2009/3/31

『崖の上のポニョ』、全米公開決定!  映画

 『崖の上のポニョ』がアメリカ合衆国で公開の運びとなる。8月14日とのことだ。
http://www.slashfilm.com/2009/03/24/hayao-miyazakis-ponyo-gets-us-release/

 これによると製作総指揮に、ピクサーのジョン・ラセターが入る。これは『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』のアメリカ公開版と同様。
 直接のプロデューサーとしては、キャスリーン・ケネディとフランク・マーシャルの、スピルバーグ組、それからスティーブ・アルパートという人物が担当する。こいつは、『もののけ姫』のアメリカ公開版で、日本語脚本を英語に翻訳した人物(それを元に英語版の脚本化を行ったのがニール・ゲイマン)。
 
 で、今回のたぶん目玉となるのが、『ポニョ』の英語版脚本にクレジットされるのが、なんとメリッサ・マシスン。もちろん『E.T.』の脚本を書いた人物だ。このへんは、さすがマーシャル/ケネディがプロデュースしてこその、クレジットだと思う。
 『もののけ姫』の英語脚本は決して悪くないので、今回もそれなりのものになればよいと思う。

 ちなみに声の出演は、ポニョの声として、ノア・サイラス。これ、ちょっと興味深い。この子は、『シークレット・アイドル ハンナ・モンタナ』で大ブレイクした、マイリー・サイラスの妹。
 宗介が、フランキー・ジョナス。こいつも、ジョナス・ブラザース3兄弟のそのまた下の弟でこれも大抜擢か。
 これで、なるほど配給ディズニーの企みもわかろうというもので、ディズニーによる全米大ヒットの3Dライブ映画『ハンナ・モンタナ 3Dライブ』と、それにあやかった第2弾で、これは「ハンナ・モンタナ」ほどではなかった、やはり3Dライブ『ジョナス・ブラザーズ/ザ・コンサート3D』の勢いをそのままぶつけようというわけだ。
 ディズニーのハンナ・モンタナ、ジョナス・ブラザーズへの力の入れ方は並大抵じゃない。

 他の声としては、ケイト・ブランシェットとマット・デイモンとリアム・ニースンとティナ・フェイとリリー・トムリンが発表されているが、この人たちが誰の役をやるかはあまりにもわかりやすいね。
 マット・デイモンの耕一やリアム・ニースンのフジモトというのは、ある意味ぴったりか。リリー・トムリンのおトキさんというのも爆笑ものだ。決して否定しない。ティナ・フェイのグラン・マンマーレはいくらなんでも美人すぎるが。

 しかし、ケイト・ブランシェットの声で、「♪わたっしはー、げぇんき〜♪」と歌うとは思えないが、このへんはどのように処理するのか、きっとDVD発売の折には英語版も収録されるだろうから、少し楽しみではある。

 ん? 待てよ、ケイト・ブランシェットがグラン・マンマーレで、ティナ・フェイがリサの方かな? ちょっと自信なくなってきた。

2009/3/30

モーリス・ジャール死去  映画

 モーリス・ジャールの訃報をきいて驚く。つい昨年末に、『アラビアのロレンス』リバイバルに伴い来日したかと思うが、ガンだったのだそうだ。84歳。

 モーリス・ジャールというと確かに知名度は高いし、作品数も多いはずだが、もうひとつ「名曲の数々」を作ったという印象がない。
 たとえば、アカデミー賞ノミネートもされた『ゴースト/ニューヨークの幻』の音楽を覚えている人間っているのだろうか? 記憶に残るとしたら、ライチャス・ブラザースのあのへにゃへにゃな“Unchained Melody”だけではないか。

