2009/12/31

2009年度 ベスト10  映画

 2009年が終わった。
 今年はこんな1年だった、という意味を込めてベスト10を選出しておく。以下順不動。

● 『THIS IS IT』(ケニー・オルテガ)
● 『アバター』(ジェームズ・キャメロン)
● 『カールじいさんの空飛ぶ家』(ピート・ドクター)
● 『チェンジリング』(クリント・イーストウッド)
● 『イングロリアス・バスターズ』(クエンティン・タランティーノ)
● 『サマーウォーズ』(細田守)
● 『夏時間の庭』(オリヴィエ・アサイヤス)
● 『我が至上の愛〜アストレとセラドン〜』(エリック・ロメール)
● 『レイチェルの結婚』(ジョナサン・デミ)
● 『セブンティーン・アゲイン』(バー・スティアーズ)
● 『モーニング・ライト』(マーク・モンロー)

 ん? 11本? 10本だと思うが??
 毎回、お前の「順不動」はウソだと言われるけど本当です。順不動です。

 ベスト10という遊戯は、とかく批判されがちで、シニカルな態度を示す人も多いけど、その1年がどんな年だったか、ということを回顧する意味で、それなりに意味があるのではないかと思う。
 ただ今年は傑作・秀作があまりに多い、稀に見る豊作の年だったので、10本の選出は無理。あらかじめ2009年はロン・ハワードとイーストウッドの年で、最後にキャメロンが締めると言ってあったけど、実際その通り。

 もし、まともに選ぼうとすると、『グラントリノ』、『チェンジリング』、『フロスト×ニクソン』、『天使と悪魔』の、これだけで4本が埋まってしまう。
 ここは『チェンジリング』だけを入れることで、2009年が一挙にわかるように思う。これが、製作ロン・ハワード/監督クリント・イーストウッドのコラボレーションであるが故に。
 『チェンジリング』なら、『グラントリノ』を入れない罪を、十分に償ってくれるものと思う。

 今年は自分史において、とても大切な人が多く亡くなった年でもあった。
 マイケル・ジャクソンの訃報に接した時は、足元が崩れ落ちるような思いがした。この場にも駄文をたくさん書いたが、いまだに立ち直れていないような気がする。
 他、パトリック・スウェイズとジョン・ヒューズ。そしてファラ・フォーセット。ご冥福を。

 『セブンティーン・アゲイン』はスター誕生の瞬間。『ハイスクール・ミュージカル/ザ・ムービー』を外したが、このベスト10はザック・エフロンとケニー・オルテガを、いつでも思い出せるセレクトになったはずだ。
 『イエスマン』(ペイトン・リード)がどうしても選外になったのだけは痛恨。でも、これは年明け早々、『(500)日のサマー』があるので、ここに想いを託すことにする。

 『モーニング・ライト』は見ていない人がほとんどだと思うけれど、ディズニー製作による最良のドキュメント。絶対に記憶に残しておきたい作品。
http://green.ap.teacup.com/applet/nanbaincidents/20090613/archive
 この映画が扱った、ヨットレースのスポンサーとして、元気な姿を見せていた、ウォルトの甥ロイ・ディズニーも、先ごろ訃報が出た。合わせてご冥福を。

 そして、2009年は『アバター』が圧倒して終わる。その他はきっと誰が選んでも当然入る作品だろうと思う。

 なお、今年個人的に強烈な印象を残した、『私は死んでいない』(ジャン=シャルル・フィトゥシ)と『感傷的な運命』(オリヴィエ・アサイヤス)は、一般公開の形ではないので対象外としている。是非とも一般封切されてほしい。

 あと1時間ほどで2009年も終わり。今年お世話になった皆さま。それから映画に、1年間ありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いします。
 そして、いつも閲覧くださる皆さまには最大の感謝をこめて。よいお年をお迎えください。

2009/12/30

マキノ雅裕 著 『マキノ雅裕女優志 情』  

 大掃除で出した大量の書物を処分しようと、近所の古本屋へ。すると、「おお!」と叫ばずにいられぬ本を発見。
 マキノ雅裕『マキノ雅裕女優志 情』(草風社)。
 1979年6月15日発行の初版本。これを300円で入手。信じられん。(定価は1000円)
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写真:『マキノ雅裕女優志 情』(草風社) 褪色が進んで心霊写真みたいになってて、ちょっと怖い。撮影Incidents
 タイトルからわかる通り、これはマキノがかつて演出した女優たちのメモワールだ。扱う女優は45人。各4〜7ページで、エピソード紹介がされている。
 なお巻頭はマキノ智子。すなわち雅裕の姉君。長門裕之、津川雅彦の母上である。自伝『映画渡世』(筆者の蔵書ではちくま文庫版)を読んだことがあれば、雅裕子役時代からの共演者として、いかにこの姉を慕っていたかがわかるだろう。
 そして最後はもちろんこの人、山田五十鈴。彼女だけ破格の18ページが割かれている。
 マキノが見せる、こうした心意気はやはり粋である。

