2009/2/28

山上たつひこ『中春こまわり君』  

山上たつひこ『中春こまわり君』(小学館)
 素晴らしすぎる。乏しい読書量の分際で決めつけるが、近年の書物ナンバー1と信じる。

 手塚治虫『ブラック・ジャック』、鴨川つばめ『マカロニほうれん荘』、水島新司『ドカベン』などを擁した、70年代後半の「週刊少年チャンピオン」の充実は、マンガ週刊誌の歴史でも屈指。
 そんな傑作群の中でも、独自の輝きを放ったのが、山上たつひこ『がきデカ』だったことは言うまでもない。そのキャラたちが中年になって復活した。

 山上たつひこさんには、『光る風』という異色作品や、『がきデカ』と同傾向の『快僧のざらし』などの傑作もあるが、やはり『がきデカ』に尽きる。その『がきデカ』でさえ、大ヒットギャグマンガの避けがたい宿命として、連載終盤には無意味な空騒ぎに終始することになり、パワーダウン、というよりは作品としての寿命を終え、中途半端に連載終了。後に単発の完結編で、山頭火の詩と共にこまわり君が去っていくことで幕を降ろした。
 その後、山上さんはマンガの筆を折り、小説家に転身するが、必ずしも成功したとは言いがたく、私もいつしか存在を忘れてしまう。

 そこに、大人になった逆向(さかむけ)小学校の、こまわり君、西城君、モモちゃん、ジュンちゃんたちが、『中春こまわり君』として、2004年に「ビッグコミック」誌上で復活する。その後、単発的に作品が掲載され、今回初めて単行本としてまとめられた。

 私事だが、『がきデカ』を毎週読んでいた当時は、ほとんど意識したことがなかったが、こまわり君たちは、1966年生まれの私自身と同じ年齢なのだ。この生年の偶然に誇りを感じる。まるで当時の「少年チャンピオン」が私の学年のために書かれたかのようだからだ。その彼らが、私と同じ年数だけ齢を重ね、2004年の再開時で38歳。
 結局、日本初の少年警察官・こまわり君は、大人になって警官になることはなく(その意味では、自分勝手に交番を立てて警官を自称していた、赤塚不二夫の「目玉つながりのおまわり」と同様、自称少年警察官だったわけだ)、平凡なサラリーマンになっている。

 平凡といえば、優等生だった西城君も、こまわり君と同じ会社に同期入社し、同じ営業職の同僚として平凡に働いている。極端な劣等生・こまわり君と、万能の優等生・西城君も、大人になってしまえば同じゴールという、苦すぎる人生の結末がここにある。

 往年の名作コミックが長い歳月を経て復活する例は珍しくない。藤子・F・不二雄先生の『劇画オバQ』から、庄司陽子『生徒諸君! 教師編』、果ては池野恋『ときめきミッドナイト』・・・。水島新司『ドカベン オールスターズ編』に至っては、今週発売の「少年チャンピオン」誌上で、里中智さんと山田さち子さんが、とうとう結婚式をあげる始末だ。
 だが、隔てた歳月をそのまま飛び越えて、その年月の分、人格形成を進めた作品は稀だろう。38歳こまわり君は(本書は2008年発表作まで収めているから、42歳まで)、その恐るべき変態性をそのままに、むしろ自らに悩み他人の人生に悩む、思索の人になっている。

 今は結婚して12歳の息子もいるこまわり君は、第1話で息子の教育方針について、奥さんと衝突する。(方針といっても、猫式算数・犬式算数を教える教えないというだけのことだが、そこはいくらでも暗喩として読み替え可能)
 とうとう奥さんは家出してしまうが、漏れ聞くところではインドネシアに旅立ったという。そこには、こまわり君との結婚前につきあっていた男がいるらしい。実存的不安におびえるこまわり君。
 慰めるのは親友・西城君だが、彼も今ではモモちゃんと無事結婚。一姫二太郎の理想的な家庭を築いている。このカップルはどこまでも無難で安泰な人生の象徴として機能する。

 第2話はさらに凄絶だ。モモちゃんの(おそらくは)双子の妹、ジュンちゃんの末路。小学校時代、こまわり君の変態ぶりにたぶん最も理解あった、心優しい、というよりのんき者のジュンちゃんは、そのお人好しぶりが祟り、2度の結婚に失敗している。
 特に2度目の男は世にも稀な性格破綻者で、その描写ぶりもすごいが、その男のところにジュンちゃんは舞い戻っている。彼女だけ、地獄以下の生活を送っていることから、捨ててはおけぬと、こまわり君と西城君が立ち上がる。

