2010/2/28

『抱擁のかけら』  映画

ペドロ・アルモドバル『抱擁のかけら』
 すごい。これは巷の評判にたがわず、今年のNo.1候補かもしれない。
 これまでのアルモドバル独特の、土っぽさや悪い意味でのローカル性が最小限におさえられ、決して否定するものではないが、アルモドバルはどこか面倒くさいと感じていた人間(たとえば私)に、参りましたと言わさずにおかぬ、100点満点作品。

 さて、ヒロインのペネロペ・クルスは、これまでで1番の魅力を放っていることに異論のある方はないと思うが、そもそもこの映画が、彼女を使いこなせていない者どもに対する、アルモドバルからのリベンジであるという、毎度のことながら突飛な発想をしてしまう。

 その筆頭がウディ・アレン。彼は『それでも恋するバルセロナ』で、ペネロペ・クルスに、オスカーを含む数々の映画賞を独占させたわけだが、あの映画のペネロペは役作りを超えた部分で、本当にそんなによかったろうか。彼女ならではの魅力を放っていたろうか、と思うと私自身はとても懐疑的である。

 これまで最も熱くペネロペを起用したのは自分である。その演技や身体の隅々までを熟知しているのは自分である、という自意識の元に、アルモドバルはこの渾身の傑作を産んだ、というのは妄想がすぎるだろうか。

 というのは、この映画を見ながら、『抱擁のかけら』がウディ・アレン的なモチーフでいっぱいだな、と思わずにいられなかったからだ。
 誰もが気がつくだろうことは、盲目の映画監督。他、映画プロデューサーとの三角関係。捏造された映画レビュー。暴かれぬ殺人。デビューし損ねた女優。年若い女性の体に溺れる初老の肉体…。
 ウディ・アレンは作品数も膨大だから、探せばどんなモチーフでもあると思うが、けれど盲目の映画監督という設定が、偶然とはどうしても思えない。
 そもそもスペインの光というのは、これだと言わんばかりの、眩くつややかな画面の絢爛。
クリックすると元のサイズで表示します
写真:『抱擁のかけら』より。このような光と華麗な室内装飾が、また見事な画面を作る。

 ついでになるが、読唇術を駆使した陰謀では、私なんかはこれに対して、トム・クルーズへの皮肉もあるに違いないと邪推する。
 また、ペネロペの若い身体に目が眩む老人という題材の映画は、最近も1本あった。その映画の登場人部の1人が、ガンで死んでいるのも、偶然かもしれないが、符合はする。

 ペネロペ・クルスを、好き勝手にしてくれた連中に対して、完璧な例を示して復讐実行。映画には映画をもって返す―「映画は完成させることが大事だ」―という、『抱擁のかけら』の根本精神にも、沿うている。
 アルモドバル流ケンカ映画。かくして、これほどまでの大傑作が誕生する。

 しかし、富豪がペネロペの背中を押す、完璧と言う他ないタイミングとカメラアングル。深紅のカーペットの階段を転げ落ちていく、深紅のドレスのペネロペ・クルス。
 「楽になるよ」と悪質な囁きをしつつ、身動きできず、息も絶え絶えのペネロペの深紅の靴を脱がして、素足をさらされたペネロペの見事な生足。
 あまりの官能に息苦しくさえなる。

 これはまごうことなき、ペドロ・アルモドバル、目下の最高傑作。
クリックすると元のサイズで表示します
写真:『抱擁のかけら』より。こんな美脚の美女がキッチンに立っていたら心臓に悪かろう。ペネロペの服の色も素晴らしい。 以上2点の画像リンク元はeiga.comより

2010/2/27

『新しい人生のはじめかた』  映画

ジョエル・ホプキンス『新しい人生のはじめかた』
 実に品のいい作りで、名男優・名女優の演技を見事に示した、大変な傑作だった。
 人生に見捨てられたかのような男女が、ふとしたことから巡り合って、新たな恋の可能性をまさぐりあう。

 ここでのダスティン・ホフマンとエマ・トンプソンは、どちらもそれぞれ端っこにいる人物だった。
 いつでも、彼らは画面の右端あるいは左端にいる。なぜなら、中心に来る人物たちに端に追いやられてしまうからだ。
 そして、この2人はフレームの中で、いつも端っこに写されているだけでなく、実際にテーブルの順さえ端っこに飛ばされてしまう。

 ダスティン・ホフマンは、娘の結婚前パーティでは、携帯に出たスキに末席に追いやられ、エマ・トンプソンはせっかくのブラインド・デートも、途中参加の若者たちに気がつくと端っこに座るハメになっている。
 つまり彼らは、他の中心になる誰かのために、いつでも端っこにされてしまうのだ。

 そんな端と端にいた2人の出会いだから、なんの障害もなくすんなり、画面の右と左に収まることができる。
 中心と中心の2人なら、どうしても葛藤が生まれてしまう。けれど端と端なので、凸と凹がかみ合うように、無理なくいっしょにフレームに存在することができるのだ。
 このあたり、この若い監督(1970年生)は実に巧みに演出している。

 たとえば、この2人が近づきになる、空港のバーでの別々のテーブルに座って、手前とこちらで、斜めのポジションで語り合うシーンの見事な冴え。
 端っこ者同士。そして向かいには相手のいない者同士の悲哀と滑稽さが、見事に滲み出た名ポジションと言えるはずだ。

 セリフも必要最小限におさえ、ダスティン・ホフマンがエマ・トンプソンのドレスを見つくろうコミカルなシーンでも、これがメリル・ストリープなら、騒々しく身をのけ反らせて、下品な演技を始めてしまうところ、何とも品のいいサイレント演出をやってのける。
 俳優の存在感を信じられるから、こんな映画を作れるのだ。

 信じるといえば、この監督がダスティン・ホフマンの演技に対して、実に深い理解があるのに舌を巻いた。大ファンなのかもしれない。
 たとえば、この40年間びくとも変わらぬ、こちらをじっと見つめて、口を閉じたまま、不意にその両端を、にーっと上に持ち上げる必殺のホフマン・スマイル。
それを完璧なタイミングで繰り出させる。

