2009/10/31

回顧上映「女優 岡田茉莉子」  映画

 ポレポレ東中野「自伝刊行記念 回顧上映『女優 岡田茉莉子』」。
 13時から駆け込むことに成功。「映画」に浸り切ることの、何とも知れぬ悦びに陶酔。私はとにかく岡田茉莉子さんに心酔している。

 『ひとり寝る夜の小夏』(青柳信雄/1955/東宝/白黒)
 ここでの茉莉子さんは、自分の運命はひたすら他人に委ねるしかない元芸者。身請けされ、愛してくれた「パパさん」に先立たれ、譲られたアパートで孤独をかこう茉莉子さん。
 その秘書だった森繁久彌は何かと世話は焼いてくれるが、生活を引き受けてくれるほどの甲斐性はなく、あまりに小市民である。
 そこを策を弄して、茉莉子さんを身請けるのが2代目社長の志村喬。その手引きをするのが、信用できるのかできないのかわからぬが、基本的には自分の役得しか考えていない、茉莉子さんの芸者時代の「おかあさん」杉村春子。

 基本的に見るべき点の多い映画ではない。が、着物姿の茉莉子さんの立ち姿に目が眩む。
 将来を案じ、故郷・熱海に帰り、ふと母校の小学校を訪れる茉莉子さんが、ブランコのそばで立つ時の膝の曲げ具合に落涙。ここで高鳴るフルオーケストラの「うさぎ追いし あの山…♪」の通俗的なメロディも効果的。このとき茉莉子さん、22歳。

 『やくざ囃子』(マキノ雅弘/1954/東宝/白黒)
 足の悪い妹・茉莉子さんの治療費を稼ごうと、やくざ稼業に身を落とした河津清三郎。その茉莉子さんと相思相愛になる、流れ者のやくざが鶴田浩二。
 この映画は2007年のシネマヴェーラで、当の茉莉子さんの真後ろの座席で見たという果報は以前にも書いたが、さすがにマキノは一味違う。
 「好きよ、好きだわ、好きです」の永遠の反復を続ける茉莉子さんと男・鶴田の、こんなシーンを撮れるのはジャン・ルノワールしかあり得ぬ、森の中の輪舞。
 凄惨な斬り合いの中、「嫁にくれ」「なんねぇ」と果てなく続く、河津+鶴田の押し問答。
 
 冷静に考えると、「びっこ」という設定の茉莉子さんが、森の中でかくも優雅に動けるはずがない。しかし茉莉子さんの「好きよ」「好きよ」の声があまりにも涼しく、音楽的なので全てが忘れられる。このとき茉莉子さん21歳。
 あり得ぬすべてのファンタジーをリアリズムに変える、マキノマジックの頂点。

 ここで、蓮實御大によるトーク。詳細はまた後日。
 もちろん客席には茉莉子さんご本人と吉田監督もいて、トークの後半は蓮實重彦+岡田茉莉子対談となる。これも詳細は後日に。
 トーク後に、思いがけず茉莉子さんによるサイン会になだれこむ。

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(写真:岡田茉莉子『女優 岡田茉莉子』(文藝春秋)と、本上映会のフリーパス。通し番号は17。撮影Incidents)

 当然ながら持参した新刊、『女優 岡田茉莉子』にご署名を頂戴する。
 「まだ半分までしか読んでいませんが、あまりにもすばらしいので、実家の母と義理の母、そして自分のと、3冊買わせていただきました」と、無礼にもお声かけする。
 すると、「それはそれは…。長い本ですから、どうぞゆっくりお読みになって…」とのお言葉を茉莉子さんから頂戴する。死んでもいい。

 『旅路』(稲垣浩/1955/東宝/白黒)
 やくざ渡世の夫と息子との3人、逃亡生活の茉莉子さん。義理と人情の偶然で池部良に窮地を救われるが、夫の命は救えなかった。妻と子を守ってくれという遺言から、池部良との3人の旅が始まる悲恋旅。
 ここでの茉莉子さんは、目の表現がすばらしい。基本的に私は茉莉子さんを声の女優と認識しているが、その大きな眼を使いこなす時はさらにすごくなる。

