2008/11/30

『かけひきは、恋のはじまり』  映画

ジョージ・クルーニー『かけひきは、恋のはじまり』

 おそらく魅力的な人物を演じることにかけて、今や自分が世界一だと信じているに違いなく、実際その通りであるジョージ・クルーニーが、自分の監督作として古きよきアメリカを舞台にスクリューボール・コメディをやりたがるのは、過去の監督作『コンフェッション』、『グッドナイト&グッドラック』といった趣味からも自明だった。

 結果としては、健闘するも最後のタッチダウンで失敗、というところだろうか。
 クライマックスのフットボール試合で、「ヨーク軍曹」作戦なんて小癪な名前の策を使ったり、登場人物の1人がマックス・スタイナーだなんて名前だったり、楽しい細部は数あれど、本気でスクリューボールをやるには、シナリオにダイアログが少なすぎる。無責任さが足りなすぎる(良くも悪くもマジメすぎる)。

 そして、肝心のジョージ・クルーニー本人が立派過ぎる。ケイリー・グラントに匹敵するエレガンスは、あるいは持っているかもしれないが、ケイリー・グラント並みの頼りなさが決定的に欠けている。本来的には相手役のレネ・ゼルウィガーには敗北し続けるべきなのに、クルーニー圧勝である。ヒロインに対して勝って負ける、または負けて勝つ、という技に至っていない。無論、そんなものはケイリー・グラントやハーバート・マーシャルといった人々にのみ可能な魔法なのかもしれないが、しかしクルーニーなら彼らに近づけるでしょう?
 だからどうしても最終的には、普通のロマンス・コメディになってしまう。映画を観終えて、幸福感は満たされるのだが、観ている間の無条件な哄笑には欠ける。

 ところでここでも、前監督作品同様にマスコミへの皮肉な視点を忘れていない。「ジョージ・クルーニー監督作品」のキーワードとして、ここはひょっとして面白いテーマになり得るかも。

2008/11/29

「ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情」展  美術

 「ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情」展
 於 国立西洋美術館(上野)

 展覧会のチラシなどを見ると、デンマークの巨匠カール・テオ・ドライヤーに少なからぬ影響を与えたように書かれており、実際ポスターにもなった作品を見ると、イメージとしてはよく理解できるので、見物は必至。来週(12/7)が最終のはずだからあわてて見に行く。

 結論からいうと、ハンマースホイの画面そのものからドライヤーを連想させるものは、ほとんど感じ取ることはできなかった。根本的なところで、ドライヤーに「無人」の空間というものはない。そういう意味では、直接的に引力圏内にありそうなのは、むしろベルイマンとアントニオーニだろう。わかりやすすぎるけど。
 もしドライヤーとハンマースホイに、それでも共通点を探そうとするならば、対象と向かい合うスタンスであるような気がする。人間そのもの以上に、彼らをとりまく環境そのものがまるごと生命の存在を保障するということ。
 その意味で言えば『吸血鬼』が、その灰色を基調とするトーンとあいまって、最もハンマースホイとの近親性を感じさせる作品だろうか。(主人公が訪れる宿屋のあらゆる調度品に何かが備わっているような気配。また、ハンマースホイの3本脚の椅子、壁から突き出たように見えるピアノ、バラバラな方角に伸びる光源的にはあり得ない椅子の脚の影といった超常性も、どこか吸血鬼的ではある)

 こうなると「映画」を参照として鑑賞するのは、ほどほどにしようと思い、思考を「美術」にセットし直す。
 こういうのを「リリシズム」というのだろうか、高揚感がほとばしるものでなく、神秘な宇宙を作品内に凛々しく封じ込めた精神性。
 ハンマースホイのよく見える目は、人間の肉体のそのまた奥にある、精神的な何かを見てしまうのではないだろうか。
 場内の解説パネルによると、ハンマースホイは注文による肖像画を残していないらしい。なぜなら肖像画を書くには、その人物をよく知らねばならないからだと。
 無論、肖像画というのはすべからくそういうものだろうが、ハンマースホイは特別その思いが強かったということか。

 たとえ無人の風景や建造物を描いても、言われなければわからないような痕跡として、開いている窓や民家を描きこみ、どこかに「人の気配」が入り込む。けれどそこに肉体がない以上、自ずとその存在感は霊的なものにならざるを得ない。
 霊的といえば、実際に人物(後姿)を描く場合も、その服の輪郭が壁の色に溶け込んでしまったり、女性(妻)の足元が椅子のそれと溶け合い、あたかもひとつになってしまっているようなイメージ。すなわち、人物は粒子化し、部屋や環境に混じりこんでいく。