 いざ再会すると、ジュンちゃんは義父の介護で、ウンチまみれの生活を送っている。再会早々、「わたしウンチくさいでしょう」とくる。さすがのこまわり君も動揺する。
 何より哀しいのは、モモちゃんとジュンちゃんのお母さんの態度だ。こまわり君に  「もうジュンのことはほっといて」と、彼女は見捨てたことを告げる。「自分を苦しめたクズ亭主の所に、のこのこと舞い戻るような馬鹿な娘に、振り回されるのはもうたくさん!」と。
 「ジュンの行動を愚かだと決め付けないでほしい」と、誰よりも愚かな行動を重ねてきたこまわり君が、真顔で訴える。

 ここで、中近東に単身赴任したモモちゃんとジュンちゃんの父親はとてもお人好しで、駱駝の喧嘩を止めようと割って入って死んだことが明かされる。
 それを聞いたこまわり君は、愚かなことでは同じじゃないか、だからジュンのことも理解してやってくれと。
 だが、お母さんはきっぱり拒絶する。同じ馬鹿でも主人は「社会の成員として死んだ。でもジュンは社会のどこともつながりのないままこうなった。」と泣き崩れる。

 こまわり君に返す言葉はない。そこで、こんなことを思う。

 「駱駝の足の下で死ぬのが社会的死であり、無職で博打うちの性格破綻者の男に身を捧げ、悲劇の結末を迎えるのが没社会的死だとは誰もいってない」
 「こまわりはぼんやりと思う。死は死であり、そこには意味づけ評価づけがあるだけのことである」と。だからこまわり君は、果敢にこう決意する。
 「おれに言えるのはジュンをほっとくわけにはいかないということだ」
 「あいつの人生に結論を持たせるのはまだ早い」

 こうまとめてしまうと、ひどく重たい生真面目な作品のように感じられそうだが、こうしたことどもを、『がきデカ』本来の破壊的・狂騒的ギャグの奔流で描き尽くす。
 そんな中『がきデカ』になく、『中春こまわり君』に加わったものは「孤独の影」だ。

 久しぶりに実家に立ち寄ったこまわり君だったが、せわしく帰っていく息子にいささかの不満を感じる「とーちゃん」。賑やかだった昔をふと思い出し、思いがけず湧き上がったのが、隣室で寝ている「かーちゃん」に対する欲情だった。ここに、老いた人間の「真実」を見せられ、瞠目しきりなのだが、そこから先がまたいい。
 ついつい、「かーちゃん」の胸元に手をさしこんでしまうと、「何してんのよ」と一蹴される。いったんあきらめたものの、未練がましく寝室の前をうろうろするが、やがて溜息まじりに、独り居間に戻っていく「とーちゃん」。寝室のふすまだけのコマが痛々しい。

 また、病院で偶然出会った、小学校時代の担任の、あべ先生。何と今ではアル中になっている。酔いつぶれた先生を自宅に泊めるが、老いさばらえた恩師の寝顔の、あまりの醜さに「つるかめ つるかめ!」と身震いするこまわり君。これも現実だ。
 そもそも、あべ先生を自宅に連れてくるにあたり、一緒に飲んでいた西城君も手を貸すわけだが、先生を泊めるのはなぜこまわり君の家なのか? 西城君の家でもいいはずだ。こまわり君の奥さんにとって、あべ先生は赤の他人だが、モモちゃんと結婚した西城家なら夫婦そろって、むしろ先生ゆかりの家庭なのだ。
 だからこまわり君は、先生を預かった後、早々に帰ろうとする西城君の財布をくすねて、しっかりいやがらせをすることを忘れない。

 というのも、かつての優等生・西城君(とモモちゃん)だけが、孤独の影とはまったく無縁で、人として生きることの「業」から、見事に切り離されているのだ。
 こまわり君の表情が、それこそ妖怪変化よろしく、アフリカ象からシロクマまで、自在に変貌を遂げるのに対し、西城君の顔ばかりは、常に変わることなくそこにある。(だから作者は、余白に「いつでも無表情、西城君」などという、余計な注を加えさえもする)
 こうして西城君の存在が、こまわり君たちの行動と人生を相対化するが、しかし西城君とて、他人の生き様に無関心であるわけではなく、それなりにひと肌脱ぎもする。そこにこそ、作者の「人生を決定しようとはしない」姿勢がある。

 『中春こまわり君』の達成はただごとでなく、しかもそれが、すさまじいギャグ世界の中に展開する。これはなまじっかの書物ではない。

2009/2/27

四方田犬彦『日本の書物への感謝』  

四方田犬彦『日本の書物への感謝』(岩波書店)読了
 これは私という人間の人格のつまらなさだが、「日本の」ときた瞬間に、例外なく嫌悪感をもよおすので、白状すると少し退屈しながら読む。
 実際、恥じ入るばかりで、私は日本の古典は、無知無学にしてまるで知らないのだ。

