2009/5/31

『私は死んでいない』 必見の大傑作!  映画

 またしてもすさまじい映画を見てしまい、取り乱さずにいられない。
 ジャン=シャルル・フィトゥシ『私は死んでいない』
(2008/フランス/188分) 於 フィルムセンター。EUフィルムデーズ2009。

 これもとにかく必見! アサイヤスもいいかげんすごかったのだが、『私は死んでいない』の充実度もすさまじい!
 次の上映は6月10日(水)18:30! またしても平日のこんな時間で、普通の人は観ることかなわないはずだが、何かを捨てても是非駆け付けるべきだ!

 あまりに感動したので、上映終了直後、スクリーンそばに立っていたフィトゥシ監督の所に、突っ走って行き、強引に握手を求めてしまう。「ワンダフォー!」と叫んだのか、「トレヴィアン!」と叫んだか、はたまた「ブラヴォー!」と叫んだのか、よく覚えていない。
 監督は親切に握手に応じてくれ、日本語を少し知っておられるのか、「ホント? ホント?」と何度も私に問い直す。
 英語でもよかったのかもだが、フランス語ができないのをこれほど悔やんだことはない。しょうがないからその時、手に持っていて、涙でぐっしょり濡れたティッシュペーパーを監督に示して、泣くふりをしてみせる。
 監督も「Ah…」といっしょに泣くジェスチャーをしてくれ、それに対し言葉が出ぬ私は、日本語で「ありがとー、ありがとー」とバカみたいに繰り返すしかなかった。

 フィトゥシ監督は1970年生まれの若手だが、ストローブ/ユイレの助監督を務めてきた大物。最新作『ジャン・ブリカールの道程』、『アルテミスの膝』から、『今日から明日へ』、『シチリア!』など、何本ものストローブ/ユイレの助監に就いている。
 なお、紀伊国屋書店から出ているDVD『シチリア!』コレクターズ・エディションには、フィトゥシ監督によるメイキングが収録されていて、おおいに見せる。
 詳しい経歴はここで参照できる。
http://www.villa-kujoyama.or.jp/spip/spip.php?article977

 ストローブ/ユイレと仕事をするくらいだから、芸術肌の強面かと思うと、上の私の恥さらしを気持ちよく受け止めてくれたように、とても温和で温かい雰囲気の、小柄でちょっとハンサムな気持ちのいいお兄さんといった風情である。

 さて、『私は死んでいない』なのだが、上映前に監督から解説があり、これは精霊の視点で描いた作品ということだ。
 映画は女性のオフの声で始まるが、その声は植物状態の初老婦人の意識内の声だということが、すぐにわかる。
 2階自宅のベッドに寝たきりの彼女は、まだ高校生とおぼしき娘が介護しており、この娘がしきりに優しく(聞こえぬであろう)母に語りかけ、同じ部屋で寝起きしている。
 その声に、母は答えているつもりではあるが、その声が娘に届こうはずはない。

 と、これはほんの導入にすぎず、そこから先は時空を超えて、さまざまな「愛」の感情を188分かけて描いていく。驚くべきことにすべて即興で撮られたとのことだ。
 描かれているのは、愛する者を失うことの喪失感と、それを再び得るための静かで熱い情熱についてだ。
 ある男は失った愛をとり返さんと彷徨を重ね、さまざまな人物とすれ違う。ある少年は愛する人を探してやはり彷徨を重ねる。

 教会での演奏会。モーツァルトの歌曲が見事に美しく歌われるとき。それを歌う少女が、はじめはたどたどしく、やはりモーツァルトのソナタを弾いているのだが、それがいつしかカットが替わり、編集のマジックによってピアノの弾き手がいつの間にか交代し、歌曲に変わる。
 カメラは狂おしいほどに、その歌を追いかけ、やがて彼らはついに「愛」を発見し、第一部終了となる。ここにやられた。「天上の音楽」モーツァルトのすごさを見せつけている。

 映画で描かれた「愛」は、登場人物たちをときには優しく、ときには情け容赦なく傷つけていく。イーストウッドもかくやと思われる、自然音による風の音がとても痛い。
 この映画ではほとんどの場合、屋外で人と人が出会うのだ。人は画面外から不意に入ってきて、やがて歩み去っていく。
 その過程の中で、これは途方もないハッピーエンドだと思うのだが、私はしかしこんなすさまじいラスト10分の長回しをついぞ観たことがない。
 これに拮抗するラスト10分は、アントニオーニ『さすらいの2人』しか思い浮かばないが、モーツァルトの「レクイエム」が荘厳になり響く中、とても信じられないような、残酷でしかも素晴らしいエンディングを観るだろう。