 ハンマースホイはたぶん、人間の体そのものが表出するものは、あまりに多すぎるので、絵を見る者はその引力圏に引っ張られすぎると考えていたのではないか。特に目。
 また、衣装も視線を引き付けすぎるものだろう。たとえば、なまじレースつきの華麗なドレスを着た肖像なら、レース表現の絵画的技巧に目をこらされてしまうのを潔しとしなかったのではないか。かくして妻の姿は、いつも修道女のような、シンプル極まりない服装となる。
 ハンマースホイにあって、人物とはそこに「いない」のでなく、「目には見えないがそこにいる」というものであり、そんな「気配」を描くことに精魂込めたのでないかと感じる。

2008/11/28

ASIANTAIPEI  ノンセクション

 ここ最近、まったく勉強してなくて本気でヤバイんだけど、今日は調布駅にあるASIANTAIPEIというレストランで、仲間6人と食事をする。

 ここは知ってる人にとっては常識なのだろうが、ひし美ゆり子さんの経営されているお店。ひし美さんは、念のために書いておくとウルトラセブンのアンヌ隊員。私にとっては加えて、『新仁義なき戦い 組長の首』とかも。

 お店のことは前から知っていたが来るのは初めて。予約を入れてくれた幹事に、ひし美さんがお店にいらっしゃるかは、あらかじめ確認しておけと指令を発したところ、「いついるのかは私らにもわかんないんですー」と言われたそうで、目の前にアンヌがいたらどうしようと内心ドキドキしていたのだが、25日付けのひし美さんのブログで
http://blog.goo.ne.jp/anneinfi/
「ではでは8日間のイタリアの旅、行って来ま〜〜〜す!!」
とあって、夢も希望も打ち砕かれたのだった。

 それはともかく、お店は「ひし美ゆり子」も「アンヌ隊員」も「ウルトラセブン」も何も見せていない、本当に純粋なレストランだった。あらかじめ知っていなければ、ちょいと感じのいい普通のアジアン料理店。
 
 そんなわけで、今日の会合のテーマは「ウルトラマン」シリーズの話以外は一切してはいけないというもの。ここで言うウルトラシリーズとは、「帰ってきたウルトラマン」までを指す。「ウルトラマンA」以後は認めるわけにいかないので、口に出すの禁止というルールである(ただし南夕子の話題は少し出てしまう)。

 と言うわけでいろいろと議論した結果、ベストエピソードはやはり実相寺演出の極北ともいうべき『狙われた街』(セブン)に決まり。これはしかし疑問の余地なく圧倒的だろう。なお、語られるべき問題作として、『怪獣使いと少年』(新マン)もしくは『ノンマルトの使者』(セブン)という提案も。
 なお個人的に、子ども心にこの話はいったいどうなってしまうんだろうと心底恐怖したのは、『バルンガ』(Q)だったりする。
 
 ベストデザインはメトロン星人(セブン)とユートム(セブン)に意見が分かれるが、私がいきなりブルトン(マン)を提案して、勝手にそれをベスト造形に決める。(個人的にはアンノン(セブン)も)方向性としては、ツインテール(新マン)とグドン(新マン)を推す声も出る。予想外だったがベムスター(新マン)についても熱い意見が集中した。
 なお、個人的な思い入れとしては、アンヌの私室に侵入した唯一の宇宙人、ペガッサ星人に忘れられぬ気持ちがある。

 というわけで、バカバカしい話を深夜まで。

2008/11/27

紀伊国屋サザンシアター 「蓮實重彦の映画論講義 特別編」  映画

 蓮實重彦『映画論講義』刊行記念「蓮實重彦の映画論講義 特別編」
 於 紀伊国屋サザンシアター

 19時からだったわけだが、のっぴきならぬ事件が起こって、とうとう45分も遅刻してしまう。こういう重要なイベントを平日に行うのは、是非やめていただきたい。
 『ウェルカム・トゥ・サンパウロ』をめぐって行われる、吉田喜重監督と岡田茉莉子さん参加のティーチインも、昨日行われたはずだ。当然ながら参加できず、何とも痛恨である。

 45分も遅れるとほぼ半分を聞き逃したことになるので、完全にリズムに乗り損ねたし、いつものような要約とコメントのないまぜになったレポートは慎もうと思う。
 講義後に配布された上映作品の資料に記された、今日の講義テーマを備忘のためにも以下に記すことで代えることにする。

