクラーが登場。

 「おい、宿題やったか」とかそういう、たわいのない会話からはじまって、「にしても、チェイニーとブッシュに政権をわたしたのは迂闊だった。おれは・・・おれは・・・Woooooo」という、意味不明の呟きをヘンリー・ウィンクラーがぼやく。どーも、彼はブッシュに投票したという設定っぽい。
 「まあいい、次は正しいことをやればいいんだ」ってことで、ロニー・ハワードの方が女の子とのデートの話をはじめるが、一番の笑いどころは、ヘンリー・ウィンクラーが「オレのともだちの女の子がアラスカ出身だというんだ」するとロン・ハワード「・・・つまりその子はムース(moose)を撃つってことか!?」「お・・・おい、そうじゃないだろう。たぶん彼女は・・・ちょっとだらしない(loose)ってことだと思うぞ」
 といったオチで、共和党副大統領候補サラ・ペイリンを二重にからかう。

 で、もう一度現実のロン・ハワードに戻って、「アンディもヘンリーもぼくもアメリカを愛している。だから正しいことをしよう。5分でいい。選挙人登録をして、オバマに投票するんだ」と結ぶ。

 コメディ監督、ロン・ハワードの面目躍如。
 『フロスト/ニクソン』に先立つ、見事な新作コメディである。爆笑!

(※)上記ダイジェストはかなり勝手な私の意訳ですので、百聞は一見にしかず。本編をぜひご覧下さい。

2008/10/26

『ブーリン家の姉妹』  映画

ジャスティン・チャドウィック『ブーリン家の姉妹』
 半ば眠りながら見ていたのだが、エンドクレジットを眺めていて、やおら目が醒める。
 アナ・トレントが出てる! 男子が生まれないからといって、ないがしろにされ、ナタリー・ポートマン演じるところのアン・ブーリンの策略で追放される、ヘンリー8世の薄幸の正妻、キャサリン・オブ・アラゴンを演じていたのが彼女だったようだ。
 アナ・トレントが誰かなんて紹介は不要だよね? とにかく驚いた。
 ヘンリー8世との結婚を無効にするための宗教裁判に赴く彼女の威厳は、さすがにただごとでなく、ナタリー・ポートマンやスカーレット・ヨハンセンごとき、目を合わせることもかなわぬド迫力を見せたが、あのおばさん女優が、まさかアナ・トレントだったとは!

 映画は、このヘンリー8世をめぐって野望をしかける、演じるアン(ナタリー・ポートマン)と、その妹メアリー(スカーレット・ヨハンセン)との確執であるわけだが、当然この物語は、ジョルジュ・ドルリューの音楽があまりにすばらしい、『1000日のアン』(1970)でも描かれたことは、劇場パンフ所収の聡明なエッセイで、秦早穂子さんもさりげなく示されている通りだ。
 だから、ポール・カンテロンによるこの映画の音楽が(いささか曲調が画面に合ってない気もするが、とてもいい)、完全にドルリューの楽想を思わせることは、偶然でないはずだ。

 で、そのアンがヘンリー8世との間で生んだ娘が、後のエリザベス1世として、さらにドラマチックな生涯を送ることは、ケイト・ウィンスレットか、ケイト・ベッキンセールか、ケイト・ハドソンか、ケイト・キャプショーか思い出せないが、とにかくケイトなんとかさんが演じた2本の『エリザベス』だ。

 そう考えると、とても興味深い内容の映画のはずだ。けれど、この監督はどこか中途半端なところがある。そのセリフや行動に対しては、相手の反応まで見せないことには、画面が緊迫しないはずなのに、「反応」を描くことへの「逃げ」があちこちにある。
 そして、前述のようにジョルジュ・ドルリューを忘れていないことからも、確かにいろんな映画を勉強してきたんだろうな、と思わされるが、そうした引用もどこか中途半端で、ムルナウ、ドライヤー、ブレッソンが参照元かな、と思える箇所がいくつかあるし、ときどきフェルメールまで飛び出してくる。が、いろいろ追いついていないことが多すぎるので、全部すべっているような感じだ。

