2009/11/29

『ニュームーン/トワイライト・サーガ』、『2012』  映画

クリス・ワイツ『ニュームーン/トワイライト・サーガ』
 前作がかなりどうでもよかったので、今作もさほどの期待はしておらず、130分はしんどいなと思ったけれど、意外傑作。
 アメリカではケタ外れの超メガヒットになったようで、これは拍手してよいと思う。
 監督が変わると、作品がこんなに高級になるものか。と、その監督が『ライラの冒険 黄金の羅針盤』の人と聞くと、いささか心もとなくなるが、いやでもよくできていた。

 世界現象といえそうな、クリステン・スチュワートとロバート・パティンソン人気で、クリステンの方は確かにかわいい。でも、ロバートくんの方はどうもピンときかねるので、我が家の女性2人に「おい、こいつはイケメンか?」と聞いてみたところ、主婦と中学生が2人そろって、「オエオエオエオエ!」と嘔吐するので、まあ聞いた私がバカだった。
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写真:『ニュームーン』より、クリステン・スチュワート。いや、確かにかわいい。 画像リンク元
 それはともかく、人間の女の子と吸血鬼の男の子が恋をする。そこまでが前作。この第2作では、この恋はさすがに無理があると、吸血鬼の方が身をひいて失踪する。
 残された少女の方は、寂しさのあまり茫然自失。その心の傷を癒そうと努めるのが、幼なじみの男の子なんだが、実はこいつが狼男で、吸血鬼と犬猿の仲という、やれやれという他ない三角関係を描く。

 『ニュームーン』は、2つのテーマを明瞭にセットする。1つは加齢への恐怖。なぜなら吸血鬼はいつまでも若いが、人間の自分はどんどん年をとっていく。やがて老婆になると、もう愛してもらえないという疑心暗鬼。
 冒頭、少女の誕生日で始まるが、実にブルーな表情の彼女である。なぜならそれはまた1つ年をとることだからだ(まだ高校生のくせに!)。
 映画は執拗に、彼女の誕生日のお祝いムードを描き、彼女の気持ちを逆なでる。

 冒頭がなかなかいい。少女の(死んだはずの)祖母が夢に現れ、向こうから手招きする。この祖母と少女の交互の切り返しがうまくて、向かい合っているのに視線が合わない。
 おや、イマジナリー・ラインの小津的操作? 小癪なことをと一瞬動揺するが、そうではなく、微妙なアングル変化で視線の一致をかわしている。
 その視線のすれ違いの中に、吸血鬼の彼が割って入り、祖母と少女がいつしか同一人物となって、やがてこのように老いる自分を発見するという、この描写に思わず膝を打つ。いい!

 ここでもう1つのテーマも同時に明確になり、それは越境するかどうか、というテーマだ。1作目から問われていたのは、彼女が血を吸われることで、自らも吸血鬼の仲間入りをし、晴れて結ばれることを願うことだった。
 このように、「向こうの世界」に足を踏み入れるかどうか、という越境の物語。

 彼女と吸血鬼、または狼男との間には、あらゆる意味で断絶がある。それから生と死との断絶。それをことあるごとに強調する演出は、かなり練られている。
 例えば、彼女が狼男に宅配ピザを画面左に放り投げるのだが、カットが変わり、そのピザが画面左から右へと飛んできて、それを彼がキャッチする。
 本当のところ、彼と彼女はつながっていないことが示され、普通ならつなぎ間違いだが、これがいい効果で、こんなところもうまい。

 少女と狼男が、行く末を語り合う映画館の階段のシーンも、その壁がちょうど鏡になっていて、壁を軸に2人がちょうど線対象になる。虚像と実像が重なり合って、越えられぬ一線を示して余りあり、こういうところも実にいい。いいどころかブラボー。
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写真:『ニュームーン/トワイライト・サーガ』より。何だかこう、実にいいカットである。
吸血鬼は鏡に映らないが、狼男は映る。どちらかというと、こちらの方がより人間的に交際できるのではないか。画像リンク元

 恋しい吸血鬼に去られて、魂の抜け殻となった彼女を表すのに、窓際にぼけっと座った彼女の周りをカメラが360度回転する。思い出しておくと、彼女は時がたつのが何より怖いのだ。
 最初は「10月」の字幕が出るが、1回転するごとに「11月」、「12月」と、ワンショットでカメラが3回転して、3カ月間の時の経過を示す。もちろん窓外の風景は、落ち葉から雪へとスクリーンプロセスが施されている。
 ワンカットで時の経過を示す、アンゲロプロス的パノラマ? 小癪なことをと一瞬動揺するが、これがくだらなくない。

