2010/4/30

『ウルフマン』、『タイタンの戦い』、『アリス・イン・ワンダーランド』  映画

 ジョー・ジョンストン『ウルフマン』
 あれこれ辻褄が合わない物語だったりもするのだけど、画がやたらにいい。そして、エミリー・ブラントがものすごくいい。彼女の薄幸そうな顔で、目にいっぱいに涙をためて見つめられたら、これだけで映画は勝つ。
 問題は、そんなかけがえのない顔をしっかり撮れたのに、そのエモーションをうまく引っ張れなかったことなのだ。
 
力作だと思う。今かかっている、シネコン系の映画で見るべき作品は何かと言われたら、まあこれだろう。エミリー・ブラントは、彼女のベスト・パフォーマンスと思った。
 でも、もうあと一頑張りしてほしかった! と身勝手な観客としては思うのだった。

 ルイ・レテリエ『タイタンの戦い』
 どこかで聞いた監督だと思ったら、エドワード・ノートン版『インクレディブル・ハルク』の人だった。
 この映画の笑いどころは、リアム・ニーソンがゼウスで、レイフ・ファインズがハデスという、『シンドラーのリスト』コンビが、困った神々の兄弟を演じていること。
 
 だけど、この映画が好きになれないのは、あらゆるアクションを、ぐらぐらカメラと、0秒以下のカットの編集とで、何が起こっているかわからなくしてしまっているからだ。きっと出演者たちは、ものすごく苦労して演じているだろうに、その苦労がまったく伝わらないどころか、単に手抜きに見える。『ボーン・アルティメイタム』状態だ。
 よほど途中で出ようと思ったが、『アバター』サム・ワーシントン君の主演では見届ける他ない。最後までがんばる。
 が、どこをクライマックスにするかを完全に誤っていて、さらに残念な結果に。

 ティム・バートン『アリス・イン・ワンダーランド』
 アリス役のミア・ワシコウスカがあまりにかわいくて、最初の10分くらいはかなりノっていた。
彼女がウサギを追いかけて走るシーンの幸福感ときたら、これは初めてティム・バートンの映画を最後まで見れるかもしれない! と胸が躍りさえした。ダニー・エルフマンは、本当に楽想に乏しい作曲家なので、この名場面に完全に音楽をつけ損ねているとはいえ。

 しかしそんな幸福感も、ジョニーなんとかという俳優が出て来た瞬間、かき消えた。
 この愚鈍で、個性を欠いた俳優が出て来た途端、画面から一気に生命力が失われ、映画は停滞し、スクリーンの輝きは完全に消滅した。
 そこから先の退屈さは尋常でなく、ミア・ワシコウスカ以外の出演者の下品さと、薄汚い画面の醜悪さは眼を覆う他なく、アン・ハサウェイが出てくるまでは耐えようと努力したが、彼女ですら訳のわからない扮装で出て来た瞬間、私の中の何かがブチ切れた。
 40分少々で劇場脱出。金返せと言いたくなるが、そもそも払った私が悪い。

2010/4/28

『ノン、あるいは支配の空しい栄光』、『ソラニン』  映画

マノエル・デ・オリヴェイラ『ノン、あるいは支配の空しい栄光』
 映画の冒頭、一本の巨木を低い位置からじっと見つめる、とんでもなく息の長いショットに感動しない人は、まずいなかろう。
 あの長さは、ドヴォルザーク交響曲8番の終楽章をまるまる撮ってしまった、『夜顔』の冒頭にも通じるように思う。

 そして、その沈黙の長回しが終わって、画面こちら側に向かって、兵士たちを乗せたジープが走ってくるとき、画面は大きく転調するのに、まったく変わらぬ音楽が響き続き、ここから果てるともない会話劇がはじまる。

 この映画を見て改めて思うことは、交戦中以外、基本的に戦争はやることがない、ということだ。
 だから、だらだらと、果てることなくしゃべり続ける。『地獄の黙示録』でも『プライベート・ライアン』でも、彼らが休むことなく、だべっていることを思い出してもいい。
 また、シルヴェスター・スタローン演じる、ランボーという人物が、いつもむっつりと寡黙なイメージなのに、実はけっこうなおしゃべりであることも。

 オリヴェイラの『ノン、あるいは支配の空しい栄光』の価値を、真っ当に語り始めたらキリがないが、兵士の能弁さ、そして歴史というのは、語られて伝わるものであるという、これはまた1つの人類の真理なのだと思う。
 そして、この映画が無限のおしゃべりで成り立っていることは、『永遠の語らい』全編が歴史を語る母娘、および船長と乗客たちのおしゃべりであったことに、連結する。
 そして、『永遠の語らい』がつまるところ、戦争映画であったことにも。

三木孝浩『ソラニン』
 当面、とりあえず食うには困らず、気心知れた仲間たちがいる他、セックスにも困らぬ生活を送りながら、将来が心配だもへったくれもない。単に勉強と努力と現状認識力が足りないだけだ。
 この程度がいまどきの若者たちの悩みかと思うと、ほとほとあきれ果てるし、万一こんなものが昨今の若者の気持ちを、ヴィヴィッドに代弁しているのだとしたら、現東京都知事の数々の言語道断な暴言も、あながち笑いごとじゃなくなってくる。
 しかし、それはまあ映画ではなく、原作コミックのせいだから、捨ておこう。

 宮崎あおいは天才以上の、神様みたいに奇跡的な何かだから、この人のことはまったく心配していなかった。
 だから、彼女が歌い出す瞬間、そして歌い終わった後の燃え尽きた感が、がっちりと画面に撮れるかどうか、それがこの映画のポイントだと見定めた。それさえあれば、入場料はまったく惜しくないと。
 結論は……言わせないでほしい。