 思い出せる限りで書くと、『刑事ジョン・ブック/目撃者』とか『危険な情事』とか、そこに流れていた音楽がまるで頭に浮かんでこない。
 出世作『シベールの日曜日』はもちろんすばらしいが、あれはバッハやアルビノーニであって、モーリス・ジャールのオリジナルではない。
(全然関係ないが、『シベールの日曜日』の超美少女パトリシア・ゴッジは、絶対に『ミツバチのささやき』のアナ・トレントをはるかに先取っていると思う。エリセが彼女をキャスティングするにあたって、『シベールの日曜日』が念頭になかったとは言わせない)

 たぶん、モーリス・ジャールはメロディ・メーカーというより、偉大なる劇伴の人だったのだ(『ファイアーフォックス』の胸躍るリズムなら思い出せる!−が、メロディがあった気はしない)。その意味で、ジェリー・ゴールドスミスに近い人なのだと思う。

 モーリス・ジャールといえば、やはり『ドクトル・ジバゴ』の「ララのテーマ」に尽きる。『アラビアのロレンス』の無意味に大層な音楽など、映画ともども語るに値しないが(逆にいうと『ロレンス』にあの音楽がなければ、これほど有名になったろうかとも思うのだが)、「ララのテーマ」のはかなく壊れてしまいそうな、可憐なメロディをこそ讃えたい。

 ところで、私が中学生のときに図工の時間に作ったオルゴール用に選んだ曲が「ララのテーマ」。他に「エリーゼのために」とか「白鳥の湖」、「アヴェ・マリア」とかがあったと記憶するが、これはためらわず「ララのテーマ」でしょう。
 工作そのものはぶっこわれたが、オルゴール部分は手元に残してあって、ときどきゼンマイを回している。いまだに動く。
 それを奏でつつ、ご冥福をお祈りします。

2009/3/29

『バオバブの記憶』,『長江にいきる』  映画

本橋成一『バオバブの記憶』
 『ナージャの村』も『アレクセイと泉』もすばらしかった本橋成一の新作。
 今度はセネガルで、バオバブの木と共に生きる人々を、ある一家庭を中心に記録する。どんなことが描かれているかは、二井康雄さんの紹介がとても詳しいのでこちら。
http://www.nichibun-g.co.jp/magazine/cinema/035.html

 この作品のいいところは、失われようとする文化とか生活様式に対する、ドルやユーロや円を持つ側からの、一方的で浅薄なノスタルジーに毒されていないことだ。ただそれそのものを撮る。目の前の現象に、興味を持って、驚きつつ、カメラを向ける。
 だからたとえば、村の人々が待ちに待った雨がとても爽快だ。そして、その後なぜか大量発生するカエルの群れの面白さ。次々と交尾しまくって、雨後の水たまりにはまたまた誕生している、大量のオタマジャクシのユーモア感。

 そしてバオバブの木。風景としてのバオバブを映しても、「きれいだな」としか思わないが、食用にするため、または娯楽として、その葉を刈ろうと大人も子どもも木に登る。
 そのとき、人間の体の縮尺との比較で、その木が驚くほど巨大であることがわかって、そこにも目が驚かされる。
 被写体に対する尽きせぬ好奇心。これが『バオバブの記憶』のこころだと思う。

フォン・イェン『長江にいきる 秉愛の物語』
 三峡ダムをめぐるフィルムは、『水没の前に』、『長江哀歌』と、いずれも震えるような傑作だったが、こちらも強い。
 この作品は、特に「ひと」に力を入れて撮影している。女性監督らしく、ダム建設による立ち退きを前に、家庭を守る身として、ある一主婦がいかに闘ったかをとことん取材。

 住民として当然の主張をする秉愛と、政府の指示以上のことはできないと主張する村の顔役との、永遠に平行線をたどる不毛な議論。
 ここで、監督フォン・イェンがダム建設に伴う立ち退きというテーマから、さらに大きな主題として発見したのが、「ひとりっ子政策」だ。
 手作業を続けながら、かすかなはにかみ笑いを浮かべつつ、何人もの子どもを堕ろした経験を告白する秉愛。「どういうわけか、いくらでも妊娠した」と淡々と語るその姿に、どこまでも「政府方針」に人生を左右される「女」というものを見る。
 さらにその前には、文化大革命さえくぐり抜けているのだ。
 三峡ダムという「過去」と、それ以前に遡る政策という「過去」が交差し、作品は大変な奥行きを帯びる。