 端的に言って、粘りがたりない。たとえがヘンだが、やりすぎてミロス・フォアマンになっちゃうのを恐れてるというか・・・。いいセン行ってるものの、頭で思っていることが、十分なアウトプットに至らなかった、という感想を持つ。

2008/10/25

『崖の上のポニョ』に見る3つの色  映画

 来月早々、今年も茨城大学にお呼び頂いており、そろそろ講義原稿の準備をはじめる。
 例によって、テーマは「宮崎駿」だけど、日中はものを考えられないので、映画に繰り出すが、どうしても新作を観る気分になれなくて、前夜に徹夜で原稿を書いていたノリも手伝って、結局『崖の上のポニョ』を観てしまう。
 朝、9時40分の回ってこともあり、さすがに場内ガラガラ。3組の小さな子どもづれだけで、ほとんど劇場を我が物顔で占領する。
 そして、思う存分号泣。4回目? 5回目? 忘れたけど、7月は場内もぎっしりで、そんな中ひとりでポニョを見ている中年男性が、肩震わせて泣いてたら単にキモイ。ので、唇噛み締めて涙こらえたが、今回は遠慮なく全身で嗚咽させていただく。

 そんなことはともかく、今年は学生さんにどんな話をしようかな、とつらつら考えつつ、『ポニョ』に泣きながら何となく構想が固まった。
 11月の講義の予告になっちゃうけど、毎年、『風の谷のナウシカ』のしかるべき画面を見ていただきながら、『ナウシカ』はブルーの映画だ、というお話はしている。
 続いて『天空の城ラピュタ』を対比させて、こちらはグリーンの映画であると。そして、『魔女の宅急便』を示しつつ、ここではついにブルーとグリーンが、見事に調和するようになっていて、宮崎駿の映画は「青」と「緑」のせめぎ合いなのだ、と解説。
 そして、『千と千尋の神隠し』はその完成形で、たとえば画面の対角線にそって1本線を引き、上をブルー、下をグリーン(あるいはその逆)に作れば、あっという間に宮崎駿的な画面になるのですと。なぜ「青」と「緑」かは、ここでは触れない。

 問題はここから先。そのブルーとグリーンがせめぎ合う画面に、初めて別の色である、ピンク〜赤が登場するのが、『ハウルの動く城』の「あの場面」だ。そして、その揺れ動く「赤(ピンク)」が、ソフィーとハウルという、恋する2人の心模様を指し示すかのようで、なるほど、これは確かに宮崎駿初めての本格的なラブストーリーだというわけだ。

 そして、『崖の上のポニョ』のすごさは、これをさらにダイナミックな映像スペクタクルで描いたことにある。
ここでは「まっ赤っ赤の」「魚の子」である「ポニョ」が、宗介の「」のバケツを目印に、「青い海からやって来」る。
 ブルーとグリーン、そしてレッドが渦巻く中、たとえ5歳といえ、2人の男女が抱きしめあう。これはだから『ハウル』以上に、ドラマチックなラブストーリーであることがわかる。そして、その3色が対立する何かでなく、調和するものとして示されるというわけだ。であるからこそ、『ポニョ』は見事なハッピーエンドが必然となる。
 よし、決まった。これで行こ!

2008/10/24

モリー・リングウォルドの体型  映画

 30年もスターとして、しかるべきステイタスを維持するのは難しい。ましてや女優だったら。その意味で、ジョディ・フォスターやダイアン・レイン、フランスならソフィー・マルソーなんかは、ものすごいと思う。
 少し前に、ロザンナ・アークェットが撮った『デブラ・ウィンガーを探して』というドキュメントがあった。いつの間にかデブラ・ウィンガーを映画で見かけなくなったが、どうしてるんだろうか、という興味から彼女を探そうとする作品で、いろんな女優たちが女優と「女性」を両立させることのあれこれを語り合うという、まあ面白い映画だった。

 でも、その映画に出てきた大半が、今ではほとんどスクリーンで見かけなくなった女優たち(たとえばアリー・シーディとかマーサ・プリンプトンとか)で、定期的に姿を見る女優というのは、ごくわずか―それこそダイアン・レインくらい―だったと記憶する。
 シャロン・ストーンやローラ・ダーンも出てきたが、彼女らも実質的に、もうたまにしか姿を見ない部類に入れてよいだろう。ダリル・ハンナやメラニー・グリフィスも。
 あとは、せいぜいグウィネス・パルトロウやホリー・ハンターか。フランセス・マクダーモンドはしょっちゅう見るが、彼女は美人とかそういうのとは、何の関係もないので無視。