 そして、いよいよラストシーン。ここでは明かせないが、おそらくダスティン・ホフマンの長い俳優生活、相手女優がこれをやってくれたら、もう思い残すことは何一つないだろう、最高のアクションが待っている。
 ダスティン・ホフマンという俳優を熟知していないと、絶対にこんな演出は施せない。
 そしてそれをやったのが、このジョエル・ホプキンス監督というわけで、この理解力ある思索的な若い監督の登場に拍手喝采。

2010/2/26

ソフィーとシャルロット  

甚だお恥ずかしい限りだが、今日のトピックは、ただの持ち物自慢。
 何に使おうと思ったか、人様に明かすわけにはいかないが、『黒木瞳写真集』(1997年刊行 竹書房)が必要になり、書棚を漁っていたがなかなか発見できず、代わりにこんな写真集がひょっこり出て来た。

『ソフィー・マルソー写真集』(1983年刊行 学研)
『シャルロット・ゲンズブール写真集』1990年刊行 白泉社)
クリックすると元のサイズで表示します
写真:ソフィーとシャルロット。ちなみにソフィーの方は1300円(消費税なし)本が安い時代だった。ちなみにシャルロットの方は2000円(+消費税3%) 撮影:Incidents

 てっきり紛失したとばかり思っていたので、たいへん感激する。

 かれこれ20数年ほど前、私はソフィー・マルソーを妻にし、イザベル・アジャーニを愛人にして、エマニエル・ベアールがいとこで、イザベル・ユペールを姉に持ち、シャルロット・ゲンズブールを妹にするのだ、と公言する愚かしい時期があって、それを私の“フランス時代”と勝手に称しているが、その頃もっとも活用頻度の高かった書籍である。
クリックすると元のサイズで表示します
写真:シャルロット。本書にはこうした写真が満載である。撮影:Incidents

クリックすると元のサイズで表示します
写真:ソフィー。タランティーノに見せたらきっと「買い取る」と言い出しかねぬ、見事な足の裏である。 撮影:Incidents

 この将来の見込みに乏しい、日本にあっては写真集といっても、どういうわけだか、ジャニーズもしくはそれに準じる男性タレントのものばかりが、書店で目立つような近年であり、こうした力のこもった写真集が刊行されないのは、とにかく嘆かわしい限りだ。
 それはひとえに、私たちの生(性にあらず)に対する渇望が乏しいからに他ならない。

クリックすると元のサイズで表示します
写真:シャルロット胸。残念ながら本書中、胸がさらされているのは『小さな泥棒』から採録されたこの1枚である。 撮影:Incidents

クリックすると元のサイズで表示します
写真:ソフィー半胸。この頃は露出もまださすがに控えめだ。何しろこれは『ラ・ブーム2』の翌年刊行の書物なのだ。
であるが故、これだけでも当時十分にスキャンダラスなワンカットだった。
ちなみに、ソフィー・マルソーが全裸身を惜しげもなくさらすのは、1984年の『フォート・サガン』からのことである。 撮影:Incidents

2010/2/25

スティーブン・バック『レニ・リーフェンシュタールの嘘と真実』  

スティーブン・バック『レニ・リーフェンシュタールの嘘と真実』(野中邦子・訳 清流出版)読了。

 リーフェンシュタールそのものには、大きな関心を持っていなくて、これまで出版された少なからぬ書物も、実は目を通していなかったのだが、これはじっくり読む。
 というのは、マイケル・チミノ『天国の門』をめぐる大惨事を描いた大著にして名著、『ファイナル・カット』(リュミエール叢書 筑摩書房)の著者による作品だからだ。

 さて、本書はリーフェンシュタールの「嘘と真実」。と言うより「嘘と嘘と嘘」と表現してもよさそうな、結局のところ全ては闇の中にある以上、真実などわかりようがない、ということを、改めて記した意味で、必ずしも衝撃的な何かが明かされているわけではない。
 しかし世界がリーフェンシュタールについて知りたい真実って、いったい何なのだろうか? 彼女がナチスの虐殺行為を知っていたか? 本当にヒトラーの愛人だったのか?

 彼女は多くの場合、人類に対して“あのような”行為を行ったナチスの、最も効果的なプロパガンダ映像を作った点で批判される。
 しかし、人心操作を意図していない創作物など、この世にただ1つでもあるはずがない。人に何らかの印象を残すことを期待せずに、ものを作ることなどあり得ないからだ。

 となると、リーフェンシュタールはその生涯のある時期に、確かに画期的な仕事を残したことは間違いない。問題はそれ以後だ。本書がとことん暴こうとするのは、生涯変わらぬ彼女の自己顕示ぶりである。
 彼女の最大の問題は、製作におけるすべての手柄・褒章・栄誉は、自分ただ一人の物にせずとは気が済まないという点である、と著者は示そうとする。

 若い頃、すなわちナチス時代の、彼女の仕事の頂点までの道のりは、まだよかった。
「女の武器」をフルに使って、男の才能と能力と、何よりも「機会」というものを得ることに成功した。とはいえ、それもまた彼女だけが行った行為ではない。
 だが、「女の武器」を使えなくなった後半生が問題である。
 とうとう彼女が目ぼしい映画作品を(それを強く望みながらも)、残せなかったことが、それを証明してあまりある。
 彼女はあまりにも、才能と能力と機会を与えてくれた男どもを、使い捨てにしすぎた。身体は与えたが、愛を与えなさすぎた。だから、セックスを与えられなくなれば、物々交換も成り立たなくなる。

 彼女の生涯は、であるからとことん「搾取」の連続である。
 山岳時代のヒロイン時代は大自然から搾取し、ナチス時代は第三帝国から搾取し(おそらく彼女は、映画史上ただ1人、無制限の予算の中で映画製作を任された人物である。そう考えると『ファイナル・カット』の著者が、リーフェンシュタールの伝記を書いた動機も何となくつかめてくる)、晩年はアフリカ原住民から搾取した。
 当然、アフリカ時代にあっても、その機会を得るのに「男」の力を借り、なおかつそれを踏みにじる。