 じっと相手を見つめる眼は、ときどきふと下に沈むわけだが、その沈ませ方のタイミングが絶妙。私は茉莉子さんの眉間の皺に萌えっぱなしなのだが、目を伏せるときその皺がつと消えてしまう。その変化が美しすぎる。このとき茉莉子さん23歳。

 『山鳩』(丸山誠治/1957/東宝/白黒)
 これはすごい。マキノは別格としても、本日最強の一作。茉莉子さんのかわいらしさが炸裂している。快晴の太陽の下、天真爛漫に笑顔を見せる茉莉子さんのアップに、幾度も声をあげてしまう。陽光あふれる林の道を、スキップする茉莉子さんのシルエットに悩殺。
 そして茉莉子さんの魅力もさることながら、始めは森繁久彌と茉莉子さんの、ミニマルな会話劇かと思いきや、少しずつ登場人物が増え、次第にこの小さな村を舞台にした集団劇の装いさえ呈するようになる、映画の構成も絶妙。

 舞台は浅間山ふもとの落葉松沢(からまつざか)駅。そこでたった一人働く駅長、森繁久彌。彼の遊び相手は将棋の相手である、村唯一の旅館の番頭、田中春男。
 そんな或る晩、その仕事いやさに逃走して、電車に身を投げようとしたものの死に切れず、路頭に迷った娼婦、茉莉子さんがやってくる。
 成り行きで彼女に一晩の宿を与える森繁だが、やはり成り行き上、そのまま同居することに。年齢差30を越えて、結婚にまで至るが、元娼婦という感情的なしこりは残る。

 ここでの茉莉子さんは、陽と陰のギャップを見事に使い分ける。今日の蓮實御大の指摘にも出た、成瀬の感じる茉莉子さんの「よさ」と、小津の感じる茉莉子さんの「よさ」。その双方がミックスされたのが、『山鳩』ではないか。茉莉子さん24歳。この映画はいい。

2009/10/30

クリント・イーストウッド最新作“Invictus”予告編  映画

 そうこうするうちに、何とクリント・イーストウッド最新作“Invictus”の予告編が、解禁となっている。『チャンジリング』、『グラン・トリノ』の興奮冷めやらぬのに、もう新作ができあがってしまうのか。http://www.apple.com/trailers/wb/invictus/

 これで今年のアカデミー主演男優賞は、マット・デイモン当確か。それにしても、イーストウッドとしか言いようのないショットばかりで、驚いてしまう。

 でまかせめいた書きかたをするなら、車の中の2人の撮り方。運転席と助手席の人物を、どうカメラに収めるかというのは、イーストウッド作品を考えるのに、最重要の観点ではないかと改めて思う。それから、車中から外をみつめる人物と、窓の外の風景と。

 これも直感にすぎないけれど、“Invictus”の映像を見て、真っ先に『ハートブレイク・リッジ』を思い出す。これは根拠なし。

2009/10/29

『THIS IS IT』・・・映画館における拍手とは。  マイケル

 映画館で沸き起こる拍手というのは、誰に対して向けられるものだろう?
 『THIS IS IT』は地元近くのシネコンで観たのだったが、上映が終わった瞬間に、感極まったかのように満場の拍手が響き渡った。

 作品の関係者が客席の中にいることがわかっている、特別な上映では決して珍しくない。熱心なファンが集まる、都心での先行ANの機会でもしばしば起こることではある。
 けれど、ごく平凡なシネコンでの上映で、拍手喝采が巻き起こった経験なんてない。

 『THIS IS IT』終映直後の拍手は、誰か1人2人の熱狂的な拍手につられて、自然にそれが広まったものではなかった。劇場の全員が、ほぼ同時に示し合わせたように起こったものだったのだ。