 上映後のフィトゥシ監督のティーチインでは、監督自身が「この映画は3時間でおさめるつもりだったのですが、これを撮ったら3時間10分になっちゃいましたー」と冗談めかして言っていた通り、これはしかし奇跡のような10分である。
 これを観るだけでも、6月10日の6時半の再映は、すべてを投げうっても駆けつける価値があるだろう。

  さらに私が驚嘆したのは、この映画の音設計だった。諸般の事情あって、まだ「爆音映画祭」は未経験なのだが、もし「爆音上映」をするとしたらこの『私は死んでいない』こそ最高のはずだ。だから次のリクエストでは、必ず投票しようと思うが、だから上映後のティーチインで私は直ちに挙手して、監督に質問した。

「この映画には、レコードやラジオに対する言及があるなど、アナログ性へのこだわりを感じます。この映画の音を聴いていて感じたのですが、ひょっとしてこの映画の音楽の音源、すべてCDでなくレコードを使っていませんか?」

 というのは、この映画での自然音の生々しさもそうだが、流れてくる音楽に奇妙な手ざわり(耳ざわり)が感じられたのだ。この音の感触はあまり経験したことがない。
 しかし監督の回答は、私の想像をはるか上回っていた。

「CDでもレコードでもないんです。教会での演奏会を丸取りしたやつですから」

 そんなことはわかる。だって、教会での演奏会シーンは、いかにも現場丸録りの音だもの。

「ええ、もちろんそれはわかります。私が言うのは、たとえばラストの「レクイエム」です。あの葬儀シーンに流れる演奏などを指すのですが…」と食い下がったところ、

「あの場面は、ですから、ある教会で演奏されたのを収録してきて、その録音をそのまま使ったんですよ。だからCDでもレコードでもありません」というのが、回答だった。

 あいた口がふさがらなかった。
 劇伴として流した音楽が、CDでもレコードでもなく、わざわざ教会に行って録ってきた演奏を使うだって?
 あっけにとられる。この映画の独特の音触は、そんなふうに作られたのだ。優れた映画作家というのは、そこまでクリエイティブな工夫を凝らしているのか。

 また、この映画は「精霊の視点」で撮った作品だと監督は説明したが、私自身はどうしてもそうは思えず、この作品はまさに「いま生きている者」のための映画じゃないかと思わずにいられなかった。
 最後に挙手された方も、それに近い質問をされたので、監督のコメントやいかにと身構えたところ、これまた素晴らしい回答が返ってきた。

「偉大なるロベール・ブレッソンを引き合いに出しましょう。『田舎司祭の日記』のセリフですが、この世には死者の世界も生きている者の世界もないんだ。その両方をまるごと合わせて神の王国なんだ、というものです。そういうことではないでしょうか。」
 
 おお…。この言葉に、『私は死んでいない』という映画の真髄を聞いた思いがした。
 フィトゥシ監督の見事な知性と聡明さに深く感激して、100%の満足と共に家路につく。映画体験には奥というものがない。

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※写真:アンディ・ガルシアにチョイ似のフィトゥシ監督。ひどいピンボケ。撮影:Incidents

2009/5/30

『スター・トレック』  映画

J・J・エイブラムス『スター・トレック』
 観る前からこれはいいな、と思ったのは、余計な副題がないことだった。「スター・トレック」物語の前史であるカーク船長やミスター・スポックら、オリジナルキャラの若き日々。ことにカークは彼が誕生する、まさに出産をしっかり撮っていて、かなりいい度胸だ。
 「スター・トレック ビギニング」とか「スター・トレック ライジング」とか「スター・トレック 旅の仲間」みたいなヘンな副題なしに、ズバリ『スター・トレック』。これはいい。

 『M:i:V』に続き、今回まだ劇映画2作目なのに、これだけのビッグプロジェクトを次々と仕切って、納得できる水準にもっていくのはすごい。
 納得できるというか、TV版及び過去の映画版「スター・トレック」最大の弱点は、艦内=室内空間ではアクションを始動させようがなく、必然的に会話中心となり、実に平板になってしまうことだった。(もちろんTV版は、凝りに凝った設定でそれをカバーしていたわけだが。「ニューズウィーク日本版」の評者や、柳下毅一郎さんなんかは、エイブラムス版「スター・トレック」について、オリジナルにあった問題意識の欠如に批判的で、それもわかるが、そこで勝負しようとしていないのだから、ちょっと苦しい。)

 けれど、エイブラムス版『スター・トレック』は、その艦内デザインが、『機動戦士ガンダム』のホワイトベース艦内そっくりで、「ガンダム」の艦内シーンがやはり平板たらざるを得なかったのは、あるいはTV版「スター・トレック」の引力圏内にあったからかどうか、それを断言するほど「ガンダム」に詳しくないのだが、そうした反省を踏まえたか、エンタープライズ号艦内にさえ、アクション豊富に作り込んだのは見事の一言だ。
 少なくとも過去の「スター・トレック」で、エンタープライズ号内を、これほど縦横にカメラが動いたことはなかったと思う。