 四方田さんのこの書物は、「日本の書物」といっても、すべて明治以前の作品。一番新しい作家でも鶴屋南北だ。第一章が『古事記』だからその歴史的レンジはほとんど1000年。
 目次を眺めて持った感想だけど、ここで四方田さんが取り上げた作品は、『古事記』にはじまり、『竹取物語』『枕草子』『源氏物語』『正法眼蔵』などから、作家別には芭蕉、西鶴、蕪村、平賀源内、上田秋成、そして鶴屋南北。
 ひとつ言えることは、『平家物語』や『太平記』のような戦記物は一本もなく、どれも趣味人(という言い方が正確かどうかはわからないが)のそれである。
 つまりは、弓矢をつがい、馬を駆るような作品ではなく、徒然なるままに日暮らす作品群ばかりだ。
 ここに、筆者のひそかな批評を感じとっても、あながち間違いではないだろう。

 それにしても、ナチュラル・ボーン・批評家としての四方田さんの文章は、すばらしい。特に比較文学者として、二対の対象が俎上に乗るときの文章は、他にも増して読み応えがある。
 親鸞と道元、鴨長明と吉田兼好、『さんせう太夫』をめぐって原典と鴎外と溝口、芭蕉と蕪村…。双方をぶつけあわせて、どちらが優勢かをジャッジするような、低級なことをするわけではもちろんなく、それぞれをかけあわせて、両方を生かす。
 こういう技は、賭けてもいいが、映画を知る者にしかできないはずだ。

2009/2/26

雨傘と市電、そして『チェンジリング』  映画

 海外特派員…ではないけれど、とにかく、たくさんの新聞記者たちの前で、クリスティン・コリンズ(『チェンジリング』)が、「警察が連れてきたあの子は私の息子じゃない」と訴える。どしゃ降りの雨。
 その記者たちがさしている雨傘を見て、ヒッチコックの『海外特派員』を思い出さない人はいないだろうが、そのことと関係なく、何気なく山田宏一・蓮實重彦『傷だらけの映画史』を読むともなくめくっていて腰を抜かす。

 2人が『海外特派員』のことを話しながら、当然、話題は傘のことになり、山田さんが、
 「長い石段があって、雨がドシャ降りで……、何かが起こるという予感でドキドキしますね。で、雨傘の群れをうつす俯瞰のショットがいいですね。」と。
 長い石段! 雨! ドシャ降り! 雨傘の群れ! 俯瞰! と、うとうとしていた目がいきなり覚めたのだが、それを受けてさらに蓮實御大が、
 「(略)もうひとつ雨のシーンで暗殺があって追跡が始まる。そのとき、市電が道をふさぐんですが、アメリカ映画で市電が活用されたのがないでしょう、それまで。僕はどうも記憶にないんですね。」とか言い出す。

 改めてこの2人の、ほとんど悪魔的とも言うべき映画的感性に目を丸くする。
 イーストウッドが雨傘を撮ったとき、『海外特派員』は間違いなく念頭にあっただろう。けれど、その市電の活用については、どれだけ意識的だったろうか。だって『チェンジリング』は、まさしく真っ赤な市電(『赤い恐怖』?)によって印象づけられるからだ。

 私は、イーストウッドがそれを意識していた、というよりも、意識していなかったらいいな、という気がする。その方がなんだかステキじゃないだろうか。
 息子を奪還する夫人の物語(『知りすぎていた男』!)をめぐって、アルフレッド・ヒッチコックとクリント・イーストウッドが「市電」によって、思いがけず通底してしまい、その美しい結びつきを、21年前の山田宏一&蓮實重彦がしっかりと準備し合っていたということ。しかも、それがまるでアクシデントのように…という方が絶対に楽しい。
 この素晴らしき映画の喜び!

(『傷だらけの映画史』がリュミエール・シネマテークの非売本として刊行されたのは1988年。奥付では1988年5月1日発行。その翌年、シネセゾン渋谷でリュミエール・シネマテークとしてビデオ発売された作品が連続上映され、その会場で確か1000円で特別販売された。現在は中公文庫)

