2008/12/31

Farewell to 2008  ノンセクション

 今日で2008年もおしまい。今年も、いろいろ励ましてくださった方、お世話してくださった方、助けてくださった方、お導きくださった方、皆様のおかげで1年間、無事に過ごすことができました。

今年の5大ニュースは
@『ロン・ハワード論』完成。http://foodpia.geocities.jp/howardthemovie/
A アンネ・ゾフィー・ムターになんとサインをもらってしまう(握手はなしだった)。
B「フランス映画の秘法」のロビーで、ジャック・ドワイヨンを目の前で見てしまう。
C 12/20付、朝日新聞「文化」欄に掲載された、『ベルリン・天使の詩』の行列に並ぶ観客たちの写真に、たぶん私と思われる好青年が写っていた。
D 私がメルアドと、ブログと、HPのために契約しているAOLが、ブログとHPのサービスを停止。その引越しに莫大な時間と手間がかかる。

 来年もよい年でありますよう。
 1年間お読みくださった皆様、いつも本当にありがとうございます。どうぞよい年をお迎えください。

2008/12/30

2008年映画ベスト10  映画

 楽しいので、今年も2008年のベスト10を選出。順不同。
お前の「順不同」は絶対にウソだ。あからさまに1位から順だ、と毎年言われるけれど、本当です。順不同です。

『崖の上のポニョ』(宮崎駿)
『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』(スティーブン・スピルバーグ)
『トウキョウソナタ』(黒沢清)
『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』(P・T・アンダーソン)
『接吻』(万田敏邦)
『コロッサル・ユース』(ペドロ・コスタ)
『ランボー/最後の戦場』(シルヴェスター・スタローン)
『チェチェンへ アレクサンドラの旅』(アレクサンドル・ソクーロフ)
『ウォーリー』(アンドリュー・スタントン)
『ダークナイト』(クリストファー・ノーラン)
『パリ、恋人たちの二日間』(ジュリー・デルピー)

 あれ? 11本? 数え違い? ともあれ、今年はかなり収穫の多い年だったと思う。
 ほとんど迷わなかったというか、今年のベスト10は見る前から決まっていたというか、その期待は見た後も修正の必要がなかった、というのもよかった。
 通例、日本映画は1本と決めているが今年は3本。けれど、この3本なら致し方なし。『闇の子供たち』(坂本順治)、『人のセックスを笑うな』(井口奈己)、『アキレスと亀』(北野武)も、入れたいのはやまやまだけど、6本は入れられない。

  実は一昨日までは『ウォーリー』でなく、『魔法にかけられて』(ケヴィン・リマ)を入れるつもりだった。でも、あれほどのものを見せられてしまうと、変更はやむなし。

 『パリ、恋人たちの二日間』は微妙に迷った。『アイム・ノット・ゼア』(トッド・ヘインズ)を入れるべきだということも分かってる。でも、ジュリー・デルピーを自分の記録に残すことを選択。
 『コッポラの胡蝶の夢』(フランシス・コッポラ)と『リダクテッド』(ブライアン・デ・パルマ)が漏れるのは本来あり得ない。けれど、どちらか一方のみだけを選べなかった。入れるなら2本ともだし、そうすると10本では足りなかった
 他、『その土曜日、7時58分』(シドニー・ルメット)にも未練。

 『三重スパイ』(エリック・ロメール)と『誰でもかまわない』(ジャック・ドワイヨン)は、特別上映の機会だったので選外に。
 
 さて2009年もイーストウッド2本に、ロメール新作と、ロン・ハワードの少なくとも1本は、既に確定している上、年末にはジェームズ・キャメロンがそびえている。どれも期待を裏切られることは100%あり得ないので、既に5本が確定。かなりの確率で『ワルキューレ』も入ってくるだろうし、来年はどうなることやら。

2008/12/29

『ウォーリー』  映画

 アンドリュー・スタントン『ウォーリー』
 今年も残り少なくなってきた。家族全員で『ウォーリー』へ。
 家族の評価は、あまり芳しくなかった。私ひとりで号泣してしまい、「ふつー、映画見て泣くか?」とかふざけたことを言われる。バカかお前らは。ふつー、映画を観ると泣くんだよ!