 なお、本書で初めて知ったことだが、彼女が自らジプシーの踊り子を演じた劇映画、『低地』の撮影にあたって、画面に「スペイン風味」がほしかったのだが、ドイツ人のエキストラではそれは望めない。
 しかし、彼女のイメージにかなう「スペイン風味」はすぐ近くに大量にいた。ただし、有刺鉄線の向こうに。

 多くは省略する。が、有刺鉄線の向こうにいたジプシーたちを、彼女は「出演者」として、いいように使う。撮影後はもちろん全員アウシュビッツ行きだが、彼女は何もしなかった。何かできる立場にはあったろう。何しろ彼女は「総統」のご贔屓なのだ。
 彼女の言う通り、「ナチスの残虐行為については何も知らなかった」は、本当なのかもしれない。でも、もし知ったうえで何もしなかったのなら、彼女もまたジプシーの命など道具にすぎなかったわけで、どのみち人間としてはダメだろう。
 著者が糾弾しようとするのは、おそらくこうした部分なのだろうと受け取った。

 作品は作品としても、本書を読む限りで彼女ほど徹底して知らぬ存ぜぬを通した、ナチ残党はいるまい。(急いで付け足しとくが、彼女は正式なナチス党員ではない。彼女が入党できぬほどに、男尊女卑的な体制だったのだ)
 そんな戦後の彼女を擁護したのは誰あろう、ジャン・コクトーだった。なるほど、そのナルシスぶりは、どこか互いに共通するものがあるかもしれない。

 さらに驚いたことに、不遇を囲う60年代のリーフェンシュタールに近づいた男の1人に、ロン・ハバードという人物がいた。
 後にサイエントロジーなる宗教団体の教祖になる男である。何だかんだと、リーフェンシュタールは、かくも風変りな男どもを引き寄せる。

 なお、私自身がやっぱりこの人は、いいカンしてる、と思った逸話が紹介されている。
 何と、ジョディ・フォスターがリーフェンシュタールの伝記映画を撮りたいと言ったそうなのだ。以下引用する。

「ミュンヘンでフォスターとレニが顔を合わせたとき、レニは自分の伝記映画を撮る権利はハリウッドではなく自分にあるといいはって物議をかもした。しかも、記者たちに向かって、いずれにせよ、フォスターはスクリーンで自分を演じられるほど美人ではないと話した。シャロン・ストーンがふさわしいと話したのだった。」(P.512)

 どちらも一般的なイメージほど、バストの大きな女優ではないが、さすがに直観力は最後まで衰えなかったのだ。

2010/2/23

『コララインとボタンの魔女』、『50歳の恋愛白書』  映画

ヘンリー・セリック『コララインとボタンの魔女』
 越したばかりの家にあった、秘密の扉の向こうには(この通路のデザインが、「ウルトラセブン」31話「悪魔の住む鼻」に登場したダリーが潜む、松坂慶子の鼻の穴の中にそっくりなのは、この映画のコンセプトアーティストが上杉忠弘さんという、日本人だからか。しかも1966年生まれ。私と同じ歳。ということは、セブン大好き世代)、「別のお母さん」と「別のお父さん」がいる。

 この「別のお母さん」と「別のお父さん」というのは、日本語だと意味を失うが、英語では“Other Mother”と“Other Father”。韻こそ踏んでいるものの、どこか語感が悪い。
 で、この変な語感が連発されている…はずだ。吹き替え版なのでわからなかったが。
 そんな語感の奇妙さが、この映画の1つの味になっているだろうことは、そもそも主人公が「コラライン」とヘンな名前で、脇役たちも妙な名前ぞろいであることで、想像がつく。
 コララインのキャラデザインも、唇がヘンに斜めになっていたりと、一筋縄でない。

 各キャラクターの動きも、ストップモーションによる、手作り感たっぷりなのに、服の触感になるとCGでばっちり加工されていて、こうした画面も不思議と奇妙で、そこに興味を持とうと思えば持てないでもない。以上。

レベッカ・ミラー『50歳の恋愛白書』 
 ロマンチックな邦題には偽りがある。恋愛映画でも何でもない。内容は、初老の主人公の、後悔だらけの人生振り返り。

 ロビン・ライト・ペン以下、キアヌ・リーブス、アラン・アーキン、ウィノナ・ライダー、ジュリアン・ムーア、モニカ・ベルッチという、中途半端ともいえるが、まあ豪華な役者陣。
 けれど、キアヌ・リーブスとアラン・アーキンはそこそこ重要な役どころだが、他はほんのカメオ程度の出演。ロビン・ライトの基本的には一人舞台。
 決して嫌いな女優ではないが、いかんせん映画の内容が、今さらどうでもいい悩みを、いかにも勿体つけてベタベタと描きまくる。

 しかしこういう映画に、隣に越してきた男前の若い衆として、ひょっこり登場するキアヌ・リーブスというのは、『恋愛適齢期』の時もだが、とてもいい。
 そして、服も脱がさず指一本で、ロビン・ライトをあっという間にエクスタシーに導く、彼の超絶技巧ぶりのため、この映画はR15指定となる。さすがネオ。以上。

 なお、監督のレベッカ・ミラーは、アーサー・ミラーの娘。つまりダニエル・デイ・ルイスの妻である。

2010/2/20

クリス・フジワラによる、スピルバーグ論 (『宇宙戦争』)  映画

 力量不足を棚に上げるならば、スピルバーグのことを日夜想っている点では、かなりの自負がある私であるが、ここのところ煮詰まってる感があって、何かブレイクのきっかけがほしかった。
 そんな中、藁をもすがるように何かの示唆を頂こうと、アテネフランセに向かう。

 クリス・フジワラによる映画表現論「アメリカ映画における時間とパフォーマンス」。
 第29回「スティーブン・スピルバーグ論」(参考上映『宇宙戦争』)
を聴講する。

 結論から述べると、見事に示唆的な1時間強の講義だった。こうした話を聞くと、脳細胞が活性化し、映画に取り組もうという情熱が湧いてくる。行ってよかった。
 以下、講義録として記録しておく。