 これからじっくり読みたいが、ちょっと見ただけで、たとえば山口百恵について、「「好きよ」とも「惚れてるのよ」とも演れる女優さんだった」という、マキノ監督以外にはあり得ぬ表現など、興味は尽きない(なお、山口百恵は『マチャアキの森の石松』(1975〜76のテレビドラマ)で、堺正章の恋人役としてマキノ演出を受けている)。

 私としてはやはり、岡田茉莉子の項に早速飛びつく。
 『映画渡世』では、ほぼまったく触れられていない茉莉子さんだが、ここでは実に熱く紹介されている。やはり岡田時彦のお嬢さんということで、思いは一入であったようだ。
 (逆に言うと、時彦氏がどれだけ愛された人柄だったか、ということでもある)

「東宝で初めて会った時彦氏の娘、茉莉子ちゃんは、父にも母にも似たかわいい娘だった。母親一人の手で育てられたが、そんな暗さはどこにもない。
 あの父の娘、私がファンになったこともあるあのお母さん(引用者註:田鶴園子のこと)の娘―私はそのとき、かならず彼女をスターにする、いや皆がさせなければ、と思った」とある。

 マキノ監督は、デビュー間もない茉莉子さんを、2度起用している。最初が『おかる勘平』、続けて『浮雲日記』(共に1952)。
 この2作は、自伝『女優 岡田茉莉子』(文藝春秋)で一言も触れられておらず、『映画渡世』でも「岡田茉莉子も出演した」程度の記述しかなく、この本でのマキノ監督の証言はあまりに貴重だ。

 というのは、この2作での茉莉子さんは、確かにいい、が、色気がない、というのがプロデューサーはじめ、周囲の評価だったのだという。
 そして、2年後に名作『やくざ囃子』の話が舞い込む。
 
 鶴田浩二の共演相手として、茉莉子さんを推すマキノ監督に対し、プロデューサーが難色を示す。「色気がない」、と。
 ここで「堪忍袋の緒が切れた」マキノ監督が、「滝村君、もうお断りだ!」と、大立ち回りを演じて見せるが、このあたりの会話の呼吸が、まるで映画のように面白い。

 このあたり、『映画渡世』ではまったく語られておらず、もちろん当人の知らぬこと故、『女優 岡田茉莉子』でも触れられていない。
 実にまったく、『映画渡世』を補完してくれる、興味の尽きぬ本を手に入れてしまった。

2009/12/29

『倫敦から来た男』,『バッタ君町に行く』  映画

 タル・ベーラ『倫敦から来た男』
 噂に名高い『サタンタンゴ』を見る機会がないながら、『ヴェルクマイスター・ハーモニー』で、沈黙のフェリーニとでも言いたくなる作風が強く印象に残った、タル・ベーラ。
 『倫敦から来た男』は世俗的なタルコフスキーを個人的に思わせられた。

 どこまでも緩慢に動くカメラが、巨大さと卑小さの両方を、行ったり来たりしながら記録していく。世界はなるほど、光と影とでできているのだと思う一方で、遠くを見つめていたカメラアイに、不意にクローズアップで主人公が入りこんでくるなど、ここにバッハのコラールかなんかを流せば、あっという間にタルコフスキー的画面になりそうだ。

 しかし、ここで流れていたのは敬虔なバッハの和音ではなく、もっと鈍く濁った和音の積み重ね。この響きがものすごく複雑で、時にマイクのハウリングによるピー音のようなものまで、微かにその和声の一部に組み込んだりもする大胆な設計で、その音楽はヴィーグ・ミハーイというハンガリーの音楽家による。

 この重音にとにかく驚いてしまったのだが、モノラル録音にあるような、パチパチと弾けるようなノイズ音が、これもとても微かに混じっていて、音源はレコードなのかなと思いつつ、聴いているとそのパチパチというノイズが、海へと向かうカメラによって、驚いたことに埠頭に静かに打ち寄せる、波の音といつしか混じって1つになっている。
 偶然だろうか、と思ったところ138分の上映時間のほぼ折り返しのあたりで、またもう一度形を変えて同じことをやっていたので、これは意図的にやっているのだと確信する。

 これは冒頭の埠頭のシーンが、ほぼ同じ形でリフレインされ、まったく同じ音楽が響くのだが、やはりそのノイズが耳につき始めたころ、そのシークエンスの終わりは室内のストーブへとカメラがクローズアップしていき、今度はパチパチというノイズ音が、ストーブの火がはぜる音と混じり合っていく。海と火。
 
 この映画は2人の女たちの、絶望を超えて、もはや表情さえも作れなくなっている表情の長い長いクローズアップがある。
 1つめは主人公の妻、ティルダ・スウィントン。これは、決定的な夫の人格的変貌を受け、感情をはく奪された顔。ここでは影を排した、ほとんど真っ白の画面にまったくの無音を受け、やはり画面からはフィルムが立てるノイズ音が、非常にかすかに耳を襲うのだが、その音はどこにも混じっていかない。彼女の顔と共にある。

 2つめは殺人事件の被害者の妻。これが最後に位置する。これも夫を失ったことで、感情を外に作れなくなった女の顔で、これは真っ白であるどころか、一気に光を集めて画面そのものが真っ白になってしまう。ここでもノイズ音がわずかに感知されるが、音楽は聞こえてこないので、そのまま明転した画面の中にいつまでも漂っている。