 さらにクライマックス、「真っ赤」な聖職者たちの人ゴミをかきわけて、全力疾走する少女の姿を見れたことで、私は『ニュームーン』を大いに愛した。

ローランド・エメリッヒ『2012』
 やはり誰もがジェームズ・キャメロンになりたいのだと、微笑ましく見る。『タイタニック』がやったことを、さらに大げさにした作品。
 ここで思ったことには、突き詰めて考えると、つまり『宇宙戦争』の家族構成で、『タイタニック』をやりました、ということに尽きる。
 人類滅亡というでかいテーマの中で、結局描いているのが、掃いて捨てるほどある、離婚家庭の物語、というのはまたどんなものか。
 ここ数年、映画の中では何度となく人類は滅びたけれど、その核となる物語を、家族の絆の回復という以外に、何かしら発見できないものなのか。

2009/11/27

『THIS IS IT』の封切終了に寄せて  マイケル

 今、まともな映画好きは『イングロリアス・バスターズ』で頭がいっぱいのはずで、実は忘れられているが、マイケルの『THIS IS IT』は今日で上映終了である。

 最後に大スクリーンのあの姿を、この眼に焼きつけておこうと地元シネコンのレイト・ショーに走る。が、驚くなかれ、満員で入れなかった。いや、正確には入れたのだが、空いている席は最前列の一番端。
 まさに先週の今日、同じ劇場でたった10数人のガラガラの場内で『イングロリアス・バスターズ』初日を見て、2週間ほど前にはやはりここで、場内貸切のたった1人で『スペル』を見たのがまるで嘘のようである。

 「大変混雑していて、空いているお席は…」と、窓口の人に上のような席を示され、ちょっと迷ったのだが、結局入場をお断りする。これで自分の中で完結させようと思って。
 
 『THIS IS IT』は、本来あってはいけない映画であるが故に、心が拒否したのだ。
 繰り返しになるが、この映画は結果的に幻に終わったマイケル・ジャクソンのロンドン公演に先立つ、リハーサル映像を寄せ集めたものである。
 すなわち、マイケルが不慮の死を遂げなければ、製作されないはずだった。

 マイケルが、ほとんど完璧に近いパフォーマンスで「ビリー・ジーン」を歌う。そのとき、カメラはそのままパンして、客席側でその演奏を聴いていた十数人のバックダンサーが、熱狂的な拍手を送っている姿をとらえる。
 さて、映画を見ている間はマイケルの勢いに感激してしまい、気がつきにくいのだが、このシーンの哀しさ、寂しさってあるだろうか。

 というのは、完璧と思われる演奏、しかしそれはあくまで本番よりも抑えた声で、あくまでイメージとしての振り付けでなされたものだ。
 そしてカメラがパンした時、本来ならそこには何万もの観客がいなければならないのに、ほんの数人の、しかも関係者である。そんな人々からの喝采しか、この映画にはないのだ。

 ここで流されるべき涙は、たぶんマイケルの演奏に対する敬意なんかでなく、そんな環境の演奏が、うっかり劇場用スクリーンに投影されてしまったという、痛恨の涙だ。
 誤解ないように付け加えるけど、幻に終わった本番を惜しんでじゃないよ。数人しかお客さんがいないマイケルの演奏、それが最後の映像になってしまった、ということの痛恨なのだ。
 ここは絶対に外しちゃいけない観点のはずだ。

 “I Just Can't Stop Loving You”の、若い女性ボーカルとの、熱い絶唱の後、ふと我に返り、そのパフォーマンスに眼を輝かせている、これもやはりわずかなバックダンサーたちだけの観客に、「これはウォームアップだよ。フルヴォイスで歌わせないでよ」とイラだってみせ、もっとやってほしい、というダンサー(観客)たちの要求を拒んでみせたマイケルだったが、あの苛立ちはこのことをうっすら感じ取ったためではないか。

 そのアーティストの死後に、あわただしくまとめられたフィルムとして、たとえばマイケルがその手による「スマイル」という歌を愛してやまないという、チャーリー・チャップリンのドキュメンタリー、『放浪紳士チャーリー』(1976)というのがある。
 これもチャップリンの死の直後、ばたばたと公開され、それなりの評判をとった作品だが、ここでのチャーリーは苦難の末に映画での成功を掴み、ひとたび名誉を失するが、老後は妻と静かな生活を送っているという、どこか「歓喜の歌」かなんかが流れてきそうな、正しい追悼の雰囲気に満ちたものだった。
(注)『放浪紳士チャーリー』は、国内での公開中にチャップリンが亡くなったのであり、死後にまとめられたドキュメンタリーではないこと、ureahoy様にご教示いただきました(コメント覧参照)。上記記述は、完全に記憶違いです。申しわけありません。

 けれど、マイケルの『THIS IS IT』にはそうした、生の達成感・終着感がない。
 だってこれは、完成していないステージでの、お客のいない演奏、つまりは魂をそがれたパフォーマンスなのだ。