**
 『宇宙戦争』は「映像」とは何かという問いについての映画である。
 そして、「映像」とは何かとは、スピルバーグ自身に対して問うべき質問でもある。
 というのも、スピルバーグほど、多くの人に知られた映像を作りだしている人物はいないからだ。もちろん、これまで多くの優れた映像作家が「映像」についてを考察してきたのだが、スピルバーグほど多数の観客に向けて映像を作った人物は他にいない。
 だから、スピルバーグについて考えるとき、私が思うのはヒッチコックのことである。

 特に『宇宙戦争』には、ヒッチコック的な「映像」解釈を見ることができる。そして、もう1つヒッチコックに近似する点は、スピルバーグもヒッチコック同様に、映像の作り方を完璧にマスターしていることでもある。

 しかし、とりわけ『宇宙戦争』がヒッチコックを想起させるのは、トム・クルーズがティム・ロビンスを殺害するシーンだ。
 それはヒッチコックの『引き裂かれたカーテン』。すなわち、ポール・ニューマンが、敵方のスパイを殺すシーンのことである。
あの場面でヒッチコックが問うたのは、「人を殺すということがいかに大変か」ということだった。
 この場面では、セリフがなく、見ている人間が不快感を覚えるほど、長い時間をかけ、人間を殺すことがどれだけ大変なことかを、描いてみせる。
クリックすると元のサイズで表示します
写真:『引き裂かれたカーテン』より。殺人とは重労働なのである。画像リンク元


 もう1つヒッチコックで重要なことは、(最良なとは言わないまでも)最もアメリカ的な、よいイメージの俳優に、そうした残虐な殺人をやらせたことである。
 それはヒッチコックがしばしばやることだが、殺人という大変な労働を、観客が最も自己同一化しやすいポール・ニューマンという俳優にやらせる。スピルバーグが、それをトム・クルーズという、よいイメージの俳優にやらせることは、それと同一なのだ。もちろんスピルバーグも、殺人がいかに大変かをいうことを見せていることも。

 ただし、重要な違いがある。それは、スピルバーグがその殺人を見せていない。それどころか、「見せない」ということを強調してさえいる点だ。
 クルーズは扉を閉め、鍵をかけ、観客を殺人現場から閉め出している。
 いや、それより先に、彼は娘の目を閉じさせ、あらかじめ見せないようにしているのだ。
 ここはまさに、ヒッチコックがそうであったように、スピルバーグの確固たる判断を示している。
 つまり、その行為を映画の中で見せるのは、「誤り」であるという、倫理的判断だ。
 
 この点について、ヒッチコックは観客を批評し、挑発しているといえるのに対し、スピルバーグはやや控えめで、臆病といえるのかもしれない。けれど、私自身はスピルバーグがそれ以上のことをやろうとしていると思う。
 それは、スピルバーグが、観客に見せないように閉ざす、ということで、彼はここから「映像」とは何か、ということを考察している。

 『宇宙戦争』における「窓」に注目してみる。
 この映画には、とにかく様々な「窓」が映り、それが構造上の大きな意味を持っている。
 構図が切り取られた映画の画面の中に、さらに構図を切り取る窓がある、ということで、「映像」を「映像」として把握することができそうだ。

 たとえば、彼らが映画の最後に、ボストンに辿りつく。その時、母親が家の中から、「窓」を通して、通りを見るショットがある。
 これはきわめてスピルバーグ的だ。なぜなら、「家に帰る」という、とてもスピルバーグ的な構造の中に、さらに「窓」を通してものを見ているからだ。
 すなわち、スピルバーグにおける「家族」という概念が、「窓」というバリアを通して出てくる。玄関から祖父母が出て来て、息子が出てくる。こうして、家族内の各世代が次々に登場するのだ。
 もちろん、彼女もガラスごしに見えていて、その後に姿を現す。それこそスピルバーグにとって大切なことだった。なぜなら、ガラスは透明とはいえ、やはり観客から見ればそれは、障壁でありバリアであるからだ。

 我々にとっての到達点であるべき「家族」を描くためには、そのバリアを取り払わねばならないのだ。
 ここにこそ、スピルバーグにとって、「映像」とは何かを示すポイントがある。
 それは、私たちにとっては常に、バリアのようなものがある。そのことは、窓ガラスが曇っていたり、汚れていたりして、完全に透明なのではなく、何らかの形でそれが曇っているとき、そのことははっきり表れるだろう。

 映画の冒頭、トム・クルーズの家はニュージャージーにある。
 この街が、エイリアンに襲われるとき、トム・クルーズの姿が、車の汚れたウィンドーガラスごしに見える瞬間がある。
 その車のウィンドーが大きな意味を持つ。それに、車の助手席側にカメラがあり、その助手席のガラスごしに彼のアクションが見えることもある。
 これに最も共鳴関係のあるショットといえば、ある人物が持っているビデオカメラが落ち、そのカメラに映っている映像を通して、殺戮が見えるということ。これは非常に映画作家的な発想である。
 
 さらに、フリーウェイを突っ走って逃走するクルーズ親子の、いったいどう撮っているのか、まったくわからない特筆すべきショット。
 このシーンでのクライマックスは、兄が妹に自分を守るポーズをとらせるところだ。彼女を落ち着かせるための、「お前は自分の空間にいるから大丈夫」という方法。
 このアクション自体が、「映画」そのものについて、多くのことを反響している。
 スピルバーグが観客というものを意識せぬ作家なら、これはほとんど意味のないポーズだ。
 けれど、これはあの10数分の途轍もない殺戮について、クルーズの息子が、私たち観客に対して、「あなたたちは映画館にいる。あなたたちは自分の空間にいるのだから、大丈夫だよ」と言っているかのように思える。
 つまりそれは、映画の中で何が起ころうとも、観客は絶対に安全だという、映画が持っている「契約」なのだ。