 タイトル「映画 あるいは類似の罠」
「映画は何ものかに似ることでかろうじてみずからを形成せしめる脆弱な表象形式である。被写体との類似はいうまでもなく、題材、人物、風景、キャメラアングル、編集、等々がそこでは類似が無限に増殖する。それが見る者を惹きつける映画の魅力であり、同時に映画の危険さでもある。であ、増殖する類似を、どのように処理すればよいか。映画自身が思わぬ類似を引き寄せようとするとき、類似への完成をどのように研ぎすませばよいのか。その時、差異はどのように機能するのか。具体的な作品の細部を手がかりにして考えてみる。」
 といったわけで、講義を聞けたのは後半だけだったが、今さらながらのすさまじいシネマの記憶装置ぶりに舌を巻く。

 1点だけ記録しておく。講義の最後のところ。
 「映画はリメイクでないと似ないのか。いや、リメイクでなくても似てしまう」
 という宣言とともに提示されたのは、ソクーロフの新作『チェチェンへ アレクサンドラの旅』だった。
 これは戦場のド真ん中に孫を訪ねて祖母が行くという内容なのだそうだが(その祖母を演じるのがガリーナ・ヴィシネフスカヤ。驚くなかれ、ロストロポーヴィッチ夫人だぞ!)、戦火の孫(息子)を祖母(母)が訪ねる映画が他にあるかというと、1点ある。
 ジョン・フォード『リオ・グランデの砦』だ。しかし、ソクーロフはきっと言うだろう、そんな汚らわしい、自分はいかなる映画も参考にしてなどいないと。
 なるほど確かに戦場の孫(息子)を祖母(母)が訪れるという作品は、映画史には他に存在しない。あれば是非教えていただきたいのだが、ソクーロフが否定したにせよ、それでも似てしまうことがあるという、この映画の罠!などと熱く語りまくる御大。

ということで御大は、『チェチェンヘ』の予告編を最後にご覧いただくと述べ、「拍手は私へではなく、ソクーロフ監督に願います」と締めくくる。
 ところが会場の一部から、予告編の始まる前に拍手が起こってしまい、声はマイクに拾われなかったといえ「いや・・・いやいや・・・」と御大、本気で当惑したところで、ソクーロフ新作のトレイラー上映で幕。

 講義は最初から聞けなくて非常に悔しかったが、その後、映画研究家・大久保清朗さんとコーヒーをすすりながら、初めてゆっくり映画談義に花を咲かせる。やっぱ頭のいい人ってこうなんだろうなぁと感じつつ、お話拝聴一方でがっかりさせてしまったんじゃないかと不安だが、とても楽しいひとときである以上に、大久保さんが実に実に熱い映画野郎(失礼!)だった! というところに超感激。ご多忙中、お時間感謝なのだ。

2008/11/26

『七夜待』,『X-ファイル:真実を求めて』  映画

 週末に観た映画の続き。
 河瀬直美『七夜待』
 またぞろこんなことを書くと、反発する方もあるだろうし、間違って製作側の方が読んだら怒りさえかうだろうが、それにしたってこの映画に長谷川京子の「」以外のものを見ることは不可能だろう。

 とにかく、この映画はただひたすらに長谷川京子のに尽きる。全編そっちに目が釘付け。
 登場した段階では薄い白のカーディガンみたいのをはおっており、それでも胸のふくらみが強烈に目立つが、数分後にタイの空気に「あーーっ、暑い!」とばかりにそれを脱ぐと、そこまで見せていいのか! とばかりのタンクトップに、くっきりとその形まで露わになって、あとは胸にしか目がいかない
 何しろ、カメラに写ってしまった通りすがりの現地の老人が、「うっひょー!」という目で、立ちすくんでしまっているのだ。無理もない。あんなのが目の前を歩いて来たらそりゃあすごかろう。
 また、タクシーの後部に荷物を詰め込むときも、その胸が揺れる! 弾む! そういう意味でなら必見。

 前作『殯の森』も、思いがけず見せてくれたヒロインの胸を、とてもラッキーに思ったけれど、河瀬直美は女優の胸を見せることで、男の劣情を刺激する作家なのか!?
 というのはただの皮肉で、『殯の森』があまりにもひどい映画以前の何かであった以上に、『七夜待』はさらにさらにひどいPVみたいな何か。にしても、この作者は人のあり方というものを、根本的にとらえ損ねているんじゃないか。

 とはいっても、コンビニ雑誌によくある「アノ女優の痴態!」とかの「お宝映像」のネタとして、扱われまくると思うので、そういう意味で商品価値超高。
 意味不明に泥沼で転ぶ場面もあるんだけど、そのときスカートが湿って、はいてるパンティ(黒)がくっきりと見えてしまうところがまたおいおいおいおい。しかもTバック

