2010/5/31

黒沢清+蓮實重彦『東京から 現代アメリカ映画談議』  

 黒沢清+蓮實重彦『東京から 現代アメリカ映画談議』(青土社)読了
 あちこちでささやかれているように、手にとった瞬間「軽い」と思わされる本書。その尋常でない物理的な軽さに、これは歴代の蓮實本で、文庫を含めてさえ最も軽い書物ではなかろうか、と台所からハカリを出してきて計測してみる。
 すると、きっかり190グラム(挟み込みの青土社広告チラシ除く)。

 そして、一番薄そうな蓮實本として『フーコー、ドゥルーズ、デリダ』の河出文庫版を引っ張り出してくる。感触としてこちらの方が重そうな気がする。が、量ってみると、こちらは140グラム。なるほど、さすがに文庫よりも軽いということはなかった。

 というくだらぬ遊戯に誘われついでに、見た瞬間気になったのが、著者名は「黒沢清+蓮實重彦」であって、「蓮實重彦+黒沢清」ではないことだ。ビリングは黒沢が先。
 蓮實御大の名前が後の例は、年長者との共著の時だけだよな? と思いつつ書棚をチェックすると、『オールド・ファッション―普通の会話』(中央公論社)はさすがに江藤淳が先。
 『映画千夜一夜』(中央公論社)は淀川長治が先(山田宏一さんよりは先)で、『書物の現在』(書肆風の薔薇)も、吉本隆明が先(しかし年長の清水徹・浅沼圭司よりは先)。

 というわけで、自分よりも年少の人物を、ビリングとして先に出した例というのは、たぶんこれが初めてのはず。
 本書中では、「自分よりも年下の作家に対しては無条件に何かを受け入れるということがどうもしにくい立場にいるわけです」(P.82)とか、「自分よりも年下の監督が私を完璧に満足させるはずがない」(P.120)とか、同じ趣旨のことを2度も言っているのに、これはけっこうな待遇を、共著者に与えているわけだ。

 こうした妙なところを気にしつつ、本書を正確に114分で読み終えたのだが、ああこの時間はきっかり『宇宙戦争』の上映時間と同じであることだなあ、と思いつつ、さらに考え込まされたのは、「著者」とのみクレジットのある「後書き」で、「著者二人の依頼に応え、巻末のフィルモグラフィ作成のみならず、記述の詳細な点検、等々、細部にいたるまでその批判的な才能を存分に発揮された」と、葛生賢さんに謝辞が捧げられていることだ。

 本書を手にとるような人間なら、当然注目させられる、この「葛生賢」という名のもとに作られたフィルモグラフィだが、はて、やはり本書を手にとるような人間なら、イーストウッド、スピルバーグ、タランティーノのフィルモグラフィくらい、空ですらすらと言えそうなものだ。なのに、なぜにフィルモグラフィなど必要とするか。
 しかも内容チェックに対してはともかく、わざわざ謝辞を述べてまで。となると、これはよほどの仕掛けがしこまれたフィルモグラフィか、とまじまじと見つめてしまう。

 すると、やはり妙だ。フィルモグラフィの註に、「※劇場公開された監督作品に限り、TV映画は含めない。ただし『激突!』はじめTV映画として作られたが、一九八三年に劇場公開されたので、この限りではない」とある。
 ちなみに引用中、「ただし『激突!』はじめTV映画として…」の部分はママ。校正モレはともかくとして、『激突!』が1983年に劇場公開されたのは、あくまでもアメリカ合衆国の話。

 そのことに断りがないのは、逆に本書を手にとるような人間なら、これは当然の知識である、ということか。いや、当然の知識なら前置いていただく必要はないのだが。
 しかしいくら自明の情報でも、年若い読書なら、間違って『激突!』の「日本での劇場公開」が1983年と思ってしまう可能性もあるが、どうか。

 『東京から』という書名なのに、フィルモグラフィだけは、アメリカ合衆国基準!
 だからこそ、日本では劇場公開された、『世にも不思議なアメージング・ストーリー』の「最後のミッション」を、スピルバーグのフィルモグラフィから外したということか。