 純白の女性ロボット、イブには足がない。だから移動にあたっては、地球だろうが宇宙だろうが、飛ぶ、というよりは泳ぐように進んでいく。
 一方、イブに対して切ない恋心を抱くウォーリーは、移動手段としてはもっとも鈍重な、キャタピラを持っている。せめてR2-D2のように車輪があれば、もっと機敏に動けて、C-3POと並んで歩いたようにもできるのだろうが、そんなわけで、なかなか2人の動きはかみあわない。
 ここで、「足がほしい」とウォーリーは願うはずだが、そもそもイブには足がない。イブとウォーリーが結ばれないのは、下半身が決定的に違うからだ。決して性的な意味でなく、下半身が違うと男女は結ばれることはできないのだ。

 そんな彼らが、ついに同等の移動手段を伴うのが宇宙空間だった。宇宙船外を背景に繰り広げられる、2台のロボットの宇宙デートにはやられた。こういうシーンには、どうにもこうにも胸締め付けられて、今こうして書いていても涙が出てくる。
 ウォーリーの「足」であるキャタピラは宇宙空間では無効だ。その代わり、移動の推進力として使うのが、消火器の「泡」なのだ。
 ここで思い出すべきは「人魚姫」で、人魚姫は「泡」となることで、王子へのはかない思いを果たすのだったが、ウォーリーとイブは、『リトル・マーメイド』(ディズニー)から『崖の上のポニョ』(ジブリ)を経由し、『スプラッシュ』(タッチストーン)をも包含して、愛情を育んでいく。
 『ウォーリー』(ピクサー)は、かなり複雑な「人魚姫」のバリエーションでもある。

 娘(小6)が、「地球にゴミが増えすぎたから、地球を捨てて人間が宇宙に行ってしまうという発想はいけないと思う。地球に残ってそのゴミをどうすべきかということを考えないと」という、読書感想文なら100点をもらえそうなことを言い出す。
 これが公立小中学校の、環境教育の成果かと、基本ラインは同意しつつも、しかしやっぱり映画をそう考えてはいけない。人間というのはどこまでも愚かなんだから、常に間違える。けれど、人間の根本的な本能として、植物を求める気持ちがあって、そこに人間が目覚めていく過程をぜひ見ないとね。お前に、「ミドリ」と名づけたのは、そうした希望をこめてのことなんだ。と、わけのわからない説明をして、「はあ?」と言われる。

 なお、ウォーリーがイブに『ハロー・ドーリー』を見せるシーンは、あまりにもかったるくて、これがDVDなら思いっきり早送りするところだと、家族中から非難される。勘弁しろよ、オレが作った映画ではない。しかし、人類のミュージカル離れはそれほどまでに深刻化している。
 家に戻ってから、ウォーリーが大好きなのはこれだよと、『ハロー・ドーリー』のDVDをワンシーンだけ見せるつもり満々だったが断念する。

 恋する気持ち=手をつないでみたい、という気持ちをロボットに託して、これほど瑞々しく描いた作品はちょっとない。ウォーリーがイブの気をひこうと、自分のお気に入りのあれこれを見せるシーンと、記憶を失ったウォーリーを回復させるために、イブがそれを必死に反復するシーンとの対比は、忘れがたい美しさだ。

 また、2度ほど交わされるウォーリーとイブの微笑みには、コナンとジムシーの出会い、コナンとラナの再会、ハイジとペーターの出会い、マルコとフィオリーナの再会、ナウシカとアスベルの出会い、メイとトトロの出会い、ポニョ(人間)と宗介の再会の、以上全部を想起させるという恐るべき総合が実現されている。

 今年の映画はこれでおしまい。しめくくりが『ウォーリー』でとっても幸せだった。家族からは散々な言われようだったが、私ひとりは満足だったのでこれでいいのだ。

2008/12/28

『ファニーゲームU.S.A』,『チェチェンへ アレクサンドラの旅』  映画

ミヒャエル・ハネケ『ファニーゲームU.S.A.』
 子どもの頃、いちばんイージーでくだらない替え歌の作り方で、何でもかんでもさかさまにして歌うということをやったことはないだろうか?
 たとえば、『巨人の星』の替え歌なら、
 「思いこんだら、試練の道を〜/行かないのが、女の、ど根性〜/真っ赤に燃えない 王者のしるし、巨人の星を離すまで〜」
 といったような。ともあれ、何の工夫もなく、普通の反対を反対をやるという、面白くもおかしくもない作業、という例だ。