 ところでカメラは何と何と、ゴダール、ドワイヨン、ガレル、シャブロルのカメラマン、カロリーヌ・シャンプティエってことで、またびっくり仰天なのだ。
 このカメラマンにしてあの長谷川京子ありってことなのかな・・・。こうでもなけりゃ、この映画はとてもじゃないがお客様に観せられないっていう、カメラマンの絶妙な判断か。
 (何しろ、長谷川京子は3度ほど淫夢を見るのだけど、そのうち1回は脚の脛の毛穴のひとつひとつまでが見えていて、ここもまたすっごいのだ)

クリス・カーター『X-ファイル:真実を求めて』
 私の中で『X-ファイル』はもう完結しているので、今さら映画版が作られる理由はあったんだろうか、それ以前に観る価値はあるんだろうか、というのが最大の懐疑だった。どうせ「謎」なんて解けないんだろうし。
 けれど、製作された以上は付き合う他ない。レイトショーで私以外に誰もいない、ほぼ貸切の劇場でスカリーとモルダーに久々に再会。

 いつも困って迷ってくたびれていたスカリーは、今はもっと疲れ果てている。今はFBIをやめ、本来の医師としての道を歩んでいる。
 しかし、カトリック系の病院に勤めている因果で、治療法に禁忌も多く、思う治療がままならない。それが今の彼女が抱える最大のストレスだ。とにかくスカリーの信念は「目の前の命を救う」というその一点である。

 一方、モルダーは数年の間何があったか、ひきこもっている。あれこれあって、またまたスカリーとモルダーは、超常現象的な事件にのりだす羽目になるが、どこか噛み合わない。前から噛み合わなかったといえ、その噛み合わせの悪さが『X-ファイル』というTVシリーズの見所の一つだったが、今回は一層深刻である。なぜなら彼らに後がないからだ。
 しかも、医師としてのスカリーは自分が主治医を務める、不治の少年の治療に専念したいという事情もある。けれどモルダーの情熱は、「どこかで失われつつある命を未然に救う」いささか漠然としたことにあり(その点、スカリーは結果としての死に対してあきらめがいい。逆にモルダーはまだ時間に余裕のある命に対してはやや無頓着だ)、そのコンビネーションの悪さが最後までついてまわる。

 たぶん、永遠に噛み合わぬ2人の資質の違いから、物語は深刻の度合いを増すが、この作品は「映画」である必然性は必ずしもなかったにせよ、とても深いテーマを持っている。
 (スカリーの教義上は)禁断の幹移植技術をめぐって、極悪非道をくりかえす今回の犯罪者。それを追うモルダー(いやいや付き合うスカリー)。けれど、その治療技術をこそ今のスカリーが求めているものだという矛盾。
 その矛盾を解決できないが故にスカリーは、さらに迷い、傷つき、くたびれる。しかも癒しというか、希望がない。気の毒になってくるが、そんな複雑な思いの捜査官=医師を演じるジリアン・アンダーソンの生真面目な取り組みに、たいへんな感動を覚える。

 生命倫理、というよりはスカリーの内なる敵(味方)と外なる敵(味方)との折り合いをどうつけるかという葛藤のドラマとして、この『X-ファイル:真実を求めて』は、フィナーレとしての華やかさには欠けるかもしれないが、おおいに考えるべき、見応えある作品になったと思う。焦点ははっきりとスカリーに当たっている。

2008/11/25

『ブロードウェイ♪ブロードウェイ コーラスラインにかける夢』  映画

 ジェームズ・D・スターン/アダム・デル・デオ『ブロードウェイ♪ブロードウェイ コーラスラインにかける夢』

 毎度個人的なことで恐縮だが、1987年夏休み、大学3年生の私は、ブロードウェイのシューベルト劇場で、オリジナル『コーラスライン』を観劇することができた。つくづくラッキーだったと思う。
 ただ、初めてのニューヨーク、初めてのブロードウェイ。その最初の晩、震える思いの『コーラスライン』だったのだけど(しかも信じがたいことに前から2列目)、実は正直言うと、「あれえ、こんなもんなのかなぁ?」という感想を持ったのだった。

 『コーラスライン』初演は1975年。そこから12年が経ち、ひょっとしたら劇としての鮮度が失われ、くたびれていたのかもしれない。(確かその時点で、ギネスブックの最長ロングラン記録だったと思う)または、毎日の貧乏旅行で自分の方がくたびれていたか(NYに辿りつく前に、マーサズ・ヴィニヤード(『ジョーズ』ロケ地)〜ボストン〜フィラデルフィア〜ワシントンDCと巡っていた)。実際、疲労がたたって翌日発熱した。
 ともあれ、歌唱にもダンスにもさほど圧倒されなかったのだ。たぶん巡り合わせが悪かったんだろう。とはいえ、生の『コーラスライン』を見ている現実に酔って号泣したが。