 会話になっても、カークのイキが実にいいのでアクションは止まらない。
 敵陣へのワープ移動中に、密航まがいにエンタープライズに乗り込んでいたカークが、これは敵の罠だからマズイと騒ぎたてるシーン。スポックらに対策を訴えるが、手をこまねいているところ、他船と交信ができないとの報告。青ざめたカークが「交戦中だからだ!」と呟くやワープ完了し、外界のモニターが表示されるや否や、怒涛の激戦のド真ん中に放り込まれているエンタープライズ号。
 事態の急を告げながらも、首のあたりに怪しげなワクチンを打たれまくり、そのたび妨害されるギャグもふんだんで、このあたりのリズムと呼吸は最高にノレる。
 書き出したらキリがないが、『M:i:V』の監督らしく、こだわりぬいたクリフハンガーな落下危機の連続。これはヤバイ! という設定を次々もってきて、飽きさせない。

 『M:i:V』といえば脳内小型爆弾が小道具だったが、ここでも脳内に貼りつき自白を促す宇宙ナメクジなる生き物が出てきて、また脳内か、とニヤリとしかけ、そういえば『スター・トレック2/カーンの逆襲』(だったか?)に、これそっくりの、人を自在に操るナメクジみたいのが出たっけと、いらぬことを思い出す。

 夏の夜長に特大サイズのコーラとポップコーンを持ち込んで、底抜けに楽しむためには、最高にナイスな1本ではないだろうか。

2009/5/29

宮崎駿製作&高畑勲監督『柳川堀割物語』  映画

 今年も茨城大学での講義が来週に迫ってヤバい。そろそろ話す内容をまとめねば。とか言いつつ、今年もお題は「宮崎駿」なので、頭の中ではおおむねできあがっているが、死ぬ気で講義原稿を書きながら、行き詰ったので、手元の宮崎関連DVDと書物をとりあえずズラリと並べてみる。

 それでふと気になって目が離せなくなったのが、宮崎駿・製作/高畑勲・監督『柳川掘割物語』。このチームによる唯一の、実写ドキュメンタリーだ。
 この映画はどれだけ見られているのだろうか、宮崎&高畑作品を愛する者なら必見の、いわば番外編のような作品になっている。

 これは福岡県柳川市という、まるでヴェニスを思わせるように、市中びっしりと張り巡らされた水路の成り立ちと、それと共に生活する人々を167分という堂々たる時間で活写している。
 『柳川掘割物語』のレビューをここでするつもりはないので、機会があればぜひ観るべきだとだけ、ここには書いておく。
 長いのでこのDVDを観直すことは、滅多にないのだけど、ちょっと再生してみたらあれよあれよと、結局3時間近いこの作品を最後まで観てしまう。

 「もうひとつの「ナウシカ」である」というのが、DVDパッケージの解説文だが、むしろこの作品はあり得たかもしれぬもうひとつの「もののけ姫」だ。
 凄絶な努力の末、自然と人間が見事に共存してきた事例がここにある。

 最初の方のナレーション、「水路の水は、夜中にすっかり入れ替わり、早朝もっともきれいになる」という言葉に感動する。
 川の流れは、生活排水や渡しの船などで汚された水をすべて洗い流しているわけだ。子ども時代は朝の5時に水路から生活用水をバケツで汲むのが仕事だった、と語る初老のおばさん。朝5時の水がいちばんきれいなのだと言う。

 「方丈記」の有名な一節を思い出すほどナイーブではないつもりだが、そうか水は常に入れ替わっているんだ。日常は反復されるが、いつも違う水。同じ流れは決してあり得ない。そして『柳川掘割物語』で、シラサギがまるでメーヴェのように飛ぶ様を見て、同じ風が吹くこともまた決してないんだな、とふと思う。

 『魔女の宅急便』でキキが自転車をこぎだすとき。あるいは『風の谷のナウシカ』でナウシカがユパ様に王蟲の眼の殻をかかげるとき、それぞれ1度だけスカートがめくれて中身が丸見えになるのだが(ナウシカはともかく、キキはパンティが見えてしまう)、それは同じ風は2度と吹かないということの見事な表現のはずだ。
 うむ、このへんを中心にちょっと話ができたらいいなと思ってみたりする。

2009/5/28

『パラダイス・アレイ』ついにDVD化!!!  映画

 今日、近所のCD店の通りすがり、キングレコードのDVD発売予告パンフが店頭にあって、何気なく手にした。
 手にした瞬間ぐっときて、誰かの肩を叩きまくって、「わはは、おい、ついに出るぞ!!」とこの喜びを分かち合いたく、ほとんど飛び上がりたくなる気持ちを抑えきれなくなったが、そんな仲間は昔からいたためしはないのだ。

 11月6日発売 シルヴェスター・スタローン『パラダイス・アレイ』がついにDVD化!