2009/3/28

『フロスト×ニクソン』,『リリー、はちみつ色の秘密』  映画

ロン・ハワード『フロスト×ニクソン』
 いやいや、期待にたがわぬ見事という他ない、スマートにして華麗な傑作で、およそケチのつけようのない、ロン・ハワード会心の一打。
 これについては、5月公開の『天使と悪魔』とあわせて、私のロン・ハワード論の「増補」で書き尽くすつもりなので、コメントは控えようと思う。
http://foodpia.geocities.jp/howardthemovie/

 1つだけ書いておく。ブログに書く事柄として適当な、どうでもいいことだけ。
 デヴィッド・フロストが、まあさして深いことは考えずに、リチャード・ニクソンが(ヘリコプターで)ホワイトハウスを去っていく様子を、テレビで目にした。
 「今、午前9時だけど、西海岸だと何時なの?」と聞くフロスト。「6時? じゃあアメリカ人の半分はまだ寝てるじゃん」と、さすがテレビ人。鋭いところを突いてフロストの有能さを見事に刻み込むが、はじめこそそんな軽口を叩いていたが、ブラウン管に映ったニクソンの様子にいつしか見入って、それに取りつかれてしまうフロストの瞳。

 このあたりの表現が、万田敏邦の『接吻』で、小池栄子が殺人犯・豊川悦司に魅入られてしまうあの屈指のシーンに、まったくもってそっくりなのだ。
 もちろん、ロン・ハワードが『接吻』を観ているとは思えないので、偶然に決まっているのだが、ほぼ同時期に西のハワードと東の万田が、テレビに映る「犯罪者」に吸い込まれる運命の人を描いたという偶然に驚く。

 今はとにかく、ロン・ハワードにまたしても最高傑作が登場したとだけ書いておく。
 なお、シャンテが初回、2回目、3回目と全部満員札止めとなり、とてもうれしい。

ジーナ・プリンス=バイスウッド『リリー、はちみつ色の秘密』
 製作の1人がウィル・スミスで、製作総指揮にジェイダ・ピンケット・スミス。そんなわけで、出演者がクイーン・ラティファに、アリシア・キーズ、ジェニファー・ハドソンと、すごいところをそろえてきたが、その中心にいるのがダコタ・ファニング。
 さすがに『宇宙戦争』を支えた少女。乳歯がぼろぼろ抜けてきていて、一時期は少々見苦しかったが、今はすっかり永久歯も生えそろって、ときにセクシーですらある。
 そして、この映画でも決して激せず、言葉の抑揚だけで、かなり激しく揺れ動いているはずの感情を表現してみせる離れ業をやってのけた。

 映画もいい。相手の話を聞き、理解し、決して激しなければ、これほどコミュニケーションがうまくいくということを描いて、とてもすばらしい。
 ダコタ・ファニングの激せぬ言葉の意味はそこだ。そしてその実践は、クイーン・ラティファの堂々たるコミュニケーション力にあって、どんな場合も激したらおしまいなのだ。
 激する者と、絶対に激さない者。激する者は醜い。ダコタ・ファニングも実際にそう口にするように、どちらに徳があるかをこの映画は見事に示していると思う。
 
 この映画では、大声を出して激するのは常に白人男性だが、ジェニファー・ハドソンと、ダコタ・ファニングと心を通じ合わせる黒人少年、トリスタン・ワイルズも激しかける。が、そこを制する気持ちがあるが故に、それにふさわしい結末が待っている。

