2009/1/31

フセヴォロド・プドフキン映画祭  映画

 於 アテネ・フランセ。フセヴォロド・プドフキン映画祭
『ボリシェビキの国におけるウェスト氏の異常な冒険』(監督:レフ・クレショフ 1924年60分)
『チェス狂』(監督:フセヴォロド・プドフキン ニコライ・シビコフスキー 1925年20分)
『母』(監督:フセヴォロド・プドフキン 1926年86分)
『聖ペテルグルクの最後』(監督:ミハイル・ドレル フセヴォロド・プドフキン 1927年80分)

 プドフキンは、旧ソ連の三大巨匠と並び称されるエイゼンシュタインより5つ、ドブジェンコより1つ年長のお兄さんの、1893年生まれ。
 どうしても、エイゼンシュタインに評価は偏りがちだが、この4本にはさすがにうなる。

 『ボリシェビキ・・・』はクレショフ監督作品だが、プドフキンは俳優として、ギャングの親分役で登場。その奥さん役にプドフキン実の奥さん、アレクサンドラ・ホフロワ。
 クレショフ工房の第一回作品で、抱腹絶倒のコメディ。なお、ここにはボリス・バルネットが、訳のわからない狂気のカウボーイとして出演。とにかく、目玉つながりのお巡りさんよろしく、街で銃を連射しまくって、大量殺戮をする。
 観ていて少しあせったのだが、ひょっとしたらひょっとして、『クリスタル・スカルの王国』で、インディ・ジョーンズが大学キャンパスに突っ込んでいくまでの、カーアクションの元ネタは、この作品のバルネットではないだろうか? 気のせいか?
 ウェスト(西)氏というアメリカ人が、野蛮国ソ連を旅する珍道中(彼のボディガードとして同行するのがバルネット)。これを作ったのが、ソ連側というところが恐ろしい。
 20年代のソ連では、すでにスラップスティックが完成している。

 『チェス狂』も、チェス中毒者の不条理を描く爆笑コメディで、チェスを愛するあまり、碁盤目を見たらすべてチェスに見えてしまうという、ヤバイ主人公の話。また、ソ連人の病的なチェス熱も風刺。
 冒頭、テーブルをはさんでヘンな風に足を写して切り返しをするから、おかしいと思ったら、やはり主人公が左右別々の靴下を履いて、一人チェスをやって妄想にひたっているというギャグになっていて、呆気にとられる。

 で、2本に笑いに笑うわけだが、続く『母』と『聖ペテルブルクの最後』のものすごい映像スペクタクルの中、両作品に共通するヒロイン、ヴェーラ・パラノフスカヤの圧倒的な勇姿を見て、プドフキンもまた女性映画の監督であることを確信する。これはあまりエイゼンシュタインは持っていない感性だ。
 堂々と臆することなく、戦火の中を行くパラノフスカヤの姿は、なるほどまさに『チェチェンへ アレクサンドラの旅』を思い出さずにいられない。

 どちらも、ロシア革命前夜を描く大スペクタクルだが、それにしても役者たちの顔がものすごい。それもそのはず、実際のロシア革命は、これらの映画が作られる、ほんの9〜10年前に起こったばかりのことだったのだ。

2009/1/30

ブルース・スプリングスティーンの素晴らしすぎる新譜  音楽

 ブルース・スプリングスティーンの新譜が早くも出る!
 “Working On A Dream”
 激涙。何だか何も手につかなくなるほど、感動する。
 ノン・ストップ・ロックン・ロール。スプリングスティーンのアルバムの大半は、1曲目からクライマックスがやってくるが、今回も7分以上にわたる大作“Outlaw Pete”が、ド迫力で押し寄せてくる。
 この勢いは、かつての名盤“Human Touch”以来くらいのレベルか。