 ハネケが1997年に撮ったオリジナル『ファニーゲーム』は、まさにそういう映画だった。普通だったら、ここでこう助かるという、観客の期待とか、映画のセオリーの、ことごとく逆さまをやるというだけのことで、なるほど確かにある種のショックはもたらすが、別段面白くもおかしくもない作品だったと思う。その後の、『ピアニスト』や『隠された記憶』の方が、はるかに独創的で優れているだろう。

 で、今度の『ファニーゲームU.S.A.』は驚いたことに、(たぶん)寸分の狂いなく、俳優と言語だけ英語に変えての撮り直しで、10年前のオリジナルとまったく同じ。
 理屈をつけようと思えばつけられる。時代も国も変わることなく現存する、暴力の真実と醜さを観客に突きつけるとか何とかかんとか、紋切り型も甚だしい、映画とは無縁のそうした言質。
 でも暴力を描くというのは、そういうことではないんだと、そもそもイーストウッドが30年以上かけて訴え続けているはずなのだが。
 
 ナオミ・ワッツとティム・ロスが、さすがにぐっとくる演技をするので、見応えはあるが、けれど作り方としては幼稚だと思う。シナリオにしても、この状態でそういうリアクションは、そもそもヘンじゃないか? というところ満載。
 なお、にこやかな殺し屋2人組が、奥さんに服を脱ぐことを命じるが、オリジナル『ファニーゲーム』の奥さんは、どうということもないおばさんだったのに対し、『U.S.A.』の方はナオミ・ワッツなので、全編中ここだけ手に汗握る。
 ちなみにオリジナルもUS版も、裸体はフレーム外なので見ることはできない。念のため。

 ハネケのやっていることがすごいとすれば、この映画を製作する資金を集めることができてしまうということ。(何と製作はナオミ・ワッツ。『イースタン・プロミス』といい、この人大丈夫か?)
 
 アレクサンドル・ソクーロフ『チェチェンへ アレクサンドラの旅』 
 期待にたがわぬ、屈指の傑作。
 「足が痛い」。なるほど、アレクサンドラ=ガリーナ・ヴィシネフスカヤは、風と砂の吹きすさぶ中、荒野を歩きに歩く。冒頭に、ソプラノ歌手としてのヴィシネフスカヤの録音がちらりと聞けたりもするが、やがて音楽はゲルギエフの演奏による、アンドレイ・シグレの美しく、シンフォニックなものに変わる。当然ながら三拍子の音楽だ。
 そうしたことから、ついついこの老婆のことを、「アレクサンドラ」ではなく、「ソフィー」と呼びたい欲望に駆られるが、映画は次第に彼女が「歩く」以上に、「聞く」人への変貌を遂げるよう、進んでいく。

 一様に疲れきった顔の兵士たちの中にあって、老婆がひとり。それだけでも場違いなのに、彼女だけが意思をみなぎらせた表情をしている。だから彼女にさまざまに声をかけてくる。彼女がそうした声に耳を傾け続ける過程で、彼女が今いる「世界」の状況が、浮き彫りになっていく。そこには多言語・多人種がある。そして、その風景は常に砂塵で覆われている。その風の音!

