2009/8/31

歌うジョン・トラボルタ  映画

 昨日、『ボルト』のことで書き忘れたこと。
 主人公ボルトの声はジョン・トラボルタ。それ自体はいいんだが、エンドクレジットで男女の主題歌が流れてきて、女の方の声は一発でわかる。ボルトの飼い主の少女、ペニーの声をあてた、ディズニーの秘蔵っ子、マイリー・サイラスだ。これはまあ当然。

 で、男の方が、これがまた甲高い声で、ヘタなんだかうまいんだかわからない、けれど個性的であることだけは間違いない、しかも大昔にさんざん聴いた歌声で、なんだこれは、まさかトラボルタが歌っているのか?
 と思って、クレジットを注意して見つめていると、本当にトラボルタが歌っていた。

 これは、『グリース』(1978)や『セカンド・チャンス』(1983)以来の事件ではないか! と色めきたったところ、よくよく考えたら『ヘアスプレー』(2007)でも歌っていたっけ、ということを思い出して、ちょっとがっかりする。
 
 でも、ここですごいのは、『ヘアスプレー』のトラボルタは、特殊メイクのデブ女という、ある種キワモノ的な役での歌だったのに対し、『ボルト』では、まだ10代のマイリー・サイラスを相手にデュエットするという、しっかり売れ線での本気な歌唱。
 しかも、曲調も『グリース』の“You’re The One That I Want”を思わせる、ダンサブルな一品。否応なくオリビア・ニュートン=ジョンとの共演を思い出させずにいられない。
 子どもを連れてきた大人に、「おお」と思わせるなら、『モンスターVSエイリアン』みたいなこれみよがしギャグでなく、やはりこうでなければと思う。

 ちなみに、『セカンド・チャンス』のサウンドトラックは、デヴィッド・フォスターがばっちりプロデュースしていて、『グリース』の1億倍名曲ぞろい。
 80年代ミュージックを愛する者なら、実は『フットルース』や『フラッシュダンス』を持つくらいなら、こちらを必携。

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(写真:『セカンド・チャンス』より。この頃のトラボルタは、髪型はともかく掛け値なしにかっこよかったと思う) 画像リンク元
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(写真:トラボルタはかつてアルバムも出している。見よ、このくどくどしいスマイル! 大昔、NYブロードウェイのヴァージンで購入したが、くだらなすぎるので処分したのが痛恨)
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2009/8/30

『クリーン』、『ボルト』  映画

 オリビエ・アサイヤス『クリーン』
 『夏時間の庭』のように、万人を感動させる作品ではなかろうが、これもいい。
 ちなみに偶然とはいえ、今芸能マスコミをにぎわせている、元アイドルタレントの薬物事件を地でいくような物語で、そのタイムリーさに驚く。多少のはったりをかけ、そっちとかけあわせて宣伝かますと、動員倍増という事態にならないだろうか。

 カナダ、フランス、イギリス、そしてアメリカと、生きる場所を求めて4カ国をさまようマギー・チャン。英仏中の三か国語を自在にあやつる彼女にあっては、国境などあってなきがごとしだ。
 本当はヴィザの問題とかあれこれあるのだろうけれど、そのへんはばっさり排除して、マギー・チャンは帰属すべき国へのこだわりは微塵もない。この映画をめぐるスタンスとして、ここに一番大きな魅力を感じる。

 そのことは、義理の父親を演じる、その存在感がすばらしすぎるニック・ノルティにも言える。その行動の一義は、どこか不本意ながらもマギー・チャンにとって最良の、それはすなわち、彼にとっての孫=マギー・チャンの息子のためを第一に考えるということで、正しい人生を歩んだ男ならではの選択肢を、彼女に提示してみせる。

 思えば『夏時間の庭』の3兄妹も、弟は中国、妹はアメリカと生活の場は国境を越えた。そして、ヒロインは国境を越える。トリュフォー『アデルの恋の物語』のヒロインも国境を越えた。フランスからカナダ、そしてついにはバルバドス島へ。
 アデルはしかし、狂乱の恋の果ての越境だが、『クリーン』のマギー・チャンは、もっと自然に無理なく越えていく。女性は確実に進化している。だが、このマギー・チャンに匹敵するほど、世界は進化しているだろうか。
 『クリーン』を観ることは、人が生きる場所についての意識を深めることだ。

