2009/9/30

小川徹の映画論集  

 怠惰故に、古書店というのに足を踏み入れることは滅多にないのだけど、近所のそれを通りかかったら、ちょうど軒先に置いてあったのが目に止まり、つい手にとる。
 小川徹・著『小川徹 評論集 亡国の理想 肉体的映画文明論』(七曜社)。
 100円。ほんとか。(しかし、何という大げさな書名…)
 奥付を見ると、1963年5月20日刊行の初版。真っ黄色に変色した、ボロボロの本だけど、これは買うだろう。

 表紙カバーの折り返しには、吉田喜重監督の推薦文がある。

 「小川徹氏は特異な映画批評家である。映画の背後にあるもの、創られる過程で隠されたダーク・サイドに照明をあて、執拗に覗きみようとする。その生臭いしめった皮膚のあいだをまさぐろうとする。だがこうした氏の態度は決して下卑ていない。むしろ逆である。この悪質きわまる「覗き趣味」をみごとに崇高なものにすりかえてしまうのだ。また氏は瀕死の危機にある映画の現実を、豊かな土壌に回復させようと努力しているのだ。映画的思考を氏ほど体得している人を私は他に知らない。それは氏がまづ(ママ)誠実な観客であるより、スクリーンのなかに戦後十七年の氏自身の自画像を探しもとめてやまなかったからであろう。(映画監督)」

 と、こういう、いかにもいかにも吉田監督らしい文章だ。

 小川徹さん(1914〜1989)は、もちろん60〜70年代の「映画芸術」編集長を務めた映画評論家。この頃の、吉田喜重作品が「映芸」で取り上げられる時は、たいてい小川徹自らペンをふるっている。

 さくっと目を通してみると、とりあえず「あとがき」で、
「ケネデイ(ママ)の登場が、さきに描いた「ハリウッド映画のみかた」を多少修正し、つけ加えねばならぬ義務をぼくに課したように思われたからである。」
 と書いてあって、そうか1963年刊行ということは、ケネディ暗殺の年ではないか。しかし、奥付の刊行日は5月20日。ケネディがダラスで撃たれたのは、11月22日だから、なんとも奇妙なタイミングでの刊行というわけだ。

 急ぎ、スタンリー・クレイマー批判の8ページのレビューを読む。
 『渚にて』について、グレゴリー・ペックがエヴァ・ガードナーと別れて、「最後の人類がまもなく死滅するメルボルン港をあとにして、自沈すべく出港するシーン」について、「人類がいなくなる瀬戸ぎわにも、なお、アメリカ海軍軍人として軍紀をまもり、艦と運命をともにするというのは、ぼくにはわからない軍人精神なのかもしれない。」と書くあたり、ああ、いかにも「左」の人の発想であることだなあと、つい微笑んでしまう。

 けれど、ここのところは見逃せないところで、そこにつまりは、「進歩側の作品」をつくりあげたクレイマーと、「伝統的精神」のクレイマーと、「ピッタリかさならないふたつの顔」を見るのだ。
 それを、ケイリー・グラントとフランク・シナトラが主演したクレイマー監督作品のタイトルをもじって、「進歩的プロデューサーとしての「誇り」の部分と、彼の体質としての「情熱」の部分」として、葛藤をきたしていると見る。

 そこを前提として、ナチスの戦争犯罪裁判を描く『ニュルンベルグ裁判』の分析に入るのだが、ざっくりと要約してしまうならば、「徹底的に政治的」であったナチスの「政治主義」にあい対するのに、「小さな法秩序や素朴な良心主義の理想国家主義」を持ってきている。そんなもの、たちうちできるはずないではないか、と述べるのである。
 そして、そうしたクレイマーの「低姿勢」を、「ナチ断罪映画でありながら、ナチ思想の宣伝映画のにおいをどこかにもっていた」とさえ言いきる。

 このエッセイを読んで、目からウロコが10枚くらいぼろぼろと落ちる。
こうした話を踏まえておかないと、たとえばジョナス・メカスが『メカスの映画日記』(フィルムアート社)で、クレイマー批判をあちこちで行っているけれど、その真意を掴みあぐねるところだった。

 この本に巡り合ってしまったのも、何かの縁である。熟読吟味のうえ、映画について再考すべきことがたくさんありそうだ。

2009/9/29

スティーブン・キング『リーシーの物語』  

 スティーブン・キング『リーシーの物語』(上・下 白石朗・訳 新潮社)読了
 
 買ったまま存在を忘れて1年も放っておいてしまった。不覚。原書は2006年刊行。
 衰えを知らぬ筆力で、上下巻2段組みの計700ページ以上を一気に読ませる怒涛の作品。