 終盤、ある兵士に請われて、アレクサンドラ=ヴィシネフスカヤは髪をおろすが、小津のセオリーに従うならば、髪をおろす女は不幸になる。
 不幸になってはいけないので、無骨な指先で兵士は、その髪を三つ編みに結い上げていく。このあたりのすばらしさには、どんな言葉も力を失う。「映画」というジャンルが果たし得る最高の達成だと思う。

 列車で去る者があれば、それを見送る者が必ずある。その両方をどのような切り返しで見せるのが、最も情感がこもるのか、しかもそれをアンチ・スペクタクルでやるならば、という問いへの回答として、この映画のラストはあまりにも完璧で、今だ脳裏から離れない。

 その列車への乗下車にあたっては、映画の冒頭、踏み台などはないので、アレクサンドラは、列車からの下車で兵士たちに抱えられたのだが、帰りには簡易階段が作られていて、そこにステップできるようになっており、自らの足での乗車が可能になっている。ここは見逃せぬ細部であったように思う。
 それにしても、「映画」はこれほどのことが描けるのだ。

2008/12/27

ディズニー・シー  ノンセクション

 実はディズニー・シーに行っていた。しかも泊まりで。
 相変わらずすべてのアトラクションは、60分〜120分待ちで途方にくれるが、ファストパスをうまく組み合わせて、何とかやりすごす。

 なお、この仕組みはいい! と今回初めて活用したのは、「シングル・ライダー」というやつだ。子どもたちが、怖いから絶対に乗らない! と主張した「インディ・ジョーンズ・アドベンチャー:クリスタル・スカルの魔宮」で活用。
 
 「シングル・ライダー」というのは、アトラクションの多くは2人乗りなので、3人とか5人のグループだと、どうしても隣に1席空く場合がある。
 その空き席に、相手の了承を得たうえで、1人身の者が座らせてもらうという仕組みだ。1人だけなら「シングル・ライダー」を使えば、待ち時間がほとんどいらない。
 子どもたちが乗らないのなら、この際、強いてうちの奥さんと2人並んで乗る必要もないので、それぞれ「シングル・ライダー」を利用。本来的には90分待ちの「インディ・・・」も、待ち時間ゼロで楽しむ。

 ところで、ディズニー・シー内で、ほとんど並ぶ必要のない、唯一のアトラクションで、しかし、ぶっちぎりですばらしいものが一つある。
 「マーメイド・ラグーン・シアター」だ。
 TDL全アトラクションを含めても、これだけ見事なものはないんじゃないかと、かねてより思っているが、今回もやはりよかった。

 基本的な演出は、ミュージカル『ライオン・キング』をヒントにしている。いろいろ装置を駆使して、人間が各キャラを演じる。
 それと同時に、さらに画期的なことには、全員が宙からワイヤーで吊られて、空中演技をすることだ。特に主演のアリエル役は、激しい上下運動と旋回に、かなりの肉体運動を強いられるはずだ。
 ひょっとしたら、「シルク・ド・ソレイユ」の空中演技も参考にしているのかもしれない。

 そこへもってきて、工夫をこらした照明の演出。たった14分のショーとはいえ、かなり気合の入った、本物の芸を見せてもらえる。注ぎ込まれた肉体的・技術的な手間と労力の大きさで、他を圧するアトラクション。
 こればっかりは、何度見ても度肝を抜かれる。
 エッセンスはTDRのサイトから確認可能。すごさの一端が少しだけわかる。
http://www.tokyodisneyresort.co.jp/tds/japanese/7port/mermaid/atrc_theater.html

2008/12/25

ジル・ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』  

ジル・ドゥルーズ『シネマ1*運動イメージ』(財津理・齋藤範 訳 法政大学出版会) 何とか読了。

 運動イメージ、知覚イメージ、感情イメージ、行動イメージ。これらを分析・分類する本書。
 そのうち、「感情イメージ」について、ドゥルーズ自身による定義を引く。
 「IMAGE-AFFECTION 作用と反応=反作用のあいだの隔たりを占めるもの。外部からの作用を吸収し、内部で反応するもの」(P.375)

 ここで初めて、「外部」と「内部」という概念が出てくる。逆にいうと、その他のイメージは外部にあるはずだ。その外部を、ドゥルーズはエイゼンシュタインとグリフィスのクローズアップに託して、解き明かしていく。
 それはいいが、では、ついに全訳なったドゥルーズ『シネマ』を読み終わってしまった今、映画の見方をどのように変えねばならないのだろうか。