 いや、さてはこのフィルモグラフィは、製本上の折を8の倍数に合わせるため、無理に付け加えたかな、と、いささかの悪意を持って数えてみたところ、もしこのフィルモグラフィがなければ、ちょうどぴたり8ページ。折をひとつ減らせるのだ。
 となると、もう少しだけ単価が下げられるはずだから(重量もほんの少し軽くなる)、これは編集意図として必須と判断されたということか…。

 こうしたいろいろな細部がしかけられた本書は、蓮實御大関連本としては屈指の楽しさ、面白さを味わえる、得難い書物である。

2010/5/29

「イエジー・スコリモフスキ’60年代傑作選」その1  映画

 「イエジー・スコリモフスキ‘60年代傑作選」於イメージフォーラム
 初戦。今回の上映作品4本中、まずは3本を見る。正直なところ、スコリモフスキについては、意識的に知識を身につけようとはしてこなかった。

 恥をしのんで白状すると(『早春』、『出発』は見ているが)、長年イエジー・スコリモフスキという人は、私にとってテイラー・ハックフォードの『ホワイトナイツ 白夜』(1985)で、ミハイル・バリシニコフのアメリカ亡命を邪魔する、恐怖のKGB隊長であった。
 滅多に行かぬカラオケでは、しばしばライオネル・リッチーによる主題歌“Say You,Say Me”を歌い、フィル・コリンズ/マリリン・マーティン“Separate Lives”を一人デュエットしてしまう私としては、なおさらのことに。

ライオネル・リッチー“Say You,Say Me”のPV。スコリモフスキは59秒目くらいに、一瞬登場。

 そうしたイメージが変わったのは、昨年『アンナと過ごした4日間』を見たことと、その上映に際して、彼をとりまく言及の熱っぽさからだった。
 そこで今回の初期作品の一般上映。スコリモフスキ=『ホワイトナイツ』=KGBという、そんな奴、世界に一人もいないよという、甚だしいにも程がある私の勘違いを粉砕するのに、おおいに役立つはずで、実際、木端微塵にされた。
 今回刊行された、紀伊国屋映画叢書1『イエジー・スコリモフスキ』(紀伊国屋書店)と、家路の会・編『エッセンス・オブ・スコリモフスキ』(Little Fish)を熟読することで、個々の作品の背景や、監督のバックグラウンドをこれから勉強していきたいが、まずは今日観た3本の印象だけ。

『身分証明書』(1964/ポーランド/74分)
 処女作。スコリモフスキ自ら演じる青年が徴兵され、駐屯地に赴くまでの数時間を描く。
 徴兵前の待機の時間を描いた処女長編ということで、最近もジャック・ロジエ『アデュー・フィリピーヌ』という秀作を見たばかりだ。
 隣の部屋の女性の音を聞こうと、壁にコップを当てて聴き耳立てるなど、ストーカー気質の主人公はこんな時からすでに始まっているかと、驚くというより、むしろあきれる。

 それにしても、走る路面電車を追って全力疾走し、列車に飛び乗り、そしてまた飛び降りるという、恐るべきワンカット。しかも固定。こんな撮影を組織できる大学生は、映画以外を生業にすることなどできはしまい。

 どこか自己憐憫的な作品ではある。それは、カメラが時折、主人公自身の目となって動いていくところ。カメラが主観となった瞬間、画面そのものが「僕」の人称に変わる。
 ここに自己愛めいた印象を、否応なく植えつけられるが、その第一人称のカメラが、ラストでは階段を駆け下り、駅へと突っ走るとき、一転メモリは一気にびしっと振り切れ、自己愛のごとき安っぽい感情など一挙粉砕する。

『不戦勝』(1965/ポーランド/78分)
 世の中には、トリュフォーの「アントワーヌ・ドワネルもの」のように、監督自身の自画像のような作品群を撮る人がいる。
 それにとてもよく似た雰囲気の、前作に続く続編のようなイメージの作品。
 ここでも終盤に、列車とバイクを使った目を疑うような大掛かりなワンカットがあって、おおいに興奮させられる。
 『身分証明書』でもそうだが、どうやって撮っているのかわからない、目を疑うショットがやたらにあって驚かされる。
 前作にあった主観カメラはここでは廃され、外から見つめる視線を獲得しているように思う。その分、映画全体が持つ雰囲気が重厚なものになってきている。