 世の中に「呪われた映画」というのは幾多ある。『THIS IS IT』は、呪われたわけではない。この観客の動員や、各種感想からは、むしろ祝福されている、とも言える。
 だが、またも少々感じの悪い書き方を許してもらえれば、外国で賞をとった日本映画として観客が押しかけた『おくりびと』の現象と、『THIS IS IT』のヒットは、ほとんど根は同じだと思う。何となくノせられて、「現象」化してしまった事態。

 この映画を見た人のコメントには、かなりの率で「これまで特にマイケルのファンじゃなかったが…」という言い訳が添えられている。これが本音だろう。最後のアルバムとなった“Invincible”の生前の売上や興味は、『THIS IS IT』の動員とはあまりに釣り合わない。つまり、「にわかファン」ばかりが駆けつけた映画でもある。
 シニカルな言い方になるが、本当のことを言うと、死んでしまってマスメディアが騒ぐまでは、誰もマイケルのことなど、気にしていなかったのだ。

 だから、おそらく映画史上初めての、「呪われた映画」ならぬ、これを「許されざる映画」とでも名付けておきたい。
 「呪われた映画」というのは、結果的に呪われてしまう。意図した「呪われた映画」などない。しかし「許されざる映画」は、意図的に生み出されてしまうものだ。
 たくさんの人々を感動させずにおかないが、しかし存在してはならなかった、この上なく生まれの不幸な作品として。
 だいたい、その中心となる人物が死んだことによって、初めて成立する映画など、忌まわしさの極みではないだろうか。

 『THIS IS IT』を、偶然とはいえ最後に見れなかったのは、これも思し召しかもしれない。2度目では、この映画における「許されざる」部分に気持ちが揺らぎ、きっと不幸な気持ちになっただろうから。
 このままロードショーが終わっていくのを、そっと見ていればよいのだ。

2009/11/26

リチャード・フライシャーによるマックス・フライシャー  

 こんな本が出版されたのを知って、眼を疑う。同姓同名の別人じゃないかとまで、本気で動揺する。これはものすごい!
 リチャード・フライシャー『マックス・フライシャー アニメーションの変革者』(田栗美奈子・訳 作品社) リチャード・フライシャーが書いた、マックス・フライシャーの伝記? えっ?
 恥ずかしくも、経済的にひっ迫しているので即購入はできないけれど、自分へのよいクリスマス・プレゼントにできそうな、とんでもない出版。早く現物を手にとってみたい!
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 それにしても、『スペル』や『クリスマス・キャロル』、あげく『パンドラの匣』をゴミ呼ばわりしたことで、かなりの友人をなくしたことを、肌で感じているが、たぶん知らない人から(ひょっとして友人だったら怖い)、「お前の判断など完全に信用ができなくなった。あんたは映画をわかっていない! もう2度と読まない!」という内容の書き込みがされたのには、さすがに驚く。そのまま削除したが。
 
 わかってないから、少しでもわかろうと努力はしているつもりだよ、というより、信用できないのは申し訳ないと思うけど、そういう書き込みをわざわざするか?
 もちろんこんなものアップしている以上、1人でも多くの人に読んでいただいて、「なるほど」と思っていただけたらいいな、という願いのようなものは持っているけど、ゴミだと思ったら、そのまま読者をやめてくれればいいじゃん、といささかイラつく。
 ゴミだと思われるのは100%私の責任だから、そこまでは自分を責めるしかないもの。実際、ここ数カ月あまり納得のいく内容を書けていないことは自覚しているし。
 まあ、誹謗中傷は全然初めてじゃないから別にいいけど。

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 トム・クルーズがツイッターを始めたと、TomCruise.Comからメルマガで知らせがきたので、直ちにツイッターとやらを始めてみる。
 何がなんだかさっぱりわからない。ここから先はもう限界だ。ついていけない。
 どうやら刻々と、「つぶやき」(?)がアップされるようだけど、これをフォローすることなど常人に可能なのだろうか。
 これはたぶん携帯電話でネットを頻繁に見る人のための、仕組みなんだろうけど、私は携帯電話でネットをつなぐ契約をしておらず、毎晩寝る前にだけ、PCを開けて、メールチェック→ブログ閲覧→自分のブログアップ→就寝、という習慣にしているから、自分のライフスタイルに完全にそぐわぬ、サービスである。
 というか、私には140字でつぶやくことなどできないことが、今わかった。

2009/11/25

『ジェーン・オースティン 秘められた恋』、『パイレーツ・ロック』  映画

 勤労感謝の日に見た、2本のゴミみたいな映画の後、さらに立て続けに2本。

ジュリアン・ジャロルド『ジェーン・オースティン 秘められた恋』
 完全にアン・ハサウェイ目当て。いつの間にこんな作品を撮っていたかと調べてみたら、これは『レイチェルの結婚』の前に主演した、2007年作品。
 