クリス・ウィリアムズ/バイロン・ハワード『ボルト』
 正直、出来栄えは「まずまず」程度だろうと一人合点し、スルーする予定だったが、やはり製作総指揮ジョン・ラセターのクレジットは無視できず。ただし懐具合がさびしいので2Dで観る。
 後悔した。すばらしい傑作ではないか。

 自分がスーパー犬という思いこみで、スーパーパワーを発揮しようとするが、ことごとく外すというアイディアは、『魔法にかけられて』の引用。
 自分が何より大切なものを探すための旅に出て、どこかトンチンカンな旅の仲間が随行するというのは、『ファインディング・ニモ』。
 その意味ではどこか既視感ある内容だが、ボルトをはじめとする3匹の動物たちが、少しずつ自分を獲得していくディテールがとにかくよくて、何度も落涙する。

 ネコのミトンが、旅を続けることの意味を見い出せず、いかにも居心地よさげな段ボール箱捨て場を見つけ、ここで3人(匹)楽しく暮らそうよと。
 こうしたとき、「こうしよう、ああしよう」と、自分の理想の未来を語って女性(メスだけど)は、相手に口をはさませぬよう、必ず早口になり、口は笑っているのに目は泣きそうになっている。男性(オスだけど)が、話に乗ってくれないことを知っているからだ。

 それをネコのミトンが演じて、この場面が実に泣かせる。それまでの、そしてこれから待っているであろう、旅の苦難を私たち観客は共有しているだけに、ミトンの思いが切実に伝わってくる。
 けれど、それはそれとして、旅は絶対に続けなければならないというボルトの思いも、私たちは知っている。

 ここはほんの一例だが、ラストミニッツレスキューのために、この3匹の役割分担がまた泣かせる。その状況の様子が、パズーがシータを救出する『天空の城ラピュタ』の最高に素晴らしいあれこれを、かすかに想起させて、ここも最高。

 こういうことがあるから、アメリカのアニメも迂闊にスルーできない。ジョン・ラセターの名前があるとはいえ、しかしこの夏、『ボルト』は『サマーウォーズ』と共に、映画ファンは必見の一作じゃないだろうか。
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(写真:『ボルト』より。ボルトが初めて風=空気の流れを顔に浴びる快感を知る。解放感あふれる、とにもかくにも名シーン)
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(写真:『ボルト』より。いかにも議論している、といった様子の3匹の目線の的確さに注目)
画像リンク元(2枚とも):eiga.com

2009/8/29

今日、私はなぜ『未知との遭遇』を観なかったのか。  映画

 テアトルタイムズスクエア閉館。その閉館特別上映として、今日は『2001年宇宙の旅』と『未知との遭遇(特別編)』がかかった。
 以前から決まっていた所用があって、行けなかったのが痛恨といえば痛恨だが、実はその所用とやらをキャンセルすべく、がんばろうとしなかったことは事実なのだ。

 劇場で『未知との遭遇』を再見するのが、正直どこか怖かった。もちろんDVDは、3枚組のアルティメット・エディションで持っているし、しばしば観てもいる。たぶん、頭の中で全編をイメージ映写できる何本かの1つだ。
 けれど劇場で観たのは、中学2年の「特別編」封切のときが最後。『未知との遭遇』と『特別編』の両方を封切で観ることのできた、私はたぶんギリギリの年齢だろう。
 『未知との遭遇』はテアトル東京、『特別編』は新宿文化シネマ2で観た。どちらの劇場も今はない。ちなみに、新宿文化シネマ2は現在の角川シネマだが、当時の面影はほとんどない。