 『THIS IS IT』の中心たる人物は、この場にいないどころか、この世にさえいない。
 では、この拍手はいったい誰に聞かせているのか。
 天国にいるマイケルに聞かせているのだ、といったセンチなことは言うまい。
 これははっきり、「私はこの映画に感動した!」という意思表示なのだ。
 感動しなかったなどという人がいたなら、その人たちの感情を抑圧する、「この映画は素晴らしかったのだ」という断固たる主張のあらわれである。

 そして、その場に関係者のいない、「映画」の上映で起こる拍手というのは、あまねくそれだろう。
 『THIS IS IT』において、その拍手はほぼ全員に共有されたものだった。
 幸福の中にも幸福な映画だと思う。
 これはケニー・オルテガの誠意あふれる仕事への賛辞であると同時に、マイケルへの最高の花束だろう。

 劇中でマイケルは言う。
「ファンの記憶の中にある演奏をしたい。最初のレコーディングで出した音でやるんだ」
 マイケルは、ここまでファンのためを考えた音作りを目指していた。
 マイケルの想いは私たちにしっかりと届いている。

2009/10/28

『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』  マイケル

 ケニー・オルテガ『マイケル・ジャクソン THIS IS IT』
 全世界同時公開。今日19時。劇場に向けて走る。

 言葉にならぬ素晴らしさだ。白状すると、内心では多くを期待していなかった。わずかなリハーサルフィルムを使って、尺数を水増しするためにかつての映像記録や、ツアー・スタッフのインタビュー、熱狂するロンドンっ子たちのコメントなどで、埋め尽くされているのではないかと、予想していたのだ。全然ちがった。そんなもの一切なし。
 正真正銘、混じり気なしの、幻に終わったロンドン公演のリハーサル記録だった。
 
 ここにはまったくウソ、ごまかし、捏造、無意味な称揚、手抜きはない。ケニー・オルテガのこれは誠意あふれる仕事の成果だ。記録映画としてパーフェクトな作品と言いたい。
 練習されている曲のさわりだけを見せて、観客をあらぬ欲求不満にかきたてることは決してない。テイクはさまざまに編集こそしているが、きちんとフルコーラス聴かせてくれる。完成途上の曲、ほぼ完成された曲など、バラつきがあるとはいえ、その時点での、その曲の完成具合を完全に見て、聴くことができる。

 未見の人には純粋に見てほしいから多くは書くまい。この映画こそネタバレ厳禁だから。
 ただ、1つだけ書くのを許してもらえるなら、“Human Nature”練習シーンを挙げたい。
 ボーカル・アレンジに迷うマイケルが、メインたる自分の歌を口ずさむ。何かをつかんだらしいマイケルは集中状態に入り、そのまま歌い続けてしまう。

 その瞬間、横に立っていたケニー・オルテガの眼が、確かにキラリと光った。オルテガは無言で腕をぐるぐる回し、バックバンドに「演奏しろ、しろ!」とばかりに合図する。
 すかさず、見事なフレージングで入ってくるドラムのリズムと、キーボードの響き! そのまま歌い続けるマイケル。
 ああ、音楽ができあがっていく。今まさに音楽が作られようとしている。未完成だった音楽が形を持って、みるみる湧き上がってくる。才能があふれ、こぼれている。
 なるほど、アーティストの呼吸をしっかりと読みとって、最良のものを引き出してしまう、これが最高の演出家の腕前か! とつくづく感心した瞬間だ。

 だがしかし、まだこれほど歌えたのか、これほど踊れたのか、と今さらながらに驚いてしまう。これがあと2か月後に死を迎える人の姿か。
 つくづく失ったものの巨大さを思う。これがリハーサルだとしたら、本番ではいったいどんなものができあがっていたのだろう。