 見かけなくなったといえば、私なんかは真っ先にモリー・リングウォルドが、頭にうかぶ。
 80年代のジョン・ヒューズ青春映画のヒロインだが、ジョン・ヒューズがこともあろうに、『ホーム・アローン』などという悪魔に魂を売って、全世界のシネフィルをがっかりさせたのとほぼ同時に姿を消した。
 決して美人と思ったことはないが『すてきな片思い』、『ブレックファスト・クラブ』、『プリティ・イン・ピンク』の素晴らしさは永遠不滅だろう。『ゴダールのリア王』にも出てたけど。

 そのモリー・リングウォルドが、カリフォルニア州の同性婚を禁じる法案、「住民条項8」に反対するプロモーションビデオに登場したとeiga.comは伝えており、さっそくそれをYou Tubeで閲覧する。
http://jp.youtube.com/watch?v=mUlQPnUUGU0
 彼女を最後にスクリーンで観たのは、『想い出のジュエル』(1989)という青春映画の残滓のような残念作だったが、このビデオでは老けたとか、美人じゃなくたったとか、そういうことではなく、言われてもこの人がモリーその人だとは、とにかくまったくわからない。
 ギリギリ痕跡をとどめているのは、そのハキハキとした、切れ味のいい彼女の英語の発音くらいだろうか。
 かつて、それなりに思い入れを寄せた女優をしばらくぶりに見るのは、残酷なことだ。『プリティ・イン・ピンク』のDVDでも眺めて毒を消さねば。

2008/10/23

吉田秀和と映画の中の音楽と  映画

 それにしても今年の東京国際映画祭はどうしたことか。
 あっちでもこっちでも、ホセ・ルイス・ゲリン『シルビアのいる街で』と、イエジー・スコリモフスキ『アンナと過ごした4日間』について、ほとんど熱狂的とも言える興奮と絶賛の嵐が巻き起こっている。
 なるべく映画祭のニュースには触れないようにしているのに、これではたまらない。いったい良き社会人として皆さん、どうやってこれらを見ておられるのだろうか?
 なんだか、「映画」の潮流に完全に乗りそびれた感があるが、まあ東京以外にお住まいの方はもっと忸怩たる思いだろうから贅沢は言うまい。しかし悔しい。

 それはともかく、昨日クレーメルについて、批判がましいことを書いた罰だろうか。朝日朝刊に時々掲載される吉田秀和老師の「音楽展望」で、クレーメルに触れられていた。
 老師の磨きぬかれた文章に、朝っぱらから酔いしれるが、今朝のテーマは何と「映画」だった。もちろん老師のことだから、『イーグル・アイ』とかのことを語るわけでなく、映画の中で奏でられた音楽のことが中心だ。

 それにしても、老師は若い頃はよく映画に行ったとのことで、それ自体は普通なんだが、満員の新宿武蔵野館、二階通路の階段に腰を下ろし、中原中也と『嘆きの天使』を見ただなんて話を読まされると、ため息がでる。
 想像してみるといい。若き吉田秀和と中原中也が、劇場通路に並んで座り込み、ディートリッヒの脚に見とれている姿を。なんたる贅沢な風景だろうか。

 古き映画に流れた、さまざまな音楽について筆を転がした末、最近、老師はビデオで『無伴奏「シャコンヌ」』(1994)を見たと書く。
 この作品は、女流監督シャルリー・ヴァン・ダムの作品。ヴァン・ダムといっても、『ダブル・インパクト』とかのアクション・スターとは無関係。もちろん。
 東京での封切は、まさに20日に『シルビアのいる街で』を上映したル・シネマだった。

 私自身はさしたる好印象を残さずに見て、ほとんど忘れかけていた作品だが、
「あるヴァイオリニストがシャコンヌを弾いているうち、音楽が研ぎ澄まされるにつれ、次第に常人のセンスからはずれてゆく」
 などといった、どこがどうとは言い難いが、老師のダイジェストに、なんだか大変な映画だったのではないかという気がしてくる。
 映画を講談のように語ったのが淀川長治なら、さしずめ老師は映画を詩のように語るといったところか。