 ドルビーデジタルだというのに、このアナログな音はなんだ。これはしかし、『倫敦から来た男』が描く諸々の、非常にケバ立ちささくれ立った生活や人生を、絶妙に表現しているように思えてならない。
 何しろ、スピルバーグの『宇宙戦争』でのトム・クルーズによるティム・ロビンス殺害を思わせぬでもない、主人公の納屋での殺人シーンにおいて、カメラは閉じられた納屋の扉を外からただただ見つめ続けるだけで、その中で何が行われているかは黙して語らない。
 ここでは、完全な無音となりノイズがない。明らかにそこでは死が演じられていることを匂わせる、おそるべき演出なのだ。

 タル・ベーラは光と影だけの監督では無論ない。音をも操る作家だという認識を持つ。

デイブ・フライシャー『バッタ君町に行く』
 2009年最後の映画は、バッタ君でしめる。
 最高。たくさんのキャラたちがとにかく、右往左往して横に横にと、動きに動いて、最後は縦に動いていって、楽しいことこのうえない。

 ディズニーと比較してどうというつもりはまったくない。同じようにすばらしい。キャラを動かすというのは、身体全部が動くということだ。
 何かを訴えたくて、喋りに喋る、いやはやどいつも饒舌なことこの上ないキャラたちなのだが、表情が豊かに動いていくことはもちろんなのだが、手がせわしなく動いて、ということは足をバタつかせたり、胴体もくねくねと、とにかく「動画」という概念がケタ違いにリッチなのだ。

 音楽がまた贅沢だ。メインがホーギー・カーマイケル(「スターダスト」)。主題曲のタイトルが聞いて驚け、“We Are The Couple In The Castle In The Air”だ。
 すなわち「天空の城のカップル」。あの映画のタイトルは、ガリバーだけでなく、ここにもヒントがあったのか! (ちなみに“あの映画”の英語版タイトルは、“Castle In The Sky Laputa”なので念のため)

 音楽はカーマイケルの他、フランク・ローサー(『野郎どもと女たち』)に、リー・ハーライン(『白雪姫』、『ピノキオ』)という、猛者ぞろい。ディズニーもしかりだが、アメリカのアニメは音楽が最強なのだ(1つだけピクサーが残念なのは、音楽製作にもう1つ野心が乏しいところだ)。

 しかし「ジブリ美術館ライブラリー」で再公開された、『王と鳥』、『雪の女王』、そして『バッタ君町に行く』だが、小さい時に間違いなく見ているはずのこれらを、今の目で見ることで、宮崎駿の起源(モトネタとは言うまい)が少しづつ明らかになってきている。
 興味深いという以上に、映画の資産がいかに膨大かをつくづく思う。

2009/12/28

フローベール『感情教育』  

 フローベール『感情教育』(上・下 山田ジャク・訳 河出文庫)
 河出の、『ボヴァリー夫人』に続く山田訳フローベール、読了。
 
 ところで、『ボヴァリー夫人』は幾度となく映画化されているのに、『感情教育』の映画化というのは、ついぞ聞かないのはどうしたことだろう。
 映画化する物語として、決して遜色はないはずだ。むしろ、あまりに無定見で愚かな若者の恋の遍歴、そして革命…という『感情教育』の方が、ドラマ性豊かな気さえする。
 そう思って調べてみたら、確かに『感情教育』はIMDbが示すところによると、1963年製作のアレクサンドル・アストリュック(それは知らなかった! 見たい)による、ただ1本である。(他にどうやらテレビドラマとしては、2本ほどあるようだ)
 
 読んでなるほどと思ったこが、『感情教育』には驚くほど描写がない。主人公フレデリックをキャスティングするなら、ジャン・ピエール=レオ―しかあり得ぬが、その他の、特に彼の永遠の恋の対象となるアルヌー夫人が、どんな女性なのか、まるで像を結ばない。
 
 あらゆる登場人物の、あらゆる言葉が、その場しのぎの言い逃れ、もしくは感情の上での後先考えぬ無責任発言である、この小説においては、すべての言葉が信用ならない。
 たとえばの話、フレデリックの情婦となったマレシャルには、彼の子どもができてしまうのだが、フローベールのテキストでは少なくとも私は、これをどうして彼の子どもだと断定でき、彼は彼でなぜそう簡単に自分の子と信じられるのか不思議でならなかった
 これはしかし、映像化して“見せる”物語とする時は、はっきり彼の子か、そうでないかの解釈が必要となってくるだろう。
 『ボヴァリー夫人』では瞭然だった、さまざまな感情や描写が、『感情教育』では拡散し、霧消しているかのように思われる。