 今回は全米を代表する作家の妻、リーシーの話。夫に先立たれて2年。いまだ亡き夫を忘れきれずにいる。そんな折、夫の記憶と思い出を辿り直す作業の中で、夫の遺稿が目当てのストーカーによる残酷でサイコな攻撃が始まる。

 恐ろしいことに、この小説はヒロインのリーシーによる回想と、現在が交差するとともに、夫の想像上の異世界への迷い込みを、幾重にもクロスカッティングする。
 そして、それがあたかも、「意識の流れ」というのか、ヌーヴォー・ロマンあたりをちょっと気取った感じで、おおいに実験的な構成にしている。

 ただ、個人的な好みになるのだけど、構成はともかくとして、非現実的な異世界ファンタジー空間の導入というのが、私はあまり好きじゃない。それが現実世界にまで影響を及ぼし、それが顛末のカギを握るまでになると。
 現象そのものは徹底的に非現実的なのに、それを解決に導く手練手管は、生々しく現実的であるというのが、最良のキングなのだ。私見では。(たとえば『トミーノッカーズ』)
 もちろんキングの実力で、一気に読まされてしまうといえ、読後の納得感の点では従来のキング作品との相対でいくぶん落ちる。
 ただ、このへんは私がファンタジー小説をどうにも苦手だという、個人的な傾向の趣味の故かもしれない(たとえば『ダークタワー』シリーズや、『タリスマン』あたりがあまり好きになれないのだ)。

 もちろん、そんなことと無関係に、ラストなど、そうかそこに落とすか! と、何冊読んでもキングの才気にはとにかく恐れ入る。

2009/9/28

リベンジ  ノンセクション

 昨日は更新を怠った。疲れて、メールさえ開かずそのまま寝ちゃったので。
 というのは、5連休のときに入れてもらえなかったリベンジとして、性懲りもなく東京ディズニーランドに行ったから。

 土曜をはずして日曜にしたのは、まだしもすいているだろうと読んだからだけど、まああんまり関係ないことは経験上わかってはいたとはいえ、さすがに相変わらずの人手でぐったりだ。入場制限こそしていなかったけれど。

 というわけで、「モンスターズ・インク ライド&ゴーシーク」は、相変わらず200分待ち。見ている限り、終日、待ち時間が180分を割り込むことはなかった。
 なお、朝の9時くらいでファストパスは完売。参考までに、何時頃になくなったのかを聞いたところ、「8時半前にはもう終了していました」とのこと。
 きっと、このアトラクションに乗れる日は永遠に来ないだろう。
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(写真:モンスターズ・インク ライド&ゴーシーク 9月27日午前9時3分 撮影:Incidents)

 代わりに、「プーさんのハニーハント」のファストパスをとりにいったところ、その時点で午後6時15分〜7時15分の券である。恐ろしいことだ。

 ところで、ここ数年の「ホーンテッド・マンション」の人気はどうしたことか。私見では、エディ・マーフィの同名映画がやたらヒットして以後、むやみに混むようになった印象があるが、もう5年以上前の映画だし。
 映画のヒットが人気の理由と考えるなら、「カリブの海賊」の不人気に説明がつかない。
毎度「カリブの海賊」はまったく並ばず乗れるのに対し、「ホーンテッド」は、今回も終日、120分の待ち時間を割り込むことはなかった。
 私の中では「ホーンテッド・マンション」は「イッツ・ア・スモール・ワールド」と共に、あまり並ばず乗れる、数少ないアトラクションだったんだが。すっかり事情は変わった。

 でもまあ、バカだと思われようが、なぜにこんなにしばしばディズニー・ランドに行くかというと、この徹底した非現実感がうれしいからの一言に尽きる。
 やっぱりニセモノでも、ウェスタン・ランドとか歩いているときの気分は最高。

2009/9/26

『正義のゆくえ I.C.E.特別捜査官』、『あの日、欲望の大地へ』  映画

 ギジェルモ・アリアガ『あの日、欲望の大地で』
 これは中学生以下レベル。邦題も意味不明。半分ほど見たあたりで脱出。感想もなし。
 なお、製作も兼ねるシャーリーズ・セロンは『モンスター』あたりから、この人バカじゃないだろうかと思っていたが、その思いがいよいよ確信に変わる。
 冒頭で全裸を見せてくれるが、それでせめてもの入場料の元をとる。