 言わずもがなだが、スタローンの監督デビュー作にして、高純度の男泣き作品。
 ニューヨークのスラムに生きるイタリア移民を描いて、このスタローン演出の前には、スコセッシ作品のどれをとってもまあ敵じゃない。
 同じくプロレスを扱っているからではないが、名作の誉れ高い、ゴダール『映画史』にも引用された、アルドリッチ『カリフォルニア・ドールス』(1981)を後に封切りで観た時も、まあ『パラダイス・アレイ』の比較にはならんな、と思いさえした。
 そもそも『ロッキー』全6作すべてに出演している男、バート・ヤングが出ているだけで、『カリフォルニア・ドールス』はスタローンに屈していると言えよう。

 などと無茶を書き連ねたが、実のところ『パラダイス・アレイ』(1979)は、中学1年の夏に封切りで観て以来なので、さすがにそこまでの断言はできかねる。とはいえ、当時6回観て記憶にくっきりと焼き付けているつもりなので、おおむね間違ってないはずだ。
 たとえば、水浸しになったプロレスのリングで、黒人の子どもが、水しぶきをあげて怒涛のタップを踏むシーンがあるのだが、その素晴らしいこと!

 なお、それが何を担保するわけでもないが、批評家時代のレオス・カラックスが「カイエ」に書いた最初のレビューが、『パラダイス・アレイ』であり、最後のレビューが『ロッキー2』というわけで、私はこれだけでもカラックスを一生讃え続けるつもりでいる。

 しかしこの歓喜は、誰とどう共有すればいいのか。昨年『ランボー/最後の戦場』でまともな人々が、ようやく評価し始め、スタローン・ルネッサンスが起こりつつあるが、悪いけどあんたたち遅すぎるよ。
 はっきり言って『パラダイス・アレイ』を当時支持した人間は誰もいなかった。今さらスタローンがどうとか言われても困るぜ。こっちは30年頑張り続けているんだ。
 ともかく久々の再会に、体の震えがとまらぬくらい感激。

 ちなみに、キングレコードのリリース情報を読み進めていると、まさにそのアルドリッチの『ガンファイター』(1961)初DVD化。うわ。
 また、ロバート・ワイズ『ヒンデンブルグ』(1975)の初DVD化もあって大騒ぎだ。

 大騒ぎといえば、これは個人的ノスタルジーだが、ジョージ・ルーカス製作の底抜けのダメ映画『ハワード・ザ・ダック』(1986)も初DVD化。とことんくだらぬ代わりに、リー・トンプソンがとことん可愛いが、どのみちB級どころかF級くらいの作品。ルーカスといえど、CGなしではここまでひどいかと、いっそ記念碑的(だって着ぐるみだぞ!)。でも主題曲は最高にポップ。

 さらに、これも個人的思い入れになるが、しかし傑作であることは主張したい『ヤングガン』(1988)のコレクターズ・エディション。
 また、当時のMTV的音楽映画ブームの中で、極めつけの傑作『ダーティ・ダンシング』(1987)、これもコレクターズEDで。
 大学内機関誌とはいえ、実は私が最初に書いた初めての原稿が『ダーティ・ダンシング』評で、その意味でも忘れ難き作品。
 あげく、エミリオ・エステベスが『ヤングガン』に先だち、クリストファー・ケイン監督と組んだ、『アウトサイダー』のS・E・ヒントン原作の『BAD/傷だらけの疾走』(1985)というあり得ぬリリースも。

 その上、多くの人が興奮中の『白い肌の異常な夜』『愛のそよ風』があるわけだ。
 ものすごい。今は「キングレコード」がキテる。狂ったようなリリースの連続だ!
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※写真:『パラダイス・アレイ』より。すでに後の『オーバー・ザ・トップ』を予告するアームレスリング。組まれた拳の奥にスタローン。この人、実にいい画を作るんだ。

2009/5/27

高祖岩三郎『新しいアナキズムの系譜学』  

高祖岩三郎『新しいアナキズムの系譜学』(河出書房新社読了)
 「アナキズム万歳!」の一言で終わる、いささか剣呑な本書は、とても乱暴に言うと、「反権力」であり「反資本主義」のための単独者の運動ということになろうか。
 私自身は「万歳」という言葉を使う人物を、容易には信用しないことにしているので、最後に来て非常に興ざめだったが、著者の最初の書物『ニューヨーク烈伝』(青土社)を興味深く読んだ者としては、容易に斥けられるものではない。

 どちらかというと『烈伝』を読んだ方が、この著者の主張がよりわかるような気もしていて、というのも『烈伝』がニューヨークにおけるアナキズムを、具体的な運動(住居占拠)として紹介したのに対し、本書はもっと理論的な話にまとめられているからだ。