 全然関係ないけど、今日の松竹の株価終値666円。昨日より29円安。

2009/2/25

心底気持ち悪い、2つの文章  

 あまり気の滅入るようなことは書きたくないのだけど、今日はたまたま2つもイヤぁな気分になる文章を読んでしまって、厄落としのためにも書いてしまう。

 まずは朝日の朝刊、斎藤美奈子さんの文芸時評。村上春樹エルサレム賞受賞のことから書き起こしているのだけど、これが何だか…。
 「この賞を受けること自体の是非はいまは問わない」と言いつつ、カッコつきでガザ攻撃に反対するなら拒絶すべきだとかって、思いっきり非を唱えているわけだが。
 で、そのスピーチにあった「壁と卵」の比喩を引きつつ、「その比喩で行くなら、卵を握りつぶして投げつけるくらいのパフォーマンスを見せてくれてもよかったのに、とも思うけれども、小説家にそれを望むのは筋違いな話かもしれない」とかって、まったくその通りで、実際、筋違いもいいところだ。
 それ以前に、斎藤美奈子という人の、国際感覚(という言い方もよくないんだが)はゼロだな、この人はどこまでも「にっぽん」だけで通用する感覚の人だなと、これは前々から思っていたけど、改めてそう確信する。まあ、そのこと自体の是非はいまは問わない。

 もちろん、この受章にあたっての、村上春樹の本心は知るべくもない。けれど、イスラエルが主催する賞を受けるにあたって、村上春樹ほどの人がそれを受けるも拒否するも、そのリスクに無自覚なわけがない。
 相手はユダヤ人国家だ。そして、村上春樹は世界の大半の国の書店で、その著書が平積みになっている作家なのだ。そういう事態を、斎藤美奈子という人はまるでイメージできないのだろう。

 そんな立場にいる作家が、卵を投げつけるだなどという破廉恥行為など、できるわけがないではないか。場合によっては命にかかわる。
 村上春樹のこのスピーチについては、書こう書こうと思って書きそびれていたけど、恐ろしく勇気ある発言だったと思う。しかもそれを、日本とかのくだらない安全地帯でやったのでなく、エルサレムという都市で行ったのだ。言葉を選びに選んで、反ユダヤの一歩手前でしかも作家としての主張はキリッと貫いている。これこそ国際人であって、世界というものが見えている。そして、世界の中の自分という自覚も十分だ。

 それを斎藤美奈子という人にはわからない。世界の中で、「日本人」以外の人に発言するということの意味がまったく理解できていない。
 彼女がこれをもし冗談で書いたとしたら、あまりにも悪ふざけがすぎる。自分のブログで「(笑)」とかそういう符号と共に書き散らすならともかく、お金をもらって書く文章ではない。下劣で下品で下等で、単に馬鹿者だ。私はこういう発想を何より憎む。シェイム・オン・ユーだ。

 で、もう一つは、この斎藤美奈子の文ほど、今さら罪深い気はしないけれど、「レコード芸術」3月号の、宇野功芳による書評。川口マーン惠美「証言・カラヤンかフルトヴェングラーか」を扱ったもの。
 この老人が偏屈で偏見に満ち満ちた、イヤな書き手だということは昔から知っていたが、そのこと自体の是非はいまは問はない。

 この書評は、対象となる著書からでたらめに引用してきて、至言だとかなんだとか、適当な感想を述べるだけの愚にもつかないものだけど、その大言壮語がすごい。
 カラヤンだろうがフルトヴェングラーだろうが、演奏家はともかく、音楽は自分にとっていいか悪いかで、その良し悪しは最初の2〜3分を聞けばわかるとのことだ。

 最初の2〜3分でその演奏の良し悪しがわかるんだ、すごいな。というか、逆に考えるとそんな程度の底の浅い鑑賞しかしていないということだね。
 映画だってそうだが、最初の2〜3分にうんざりしても、ある瞬間から突然、作品が疾走し始めることはしばしばあるだろう。音楽だってそうだ。そうした瞬間を知らない批評家なんて、批評家としてお金をもらっていいのか?

 なんだかこの2つの文章で、本当にイヤな気分になって、全然関係ないけど、今日の松竹の株価は695円。昨日よりも37円高。

2009/2/24

大谷能生『散文世界の散漫な散策』  

 授賞式でケイト・ウィンスレットを紹介した若い女優が、誰かわからなかったのですが、ありがたくも4人の方からご教示をいただき、マリオン・コティヤールだとわかりました。あまりにも記憶にない顔だったので、気がつきませんでしたが、つまり彼女がいかにうまくピアフに化けたかということですね。ご教示に改めて感謝いたします。

 大谷能生『ブレインズ叢書2 散文世界の散漫な散策 20世紀の批評を読む』(メディア総合研究所)読了

 佐々木敦主催のBRAINZでの講義録第2弾。
 大谷さんが、影響を受けた批評書5冊を聴講生と共に読みつつ、その魅力を語る。
 やはり年若い聴講者を念頭におかれてのことだと思う。たいへんな不遜を承知で申し上げるなら、この内容の講義なら私でも十分できるなというのが、率直な感想。