 工藤庸子さんの巻末解説によると、フローベールは折しも出版されて大当たりとなった『レ・ミゼラブル』に激しい批判を加え、その中で『感情教育』の執筆に入ったのだという。
 なるほど、すべての感情・行動に一切の二次的な意味を持たぬ、あらゆる意味で通俗的な『レ・ミゼラブル』にフローベールが苛立つのは、後付けではあるがわかる気がする。
 『レ・ミゼラブル』を読書するとき、読者は登場人物に感情移入して、ドキドキハラハラするかもしれないが(だからミュージカルにも翻案できる。そういえば『ああ無情』の映画化もたくさんあるはずだ)、『感情教育』ではそうはいかない。(注)
 読者は登場人物の外側に位置して、読書を進めるはずで、そうすることで、物語を追って行くのでなく、“文章”を読むという気持ちにシフトする。
 よくある文体論? そうでなく、文体や物語を超えて(ということは、登場人物の中の誰も好きになることなく)、理性的に文字に触れ、書かれた状況を了解していくということ。
 それによって、「物語」がもたらす「安心」ではなく、「読書」することによる(自分への、または人間への)「不安」を感じさせることになる。
 すなわち「零度」の文学の限りなき完成形態である。となると映像化などできはすまい。

(注)工藤庸子さんの巻末解説による述懐では、訳者の山田ジャク先生は、「デュサルディエはいいよう!」と、この登場人物をひどくご贔屓だったそうである。
 これはまったく納得で、この人物だけが裏表のない一途な人柄で、この小説の中でただ一人、「物語の登場人物」的に感情移入ができてしまう。が、そうした人物をひとり紛れ込ませるのも、きっとフローベールの策略なのだろう。

2009/12/26

『ジュリー&ジュリア』、『ヴィクトリア女王 世紀の愛』  映画

 ノラ・エフロン『ジュリー&ジュリア』
 まずい。完全にどっぷりとエイミー・アダムスに100%の恋をする。これはかわいい。上映前に見た『(500)日のサマー』予告編の、ズーイー・デシャネルが頭から消えるほど(!)に、切実に待ったなしに恋をした。今すぐアメリカに行って会いたい。
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写真:『ジュリー&ジュリア』より。エイミー・アダムス。やばい…かわいいにもほどがある…。画像リンク元
 それはともかく、ノラ・エフロンという監督は、どういうわけだか、電話やメールを介した、距離が離れた2者の関係を描きたがる。まるで、女性版トニー・スコットだ。冗談だが。
 『ユー・ガット・メール』(1998)なんかは、メールが普及し始めた最初期の段階での、電子メールを媒介とするラブストーリーだったし、『めぐり遭えたら』(1994)なんかは、まどろっこしいことにラジオ番組を介している。(どちらもトム・ハンクス/メグ・ライアン)
 脚本作品だが『電話で抱きしめて』(2000―これもメグ・ライアン 監督はダイアン・キートン)も、すべては電話で成り立つ関係性というありさまで、今回の『ジュリー&ジュリア』では、とうとうブログを通して、さらに時空を超える。

 つまり、「何かを始めなきゃ」と料理好きのジュリー(エイミー・アダムス)が、1年かけてジュリア・チャイルズ(メリル・ストリープ)の料理本のレシピを、実製作するブログを始める。
 その料理製作とブログ執筆を通じて、ジュリーはまるでジュリアと対話をするかのような気持ちになる。
そして映画は、1950年代のパリが舞台のメリル・ストリープのパートと、2000年代のNYが舞台のエイミー・アダムスのパートが、パラレルに展開する。

 こうしたノラ・エフロンの、距離を隔てての人間関係は、彼女の作風のきわめて都会的な感触の表れであり、生身で接することの困難な都市生活の本質を、そこに探り当てているということなのだろう。

 今回の『ジュリー&ジュリア』での、エイミー・アダムスの職業が、役所の苦情受付係の電話オペレーターと、またしても電話を使う仕事ということに、驚かされる。
 その後に続く、親しい仲間たち4人との、カフェでの会合のシーンは、まるで『セックス&ザ・シティ』のパロディのように描かれるが、エイミー・アダムス以外の全員が、携帯電話でめいめい勝手に話し始めて、おしゃべりどころではなくなってしまう。
 電話やメールは、どこまでも人と人を遠ざけるツールなのだ。

 けれど、かつてのノラ・エフロンの作品がすべてそうであったように、遠ざけてあるそのツールこそが、人と人とを引き会わせることも確かなのだ。
このあたりが、ノラ・エフロンの都市生活についてのスタンスだろう。

 とはいえ、そのことはここまでにしておこう。
 それより、『ジュリー&ジュリア』は、どこか妙にリベラル礼賛の気配が強く、ひっそりと言葉少なに、911以後の合衆国批判が隠されているように思えてならない。

 典型的なのは、メリル・ストリープ演じるジュリアの父親が、ガチガチの共和党員で、アカ狩りを支持し、マッカーシー政策を礼賛する右派だという設定。
 そして、人生を謳歌するジュリア夫妻の生活は、そのリベラルな思想信条から、政府からの取り調べが入り、生活の変化を余儀なくされていく。