 ウェイン・クラマー『正義のゆくえ I.C.E.特別捜査官』
 ちょっと構成がぎこちないけど、これはすばらしい。
 I.C.E.とは移民税関捜査局。就労ヴィザを持たず米国内で働く不法移民を摘発し、拘束のうえ、自主または強制国外退去の命令を下す。
 時には一斉摘発を行う。ハリソン・フォードはそんな捜査官の1人を演じる。
 
 しかし人道主義的な彼は、不法就労者の事情を忖度しつつ操作を行い、さらに移民による労働が合衆国の活力ともなっていることを知るので、そのヒューマニストぶりが同僚達となじめぬ原因になっている。
 こうした人物をやらせて、ハリソン・フォードほど見事な俳優はいない。ガサ入れのときに、フォードは若い衆の後ろから「本当はこんなことイヤなんだ」と言わんばかりの顔で見回る中、たまたま隠れている若い移民女性を見つけてしまう。その時「お願い見逃して」と、必死に目で訴える彼女を、「そこにじっとしてろ」と目だけで語るその演技。最高。

 といって、この映画はハリソン・フォードの孤独な戦いを描くのではなくて、作りとしてはポール・ハギスの『クラッシュ』に近い。
 不法移民のさまざまな実体を描いて、その各々のパーツが最後に少しづつ集約されてくる。ここでは、ついにグリーンカードを得る者、不運のあげく国外退去になる者、様々だが、それを分かつカギはひとえに「運」としか言いようがない。
 その「運」というのは、合衆国の中にそれでもまだ残る「良心」のことを指す。ここを押さえているが故に、この映画はいい。

 ことに911以後の移民をめぐる環境は、トム・マッカーシー『扉をたたく人』でも描かれた通り、何ともやるせないものがある。
 こうした映画が作られることも、合衆国の「良心」だと思う。

2009/9/25

青柳いづみこ「ドビュッシー『アッシャー家の崩壊』をめぐって」  音楽

 8月24日 浜離宮朝日ホールにて。
 企画・構成・制作/青柳いづみこ「―ドビュッシー『アッシャー家の崩壊』をめぐって―」

 ドビュッシー未完のオペラ『アッシャー家の崩壊』を、2006年から刊行中のドビュッシー新全集を編纂する、ロバート・オーリッジによる版をベースに構成したもの。
 青柳いずみこ によるプロデュースである。

 周知の通りドビュッシーも、ボードレール訳により、当時のフランスでブームを呼んでいたエドガー・アラン・ポーに、深く魅せられていた。
 大成功を収めた『ペレアスとメリザンド』に続くオペラとして、ドビュッシーはポーの原作ものを試みるが、死によってそれは完成を見ることはなかった。
 自身の台本によるオペラ『アッシャー家の崩壊』はその1つである。
 今日の演奏は、1台のピアノ(ところどころ連弾。メインは青柳いづみこで、譜めくりを兼ねた戸張勢津子との共演)と、ソプラノ1、バリトン3でのコンサート形式。

 演奏時間としては30分あるかないかの短いものだが、ポーの原作の奇怪さをあますところなく伝えた、初めて聴くこの曲は、狂気の作品だった。
 旋律が淀みなく、しかしシンプルに、あまりこちらの感情を力で揺さぶることのない、『ペレアスとメリザンド』をイメージすると大きく裏切られる。
 これはメーテルリンクによるファンタジーではなく、ポーの怪奇幻想談なのだ。

 狂気の兄妹の滅びを予言する「医者」(根岸一郎)と「友人」(和田ひでき)のイライラとした二重唱。
 妹マデリーヌ(森朱美)の、美への傾倒のために狂気に陥った、不気味なアリア。以後、最後まで絶叫調でアッシャー家の崩壊を叫ぶ、兄ロデリック(鎌田直純)の推進力に満ちた歌。これが、きちんと完成していたら、オペラの歴史は変わっていたのかも。
 たとえばヤナーチェクあたり、自作品に再考を迫られるのではなどと考えると楽しい。

 プログラム前半では、ドビュッシーとその弟子による、ポーにまつわる小品を。
 まずは、ドビュッシー『弦楽四重奏』(1893)の1、2楽章。この曲の1楽章冒頭の 主題が、オペラ『アッシャー家の崩壊』のライトモチーフとして変奏されているのだ。これは、クァルテット・エクセルシオの演奏で。