2010/4/27

『シャッター アイランド』、『第9地区』  映画

マーティン・スコセッシ『シャッター アイランド』
 マーラー、リゲティ、グラス、ペンデレツキと、見事にユダヤ人作曲家ばかりをずらり並べてサントラを彩った、『シャッター アイランド』の音楽。
 しかし、マーラーのピアノ四重奏をナチ将校が聴くという、グロテスクな設定。しかもそれを、確かに似ているとはいえ、ドイツ人作曲家ブラームスの曲と取り違える、ディカプリオの相棒マーク・ラファロ。
 クラシック音楽の愛好家でも、よほどのマニアでないと、存在も知られていない、この超レア曲が、ディカプリオ演じる刑事の記憶をゆっくりと蝕んでいく。

 その記憶の中で、ディカプリオがその一員である米国人兵士が、ダッハウの収容所を開放する時、ふとしたはずみで大量のドイツ兵たちを、全員根こそぎ銃殺する。
 鉄条網を背に、横に乱雑に並んだドイツ兵が次々撃ち殺されていく、無情にして冷徹な長い長い横移動。この1カットを見れただけで、『シャッター アイランド』は最高だと言いたくなるが、それだけではない。
(ただし、あの銃殺シーンは混乱の極みで起こったように見えて、実はカメラの動きに沿って、秩序正しく発泡されているのである。米山俊哉氏・談)

 抱きしめたら、それが腕の中で崩れ落ちていくというイメージ。「死」と「消滅」に埋め尽くされたこの映画の中で、生きている(と思われる)者に一切の実質はなく、そこにリアルな実体(体重と言い変えてもいい)を伴うのは、死体そのものなのだ。
 この映画の死体に、“ごとり”とした実体感を感じたとき、うならずにいられない。
 死体だけは決してなくならず、そこに在る。であるならば、生きている自分は何だ。

 スコセッシのディカプリオ4部作は、いずれも自分を失う人物を描いている。ディカプリオ自身も、『タイタニック』の「光線のような存在」(byジェームズ・キャメロン)以後、執念にも近い頑固さで、過剰なストレスの中で自分を忘れる役ばかり選び続けている。
 スコセッシ自身も、いったいどんな映画を作りたいと、この人は思っているのか、どんどんわからなくなりつつある映画作家だ。
 マーラーの超マイナーな楽曲が、ナチ将校の部屋で流れるのに似た、変にねじれたスコセッシとディカプリオの、そのねじれの頂点がこの『シャッター アイランド』かと思った。

ニール・ブロンカンプ『第9地区』
 主人公に関わってくる“宇宙人”だけが、赤い布の衣服らしきものを身につけているうえ、子どもまでいるという設定にこそ、ステレオタイプな人種偏見の芽が隠れている気が、しないでもない。あれ? という展開も、ところどころある。

 けれど、何も気取らず、タブー抜きで全部見せたことで、80年代の衝撃作バーホーヴェン『ロボコップ』もクローネンバーグ『ザ・フライ』も、私の中でようやく遠景に消えた。
 だが、それでもまだ『スターシップ・トゥルーパーズ』に天文学的に及ばないのは、『第9地区』がアカデミー賞にノミネートされてしまうような、スキがあるからに他ならない。
 つまり、まだまだその程度にはお上品なのだ。

 なぜさしたる根拠もなく、ここで『スターシップ・トゥルーパーズ』を引き合いに出すという、凡庸な振る舞いに及んだかというと、ポール・バーホーヴェンのあの奇跡の傑作が、なかったことにされたら、たまらないからだ。
 “エビ”のような宇宙人と、それを排除する地球人。この設定からも、『第9地区』の南アフリカ生まれの新鋭監督ニール・ブロンカンプが、バーホーヴェンを参照していることは、まず間違いなく、『第9地区』が最もバーホーヴェン的ユーモアに近づいたのは、映画冒頭の「人々がとまどったのは、宇宙人がやって来たのが、ニューヨークでもワシントンでもシカゴでもなく、南アフリカだったことだった」という内容のナレーションだった。
 ここは大笑いするべきところだろう。でも、この程度ではまだ足りない。

 プロンカンプはいい筋を持っていると思う。馬鹿馬鹿しさを恐れていないところも、バーホーヴェンに近い資質だ。この映画の成功で、大予算を使えるようになるだろう次回作が、かなり楽しみだ。くれぐれも守りに入らないでほしいと思う(その可能性があるような予感があるだけに。たとえばダーレン・アロノフスキーみたいに)。

2010/4/26

『フェーズ6』、『月に囚われた男』  映画

アレックス&デヴィッド・パストー『フェーズ6』
 スペイン生まれの若い監督兄弟のデビュー作。スタッフに大物としては、編集にクレイグ・マッケイがつく。ジョナサン・デミ専属の編集者で、ウォーレン・ビーティ『レッズ』もやった人物である。

 主演は新カーク船長のクリス・パイン、『サム・サッカー』の指しゃぶりの男の子ルー・テイラー・プッチに、『コヨーテ・アグリー』パイパー・ペラーポ。でもそれより、胸もずっと大きくてかわいいのが、エミリー・ヴァンキャンプ。何ともほどほどのキャスティングだ。

 100%致死性のウィルスが蔓延。例によって人類は滅亡間近。2人の兄弟とその恋人たちの4人の男女が、子どもの時に過ごしたというビーチに、とりあえず向かう。
 そこは無人だからウィルスも来ない。だから、しばらくそこに潜伏しようというわけだ。

 脚本にあまり深く思索した痕跡が見られないので、ロードムービーにはなり損ねている。ときどき大きな音を出せば、怖かろうという演出も、いささか観客をなめている。
 けれど、なかなか面白く見れたのは、この映画が同伴者を「見捨てる」ということを始めたからだ。