 目の前のスクリーンに生成しつつあるアクション。それを眺めながら、これは運動イメージだろうか、行動イメージだろうか、知覚イメージだろうか・・・などと分類しながら見ていくことは絶対にないと思う。
 そもそも、あるシーンを抜き出して見た場合、そのシーンがどのイメージに該当するかといった分類作業は、果たして妥当なのかどうか。
 妥当であるはずはない。そんなことドゥルーズは一言も書いていない。論の組み立て上、結果的にしかるべき作家のしかるべき作品を、上記のいずれかのイメージに託して語ってこそいるが、映画の中で推移する「時間」はこれらイメージすべてが、交配して出来上がった結果のはずだ。

 そうした映像=イメージの働きのことを、頭の隅っこに入れつつ作品を見る。自分が何によって働きかけられているか、自分の内部で何が生成しているか、そのことを考えることで、必然的に批評の言葉も鍛えられるはずで、その効能は大きく深い。
 ドゥルーズ『シネマ』は、これによって批評が完結するのでなく、ここから批評は開始されるという、そうした本のはずで、ここを間違えてはいけないのだ。

 ともあれ、これを読み終えて、今年度のヤマがようやく過ぎた思いだ。

     ※ 明日は所要で不在になるため、更新を1日お休みします。 ※

2008/12/24

蓮實重彦『随想』第一回のこと  

 たいへん遅ればせながら、蓮實御大による「新潮」1月号の新連載をようやっと入手し、読む。こちらのタイトルは「随想」。副題は「文学の国籍をめぐるはしたない議論のあれこれについて」。
 
 ネタ的には今年のノーベル文学賞に関すること。ごく乱暴にその骨子を言うなら、まさに副題の通りで、受賞者がどこの国籍かを問うことの下品さ、下等さを告発している。そこは、私もまったく同じ感想で、受賞者がどこの国の人かなんてかなりどうでもいい。日本人かどうかなんて、まるで感心がない。そのことはこの場でも先だって書いた通り。

 私がスポーツ観戦を嫌いなのは、その応援の対象が自分の国のチームだったり選手だったり、高校野球なんかヘタすると自分の出身都道府県の学校だったり、もっとヘタすると自分の出身校だったりとか、そんなことばかりにこだわるからだ。なぜにそんなものを理由に、応援できるのか不思議でならない。同じことが人文系にも起こっているわけだが。

 そんなことはともかく、今年の受賞者ル・クレジオの国籍について、(そんなことは本来書きたくもないんだがと言わんばかりに)詳細に書いているあたり、単なる情報としてもさすがに密度が高く、面白く、なおためになる。

 あと、文学賞予想の掛け率のことまで持ち出してきていて、御大、決してそういう話もきらいじゃないんだなと、なぜかほっとしたりとか、しかしこの文章で一番笑わされたのは、御大が書いた2回の「やれやれ」だ。
 今回の文章は内田樹批判だよ、と何人かの方から教えられはしていたが、これはたまたま御大の名前をかなり見当違いに出してきたのが内田樹さんだったので、少々こらしめられたということだと思う。ここで「内田樹」という固有名詞は、あまり重要ではない。

 この「やれやれ」は、もちろん今年の文学賞候補として(私自身も含めて)、一般に最有力視されていた作家の決め言葉。ここ10年くらいの小説中には、ほとんど使われていないけれど、創作が深まる過程では極めて高頻度の一言。(そういえば英訳ではどうなっているのか、調べたことがない。やっぱり“Good grief.”なんだろうか)

 で、この「やれやれ」という言葉が実際、その作家による使用法よりも、よほど深いため息を伴って使われたことに、改めて御大の批評の怖ろしさを感じる。これが「言葉」の切れ味というやつか。

2008/12/23

忘年会  ノンセクション

 昨日は、一番大切な仲間と年に一度の、「忘年会」と称する「腹の探り合い」。
 昨年の会合の記録を紐解くと、「一発キメたい女性ベスト2」とか、ラース・フォン・トリアーが、悪役プロレスラーの名ではないことを説明するのに四苦八苦したとか、どうもそんなことばかりがアジェンダだったようだ。