 そして、兄が妹にそのポーズをとらせるとき、カメラは車の中に入っている。この一連の長回しショットの中で、クルーズは常に窓越しに見えているのだが、ここだけはカメラが車の中に入って来て、彼らを直接見せている。
 すなわち、彼らを遮るガラスがない。
 観客自身は何があっても安心であるという、最も重要な映画における契約。そのことが、遮るもの=ガラスを通さぬことで、改めて提示されている。
 スピルバーグ自身は無意識のことにせよ、そうしたことを伝えようとしたのだと思う。

 おそらく、このことと関連性がある部分が、この映画の中に3回。窓ガラスに丸い穴があいており、「その穴から見る」というショットがあることだ。
 先述の車のショットでは、サミュエル・フラー的ともいえる、直接的な暴力性を除くことで、つまり窓ガラスをとりのぞく、ということで見せているのだろう。
 一方で、窓ガラスが割れるということが、人々の敵意を示す意味でも起こっている。

 1回目に窓ガラスが割れるのは、父と息子の間のキャッチボール。2人の関係で、互いの怒りが高まっったその最後で、窓ガラスが割れる。
 2度目は、フェリーに辿りついたところ。クルーズ一家の車が暴徒に囲まれて、そのうちの1人が車の窓を割る。
 そして3度目は、最もスピルバーグ的なショット。娘が宇宙人にさらわれ、地下室から出て来たクルーズがトラックに隠れ、しかしそのトラックがひっくり返され、その時に割れたトラックの窓の穴から、クルーズは娘がさらわれるのを見る。
 つまり、ガラスに開いた穴によって暴力というものが、結晶化されている。
クリックすると元のサイズで表示します
写真:『宇宙戦争』より。講義では触れられなかったが、「穴」は犠牲者のどてっ腹にもあくのである。写真リンク元

 ここでスピルバーグが、「映像」をどう考えているのか、が見えてくる。
 なぜなら、窓に開いた穴というのは、見る行為に対する暴力。映像が見せているものに対する暴力でもあるからだ。
 フリッツ・ラングもまた、見ることそのものが暴力であることを示した、ヒッチコックと並ぶ映画作家である。
 ラングはしばしば前に出た登場人物が、「見た」ことによって、罰せられる瞬間がある。ヒッチコックについていえば、もちろんそれは『裏窓』である。
 ラングもヒッチコックも、見えてしまうことが暴力である。
 そして、目撃者であるということは、そんなに無邪気なものでないんだとつきつけて、私たち観客をも批評する。

 『宇宙戦争』のトム・クルーズを、そのように見るとき、スピルバーグがものを見る、ということの考えを、最も純粋な形で見る。
 なぜなら穴は常に1つだけ。しかも、その穴は完全な円であること。トム・クルーズが娘がさらわれるのを目撃するとき、そのさらわれる様子と、トム・クルーズがさらわれるのを見ている様子が、切り返しでとらえられる。
 そのうえ、それをさらに強調するために、娘だけが、その時のエイリアンのターゲットになっている。
 それはあたかも、地球侵略そのものそのものが、彼女を誘拐するためであるかのようだ。しかも、その時彼女にだけスポットライトが当たっている。

 となると、宇宙人たちそのものが、「映画」のメタファーだ。何しろトライポッド、これはすなわち「三脚」であるわけなのだ。
 その上、移動式の車輪や対象を照らすライトまで備えている。
 この場面での娘は、窓ガラスの穴によって孤立が強調され、しかも三脚の上に乗った物のスポットライトによって、さらに孤立が際立つわけだ。

 もう1つ。エイリアン、すなわちこれを侵略者と考える場合、地球人側もまた侵略者であるということだ。
 それは、冒頭で子ども達2人が、トム・クルーズのところに週末だけやって来たことが明かされていることでわかる。この段階で、父と子どもの間は完全に切れているのだから、つまり互いが互いにとっての侵略者であるというわけだ。

 すなわちこの映画は、あらゆるところで、アメリカが行っている「テロへの戦争」になっている。その意味で重要なのは、父と息子の葛藤は、しばしば背後で軍隊が行動しているところで、行われていることだ。
 重要なのは、軍隊を目にした瞬間、息子がそれにあこがれて、「ゾンビ状態」になることだ。あきらかに軍事行為によって、催眠状態になっている。彼の目は完全にうつろになっていて、引き寄せられている。
 息子におけるこの状態は、2001年9月11日に、アメリカにおいてあまりにもたくさんの人がとり憑かれてしまった感情に、よく似ていはしまいか。

 すべての観客がそうとは言わないが、あのシーンではほとんどの観客が、トム・クルーズの方が正しいと思って見ているだろう。家族は一緒にいるべきで、息子が軍隊に入るのは間違いだという感情で見るはずだ。
 互いの感情が切れている。ここは、父子にとって、互いのエイリアン性が最も強調されているところだ。

 娘もそう。彼女は、いつも目を見開き、何かを見ている。
 特に彼女の瞳はブルーなので、そのことが特に際立つ。本来的に彼女は無邪気でかわいいキャラであるべきなのに、私にとってはどうにも不気味な存在に思える。
 70年代に作られたホラー映画に登場する悪魔の子どものような。たとえば『オーメン』。
 彼らはいつも、じっと見つめることによって、何かを起こす存在である。そして叫ぶ。この叫び声がとにかく不安をあおる。

 車のシーンでも、彼女が叫ぶのを必至にやめさせようというトム・クルーズ。
 この叫びは、アベル・フェラーラ版の『ボディスナッチャー』でのように、とても不安をかきたてる。そして、その叫びはヒステリー性を帯びている。
 彼女への不安感から、不意にトム・クルーズと宇宙人たちとの、近親性がかすかにほのめかされ、ここはロビーと軍隊という関係にも重ねられる。
 こうして映画的なイメージによって家族は引き離され、「映像」というものに呑み込まれてしまうのだ。

 また、この映画が原作と違う設定。つまり、宇宙人たちはもともと太古より地球の地下に隠れていたということ。
 これには、隠されていた未知のフィルムが発見された、というイメージもダブる。