 だがそれにしても、ロックの8ビートというのは、何て素敵なんだとつくづく思い知る。メジャーコード全開のメロディ展開もさることながら、ビートの威力に痛切目覚めさせてくれるこのアルバムだが、それにしても泣けるのが4曲目の“Queen Of The Supermarket”。
 タイトルからも想像できる通り、誰に省みられることもないかもしれないが、しかしオレにとっては女王様のような、スーパーマーケットでレジを打つ彼女に対する、切なすぎる恋心を、めいっぱい明るく歌う、サンダーロードな1曲。
 シボレーに乗って約束の地へ旅立とうとか、そういう青臭いことは言わぬ今のスプリングスティーンは、買い物カゴに品物を放り込んでちょっと振り返ると、彼女はオレに笑ってくれた(ような気がする)みたいな、そんな一瞬を切り取る。切ないとはこういうことだ。

 バラードなど歌っている暇はないと言わんばかりに、全曲フルスピードで駆け抜け、これこそ青空に向けて拳を振り上げる、どれもがまさにアメリカン・アンセム。これだけの勢いは、もしかしたら“The River”にさえなかったものかもしれない。
 13曲目の終曲のみ、スローなナンバー“The Last Carnival”で、失われしものたちに短く哀悼を捧げる。
 
 最後にボーナストラックとして、『ザ・レスラー』の主題曲“The Wrestler。収録されたのはごく単純にありがたいし、実際名曲だが、アルバム全体からすると微妙に馴染まぬ部分がある。「ボーナストラック」扱いは確かな判断だろう。

 これ以上は求められない、究極のロックアルバム。

2009/1/29

蓮實重彦の2008年ベスト10  映画

 “filmcomment”誌 2009Jan/Feb 号をようやく入手。
 また今年も蓮實御大が、2008年のベスト10を寄せている。ここで紹介しなくてもいいけど、備忘まで。

●『チェチェンへ アレクサンドラの旅』(アレクサンドル・ソクーロフ)
●『我が至上の愛 〜アストレとセラドン〜』(エリック・ロメール)
●『ダージリン急行』(ウェス・アンダーソン)
●『アンダーカヴァー』(ジェームズ・グレイ)
●『シルビアのいる街で』(ホセ・ルイス・ゲリン)
●『アンナと過ごした4日間』(イエジー・スコリモフスキ)
●『ジャン・ブリカールの道程』(ストローブ=ユイレ)
●『スウィーニー・トッド』(ティム・バートン)
●『トウキョウソナタ』(黒沢清)
●『コッポラの胡蝶の夢』(フランシス・コッポラ)
   Plus One Short『メルド』(レオス・カラックス)

 今年サプライズがあるとしたら、『スウィーニー・トッド』。ある意味、予測すべきだったが、しかしそこまでティム・バートンに入れ込んでいるとは…。
 笑いどころとしては、山根貞男さん同様『TOKYO!』の他の2編など眼中なし、わざわざ番外枠をもうけてまで、レオス・カラックスをあげたこと。いや、笑いどころというより、これは感動的なところ、とするべきか。
 だって、ストローブ=ユイレの『ジャン・ブリカール』だって40分ぽっきりの短編のはずだ。
 一応、順不動扱いだが本当だろうか? なお、今年は御大はコメントを寄せていない。

 ちなみに、“filmcomment”誌の選者たちの中で、Manuel Yanes-Murilloというスペインの評論家が1人、『崖の上のポニョ』をべスト10の1つに選出している。

2009/1/28

デヴィッド・バーン ライブ@渋谷AX  音楽

 昨日、いささかすねながら、デヴィッド・バーンとブライアン・イーノの新譜を聴いていたからだろうか。昨年のダグラス・サーク特集に匹敵する、あり得ない奇跡が起こって、夜の7時に渋谷に出没することができた。
 会場である渋谷AXに向けて、公園通りを駆け上がる。当日券はあるはずだ。いや、絶対ある。と思ったら、あるどころか番号766。
 渋谷AXのキャパは1500と聞いているから、デヴィッド・バーンのライブにキャパ半分の入りなのか。いまやトーキング・ヘッズという名は、何も意味しないのか。

 いささか寂しい思いながら、しかしスタンディングのフロアをずんずんステージ前に進んでいき、ほとんどかぶりつきのところに陣取る。ライブハウスってあまり経験がないのでよくわからないが、ガラガラという印象はさすがにない。
 ともあれデヴィッド・バーンのステージだ。やはり来れてよかった。1度この人の演奏をこの目で見、じかに聴かないことには、どこか自分の中の「80年代」に決着がつかないような気がしていた。