 だがしかし、この映画の舞台となった養蜂場にはとても美しい日差しが指し、気持ちのよい風が常に吹いているのだが、白人娘、ダコタ・ファニングの髪はいつでも美しく風にそよいでいるのに対し、それ以外の黒人たちの髪は決してなびくことはない。
 両者の溝が埋まるには、まだまだ長い時間がかかることを暗示して、これもすばらしい。

2009/3/27

リリングのバッハ大全集の新しい形態  音楽

 ヘルムート・リリング監修で、CD172枚にJ・S・バッハ全作品を収めた、Hanslerの、「バッハ大全集」。
 タワーのフリーペーパー「Intoxicate」最新号に広告があって、この全音源が

2009/3/26

スタローンの失望はいかに  映画

 ネット上の映画情報をあれこれ眺めていて、逐一URLは示さないけれど、アン・ハサウェイ様がジュディ・ガーランドの伝記映画で主演するとか、ウディ・アレンの新作にニコ様とナオミ・ワッツ様が共演しちゃうとかで、ついつい顔をほころばせてしまうと、コーエン兄弟の新作が『勇気ある追跡』のリメイクだと知って、無暗にイラついたりとか。

 そんな中、シルヴェスター・スタローンの新作“The Expendables”のキャストがまたまた変わったというニュースが入って、いったいどうなってるんだと思うと、降板したのはフォレスト・ウィティカーだった。
 既にベン・キングスレーにも逃げられているだけに、これはスタローンもさぞ残念がっているに違いない。
 すでに確約済みの出演者であるミッキー・ロークが、今年のオスカーをショーン・ペンに持って行かれたことで、運も逃げたといったところだろうか。
 うまくすれば、スタローンのアクション映画に、3人のアカデミー主演男優賞受賞者が出演するという事態もあり得たのだ。

 というのは、スタローンほど、自分の作品にハクをつけたがっているのに、どうにも不運で、それが叶わない映画人もまたいないと思われるからだ。
 たぶん彼が最もうれしかったに違いないと想像するのが、『コップランド』の監督にジェームズ・マンゴールドを得たこと、何より、ロバート・デ・ニーロとハーヴェイ・カイテルの『レイジング・ブル』コンビを共演に迎えられたことだろう。(私見では、『ロッキー2』の方が『レイジング・ブル』のファイトシーンに影響を与えているのだが)
 ついでに言うと、『コップランド』にはレイ・リオッタも出ていて、要するに『グッドフェローズ』の面々が勢ぞろいしているわけだ。本当ならスコセッシに監督もやらせたかったんだろうと思うが、さすがにそこまでは。
 同じイタリア系ということで、スタローンにとって、スコセッシなんかは仰ぎ見る存在だろうと想像すると、スタローンもずいぶんと呪われた映画作家じゃないかと思う。

 何度も書いているような気がするが、つくづくこの人は師匠にあたる監督と巡り合えなかった。だから監督業もどうにも中途半端な作品数になった。80年代のどこかできっちり好きな作品を撮るには、マネーメイキングスターとして、やはり周囲がそれを許さなかったのだろうか。
 それを思うと、トップスターでありながら、じっくりと監督修業をなし得たイーストウッドの70年代の方が、時代がまだ緩やかだったのか、または人間が凄すぎるのか…。

2009/3/25

藤純子と牛乳、そして『侠骨一代』  映画

 あまり深い考えなく、何となくマキノ雅弘『侠骨一代』(1967)を眺めていて、ずいぶん前に見たときは迂闊にもスルーしたのだが、藤純子が登場するたびに飲んでいる牛乳にぐっとくる。

 この映画の藤純子は、飲み屋の女郎。母親に瓜二つという偶然から、高倉健から熱い想いを寄せられるが、「あたしゃ、ダルマ(女郎)だよ」ということで、藤純子も静かに激しく高倉健を愛するものの、その恋はあらかじめ封じられていることを強く自覚している。