 最初の攻撃。トライポッド=三脚 が登場して、スピルバーグは教会が破壊されるのを、丁寧に撮っている。
 教会が正面を破壊され、その教会らしさが失われた時、「三脚」が登場するのだ。
 ここでは同じような家が並んでおり、それが似たようなフェンスで仕切られている。その区切りのパターンが、背後にある橋にも繰り返されている。
 あたかも、あの橋の下で暮らすこと自体が悪夢のようで、しかしみんなそれに慣れているので、いまさら破壊しようとも思わぬ環境だ。
 これはつまり、宇宙人たちの攻撃によって表出することの恐怖は、あらかじめ、私たちの前に予告されていたかのようだ。
  そのことは逆光が多用されていることでも、強調されている。
クリックすると元のサイズで表示します
写真:『宇宙戦争』より。さすがにこれを「カメラを据えた三脚」と連想する発想はなかった!〜そして逆光! 画像リンク元
 すなわちこの映画の中で、スピルバーグが讃えようとする「家族」というもののあり方を、逆に否定するかのように、ここでは見せている。
 『宇宙戦争』を見ながら、私たちは、映画の中の人物には見えないものも、見ることができる。それは、私たちの中の不安感といったものが、エイリアンの攻撃によって露わにされることでもある。

 私自身は『宇宙戦争』を、『太陽の帝国』と並んで、スピルバーグの最高傑作と思う。この2つはとても似ている。
 大群衆をどう見せるか、破壊し尽くされたあとの様子とは。
 「子ども」というものが、単に純粋で、人々が共感すべきものでないものとして見せているということ。

 しかし『宇宙戦争』は、『太陽の帝国』以上に「映像」というものの持つ暴力性。そして、そうした映像を必要としてしまう、私たちの欲求性というものを示してやまない。
 このことは、トム・クルーズの息子のセリフに表されているだろう。
 「ぼくはあそこに行って、見なければならないんだ」
 私たちも考えさせられるでしょう。なぜ、ここにいて、この映画を見ているのか、ということを。
 以上。
****

 この後、質疑応答がいくつかあったが、あえて印すほどのものでもないので省略。
ただし、私も挙手して1つ質問をした。これはおそらく、昨今のスピルバーグを考える中で、何とか言葉にしなければならないと考えている、私の大テーマでもある。
その質疑は以下である。

【質問】
「スピルバーグ初期の、いわゆる友好的な宇宙人。それから、『宇宙戦争』での破壊的な宇宙人。この間には、何らかの断絶があるはずです。もちろんそこには、911があるわけですが、そのこととは別に、技法の点でスピルバーグの変容として、考えられる点はあるでしょうか」

【回答】
「私がスピルバーグについて関心を持ち始めたのは、この10年くらいのことで…。『マイノリティ・リポート』ぐらいから、『A.I.』もですが、そのくらいでしょうか。
 技法上のことは、すぐに答えられませんが、明らかにスピルバーグは以前に比べて思慮深くなったと言えると思います。
 それから、おそらく『未知との遭遇』や『E.T.』を作った人間として、スピルバーグ自身の中にも、今自分が正反対の映画を作ろうとしている、という意識ぐらいはあったでしょう。
 けれど、私が気に入っているのは、スピルバーグがそのことをあまり過剰に意識し、エクスキュースに走ることなく、きわめてナチュラルに自然体で撮りおおせている、ということでした」

2010/2/18

東京国立博物館「国宝 土偶展」  美術

 書きそびれていたが、柄にもなく先日の日曜に、東京国立博物館の「国宝 土偶展」を見物に行く。
 実は私が見たかったわけでなく、下の息子(小3)が突然「どうしても見に行きたい」と言い出したので、「ほう?」と思いつつ、連れて行ったのだった。

 こいつ何でまた「土偶」に興味を持ったのだろうと思ったが、よくよく話をまとめると、学校の図書館に展覧会チラシがおいてあったのと、いわゆる“遮光器土偶”が、古代に日本に来た宇宙人を模したもの、という説を真に受けたことがきっかけだった。 
 きっかけはともあれ、おおいにけっこう。上野までくりだす。
クリックすると元のサイズで表示します写真:「遮光器土偶」(前1000〜前400) 言われてみると確かにカッコいい。特に左足がないのが悪くない。スケールが違いすぎるとはいえ、「ミロのビーナス」の腕がなかったり、「サモトラケのニケ」に頭や腕がないのにも似た、格調を感じさせられる。
 すると、「土偶展」がまさかの大混雑で驚く。混んでない展覧会というのは、この世にないのか。しかし子どもは目を輝かせて展示室に突撃する。

 彼はなんと、自作の「どぐうノート」を早起きして作り、“やる気まんまん”だった。で、最初の展示品である「仮面土偶」に恍惚としながら、スケッチしてメモをとり始める。
 と、間もなく私の逆鱗にふれることになるのが、展示室の係員だった。
 せっせとメモする子どもに対して、こんなことを言う。
「とっても混んでるから、立ち止まらないでどんどん先に進んでね」

 混んでいるのはわかる。どんどん客を流したいのもわかる。もちろん迷惑かける気もない。しかし、やっぱり心なさすぎないか?
 身長110cmそこそこのチビが、目の前に立ちふさがる大人たちの向こうにわずかに見える土偶を、跳ねたり身をよじらせたりして、何とか視界に入れようと努力しているのだ。
 で、鉛筆で「前から」とか「横から」とか、2方向からの姿をスケッチしつつ、「とくちょう:でべそ」とか「とくちょう2:手がぐるぐる」とか、自分なりに解釈を加えて頑張っているのだが、そこを「立ち止まるな」はひどいんじゃないか。