 そして、19時きっかりに登場。デヴィッド・バーン。まさに目の前にいる。
 バックバンドは、キーボード1、ドラムス1、ベース1、パーカッション1、コーラス3(黒人女性1+黒人男性1+白人女性1)の編成。さらに曲によって、3人のダンサーが加わる。1人はあからさまにゲイとおぼしき男性。2人はわかりやすく東欧系の美人。短パンの足が何ともしれず目に眩しい。
 なお、コーラスにいる白人女性が、どこかトム・トム・クラブのティナ・ウェイマスに似ていて、デヴィッド・バーンの女性の好みが何となくわかったような気になる。

 イーノとの新譜からの“Strange Overtones”から始まったライブは、その新譜からの曲とトーキング・ヘッズの曲が、ほとんど交互に演奏された。
 それは馴染まないんじゃないか、と懸念しそうだが、「デヴィッド・バーン」の歌としてワンステージの中で演奏されると、どの曲もまったく違和感なく聴くことができた。

 そんな中、デヴィッド・バーンが志向する音楽というものが、今初めてわかったと思わされたのが、イーノとの前作、“My Life In The Bush Of Ghosts”から“Help Me Somebody”が演奏されたときだった。
 あのアルバムの曲なんて、再現不可能だろう? と思ったが、奇声や詩の連射を交えつつ、怒涛のパーカッションをバックに演奏された音楽は、完全にロック/ポップの領域を超越する。まさに、『真夜中』4号で蓮實/黒沢/青山の鼎談の中で語られた「無国籍」としか言いようのない音楽。

 けれど、そのバックグラウンドには、たとえばそのコーラスワークに聴かれるように、やっぱりアメリカン・サウンドが横たわっていて、そこに激しく魅せられてしまうのだった。
 たとえば、スライ&ファミリーストーンの音楽が、無国籍にファンキーに弾け、そこに驚きながらも、だが時として置いてきぼりをくらってしまう気がするような音楽とは、そこが違うのだということが初めてわかった。だから、トーキング・ヘッズの音楽にそれほどひかれたんだということも。
 
 トーキング・ヘッズ時代の曲は、大半が“Remain In Light”から選出された。
 終盤、贅沢きわまりないサウンドの洪水で、“Once In A Lifetime”が演奏されたとき、自分の中の何かがはり裂けて、涙がこぼれる。
 これを生で、しかも自分よりもんの2〜3メートル先のところで、デヴィッド・バーンが歌うのを聴く日が来るなんて、思いもしなかった。
 あれこれ多くを夢見た80年代の、ほとんどが本当に夢となって終わった今現在。今でもまったく色あせることなく、デヴィッド・バーンその人が、“Once In A Lifetime”を元気いっぱいに歌っている。
 続けざまに、アルバム“Fear Of Music”から“Life During Wartime”がかかったとき、自分の中の何かが完結する。これで残り20年くらいを生き抜いていけるような気がしてくる。

 トーキング・ヘッズの曲ばかりを何度かアンコールで固め撃ちして、いよいよラスト。新譜の表題曲、“Everything That Happens”を朗々と歌いこんで、かっきり100分のライブは終了する。
 今あるのは過去あるからなのだ。大袈裟なようだが、これこそ希望というものじゃないか?

2009/1/27

デヴィッド・バーン&ブライアン・イーノの新譜を聴く  音楽

David Byrne&Brian Eno“Everything That Happens Will Happen Today”を聴く。かっこいい。

 デヴィッド・バーンとブライアン・イーノの共同作業による新譜。
 ところで、今日と明日で渋谷では、デヴィッド・バーンがライブをやっているはずだ。何をさておいても行きたいが、金銭的にはもちろん、何より時間的に行けるはずがない。
 なぜ、DBのライブを平日にセットするのか、理解に苦しむ。平日の夜7時に渋谷のライブハウスに登場できる年代の人間が、DBの音楽を聴くと本気で考えているのだろうか。
 それとも、平日の夜7時に渋谷に出没できないような下等な職業の人間には、DBの音楽を聴く資格などないということか。いや、きっとそういうことだ。