 若き日のオースティンをアン・ハサウェイが演じ、駆け落ちまで決意した、貧乏弁護士との知られざる恋を描く。恋に落ちる相手はジェームズ・マカヴォイ。こちらも『ウォンテッド』以前の出演作。

 19世紀が舞台なので、いわゆる美人のアン・ハサウェイを期待すると、やや外される。けれど、窓外から入って来る柔らかい光を基調とする画面。
 その窓からそよいでくる風が、ふわりとカーテンを揺する空気感。
 その風を感じつつ、物思いにふけりながら、ペンを走らせるアン・ハサウェイの大理石のような肌の肌理。こういったあたりがものすごくよくて、かなり見惚れる。

 これがもう少し、後年のオースティンの文筆活動にまで迫って、観客をオースティンの小説にひきこむような作りになっていれば、もっとよかった。
 その意味で、エンディングにはもう少し工夫がほしかったところ。でも画面の1つ1つには、すばらしく堪能する。この素敵なカメラはアイジル・ブリルド。
 こういう丁寧な映画が、もっともっと注目されてほしい。
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写真:『ジェーン・オースティン 秘められた恋』より。アン・ハサウェイ。
こういうため息が出るような場面がたくさんあって、とても目にいい。きっと視力もよくなる。画像リンク元


リチャード・カーティス『パイレーツ・ロック』
 60年代イギリスで、放送がばっちり制限されていたロックを、24時間流し続ける海賊ラジオ局を描いた半青春映画。
 長すぎるが(135分)、まあまあ楽しむ。
 が、もう一つ熱中していない自分を発見していて、この映画を見ながら、なぜ私がアメリカン・ロックに比べて、ブリティッシュ・ロックが好きじゃないのかを、何となく発見した気になる。

 『アメリカン・グラフィティ』におおむね起源がある、ロックを背景とする青春映画は、『ハイ・フィデリティ』といい、『あの頃、ペニー・レインと』といい、愛すべき傑作が多い。
 いずれもアメリカン・ロックが中心の、アメリカ映画だ(『ハイ・フィデリティ』はイギリス人監督(スティーブン・フリアーズ)だが)。
 アメリカン・ロックにあって、ブリティッシュ・ロックにないもの、それは純愛である。

 年上の(もしくは高嶺の花の)女性に憧れて純愛を通し、年上の兄貴分に引っ張ってもらう、弟的な主人公、それがアメリカン・ロック的青春映画である。
 一方、即物的なセックスとドラッグ。むさくるしい男どもばかりの中での揉み合いと、ビールを好む、一人っ子的な主人公。これがブリティッシュ・ロック的青春映画ということで、ここは好みの問題にすぎないが、私は断然アメリカン・ロック派だ。

2009/11/24

『クリスマス・キャロル』、『パンドラの匣』  映画

 書きたくなかったけど、見てしまった以上は書いておく。
ロバート・ゼメキス『クリスマス・キャロル』
 本気でがっかりして、こんなに愛しているのに、なぜあなたは裏切るのかという、『恐怖のメロディ』か『危険な情事』のストーカー女の気分というのは、こういうものか、という気になり、『野良犬』の三船敏郎が「ひどく無茶な、毒々しい気分になりましてね」と告白するのは、きっとこんな思いだったに違いないと、誰これかまわず暴力かなんかをふるいたくなるような気分にすらなる。

 もともと、怖がらせて改心を促そうという『クリスマス・キャロル』の物語は、その心根が好きになれないのだが、それはゼメキスでなく、ディケンズのせいだからここでは不問。
 最新の技術を使って、きわめて古臭い物語を映像化するという倒錯も、ギリギリ認めようと思う。

 しかし、つまらないながらも、まだしも感じ取れた、3Dでこそ生きる画を探そうという、『ベオウルフ』の革新は、すでにやり尽くされてしまっており、ここにはいたずらに作者のホラー趣味を満足させるための、一人合点な映像しかない。
(ところで、ディズニーが大宣伝かけて、家族動員を図っているようだが、普通の神経の子どもなら恐怖のあまり、5分と耐えられないはずだ)

 『ベオウルフ』になく、『クリスマス・キャロル』で新たにつけ加わったものなど、1つもないので、早くも(キャメロン以外が作る)3Dの限界が見えつつあるような気もする。
 『ベオウルフ』のつまらなさは、ゼメキスのことだから、これはまだ途中段階であって、このプロセスを踏めば、もっとすごいものが出てくるはずだ、という期待の上に成り立っていた。少なくとも私にとって。

 さんざんいじめられたスクルージが、「変えられるのか? この未来はまだ変えられるのか?」と精霊に問うシーンに、何となく『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の微妙な変奏を感じぬでもないが、「だからどうした」な話である。
 