 そこからさらに時が経ち、2006年には『コーラスライン』もリバイバルされる時代になった。時代が一巡りしたんだなという思いで、そのリバイバル版『コーラスライン』のオーディションを追ったドキュメンタリーである本作を、いろいろな思いで観る。
 こういう作品は映画版(1985)と合わせて、どうしてもノスタルジーが入るので、正しい判断ができないのが弱いところだ。

 オーディションの記録だから、後に合格する者、落ちる者が登場する。最終選考とかになると、もはや私なんかの素人目には全員すごすぎ。優劣などわからないが、その分、ひとつの役ひとつの歌を、各々の候補者がどう表現するか、比較しながら見ることができてとても面白い。
 ただ上映時間の都合もあるだろうが、どのナンバーも細切れなので、最終的にどんなパフォーマンスになっているかを見られないのが、いささか歯がゆい。(どの曲も素晴らしいのでどうしても全曲聴きたくなるし)
 エンドクレジットでようやく、作曲家マーヴィン・ハムリッシュの威力が噴出する、最も魅力的なナンバーのひとつ“Kiss the Day Goodbye”をフルコーラス聴けるのだが、音声だけで、実際のパフォーマンをで見ることができないのも、少し残念。
 オリジナルの内容、曲をある程度把握していないと、見続けるのがちょっとつらいかも。

 個人的に「なるほど」と思ったのは、演出家ザック(映画ではマイケル・ダグラス)の元カノで仕事がほしいと、オーディションに来るキャシーの鏡の前のソロのくだりについて。
 この華麗なダンスシーンは、初演時のキャシー役ドナ・マケクニー(マイケル・ベネットと結婚していたこともある)の才能が前提となって用意されたとのことだが、彼女が言う。
 自分の演技のすべてが露わになり、磨かれるのは鏡の前だ。観客や喝采でではない。
 なるほど、キャシーの炸裂するダンスは、映画版も劇場オリジナルも鏡の前で行われるのだが、「自分が暴かれる」という、現実の役者感覚にのっとってのことだったのか。
 また、『コーラスライン』という舞台そのものも、ほとんど鏡の前で演じられるが、自分自身をさらし、個人に肉薄することでドラマが進む内容そのものに、関わっていたということで、それは気がついていなかった。

 ところで、かつて私が映画版『コーラスライン』の何に一番感激したかというと、劇中でオーディションに参加する若者たちが持参する自己ポートレートのどれもが、自分の最高の笑顔を写していた、ということだった。
 それも当然で、自分を精一杯アピールしなければいけないのだから、そのエントリー写真は、彼女/彼の最高の笑顔であるはずだ。それにしてもその1枚1枚が、見事なスマイルで、そこにとにかく感涙させられた。

 そしてこのドキュメンタリーでは、ほぼ1年にもわたる過酷なオーディションの果てについに「役」をつかむ。その決まったときの彼女/彼の歓喜の表情は、そうしたスマイルをさらに上回る究極の笑顔で、このへんは涙なしに画面を見ることができない。
 やっぱりアメリカのショービジネスは最高だ。

 日曜の最終回。上映館のル・シネマは1000円均一とはいえ、場内ほぼ満員。そこかしこからすすり泣きの声も聞こえてきて、幸せな場内の雰囲気。これこそ至福。

2008/11/24

『リダクテッド 真実の価値』  映画

 昨日はかなり本数を稼げたので続き。ブライアン・デ・パルマ『リダクテッド 真実の価値』

 コッポラの個人映画への転身といい、デ・パルマのこの低予算作品といい、その充実ぶりには目を見張る。これはデ・パルマのキャリアでもぶっちぎり最高傑作だろう。
 イラク戦争における米兵による14歳のイラク人少女、レイプ殺人事件を題材にした、擬似ドキュメンタリー。
 USC映画学科への入学を夢見るヒスパニック系兵士が、入学のための売りになると、映像による戦場日誌なる撮影を行うという設定で、その映像を中心としたつくりになっている。

 無名の俳優ばかりを使っているが、「無名」にしてこの迫真の演技。そのリアルさたるやハンパでなく、ダルデンヌ兄弟や河瀬直美みたいな、ウソっぱちな擬似ドキュメンタリー作りをしている連中は、この映画を100回観てから出直すべきだと言いたい。
 当初は気楽な検問所の任務に軽口ばかり叩いていた部隊だが、検問所を無理に突破しようとした車に発砲。妊婦を殺してしまうあたりから、兵士の間に狂気が忍び寄る。
 ゴミ袋にしかけられた簡易爆弾に上官を吹き飛ばされるという事件が、それに追い討ちをかける。