 だから読書にはいささか骨が折れるのだが、私がとても共感し、しかもそれがポイントだと思うのは、本書がしばしば「世界=地球」という書き方をすることだ。
 国家とか都市とかの枠組みをとりはらい、究極の自由を目指すというアナキズムの思想は、もちろん途方もなく理想境的なもので、何のリアリティもないのだが(柄谷行人のNAMと同様に。ちなみに高祖岩三郎は『トランスクリティーク』の英訳者だ)、「世界」という発想はいいかげんやめて「地球」という考えに改めないと、どうしようもないと思う。

 しかるべきスポーツ大会で、たまたま自分が生まれた国を無条件に応援するのは、心底くだらないと思う。親が応援するから、子どももマネをする。
英語でないと「作品賞」の対象にしない、というか「外国語映画賞」という部門があるだけで、アカデミー賞なんて絶対に信用できないと思う。
 『おくりびと』という映画は決してきらいじゃなく、むしろ積極的に好きだが、「外国語映画賞」を理由に観に行った人間は大嫌いだ。彼らはきっとオリンピックとかでも、無条件に日本を応援しているのに違いない。

 愛国者とか非国民とか、そもそもそういう概念を無効にしてしまうための、アナキズムの発想。そういうことなら大歓迎だし、本書をおおいに掲揚したい。

2009/5/26

レジ袋、そして『夏時間の庭』  映画

 『夏時間の庭』について、書きそびれたことをもう少しだけ。
 この映画の主人公3きょうだいが子どもの時にこわしたという設定で、こなごなになったドガの彫刻は、事もあろうにスーパーのレジ袋に入れられたままだった。
 
 その彫刻がオルセー美術館に引き取られ、修復士によって見事復元されるシーンには、かなりぐっとくる細部がある。
 「これほど見事に修復できるとは」と、館長と思しき人物に讃えられた修復士は、「どんなもんだい」という顔をするが、その後ろの窓に、まさにそのレジ袋がぶら下がっている。

 このレジ袋は、美術館に収まることで、今まさに消失しようとする「家族の記憶」なるものの、最後の余韻のようにそこにぶら下がっている。
 作業が完了したら、このレジ袋も捨てられてしまうのだろうが、さりげなくこれを画面右上に配置するアサイヤスのスキのない感性に、感激させられる。

 思えば、家政婦エロイーズが「花を活けてこそ花瓶なのよ」と言ったように、この家の「もの」はすべて「生活感」と共にある。
 スーパーのレジ袋なんて、「生活感」の極みだが、壊れたとはいえそんなところにドガをしまった、亡き母の感性もそう考えると実に合点がいく。
 だから、価値ある戸棚や箪笥の中に、オセロゲームやらおもちゃの飛行機やらも、普通に収納されるのだ。生活と芸術が一つに溶け合い、共存している。

 父の残した中庭のデッサンを広げ、長男は「この絵はここからの風景を描いたんだ」と何度も口にする。
 「コローだけはなんとか」と、長男が固執したのも、それが風景画だからではないか。(風景画家コローを、アサイヤスは意図的に選んだはずなのだ。なぜかこれだけは、映画に全面協力した協賛のオルセー美術館でなく、わざわざルーブル所蔵の作品なんだもの)

 このように、思えば芸術というのはすべからく「記憶」を封印する作業ではないか。その意味で「記憶」≒「印象」を定着させた「印象派」というのは、すぐれて芸術的なムーブメントだと思うが、それはさておき、四角いスクリーンの中に何かを定着させようとする「映画」というのもまた、まさに「記憶装置」として機能していることに思い至り、いかに『夏時間の庭』が映画的な作品かと、再び涙を禁じ得ない。

2009/5/25

『夏時間の庭』  映画

オリヴィエ・アサイヤス『夏時間の庭』
 冒頭、子供たちが緑を縫ってジグザグに走ってくる。このシーンだけでも胸がときめく。
 歓喜の声と共に疾走する子どもというのは、どうしてこんなに涙を誘うのか。そう思う間もなく、鳥の鳴き声や風の音といった自然音が素晴らしく豊かな、中庭での食事シーンに連なっていく。

 つい小津やトリュフォーがどうとか言いたくなるが、そういうことはいいだろう。亡くなった母の遺産相続を巡って、意見は異なるものの、互いの立場を十分に思いやって、節度ある話し合いをする三きょうだいのやりとりがすごくいい。
 このように我を主張せず、寛容をもってことにあたれば、世界はかくも平和なのだ。

 『感傷的な運命』を観て、今さら発見したことだが、アサイヤスは各種の手続きをものすごくしっかりと見せてくれる。話し合いの結果、実際に処分される遺産の事務処理もとても詳細に描かれ、「もの」に宿った記憶はなるほど確かに少しずつそのアウラを失っていくのだという様をゆっくりと表出する。