 今年はというと、冒頭こそ『チェチェンへ アレクサンドラの旅』と『チェンジリング』への期待という、極めて知的な議題で盛り上がったが、朋友Tさんが、「今年、自分は映画など見ていないのだ」とおおいに気炎を吐く。
 いったいどういうことなのかと、よくよく言わんとするところを確認すると、どうも今年は子作りに励んでいたのだという。なんと。
 つい先だって、子作りをめぐって、マドンナとブリトニーの元夫に学ぶ、という所感を書き記し、実はたいへんな顰蹙をかったのだが、本当に学んでしまった親友がごく身近にいたことに驚くとともに、おおいに祝杯をあげる。

 実は、「おまえは宮崎作品の中で何が一番好きなんだ」という、いささか乱暴な議題が出たときに、この事件は起こった。
 人のいい私は、バカ正直に回答しようと、『ナウシカ』と『ラピュタ』の間で、回答を逡巡したのだが、朋友Tさんが、『コナン』でしょう? という、コメントしようのない、ぶっちゃけ見当違いの発言をされ、どう答えたものかと、口をぱくぱくしていると、『魔女』は何位なんだとか、『豚』は何位なんだとか、次々と質問攻めにあった所で私もぶちキレ、「順位なんかつけられるわけないだろう!」と、アルコールなど1滴も飲んでいないのに、酔ったふりしてどなりつける。
 そこで発覚したことには、5人中、私以外の誰も『ポニョ』を見ていないという、緊急事態。

 それを知っていよいよキレた私は、ここはひとつ言ってやらなあかんな、と大きく息を吸い込んだとき、前述の朋友Tさんの、「今年、自分は映画など見ていないのだ」というご発言につながった、という次第である。
 なるほど『ポニョ』より大切なものがあるとしたら確かにそれだ。それは反論できぬ。

 というわけで、今年もかけがえのない時間をくださった皆さんに、心から感謝です。どうぞよいお年をお迎えください。

2008/12/22

『ワールド・オブ・ライズ』  映画

昨日の続き。
リドリー・スコット『ワールド・オブ・ライズ』
 評価以前に、大作というのはこういうものだ、技術とはこういうものだ、とにかくすごい。という感想を持つ。
 最近ディカプリオは、スーパーストレスを強いられる職業の人間ばかり演じていて、眉間のしわがそのまま地顔になってしまわなければよいがと、余計な心配もする。
 
 対テロ工作員として、中東を縦横に駆け回るCIA職員のディカプリオと、ワシントンDCを離れず衛星監視画像だけで、状況把握し指揮をとるラッセル・クロウの協調と対立。
 どちらも二枚舌の限りを尽くして、目的を遂行する。

 今、起こっていることを見ている視線はどこにあるのか。肉眼と映像。
 昨年夏のアテネでだったか、青山真治が吉田喜重+岡田茉莉子と鼎談した折に、「映像は常に遅れてやってくる」という意味のことを言ったのを思い出す。
 そのときの「映像」という言葉と、若干意味合いが違うとはいえ、その発言が実に見事に真理を突いていることを、この映画はまざまざと伝えてくれる。

 レオナルド・ディカプリオとラッセル・クロウ。映画はクロウの方を、やや憎まれ役として描くが、立場としてはどっちもどっちで、それぞれのやり方の内側で失敗を重ねる。
 それは、クロウは映像であっても遅れないと信じているからで、一方ディカプリオは、映像でないから自分は遅れないと信じているからだ。
 双方、それぞれの立場でいよいよその失敗が明らかになるのは、クロウの監視映像の中で、ディカプリオが囚われの身となり、どちらもまったく手も足も出ない場面でのことだ。

 映像は遅れるのだから、いっそ映像と肉眼をひとつにしてしまえ、そうでないと救うべき人を救えないという、すさまじい発想の転換をやってのけたのが、トニー・スコット『デジャヴ』だったが、おい、弟よ、いくらなんでもそれは先を行き過ぎてるぞ、と諭すかのような兄貴の、これは返答であるかのような作品だ。
 ここ数年、この兄貴は弟に差をつけられっぱなしだったが、前作『アメリカン・ギャングスター』といい、『ワールド・オブ・ライズ』といい、実に実にいい感じで新作を発表しているのではないだろうか。