 それはともかく、この新譜。ライナーでのイーノの言葉によると、彼が書き溜めてあったインスト曲の数々に、DBが詩と歌を重ねることでできあがったとのことだ。
 だから、27年前に発表した彼ら2人のコラボ、“My Life In The Bush Of Ghosts”のような、サンプリングにサンプリングを重ねた、瞑想的でリズム主体のサウンドイメージとはまるで違った、これは完全に「歌」のアルバムになっている。

 1曲目から聴いて驚く。ライナーにもある通り、サイモン&ガーファンクルさえ連想させるフォークソング。その他の曲も、素人が口ずさめるようなメロディにあふれている。ところがバックに響くのは、かすかにノイジーだが、けれどクリスタルビューティなイーノのサウンド。まったく飽きさせない。
 DB自ら、フォーク・ゴスペル・ファンクというように、数曲ファンキーな曲も取り混ぜてはいるが、全体通せばデヴィッド・バーンによるボーカル・アルバム。

 超ハイブラウな前作や、とんがったトーキング・ヘッズ時代の熱心なファンは、ある意味拍子抜けするかもだが、これはどんなジャンルの音楽好きでも普通に聴けるCD。こんな楽しいアルバムを聴くと、今日と明日の渋谷に行けないことがますます悔しくなる。

2009/1/26

越智道雄・町山智弘『オバマ・ショック』  

越智道雄・町山智弘『オバマ・ショック』(集英社新書)読了
 
 この2人ならば、オバマについての今後を占うとか、予想するなどといった、無邪気で幼稚なことなどやらない。オバマ登場に至るまでのアメリカ合衆国の政治史、民衆史、文化史をきっちりとおさらいし、必要不可欠にして、しかも知らなかった知識を与えてくれて、だからこそ価値がある。
 2時間もあれば読了できる読みやすい本だが、内容はばっちり濃く、しかも明快だ。

 たとえば、誰がどう考えても理解できない、あのブッシュが8年も政権をとれてしまったことについて。2人の著者があれこれ対談しながらも、それでも町山さんは「やっぱり、よく分からない」と言う。
 それを本書では、格差社会というのは比べるものがなければ、それに気づきさえしないという、カルチャーの問題と結びつけて、曖昧点を残さずに解明してくれる。

 冒頭でも述べたように、本書はオバマ誕生までの背景を解明するのであって、オバマになったらどうなるかという、どうせ外れるに決まっているテレビのタレント評論家のような、下品な近未来予測をしたものではない。
 けれど、越智さんはオバマの「強運」が、世界にとっての「強運」とは限らないという、不気味な予言だけぽつんと述べる。(つまり、投票直前に世界金融危機が起こり、そんな世界にとって不運が、オバマの当選を後押ししたという強運)

 しかし、こうした「強運」というのは、いやしくも合衆国大統領にあっては、決して珍しくないような気がする。
 そもそも、ブッシュにとって歴代大統領の中でも最大規模の「強運」。それが911だったことは言うまでもなく、あれがあったから、あの人は大統領職を謳歌できた。バカげた振る舞いも「強い大統領」としての評価になった。だから再選もされた。
 もしブッシュに911がなければ、とうに馬脚をあらわして2期目などなかったと思えてならない。
 その「強運」が世界にとっての「災厄」に転じるか、「強運」へと持っていくか、そこが偉大な大統領になるかならないかのカギなのだろう。リンカーンとローズヴェルトが、その「強運」を(その任期の中だけは少なくとも)自分だけのものとしなかったように。
 ここは単に期待含みだが、何とか乗り越えてくれるのではないかと信じつつ、本書を読了。

2009/1/25

『レボリューショナリー・ロード』,『007/慰めの報酬』  映画

 サム・メンデス『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』
 早速、今年度ベスト級の力作。
 向かい合うレオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレットという、世界でもっともロマンチックな『タイタニック』カップルの、甘いポスターデザインからは、想像もつかぬ、ハードな夫婦ドラマ。

 「こんなはずじゃなかった」という、それ自体はどこにでもある互いへの想いが、なまじ人一倍強かったために、その悲劇も人一倍。どちらもが何とか折り合い点を探そうと、ダイアログのありったけを使う。