 三きょうだいが子どもの頃、ふざけて壊したのだという、ドガの彫刻が粉々のままに、スーパーのビニール(!)に入れられている。それを修復して、オルセーの専門家が復元した彫像の何ともしれない味気なさ。
 損なわれたものを復元したはずなのに、なぜかもっと大切なものがさらに損なわれたのではないかという思いを禁じ得ない。
 それを肉視できるよう演出するため、高い天井、長い回廊、まっ白い部屋、まるで第三者の案内人、見学者、修復師といった、完全なる他者をその場に置くことで示す。

 何かを追悼することは、それ自体としては大切だろう。だから人には涙というものがある。その涙を見せるのは、「もの=遺産」に最も固執した長男と、そんなものに最も頓着してないかのように見えた、彼の娘の2人である。

 でも泣いた後には笑おうじゃないかと言わんばかりに、オルセー美術館のカフェで笑みを交わす長男夫妻。ここでの会話は本当にすばらしいのだが、その娘の振る舞いはもっとすばらしい。若者は走り、そして壁を超えるのだ。恋人とともに。
 これこそが未来に架ける確かな橋で、この映画は過去への正しい追悼の在り方と、それ以上にすばらしい未来への肯定的な眼差しが胸をしめつける。
 壁の向こうに広がる緑と青のすばらしさ、土地の広さ。そしてその草原を切り裂き走っていく、若い子どもたちの麗しさ。映画が見せるべき世界観の究極がここにあるとさえ思う。
 
 ところで、この映画は『グラン・トリノ』への、フランス的返歌であるようにも思った。示し合わせたはずはないのに、どうして最良の作品はこうも呼応し合うのか。
 もちろん『夏時間の庭』には暴力に対する考察はない。が、記憶を引き継ぐことへのスタンスの取り方を描いた点で、この二作は共通項を持つ。
 何となくそう思い始めたところ、ジュリエット・ビノシュの恋人役で、不意にカイル・イーストウッドが登場した時は、さすがに目を疑う。何というキャスティングだろうか。

 確かなものを刻み込み、継承すべき何かとして去りゆく魂を描いたのが『グラン・トリノ』であるならば、そうしたものは心の中で浄化させ、去りゆくままにまかせようとしたのが『夏時間の庭』と言うべきか。
 長女は高島屋との契約があったり、次男は中国で商売をやるなど、ミスタ・コワルスキーなら唸り声をあげて、苛立ちを示すのだろうが、ここはフランス。背負った文化も歴史もまったく違うので、同じ状況でも違う展開になる。
(ビノシュが日本に納品する陶器が、一同の手に回されるシーンでは、かすかに『感傷的な運命』を思わせる)

 この映画を観ながら、なぜイーストウッドが『マディソン郡の橋』を作ったのかが、少しだけわかりかけたのだが、そんなことはとりあえずうっちゃっておくと、『夏時間の庭』で何より素晴らしかったのが、長年その家の家政婦として仕えたエロイーズ(イザベル・サドヤン)の姿だった。
 空っぽになった家を訪れ、香をかぐためそこに咲く真っ赤な花をそっと鼻にあてる仕草。
 たぶんこの人こそが最も深く、流れた時間と失われたものを追悼しているはずなのだが、涙ひとつ見せずに事情を受け入れていく。

 泣いている者がより悲しいわけでも、泣いていない者がより悲しくないわけでもない。正しい踏ん切りのつけ方がある、ただそれだけだ。
 本当かどうかはわからないが、エロイーズが余生を一緒に暮らすはずのタクシー運転手の甥だかなんだかが、休暇でしばらく離れるというときの別れ際が忘れられない。
 踏ん切ったら、新たな時間を受け入れていくしかない。大丈夫、人は忘れる葦なのだ。

 それにしても恐るべしなのは、そうしたことどもを、とても具体的な場面として映像化したアサイヤスの知性だ。こんな映画はよほど注意深い観察者でなければ、絶対に作れないものだろうと思う。

2009/5/24

『ハンナ・モンタナ/ザ・コンサート3D』  映画

ブルース・ヘンドリックス『ハンナ・モンタナ/ザ・コンサート3D』
 今日は『夏時間の庭』に身も世もなく泣き崩れたが、それは明日にまわすとして、『ハンナ・モンタナ/ザ・コンサート3D』も最高だった。

 ティーンポップ歌手マイリー・サイリスのツアードキュメントだが、このステージの総合プロダクションは、『ハイスクール・ミュージカル』のケニー・オルテガ監督が行っている。それだけでも見るしかないだろう。
 劇中では、オルテガ監督がステージの振り付け、セットはもちろん、演奏上の注意まで実に細かく指示を与えている姿が見れて、何とも興味深い。