 アメリカ映画というのは元来、何が起こっても随行者を見捨てることはない。西部劇から戦争映画まで、「見捨てない」というのは、アメリカ映画の倫理だったはずだ。
 ジョン・カーペンター『ゴースト・オブ・マーズ』みたいな映画さえ、人間同士、身捨てることはないわけで、仮に見捨てるハメになっても、深く深く落ち込むことになっている。

 しかしこの映画では、見捨ててしまう。大局的に考えて、こいつを残せないとなったら、切る。企業リストラと一緒である。現実はどうあれ、映画の中でさえ、大を生かすために小を殺すとなると、合衆国いよいよヤバいのではないか。
 その兆しはもちろん、『宇宙戦争』にも微かにあったわけだけど、『フェーズ6』はそうした葛藤がまったくないところが、逆に怖い。
 ちっぽけな映画にすぎないが、アメリカ映画の倫理がぐらりと揺れる、転機の作品であるような気が、微かにする。

ダンカン・ジョーンズ『月に囚われた男』
 宇宙飛行士の歌でデビューした歌手の、息子の映画デビュー作は、やはり宇宙飛行士の映画だった。
 月面での孤独な仕事に3年従事し、あと数週間で地球に帰れるというところで、あれこれ起きて、帰るに帰れなくなる物語。

 月面での話し相手は人工知能コンピューターだけ。名前はガーティ。『E.T.』のドリュー・バリモアの役名をつけるところが憎いが、しかし声の出演はケヴィン・スペイシーという、困った配役である。
(ただしスペルは違う。ドリュー・バリモアの方はGertieで、こっちはGerty)

 目を覚ます。そのとき、自分を取り巻くすべてが一変している。明らかにフィリップ・K・ディックを意識したと思しきこの映画は、当然、シミュラクラの物語である。まがいもの(?)の自分が次々に登場する。

 同じ自分を演じる何人ものサム・ロックウェルを、どのようにフレームに収めるか、カメラはあの手この手で工夫をこらす。時には合成。時にはスタントダブル。時には切り返し。
 同じ自分と自分が目線を交わすという、実にスリリングな画面の連鎖で、この丁寧な作業にとても感動する。手間暇惜しんでいない。

2010/4/24

村上春樹『1Q84 BOOK3』  

 村上春樹『1Q84 BOOK3』(新潮社)読了
 アンドレイ・タルコフスキーが、『惑星ソラリス』冒頭近くに、首都高を未来の道路に見立ててそのまま登場させて以来、首都高というのはどこか別次元の空気感があるようだ。
 そして、その首都高をめぐる冒険は、『1Q84』で3回出てくるのだが、言うまでもなくBOOK1、2、3それぞれにおいてである。
 
 『惑星ソラリス』も果てしなく長く感じられる映画だが(165分)、『1Q84』も長い長い物語だ。そして、同じように「愛」のあるべき姿―幼年時代含めて、ついには溶け合い1つになる―を模索する。
 『1Q84』の登場人物は、誰1人として同性の友人を持つ者がいない。ヒロインの青豆はそうでもないが、彼女と親しくなる同性の友人は、いずれもBOOK1と2の中で排除されている。
 そう考えると、自分以外の「他者」を求める人物は、『1Q84』の物語の中で天悟と青豆、ただ2人だけなのだ。
 
 事実上、誰もが監禁、または足止めを喰らっている、BOOK3の物語は、驚くほど運動量に乏しい。ベルクソンのタイトルになぞらえれば、彼らの「精神のエネルギー」だけが書かれてある(今、ほとんど思いつきで「精神のエネルギー」と書いたが、神秘主義に傾倒しつつあった晩年ベルクソンの、この書物のオカルト的側面は意外と『1Q84』に馴染むものがありそうだ)。
 それでも、BOOK3がページを繰るのが惜しいほど(けれど熟読を促すので、一向に進まない)、先へ先へという疾走感に満ちているのは、それが来るべき(はずの)出会いへと向けて、私たちの心が常に急きたてられるからだろう。

 読者としては、それを願ってやまない「出会い」へと急きたてられる物語。それを「メロドラマ」と呼ぶはずだが、メロドラマなら、登場人物たちはもっともっと、互いを求めてさまよう。
 けれど、BOOK1と2の展開の中で、見事に彼らの移動を禁じてしまったために、流浪がない。これは『海辺のカフカ』の移動の大きさから考えると、この足止め状態の中で、いかに彼らを会わせるか(会わせないか)、という事こそ村上春樹の課題だったかもしれない。
 
 「もし彼に会えたとして、滑り台の上でいったい何をするんだ?」
 「二人で月を見るの」
 「とてもロマンチックだ」

 とにかく、こんな感覚が私の心を張り裂けそうなくらいに、つかんでやまない。
 それこそ、『ノルウェイの森』以来の「100%の恋愛小説」である。

2010/4/18

「アラン・レネ全作品上映」最終回  映画

「アラン・レネ全作品上映」最終戦。於 日仏学院

『恋するシャンソン』(1997/120min/35mm)
『死に至る愛』(1984/92min/35mm)
『キューバのエステバン・ゴンザレス・ゴンザレスのために』(1991/3min/ベータカム)
『想像上の肖像』(1982/11min/ベータカム)
『ギィ・ペラートとアラン・レネ:ガーシュウィンを巡る出会い』(1991/19min/ベータカム)
『ガーシュウィン』(1992/52min/ベータカム)

 日本国内には、十分に紹介されてこなかったレネ作品だが、「久々の最新作」として『恋するシャンソン』が1998年に一般公開されたとき、私を含めかなりの観客が当惑したものと記憶する。
 厳しく難解なレネの一般的なイメージとこの作品が、かけ離れていたからだ。