 家庭の崩壊を描くため、どうもサム・メンデスは何と小津を参照した節がある。ディカプリオの出勤シーンなど、ソフトをかぶったサラリーマンたちが、一様に同じ方向に歩いていくさまなど、小津をそっくりなぞっているようだし、「家族の計画」をあきらめるハメになり、同僚に冷やかされて、照れくさそうに頭を掻くディカプリオの姿など、佐分利信を連想させずにおかない。

 そこはともかくとしても、男と女が登場したその瞬間に、うん、この2人は必ず(体の)関係を持つにちがいないという空気が漂う、その目線の交わし方と「間」たるや、神業的だ。
 言葉と言葉の応酬によって、物語が深化するこうしたタイプの作品の生命は、それを言ったときに、相手がどう反応し、その反応に対して次に切り返しで見せられるはずの表情がどうなっているか、それをときには納得させ、ときには裏切る、その按配の妙にあるはずだ。『レボリューショナリー・ロード』は、そこがすばらしい。
 ディカプリオは今回も眉間に皺を深く刻み込んで熱演するが、顔の演技が見事である以上に、今回は手の動きの雄弁さに着目したい。
 彼の感情の動きによって、開いたり閉じたり(そして握り締めたり)する手を見ていると、ディカプリオ演じる主人公の魂の奥底までが見えてくるかのようだ。

 もちろんケイト・ウィンスレット。こちらは声の抑揚が、ディカプリオよりももう少しバリエーションが多い分、そちらで勝負をかける。それにしても、彼女の目線の方向の的確さ、ディカプリオの目を見ているときと見ていないときで、彼女が今「本音」を話しているか、「建前」で話しているのかが、うっすらと滲みでる。

 サム・メンデス4作目。もと舞台監督らしく、毎回よい俳優のよい演技を引き出してくるが、今回はさすがにずば抜けている。


 マーク・フォスター『007/慰めの報酬』
 驚くほど出来が悪い。歴代007ムーヴィーの最低水準。ロジャー・ムーア末期もかなりひどかったが、これはそれに匹敵する。
 最初の1分で、この映画に何1つ期待できないことがはっきりわかり唖然。

 一応、怒涛のカーチェイスから始まるのだが、完璧に素人以下で、いっそ驚く。その後もアクションシーンのすべてが同じ調子。
 何から何まで『ボーン・アルティメイタム』のせいにする気はないが、しかしあれ以後のアクション映画は本当にひどくなった。
 ワンカット1秒あるかないかのショットをいくつも連ねてアクションを作るわけだが、あまりにもわけがわからない。つなぎ間違い(?)も大量にあって、そっちにボンドが動けば敵はこっちだろうというシーンが数え上げればキリがない。
 ようやっと、ラストのアクションで、まあ確かにボンドがそれを撃てば、爆風はこっちだからまあこうなるよね、というのを1つだけ見ることができる。

 それにしても、訓練されたスタッフが、大金かけて作っているだろうに、なぜこれほどひどくなるか。アクションシーンはでたらめで、ドラマシーンが退屈なら取り柄がない。長すぎることが問題の『カジノロワイヤル』なんかは、それでも最後まで1秒も退屈させられはしなかった。
 ボンドガールもまったく精彩を欠き、ものすごくきれいなのに、この監督はとりあえず彼女を見せたいという気がなさそうなところは、銃殺ものの大罪。

2009/1/24

「クリエイト鷹」の消滅  ノンセクション

 新宿の靖国通り、テアトル東京の向かいあたりの「クリエイト鷹」という店をご存知だろうか。雑居ビル1Fの、お客が3人も入れば身動きできなくなるような狭いお店で、映画のチラシ、プレスシート、中古パンフ、スチール写真などを扱っている。

 今日、久しぶりに、たまたまその店の前を通りかかると、なくなっていた。閉店してずいぶん経った気配もあり、少し胸をしめつけられる。かれこれ20年近くも足を運んでいなかったので、まったく知らなかった。