 リハーサル中、バンドリーダーのドラマーに、「この曲の冒頭は、屋根から何かが落ちてくるんじゃないかというくらい叩きまくれ。最初の4小節だ!」と指示し、実際のステージでは本当にそう叩かれているところは圧巻。
 『ハイスクール…』DVDの映像特典のメイキングでも、オルテガ監督の細々とした演出ぶりを確認できるが、こいつただのメタボ親父の体型なのに、やたらに動きのキレがいい。全身リズムそのもののような身のこなし。この人の演出ぶりだけでも、本作は必見だ。
 ちなみに映画本編の監督ブルース・ヘンドリックスは、『パイレーツ・オブ・カリビアン2・3』の製作総指揮者。ウォルト・ディズニー社の重鎮なのだな。

 それにしても、マイリー・サイリスの輝きはハンパじゃない。この映画で初めて、3Dの本当の価値がわかった。ステージの彼女は、この何万という観客の歓声を受けるすべての中心であって、その欲望と憧れを一身に引き受けている。このフォーマットは、その渦巻く歓喜と欲望のど真ん中に、観る者を引きずりこむかのようだ。
 ステージの花道突端に低く据えたカメラ。そのステージ奥からこちらに向けて、マイリーが飛び出してくる。その奥にはバンドメンバーがいて、一番奥にはステージスクリーンいっぱいに映し出されたもう1人のマイリー。この3層の構図を、3Dで観るド迫力。

 『ハイスクール…』でも存分に発揮された、オルテガ振り付け特有の、横に並んだ群舞が目を楽しませるが、それをバックに圧倒的なオーラを放つマイリー・サイラス。この恐るべきステージのど真ん中にいる彼女は、まだほんの16歳なのだ。

 コンサート場面だけでなく、ドキュメントシーンも楽しくて、マイリーの熱狂的ファンの少女たち、少女というより10歳くらいの幼児たちが、次々に彼女への憧れを口にする。
 また、娘を持つパパのためのかけっこ大会があったらしく、親父たちが何とハイヒールをはいて、50メートルの勝ち抜き競争をくりひろげる。
 優勝したパパには、ツアーのチケット(絶対に手に入らない)4枚をプレゼントという趣向が切なくもおかしい。娘を喜ばせるためなら父親は何だってやるのだ。

 ステージでは次々と衣装を変える彼女だが、着替えの時間はきっかり30秒。楽屋に戻ってウィグをとり、メイクを直しつつ服を替え、再び舞台に飛び出すまで、本当にぴたり30秒という、画面にカウントダウンが表示されてのワンカット場面にも驚く。うまい演出だ。
 父親のビリー・レイ・サイラスや、ステージママとのやりとりも一興。オルテガの演出に逆らう(でも最後にはしぶしぶ受け入れる)場面なんかも、最高に楽しい。

 ズバリ、『シャイン・ア・ライト』の50億倍くらい感動した。スコセッシ/ストーンズの映画にせずにいられぬ巨匠監督のシニシズムに比べ、世界の中心はハンナ・モンタナ=マイリー・サイラスという概念に、何の疑いもなく作られたこの映画が、圧倒的に優位なのは当然だろう。

2009/5/23

マイケル・J・フォックスからザック・エフロンへ  映画

 『セブンティーン・アゲイン』のザック・エフロンが、バスケの選手として、向かうところ敵なしという設定なのは、『ハイスクール・ミュージカル』での設定をそのまま持ち越しということで、スター戦略としては正しいだろう。
 冒頭ではチアリーダーと一緒に踊り出してしまうというのも、彼は躍らせても無敵ということで、これも『ハイスクール・ミュージカル』をそのまま踏襲。ここでも、あまりにも魅惑的なレスリー・マンを相手に、見事なダンスを見せる。

 私はトム・クルーズ以後のスターで認められるのは、基本的にディカプリオとキアヌ・リーブスだけだと、この場で17回くらい書いたが、ついに3人目の登場ではないかくらいに思っている。問題はこの子が『再会の街/ブライトライツ・ビッグシティ』(ジェームズ・ブリッジス 1988)みたいな映画に出た時、どれだけ力を見せるかだ。

 今、わざと『再会の街』などと無茶な映画を出したが、実はザック・エフロンを見ていて、マイケル・J・フォックスのことを思い出してならないからだ。
 それは『セブンティーン…』が変則タイムスリップもので、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を連想させるからでは全然ない。あの映画を見て、BTTFはまるで考えなかった。
 私が念頭に置いているのは、同じマイケル・J・フォックスでも、BTTF直前に主演した、『ティーン・ウルフ』(ロッド・ダニエル 1985)のことだ。

 今この映画は普通にDVD入手できるのだろうか、とにかくマイケル・Jの魅力炸裂で、ここで彼はバスケの選手である。
 小柄で、しかも20歳を過ぎてるのに高校生役ばかりであることから、エフロン君を見ていると、25年前のマイケル君をどうしても思い出す。