 さらに、“ジュリア”という役名から連想したのかどうか、無名時代のストリープも少し出演している、なぜか『ジュリア』(1977 ジンネマン)を思わせるシーンがところどころ。
 たとえば、ストリープが妹をパリに呼ぶのだが、その妹がやって来て降り立つ駅の停車場の様子が、まともに『ジュリア』。
 それに、その妹がヴァネッサ・レッドグレーブに激似。劇中で身長がやたらに高いということを、強調しているのも、長身のレッドグレーブを意識してか。

 そもそもノラ・エフロンが、「大統領の陰謀」を暴いた、ワシントン・ポスト記者の1人、カール・バーンスタインの元妻ということは、あまり関係ないだろうが、とにかく、レッドグレーブとジェーン・フォンダという、リベラルの権化のような2人の共演作『ジュリア』が、遠まわしに引用されているのは間違いないと思う。
 
 エイミー・アダムスも、役所の電話オペレーターだというのは前述の通りだが、911の犠牲者からの泣き言もしばしば、受け付けていることからも、何か物言いたげだ。
 決定的なのは、彼女がブログ執筆に熱中するあまり、上司に小言をくらうわけだが、彼が「自分は開けた職場を目指している。だから大目にみるが、もし私が共和党員だったら、君はクビになってるぞ」という言い草。

 さらに些細な点だが、彼女のブログが評判を高めていき、取材申込の“電話”も舞い込む。そこで、取材がてら夕食の席に、取材の席を設けることになり、電話を切った後、夫に対して一言。“Guess Who’s Coming To Dinner!”
 もちろんこれは、スタンリー・クレイマーの『招かれざる客』のタイトルであるわけで、もはや説明は不要だろう。(この言葉は、ブログの中でも何度か繰り返される)
 ただ、字幕では「誰が来ると思う?」くらいになっていて、そのへんの裏の意味が、まったく伝えられないのは、やむなしか。

 このように、優雅な外見をまとってはいるけれど、ノラ・エフロンとしてはかなり野心をこめた作品なのではないだろうか。
 ただまあ、そうは言ってもエイミー・アダムスには完全にやられたよ。今後、彼女なしには生きていけなさそうな気がする。

ジャン=マルク・ヴァレ『ヴィクトリア女王 世紀の愛』
 この映画を見ている間ずっと、おかしい、自分はなぜこれを見ようと思ったのか、その動機がわからない。と考え続けていたが、エンドクレジットに、製作マーティン・スコセッシというのを見て、そうだったこれが理由だ、と遅ればせで思い出す。
 いや、白状しましょう。実際の理由は、主演がエイミー・アダムスだと思いこんだためです。この映画の主演、エミリー・グラントと完全に取り違えました。名前が似てるんだもの。それと、『サンシャイン・クリーニング』のせいです。それが原因です。

2009/12/24

ヨーコ・オノの結婚について? 『アラザルVol.3』を読むべし。  

 今度の「金スマ」なんて見てる場合じゃない。ヨーコ・オノの最初の結婚のなれそめと、その別れる理由について、知りたければこれを読まねばなるまい。
 と、商業的な宣伝をしてみる。少しでも大人数が手にとる可能性を高めたいからだ。

 一般発売も始まった、佐々木敦さん主催HEADZから出ている『アラザルVol.3』はすごい。439ページにびっしり活字が詰め込まれていて、まだ全然読み込めていないのだけど、とにもかくにも圧巻は西田博至さんによる、「一柳慧43000字インタビュー」だ。

 この記事だけに1000円でも、タダみたいなものだ。膨大な基礎知識を背景にし、これだけの言葉を引き出したインタビュアーの能力、恐るべし。

 このインタビューの価値は、音楽の人だけでなく、映画の人にも読まずに通れない情報を含む。吉田喜重監督との仕事についても語られているからだ。
 
 吉田監督は、自作について語るような語らないような、言葉を濁しがちな方だが、知る限りではほとんど自らの作品の音楽について言及していない。それどころか、可能ならば音楽は排除したいくらいに思っているのではないか。
 実際、『秋津温泉』(音楽:林光)や『樹氷のよろめき』(音楽:池野成)について、「商業主義的な映画にあっては、こうした音楽もつけざるを得ませんでした」とご自身の口から語られたこともある。
 吉田監督は、その映像を見る者を、ある特定の感情だけに導いてしまうのを、何より嫌う作家である。となると、そうした操作を最も不用意に行ってしまう、音楽というものを、最も警戒するのも道理だろう。
 
 だからこそ、インタビュアーが、『水で書かれた物語』のクレジットでは「音楽 一柳慧」だが、『さらば夏の光』は「音響デザイン 一柳慧」だ、と絶妙のポイントを突いて、「音環境の場の創造」という一柳慧の音楽感に触れつつ、吉田監督との仕事について言葉を引き出そうとしているのはとても的確だ。
 つまり、劇伴としての「名旋律」を書く音楽家ならば、これほど何本もの吉田/一柳のコラボレーションは実現しなかったのかもしれない。
 松竹を離れて後、独立系映画作家としての吉田喜重監督は、もっと音楽に対してもシビアに接しただろうから。