 その藤純子は、画面に登場するたびに、ビンから牛乳をぐいぐい飲んでいて、そして、いつでも首に白いスカーフを巻いており、それがあまりに切なすぎる。
 映画の舞台は昭和のはじめ。この頃、牛乳を飲みまくっているとしたら、それはつまり、彼女が結核を病んでいるということだ。一瞬、梅毒予防だっけか? と思ったが、スカーフを巻いていることからも結核のはずだ。滋養をつけなければいけないし。

 東京市に水道管を通すという事業を請け負ったところ、敵方ヤクザに邪魔されまくって難儀する高倉健のために、大金を作ろうと、藤純子は身を売って、所もあろうに満州へと向かうのだ。

 満州行きの船から港を見やる藤純子だが、その見送りの場に高倉健はいない。いるはずもない。なぜなら高倉健は最後の決戦にドスを持って向かっているから。
 見送り人もなく、孤独に満州へと向かう藤純子の姿の痛々しさには、涙が出るとかそんな生易しい話じゃなくて、彼女はそのときも大きな牛乳ビンを持っている!

 そのあまりといえばあまりの彼女のノーフューチャーぶりに、おそらくマキノが描いた最も凄惨にして残酷な女の末路を見る。
 春を売るために満州に行くということ。結核の身で、苛烈にもほどがあるそんな環境へと赴くこと。これから彼女を待ち受ける運命の激烈さは、蟹工船どころの騒ぎでなく、確実に1年以内に命を落とすだろう。
 
 そもそも、恋する人のために、よし、自分の体などものの数ではないと決意した藤純子は、そのとき手にしていたビンから牛乳をガブ飲みするのだが、勢い余って口の端から牛乳が滴り落ち、そのまっ白い液体が彼女の口元から指先までをしとどに濡らすというそのエロス!(誓って言うが、決してAV的なあれを連想したわけではない)。
 
 いったいどこにどんな描写が潜んでいるかわかったもんじゃない。恐るべしマキノ。

2009/3/24

スタンリー・クレイマー勉強中  映画

 気まぐれといえば、気まぐれな動機にすぎないのだが、ここ数年のアメリカ合衆国の現状と照らして、スタンリー・クレイマーという人物のことが気になってならず、本人による回顧録(Thomas M.Coffeyとの共著)、“A Mad,Mad,Mad,Mad World”(Harcourt Brace)と、Donald Spotoによるレヴュー集、“Stanley Kramer Film Maker”(Samuel French)を読み進めているのだけど、これが滅法面白い。

 どう面白いかは別の機会に譲るが、しかしどちらの書物もまったく触れていないのが、「赤狩り」のことなのだ。
 クレイマーによる回顧録は作品にまつわる思い出話にすぎず、スポトーによる書物は、50年代における時代背景にはほとんど触れていない。
 ことにスポトー(ヒッチコック、スタージェス、モンローなど、やたら書いている伝記作家)は、赤狩りのあたりはややこしすぎるから避けて通ろうという意識があからさまだ。
 クレイマー自身の回顧録にしても、そもそもマッカーシーの名前ひとつ出てくるわけでなく、自分がそのさなかにどうふるまったかには、何一つ語っていない。これはやはり困るわけで、これほど極端にリベラルな作風を持つ映画人が、赤狩りの火中に無傷でいられるはずがなく、実はこのへんがあまりよくわからない。
 上島春彦さんの労作『レッドパージ・ハリウッド』(作品社)も、決して多く語っているわけでなく、むしろヴィクター・S・ナバスキー『ハリウッドの密告者』(論創社)の方に、書き込みがある。
 しかし、どちらにせよクレイマーの振る舞いが詳らかになっているとは言い難い。やはりそこは闇のままである。