 演奏に納得できたとき、ふっと緊張を解くマイケルは、メンバーに対して必ず“God bless you.”と言う。“O.K.”とか“Good!”ではない。
 そこに何ともしれない、温かさが漂う。
 そして、これは何より重要なことだが、この映画のマイケルには、晩年に被った奇人・変人といったイメージはまったくない。
 きわめて理性的にオルテガと話し合い、若手ミュージシャンに指示を出すと同時に育成する、誰よりも正気なマイケルなのだ(「そのコード、音が多い! 三音目いらない。もっとシンプルに!」と精密に指示出しをするマイケルに驚く)。

 この映画は、マイケルに思い入れある者のためだけのものではない。“創造の現場”に少しでも関心があるなら、誰もが必見のすさまじいドキュメントである。ケニー・オルテガの誠実な仕事には、とにかく舌を巻く。

2009/10/27

何が私を走らせるのか?  映画

 やれやれ、生計の方で無暗に忙しかったのですが、ひと段落したので復帰します。
 3週間映画館に行かなかったなんて、何年ぶりだろうか。

 東京限定の話題めいていて恐縮だが、日ごろ巡回している、ブログを久々に一通り眺めながら、こちらが映画を見れないというのにみんな、やれスコリモフスキだ、やれキアロスタミだ、やれスレイマンだ、やれリヴェットだ、などなどなど、皆さんの奔走ぶりに嫉妬の炎を燃やしつつも、けれど、どこか温かい気持ちになっていた。心ある映画好きは、みんな走っているじゃないかと。

 蓮實重彦『映画巡礼』(マガジンハウス)より引く。
 「事実、ニコラス・レイ特集のためには、湾岸戦争が勃発しようと涼しい顔でロッテルダムへ飛び、かってコジンツェフが活躍した旧レニングラード撮影所に滞在できるというなら、崩壊直前のソ連まで寒さをも恐れずに出かけてゆき、ビクトル・エリセが十年ぶりに映画を撮ったと知れば、マドリッドまで行くのはごく当然と思っているのだ。」
 「映画とは「動き」の誘惑にほかならず、それを見ることは、なんらかの意味で、「動き」を模倣するものでなければなるまい。」

 私はこの檄文が大好きで、映画を見るにはとにかく「動く」ことだという確信がある。
 山田宏一さんの名著の書名も、『走れ!映画』(たざわ書房)、『何が映画を走らせるのか?』(草思社)のように、なぜか走らされている。
 映画を見る人間は絶対に走らなければいけないのだ。

 私は一切運動をしない人間だが、たとえばタイムテーブルの関係で、イメージフォーラムからユーロスペースまでを、10分以内で走破しなくてはならぬことしばしばだ。
 あるいはフィルムセンターからシャンテまでを10分で駆け抜け、恵比寿駅からガーデンシネマまでの、理不尽に長い遊歩道を5分で突っ走る。(以上も東京の方でないと距離感がわからないはず)
 そのため、たまたま知り合いのDog Biscuitさんを、実は目撃したことがあるが、無視して走り去ったこともある人でなしだ(すみませーん)。

 そして、予告編が終わって本編が始まる寸前に、座席にたどりつき、息切れで激しくあえぎながら映画に身を委ねて、いつしか呼吸が整うのを感じる。
 これまでそんな体験を何千回したろうか。

 『スター・ウォーズ/エピソード1』と『M:I-2』は、どうしても全米公開初日に立ち会いたくて、つい「ジェット機」に乗ってしまうという愚行に及んだこともある私だが、映画を見るにはとにかく、動き、走らねばならないのだ。

 どうも、東京限定の話題めいていて恐縮だが、しかしこの数週間、「映画」の人たちは、渋谷をおさえつつ、六本木を走ったことだろう。ヒルズ⇔マートは決して近くない。同時に飯田橋に向かった人も少なくなく、阿佐ヶ谷や神保町に足を延ばし、山形に行った人もあるようだ。皆さん、走り、動いた成果がありありとわかる。そうした結果で書かれた文章は、やはり強い。
 「映画」を目指してかけずり回る人は、映画と共にあるのだ。