 ただ、選ばれた5冊のセンスがやはり凡人のそれではない。
 ざっと記すと、宮川淳『アンフォルメル以後』、平岡正明『山口百恵は菩薩である』、蓮實重彦『映像の詩学』、生井英孝『ジャングル・クルーズにうってつけの日 ヴェトナム戦争の文化とイメージ』、吉田健一『時間』。すばらしい。

 特に生井英孝さんの「ジャングル・クルーズ」は、私が大学3年のときに出版され、とにかく擦り切れるほど、実際、こわれてしまったので、2冊目まで買った書物のひとつだ。
 私のアメリカ観、というよりは、映画・音楽・文学を通してアメリカ合衆国を見る視線は、この一冊に学んだと言ってよいと思っている。
 初版は1987年5月。個人的な話にもっていって恐縮だが、そのときに購入して一読衝撃。その年の夏休みに、初めてニューヨークへの貧乏旅行に行ったのだが、そのときに携えた書物のうちの一冊だ。

 そして、ニューヨーク滞在中に、キューブリックの『フルメタル・ジャケット』が全米公開の運びとなる。その初日に、ブロードウェイの上映館に走ったことの幸運と歓喜!
 ベトナム戦争を扱う、このキューブリック作品のガイドラインとして、生井さんの名著がどれだけ有益だったかはかりしれない。
 そして、オリバー・ストーンの登場はこの翌年のことだ。ほとんどとどめを刺すように出版されたのが、村上春樹・訳のティム・オブライエン『ニュークリア・エイジ』であることも付け加えるべきか。

 ある種の幸運とも分かちがたくあるのだけど、書物を「身につける」というのは、こうした生身の体験と共に、不可避にあるものだと思う。
 だから、「逃走論」という、いささか古びた書物のタイトルを引き合いに出すのも不自然だが、常に書物とともに移動し、その中で生起する「事件」との関わり合いにおいて、初めて書物は知恵となるのではないか。そして、その「事件」が「個人」にとって重ければ重いほど、その書物は「座右」となる。

 大谷能生さんの講義でも扱われた、吉田健一の『時間』というエセーなど、まさしく、こうした不断のアクションと共に、刻々とやってくる事件性との出会いにおける、魂の移り行きを活写した文章ではないだろうか。
 以上、不遜に過ぎる物言いに聞こえたら恐縮だが、そんな思いに誘ってくれた、大谷さんの書物に感謝しつつ、聴講した皆さんが受けた「事件」に嫉妬する。

 なお、全然関係ないけど今日の松竹の株価は658円。(昨日は671円)

2009/2/23

ジョージ・クルーニーの権威失墜と思ったが  映画

 今日はやっぱりアカデミー賞の話題で。
 ジョージ・クルーニーアカデミー賞の黒幕説を提唱する私としては、1月23日のこの場で、そのネットワークに沿ってオスカー予想をしたわけだが(悔しいからリンクは張らない)、ものの見事に、というか、ほぼパーフェクトに予想を外す。
 なるほど、今年はクルーニー自身がそもそもアカデミー賞にからんでいないから、暗躍もしなかったというわけか。いまひとつ考えが足りなかった…。(性懲りない)

 もうひとつ考慮モレがあったのは、ショーン・ペンの受賞にまつわる件だ。
 以前にこの場でも取り上げた、同性愛婚禁止条項「PROP 8」のこと。
 http://green.ap.teacup.com/applet/nanbaincidents/20081024/archive
 その後、LAではこの条項が可決されたのだった。当然、この決定をひっくり返すべく同性愛者たち中心に、住民投票が呼びかけられているわけで、必然的にこの条項にはハリウッド人たちも反発が強く、(カミングアウトした)同性愛初のカリフォルニア州市会議員、ハーヴェイ・ミルクを扱った『ミルク』の主演者に、支援の意味でも票が集まるのは当然、考えるべきだった! 迂闊である。

 それにしても、このショーン・ペンの受賞スピーチはよかった。
 http://www.mahalo.com/Sean_Penn_Oscar_Speech
 そのPROP8のことに言及して、何だかややこしい英語だけど、とにかくこの条項に賛成票を投じたものは恥を知るべきだ。もしそんな考えを持ち続けるなら、自分の孫の代にも恥と映るはずだ、とか、そんなようなことを、そんな晴れの場に似つかわしく、とてもエレガントに言葉を選んで語る。
 エレガントといえば、「この国の住民であることを誇りに思う。あのエレガントな男を大統領に選出するこの国。勇気あるたくさんのアーティストを生み出すこの国なのです。」というのも、さすがなトークだと思う。
 締めくくりもまたいい。「ミッキー・ロークが復帰した。彼は私の兄弟だ」
 映像はこちら。http://www.youtube.com/watch?v=cU9fwT93kSw