 何だか前にも書いたような気がするが、3Dメガネをかければ画が飛び出る。そこに映画の楽しさを伝える今後の方向だと本気で考えているのなら、お願いだからゼメキスは、「普通の」実写映画に戻ってほしい。
 『ホワット・ライズ・ビニース』、『コンタクト』、『フォレスト・ガンプ』のあのシーンやこのシーンの方が、はるかに3D画面になっている。

 余計なお世話なのだが、何のための映画か、ということを本気で問い直してほしい。ソクーロフ版ボヴァリーの時にも書いたことにかぶるが、この映画を見て喜ぶのは、ゼメキス以外の果たして誰なのか。
 モーション・キャプチャーを得て以降のゼメキスは、完全におかしくなっている、と結論せずにいられぬ事態だ。
 画面にもキャラクターにも、まったく血が通っていない。

冨永昌敬『パンドラの匣』
 ゼメキスと比べるのもヘンだが、世の中、下には下がある。
 吐き気がして、直ちに映画館を出ようと思うが、仲里依紗がやたらにかわいいので、出てくるたびに見とれて、つい脱出のタイミングを外し、最後まで見てしまう。
 それなのに、「布団部屋」のシーンのあのくだらなさは何なのだ??
 それにしても、音楽があまりにもトンチンカンで、こんなひどい劇伴をつけるバカはいったい誰なんだ、とエンドクレジットを見たら菊池成孔だった。

2009/11/22

「泣ける映画」5本  映画

 『ブルータス』誌最新号の「泣ける映画」が一部で話題になっており、1位がフェリーニの『道』とは、案外ナイーブな順位だなあと、決して揶揄でなく驚いたりする。
 そんなわけで愛読しているブログSomeCameRunningさんが、「皆さん、恥ずかしがらず、自分の「泣ける映画」5を」と煽っておられ、こういう遊戯は決して嫌いじゃない、というか、かなり好きなので、のせられてみる。

 以下のセレクションは、私個人の完全オールタイムの「泣ける映画」ベスト5。
 たぶん、1年後だろうが10年後だろうが、この5つで不動の自信あり。
 ちなみにスピルバーグと宮崎駿は、特別措置として除外。キリがなくなる。
 しかしYou Tubeはすごい。この場面を引用して貼り付けたいんだが、と思ったものが全部しっかりアップされている。

『レッズ』(ウォーレン・ビーティ/1981)

 ナンバー1。映画史上最高の再会/抱擁シーンを持つこの映画。いない、いないいないいない、ああ、やっぱりいないのかしら、というダイアン・キートンの胸かきむしるような想いのその果てに、そこにいるのか、ウォーレン・ビーティ…。限りなく柔らかく、そっと抱きしめ合う、完璧無比な抱擁。思い続ける男女の持続は、3時間以上の長尺を長尺でなくする。

『ディア・ハンター』(マイケル・チミノ/1978)

 どれだけ裏切られ、傷つけられても、それでも讃えなければいかぬ、アメリカ合衆国。God Bless America。
 けれど、乾杯すべきは友の名のために。“To Nick”。「カヴァティーナ」の旋律と共に、そのニックの顔が終幕と共に出る、ただただ号泣である。

『恋のエチュード』(フランソワ・トリュフォー/1971)

 私にとって、トリュフォーのベストは『恋のエチュード』。どうして人は「選択」せねばならぬのか。その哀しみがみなぎる作品。
 ここに紹介した1分強のシーンは、映画史上最高の移動。まあ何も言わず、この1分だけでも見てほしい。ジョルジュ・ドルリューの名旋律だけで涙が止まらない。

『フォレスト・ガンプ』(ロバート・ゼメキス/1994)

 子どもとして、青年として、大人として、男として、女として、母として、父として、兵士として、市民として、そして人として…。いついかなる立場でも、哀しみからは逃れられない。どうしてなのかと問うと、その答えは風に吹かれているのだそうだ。そのことは、最も愛する人だけが教えてくれる。“I love you.”という、たったの3語のためだけに、人は生き続けることができる。

『霧の中の風景』(テオ・アンゲロプロス/1988)

 姉と弟。この2人の身長差に泣く。この世にたった2人。この2人はいつでも、そっと手をつなぎあっていて、互いの存在を確認し合うかのように、いつでも2人で立っていて、時には一緒に走る。その最終的な結果は別として、映画の骨子とは幸せ求めて走る姿にこそある。

 以上、「泣ける映画5本」というより、正確には私の生涯ベスト5。
 画面を貼りつける作業をしていて、涙が止まらなってしまった。大変困る。

追記)Somecamerunningさんのサイトのリンク先を誤っていました。直ちに修正しております。謹んで、お詫び申し上げます。(11/23)