 個人的なことだけを書いて恐縮だが、小学校6年の時に、テアトル東京のべらぼうな大スクリーン(シネラマ上映!)で観た、『未知との遭遇』の衝撃はとんでもないものだった。その衝撃が、この年齢になっても、年に200本の映画を観るべく、週末ごとに映画館に足を運ぶ自分を形成してしまう。
 正確に言うと、小6の時はもう1本『スター・ウォーズ』があった。こちらは新宿プラザで観たが、この劇場も最近なくなったばかりだ。いずれにせよ、この2本なら1人の人間を根こそぎ変えてしまうのに十分だろう。
 そして、『未知との遭遇』と『スター・ウォーズ』に打ちのめされた小6のその冬に、『2001年宇宙の旅』のリバイバルが行われた。劇場は新宿武蔵野館。この劇場も名前が残っただけで、今はない。
 その時はキューブリックの名さえ知らず、『スター・ウォーズ』ばりのスペースオペラを期待した子どもの目を丸くさせる。これが、ド素人の映画ファンの誕生である。

 『未知との遭遇』を劇場で観る。それは何だか、子どもの時にやり残した、あれやこれやの後悔を、全部よみがえらせる体験になりそうで、内心で恐怖した。
 まして『2001年宇宙の旅』を、立て続けに観るようなことをやるのなら。
 絶対に粉々に砕け散った、さまざまな夢を拾い集めるような、そんな映画鑑賞になるに決まっているのだ。

 これがたとえば、『E.T.』や『レイダース』、『太陽の帝国』などだったら、ためらいなく予定変更して、閉館するタイムズスクエアに、いそいそと足を運び、遠慮なく感涙にくれるだろう。けれど、『未知との遭遇』は私の原点だ。そこに触れるのは、どこか怖い。
 
 『未知との遭遇』が劇場でかかるようなことは、今後もめったにはあるまい。次はいったい何年後だろう。しかも、タイムズスクエアのような大スクリーンを持つ劇場で。
 その意味では、かけがえのないチャンスを逃したともいえるのだけど、私の原点たる『未知との遭遇』を、テアトルタイムズスクエアという、最良の劇場のひとつの消失と引き換えに観るということに、どこか不吉な思いがあったのも、また事実なのだ。

 話として大げさだろうか。けれど、劇場で映画を観るということ、それはやはり、その時々の生活環境のありようを、作品ごと真空パックするような体験になる。
 ここでそのお名前を持ち出すのは、失礼の極みだが、淀川長治さんが機会をみつけては、幼少時の劇場での封切体験と共に、作品を語ろうとしたのは、だからすごくよくわかる。

 今日『未知との遭遇』をご覧になったという、さるブログでの報告によると、上映後に小ながら拍手が起こったとか。もし私がその場にいたら、きっと拍手したろうと思うので、それをできなかったのは、いささか痛恨ではある。
 でもやむなしか。きっと次に『未知との遭遇』を劇場で観るとしても(またしても、別バージョンが作られて、それが封切られるという事態にならぬ限り)、たぶん老後、それもほとんど、いまわの際のことだろうと予想する。

 こうした方向の思い入れは間違っているのかもしれない。「たかが映画じゃないか」と言うべきなのだろうか。

2009/8/28

『サマーウォーズ』  映画

細田守『サマーウォーズ』
 ついに観る。今、感動の絶頂にいるので、キーを打つ指がどこかわななくのを感じるが、期待にたがわぬ感動作だった。

 それにしても、富士純子の声の何たるすばらしさ。ネット界の大事を前に、あらゆる人脈にあてて叱咤激励の電話をかけまくる、細かいショットの積み重ね。「電話」というシーンにありがちな、電話で話す2人の空間を超えた切り返しなどない。話す主体だけ。
 前・後・横・斜めと、アングルこそさまざまだが、ショットそれ自体は単なるバストショットで、しかしその声だけはかけた相手との関係性で、声の色彩がとりどりに変化する。
 この瞬間がもしかしたら初めてかもしれない。「声の出演」において女優の「演技」というものを感じたのは。

 ここで私が「演技」というのは、「演技している絵」を支えるためにあてられた「声」という存在ではなく、「演技している声」を支えるための「絵」という事態だ。
 私の知識の範囲内で適当に例を出すと、島本須美は絶対にナウシカの上位概念ではないし、宮村優子は絶対にアスカ・ラングレーに上位しない。山田康雄とルパン三世でも然りだ。
 けれど、ここで「富士純子」は「陣内栄」に上位する。上位するというのは、演じる人物の存在がなければ、演じられた人物の存在性が希薄化するということだ。それは決して「取り替えがきく」、というのとは意味が違うのだが、そのニュアンス、伝わるだろうか。