 これを見ると、候補者の紹介もよかった。マイケル・ダグラスはフランク・ランジェラ、デ・ニーロがショーン・ペン、エイドリアン・ブラディがリチャード・ジェンキンス、アンソニー・ホプキンスがブラッド・ピット、ベン・キングスレーがミッキー・ロークを讃えるスピーチをする。人選もいい。マイケル・ダグラスが全然変わってなくて驚く。かっこいい。
 一方、ロバート・デ・ニーロはでっぷり肥っていてこわい。こわいのに一番笑いをとっている。何せ、「ショーンは何年もの間、ストレート(異性愛)の役ばかりとってきたんだぞ」ときわどいジョークで口火を切る。そういえば、この二人、大昔に『俺たちは天使じゃない』という、ホモっ気たっぷり(?)の映画で共演していたのを思い出す。

 なお、ショーン・ペンの隣に目の覚めるような美脚の美女が座っており、これ誰だっけ! と思ったら、そうだロビン・ライト・ペンだ。
 壇上に上ったショーン・ペンを右斜め後ろから撮って、ちょうどロビン・ライトがフレームに入るという、見事なアングルに痺れる。

 そして主演女優賞のケイト・ウィンスレット。
 映像はこれ。http://www.youtube.com/watch?v=eAO0pZ2xvWE
 こちらは、シャーリー・マクレーンがアン・ハサウェイ、ハル・ベリーがメリッサ・レオ、ソフィア・ローレンがメリル・ストリープ、二コール・キッドマンがクリスティン・コリンズ、もとい、アンジェリーナ・ジョリーを紹介する。
 で、肝心のケイト・ウィンスレットを紹介している若い女優がわからないのだけど、この人は誰ですか? これは本気でわからないのですが、どなたかご教示ください。
 ウィンスレットのスピーチは、まずまず普通で特に印象に残るものではないけれど、さすがにきれいに着飾っていて、おおいに目を楽しませてくれる。

 しかし、ケイト・ウィンスレットは大好きだし、受賞作『愛を読む人』はこれからだけど、『レボリューショナリー・ロード』も見事だったから、決して腹は立たないとはいえ、やっぱり…それでもやっぱり、『チェンジリング』の名のもとに、本来の受賞はクリスティン・コリンズ、もとい、アンジェリーナ・ジョリーでしょう!?
 オスカーはお祭りだからこれでいいけど、映画の「絶対価値」(それを決める人などいないのだが)で計るなら、他に何があろうとも『チェンジリング』のはずなんだ。

2009/2/22

『チェ 39歳別れの手紙』,『ディファイアンス』  映画

スティーブン・ソダーバーグ『チェ 39歳 別れの手紙』
 上昇への道程だった「28歳」に比べ、挫折への「39歳」が、重くノれない映画になることはある程度予想がついた。
 そして、ゲバラ以外は、終盤に登場した若い女性ゲリラを除いて、誰一人として顔がはっきりしなかった「28歳」のやり口は、いっそう進められ、「39歳」の登場人物は一様に個性を奪われている。
 それにしても、このキャラクターの立っていなさ加減は尋常でない。通常の監督ならそれは欠陥だが、ソダーバーグのレベルならこれは演出意図だ。

 ソダーバーグが、ゲバラという人物の行動や思想に興味・共感を覚えて、この映画を企画したとは思えない。だから通り一辺倒なヒロイズムなど描くはずがない。
 そこで初めて、それならなぜ、ソダーバーグは「チェ・ゲバラ」の映画を撮ろうとしたのかが、うっすらとわかってくる。

 「39歳」は、政府に搾取され貧困に苦しむ民衆を解放する革命のため、ボリビアで悪戦苦闘するパートだ。しかし、ここでのゲバラの徒労と挫折は、肝心の農民たちがゲバ一隊の行動に、一向興味を示さなかったことと、説得もできなかったことだった。
 結局、自らの信念で入国して活動した外国人が、余計なお世話だとばかりに現地人に疎まれ、とうとう泥沼化する物語なわけで、それって共産主義の名のもとに介入するか、民主主義の名のもとに介入するかの差だけで、つまるところ、どこかの「超大国」がやらかしては、ひどいめにあっている政策そのものではないか。
 ソダーバーグは自分が属する国の滑稽さを、或るマルクス主義者の行動を使って(ここに皮肉を読んでもいいかも)、風刺したのだと考えると、何だか収まりがいいような気がする。