2009/11/21

『フロスト/ニクソン』(舞台版)  映画

 『フロスト/ニクソン』。銀河劇場(天王洲アイル)にて。
 デヴィッド・フロストを仲村トオル、リチャード・ニクソンを北大路欣也が演じる舞台版。

 実は私は「お芝居」というのがすごく苦手で、これまでの人生でもこれが5度目だ。
初体験は親の生命保険の契約特典でチケットをもらった、森繁久彌『屋根の上のバイオリン弾き』で、これは中学生のとき。映画版の切なさがかけらもなかった。
 2度目が20年くらい前で、ジャンヌ・モローが来日して独り芝居をやった、『ゼルリンヌの物語』。生でジャンヌ・モローが見れるというだけでチケット入手。幸い前から3番目の良席。が、すごく退屈した。映画のジャンヌ・モローの方が1億倍くらいよかった。
 3度目が15年くらい前の、トニー・クシュナー『エンジェルズ・イン・アメリカ』第1部。評判の戯曲と聞いたので、戯れに見に行ったが、あまりにつまらなかったので、第2部は行かなかった。
 4度目が10年くらい前で、手塚治虫原作の『陽だまりの樹』。地元商店街の福引で当たったのだ。中井貴一と宮沢りえが演じた。ほとんど記憶にない。

 こんな感じで、舞台って本当に相性が悪いのだ。
 けれど、『フロスト/ニクソン』のオリジナル舞台を、日本でもやるとなると、ロン・ハワードをこだわりの対象とする私としては、見ずにはおけない。ロン・ハワード論も、そろそろ増補せねばと思っているし。
 
 今日の鑑賞の成果は、ロン・ハワード論増補版で…と言いたいところだが、どのように反映されるかは今のところまったく未知数。
 ロン・ハワード版を知る身としては、映画の興奮の千分の一も感じられず、編集によって構成される映画というものが、どんなに偉大かと改めて感じ入った次第だ。

 舞台というものをまったく知らないので、この舞台版『フロスト/ニクソン』のことは、正直全然わからなかった。
 きわめてシンプルな舞台装置で、セットをほとんど変えずに、TV討論シーンから、深夜の電話、ラストのお別れまで、全部を演ってしまうことに驚く。

 実力俳優2人の熱演と滑舌を、生で見るのはさすがに見事だな、とは思うものの、フロスト×ニクソンは、あくまでTVインタビューなのであって、裁判での弁論ではないはずなんだが…と、語気を荒げて討論する仲村×北大路の演技設計に疑問を感じたりとか。
 あるいは、この2人はイギリス人×アメリカ人なんだから、お辞儀なんかするな、そこは演出がNG出ししろとか。
 そんな程度のくだらない感想は持ってしまう。

 根拠のない想像をするに、ロン・ハワードはきっとこの舞台をすごく、楽しんだのだろうと思う。
 David Frost with Bob Zelnick“FROST/NIXON”(PAN BOOKS)によると、彼はあらかじめピーター・モーガンの戯曲を読んだうえで、舞台を見、それから直ちに映画化を決意したそうだが、これは絶対に映画でやるべき素材だと思ったに違いない。
 というのは、舞台だとよくわからないのだ。

 たとえば、「大統領がやったことならば、それはもう違法ではないのだ」という決定的な一言を、ニクソンが述べてしまったときの、本気で耳を疑うフロストの茫然。
 それをクローズ・アップするロン・ハワードの、これ以上はないタイミングと、絶妙なマイケル・シーンの表情。それに続く、おや、私は何かおかしなことを言ったかな? とでもいうような、フランク・ランジェラのアップの連鎖。

 仲村トオルは、ここをうまく溜めて表現したとは思うが、たぶんこの舞台のお客さんの1割も、ロン・ハワード版を見ているとは思えないから(注)、ここはどれだけ理解されただろう。
 仲村トオルの溜めを受ける北大路欣也は、これをニクソンのある種の諦念として発された言葉であるかのように表現して、それ自体はひとつの解釈だからまったくOK。
 けれど、ここを理解できたのは、私自身があらかじめここは絶対に見ようと待ち構えていたからで、そうでなければ、何があったかわからぬままに、スルーしてしまうだろう。

舞台は遠い。手を伸ばしても絶対に届かないところで、演じられているものに、私はどうしても耽溺することができない。

(注)もちろん根拠はないが、終演後、かなりの数のお客さんが、口ぐちに「こういう話とは知らなかったね」とか「すごく難しかったね」、「よくわからなかったね」と言った感想をもらしながら、駅に向かうのを耳にしたので。