 今週末の土曜日…は娘の文化祭なので、ポレポレに行けないが(涙)、日曜は東中野に走るだろう。たぶん来週もその次も。

2009/10/20

1週間ほど休みます  ノンセクション

 たわごとなりに、毎日更新していることだけが取り柄のこのダイアリーですが、ここ数日は、たわごとにしたって、いくら何でもひどすぎるのと(「別に変らねえよ」という非難を受けそうですが、自己評価の問題です)、気持ちに余裕がないので一週間ほど休載します。映画で生計を立てていないことの弱みです。

 その一方、日ごろ巡回・愛読しているブログがあまりに充実しているので、落差に少し落ち込んだというのもあります。

 再開は10月27日(火)付を予定しています。

2009/10/19

深夜、ドン・ブルースについて思ひを馳せる  映画

 午前3時の近所のファミレスで、20杯目くらいのコーヒーをガブ飲みしながら、あれこれ生活の義務を果たしていたところ、店内のBGMでダイアナ・ロスの“If We Hold On Together”が流れてくる。
 
 何年振りかでこの曲を聴き、何とも知れず心洗われる気分になったところ、驚いたことに続けて、リンダ・ロンシュタットとジェームズ・イングラムの“Somewhere Out There”が流れてきて、これは映画を見れずに苛立つ私を、神様がからかっているのだなと思った。

 ダイアナ・ロスのこの歌は、もちろんルーカス/スピルバーグ製作総指揮の『リトルフットの大冒険/謎の恐竜大陸』(1988)の主題曲。曲の有名さと比べて、この映画を見ている人はどれだけいるのだろうか。
 そして“Somewhere Out There”も、スピルバーグ総指揮『アメリカ物語』(1986)主題歌。
 どちらの曲もジェームズ・ホーナー作曲で、後に『タイタニック』主題歌“My Heart Will Go On”を作るくらいに、いわゆる「ヒット曲」を作る才能抜群の人。

 ところで、『謎の恐竜大陸』と『アメリカ物語』の頃は、スピルバーグがディズニーばりのアニメを作りたくてしかたがなかったと思しき時期。
 まず、ディズニー映画の再現に必要なのは、誰でも歌える名曲主題歌、と睨んだのはプロデューサーとしてさすがである。
(ピクサーが主導を握って以後のディズニー、というか、そもそもピクサーに決定的に足りていないのは、こうした誰もが知る主題曲だ)
 
 ただ哀しいかな、歌は残ったが映画そのものが残らなかった。この2作の監督はがドン・ブルース。
 1937年という、『白雪姫』の公開と同年に生まれたこの監督は、長らくディズニーの1スタッフとして、尊敬を培ってきたが、哀しいかないよいよ、「監督作」を手掛ける70〜80年代にかけての、ディズニー映画部門はどん底。撤退すら検討されていた頃だった。

 ここでスピルバーグが、ディズニーメソッドの正当な継承者であるドン・ブルースを、引き抜いても不思議はない。が、必ずしも成功したとは言い難く、私自身もこの2作に対する思い入れは深くない。
 そして、ドン・ブルースがさらに不運なことには、この人がスピルバーグに請われたとほぼ入れ替わりに、古巣のディズニー本体が、マイクル・アイズナー/ジェフリー・カッツェンバーグ体制となり、映画部門がテコ入れされる。

 その結果、『リトル・マーメイド』(1989)を皮切りに、『美女と野獣』、『アラジン』とヒットを連発し、『ライオン・キング』で頂点を極めるディズニー・ルネサンスが訪れる。が、本来ならその復興の場にいるべき、ドン・ブルースはもはやディズニーの一員ではない。
 その後、私の見た範囲では『アナスタシア』(1997)、『タイタンA.E.』(2000)といったアニメをフォックスで作るが、正直パッとした作品ではない。
 