2008/12/21

『地球が静止する日』  映画

 今日は『チェチェンへ』を観る予定だったが、どうしても時間が合わず、また、ディカプリオとキアヌ・リーブスの新作を同じ日に観るという誘惑に、どうしても勝てなかった。
 所詮、私は最終的なところでソクーロフよりも、アメリカ映画を選んでしまう人間だ。こういうときに、馬脚を現してしまう。

 スコット・デリクソン『地球が静止する日』
 今、『地球が・・・』と打ち込んで、何となく違和感を覚えたので確認したところ、驚いた。1951年のロバート・ワイズによるオリジナルの方は、『地球静止する日』だった。

 オリジナルはオリジナルでよかったが、ロバート・ワイズ版から半世紀以上(!)が経って、時代がより複雑になった分、今回のはバージョン・アップされている。こちらも悪くないと思った。
 双方の異同を書き出したらキリがないので最小限にするが、どちらも地球はもう救いようがないってことで、クラトゥなる宇宙人がやって来るところは一緒。
 
 1951年と2008年で、世界が、と書くべきだが、はっきり言えば、「合衆国」(なぜなら、新旧どちらも合衆国のことしか描いてないから)がどう変わったかということは、早々にわかる。
 地球に最初の一歩を踏み入れたクラトゥ(今回はキアヌ・リーブス。前回はマイケル・レニー)を、軍隊の誰かが撃ってしまうわけだが、ワイズ版はその撃ったことに対して、「しまった!」という印象を強く描いている。いかにも、未知なるものに接した軍隊が、恐怖のあまりつい撃ってしまった、という演出で。
 けれど、デリクソン版では、そうしたところはほとんどなく、とりあえず撃ってみましたということで、人類の、と書きたいところだが、「アメリカ人」の度し難さが、いよいよ救い難いものになっていることがわかる。で、その通りに物語も進んでいく。

 また、いちばん大事な共通点は、どちらも「合衆国大統領」その人が、ついに画面に登場しないということだ。
 ちなみに51年当時の合衆国大統領はハリー・S・トルーマン。まあ、広島・長崎に原爆を投下した大統領だ。今の大統領は、言うまでもなく「あいつ」ってことで。
 だから何だという細部だが、いかにもそれらしい理屈を与えられそうな部分ではある。

 新版で、少しほっとする場面であり、なかなか知的だなと思わされたのは、ジョン・クリース演じる、道理のわかった良識派の科学者と、クラトゥとの対話シーンだった。
 部屋にはバッハのゴールドベルク変奏曲が流れている(宇宙探索機ボイジャーに積まれた、異星人へのメッセージとして収録されたレコードにも、バッハは収録されてたっけ)。
 
 そんなバッハの美しさに、地球人と宇宙人が心を通わせるシーンもよいが、地球人が黒板に書いた難しい数式を、宇宙人が書き直し、それを地球人がまた書き足し、さらに宇宙人が修正するといた場面。これがいい。
 まったく似たようなシーンが、ヒッチコックの『引き裂かれたカーテン』にもあることを思い出さずにいられなくもある。

 『引き裂かれたカーテン』は1966年作品。冷戦真っ只中で、核兵器開発をめぐるサスペンスだった。そして、共産ベルリンに潜入したアメリカの科学者ポール・ニューマンと、ベルリン側科学者ルドウィグ・ドナスが、黒板の数式を互いにやりとりして、双方の頭脳を確かめ合うのだ。

 『地球が静止する日』の宇宙人キアヌ・リーブスと、地球人ジョン・クリースが見せた、まったく同じこのシーンは、絶望色の強いこの作品に、唯一希望的な何かを添えている。
 『地球の静止する日』にも、黒板の数式を宇宙人が書き直しておくシーンはあったが、それは地球人不在の場で、一方的に書き直しただけだったと記憶する。
 
 今日は『ワールド・オブ・ライズ』も見れて、こちらもよかったが、予想外に長くなってしまったので、レポートはまた明日。
 どうしても師走。時間がなくて本数が稼げない・・・。もっと観ないと、新作をクリアできん・・・と思っていたら、『ブラインド』の上映が終わっていて、前売りを無駄にしたことがわかって大ショック。



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