 続いて、青柳いづみこ自身による、ピアノ独奏で、簡単な解説を交えながら。ドビュッシー『コンクールの小品』(1905)は、わずか27小節。この曲は、やはりドビュッシーが試みていたポーに基づく未完オペラ『鐘楼の悪魔』のスケッチに基づくのだそうだ。
 そして、『前奏曲集2巻』(1913)から「水の精」「カノープ」。『6つの古代碑銘』(1914)から「カスタネットの踊り子」を。
 いずれも、後の『アッシャー家の崩壊』に主題を転用されており、比較対象しながら、簡単に解説を交えての演奏。短い時間ながら、みごとな知的興奮に満たされる。

 青柳さんの実演に触れるのは、今回が初めてだが、鍵盤にあてがう手のタッチの見事さに目をみはる。達人の手さばきとはこういうものかと。
 著書『指先から感じるドビュッシー』(春秋社)で、ピアノに向かう姿勢や手の形までをも言及したピアニストならではの実践。
 音はもちろんのこと、その弾きっぷりに目を奪われる。

 続いて、早川りさこ によるハープ独奏曲。アンリエット・ルニエ『幻想的バラード』(1913)。これはポーの『告げ口心臓』に基づく器楽曲とのこと。
 プログラムノート(青柳さん自身による執筆)によると、ルニエはドビュッシー『神聖な舞曲と世俗的な舞曲』を初演した名ハープ奏者とのこと。
 物語の音響化。これはどうしても、『告げ口心臓』を読み直しておくべきだった。

 そして、同じくハープを伴う、弦楽四重奏とのクインテットになる、アンドレ・カプレ『赤色病の仮面』(1909/23)。カプレは晩年ドビュッシーの協力者にして弟分だったそうだ。
 この曲がまた見事に作品の雰囲気を伝える。ハープ本体を、拳骨でドンドンドンと叩くことで、赤死病の仮面の男が訪れた様を、目にみえるように表現する。激情的な曲ではないが、これは物語の、というより時代の不安感さえ炙り出している。

 少し変わった企画のコンサートだが、ドビュッシーのほとんど知られていない一面を、ばっちり学習すると共に、音楽を十二分に楽しめる。こういう会には本当に刺激される。

2009/9/24

『病院』、『チチカット・フォリーズ』、『エッセネ派』 (ワイズマン)  映画

 於ユーロスペース。昨日の続き。
フレデリック・ワイズマン『病院』
 相変わらず、すばらしい。これは病院を描いたドキュメンタリーであることから、それなりに緊急事態も発生して、目を驚かされる。

 個々の患者や医師たちの背景なんかは、ワイズマン作品であるため一切語られない。私たち見る者を、ただただ「病院」という現場に放り込む。
 なお原題は“Hospital”であって、“The”がつかないことは、とても重要だと思われる。
 おおむね、ここに勤務する医師たちはきわめて真剣に職務に取り組んでいる。むしろアルコールや薬物の依存に対して、患者の側に不心得者があったりする。

 重傷の子どもに対して、DVの気配を見てとった女性看護士が、『ER』のジョージ・クルーニーよろしく、救済に手を尽くしたりもするが、時代が時代であるため、それをケアする仕組みがなく、なす術なく涙にくれ、同僚から「病院の領分を超えるのだから、忘れた方がいい」と慰められる場面など胸を打つ。

 ものすごいのは、アルコールかなんかで酩酊している青年が、とりあえず全部胃の中のものを出しちまえと、医務室で十分吐いて後、警官と別室に行くが、むしろそこからいよいよ激しく嘔吐するという一部始終。
 人間の胃にはこれほど多くの水分が入っているのか、と目を丸くする。とにかく何もかも床にぶちまけて、それでもまだ後から後から出る。汚物に全身まみれて「死にたくない死にたくない」と呟きつつ、ひたすら吐く青年。どれだけ吐くのか、いやいやすごい。
 警官たちも慣れてるのか、「あー、死にはしないから」とかなんとか、けっこうのんきに見ているのがすごくって、実際、いい加減吐きつくした後は、青年の目が澄んできて、何となくしゃんとしてきているのにも驚く。すべては現実である。

 ラストはワイズマン必殺。カメラは建物の外に出て、病院の外観をじっと見つめ続ける。  (1968年 84分 “Hospital”)