 とはいえ、各登場人物たちが、既存のシャンソンからフレンチ・ポップまでを、口パクで歌うふりをする。しかも、意地悪いことに各曲をワンコーラス歌いきるのでなく、サンプリングとでもいうのか、フレーズの断片だけを披露するのである。
 こうした特異な手法が、アラン・レネらしいといえば言えそうだ。
 そして、このやり方がフランス人観客に与える効果というのは、どんなものだろうか、と想像してみる。

 音楽の好みは個人差があろうが、たとえば“Like A Rolling Stone”、“It's Too Late”、“Hotel California”、“The Stranger”、“Billy Jean”、“Hungry Heart”、“Private Eyes”、“All Night Long”・・・キリがないので、この辺にするが、こうした曲が、『恋するシャンソン』と同じ方法で映画に使われたなら。
 きっと、自分自身の過去=歴史を頭の中で引っ掻き回され、落ち着きを失いかねぬ事態になるのではないか。
 この映画に使われた楽曲にもっと親しい、フランス人観客たちは、たぶん大きく感情を振りまわされたのではないだろうか。
 
 そうした意味では、同じミュージカルの形式をとるとはいえ、次回作『巴里の恋愛協奏曲』とは、音楽に対する考え方が、まったく違う。
 この映画は音楽を使って、観客の過去の記憶を攪拌しにかかるのだ。

 過去ということでいうと、この映画の冒頭は、パリの観光名所のガイドに従事する、アニエス・ジャウィの登場で始まる。彼女の仕事は、観光客に対してパリの名所・名跡の過去をほじくり返す語り部だというわけだ。
 
 そんな彼女がひと仕事終え、その帰路にばったり会うのが、ジャン=ピエール・バクリなのだが、互いに相手の名前をにわかに思い出せないところが、念が入っている。
 そこで二人は、彼の友人であり彼女の実姉であるサビーヌ・アゼマという、共通の「きっかけ」を通すことで、何とか互いを思い出す。
 こうして、何らかが媒介となって記憶を刺激するというのが、この映画を貫く主題となるだろう。この映画ではサビーヌ・アゼマが、不動産仲介業をしていることから、後の『六つの心』と期せずして連携するが、ここでも六つの心がさまざまに動いていく。
 
 『六つの心』との大きな違いは、パリという都市をまるごと視界に入れていることで、それはジャン=ピエール・バクリのイギリス人妻という設定で、ジェーン・バーキンが登場し、ジェーン・バーキンその人の歌を歌ってみせるとき、この巴里の英国人ともいえる女優/歌手の来歴までもが、査定の対象となる。

 こうして『恋するシャンソン』は、ほとんど暴力的なまでに、観客の記憶装置に痛撃を加えてくるのだが、この映画のシーン間をつなぐのは、なぜかクラゲのイメージなのだ。
 先に触れた『六つの心』との関連でいえば、雪のイメージがそれにあたる。けれどここでは、ゆらゆらと浮遊するクラゲが、繰り返し登場して、私たちの脳内にただようイメージを象徴しているようでもある。
 クラゲというのは、もっとも原初の生物である以上、そのイメージには生物の歴史そのものの記憶というものが刻まれているはずで、その射程の遠さは天文学的にもなる。

 ここで不意に『死に至る愛』へと話をスライドさせると、『恋するシャンソン』のクラゲと全く同じように『死に至る愛』のシーンとシーンをつなぐのが、雪のイメージだ。
 同じ雪でも、『六つの心』のように、降りしきるそれではなく、むしろ羽毛のように舞っているイメージ。これが繰り返し繰り返し、画面に登場する。
 このように風に舞う雪、または浮遊するクラゲのように、レネは観客の記憶イメージをつついてくる。そして『死に至る愛』では、死してなお残る愛のテーマが語られる。
 この主題は、続く次作『メロ』に先立ち、60年代を締めくくった『ジュ・テーム、ジュ・テーム』を引き継いでいる。

 特に『ジュ・テーム、ジュ・テーム』との親和性が高いと思われるのは、それが自殺から蘇生した青年の物語であったのと同様、『死に至る愛』もやはり、主人公ピエール・アルディティの、死からの蘇生の物語だからである。
(ちなみに、この主人公の職業も、過去を探求する考古学者である!)
 となると、これはやはりすぐれてアラン・レネ的なテーマだと思いたくなるが、むしろこれを、脚本のジャン・グリュオーの側に、レネが寄り添った作品ではないかと指摘したくなるのが、やはりグリュオーが脚本協力した、「死してもなお」物語として、一般的にもっとも知名度のある、トリュフォーの『緑色の部屋』を思い出さずにいられないからだ。
 なんとなれば、レネは撮影にあたってサビーヌ・アゼマにヘンリー・ジェームズの『死者たちの祭壇』をよく読むように、指示したのだそうだ。
 この本は、もちろん『緑色の部屋』の原作である。

 そして、ここでのレネは、グリュオーが念入りに準備しただろうシナリオに対して、ほとんど『去年、マリエンバートで』以来と言いたくなるような、やけに図式的な演出を施すことに専心していることからも、その印象が膨らんでいく。
 全作品を見渡すならば、案外とざっくりとした演出をしているように思えるレネだけに、いっそうその思いが募る。

 特にサビーヌ・アゼマが着る、目を射るような真紅の服が、ブルー、そして黒地へと、場面ごとに色彩のバリエーションを重ねていくのは、『去年、マリエンバートで』の、デルフィーヌ・セイリグの衣装の変奏を想起させもする。