 映画は、イラクの民間人らしき人物が、夜闇に乗じてこっそりと検問所近くに爆発物をしかける模様が、ネット上にアップされた映像として示す。
 デ・パルマは、この映画に描かれたような映像は、すべてネットで見ることができると言う。「リダクテッド」=編集済みというタイトルに込めた意味は、このイラク戦争はすべて政府によって管理され、統制された報道しかなされていないという主張だとのことだ。
 それはベトナムで終わったのでなく、今なおそうだったと。

 この映画でひときわ考えさせられる映像は、イラクからの帰還兵の1人が、フィアンセとの結婚が決まり、友人同士での婚礼パーティを行うシーンで示される。
 友人の誰かが冷やかすように言う。戦場での話をしてくれよ! それに対して帰還兵は、本気で聞きたいか? と返す。友人たちは熱い武勇談を聞けるものと盛り上がる。
 帰還兵は、アフガン駐留では正しいことをしていると思ったと言う。「いいぞ!」と喝采する友人たち。けれどイラクはそうじゃなかった。そこにはいかなる正義もなかったと述べ始め、次第に泣きじゃくり始める。彼はレイプ事件を止められなかったのだ。
 場は完全に思わぬ空気になってしまい、取り繕いようがなくなる。誰かが苦し紛れに「ヒーローに拍手だ!」と言って、なんとか場をやりすごす。
 一般の米国民の間に、「現実」がどのように共有されているのかを、これほど明晰に教えてくれた場面はない。

 今年見るべき映画という意味で、これ以上の作品はないかもしれない。デ・パルマが、持てる才気を最良の形で、最良のテーマで出せた記念碑的な作品だと思った。

2008/11/23

東京フィルメックス 『ウェルカム・トゥ・サンパウロ』  映画

 吉田喜重 他18名『ウェルカム・トゥ・サンパウロ』
 第9回東京フィルメックス特別招待作品 於 朝日ホール

 吉田喜重ほか、フィリップ・ノイス、アモス・ギタイ、ツァイ・ミンリャン、ミカ・カウリスマキほか、18名の映画作家がサンパウロという都市を撮ったオムニバス・ドキュメンタリー。サンパウロ映画祭での委嘱作品。
 サンパウロという都市に対して格別な興味と思い入れがなければ、やや散漫な印象を感じるものの、さすがに南半球最大の大人口都市であり、人種も多岐にわたって、見せる切り口には事欠かない。

 さすがというべきは、やはり吉田喜重『ウェイトレス』だ。
 日本料理店に勤める日系3世の女性に、岡田茉莉子さんがインタビューを試みるものだ。切り口としては、100年前、コーヒー栽培のためにブラジルにやってきた、最初の日本人移民についてである。その移民の末裔に、日本人のもうひとつの歴史を見出そうとするのが、吉田監督の試みだ。
 いつの間に地球の裏側に? かえすがえすも国際人としてのお2人のフットワークには驚嘆する。

 茉莉子さんがインタビューする女性は、サンパウロ生まれの日系三世。大山さんという。いくらか表情は固いながら、ときどき笑顔を浮かべつつ、第二次世界大戦時には祖父たちは、日本語弾圧など厳しい差別を受けたはずであることを告白する。
 彼女の祖父がブラジルに来たのは戦前のこと。戦争が終わっても帰国できなくなり、そのまま永住することになったそうだ。
 戦争中は自由だったのだろうかという茉莉子さんの質問に対し、「そうではない」と答え、軍が家の中に入ってきて勝手に調べるなど、ずいぶんひどい目にあった。特に、日本語は固く禁じられていたので、2世としてあまりポルトガル語が話せなかった母は、かなり辛かったはずだと証言する。
 茉莉子さんも、(大山さんよりも年上であるし)戦争は知っている世代であるし、自分の母がどれだけ苦労したろうかということはとてもよくわかると、互いの共感が進む。

 そして茉莉子さんの、戦後は差別もずいぶんなくなったのだろうと思うが、それはブラジル人の日本人への考えが改まったのだろうか、あるいはその逆だろうかという問いについて、「日本人が溶け込もうとしたのだと思う」と答える。
 ここに日本人の同化の力が垣間見えるように思った。

 大山さんのブラジルの印象は、とても暖かく、いろんな人と話せて差別がないことだという。その一方で日本人は「片意地に見える」という。どこかかたくなな。
 特にビジネスの人は、挨拶も返してくれないなど、態度が違うのだそうだ。その一方で、観光客はとても優しいともいうのだが。