 そしてディズニーにあやかって、アニメ作品に力を入れようとしたフォックスだったが、これらの惨敗で一旦退却。ようやくフォックスのアニメ部門が『アイス・エイジ』(2002)で、大成功する頃には、時代はもう完全にCGアニメである。
 (同時期にワーナーも『キャメロット』(1998)というアニメを投入したが、これも興業的にハズレと出る。この時期、ディズニー以外のアニメは全敗だった)

 そうしたあれこれの過程の中で、アイズナーと訣別したカッツェンバーグが、結局スピルバーグ(とデヴィッド・ゲフィン)と組んで、1994年にドリームワークスS.K.G.を結成したのは、すでにスピルバーグの元を離れていたドン・ブルースにとって、何という皮肉だろうか。

 しかも、そのドリームワークスにおいて、カッツェンバーグがアニメ部門を担当し、『プリンス・オブ・エジプト』(1998)のような、いかにもドン・ブルース向きの企画をヒットさせ、ついには『シュレック』(2001〜 )のシリーズで空前の商業的成功を収める。

 ドン・ブルースという人は、アニメーターとしての尊敬をほしいままにしながら、いつも巡り合わせが悪く、常にタイミングを失し続けた、「呪われた」とまでは言うまいが、不運にも不運な映画監督と言えるかもしれない。

 といったことを、“Somewhere Out There”が流れる深夜のデニーズで、21杯目くらいのコーヒーをすすりながら、5秒間くらいで考える。
 ただの独り言だがまあ、こうしたアニメの流れを記しておくのも、無駄ではないか。

2009/10/18

まずは最高の2D映画を…  映画

 スコリモフスキ、ドゥボール、ソクーロフ、ワイズマンどころか、ポレポレ岡田茉莉子特集にさえ、行けない気配濃厚で錯乱寸前なのに、東京国際映画祭どころではない。
 だから、今年どんな作品がかかるのか、例によってまったくチェックしていないのだが、ジェームズ・キャメロン『アバター』一向が、来日したのだそうだ。(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20091018-00000002-eiga-movi

 その会見での、プロデューサーのジョン・ランドーがこんなことを言ったようで、これはほとんど決定的な一言だなと思う。上のEiga.comでの記事によると、
 「3Dという形をとれば、奥行きのある新しい世界観への窓口となるが、フィルムメイカーとしては、まずは最高の2D映画を作らなければならないと思っている。」

 3Dの是非について、一部に議論があるようだけど、まずは最高の2D映画であるべき、というこのジョン・ランドーの言葉に、結論は集約されると思う。そしてこの言葉は、監督ジェームズ・キャメロンの気持ちを代弁したものでもあるだろう。

 確か、『トゥルー・ライズ』封切時の、先行オールナイトのことだったと記憶する。丸の内ルーブルだったか、舞台挨拶で登場したジェームズ・キャメロンが、
 「そう、フィルム。映画はフィルムで見ないとダメなんだよ。」と、そんなようなことを言って、感激したのだった。(この日初めて、キャメロンを至近距離で見た)

 キャメロンを絶対に指示するのは、こうした真面目さが、作品に表れているからだ。
 この人の映画は、スクリーンというキャンパスをいっぱいに使い、いつも動く。
 『タイタニック』の音を消して、画面だけで見た経験はあるだろうか。もちろん、繰り返し見て、すっかり音響も頭に入っているとはいえ、それでもそれは十分にエキサイティングな鑑賞だ。つまり、ジェームズ・キャメロンの映画は、トーキーだがサイレントであり、カラーだが白黒に耐え、そして「最高の2D映画」である。