フレデリック・ワイズマン『チチカット・フォリーズ』
 さすが代表作。ユーロスペースがぎっしり立ち見。
 精神異常犯罪者の収容施設、州刑務所マサチューセッツ矯正院の一部始終。米国内では、1991年まで上映禁止だった事実から想像するほど、声高なメッセージがあるわけではない。
 『カッコーの巣の上で』のルイーズ・フレッチャーのような、一目でそれとわかる人でなしがいるわけではない。それくらいなら、むしろ話は簡単なのだ。
 人を人と思っていない、ただそれだけであって、その徹底的な罪(?)の意識の欠如が、一層問題の根深さを露わにする。

 ただポイントは、冒頭いきなり出てくる犯罪者が異常性欲者で、妻子がいるのに、どうも14歳の少女を犯したようだ。尋問を重ねるうち、自分の娘をも犯したらしいこともわかってくる。尋問者が「ところで、自慰は1日何回しているんだ」と聞くと、「3〜4回かも」と言うので、「それはちょっと多いな」と尋問者。

 個人的には3〜4回など普通では? と思わぬでもないが、それはともかく、これほど極悪非道の犯罪者に、人権など言語道断と思う向きもあるだろう。
 そのうえで、この映画は、「では収容所内を案内しよう」とばかりに始まっていく。
 これはうまい。収容所を告発する映画だろうという先入観をいきなり砕き、極めてイーヴンな目で鑑賞を進めることになる。

 観客として一番のショックシーンは、ものを食わない収容者に対し、鼻からゴムチューブを突っ込んで、水だかスープだかを流し込むところだろう。
 滑りをよくするため、「おい、バターかなんかないか」と指示し、バターか油かわからないが、ビンの中の何かをゴム管の先に塗り込み、仰向けに寝た収容者の左の鼻孔に差し込む。いまいち入りが悪いので、今度は右の鼻の穴に突っ込むと、ずるっと入ったので、どんどん押しこむ。
 鼻の穴から喉を抜けて、おそらく胃にまで刺し通しているのだ。で、入りきった所で、チューブのもう一方の先につけた漏斗から、マグカップで水を注ぎ込む!

 「おー、こいつ初めてじゃないね。上手だ」とのんきな係官たち。衛生も栄養もへったくれもない。とりあえず殺さないようにするだけだ。
 意識があるのかないのか、単なる反射か、被収容者の眼尻からうっすらと涙がたれるのを、カメラは決して見逃さない。

 あるいは、自分の頭は正常だ。ここにいるからかえっておかしくなる。だからすぐにここを出せと主張し続ける収容者。目を見ている限りはこの男はかなり正常だ。自ら主張している通り、「自分の言う事は論理が通っている」。
 しかし担当の心理士は、異常者のたわごとと耳を貸さない。たぶん治療する気もない。
 この収容者の処遇をめぐる後の検討会では、1人だけ「放免してもよいのでは」と訴える心理士もいるが、その他全員に却下されて口をつぐむ。

 この映画ばかりは、ワイズマンのカメラは収容所から一歩も出ない。所長と思われる人物主催の陽気な所内パーティでの合唱で始まって、同じ場面で終わるこの最初期作品は、確かにワイズマンのその後の方向性が集約されているように感じる。  (1967年 84分 “Titicut Follies”)

フレデリック・ワイズマン『エッセネ派』
 日本初公開。これもユーロスペースぎっしり立ち身の超満員。
 今度は、ベネディクト会エッセネ派僧院にカメラが潜入。その日常を追う。
 
 正直なところ、病院や学校、裁判所や議会や警察署といったシリアスな空間に比べると、僧院内が抱える悩みごとき、実にくだらぬものだ。
 神への愛がどうの、それを得るために自分は努力が足りなくてどうのと、お前ら社会に出てまともに働いた方がよっぽど神の国が開かれる苦行になるぞと、個人的には思ってしまうが、そうした非映画的な感情はとりあえずおく。

 ひとつ言えることは、複数の人間が集団でそこにある以上、そこには常に葛藤が起こり、それを諌める力が存在し、全体を管理する監督者がいるという事実に他ならない。
 ワイズマンは常に閉ざされた空間内での人の営みを描くわけだが、つまりはそこに全人類(とりわけアメリカ)の縮図をみる訳だ。

 興味深いのは、ここでは案外カメラは僧院の外をひょいと出てしまう。どうも出家したわけではない、日常の生活管理のおじさんが院内にいるようで、その人が時々買い出しに街のスーパーに出かけるのだ。
 このおじさんが意外と曲者で、じゃがいもの皮むき道具かなんかを、金物屋で物色するのだが、あれこれ難癖つけて店主とやりあったりする。
 「これじゃダメだよ、修道士さんの指の皮を剥いちまう」とかあれこれ。店主は「いやうまく剥けなかったら返品するけどいい? 血だらけのじゃがいもは困るから、その時はじゃがいも代も返してもらうよ?」とか、本気か冗談か、よくわからないが、けっこうズルく立ちまわっている。これが修道院からの派遣者である。