 この映画が、全体としてどこか殺伐としている理由としては、“皆殺し”というモチーフがそこかしこにあることだ。
 冒頭近くでも、主人公とその恋人が、家路につきつつ会話を交わすその後ろで、道路沿いの子どもたちが処刑ごっこをやっているという、ブラックな景色から、中盤での、自分を的にして卵をぶつけさせる青年、画面内のテレビで放映している映画の中。
 映画のイメージを形成するのは、こうした微妙な細部であることを思い知る。

『バリエラ』(1966/ポーランド/83分)
 今日の最大の収穫はこれだろうか。全編に張り詰めたような緊張感漂うショットであふれている。イメージとしてこれに最も近い作品として、吉田喜重『煉獄エロイカ』を挙げられるように感じた。
 この映画のよいところは、かなりの不条理が展開していても、そこにまったくユーモアの気配がなく、完全にドライな空気を保っているところだった。
(そう感じたところ、青山真治とおぼしき人物によるツイッター上の発言で、「スコリモフスキはユーモアの人」というものがアップされ、いささか自信を失ったのだが)
 音楽の充実ぶりも群を抜き、なるほどここからクシシュトフ・コメダが加わっている。
 この作品の魅力は、とても1回では味わいつくせないように思う。

2010/5/26

『ローラーガールズ・ダイアリー』  映画

ドリュー・バリモア『ローラーガールズ・ダイアリー』
 いま、「17歳の少女」ものというジャンルが、静かに流行りつつあるのだろうか。
 特に現在、東京日比谷のシャンテでかかっている4作品のうち、『ローラーガールズ・ダイアリー』を含め3作までが、主人公は17歳の少女だ(他は『17歳の肖像』と『プレシャス』)。

 が、そのこと自体はどうでもいい。
 開巻早々、『ローラーガールズ・ダイアリー』の主人公を演じるエレン・ペイジの母親役、マーシャ・ゲイ・ハーデンが登場した瞬間に思ったことが、前ファースト・レディ、ローラ・ブッシュにそっくりだ、ということだった。
 その印象があながち間違っていないことにはすぐに気付く。というのは、この映画の舞台がテキサス州であることがほどなくわかるからだ。

 前合衆国大統領が元テキサス州知事で、その夫人の出生地はテキサスだ。だから、監督ドリュー・バリモアが、主人公の少女を保守的に育て上げ、キャリアを積むにせよ、結婚するにせよ、否の打ちどころないよう、娘のミスコンでの栄誉を事の他望む、という口うるさい教育ママを造形するのに、ローラ・ブッシュをイメージしたことは間違いないように思う。(もう少しダイエットさせれば完ぺきだった)
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写真:『ローラーガールズ・ダイアリー』より。右がマーシャ・ゲイ・ハーデン。ローラ・ブッシュみたい。

 現合衆国大統領の選挙運動にあたっては、ドリュー・バリモアもいくばくかの支援をしたというゴシップ記事を目にしたが、それは確かバラク・オバマの、ゲイに比較的寛容なリベラルなセックス観に共感してのことだったと記憶する。
 だから、そのあたりの政治観をベースにした深読みは慎むことにしよう。
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写真:これは本物のローラ・ブッシュ。Wikipediaより。

 物語としては、エレン・ペイジが演じるその娘は、母親の形式ばった教育方針に肌が合わず、方向性を見失って悶々とするちょうどその頃、偶然みかけたローラーゲームに夢中になる。そして直ちにチーム入りするが、もちろん家族には内緒である。
 こうして、この映画は主人公が、このローラ・ブッシュ的なものを、少しずつ崩していくことが裏のテーマとなる。もちろん、それは母親からの離脱とか、母親を悪役にする、または母親が最後に考え方を曲げる、とかいうものでなく、価値観の共存として。

 というのは、主人公が目指すのが、都会といってもあくまで生家と同じ州内のオースティン。ロスとかNY、シカゴではないのだ。価値観そのものは同じであって、ひとつの共有された倫理観の中で、少しだけ生き方を主張しようとするだけのこと。

 このどうしようもなく、つましいリアリティが、『ローラーガールズ・ダイアリー』を生かしており、ここに映画の見事なバランス感と、品の良さを感じる。プロポーションがいい。
 マーシャ・ゲイ・ハーデンが、最後までローラ・ブッシュのような髪型やファッションを崩さないことも、ポイントといえばポイントか。