 また、このドラマの中心舞台となる、サビーヌ・アゼマとピエール・アルディティの家は、、ちょうど2階が死の空間、1階が愛の(または人と人との交通の)空間とでもいう形で、厳密に切り分けられている。
 そして、その1階と2階をつなぐのが、実に不自然に部屋の真ん中にしつらえた、螺旋状の階段である。しかもその階段は、それを上って行くと、どのように2階の部屋へと人を導きいれる構造になっているか、画面は決して見せてはくれない。

 それはまさに、此岸と彼岸を隔てるかのような、その川を渡る渡らないというシーンが何度か登場することにも重なるのかもしれない。日本的な感覚では、三途の川とでもいうべきこの川の流れの縁に、何度となく佇むサビーヌ・アゼマ。
 その濁流の激しさは、まさに彼らの部屋の中央にありつつ、2階と1階を結ぶ螺旋階段のイメージと等号で結ばれる。

 先に、まるで人の記憶の中のイメージを象徴するかのように、シーンとシーンの間をつなぐ、羽毛のように舞う雪について触れておいた。
 実はその表現は正確ではなくて、時には雪などまったく舞っていない、ただの白っぽい画面である場合もある。
 そのとき登場人物の意識は彼岸へと飛んでいるのだろうか。けれど、生きたまま彼岸へ行くことなどできないわけで、ここからはアラン・レネ(とグリュオーの)生と死の観念について、精緻に考えなければならない点でもあるだろう。

 それはかつて、『夜と霧』でレネが描いたように、物質としての死体の映像、または『彫刻もまた死す』で、ごろりと投げ出された死体のような遺跡との関連も交えて、何がしかの考察が可能ではないか。

 こんな覚書にもならぬメモで、そこまで踏み込むには荷が重過ぎる。今回の全作品上映では、時間制約もあるので、『プロビデンス』の再見がかなわず痛恨だったが、アラン・レネをまったく未知の作家として発見する、貴重な機会だった。
 この数週間でのレネ集中鑑賞を無駄にせぬためには、残されたたくさんの宿題を、確実にこなさなければなるまい。
 どなたかも言っていたが、まさにレネ元年。ここから得たものは、もっと腰を据えたアウトプットとして、洗い直さなければならないだろう。当然、その作業にあたっては、吉田喜重の諸作も検証対象となるはずだ。

2010/4/17

『マイマイ新子と千年の魔法』  映画

片渕須直『マイマイ新子と千年の魔法』

 この映画の中には、幾重もの過去がある。主人公の新子たちが活躍する、昭和30年代の初夏。21世紀に生きる私たちにとって、ここに1つの大きな過去がある。私たちの子どもにとっては、自分の両親を隔てて、これはさらにもう1つ向こうの過去だろう。
 そして、新子が空想(幻視)する千年の昔がある。そして興味深いことには、千年前の姫様が、さらに自分のはるか昔のご先祖を空想するのである。

 子どもについては、しばしば未来というものが語られてしまう。けれど、裏を返すと、彼らは同時に、そのかけがえのない時間が、次から次へと過去になっていく存在だ。彼らの未来が消費されていくスピードたるや、大人なんかの比ではない。
 なぜなら日が暮れるからだ。
 日が暮れてから行動開始の大人と違って、子どもの「今日」は日が暮れたらおしまいである。だから子どもたち同士、夕暮れどきには「明日の約束」が交わされる。そして、「明日の約束」を違えることは、あってはならないことで、けれどそれを奪うのは、(この映画でもそうだが)常々、大人なのである。
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写真:『マイマイ新子と千年の魔法』より。ため息が出るほどに美しい日暮れ。そして長い長い3つの影。
道の向こうにはきっと何かたくさんのものが待っている。
美しい中にも美しい、この素晴らしい画に、涙が止まらなくなる。


 少しだけ脇道にそれるが、私の子どもたちも、友だちとしばしば「また明日も遊ぼうな」という約束を交わしつつ、陽が暮れる。けれど翌朝、私や母親はそれをしばしば、「いや、今日はおばあちゃんちに行くんだけどね」などと、軽くうけながす。
 子どもは鼻水たらしながら(時には泣きながら)抗議するが、大人は言うだろう。 「おいおい、毎日遊んでるんだし、今日ぐらいはいいじゃないか」あまり聞きわけがないと、言葉を荒げて叱りつけたりもするかもしれない。
 毎日遊んでいるかどうかはどうでもよろしい。子どもにとっては、「明日の約束」を違えることは、実存そのものの危機なのだ。

 奪われた「明日の約束」は取り戻さねばならない。そして、その実行計画が、夜間に決行されるとき、それは冒険となる。夜は怖い。だから、大人は従来「オバケが出るぞ」といって恐怖を与え、抑圧してきた。
 夜は大人の時間だ。日が暮れた段階で、子どもの「今日」はおしまいにもかかわらず、夜に行動するということは、子どもにとって例外的な体験となる。

 だから、夜の行動を経た後の子どもたちは、すでに幾分か、「子ども」を失っているだろう。
 『マイマイ新子と千年の魔法』で、夜の体験を経た子どもたちの目。
 私はどうも、映画が始まったばかりの新子たち一同の目に比べ、夜からエンディングにかけての目の方が、大きく描かれているように思ったのだが、気のせいだろうか。
 私はたぶんこれ、気のせいなんかじゃないと睨んでいる。新子の目も、貴伊子の目も、夜の冒険の後、間違いなく大きくぱっちりと開いている。
 さらに、それまでほとんど感情を見せぬ性格のタツヨシにいたっては、それ以前にはそもそも目が描かれていたかどうか。
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写真:『マイマイ新子と千年の魔法』より。「明日の約束」。また明日遊ぼうな! かけがえのないひとときなのだ。
以上写真2点の画像リンク元はこちら。