 「ええっ?」という顔をする子どもだが、私は「かまわない。お前はケースからかなり離れて描いているし、誰の邪魔にもなってない。気が済むまでやっていい」と安心させる。
 実際、彼は展示ケースから2メートルは離れているのだ。だって大人たちがたくさんいて、とても近づけないから。私もそこを押しのけて、自分の子のために場所をあけさせるほど身勝手な振る舞いは、厳に慎んだつもりだ。
クリックすると元のサイズで表示します写真:「仮面土偶」(前2000〜前1000)なるほど確かにカッコいい。そしてこの足のシルエット、どこかで見たことあると思ったら、「ガンダム」のモビルスーツ「ドム」じゃないか。
 そうやって、1つ1つ土偶を見ては、せっせと「どぐうノート」のページを埋めるうちの子だが、その間もその係員はちらちら、こちらの様子をうかがっている気配である。
 それから20分ほどしてだろうか、たまりかねたか(しかし何に?)また係員は子どものところに来て、「なるべく早くすませるようにしてね」と言う。
 「ずいぶん配慮しているつもりで、私も注意してケースからはかなり離させているし、他の方の妨げにはなってないのではないでしょうか?」と、今度は私も反論する。
 すると、「他にじっくりご覧になりたい方との不公平になりますので」と。

 言うことがよくわからない。小学生のチビが、懸命に自分なりの「どぐう」研究に励み、私も付き添いとして慎重に気を配った作業の、何がどう不公平か。

 さすがに3度目の注意はないまま、2時間以上もたった頃だろうか。展示室の年配のお客さんたち(ほとんどが年配者だ)の間に、何となく奇妙な空気が流れ始めた。
「さっきからすごく熱心に勉強している、小さな子どもが1人いる」
 ずいぶん前から、特に年配の女性とかが、「ボク、じょうずに描くのねぇ」と次々に彼に声をかけ、人によっては頭をなでていく方もいて、本人もそこそこ鼻が高かったようだ。

 思った以上に彼は目立っていたのかも。展示は1室だけで、とても狭かったのだ。
 そのせいか、ある頃を境に、「この子にじっくりと、思う存分に見せてあげようじゃぁないか」といった、連帯感のようなものが、観客たちの間に芽生えた。
 イメージ的には、加藤泰の映画に出てくる晩年の嵐寛寿郎のような。やはりお年寄りは、「土偶」を見物するような子どもを好むのだ。

 さらに驚いたことには、何名かの男性のお年寄りが、アイコンタクトで連携して、「その子、今度はそっちへ行ったぞ!」といった合図を送り、送られた側は「OK!」とばかりに、少しスペースを空け、うちの子がノートしやすいよう、ガードさえ始めてくれる。
 うちの子はもちろん、そんなこととは露知らず、何だか見やすくなってきたなぁ、という程度にしか感じていなかったはずだ。

 では、なぜ私がそれをわかったかというと、その頃はさすがにくたびれて、休憩の椅子に腰掛けながら、子どもが迷惑にならぬよう、全体を見ていたからなのだ。そんな様子に、親としての私はお礼を言ったものかどうしたものか、どぎまぎするばかりだ。
 だからそんな会場の様子に、私としては心の中で手を合わせるのみである。


 けれど、博物館の監視員の態度については、彼女の立場は理解こそするけれど、もっとおおらかな作品鑑賞の場をなぜ作れないかと思う。
 1973年のモナリザ展以来、「立ち止まらずにご覧ください」というのは、日本の展覧会の伝統だが、しかし作品を見に来て「いつまでも見ているな」と注意するってなんだよ、まして楽しみに上野まで来て、がんばって自主研究している子どもにまで、と心から思う。

 そんな気分の中、思いがけず巻き起こった、子ども擁護のお年寄りたちの連携プレイ(?)は、ちょっとした奇跡を見る思いだった。

 そんな中、実に3時間半。全67体の展示土偶をすべてスケッチして、完全に研究しきった! 私でさえ、3時間以上も展覧会を見回ったことなど1度もない。
 子どもの土偶熱がそういつまでも続くとは思えないが、これはかなり大したものだ。

2010/2/16

四方田犬彦『子供は悪いのが好き』  

四方田犬彦『子供は悪いのが好き スクリーンの中の幼年時代』(光村図書)読了
 ほとんど毎月出ているような気がする四方田本だが、こちらは楽しく読む。映画の中の「子ども」に焦点を当てた短文を集めたエッセイ集。

 この本で著者は、アメリカ合衆国に根深く残る、カソリック的な父権的なものを、どのように扱うかということを、子供が登場する映画、たとえば『エクソシスト』、『狩人の夜』などの中に見出す。
 このあたりは、専攻が宗教学であった著者の独壇場だが、私としては『サウンド・オブ・ミュージック』について、次のように書かれることに、やはり抵抗はある。
「ヒトラー総統の率いる国家社会主義の脅威からは逃げおおせることができたかもしれない。だがその代償として、より強力な形で「エーデルワイス」を高唱する権威主義的な父親のもとに服従を余儀なくされ、家族という抑圧装置のなかに完璧に組み込まれてしまったのだ。」(P.87)

 だから、「このフィルムには許せないところがある」というのだが、それを違うと断定はしかねるものの、しかし映画後半からのトラップ大佐は、必ずしも「権威主義的」だったろうか、あの映画の結末は「抑圧装置」のなかに組み込まれた結果だろうか、と思ったりもする(マリアは確かに、ただの主婦に成り下がった気はする。それは認める)。
 長くなりそうだから、この議論はやめておく。しかし、知恵のある正しい大人の、分別ある振る舞いというものを、かつてある種の映画は確かに描いており、それにつき従うことで、子どもは確実な道徳観念を養ってきた、という時代はあるはずなのだ。
(今、ふと私の脳裏にはオットー・プレミンジャー『帰らざる河』や、クラレンス・ブラウン『小鹿物語』が浮かんでいる。無論、どちらの作品も本書で扱われていない。)

 だから、そっちの方向である種の映画を批判することに、私は本能的な抵抗感がある。
 無論、私のような人間の意気を粗相させるために、著者は「ヒチコック(ママ)はこの作品を観て、これは映画が一番やってはいけないことだと激怒した」(P.86)と、反論しようのない人物の名前を出して、抜け目なく論を補強するのだが。