 けれど、映像空間を満たすための「音響」として考えるなら、それは映画内に組み込める。そんな可能性を発見したことが、『エロス+虐殺』の見事なコラボにつながったのでは、というインタビュアーの透徹した質問。
 メロディ=テーマ曲として十分に自立しつつ(私的なことだが、私はしばしば風呂につかりながら、『エロス+虐殺』のメロディをうなっている)、しかもその存在が不意にかき消え、そこに画面だけがあるとしか思えぬ、あの音楽は「(吉田喜重と)ふたりで、話し合いが成立するようになってき」た結果だという、一柳の重要な言葉。

 ここで、一柳は「音楽の自立性」ということを盛んに語る。この言葉において、「音楽」という語は、「俳優」でも「撮影」でも「照明」でも、何でも代替可能だ。曰く、
「各分野が本当に自立してきっちり物をいっていながら、総合化されているというあり方が、僕にとっては、気持のうえで、いちばんしっくりするんですね。」
 
 この意識は、6時間に及んだというこのインタビューのずっと終わりで、再びリフレインされる。雅楽と西洋のオケの扱いについて(実は私自身は、一柳の雅楽導入について、その意味合いをもう1つ解釈しあぐねていたのだが、このインタビューで完全に疑問が氷解した)、「ホーリズム(Holism)」という概念が紹介される。そこで曰く、
「これまでは、ばらばらの要素を単に集合させているという感じが強かった。そうじゃなくて、ひとつのものとしてありつつ、それぞれが影響しあっているというおうなものを模索するようになった」と。
 この言葉の最後、「ようになった」わけではなくて、ずっと以前からそう考えていたことは、この吉田喜重監督との仕事について語った言葉以上に、その音楽と映像との関係を考えれば、自ずと明らかだろう。

 そこからさらに雅楽についての考察が重ねられた後、とすると、その仕事には一貫して「断絶」はなく、本質的なところで「変質」はなかったということか、というインタビュアーの鋭い突っ込みに対し、さらに言葉が重ねられる。
 このあたり、すばらしくスリリングな対話になっている(そう、これはもはや「インタビュー」でなく「対談」の域だ)。

 スリリングといえば、野次馬的な興味もつきない。何しろ、一柳慧は小野洋子、ことヨーコ・オノの最初の夫君である。
 一柳慧/小野洋子の男女関係についても、ズバリと切りこんで話を進めるところは、「聞くのか? それを聞くのか?」と、読んでいるこちらがドギマギしてしまう。
 何しろ、2人が別れた理由まで聞き出してしまっているのだ!

 それにしても感じたのは、一柳がドイツでもフランスでもなく、留学先としてアメリカを選択したことは、ケージとの出会いを抜きにしても、すごく大きかったのではないか。
 つまりドイツ的なもの、フランス的なものといった、何かしら極端なものに引き込まれずに済んだ。50年代の経済的にも豊かで、しかもハイブリッドな才能が集まっていた無二の国。
 このことは、武満や黛、三善、湯浅など、現代邦人作曲家の中でも、最も典型的な作風をイメージさせにくい一柳の、ある意味モーツァルト的なまでに奔放な作風を、期せずして形作ったのではないか。

 このインタビューは、世界5カ国語くらいに翻訳して、広く世に示さねばならぬ貴重なものだと思う。(実際、存在を知れば世界がほっとかないと思う)
 インタビュアー西田博至は、歴史に残る仕事を残した。同じく同誌に掲載された、一柳慧論とあわせて、一人の芸術家に迫るとはこういうことだ、という模範例だ。

 『アラザルVol.3』の入手方法はこちら。

2009/12/22

『アバター』  映画

 ジェームズ・キャメロン『アバター』
 すごいとか何とか、そうした言わずもがなのことを言うのはやめよう。そんな次元でこの作品を云々することなどできないし、迂闊な形容はかえって『アバター』を貶めてしまう。
 だが、それにしても『アバター』を前に、これまで見て来たあらゆる作品が、いかに天文学的に隔たっていることか!

 『アバター』がまったく新しいかというと、必ずしもその限りではない。描かれたモチーフや、感動の要素のほとんどは、過去のジェームズ・キャメロンの中に全部ある。(注)
 
 たとえば『タイタニック』永遠不滅のシーン。風のように走りゆくカメラの終点、タイタニック号の先端に、両腕を広げて立つケイト・ウィンスレットと、彼女を支えるレオナルド・ディカプリオの「飛行」。
 この究極の至福が、彼らの人生の頂点だった。そして、観客である私たちはその後、取り返しのつかぬ運命が待っていることを知っている。
 サスペンスの根源とは、登場人物の知らぬ情報を、いかに多く観客に示すかだ、と語ったのはヒッチコックだったろうか?
 けれど、その至福の時を共有したという、確かな実感があるからこそ、その後に待ち受ける、悔やんでも悔やみきれぬ顛末も、2人で耐え抜き、揺るぎなき生の充実を持つことができる。
 だからこそ、『タイタニック』の悲劇は、悲劇にもかかわらず、私たちの心を勇気づけるものだったのだ。

 『アバター』でも、そのような生の充実が、この上もない幸福感で描かれる。たとえば、怪鳥に乗って空を滑空する2人。冴え渡るジェームズ・ホーナーのフルスコア。この高らかな人生賛歌が、やがて決定的に踏みにじられるだろうことは、誰もが予想するだろう。
 