 子どもはたくさんのものを見て、育っていく。明日の目は今日の目よりも大きく開いているだろう。それは時間の喪失であると同時に、経験の増殖である。失うものがあって、得るものがある。そうやって、人は千年の時が経った。
 その間には、ぽろりと魔法が紛れ込むすきまくらいはあるかもしれない。田舎のあぜ道の川に、金魚が一匹まぎれこむ程度の魔法なら。

 『マイマイ新子と千年の魔法』という映画が、これほど胸を打ち、これを観た大多数の観客が愛さずにいられないのは、子どもにとっては彼ら自身の時間の(=大人にとっては自分たちが干渉しているかもしれない、子どもの時間の)、確かな実質が描かれているからではないだろうか。
 そのかけがえのなさは、質の違いこそあれど、千年の昔からびくとも変わっていないはずだ。そして、それを私たちは一言で、「大切なこと」と呼ぶ。
 トリュフォーなら「子どもたちの時間」と呼ぶかもしれない。
 
 映画を観ていてよかった、と心から思うことが時々あるが、『マイマイ新子と千年の魔法』こそ、まさにそんな作品である。

2010/4/14

港千尋『書物の変 グーグルベルグの時代』  

 港千尋『書物の変 グーグルベルグの時代』(せりか書房)読了

 今回も私事だが(しかもかなり恥ずかしいことだ!)、私はうちの奥さんと結婚する前、幾人もの女性に恋をしたけれど、今でも忘れ難く好きだったのは、Mさんただ1人である。彼女が今どこで何をしているのか知らない。わからなくなって、20年以上になる。

 彼女との手紙のやりとりは、数十通にのぼる。そして、彼女から来た手紙はすべて保管しており、その1通1通は、書棚に並ぶ幾百冊かの書物の間に、バラバラにはさんであって、それがどの本であるかは、まったくわからなくなっている。
 ことによると、そのうちの何通かは、古書店に渡ってしまった可能性もなくはない。
 だから古い本を引っ張り出すときに、思いがけずそれが出現して、どきりとすることもある(何年か前に『ガープの世界』(サンリオ)の間から出て来て涙した)。
 
 こんな悪趣味なことをやっているのは、やはり私が書物というものが、「記憶」や「時間」を封印する、一種の魔法箱だという気持ちがあるからだろうか。やがて結婚して、娘が生まれ、次に息子が生まれたとき、この子たちがいつしか、私の本を漁って、思いがけずMさんの手紙を見つけたら、と思うと一種の時限爆弾をしかけているような気もしないではない。
 ひょっとして、私の死後にそんな事態が起こったら、まるで『マディソン郡の橋』のようだ、とくだらぬことを思ったりもする。
 そういえば、『マディソン郡の橋』も男女の子どもだっけ。兄と妹という違いはあるが。

 いずれにしても、Mさんとの恋は今も私を縛るが、四六時中考えているわけでは無論ない。中心はうちの奥さんのことである(いや、北川景子のことだったりもする)。が、私の頭の中のあちこちに、いつもMさんは粒子のように漂っていて、ふとしたことでくっきりとした輪郭をもって意識に浮上してくる。
 そんなイメージを託すかのように、私は無数にある書物の中からランダムに、彼女からの手紙をはさみこんでいるのかもしれない。
 
 そういえば本書によると「ランダム」という語は、語源に「人間に追われる動物の動きのイメージ」を持つのだそうだ。すなわち、どこに走っていくかわからない。
 ここから著者は、出発地と目的地を最短で結ぼうとするのが近代であるが、人類の歴史を作ってきたのは、実は最短の経路―つまり「直線の道」でなく「感性の道」ではなかったか、と説く。
 話を卑俗化して恐縮だが、誤読を承知で書くと、私とて上記の通り、うちの奥さんまで、直線の道でたどりついたわけではない。

 さて、このような愚を行っている、私のような人間にして、この書物には共感以上のものがある。いや共感とは違うのかもだが、人間が残したもの、遺跡から果てはキンドルに至る、あらゆる記録物について思索したこの本に、深々と耽溺したことは言うまでもない。
 記憶や時間について、もの想うことは、決して過去を振り返ることではない。それを通して、今の自分と、そして現在の自分のなりたちに、思いを巡らせることなのだ。

2010/4/13

「アラン・レネ全作品上映」その5  映画

 アラン・レネ第5戦。於 日仏学院
 『ジュ・テーム、ジュ・テーム』(1968/91min/35mm)
 『スモーキング』(1993/140min/35mm)
 『ノー・スモーキング』(1993/145min/35mm)

 『ジュ・テーム、ジュ・テーム』は、1968年という“政治の季節”の作品であることに不幸があった。アラン・レネとしてもっとも商業的な成功に恵まれなかった作品だそうだ。
 その不幸は、1968年のカンヌ映画祭に出ていたのに、それをトリュフォーたちがぶっ壊した例の活動で、上映が中止されてしまった、ということから既に始まっている。
 これがSF映画という体裁をとるために、その時代にあっては受け入れ難かったということなのだろう。
 けれど、その後2002年のカンヌ映画祭で再上映を果たし、絶賛を持って迎えられ、パリでの再映にあたっては、長期ロングランを達成したとのことだ。
 以上は、エマ・ウィルソンの書物からの情報である。

 この「SF映画」は、例によって記憶にまつわる映画を、きっと終生作ることになるであろう、アラン・レネにあってみれば、不思議でもなんでもないフィルムではある。
 
 ある謎の科学者チームが、1分間だけ過去に戻ることができる装置を開発した。ネズミを使っての動物実験は成功した。今度はそれを人間に試す番だ、ということで、自殺未遂から生還した青年を、被験者としてリクルートする。
 ちなみにこの青年を演じるクロード・リッシュは、『六つの心』でサビーヌ・アゼマが介護する、ピエール・アルディティの、迷惑な末期の父親役を後に演じている。
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写真:『ジュ・テーム、ジュ・テーム』より。この子宮・・・というよりむしろ臀部のような、奇怪な装置によって1分間の過去に戻る。