 なお、この僧院でいちばんの問題児らしき修道士が、ラッセル・クロウにそっくりなのが可笑しい。自分が神に近づけないのだと、尼僧に心の悩みを聞いてもらいながら、でかい図体でポロポロ涙を流すところなど、悪いけれど笑ってしまう。
 この男はどうも、信仰のあまり皆につっかかっては議論をふっかけているようで、高位僧たちが彼を巡って議論する場面があるかと思うと、最後には懺悔の熱弁で、信者たちの圧倒的共感を得ることに成功し、全員から歓喜の抱擁を得たりもする。すごい世界だ。

 最後の院長の演説では、それを聞く修道士たちの切り返しがほとんど行われないのがすごい。カメラは院長の顔を見据えたまま。ここで、彼の話に聞きほれる修道士たちの顔を切り返すと、途端にフィクションになってしまうだろう。
 けれどそれをせずに、私たち観客自身も修道士の1人として、院長の話を聞いているかのように見せることで、この映画はとことんノンフィクションとしてある。  (1972年 89分 “Essene”)

2009/9/23

『リミッツ・オブ・コントロール』  映画

ジム・ジャームッシュ『リミッツ・オブ・コントロール』
 恐ろしいほど何も起こらない。が、突然暴発事故のように何かが起こるが、それ自体は些細なことだ。
 「ダブル」のカプチーノは2倍の量でなく2杯だと激怒、拳銃を持った全裸、意味不明のブロンド…などなど。
 人物と人物の連鎖の上で、エンディングに向かうという意味では、『ブロークン・フラワーズ』に似ている。けれどそれよりもさらに、切り詰められた外観になっていて、キャラクターはさらに個性を殺そうとしているかに見える。

 けれどまったく眠くならず、固唾を飲んでしまうのは、主人公イザック・ド・バンコレの、無意味に気合の入った存在感だ。決して力の入った演技をしているわけではないのに、殺し屋特有の緊張感を発散している。全裸の女を横にしながら、「仕事中はセックスをしない」と言いつつ、それどころか眠りさえしないという、彼の気配がそうさせるのかどうなのか。

 この映画は彼がひたすら「待機」の状態にあって、けれどいつでも発動できるよう、常に集中心の固まりであるその「無」の状態に漲る、空気感がものすごいのだ。
 まったく何もせずに、ホテルのベッドに座って、無為の状態にいるという、そのポーズで目が死んでいないというのが重要なところ。

 これまでの薄らぼんやりとした、思わせぶりな画面作りから一転、クリストファー・ドイルの超クリスタル・クリアな、スペインの陽光を伝える撮影がまたいい。
 エリセの下で『マルメロの陽光』を撮ったアギーレサロベによる『それでも恋するバルセロナ』より、よほどスペインの空気を感じたのは、たぶん撮影技術というより、ロケハンが恐ろしいほど周到だからだと思う。

 路地、カフェ、美術館(の案内と展示室)、車道、平原、どれをとっても生々しくスペインで、これはきっとじっくりと、街路を歩きまわった製作陣でないと、見つけられない風景だと思う。観光客でなく、生活者視点のこれはスペインだ。
 だからこそ、暗殺のターゲットである「自分が世界で一番偉いと思っている男」(キャスティング表を見れば、誰がその男を演じるかは一目瞭然で、これがこの映画最大のギャグ)のアジトが、逆にいかにもウソ臭く、架空っぽく見える。ここだけ非現実的な空間であるような。すなわち標的事態が曖昧なのだ。
 
 常に「待機」状態であり、いつでも無為の時間をすごしているかに見える、この主人公の人生こそ、なるほど文字通り「パーマネント・バケーション」であることだ、と、とにかく驚きの連続の中で鑑賞。すごい。

2009/9/22

東京ディズニーランドの混雑状況  ノンセクション

 5連休ではあるし、混雑はもちろん予想していた。
 しかし、東京ディズニーランドの開園以来、たぶん50回くらいは来ていると思うが、これほどの混雑は見たことがない。まして「入れなかった」なんて、さすがに初めてだ。
 舞浜駅を降りて、ゲートに向かう橋の途中でこのありさまだ。朝9時過ぎの時点である。
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(写真:東京ディズニーランド入園口手前数100m。撮影:Incidents)