 あの映画は、いまひとつプレッシャーに弱いマイケル君が、実は自分がオオカミ男であることを知り、オオカミに変身すればスーパー高校生になるという、痛快学園コメディだ。
 この映画でマイケル君が、洗面所で自分の正体を知って、叫びながら部屋を飛び出る瞬間、父親がとんでもない格好で入って来るという、その一瞬だけでも必見なのだ。

 『ティーン・ウルフ』について長々書くつもりはなかったが、バスケの試合の、肝心なところでしくじる所から物語スタートということで、『セブンティーン・アゲイン』と『ティーン・ウルフ』はいきなりつながりを見せる。

 何とも痛恨なことに、現在のマイケル・J・フォックスは不幸な病によって、俳優としてのキャリアは閉ざされたも同然になった。
 だがそれ以前の段階として、シリアス俳優としてうまく幅を広げられなかったが故に、実質的には健康時でもそのキャリアは、終わりはじめてもいた。
 これはマズイと、再び軽妙コメディ路線に中途半端に戻ろうとしたが、BTTFはもとより、マイケル君の頂点である『摩天楼はバラ色に』(ハーバート・ロス 1986)のようなシナリオは、そうやたらにはない。
 
 そんなマイケル君が、転身しそびれたシリアスドラマの痛恨として、前にあげた『再会の街/ブライトライツ・ビッグシティ』がある。
 断っておくと、この映画は悪くない。いい。ただいかんせん観客がそっぽを向いた。
 デ・パルマと組んだ『カジュアリティーズ』(1989)も決して悪くないが、マイケル君とショーン・ペンとの共演はいくらなんでも相性が悪すぎる。
 すなわち、彼は実力に見合った企画を得られなかった。

 エフロン君のあまりに楽天的な芸達者ぶりを見ていると、マイケル君の挫折がどうにもダブり、どうか同じ轍を踏んでくれるなと祈りたい気持ちになる。
 彼は難関をクリアできるだろうか。
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※写真:『ティーン・ウルフ』のロリー・グリフィン。狼パワーはこんな眩しすぎる体を好きにできる。

2009/5/22

ウォルシュ、オランウータン、そして『グラン・トリノ』  映画

 きのう「弾の入ってない銃」→「銃を持っているふり」のことを書いた後、さて寝ようかと歯磨きをするとき、手持無沙汰なので何気なく、蓮實重彦『シネマの煽動装置』(話の特集)を手にとり適当に開いたページを読み始める。
 すると、こんな一節に出くわしてしまうというのはいったい何の偶然かと、驚きあきれ、いっそ深く感動してしまう。

 それは御大の若き日のパリのシネマテークでのこと。
 若き御大は、そこにやってくるはずの「巨匠」の到着を、「持ちなれぬカメラなどを握って立」っていたのだそうだ。
 やって来る「巨匠」は誰あろう、ラオール・ウォルシュ!
 「写真を撮らしていただいていいだろうかというこちらの震えをおし殺した言葉に、O・K・レッツゴーと気軽に応じ」、「とり乱しているうちに、彼の方からこちらの手をぐっと握ってよこした」のだという。
 いや、嫉妬する他ないエピソードだが、問題はその後。これはそのまま引用する。

「あなたを賛美するこの観衆たちにお言葉をひとつ、という館長アンリ・ラングロワ氏の挨拶を振り切るように、腰のピストルを引き抜く身振りとともに指先の銃口で会場全体をひたすら撃ちまくり、カウボーイハットをさっとさしあげるなり退場してしまった…」(太字は引用者)
 
 しかし映画を巡るこれほど美しいエピソードはまたとあるまいが、映画において「銃を持っているふり」ということのある種の希望、そして底なしの肯定的な楽天性という解釈は間違ってなかった、という思いを噛みしめる。しかし、ウォルシュにつながるのか!

 そういえば、昨日あわてて書き足した『ダーティファイター』(監督はジェームズ・ファーゴ)で、イーストウッドに指先で撃つ真似をされると、ばたりと倒れるオランウータン。あのしぐさは映画の楽天性の極みだろう。
 私はあの映画が涙が出るほど好きなのだが、イーストウッドが飼っている(もとい、飼われているby山田宏一)その最愛のオランウータンは、隣に住む親友ジェフリー・ルイスの老母、ルース・ゴードン(あまりに名演)に、さんざんっぱら迷惑をかける、困ったペット(相棒)だった。

 あのオランウータン(名はクライド)は、『グラン・トリノ』では一匹の犬(名はデイジー)と化して、イーストウッドから隣の老母に引き渡されていることに、何だか涙を禁じ得ない。

 それにしても蓮實御大の書物というのは、汲めども尽きることがないのか?
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※写真:『ダーティファイター』より Bang!



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