 今のところ、ロバート・ゼメキスがキャメロンに遅れをとっていると思わされるのは、このあたりなのだ。
 たぶん、3Dへの欲求はゼメキスが誰よりも強いはずだ。何しろ、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の中には、悪ガキ仲間の1人に「3D」というキャラまで登場させるような人である。(その他は前に少し書いた。http://green.ap.teacup.com/applet/nanbaincidents/20071210/archive
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写真:『バック・トゥ・ザ・フューチャー』より。後部座席の奴が“3D”。
ことの始めからゼメキスは、3Dにこだわりぬいている。


 さすがに『バック・トゥ・ザ・フューチャー』ばかりは、ありとあらゆる意味で、完璧なのだけど、『ポーラー・エクスプレス』も『ベオウルフ』も、「最高の2D」とは言い難い。
 近作の『クリスマス・キャロル』も、この企画では、正直大きな期待は抱けない。

 ゼメキスに、その原点に戻って、もう一度噛みしめてもらいたいと、心底思うのは、この「まずは最高の2D映画を作らなければならない」という言葉だ。
 最高の2D映画、たとえば『ホワット・ライズ・ビニース』、浴槽で危機一髪のミシェル・ファイファーの足の裏シーン(『それぞれのシネマ』のナンニ・モレッティが欲情した所)。

 あそこなんかは、3Dにしたらきっとすごいぞ。それはちょうど、ヒッチコックの3D作品『ダイヤルMを回せ!』のグレース・ケリーが、危機一髪のシーンでハサミをとるべく、画面こちら側に手をのばそうとする場面にも似て。

 しかし、この「似て」というのは重要で、上の写真でも示した通り、ゼメキスの3Dへの渇望は、ことによると1950年代、3Dへのノスタルジックな思い入れであって、新しい映像体験の開拓ではないのだとしたら、私は心配である。
 ジョー・ダンテが大傑作『マチネー/土曜の午後はキッスで始まる』(1993)で、描いたようなノリを、ゼメキスが目指しているのだとしたら。
 
 キャメロンが、これまでの映画フォーマットに何かをオンしようと、3Dを求めているのが明らかであるのに対し、ゼメキスが自身の映画体験回帰として、3Dを志向するのなら、残念ながらキャメロンとの比較で、ゼメキスが取り残されていくのは必至ではないか。

2009/10/17

曖昧なる中心としてのプリンス  マイケル

 スコリモフスキ、ドゥボールもさることながら、まさか『This Is It』も見れないということはなかろうな、と、しつこいがポレポレの岡田茉莉子さんに行けなかったらどうしようという不安との合併症で、ほとんど神経衰弱に。

 それで、またまた思いつきの駄弁を繰り返すが、ところでマイケルとマドンナの他に、1958年のアメリカ中西部で生まれた天才がもう1人いる。もちろんプリンスだ。
 
 この3人は不思議と映画に出たがることで共通する。と同時にあまり映画の才能には恵まれなかったことでも。
 そんな3人が積極的に携わった中で、商業的に一番成功したと言えそうなのが、『パープル・レイン』(1984 アルバート・マグノーリ)。
(マドンナの『エビータ』については気が向いたらいつか)

 この映画は、本当ならマイケルが演じそうな役柄で、スキャンダラスなイメージのプリンスが出ている、というのが面白い。
 プリンス演じる“キッド”は、ライブハウスの花形だが、家庭環境が劣悪で、母親に暴力をふるう父親との確執が描かれる。家庭での安らぎがないことの反動と、生来の芸術家気質から、バンドメンバーとの軋轢は絶えず、その扱いにくさから、ライブハウスのオーナーも、彼をいつでも解雇しようとスキをうかがうが、実力の故にままならない。しかし、その合間にもふと見せる“キッド”の繊細な一面。
 こうした設定は、マイケルの“Bad”あたりが、引き継いでいる気がしないでもない。

 プリンス自身は、その後の活動として、スキャンダルを起こしながらも、マドンナのようにそれを不敵にセールスにつなげているわけでなく、むしろレコード会社(マドンナと同じワーナーだ)とトラブルを繰り返し、あげく自己レーベルを作る他なく、その神経質さはどちらかというとマイケル的な面を感じさせる。