 で、ついにこんな看板まで。
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(写真:その横。撮影:Incidents)

 我が家は大人2名、子ども2名となるのだが、今回大人チケットは用意していたものの、子どもチケットは当日窓口で買おうと思っていたので、完全に往生する。
 このような場合どうするのかと、拡声器で叫んでいるキャストに、事情を伝えると、
 「今回は特別にお通しします。でも次回からはご家族全員のチケットをご用意のうえご来場くださいませ」
 と注意される。クレーム対応としては合格だが、買い方まで指示されたくない。

 が、しかしどんなものか。はるか地平線の彼方に見える、チケット売り場までの列に並びながら、ここで無理に入場しても、要するに1万円払って、おみやげを買わせていただくと、そういうことか。
 たぶん、入れるアトラクションなど皆無のはずだ。念のため、近くにいたキャストに「仮に入場しても、どれくらい並ぶのだろう?」と訊ねたところ、「スモールワールドで1時間、ホーンテッドマンションで2時間程度のようです」とのこと。
 それ自体は大したことないように思えるが、裏を返すと「プーさんのハニーハント」や「バズのアストロブラスター」に乗れるなどとは思うなよと、そういうことか。

 「このまま帰ろう。おみやげを買うだけのために入場料を払うようなものだ。」と、うちの奥さんに相談。結局、早起きしてこんな所まで来て、何もせずにUターン。バカである。
 娘が、せめてストアだけはじっくり見たいと言うので、いくらでも見るがよいと、「ボン・ボヤージュ」に行くが、そのショップ自体が人で飽和状態で、商品などとても見れやしない。そもそも、レジに並ぶ人の列が何重にもとぐろを巻いている。

 おみやげ屋さえ早々に退散。イクスピアリをぶらついた後、苦し紛れに、隣の葛西臨海公園に行く。しかし、ここでも水族館など怒涛の人波。いったいこれだけの人が、どこから来るのか。
 不況日本といえ、これほどの行楽客が、これほど財布のひもを緩めているという事実に、驚かされる。

2009/9/21

『台湾人生』、『DV2』(ワイズマン)  映画

 酒井充子『台湾人生』
 於ユーロスペース。乱暴にまとめると、前々世紀末から敗戦まで、台湾は日本の統治下にあった。日本軍として徴兵もされた。戦後、中国による戒厳令下に入り、1972年の田中角栄政権下で日中国交正常化に伴い、日本は台湾を完全に「切り捨てた」結果になる。

 この映画では、この日本統治下における「日本語世代」の老人たち(みな大正生まれだ)とのインタビューを通して、彼らの若き日から現在に至る人生を取材。
 しかし彼らの日本に対するこの熱い思いは何なのか。
 ある女性は言う。「私が男なら「天皇陛下万歳!」と、きっと特攻隊に行っていた」。別の女性は「靖国参拝する小泉は天晴れだ。日本のために戦った者を弔わないのは変だ」と。

 しかし、彼らは「日本」に切り捨てられたはずなのだ。それでも日本に対して残る憧憬。
 ここが、アメリカから切り捨てられた結果、逆に反米テロへと向かったアフガンと比較した時、その差に驚かずにいられない。

 画面には、そこはかとなく「日本」が漂う。
 ある老人をインタビューする場面では、その傍らでなぜかお孫さんの小学生が、ピアノを弾いている。使っている楽譜にあしらわれたイラストが、いかにもヤマハの子ども用譜面で、ああきっとヤマハ音楽教室でレッスンを受けているんだろうな、と思っていると、やはり画面の隅の方にヤマハのバッグが写っている。

 バッハをポロポロと弾いているかと思うと、爺ちゃんに請われたか、『荒城の月』を弾き始める。これがうまく弾けず、爺ちゃんは「こういう曲を今はもう知らないんですよ」とか何とか。一転、『運命』を器用に弾きだしたりして、このあたり、どうも演出の息がかかっていそうで、いささか鼻白まぬでもないが、続く同窓会シーンでも、みんなで歌う「校歌」は日本語。
 テーブルのドリンク類は、サントリーなんかだったりして、「日本」があちこち目につく。
 生活の根元に食い込んでいる台湾における日本。

 フレデリック・ワイズマン『DV2』
 於ユーロスペース。『DV』を未見なので、それとの対象で語る術はないが、160分がまったく飽きない。
 家庭内暴力の裁判をそのまま丸撮りするドキュメンタリー。舞台はフロリダ州の法廷。