 『サマーウォーズ』のすばらしさは、もちろんそこに限らなくて、戦いというものには常に「応援」する者がいるということ。応援というのは、加勢とはまったく違っていて、その場の空気を一つにとりまとめて、ある一点の結末に持って行く同じ意思の力のことだ。(加勢というのは、またまったく別の、だけど同じくらいにうれしい感情を呼び起こすものだ)
 とてもたくさんの登場人物がいるこの映画では、全員が同じ一つの感情でその場が満たされるという場面がしばしばあって、そうした空気感こそ映画の感動の源だろう。
 この映画では、そんな感情の真っただ中に、ふっとアサガオの花がとても印象的に添えられることがあって、監督のそんな品性にはとても心が動く。

 最後に話を変えておくと、学校では制服でキメているヒロイン、夏希先輩が、屋敷ではショートパンツで素足という、まあ当たり前の服装になるわけだが、それがかくも魅惑的なのに目が眩む。そうした脚で、花札をやったりするときは、正座になったりするのだが、そんな座り方での脚の肉感ほど煩悩を刺激するものまたとない。

2009/8/27

プロの映画ファンとは・・・。  映画

 留守にしました。再開します。

 新聞・雑誌・テレビ・インターネットのない休暇をとっていたのだけど、1冊だけ本を持って行っていた。
 山田宏一さんの『何が映画を走らせるのか?』(草思社)だ。

 奥付をみると2005年11月の刊行で、この本が出てもう4年も経ったっけ? と驚き、しかしその分、内容をほどよく忘れており、徒然なるまま就寝前などに読む。いやはや改めて思うが、なんて滋味ある書物だろうか。

 どの文章も「映画愛」にあふれていて、内容はもちろんなのだけど、それ以上に「映画」と向き合う、その姿勢に対してつくづく感動する。
 一点だけ。「一億総映画評論家」とも言える昨今の映画を巡る言質の状況に、珍しく苛立ちを隠さぬ「映画批評何するものぞ」の項。

 その文章の中に、「プロの映画ファン」という言葉がさらりと使われていて、そこに心惹かれる。山田宏一さんは、その定義を、具体的に言葉にしていないけれど、この言葉の対極として「プロの映画評論家」という語を置いてみると、それがいやに傲慢な印象を与えることに気付かされる。
 後者が「芸術的差別意識」にもとづくという、避けられぬ宿命をまとっているのに対して、前者にはあらゆる「差別意識」から自由にあり得るからだろう。

 また、その「差別意識」の有無は、「映画を創造した者とすでに創造された映画を批評的に問わざるを得ない者との対象をきわだたせることになる」(「「作家主義」の功罪」)という、ヒッチコック/トリュフォー『映画術』へのきわどい言葉のように、抜けだし難い罠となる。
 その罠から脱出する方法としては、「プロの映画ファン」になるということなのだと思う。そして、山田宏一さんは正真正銘の「プロの映画ファン」である。「プロの映画ファン」になるのは、「プロの映画評論家」になるより、たぶんはるかに難しい。
 
 難しいがきっと不可能なことではなく、それは山田宏一さんの本を血肉化することなのだろう。それはきっと、蓮實御大がどこかで書いていた、「映画語」をマスターすることに他ならないはずだ。
だが、それは誰にもできることではない、とも書いてあったように思う(山田宏一の本を読めば、ひょっとしたらマスターできるかもしれないという書き方に添えて)。
 すると、ここで再び「芸術的差別意識」に陥ってしまい、「プロの映画ファン」になるというゴールは、まるで蜃気楼を追いかけるかのような、絶望的な困難さに思い至るのだ。

2009/8/22

ポニョのラーメン丼 ついに入手!  映画

 現在、ローソンで対象商品のシールを20点集めると、「ポニョのラーメン丼」がモレなくもらえる。ようやく20点たまったので、早速ローソンへ。うれしい。
 もらって帰って、早速ラーメンを作る。もちろん、ハムのトッピングは必須。