エドワード・ズウィック『ディファイアンス』
 思いがけず、こちらも「39歳」と同じように、森林の中でのゲリラ戦。
 ただし、こっちは第二次大戦下のユダヤ人たちの抵抗譚。こちらも実話ベース。
実在するベラルーシのユダヤ人3兄弟が、多くの同胞を養い、多くの同胞を養いつつ、パルチザンとしてナチスに対する抵抗を続ける。
 『グローリー』、『戦火の勇気』、『マーシャル・ロー』、『ラストサムライ』、『ブラッド・ダイヤモンド』と、戦争映画の作り手としてベテランと言っていいズウィックだが、これまで通り広域戦争を描くならともかく、森の中のゲリラ戦の描写は、どうも不慣れのようだ。

 単純なところ、目の前までナチスが迫っているというのに、退却を指示するのに、でかい声を出してはマズい。居場所を教えちゃうじゃないか、とかそういうことだ。
けれど、やけに詳細を極めた、マニアックな重火器描写は凝っていて、エドワード・ズウィックという人の兵器オタクぶりはよくわかった。
 ほどよくラスト・ミニッツ・レスキューを盛り込むなど、工夫と努力は感じるけれど、作品としては正直なところ平板にすぎ、136分の長尺。途中何度かうとうとしてしまう。

2009/2/21

『チェンジリング』  映画

クリント・イーストウッド『チェンジリング』
 これほど次元を超えた傑作にどんな言葉があるっていうんだ。
 一通りぐるっと、信頼できる友人・知人・著名人のブログをみわたすと、全員が昨日から今日にかけては、みな少なからず『チェンジリング』にうちのめされており、週明けにかけてはさらにその数は増加するはずで、クルーニー支援(?)もあって、月曜日の主演女優賞は晴れてアンジェリーナ・ジョリーということに、きっとなるだろう。

 今日、立て続けに2回観て、それで小賢しいことを書いても、ろくなことは書けないので、今の段階ではひとつだけ記しておく。
 クリント・イーストウッド作品として珍しく、ワーナーでなくユニバーサル配給。続いて、イマジン・エンターテインメントのタイトルクレジット。
 前にも記したが、『父親たちの星条旗』、『硫黄島からの手紙』のスピルバーグに続き、『チェンジリング』でイーストウッドを支えたのは、ブライアン・グレイザーとロン・ハワードだ。

 個人的にはロン・ハワードと水の関係について、『或る夜の出来事』をトリガーとして、こんな文章を書いてしまった人間としては、
http://foodpia.geocities.jp/howardthemovie/chapter14.htm
 この映画がよりにもよって、『或る夜の出来事』のオスカー受賞のラジオ放送によって幕が引かれたことに、胸が震えるほど感激する。

 だから、本質的な勘違いを承知であえて書く。
 『チェンジリング』は、『身代金』、『ミッシング』に続く、ロン・ハワード3番目の失われたわが子の奪還劇だ。
 これほど、「製作者」の気質が刻印された映画も珍しいかもしれないが、しかしこれが、やっぱりクリント・イーストウッド作品でもあるということは、本人の思惑など関係なく、他人がその人物の本質を決めつけてしまう、ラベリングそのものの映画であったということで存分に示される。(ヒロインのことを「決めつける」という意味では、ヒロインの唯一無二の理解者であるはずの、ジョン・マルコヴィッチでさえ例外ではない(「息子さんはあなたを待っているでしょう。天国で。」というセリフの重さに敏感であろう!)。)
 この「決めつける」というアクションによって、過去8年の合衆国は堕ちるところまで堕ちたわけで、そのリスクはすでに『パーフェクト・ワールド』によって、ガンガン警鐘が鳴らされていたはずなのだ。

 ロン・ハワードとクリント・イーストウッドの結合。これほど重く熱い作品が望めようか。

2009/2/21

『ベンジャミン・バトン』のジュリア・オーモンド  映画

 トリュフォーに、「二人のイギリス人女性と大陸」という原題を持つ映画があることはさておき、ジュリー・クリスティやジャクリーン・ビセットに過剰な思い入れがあるように、どうも私はイギリス人女性がやたらに好きなんじゃないだろうか、と突然思い始める。
 ケイトといえば、断固としてベッキンセールかウィンスレットのどちらかであって、今こうして書きながらも、どうしてもブランシェットという姓は、調べないと出てこない。

 そんなわけで、『ベンジャミン・バトン』について、一通りのレビューが出そろった感があり、この映画を悪く言う人はほぼ皆無のようだ。
 でも、これは自分もそうだったから大きなことは言えないが(というか、長くなりすぎるので優先順位的にカットしたのだが)、誰一人として、この映画のジュリア・オーモンドについて触れていないのは、なぜだろう。