 重要項目としては、「接触禁止」。つまり、DVとして起訴され、有罪判決を受けたら、被害者との一切の接触を禁じるというものだ。この処分に打倒するかどうかが、審理の分かれ目になる。
 しかし多くの場合、被害者は(女性とばかりは限らない。加害者が男性で、女性が被害者の場合もあるのだ)、やはり起訴をとりやめたいと言い出す。もうこれ以上ごたごたはイヤだし、離れても暮らせないと。

 判事はそうした場合、それは第三者に強制された希望か、と必ず問う。いやそうではない、という場合がほとんどだが、どうも被害者側は(もちろん加害者も)、この「一切接触禁止」という実際的な処遇を納得できていない、または、理解できていないように見える。
 だから、判事は説明しなければならない。「それは必ず繰り返される。1時間後にはまた起こる。数日したら今度は拳銃沙汰だ」と。

 それが初犯であり、然るべき説得的な事情がある場合、不起訴になることもあるが、判断基準として、「暴力があるかないか」という極めてシンプルなイエス・オア・ノーで、審議は進む。それもそのはず、次から次へと案件が来て、どんどん裁かなければならないのだから。こうしたところに、司法のオートメーション化が、うっすら示されていくが、それ以上に個々のケースの軽さが際立つ。
 何しろ、被害者と加害者で、証言がまったく食い違っており、ほとんどの場合は単なる水かけ論になり、真偽の判断などまったくできないからだ。
 そして、代理人も立っていたりいなかったりで、証言の真偽を調査する立場の者はいないし、やってもしかたがないというスタンスだ。キリがない。

 映画の最後は、法廷を離れてカメラは外に出る。バーガー・キングやピザハット、ベル・タコからマクドナルドまでの、大衆チェーンの飲食店のショットから、個人宅(次第に大きくなる)を経て、ついには街の遠望までを、ショットごとに示す。
 以上のことは、この中で無数に行われているが、それに対して、ということは、この映画をどんなスタンスで受け止める用意がある、ということを問い返してくるかのようで、ぞっとさせられる。  (2003年 160分“DV2”)

2009/9/20

『知りすぎていた男』と、口笛吹きのオスカル  映画

 ヒッチコック復習中。『知りすぎていた男』に涙。

 有名な演奏会での暗殺は、最近も『イーグル・アイ』と『ゲット・スマート』で使われたが、個人的にはここを映画の最大のポイントとは、あまり思っていなくて、やはり何より見事なのは、ドリス・デイの“Que Sela Sela”と子どもの口笛が重なるところだ。

 この口笛が聞こえた時の、ドリス・デイとジェームズ・スチュアートの、雄弁な目線と目線の交換が行われる、何と言う素晴らしさ。
 息子救出の次の一手に有効なアイディアがなく、動きを決めかねていた彼らの活劇装置が、ここでオンになる。そして、ほんの少し歌に遅れて、口笛がそれに和する。ヒッチコック屈指の泣かせ場面だ。

 しかし子どもによる口笛と歌。これをスピルバーグあたり、きっと何か参照しているはずだ、と脳細胞が痛く刺激されるが、どうもスピルバーグに「口笛」というのがあまり出てきた記憶がない。『A.I.』か『太陽の帝国』あたり? と思うが、ない。
 『オールウェイズ』のリチャード・ドレイファスは、命がけの着陸に際して口笛を吹いていたっけ。では『未知との遭遇』は…? と考えつつ見ていてピーンと来たのが、『トリュフォーの思春期』だった。

 それは『トリュフォーの思春期』で、女の子のナンパに成功して、映画館に来たパトリックたちが、本編前に見るニュース・リールでのことだ。
 トリュフォーによるこの疑似報道フィルムでは、「口笛吹きのオスカル」という人気者を紹介している。アメリカ人の父とフランス人の母の間に生まれたオスカルが、最初に話した言葉は英語かフランス語か、というものだ(蓮實御大なら『反=日本語論』をこれをモチーフにフィクションをでっちあげることもできたんじゃないか)。
 オスカルが、父母とのコミュニケーションに使ったのは、何と口笛だったのだ!

 いい話である。が、このエピソードを発想したとき、トリュフォーの頭に『知りすぎていた男』の連想がなかったはずはないと思うのだが、どうだろうか。
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(写真:『知りすぎていた男』より。暗殺計画のコンサートは、指揮バーナード・ハーマン。巨匠のタクトを見ることができる点でも貴重な1作)



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