 ジェームズ・キャメロンが、これ以上はない究極の至福を描く天才であるならば、その逆である、完膚なきまでに立ち直れぬ絶望を描くことだってできる。『エイリアン2』や『ターミネーター2』では、そうした絶望をいかに完璧な残酷さで、作り上げたことか。
 そして、その絶望からの回復を、『アビス』はどれだけ途方もない激情でもって描いたか。
 そうした、もろもろ全部が『アバター』にはある。
 つまり、『アバター』は人の感情のメーターの針を、左右両方に振り切って、ついには壊してしまうのだ。

 ではその離れ業を、物語の力で行うのか。もちろんそうだが、少し違う。『アバター』の恐ろしさは、究極、その画面作りにある。
 画面の隅から隅までとにかく動いている。カメラもせわしなく(いささかやりすぎなくらいに)動くが、映っているものが、ひたすら動いている。木々は常にざわめき、未知の生物たちは片時もじっとしておらず、その間を人間/アバターたちが、動きに動く。まるで豹のように、素早くしなやかに。

 ジェームズ・キャメロンの造形力学は、動いておれ、一瞬たりとも止まるな、なぜなら森羅万象すべては生きているのだから、ということだ。画面に命を吹き込むためには、たくさんのものを動かすことなのだ。
 
 ジェームズ・キャメロンの素晴らしさは、今確かに自分が生きていること=命があることへの、確かな実感を与えてくれることだ。
 しばしばペシミスティックなモチーフも扱うけれど、いや、扱うからこそ、生きていることの究極の悦びを描く作家であることに間違いはない。
 『アバター』はまさにその集大成だ。人として生きるつもりがあるならば、全世界68億の人間すべてが観なければいけない作品だろう。でなければ、この困難な時代に今後どうやって生きていけるというのか。
 20世紀は『タイタニック』で終わったが、21世紀は『アバター』でようやく始まった。

(注)多くを書くわけにいかないが、あろうことか脚本作品である『ランボー/怒りの脱出』さえ導入されている。
『エイリアン2』の忘れ難き女性戦士、バスケスの生まれ変わりさえおり、これが映画を実にキリキリと引き締めているのだ。

2009/12/21

明日!!! いよいよ明日!!! とにかく明日!!!  映画

 そんなわけで、明日は『アバター』前夜祭。
 前から5番目ど真ん中のマイベストポジションにて、すでに座席予約も完了。
 21時半スタートだから、職務上のトラブルで行けなくなるという事態も、そうはあるまい。
 体調をばっちり整えておかねばと思いきや、しかし興奮のあまり、今晩眠れないのではなかろうか。と、遠足前の子どもの気分に。

 ブリタニー・マーフィの訃報にひどく驚き、気持ちが沈みかけるが、興奮がそれにやや勝り、全然関係ないけど、Youtubeでこんな映像を見つけてしまって、完全に滂沱。これはすごい! ものすごい! よし、気持ちの上で景気がついたぞ!



2009/12/19

『パブリック・エネミーズ』、『カールじいさんの空飛ぶ家』  映画

マイケル・マン『パブリック・エネミーズ』
 あちこちで熱狂的な賛辞を聞くので、本当に申し訳ないのだけど、心底つまらなかった。
 冒頭の脱獄シーンで、既にトホホと思ったが、私にはどうしてもジョニー・デップなんて、およそ大根以下としか思えないのだ。
見せるべきところを、まるで見せてくれぬ、マイケル・マンの切れ味悪い語り口調もうんざりだし。やっぱりこの監督を讃えるのは、絶対に何かの間違いだと思う。

 よし、寝よう! と思ったところ、続くクリスチャン・ベイルの登場ではっきり目が覚めた。アクションもスピーディで、しかも重厚さもある。眼光も鋭く厳しい(それに引きかえ、銀行のカウンターを飛び越える、ジョニー・デップの不器用さにずっこける。もっとヒラリとやれ、ヒラリと!)。
 140分以上の長尺、クリスチャン・ベイルを中心とする、存在感あるFBI側の俳優だけがこの映画を支えて、何とか眠らず見終えることができた。
 まばたきどころか、目じりひとつ動かすことなく、拳銃を連射するクリスチャン・ベイルに痺れる。初めてまともな銃撃を撮れたマイケル・マン。あそこは最高。

ピート・ドクター『カールじいさんの空飛ぶ家』
 その後、家族と待ち合わせて一家全員で見る。もちろん3D。
 いや、恐れ入った。傑作ぞろいの2009年にあって、思い残すことなく今年のナンバーワンに決定。
 冒頭、子ども時代の2人の、出会いシーンからして既に号泣。「はあ???」という顔で、娘が私を見るのを横で感じるが、とめどなく涙がこぼれ落ちる。
 この段階で、「気体」によって宙に浮かぶというイメージに溢れている。
 夜、2階の部屋の友だちに、来訪を告げる合図を送るなら、窓ガラスに小石をぶつけるのが、セオリーだろう。けれどここでは、ブルーの風船を飛ばす。これが、この映画=後に夫婦となるこの2人の関係に宿る、「いたわりと友愛」の根源である。
 