 ここに、毎週のように入り浸っていたのは中学生のとき。わら半紙の切れ端に、ほしい映画チラシの番号を、ちびた鉛筆で見本を参照して記入し、店のおばちゃんに渡すと、大量のチラシの束から選り抜いて売ってくれる。
 お小遣いなんかほとんどないから、50円で帰る安物チラシを、毎回2〜3枚買う。劇場でもらい損ねた作品のものが中心だ。何千円もする『ダーティ・ハリー』など高嶺の華だ。

 そして、少しお金に余裕があるときは、スチール写真を好んで買った。
『ミスター・グッドバーを探して』、『インテリア』などのダイアン・キートン。
『インターナショナル・ベルベット』や『リトル・ダーリング』のテイタム・オニール。
『アデルの恋の物語』、『ザ・ドライバー』のイザベル・アジャーニ・・・。

 このお店に20年近くも足を運んでいなかった、と書いたのは実はウソで、本当は4年前に久々顔を出してみた。買うのでなく、その頃ちょうど引越しを控えており、大量のチラシを買い取ってもらえるかどうかの相談に。
 中学の頃から馴染みのおばちゃんが、まだいることに驚いたが、「いつごろの時代のチラシなの?」と聞かれたので、「70年代終わりから80年代いっぱいにかけて。枚数は2千枚くらい」と答えた。すると「あー、その頃のが一番価値ないのよね。その頃、チラシ集める人が多かったでしょ。だから持ってる人は、みんな持ってるのよ」と少し顔をしかめておっしゃって、「でも、その頃は本当にいい映画があったんだけどね」と付け加えた。

 それ以上は深く追求できず、引き取ってもらうとかそういうことは、あまり考えず、古本などと一緒に、神田のしかるべき専門店に持っていったら、ラインアップなど見もしないで、約二千枚が千円きっかりで引き取られた。

 映画のガジェットを集める趣味なんか消滅しているのだろうな。映画の画像だって、ネットで検索すればいくらでもあるし。だったら、今も劇場に行けばたくさんある、宣伝用チラシはなんのためのものなんだろう、とふと考える。

 さすがに保管できなくなったこともあり、チラシ集めなど、もう何年も前にやめてしまったが、そんなガジェットの専門店「クリエイト鷹」も、いつしか消滅していた。

2009/1/23

アカデミー賞とジョージ・クルーニー  映画

 今日のテーマはやはりアカデミー賞ノミネートのこと。念のために書いておくと、
作品賞が『フロスト×ニクソン』、『ミルク』、『愛を読む人』、『スラムドッグ&ミリオネア』、『ベンジャミン・バトン』。他は省略。詳細はこちら。http://www.oscar.com/

 さて、予測をしてみたいが、去年の同時期この場で証明したように、この数年アカデミー賞の行方を決定しているのはジョージ・クルーニーだ。きっと今年もその状況は変わらない。実にわかりやすい。

 従って、作品賞は100%『ベンジャミン・バトン』
 何しろクルーニー第1の子分、ブラッド・ピット主演作だ。そのうえ共演は『さらば、ベルリン』で仲良くなったはずのケイト・ブランシェットに、『フィクサー』でオスカー受賞に導いた、ティルダ・スウィントン。この作品にクルーニーが作品賞を与えないはずがない。

 監督賞も、もちろんデビッド・フィンチャーへ。おや、デビッド・フィンチャーとクルーニーは関係があったっけ? これがあるのだ。フィンチャーは、ソダーバーグの『フル・フロンタル』に、なぜか「映画監督」役でカメオ出演している(ブラッド・ピットも本人役で)。ソダーバーグと関わりがあるなら、当然クルーニーとも無関係ではない。

 では、主演男優賞はブラッド・ピットに当確? というと、そこはそう甘くはない。『ザ・レスラー』のミッキー・ロークだ。これは去年のダニエル・デイ・ルイスの場合と同じで、きっとクルーニーはブラッド・ピットにこう諭していることだろう。
 「おまえ、今年はノミネートだけで我慢しとけ。ミッキーの演技は確かにすごかった。そのかわり、奥さんにオスカーあげとくからな、安心しろ。」
 という事で、主演女優賞は間違いなく『チェンジリング』のアンジェリーナ・ジョリーのはず。