 映画の中では、やがてそのヴァイオリニストは、楽器を取り上げられ、演奏することかなわなくなる。そのシーンは老師の言葉を借りるとこうだ。
 「でも、「楽器がなくとも弾ける」と思い直し、宙に手をかざして、シャコンヌを弾き出す彼。」
 そこで響き渡る音楽について、
 「その間、ずっと鳴り響いているシャコンヌは比類なく見事なものだが、これはギドン・クレーメルの演奏だそうで、無理もない。それなら、あと何もなくとも、いつまでも耳を傾けていられる。」
 
 この後、老師の文章はシャコンヌを巡って、さらに彩り豊かな表現をしたためるが、まずはここまでで、私は映画『無伴奏「シャコンヌ」』について深く反省する。私自身はかつてあのシーンを、迂闊にも「愚かなり」と思ったのだった。
 こんなものはオーバーセンチメンタリズムであり、「画」があってそこにオフから音楽を轟かせれば、勝手に涙は出てくる。『ニュー・シネマ・パラダイス』と同じ手法の安っぽさだ、と断じたのだ。

 そうではなく、ここでは耳をすませることこそが重要だったのだと、今さら教えられる。「比類なく見事なクレーメルの演奏」に対して鈍感になると、封切時の私みたいな、勇み足のすぎる傲慢な感想を持ってしまう。これは、今後も十分に気をつけなければ。

 大変な戒めを受けた思いである。これはまさにクレーメルをおろそかにした罰だ。
 しかし朝刊に老師のこの文章は、あまりにも濃密すぎるよ・・・。

2008/10/22

ブーレーズによるバルトーク  音楽

 ピエール・ブーレーズ指揮による新譜、バルトークの協奏曲集(DG)を聴く。
 収録は「2台のピアノ、打楽器と管弦楽のための協奏曲」、「ヴァイオリンと管弦楽のための協奏曲第一番」、「ヴィオラのための協奏曲」の3曲。
 
 オケは「2ピアノ+打楽器」がロンドン響、他の2曲がベルリンフィル。
 独奏は、ヴァイオリンがクレーメルで、ヴィオラはバシュメット。ピアノはタマラ・ステファノヴィッチ & 近年私のお気に入りピエール=ロラン・エマール。
 ブーレーズ人脈として最強メンバーをそろえたというところだろうか。

 この3曲はオーケストレーションが比較的薄味なので、ブーレーズ必殺の、超高解像アンサンブルはいくらか息をひそめている。
 けれど、「ピアノ+打楽器協奏曲」で、ときどき後ろの方からじわっと襲いかかる管弦楽の響きに、バルトークの色彩感が発揮される。ピアノと打楽器が戯れる中、あちらこちらに、色が滲んでは消えていく。
 オケがややふわっとした感じなのに対して、ピアノと打楽器はきわめてシャープに、音の粒が際立っていてとても気持ちがいい。このへんの対比にブーレーズの計算力を感じて、ほれぼれする。

 クレーメルのヴァイオリンは何だか線が細くて、あまり快楽を感じない。この人の演奏は、なんだかアシュケナージのピアノを思わせる退屈さを感じるようになってきた。
 それより、ユーリ・バシュメットによるヴィオラの、いくぶんユーモアさえ感じさせられるリズム感覚に聴きいってしまう。
 このヴィオラ協奏曲は、バルトーク晩年の未完曲で、その友人ティボール・シェルイにより補筆完成されたもの。作曲者の当時の境遇としては、かなりしんどい生活をしていたはずで、その反動か、モーツァルト的・・・といったら形容が紋切り型にすぎるが、それに近い輝きを感じ取ってしまう。バルトークが没するのは1945年9月。第二次大戦真っ只中だ。
 
 しかしバルトークの中のモーツァルト性? ブーレーズのほぼ同時に出た新譜は、ブーレーズ初のモーツァルト(「グラン・パルティータ」)だが、それはさすがに無関係か。
 ともあれ、これにてブーレーズによる主要バルトーク管弦楽作品、録音完了だそうである。



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