 で、面白いというのは、やはりクレイマーの作品そのものだ。
 たとえば、『風の遺産』(1960)という作品がある。何が面白いって、これは1925年テネシー州での「モンキー裁判」を再現している。
 モンキー裁判とは何か。それは、人は神の創りし者だから、ダーウィンの「進化論」を学校で教えるのは禁止! という州法を破った中学教師(『奥様は魔女』のダーリン役、ディック・ヨークなのが笑える)が逮捕され、解雇されたことに端を発する。
 それに怒った新聞記者(ジーン・ケリー!)が、老獪なリベラル派弁護士スペンサー・トレイシーを雇うが、州側はキリスト教極右の弁護士フレデリック・マーチを立てて対抗する。
 このフレデリック・マーチを神の使いと、街をあげての大歓迎。一方、中学教師とスペンサー・トレイシーは悪魔の手先だと、街中の敵意に包まれる。

 そんなことはものともせずに、スペンサー・トレイシーとフレデリック・マーチの、炎が噴きあがるような、すさまじく熱い弁論合戦が展開される。
 映画史に裁判シーンは数あれど、ここまで激烈な答弁のやりとりはたぶん皆無
 あまりに熱くて、129分の上映時間、1秒たりとも気を逸らさせない。

 裁判の行方そのものは、ナイルズ・エルドリッジ『進化論裁判』(平河出版社)にあたるのがたぶん一番よくて、これを参照する限りでは、クレイマーは、映画的な脚色を施すことなく、ほぼ事実通りに映画化しているようだ(これには仰天させられる)。

 そこで、昨年のギャラップ調査ではアメリカ人のほぼ半数が、「ヒトは神が創った」と信じているというデータがあって、さらに前大統領、子ブッシュが「インテリジェント・デザイン」(人類は猿から進化したのでなく、何か偉大なる「知性」が想像したという考え)を指示し、学校でも教えるべきだと発言したことと照らしてみる(宇佐和通『インテリジェント・デザイン ID理論』(学研)参照)。
 そうすると、ますます『風の遺産』という映画の価値と興味と面白さが高まるのだ。80年以上前の事件を扱った、50年近く前の映画だが、古びるどころかますます新しい。

 『手錠のままの脱獄』、『渚にて』、『招かれざる客』、『ニュルンベルグ裁判』、『誇りと情熱』・・・、どれもこれも、題材の挑発性と面白さにおいて、クレイマーは図抜けて面白い。
 で、まさに「男」の映画としてのクレイマーとの比較において、「女」の映画としか言いようがない、同時代のジョセフ・L・マンキーウィッツを参照すると、探っていきたいテーマが膨らんでしまってどうしようもなくなる。
 ちなみに、ウルトラリベラルのマンキーウィッツは、まさに赤狩り真っ只中の50年代に、全米監督協会の会長を務めていて、反共の急先鋒セシル・B・デミルと真っ向から激突するわけだ。
 いやはや、1年くらい引きこもってじっくり取り組みたいものだ。さすがにテーマが大きすぎて私の手に余る。

2009/3/23

ユニバーサル・セレクションがまたまたすごい  映画

 ユニバーサルのDVD新発売ラインアップの、ユニバーサル・セレクション2009年第5弾(6月5日発売)が発表されて、またまた開いた口が閉じられなくなる。
 またしてもイギリスものの珍作リリースがやたらにある他、個人的にはクルーゾーの『密告』の廉価化。そして、何より驚いたことには、コクトーの『オルフェの遺言−私に何故と問いたもうな』のリリースだ。
 『密告』も『オルフェの遺言』も、初ソフト化ではないはずだが、この値段(1500円)でのリリースは有難すぎる。

 コクトー作品は、処女作『詩人の血』はもちろん、どれもこれもすばらしいのだが、ことに『オルフェの遺言』が私自身にとって、強い印象を残しているのは、映画それ自体の印象も、そして遺作である、ということもさることながら、山田宏一さんによる、コクトー自身による詩もかくやという美しい、紹介文が際立っているからだ。
 もったいないので、ここに引用するわけにはいかない。もったいないというより、長すぎるからなのだが、それは『エジソン的回帰』(青土社)のP.78〜79にかけての文章。
 実に12行、約570字にわたって、途切れずに続く長い長い一文。