2009/11/20

『イングロリアス・バスターズ』  映画

 クエンティン・タランティーノ『イングロリアス・バスターズ』

 初日。直ちに地元シネコンに駆けつける。しかし、観客は私を含めてほんの10数人。レイトショーとはいえ何たることか。

 そんなことはともかくとしても、何と言うか、言葉にならないほどすばらしい。
 タランティーノの映画愛は誰がみてもわかるはずだが、その自由度たるやどうだ。
 『キャット・ピープル』といえば、ポール・シュレイダーさ、もちろん。小賢しいジャック・ターナーなんかじゃなくて。そう言わんばかりに、こんなシーンで、まさかデヴィッド・ボウイによる主題歌『キャット・ピープル』を、これほど高らかに聴けてしまうなんて。
 そのうえ、観劇中に席を立って、同じ列の観客の前を鬱陶しがられながら、途中退出するという、ここでルビッチの、しかもナチスがらみの映画まで引用できてしまう、この柔軟さはいったい何なのだ。

 こうして見ると、はたしてやってはいけないことなど、映画にあるのだろうか。
 そんなものはない。だから、戦車も出さずに戦争映画が撮れるし、微妙に話の辻褄が合わなくとも平気だし、歴史的事実だって変えてかまわない。ここは「センス」である。

 そして、たとえば『ウィンド・トーカーズ』のジョン・ウーは、その登場人物にどう聞いても日本語とは思えぬ「日本語」をしゃべらせて、日本兵の包囲を突破するというでたらめをやるのだが、逆にそういうウソはダメなんじゃないか。
 母国語でない言葉をしゃべることによって、『イングロリアス・バスターズ』の人たちはしっかり墓穴を掘る。つまり、やっていいでたらめと、やっちゃいけないでたらめはある。
 こうした選択を行うのは、これはセンスに付随する「知性」である。
 それも、自ら影響を受けたことを隠さぬジョン・ウーに対して、そうした批評をしているのだとしたら、これは「覚悟」だろう。
 不幸は言葉の不自由さからやってくる、となると、どこかスピルバーグに対しても、もの言いたそげな風情でさえある。
 こうなってくると、同種の映画作家はほとんどいなさそうだ。

 しかも、同じヒトラー暗殺計画でも、事実をベースにした、「ワルキューレ作戦」で、トム・クルーズが失敗した原因を外さぬ分、『イングロリアス・バスターズ』の「プレミア作戦」の方が、荒唐無稽にもかかわらず、よほど現実的に見えてしまうから不思議である。

 で、現実的に見えるというのは、ここがこの映画で私が何より感激した部分なのだが、「女」の間違いない確かな感情をおさえているからなのだ。
 タランティーノは間違いなく、常識をわきまえた人物だと思う。

 ダイアン・クルーガーはもちろんいいが、やっぱり最高なのはメラニー・ロランで、彼女がたった一回だけ、思わずボロッと泣いてしまう瞬間がある。
 これはたった一度だけこの映画で見ることのできた、唇と唇のキスだったとだけ、ネタばらしさせてもらうのだが、しかしこの涙の理由は何なのかというと、復讐の終わりとか、最後のキスとか、失った家族の想いとか、いろいろありそうで、そのあまりにもたくさんの感情が混ざり合って、それがここ一番というところで、だって涙が出ちゃうの、女の子だもの、というあまりにすばらしい涙だった。
 こんな涙を描ける人は、絶対にロマンチストなのだ。
 実際、これまでの彼女はふてぶてしいナチスどものキスを、手の甲にさんざん受けてきている。それらをすべて洗い流すような、真の愛情と共に交わす清浄なるキス…。

 そして、ひとたび涙をこぼしてしまった後は、来るべき「本番」へと集中力を高めに高めるのだが、集まってくるナチスを眺めて煙草をくゆらせる彼女を、何度もオーバーラップさせる表現の素晴らしさはいったいどうだ。
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写真:このショットが幾重にもオーバーラップする。最高のヒロイン誕生の瞬間である。
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 闘いを描いて超一流。女を描いて最高峰なら、この映画は無敵ではないか。
 「オレの最高傑作だ」という、ブラッド・ピットの劇中のセリフは、タランティーノ自身に対するものでもありそうだ。間違いなく最高傑作である。

2009/11/18

トニ・モリスン『スーラ』  

トニ・モリスン『スーラ』(大社淑子・訳 ハヤカワ文庫)読了

 膨大な第三作『ソロモンの歌』に先立ち、デビュー作『青い眼がほしい』に続く、第二作。村上春樹なら『1973年のピンボール』にあたり、村上龍なら『海の向こうで戦争が始まる』にあたる。つまり、超大作となる第三作の前作となるが、忘れ難くも珠玉の作品というわけだ。
 訳者あとがきでも、名作の誉れ高い『ソロモンの歌』よりも、『スーラ』の方がむしろ愛されているといった意味のことを書いている。