 映画『パープル・レイン』で、プリンスの恋人役となるヒロイン、アポロニアと親身に接するライブハウスのウェイトレスは、ちょうどこの時期のマドンナとそっくりの扮装で登場する。
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写真:映画『パープル・レイン』より。アポロニア(右)と、マドンナそっくりのウェイトレス

 『パープル・レイン』が公開された84年は「スリラー」の翌年、「ライク・ア・ヴァージン」と同年。同じ年に生まれた、マイケル、プリンス、マドンナが、ちょうど三つ巴になった時代だった。
 
 プリンスは、マイケルとマドンナという両極端の中央にいつつ、その後のキャリアを作っていく。映画『パープル・レイン』はこの3者を特徴づける何かが、1つに凝縮されて興味深い。
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写真:映画『パープル・レイン』より。
火傷するほど熱く“The Beautiful Ones”を熱唱するプリンス。眼光の強さならこの人が一番だ。

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写真:映画『パープル・レイン』より。そんなプリンスを見つめて涙ぐむアポロニア。
舞台で激唱する者と、それを見つめながら客席で涙をこぼす者。いわゆる「MTV映画」はこうした切り返しの作法を完成させた。

2009/10/16

『男と女の不都合な真実』  映画

 ロバート・ルケティック『男と女の不都合な真実』
 この週末も映画を見れなさそうな非常事態。スコリモフスキ、ドゥボールどころか、ポレポレ岡田茉莉子さんさえ行けない気配濃厚で、もはやイライラの頂点。
 が、買ってあるチケットを無駄にもできないので、レイトに駆け込む。生活の設計が完全に壊れている。

 というわけでこの映画、もともと予告編を見た段階から、メグ・ライアンが最もかわいかった『恋人たちの予感』(1989)のあまりにあからさまなパクリに見えたのと、ジェラルド・バトラーの「男くさい」演技も、さすがに飽きてきて、気分はあまりノってなかった。

 その思いはおおむね覆らず、DVD化やTV放送を見越して、あらかじめ「スクリーン」でなく、「TV画面」を基準にしたことがありありの画作りも好きになれない。(これが『タイタニック』の撮影監督ラッセル・カーペンターの仕事だなんて!)

 TV放送局を舞台に、視聴率競争を描くこの映画が、しかし悪くないなと思ったのは、キャサリン・ハイグルとジェラルド・バトラーの、こんな会話だった。
 バトラーがハイグルに、「なぜもっと大きなネットワークに行こうとしない? 井の中の蛙じゃないか?」と聞くと、ハイグルは「ここが井戸だなんて思ってないわ。美しい湖とか、そういうのだと思っているの」と返す。
 つまり、大放送局への転身こそ美徳といった、逐一タイトルは挙げないが、これまでのTV放送局を背景にした映画群と、そのへん一線を画す。
 そして、全体を貫くこうした姿勢が、この映画を不思議と感じのいいものにしている。

 ジェラルド・バトラーの方も、才能が買われて、大ネットワークに引き抜かれようとするが、ここでもまたなかなか素敵な展開をみせる。
 もう封切が終わるといえ、内容の詳細は伏せるが、ここでバトラーの決断のカギを握るのが、彼がかわいがっている「甥っ子」というのがまたいい。
 
 その子にとってはバトラーが、ちょっとワルだけど、男の子の正しい道を教えてくれる、近所に住む頼れる伯父さん、とこういう関係、最近の映画であまり記憶にない。(で、その子のお母さん=バトラーの妹の方は、離婚していてお父さんがいないわけだ)

 上昇志向一辺倒のアメリカ映画が少し落ち着き始め、人と人とが触れあえる関係の方に、少し重心を置いている。これもある種の変化なのかもしれない。



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