 助演男優賞は、さすがにクルーニー云々と関係なく、『ダークナイト』のヒース・レジャーで、これは動かしようがないだろう。
 で、助演女優賞はそのセンでいくと、『ベンジャミン・バトン』のタラジ・ヘンソンに行くかと思いきやそれも甘い。彼女はなるほど、『ER』への出演経験もあるが、すでにクルーニー退陣後の『ER』だから何の関係もない。
 助演女優賞は、『ダウト』のヴィオラ・デイヴィスである。なぜか。彼女は『ソラリス』の黒人科学者役としてクルーニーと共演。さらに、『アウト・オブ・サイト』、『トラフィック』にまで出ているのだから、ソダーバーグへの貢献度絶大ということで、間違いなく彼女へ。
個人的には『ザ・レスラー』マリサ・トメイ、もしくは同じく『ダウト』のエイミー・アダムスにあげたいが、これでは勝てなかろう。

 長くなるからここで止めるが、その他の技術部門賞も、この方程式をあてはめれば大体のところ読めるはずだ。

 下馬評では強い『スラムドッグ&ミリオネア』の受賞はまずない。クルーニーといくらなんでも関係なさすぎる。
 個人的にはロン・ハワード『フロスト×ニクソン』に期待をかけたいが、これはさすがに難しい。テレビ界の伝説的な一幕を描いた作品として、クルーニー監督『グッドナイト&グッドラック』にテーマがかぶりさえする以上、『フロスト×ニクソン』はきっと無冠だ。

 以上、私の思い込みであり、信頼に足る根拠はまったくありません。

2009/1/22

「早稲田文学」A号  映画

 「早稲田文学」A号。
 なんだかんだと全ページ読む。酔狂だ。
 もともと、話題になった(しかしどこで?)「早稲田文学10時間シンポジウム」の記録を読みたくて購入したものだが、批評メディアとは、日本文学とは、そして書評とは・・・と、討議が進むにつれてテーマが矮小化していくのがどこか気になる。

 たぶん討議者の中で、「批評家」というのを一番真剣に「職業」として危機感とともにとらえているのは東浩紀で、「職業」というのはつまり、それでお金を稼いで妻子と自分を養うという、言葉の純粋な意味でのことだ。他の論者たちはどこか甘い。
 「生き残り」をかけて、あれこれ工夫している東浩紀の活動は、企業の中で何とかリストラされないよう、減給されないようがんばっているサラリーマンにも似て、いちばん切実な発言をしているように思った。

 けれど、そんな10時間の討議もご苦労様と思わされてしまうのが、「新潮」2月号の蓮實重彦「随想」をあわせて読んでしまったからだ。
 今月のテーマは川口松太郎なわけだが、その原作が、映画、戯曲、そして流行歌にまで増殖し、そのヒロインは「キャラクター」として、挿絵は「フィギュアー」として流通する。それが70年も前のことだ、として、圧倒的な情報と知見と発想力と創意で、この「10時間シンポ」の参加者たちの日ごろの議論をあざ笑うかのようで、「おまえさんたち、がんばってはいるが、いかにも古い」と言わんばかりなのだ。

 それはともかくとしても、「早稲田文学」A号。なんだかんだと楽しく読む。「小説」よりも「批評」により軸足をおいているところが好みでもある。
 特集はミシェル・ビュトールで、恥ずかしくも未読の作家だが、大いに興味をそそられた。
 特に、石橋正孝さんによる論文は面白かった。ヴェルヌの作品の展開と、ビュトールの変化とを対照させ、なるほど影響関係とはこういうものかという、批評の言葉としても刺激を受ける。何より、作品を読み込んでいる論者ならではの手ごたえを感じる。

 今号は、付録にDVDがついているのが贅沢だ。川上未映子の『戦争花嫁』の朗読。生きて動いている川上未映子を初めて見て、一瞬欲情した自分を恥じたが、朗読が始まるととても怖かった。私はこういう演劇的なものが、とても怖いのだ。
 それよりピエール・クルブッフというドキュメンタリストによる、『ミシェル・ビュトール モビール』という61分のフィルムがいい。ビュトールの相手を務めるミレイユ・カール=グルバーという女性と、ビュトール本人のフランス語が実に美しく、「パロール」というものの威力を思い知る。



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