 もらった瞬間、少し浅いのではないか。ラーメン一食分は入らないのではないか、と危ぶんだが、さすがそこは抜かりがない。ちょうどぴったり入るサイズだった。すばらしい。

 映画の中のポニョと宗介のように、ハムをのせたラーメンを前に、「わぁっ」という表情をして、うちの奥さんに写真を撮ってもらおうと思ったが、「お願いだから子どもっぽいことはやめなさい」とか、「私はあなたのそういう所が一番きらいだ」とか、さんざんなことを言われ、とうとう撮ってくれなかった。だからラーメンだけ。大変おいしく食する。(注:私は玉子が大きらいなのと、ホウレン草がなかったので、映画とは盛りつけが異なります)
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(写真:ローソンの「ポニョのラーメン丼」。使用ラーメンは「サッポロ一番 しょうゆ味」。ぴったり盛れる絶妙の大きさである。撮影:Incidents)

【お知らせ】明日から留守にするので、更新をお休みします。再開は8月27日付からの予定です

2009/8/21

キューブリックの初監督作品が…。  映画

 私はあまり、You Tubeをあれこれ探す習慣はないのだが、何となく冗談で検索して、我が目を疑う。

 キューブリック初監督の16分のドキュメンタリー、『拳闘試合の日』“The Day of The Fight”(1950)が見られる。あんまり驚いて、しばし固まってしまう。
http://www.youtube.com/watch?v=QOot3_c87j0
http://www.youtube.com/watch?v=GIBfoheVUQs&feature=related

 あるボクサーの1日を追うものだが、そのボクサーにぴたり寄り添うマネージャーがいて、これが双子の兄弟なのだ。そっくりの顔が、常に共にあるという、キューブリックがどこまで意識したかはわからないが、そんなことからして既に、ただごとでない映像感覚がみなぎっている。キューブリック、若干22歳の処女作。
 
 調子にのって、じゃあ第2作、9分の短編『空飛ぶ牧師』“The Flying Padre”(1951)も見れてしまうのだろうかと探して見ると、あるのだこれが。
 http://www.youtube.com/watch?v=lqWEd9w6qKQ&feature=related

 ということは、3作目の『海の旅人たち』“The Seafarers”(1953)もあるということか、と思ったら本当にあるので心底驚く。キューブリック最初のカラー作品。30分。ここまで来ると、映像スタイルはキューブリックそのものだ。
http://www.youtube.com/watch?v=KFI_FifRCDE
http://www.youtube.com/watch?v=o2KUWSN-F10&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=8RnAvj1f-zQ&feature=related

 この作品の後、初長編作品『恐怖と欲望』へと続くわけだ。
 驚いた。PCの前に座るだけで、未見のままだったキューブリック作品を、すべてクリアしてしまった。しかも1時間もかからずに。You Tube、何て恐ろしいサイトだろう…。今さらこんなことで、驚いている私は古いのか。

2009/8/20

PR映画『審理』の再公開を求める署名活動  ノンセクション

 批評家・切通理作さんが、「裁判員制度広報用映画『審理』再公開及び作品保存を求める署名」運動を始めた。

 私自身は、主演者である酒井法子のファンではないし、監督である原田昌樹さんのこれが遺作であり、闘病の中で撮影を進め、ついに完成させて間もなく死去したということについて、必要以上にナイーブな感情も持っていない。
 けれど、一出演者に犯罪の容疑があるという理由で、発表済みの作品が公表を控えられることには反対だ。

 下記URLを閲覧していただき、切通理作さんの提議文に賛意を感じられたら、ぜひご協力をお願いします。
 http://www.shomei.tv/project-1240.html

2009/8/19

やっぱりヒッチコックはどれをとっても素晴らしい  映画

 山田宏一さんと和田誠さんの『ヒッチコックに進路を取れ』(草思社)はもちろん、書店で見かけてその場で即購入の一冊。
 歴史的名著は間違いなしだが、読んでから観るか、観てから読むかで実は逡巡した。
 たっぷり1日迷って、観てから読もうと決める。その上で、このお二方に比べると、自分はいったい何を見ているのかと、徹底的に打ちのめされようと、自虐を決意。
 そんなわけで、持っている限りのヒッチコックDVDを積み重ね、毎晩観るという贅沢三昧を数日続けている。寝不足である。