 青年はもちろん実験を引き受けることになり、過去の時間を遊ぶことになるのだが、それについてここで述べてもしかたがないだろう。
 むしろポイントとしては、この青年が実験を引き受けるにあたって、素朴にして至極まっとうないくつかの質問を、科学者たちにぶつけることなのだ。
 その1つは、「ネズミを過去に送ることができたというけど、それが本当に成功したとどうしてわかるの?」というものだ。
 それに対する、科学者チームの答えは実に曖昧である。
 「それはネズミに聞くことができない以上わからない。でも成功した」
 
 何だそれ? と思うが、そもそもネズミにとっての「過去」っていったい何だ、という疑問がここで浮かんでくる。ここで問われるのは、「時間」の価値、「過去」の価値、「記憶」の価値というものではないか。
 この青年が被験者として選ばれたのは、「自殺して死亡寸前まで行ったのに、生き延びた経験を持つから」ということだった。すなわち、「過去」をはかなみ、「記憶」を打ち消したいがために、自死を選択したのに、そのような人間を「過去」に送ってどうするのか。すなわち、彼にとって「過去」に価値はないはずなのだ。
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写真:『ジュ・テーム、ジュ・テーム』より。丸い球体に入れられ、なぜか空気穴から苦しげに呼吸するネズミは、過去に飛んで、主人公同様に水中にいるのだろうか。
ちなみに、ネズミという動物は『アメリカの伯父さん』でも受難を被るわけである。


 もう1つの質問。
 「ところでなんで過去に行かせようとするの? 未来じゃだめなの?」というものだった。ここでも科学者たちの回答は曖昧の極みである。「未来も可能のはずで、遠からず過去にも未来にも送ることができる。でもとりあえず過去だ」と。

 もし、この映画に失敗があるとしたら、この青年が人体実験を受け入れることの過程に、もうひとつ説得力を欠くことだろう。
 けれど、ネズミと共に装置に入れられ、過去へと向かう青年は、もう一度「過去」を生き直すハメになって、「時間」が封印された、ある種の「容器」としての人体というものが、描かれるわけである。

 こうして60年代レネは終わりを迎えるのだが、90年代レネは『スモーキング』『ノー・スモーキング』という、2本の連作コメディによって、幕を開ける。
 出演者は、サビーヌ・アゼマとピエール・アルディティの2人だけ。彼らが一人何役もの登場人物を演じ分ける。

 この抱腹絶倒のコメディで、ちょっと目を疑うほどのすさまじい、コメディ演技をするのがサビーヌ・アゼマだ。もっと一般的な知名度の高い女優に例えるなら、これに最も近い演技をするのは、ダイアン・キートンただ1人である。
 こう書くと、80年代以後のレネを、ウディ・アレンと引き合わせたくなる欲望を抑えかねるのだが、感性として決して遠くない2人じゃないかと思い始めてはいる。

 そういうわけで、この映画では何人もの登場人物を、たった2人で演じ分けるのだけど、ここに映画のマジック、カット割りという詐術を縦横に使い分けるレネがいる。
 すなわち、Aという人物とBという人物を、同じ俳優が演じるのだけど、舞台では絶対に不可能なこの芸当を、カットを割りさえすれば、メイクも髪型も服装も変えた同じ俳優が、瞬時に登場するわけだ。
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写真:『スモーキング』より。サビーヌ・アゼマと奥にいるのがピエール・アルディティ
 
 もちろん、トリック撮影は行っていないので、同じ俳優が演じる別々のキャラクターが、ワンショットで登場することは決してない。
 けれど、実際にはメイクや服装やらを全部変えて、オフスクリーンではかかっているはずの「時間」を、レネの演出はちょろまかするわけである。
 
 映画の物語そのものは、イングランドの田舎街の小さな一団による、ドタバタものである。彼らの行動の節目節目で、同じシチュエーションが、再度語り直されることで、まったく違う結末となることを、何度も何度も、それこそ『スモーキング』だけでは足りないので、『ノー・スモーキング』という、いま一本の映画を作ってまで繰り返す。
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写真:『スモーキング』より。これもサビーヌ・アゼマとピエール・アルディティ。これ同じ物語の別の場面の別の人物である。
以上4点、画像リンク元


 運命の書き換え。時間を万引きすること。アラン・レネの興味は一貫している。それはちょうど、『スモーキング』と『ノー・スモーキング』で1つの事件が、幾度も幾度も語り直されたように、レネも生涯一貫して同じテーマを、ヴァリエーションを違えて、何度も語り直しているように見える。
  
 だがそれにしても、『去年マリエンバートで』や『二十四時間の情事』のような作品イメージからは、あまりにも遠い爆笑の連続のこの映画なのだった。
 アラン・レネという監督の実像が、どんどん露になる。  

2010/4/11

「アラン・レネ全作品上映」その4  映画

 アラン・レネ第4戦。於 日仏学院
 『人生は小説なり』(1983/111min/35mm)
 『お家に帰りたい』(1989/105min/35mm)
 『薔薇のスタビスキー』(1974/115min/35mm)

 『人生は小説なり』は、ある理想主義的な貴族ルゲロ・ライモンディが20世紀初めに、理想の宮殿を造るのだと、呼びつけられて迷惑そうな友人・知人たちの前で宣言するところから始まる。
 この昼とも夜ともつかない、いわゆるマジック・アワーの中で撮られたこのオープニングの夢は、第一次大戦の戦火でひとたび灰と化し、舞台は70年後の現代に飛ぶ。
 が、それに先だって忘れじの酒を共に飲んで、永遠に記憶を封印しようという、ルゲロ・ライモンディとその愛人ファニー・アルダンだが、アルダンはそのブルーの酒を、飲まずにこっそりと捨てるのである。