 大山さんは、流暢な日本語を話すが、読むことはあまりできず、書くのは自分の名前だけなのだそうだ。しかし、立派に日系の歴史を継承している。ここに吉田監督が掘り起こそうとする、日本人の語られざる歴史がある。
 茉莉子さんは大山さんに聞く。「幸福でいらっしゃいますか?」それに対し、ためらわずに答えが返ってくる。「ええ、とても幸せ」と。思わず手を叩く茉莉子さん。
 「それが人間にとって、一番大事なことですから。すばらしいです」という印象的な茉莉子さんの言葉でしめくくられる。
 基本的には両者の切り返しの連続で作られるショットの集積は、茉莉子さんはバストショット中心なのに対して、大山さんはほとんどの場合、顔の大写し。そのようにして語り手から何かを引き出そうとする。

 吉田喜重編のほかにも、平日は通勤の人波で喧騒になるであろう町の朝の、のんきで人通りもほとんどない情景を静かに描いた、ミカ・カリウスマキ『日曜の朝』が面白い。
 あるいは、男娼や娼婦に取材したアッシュ『希望』、刻々と時間帯が変わる中で、表情も変わっていくハイウェイの様子を、ダニエラ・トマスが描いた『オデッセイ』を興味深く観る。(上映に先立って、ダニエラ・トマス監督と、本編プロデューサーのレオン・カーコフの舞台挨拶があった)

 エンドクレジットでは、サンパウロの都市のスチールが様々に示されるが、ラストショットは吉田監督が、「40年後もまた見たい」と語ったというジャカランタの紫の花。
 細かいことだが、参加した映画作家への敬意を感じることのできる、暖かい配慮だと思った。

 なお併映はジャ・ジャンクーの19分の短編『河の上の愛情』
 学生時代の友人4人(女2名、男2名)が恩師の何かで再会。それぞれ別の人と結ばれてはいるが、それぞれに失われていない恋心を描いて胸しめつけられる、見事な短編になっている。感涙。

 もう1本が、マノエル・デ・オルヴェイラの7分の短編『可視から不可視へ』
 ひどく哲学的で深遠そうなタイトルだが、とてもコミックな短編。サンパウロの大通りでばったり出会った旧友2人が、積もる話に口を開こうとするたびに、互いの携帯電話が鳴って邪魔される。業を煮やした2人は、相手に電話をかけて目の前にいるというのに、携帯電話を通じてようやく他人に邪魔されず、おおいに語り合うというものだ。

 以上、充実しまくりの上映作品。ところでロビーで上映開始を待っていると、目の前をやたらに賢そうな顔をして、只者じゃないオーラを発散させまくりながら、キリキリと通り過ぎていく映画作家がひとり。黒沢清監督だった。この方を劇場で見かけるのは珍しい。

2008/11/22

『1408号室』,『センター・オブ・ジ・アース』  映画

ミカエル・ハレストローム『1408号室』
 スティーブン・キング原作。『幸運の25セント硬貨』(新潮文庫)所収の短編。
 “キング”ものにしては、ひどくヨーロピアンなスタッフが集まった。スウェーデン人監督のほか、撮影ブノワ・ドゥローム、音楽ガブリエル・ヤレドなど。
 そのせいか、画面に独特の暗さ・重さが漂って見事にこわい。かなりの傑作。

 心霊現象が起こるホテルの部屋をルポするホラー作家ジョン・キューザック。ドルフィン・ホテルの1408号室がヤバそうだという情報(?)を入手し、取材のために宿泊予約を入れ、チェックインしようとしたら、その部屋にだけは泊まってくれるなとホテル支配人サミュエル・L・ジャクソン。その忠告を無視して宿泊したところ、精神と肉体の両面から徹底的に痛めつけられ、かつ部屋からも脱出できず、部屋と人との命を賭けての戦いに。

 これはしかしものすごい技術力だなと感じたのが、何か超常現象が起こって、その起こった先に主人公があれこれ視線を走らせるものの、そこには誰も「いない」、あるいは何も「ない」ということを示す周到なカット割り。

 それは怖い! と思ったのが、窓から見える隣のビルの部屋の人物に、助けを求めようとこちらから叫ぶがどうも様子がおかしい。向かいの部屋の人物がまるで自分と同じ動きをする。手をふったり頭を動かしたりしてみるが、向こうもまったく同じように動く。向かいのビルの窓に見える人物は自分の鏡なのか? といぶかしんでいると、向かいの人物の背後から襲いかかる怪人! ということはこちらも!? とあわてて振り返るジョン・キューザック、そのとき・・・! といったシーン。この手前と向こうの切り返しの妙にうなる。