 そんなことより、個人的に一番読み応えがあったのは、ゴダール『パート2』について、書かれた内容だった。
 「なるほどこれは確かに家族を描いたフィルムである。だがより厳密にいうならば、それは家族の内側に隠されていて、けっして外部に現れでることのない政治について語ったフィルムなのだ。」(P.184)
 そういうことだったか、と深く納得する。長々と不平めいたことも述べたが、全体を通して得られる知見からすれば、ほんの細部のことである。面白い本だった。

2010/2/15

『サベイランス』、『フローズン・リバー』、『Dr.パルナサスの鏡』  映画

土曜日の続き。こっちは簡単に。
ジェニファー・リンチ『サベイランス』
 辺鄙な田舎町の惨殺事件捜査に、FBI捜査官がやってくる。彼らを煙たがる地元の保守的な保安官たち。何となく父親の『ツイン・ピークス』の記憶を軽く刺激する出だしである。
 惨殺事件で生き残った、悪徳保安官とヤク中の若い女性と、少女。彼らの証言を再現しながら、リンチ家血統書付の異常世界が描かれる。

 きつい色彩処理や編集のタイミング、情け容赦のない展開は、娘じゃなくて父親の作品だと言われても驚かない。それほど似てる。
 けれど、弱点というより、この娘がもっと父に近づくために、精進が必要だとしたら、幽鬼立つような美女の存在だろうか。ナオミ・ワッツやイザベラ・ロッセリーニみたいな。美女とは言い難いが、ローラ・ダーンとか。

 ジュリア・オーモンドは個人的にかなり劣情を掻き立てられる女優で、その意味ではナイス・キャスティングなのだが、ちょっと歳をとりすぎ。そして、その老けっぷりを隠そうとしない撮り方は、監督として(この映画の場合)少しまずいと思う。
 けれど荒野にごうごうと吹く風が、そこに立つ人物の髪をかき乱すショットに、心みだれた。

コートニー・ハント『フローズン・リバー』
 サンダンス・グランプリ。凍てついた川は、不法移民を取り締まる国境監視官の目を逃れるための、穴場になっている。というのは、その川へはネイティブ・アメリカン居留地を抜けていくからだ。それを利用し、やむにやまれぬ事情で、密入国の手助けに手を染める白人とモホーク族の女性2人。

 ジョー・ライト『扉をたたく人』のように、テーマ的に大きな広がりはない。けれど、舞台となる空間が狭ければ狭いなりの、合衆国の末端に生きる人々の生活難と差別観のありようを、エピソードの断片が少しずつ詳らかにしていき、これもまた現代アメリカの一断面を見せる。

 ここでは捜査官たちも、職務には忠実で、しかも市民の“事情”をよくわかっている。そして、作者はそこにかすかな救いを見てもいるように思う。というのは、彼らもまた市民の末端のひとりだからだ。
 アメリカ映画の“ある種の傾向”として、必見と思う。

テリー・ギリアム『Dr.パルナサスの鏡』
 テリー・ギリアムの物乞いに対する執着ってなんなんだ、と心のどこかで思うが、そんなことどうでもよく、面倒くさくなって、ジョニー・デップが出てきて腹が立つ前に劇場脱出。これを2時間以上も見ているほど暇ではない。
 自分の妄想を描くために、実際に“想像”の世界を舞台に設定するって、どこかズルい気がする。この企画を通して完成させただけでも、偉いとは思うけれど…。

2010/2/13

『バレンタイン・デー』  映画

ゲイリー・マーシャル『バレンタイン・デー』
 物ごころついて、もうけっこうな歳月になるのに、この映画を見るまで知らなかった。
 恋する男女が唇と唇を重ねると、真横から見る2人の頭は、ちょうどハートの形になるなんて。
 これはたぶん、作り手の意図した効果ではないのではないかと思う。けれど、結果としてこんな“発見”をさせられてしまうのは、ゲイリー・マーシャルがそれだけロマンチックな空気感を、画面の中に漂わせることに成功しているからのはずだ。

 ではそんな空気感がどうして生み出せるのか。カギとしてはたった1つ。
 この映画には、エキストラを含むたくさんの人が画面にあふれている、ということ。 昨今滅多にない、ロサンゼルスを舞台にしたアメリカ映画、『バレンタイン・デー』は、モールや学校、レストランにオフィス、空港と、さまざまな場面で人口密度の高い画面を作っていて、たくさんいる人の中から、選り抜いて“この2人”という画面の凝縮度にベテラン監督ならではの味わいがある。
クリックすると元のサイズで表示します
写真:『バレンタイン・デー』より。おおぜいの中のたった“この2人”。アン・ハサウェイと相手役。見合わされる顔。
 しかしこの映画、ジェシカ・アルバ、ジェニファー・ガーナー、ジェシカ・ビール、そしてアン・ハサウェイと、いずれ劣らぬ美貌・美乳・巨乳・美脚の垂涎ものの美女たちが次々と登場し、何たる贅沢なキャスティング。
 ジュリア・ロバーツも出てくるし、しかし何より上の4美女たちに増してかわいかったのがエマ・ロバーツ、何とジュリアの姪(エリックの娘)なのだった。
クリックすると元のサイズで表示します
写真:エマ・ロバーツ。ちょっと常軌を逸した美女度である。
 また、先日グラミーでベストアルバム賞を獲得したテイラー・スウィフトも、魅力いっぱいに登場し、これはアルバムも即聴かねばと決意させられた。

 女優のことばかり書いたが、男優人を含むたくさんの俳優たちが、この映画ではとても親密ないい感じで顔と顔を見合わせ、語る。そしてついに、ハートのシルエットを形作る。
 バレンタイン・デーの、朝起きてから就寝までのLAの一日。各人すべてに見事なオチを用意して、アメリカ映画を見る快楽を噛みしめる。ベテラン監督の面目躍如。
クリックすると元のサイズで表示します
写真:『バレンタイン・デー』より。いい感じで見あわされる顔と顔。ジェニファー・ガーナーと相手役。しかし私たちは、こんな笑顔を見るためにせっせとアメリカ映画を見てるのではないだろうか。
 ちなみにエンドクレジットのNG集は必見。特にジュリア・ロバーツが信じられぬ問題発言をやってのける。



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