2009/3/4

絞首刑、そして『チェンジリング』  映画

 真面目に論じるつもりなら、イーストウッドの全ラインアップをもう一度再検証しないといけないはず。その自己反省をあらかじめしたうえで、クリント・イーストウッドの絞首刑ですぐに思い出すのは、『続・夕陽のガンマン』、そして『奴らを高く吊るせ』だろうか。
 ひょっとして、もっと重要な何かを連想しそびれていたらご寛恕を。

 いずれもイーストウッド監督作品ではないが(前者がセルジオ・レオーネ、後者がテッド・ポスト)、どちらの絞首刑も未遂に終わっているのだ。(いや、『奴らを高く吊るせ』の無数の絞首刑は確かにすべて完遂されるが、ここでは冒頭のものだけを指すので、念のため)
 だから、『チェンジリング』で実行された絞首刑で、あいつは本当に死んだんだろうかという不安がかすかによぎる。

 亡霊としてのイーストウッドというテーマは、もはや手垢にまみれた感があるが、亡霊としての実行犯。殺しても殺しても、後から後から湧いてくるサイコ・キラーというのはどうだろうか。奴らこそ亡霊のようなものじゃないのだろうか。
 『ミスティック・リバー』の悲劇のすべての元凶となった、幼き日の誘拐者の正体もよくわからないように、奴らはなぜにこうも次々と現れるのか。この終わらない暴力。
 
 『チェンジリング』の絞首刑はなるほど、イーストウッド作品の中でも屈指のディテールで描写される。(これに匹敵する死刑シーンはティム・ロビンスの『デッドマン・ウォーキング』(これは『ミスティック・リバー』で殺された役者が監督し、殺した役者が死刑になる映画だ! 信じられるかこの偶然!)くらいか)
 しかし、いや、だからこそ私は、どうしても、あいつの「13階段踏まなかったぞ!」という凍てつく叫びが、耳に残ってならない。13階段踏まなかったあいつは、真実には死ななくって、いまだ冥府を彷徨っているのではないだろうか。

 彼の亡霊が、たとえば約35年後のサンフランシスコに、ハリー・キャラハン刑事を苦しめた「スコーピオ」として転生し、少女を殺害し、スクールバスをジャックして、子どもたちを恐怖のどん底に叩き落とす。そして、これは断じて見逃してはならないことだが、そのバスの運転手は女なのだ
 『チェンジリング』で首をくくられてもなお、13階段を踏まぬことで、地獄に落ちそびれた暴力の行使者は、何度でも蘇ってくる。だから暴力の連鎖はとまらない。
 そして、いつまでも女と子どもがひどい目にあい続ける。
『チェンジリング』における絞首刑の、何たる薄ら寒さ…。



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