 かくして現代、その「理想の宮殿」において、理想の教育を目指すためのシンポが開催されるわけだが、その場所に宿った記憶の精霊たちが、画面をコラージュしていき、さながら『去年マリエンバートで』の、集団コメディ版とでもいった様相を呈するのだった。
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写真:『人生は小説なり』より。エンキ・ビラルによる奇怪なセット。

 そうした、起源の記憶を今に蘇らせる作業において、さらに洗練を見るのが『お家に帰りたい』で、こちらはもっとタイトに、テーマが家族。
 フローベール研究家のソルボンヌ教授ジェラール・ドパルデューに憧れて、入学したアメリカ人娘ローラ・ベンソンである。機中で希望に胸ふくらませながら、そのドパルデュー教授の著書を胸に抱きしめる彼女だが、ここでも舞台は2年後に飛ぶ。

 今度は、彼女の父母がパリへと向かう機中である。父アドルフ・グリーンはマンガ家であるが、パリで開かれるコミケに招かれ、ついでにまったく音信不通の娘の様子を見ようという算段である。親子関係がうまくいっていないのだ。
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写真:『お家に帰りたい』より。80年代初めのパリのコミケの風景。画像リンク元

 この主演アドルフ・グリーンが、『雨に唄えば』『バンドワゴン』『ブロードウェイのバークレイ夫妻』『踊る大紐育』などの脚本を担当した人物だということは、忘れるべきでないが、驚くべき哉、実に実に達者なコメディアンぶりなのだ。

 この映画でも、父と娘が何ともまわりくどいやり方で、彼女が小さかった頃の記憶を、今に蘇らせることで、感情が通じ合う。
 終盤で、アドルフ・グリーンが、フランスという国の度し難さに、一人帰国を主張して村の人々に空港への行き方を身ぶり・手ぶりでハチャメチャな訊ね方をするが、英語を解さない住人たちは、彼が何を言っているのかまったくわからない。
 それどころか、ヘンなアメリカ人のじいさんが騒いでいるということで、たくさんの人が集まって来てしまう有様。その騒ぎは、彼がマンガを描けることから、村人の心をつかんで、ひとたび収束するのだが、彼の前にまるで小さかった頃の娘の蘇りのように、ひとりの少女が画を描いてほしいと現れる。
 
 ここで不覚にも涙がこぼれたことは白状しておきたい。
 きっかけは何であれ、時空を経て、記憶は今に実体を伴って復活するのである。
 こうしたところに80年代レネの、『人生は小説なり』→『お家に帰りたい』のテーマは継承されていく。ちなみに、脚本はどちらもジャン・グリュオーである。

 『人生は小説なり』は、「人生はバラ色なんかじゃないよ/大人になったらわかるはず/でも父さんはそれがわかるほど成熟しているかねえ?♪」とか何とか、そんなような子ども達のわらべ歌で、幕を閉じる。(『人生は小説なり』の英語タイトルは“Life Is A Bed of Roses”)どうしたって、『お家に帰りたい』との関連抜きに考えるのは難しい。

 同じく、グリュオーが脚本に就いた『アメリカの伯父さん』とはまた異なるテーマ系が、ここに浮かび上がっているが、やはり彼が脚本協力している、トリュフォーの『野生の少年』あたりとの相互関係を、どうしても探しに行きたくなるではないか。

 だがまあ、そうした作業は後回しにするとして、後期レネを飾るサビーヌ・アゼマの、『人生は小説なり』でのレネ作品初登場ぶり(非常にコケティッシュだ!)や、『お家に帰りたい』の奔放をとにかく楽しむ。
 ことに、『お家に帰りたい』の倒錯的としか言いようのない、アラン・レネのアメリカへの執着に瞠目する。
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写真:『人生は小説なり』より。この作品のサビーヌ・アゼマの可愛さといったらない! 画像リンク元(2点とも)

 そして最後になったが、アメリカへの執着といえば、人生一度はビッグバジェットで映画を撮りたいのだろうなと、思わされずにいられない『薔薇のスタビスキー』。
 実は、私は今回の「アラン・レネ全作品上映」が終了するまで、蓮實御大の『映像の詩学』所収「アラン・レネ、あるいは鏡を恐れるナルシス」の再読を控えているのだが(自由な鑑賞を妨げられる可能性大だから)、日本においてもう1つアラン・レネという名前に対して、盛り上がりを欠いていたのは、『シネマの記憶装置』の中で、まさにこの『薔薇のスタビスキー』を「惨憺たる出来栄え」とやったあたりに、原因を求めるのはあながち間違っていないのでは、というのが私の仮説である。

 確かに、言葉の悪い意味で「普通のフランス映画」という印象は否めず、私が小中学校の頃は、夜9時からのいわゆるテレビの「洋画劇場」での、比較的定番作品であったと記憶するので、何度か見ているのだが、子ども心に決していい印象があるわけではない。

 けれど、今回やはり「アラン・レネ作品」というフィルターを通して見ると、これが「ロシア系ユダヤ人」を主人公とする、ファシズム台頭直前の、30年代の物語であることに、我然興味をひかれてくる。
 70年代アラン・レネは、『スタビスキー』と『プロビデンス』の2本のみ。
 60年代を締めくくる『ミュリエル』と、80年代の幕を開く『アメリカの伯父さん』をつなぐ橋が、この2本にある。ここで加わるのは、ユーモアというエッセンスのはずだ。



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