 で、順番としては、遺作の『ファミリー・プロット』から、旧作に遡るという天の邪鬼なやりかたをとる。『汚名』や『裏窓』、『北北西』、『めまい』などの順に、『マーニー』とか観たりするから、どこかピンとこなかったりするのだ。きっと。
 すると、いわゆる超有名作とはまた違った意味で、晩年の何作かがすごく新鮮に見える。『フレンジー』のヤバさもすごいし、『引き裂かれたカーテン』はもともと大好きなんだが、これまで比較的苦手だった、『トパーズ』にとても魅かれる。

 『トパーズ』がしばしば被る、話がややこしいという非難はそのまま、見ごたえに転じるし、ここぞという見せ場に乏しいという印象も、全体の統率感として観ることができる。
 『映画術』でも書いてある通り、この作品はユニヴァーサルの窮状を救うためにヒッチコックが重い腰を上げ、いやいやながらの不十分な脚本に、何とか演出を凝らしたというが、そのぶん細部にこだわりぬいた様がわかりやすい(だが、金を稼ぐためにヒッチコックを雇う、まではよいとして、問題ありの原作・脚本を手っ取り早くあてがうという、撮影所のそのあたりの本末転倒な仕組みが、今ひとつわからない)。

 何より粋をこらしているなと思うのは、キューバ側の女スパイを演じるカリン・ドールの美しさ。真っ赤な衣装から紫の衣装へ。晩年ヒッチコックはヒロインが弱いというのは定説だろうが、カリン・ドールはまさに磨き抜いて撮ったのではないかと思わされる。
 何より心打たれたのはこの人の指先。きれいに整えられ、品よく塗られたマニキュア。やや身長が足りないので、ゴージャスさには欠けるが、気品に満ちている。入念なメイクに、きっちりセットされたヘア。選び抜いた衣装と完璧なライティング。
 ヒッチコック最後の美天使だ。
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(写真:『トパーズ』よりカリン・ドール。やや短めなのだが、入念に手入れされた様子が伺われる見事に清潔感あふれる指先だ)

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(写真:『トパーズ』よりカリン・ドール。紫の衣装をまき散らし、髪がこぼれ落ちる、華麗極まりないその死)

2009/8/18

小松左京・高階秀爾『絵の言葉 新版』  

小松左京・高階秀爾『絵の言葉 新版』(青土社)読了
 親本1976年の復刊。この2名の顔合わせが面白そうで手にとる。が、正直なところ期待したほどには、面白い本と感じなかった。

 西洋の絵画というのは、基本的にはアイコノロジーであって、そこをきちんと鑑賞しなければね、と、乱暴に要約するとそうした主張を行っているのだが、若桑みどりさんの著作や、パノフスキーの著作がどしどし翻訳されている今日では、大きな目新しさはない。

 そこを超えると2人の議論は、西洋人がこうなのに対して、日本人ってこうだよね、といった、「西洋」と「日本」の一般的な違いを語るのが主となるのは、少し残念だ。
 が、本書が作られた1976年というと、まだ変動相場制になってわずか数年。日本にとって外国はあまりに遠い時代のこと。
 小松左京が「ニッポン」を痛烈に風刺する『明日泥棒』と『ゴエモンのニッポン日記』を書いてまだ10年かそれくらい。
 となると、「美術」という材料を通して、日本と西洋を比較するのが議論の中心となるのも、うなずける。

 しかし、さすがに「知」というものに対する真摯さには、目を覚まされる部分が多い。
 たとえば、絵の文法、すなわち「絵の言葉」は、の正しい理解は必要である。というのは、美というものはある程度普遍性を持つから、そのまま通じると思ってしまうことがある。けれど、それでは表面的にすぎる。
「ブロークン・イングリッシュでは通じないものが言葉にあるように、絵でもブロークンでは通じないものがあるのです。」(高階 P.100)という主張など、背筋を正させられる。
 只者の対談でないから、内容も只物ではない。



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