 そして、一方的にまくしたてる、後の妻エリーと、もっぱら聞き役のカール。この関係性は、「旅」に出て後の、カールじいさんと、道連れのおしゃべりな少年ラッセルとの関係にそのまま引き継がれるだろう。
 「あんた気に入った!」という少女時代のエリーの顔とその勢いは、不意にジムシィ(『未来少年コナン』)がダブってしまって、ここでも涙腺が緩みまくるが、きっとカールじいさんの心のどこかに、おしゃべりなラッセルを「気に入った」と思わせる何か(つまりエリーを思わせる)があったのだと感じさせられるに十分だ。

 盲執の物語でもある。ちょうどエイハブ船長が白鯨を追い続けるのと同様に。つまり、カールじいさんは約束の滝に行く+家を離れないこと、冒険家ムンツは幻の鳥を探し続けて70年(?)、ラッセルはバッチのコンプリートなどで、この映画の3人の男どもは、1点突破の頑固者という点で、まるで似た者同士だ。
 その盲執から自由になる者だけが、新たな人生への自由を獲得するという意味で、これもすばらしいメッセージだろう。

 そして、「物」に宿った思い出というもののかけがえのなさ。後半のくだりでも、アルバムはもちろんだが、それ以上に飾られた子どもの頃のエリーの写真や、鳥の置物などの唯一無二性。そうしたテーマについては、折しも今年、アサイヤス『夏時間の庭』という得難い作品も記憶に新しい。
 それもこれも、記憶として物に魂を宿らせた、若き日のヘンデリクセン夫妻を描く冒頭の力強さから発生する。
 そしてそうした「思い出」、「記憶」というもののかけがえのなさを、証明立てるかのように、『カールじいさんの空飛ぶ家』1編の中に組み込まれた、さまざまな過去の映画作品の記憶。これもまた、『イングロリアス・バスターズ』とはまた、まったく別の映画愛がここにあることを、余すことなく伝えてくれる。

2009/12/16

『脳内ニューヨーク』  映画

 チャーリー・カウフマン『脳内ニューヨーク』
 日曜日の続き。『マルコヴィッチの穴』だのなんだのの作品群を作った一派の1人の初監督作、と思うだに見る気が失せていたが、素直に謝罪する。すばらしかった。
 
 まあ巨匠と言ってよい立場の劇作家(フィリップ・シーモア=ホフマン)が、しかるべき援助金が降りて、思い通りの作品を作れる立場となる。そこから、永遠に完成しない芝居のリハーサルが始まる。それが何かの「代癒」であるかのように。
 そして、細密画家として国際的な名声を得た妻とはうまくいっておらず、別居に至る。また、2人の間の娘との行き違いが、途方もない非劇を生むのだが、そのあたりは、ブログごときでは書ききれぬ内容を持つので、ひとまず逃げておく。

 非常に複雑な構成を持つかに見える作品だが、語ろうとしていることは、極めてシンプルで、それはひとえに「愛」である。それを与えることが、いかにむつかしいか。
ここにあるのは、極めて荒涼とした愛の不毛である。この映画の印象を、他の映画作家の名を借りて代癒してみると、カサヴェテス(特に最初の4分の1くらいは、まるでカサヴェテスを見ているようだ)、アントニオーニ、ヴェンダース、トリアーである。
 ときに荒涼としたホームドラマとして、ときに空虚な無言劇として、ときにコミュニケーション不全の会話劇として(ベルリンが重要な舞台となる!)、ときに猟奇的な人間性忌避のドラマとして、長い歳月にわたっても、何一つ変わらぬ人間性というものを説く。

 自らの生活の再現としての舞台は、永遠に完結しない。完全に納得できる作品の完成は、完全に納得できる人生を送ることと、同義だから当然だ。
 この映画に感動させられるのは、得られぬ愛を得ようとする主人公のひたむきさに、胸を打たれることである以上に、その愛の対象が画面の中、どこにも見当たらないからだ。
 ことに、妻は彼の前を去って以後、まったく姿を見せぬことの他、娘もまったく実体を欠いており、今、彼の目の前にいる(はずの)娘は、彼の記憶の中の娘とまったく変わってしまっているのだから、もはや画面からは失われているに等しい。

 しばしば彼は、妻の部屋やアトリエを掃除したりするのだが、個人的なことになるけれど、私自身もうちの奥さんに対してどこか後ろめたかったりすると、無意味にはりきって掃除を始めたりすることしばしばだから、とても身につまされたりする。

 それはともかくとしても、こうして得られぬものを追いかけ続けるうちに、画面の主人公(とその周りの人々)が、少しずつ年老いていくという、時の流れの残酷さが痛いほど伝わってくるところに、この映画の感動の焦点があるように思う。
 特殊メイクによって老け顔を作る技術が、これほど大きな意味を持って使われた例も、あまり思いつかない。これは見事な演出だ。じわじわ忍び寄る、老いの表現が実に申し分なく、これによって「一生」という時間の“物理的な”長さが、真に迫る。



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