 ひょっとしたら誰の目にも入っていないようなので、念のため書いておくと、死の床にあるケイト・ウィンスレットの娘役で、ベンジャミンの手記を朗読したのが、彼女である。
 シドニー・ポラックによる、『麗しのサブリナ』の悪名高いリメイク、『サブリナ』で名を売ってしまったことで、どうもその後の女優人生が狂った感があるが、リチャード・ギアとの『トゥルーナイト』(ジェリー・ザッカー)でもわかる通り、絶世の美女である。
 ちなみに『ベイビー・オブ・マコン』(ピーター・グリーナウェイ)では、彼女の全裸を見ることができる。

 もう43歳とはいえ、『ベンジャミン・バトン』のジュリア・オーモンドはずいぶん老けていて、その顔にはかなりの皺が刻まれていた。
 そして、刻まれた皺を隠そうとせず撮っていることに、私は感動した。
 ベンジャミンのどんどん失われていく皺と、どんどん増えていくケイト・ベッキンセール(デイジーだっけ?)の皺との対象が、『ベンジャミン・バトン』のひとつの説話のしかけだったわけだが、決して変わらず「今そこにある」皺としてのジュリア・オーモンド。
 ここに目を向けなければ、もうひとつ『ベンジャミン・バトン』の「ものがたり」を掴みきったことにならないように思うのだ。

 別にネタバラシにもならないだろうから、書いてしまうと、ここでのジュリア・オーモンドは、ベンジャミンとデイジーとの愛の結晶。
 成長した彼女の、「今そこにある」皺をスクリーンいっぱいにさらすことで、決して変わらぬ真実、すなわちベンジャミンが求めてやまなかった「永遠のもの」というのが、まさにそこにあるということだ。
 ベンジャミンとデイジーの間に彼女が存在したという、絶対不変の真実が彼女の顔と共にスクリーンに定着している。「永遠のもの」はある。
 『ベンジャミン・バトン』のジュリア・オーモンドの存在は、決して小さくない。それどころか、映画の最終的な中心としてそこにいる。

2009/2/19

トリュフォーは意外と・・・  映画

 昨日、ジュリー・クリスティのことを書いたとき、『華氏451』の彼女はちょっと違和感ということを、呟いてしまった。
 それで少し思ったのだけど、フランソワ・トリュフォーという人は、案外、女優を美人に撮り損ね続けた監督じゃないだろうか、と神をも恐れぬことを考えてしまう。
 全編観る時間はないけれど、ちょっと『華氏451』のDVDを引っ張り出して再生してみたら、やはりジュリー・クリスティにそれほどピンとはこなかった。
 急いで付け加えておくと、もちろん大好きな映画ではある。それはともかくとして。

 フランソワーズ・ドルレアックも、カトリーヌ・ドヌーヴも、晩年のファニー・アルダンも、これだけの美女を使いつつ、それぞれの最高の美を撮ったわけではないような気がする。そもそも、女優としての力はともかく、ジャンヌ・モローを美人だと思う人はいないでしょう?(たぶん)
 例外はイザベル・アジャーニか。もっとも『アデルの恋の物語』から10〜15年くらいの彼女なら、誰がどう撮っても映画史上最高の美女に映るに決まっている。それについてトリュフォーの功績は、彼女を映画の世界に引っ張り出したという点に尽きる。

 こうしてみると、女性好きとか言われもするが、トリュフォーは意外と女性の「顔」そのものには興味がなかったのでは、と邪推する。
 トリュフォーが好きだったのは、足とか背中とか、そうした接写的フェティシズムであって、ほれぼれとその美貌を眺めてしまう、ということはなかったのではないだろうか(一番きれいな時期(『アメリカの夜』(1973)のジャクリーン・ビセット(29歳。ちなみに、役名はジュリー)を使ってもなお!)。
 あるいは、実際にその「柔らかい肌」(足とか)に触れてみたときのその感触。
 そもそも、処女作『あこがれ』のベルナデット・ラフォンへの(トリュフォーの)興味の中心は、誰がどう見てもその容姿ではなくて、彼女の肉感であるはずだ。
 
 で、その点、女性の「顔」が好きだったのはゴダールの方ではないか。『アワ・ミュージック』の問答無用のアップは、美人度がいまひとつで残念だが、アンナ・カリーナはもちろん、マルーシュカ・デートメルス、ミリアム・ルーセル、ジュリー・デルピー…。いちいち作品名は挙げないが(挙げるまでもないくらいに、それぞれの「顔」は印象的だと信じる)、彼女たちはみなその顔、そして美貌…のアップによって記憶に刻まれる。

 私自身は、女性の身体パーツ以上に、やはり容貌に対して感興を抱く方なので、何となくゴダールに対して共感を覚える(こうなると、FT、JLG以外のヌーヴェル・ヴァーグの面々は全員NG)。
 もっとも、そこだけ取り出すならばロジェ・ヴァディムという、それだけやらせたら世界一の監督の名前が出てきてしまうわけだが。
 以上、無意味な独り言でした。



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