 今年のナンバーワン編集賞を授与したいものすごい一品。ほぼ全編にわたって1人芝居を続けるジョン・キューザックも、これは相当にやりがいのあった作品では。

エリック・ブレヴィグ『センター・オブ・ジ・アース』(3D)
『幸せの1ページ』がいいなと思わされた、ジェニファー・フラケット/マーク・レヴィンがここでは脚本のみ担当。
 『幸せの1ページ』同様、命にかかわる道先案内を鳥がやってくれる。このあたり、フラケット/レヴィンは間違いなく宮崎駿に影響されていることを改めて確信させられる。
 
 だからといって、この作品はほめられたものではない。すべてが行き当たりばったりで、何かが後に生きてくるという伏線がまるでない。
 地底旅行の前に、冒険を共にする少年が「これなんだ?」と、ヨーヨーを取り出しまわしてみる(3Dの効果を出すため、こちら側に向けて飛んでくる)。「ヨーヨーは科学の粋がこらされている」とブレンダン・フレイザー。
 いかにも楽しげに回してみせるので、これはきっと後の地底冒険のどこかで、絶体絶命のピンチを脱するためにヨーヨーが活躍するに違いないと思って見ていると、その場限りだった。以下すべてそう。
 私はゲームをやらないのでわからないのだが、ひょっとしたらロールプレイングゲームってこういうのなんだろうかと思う。ゲームのキャラが、目的地に向けていろいろ課題をクリアしながら次のステージへ進んでいく、というような。

 確かに一難去ってまた一難と、次々と主人公たちに試練が与えられるが、一本大きな物語の軸がないので、どうにもしまらない。3D映画の効果を出すためだけに、構図も物語も委ねられているので、どこか物欲しげだ。ゼメキス『ベオウルフ』ほどの才覚は無論のこと、望むべくもない。

 ヒロインのアニタ・ブリエムはものすごくかわいいので許せる。冒険が進んで重装備の彼女がノースリーブの薄着になっていくのも、実にOK。
 それにしても、ブレンダン・フレイザーはまたしても大学教授の探検家。トロッコアクションもあって、この人は一生ハリソン・フォードのパロディで食っていくんだろうな。

2008/11/21

エレーヌ・グリモーのバッハ  音楽

 美女によるバッハ第2弾(と、勝手にシリーズ化するが)。エレーヌ・グリモー『バッハ・トランスクライブド』(DG)を聴く。

 ちょっと想像を超えたアルバムで度肝を抜かれる。そりゃグリモーはあり得ないくらい美人なので、基本的に全部聴いてるっていうか、持ってるっていうか、とにかく好きなんだけど、これほど驚いたことはなかった。
 もともとラフマニノフとか、皇帝とか骨太な演奏をする人ではあったのだが(ブーレーズと組んでバルトークまでやっている)、ここでのバッハがまたすごい。鍵盤も砕けよと叩きぬくかと思うと、優雅に柔らかく音をつむぎ上げる。けれども、喜怒哀楽が激しく暑苦しい、悪い意味でのロマン派的な演奏でなく、あくまでも感情の正しい表出として必要時にはしっかりと爆発し、歌うべきところは歌いに歌って、ときには癒しまくる。
いや、ものすごい聴き応えだ。

 冒頭は、私の大好きな平均律1巻からハ短調のプレリュードとフーガ。この曲は、グールドのあの“Cool!”としか言いようのない演奏で決まり! と思っていたのだが、こんな演奏をされてはたまらない。グリモーの容姿を抜きにして虚心坦懐に聴いても、いや、そんなところを触られては困るではないか、とうめかずにいられぬくすぐったい演奏で、最初から陥落されてしまう。

 とにかく贅沢なアルバムで、続いては同じく平均律1巻から嬰ハ短調。そして、おなじみのニ短調のチェンバロ(ピアノ)協奏曲BWV1052。続いてまたソロに戻って、平均律2巻のニ短調。で、これがすごいのだが、ブゾーニ編曲による無伴奏バイオリンのパルティータからシャコンヌ! めくるめく超絶技巧にアレンジを施されたシャコンヌが、ピアノの特性を生かしまくった、ぶ厚く重厚で複雑さを極めるアレンジで息も絶え絶え。

 このシャコンヌで、もう肌寒いというのに汗ばんでくるところ、また平均律2巻からイ短調。で、次のクライマックス、リスト編曲のオルガンのためのプレリュードとフーガイ短調BWV543。
 ここまでやられて、もう勘弁してください。あなたのすごさはようくわかりましたから、と平身低頭するこちらの気持ちを察してか、ようやく初めてのメジャーキーとなる、平均律2巻からホ長調。
 で、ほっとしたのも束の間、今度はラフマニノフ編曲の無伴奏ヴァイオリンのパルティータからホ長調のプレリュード。
 
 収録時間、実に実に76分3秒。なんだかジェームズ・キャメロンかなんかの超大作を観た後のような疲労と満足感。最高。



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