 それはわかる。『スーラ』は本文256ページと、決して長くはないが、実に1919年から1965年までの46年間の物語である。
 中心となるのは、スーラとその親友ネルの、2人の少女の物語。どこか『赤毛のアン』を思わせる、まるで「腹心の友」のような彼女たちだが、この2人は黒人という呪われた民族なので、アンとダイアナのように晴れやかな物語にはなりようがない。
 当然のことに、深く激しい憎しみ、というにはあまりに複雑な感情を伴って決裂する。

 先に、それはわかる、と書いたのは、この2人の「ついたり離れたり」が、現実的な生活感を伴っていることの他、個々の描写にリアリズムを残しているからだ。つまり俗な意味で、身につまされる。
 『ソロモンの歌』同様、『スーラ』にも、2人の主人公を中心におびただしい死が訪れる。けれど『ソロモンの歌』のように、幻想的に、消えゆくように死んでゆくのでなく、『スーラ』でのいくつかの命は、実質的な重みを伴って、間違いなく失われる。

 一例をあげると、さまざまな感情のもつれの果てに、スーラの母ハナは焼け死んでしまう。その描写も凄絶なのだが、ハナの母(スーラの祖母)エヴァは、それを救えない。が、母親の焼死をスーラが眺めているのを、エヴァは確かに目にする。そこでこの一文。
「スーラがハナの焼けるさまを眺めていたのは、驚きのあまり体の自由が利かなくなったからではなく、興味をそそられたからだということを確信していた。」(P.116〜117)

 個々には重たいはずの命も、やがて訪れる災厄によって一挙に失われ、命の重さも相対的に軽くなる。すべて神の思し召しである。

2009/11/16

『ボヴァリー夫人』  映画

 結局、岡田茉莉子特集のオーラス、吉田喜重編に行けなかったが、まあ致し方なしか。しかし最後にもう一度、茉莉子さんをお見かけしたかった。それでもまずまず、満足としたい。

 とりあえず、その合間に見ていて、書きそびれていたものをまた備忘に。
 アレクサンドル・ソクーロフ『ボヴァリー夫人』

 ちょっと厳しい。これほど「映画」を見る官能と悦びから、遠く隔たっていていいものかどうか、判断を迷う。これを観客のことを考えぬ蛮行と考えるか、勇気ある創作と考えるか。結論としては、私自身はこれを支持したくない。
 この類の一般性の欠如、通俗的な意味での美から完全に背を向けたものは、単に劇場から観客を遠ざけてしまうのだ。
 ひょっとしたら、ゴダールの諸作も観客を失わせた一因かもしれない。淀川長治さんが、ゴダールとロッセリーニを拒否したのは、誰でも映画を撮れると思いこませた、と本人がおっしゃるのはどこか本音じゃない気がしていて、どちらかというと、彼らは一般的なお客さんを劇場に誘っていないからではないかと、私は理解している。
 それがゴダールであるというつもりもないが、観客を想定しない映画というのは、基本的にあってはいけないと思う。それはその瞬間、映画ではないと思うからだ。
 どのような形であれ、作り手の「想い」のようなものは、観客へと向けられていなければならないのではないか。そうした「想い」をソクーロフにはまったく感じられなかったが故に、この映画はよろしくない。

 そのソクーロフのボヴァリーだが、この人の映画はいつでも死後の世界を見せられているような思いだが、今回も死にゆく者たちの世界を描き、腐臭さえ放っている。
 その腐臭感は、画面のあちこちに過剰なまでに飛び交っている蠅の数々。食べ物に群がっている蠅、窓枠に飛んでいる蠅、裸体のあちこちに群がっている蠅。
 そもそもあまりに醜い男女優。ちっとも楽しくなさそうな、気持ちよくなさそうなセックス。が、快楽を呼び込んでいないセックス描写に果たして何の意味があるのか。
 逆に意味があるとして、その意味をどのようにとらえたらいいのか。それがわからないから、映画を見る快楽を与えてもらえない。しかし、それでもなお、映画を愛せよというのだろうか。で、それを強いる権利が誰にあるか。

 何となく意味付けはできそうな気がする。この映画では、すべての有機物は腐敗するものとして扱われている。特に人間は。それを覆い隠すために、過剰なまでに材質を厳重にした棺が用意される。そうした人間のもろさを隠ぺいする、人間自身の営みというもの。
 けれど、そうした分析(にもなっていないもの)さえ、いかにもとってつけたようだ。
「ソクーロフ」のネーム・バリューで、必至に「批評」の言葉を探そうとしている卑しい自分ばかりを見出して、赤面するばかりである。

 ほとんど苦行のような128分の中で、「何のために映画を見るのか」と、そんなことばかりを考えさせられていた。その意味では価値ある一作というべきなのだろうか。



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