 ここを読んで、直ちに『オルフェの遺言』を観ねば(というよりコクトー全作品)、と思わなければ、その人は映画とは無縁の人と信じるが、その12行の後に続けてさらに追加で3行。これは引用しておくと、

「最後にシャボン玉が砕け散って煙に変わり、そこに「終(fin)」の字が浮かぶとき、すべてはあたかも『詩人の血』が煙突の崩れ落ちる一瞬の出来事であったように、『オルフェの遺言』もまた一睡の夢にすぎなかったことを想起させるという幕切れである。」

 文章の美しさに泣く。

 このユニバーサル・セレクションのシリーズ、もっともっと続けてほしい。私が宣伝する義理はどこにもないのだけど、とても貴重なリリースだ。

(全然関係ないが、『サイコ4』も発売。これ実はすごく面白い作品で、ノーマン・ベイツがあんなんなっちゃう起源を描いた一品(同じ起源ものでも『ハンニバル・ライジング』のような噴飯ものではない)。
 キャスティングが笑えて、ノーマン・ベイツのティーン・エージャー時代を、『E.T.』のヘンリー・トマスくん、『サイコ』ではただの白骨だった、ノーマンの母親を、まだギリギリ美人で通用するオリビア・ハッセーが演じている。ミック・ギャリス監督。1990年作品。ある意味このリリースが一番画期的。正直、傑作。)

2009/3/22

『パッセンジャーズ』  映画

 ロドリゴ・ガルシア『パッセンジャーズ』
 デビュー作、『彼女を見ればわかること』はものすごい傑作で、これはとんでもない新人が現れたと興奮したのだが、2作目の『彼女の恋からわかること』が、あまりにも見当はずれの愚作で眼を疑ったところ、3作目の『美しい人』では完全に見捨てざるを得なかったロドリゴ・ガルシア。
 アン・ハサウェイが出ていなければ、見に来ることはなかっただろう。
 この監督の何が悪いというなら、たぶんこの人は普通の人ならこうする、という行動把握が完全にピント外れで、こういう人は常識的な日常生活も無理なんじゃないかと疑ってしまう。大作家の息子だから、根本的に生活が違うんだろうかとさえ思う。

 ただ『パッセンジャーズ』には、ひとつエクスキュースがあって、どんなに登場人物の行動がデタラメでも、結末を考えるならば、まあ説明がつく。
 たまたま私は映画が始まって、アン・ハサウェイ登場後3カット目くらいで、「とほほ、そういうオチか」、とわかってしまったので、まあ見ていられたのだけど、そうでない人なら、噴飯もので劇場を出てしまってもおかしくないんじゃないだろうか。

 ハル・ベリーが出た『パーフェクト・ストレンジャー』のときも感じたけれど、オチが勝負の映画は、なまじマジメに伏線なんか張らないほうがいいんじゃないだろうか。
 伏線なんか張るから、その無理な伏線が、ただ単に人物の行動がヘンで、従って演出の考慮不足と感じながら見ることになり、結局、駄作としか思えない。

 たとえばの話、アメリカで独り住まいをする女性は、(二重ロックをかけているのに)ドアの呼び鈴が鳴った時、訪問者を確認することなく扉を開けることなど絶対にしないとか、そういうことだ。
 映画が始まって、ぴったり半分のところで、アン・ハサウェイがパトリック・ウィルソンとセックスを始めちゃうのも、やっぱり困るのだ。
 うらやましいとかそういうことでは(たぶん)なく、無意味にもほどがあって、でもまあ、それらも来るべきオチを考えると説明はつくのだ。
 そのパトリック・ウィルソンがやることなすこと、すべてがカンにさわるのも、オチを考えるとまあな、と思えるわけで、結局オチが明かされるまでの展開は、何のために見せられているのかわからなくなる。

 見どころとしては、髪をまとめたり、おろしたりする、アン・ハサウェイ様がどっちにしても、かわいらしすぎるということか。



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