 なお、もう少し大きな枠で、涙のサンダーロードな都会を志向するのが、アイビーリーグを目指す、親友役のアリア・ショウカット。
 いろんな感情を出したりひっこめたりする、彼女の演技のしなやかさが、いささか一本調子なエレン・ペイジの容姿と演技を、ものすごく引き立てている。
 そしてエレン・ペイジの感情を、アリア・ショウカットが上手に反射するから、エレン・ペイジも生きる。助演の鏡のような芝居を見せてくれている。
(ちなみにチームの監督役、アンドリュー・ウィルソンも、ダサさと熱さの配分が絶妙で実にいい)
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写真:『ローラーガールズ・ダイアリー』より。左がアリア・ショウカット。名演!
2人(右がエレン・ペイジ)のブタのエプロンもナイス。


 しかしドリュー・バリモアというと、今だに“ガーティ”以外を連想しようがないんだが、偉大なるバリモア家の一族でありながら、なぜこれほどローカルな街の空気感を、巧みに撮れてしまうのか。

 特に、チームの入団テストを受けるため、たった一人でバスに乗り込み、彼女が見つめる窓外の風景が、胸がつまるほどすばらしい。
 自宅のボディーンから、州の中心オースティンへ。窓の外には親友を含め、知った顔がたくさんある。彼女にとって(映画冒頭でたっぷり見た私たち観客にとっても)見慣れた街。少しずつ風景が変わっていき、バスを降りたそこはまったく変わっている。
 こんな演出をしてしまうのは、新人監督どころかベテランの(たとえばハーバート・ロスあたりの)技術だ。
 すばらしい新人監督の誕生である。

 なお、まったく100%個人的な趣味として、流れているサウンドトラックが、完全に受け入れられず、そこだけノれなかったのだが、よくよく考えると、ドリュー・バリモアはいかに常人の100倍以上の密度で人生を送っているとはいえ、まだたったの35歳(驚いたことにライバル役で久々登場、ジュリエット・ルイス(37歳)より年下なのだ)。たぶん音楽の感性としては、どっちかというと90年代寄りだろう。
 むしろこちらに、一部の方の熱狂的な評価があるこをも知っており、まったく申し訳ないのだけど、そこは完全にお門違いな不平で、極めて私的な感想としてだけ。
映画からの画像2種リンク元 

2010/5/24

バッハ、マイルス、シェーンベルクからストローブ/ユイレへ  音楽

 坂本龍一の「スコラ 音楽の学校」が、“バッハ編”に続き“ジャズ編”が終わった。
 バッハからジャズへ。ジャズの特に、和声を離れて音階へという、時代がモードに入ったあたりで、12音音楽を連想し、ふとシェーンベルグのことを思い出す。
 かつて坂本龍一はYMO結成前に(1977年)、高橋悠治「新ウィーン学派ピアノ作品集」(DENON)で、シェーンベルグの曲に第2ピアノとして参加している。

 バッハからシェーンベルグへ。シェーンベルグが、バッハのプレリュードとフーガや、コラールをオーケストラ編曲していることはよく知られていると思うが、だから必ずしも突飛な結びつきではない。
 それが証拠に、バッハからシェーンベルグへのジャンプを果たした人たちはもう1組いて、それがダニエル・ユイレとジャン=マリー・ストローブである。

 この2人は、『アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記(アンナ・マグダレーナ・バッハの日記)』(1968)で、バッハの音楽を稠密に映像化したほんの6年後、『モーゼとアロン』(1974/75)で、シェーンベルグのオペラを完全映画化する。

 ストローブ/ユイレの作品の画面について、よくある「空間の強度」とか「映画を再発見する」とか、そうした抽象的な表現ではなくて、もっと実のある言葉は出てこないものか、と検討する際に、結局いつも振り返るのがこの『アンナ・マグダレーナ・バッハの日記』であり、95分の上映時間のほとんどが演奏シーンだったりする。
 そのうえで、視線をそらしようのない画を作る。これに似た魔力を持つ映像は、ブレッソンだろうが、どちらもなぜこんなことが可能なのだろうか。

 それは画の側からの、能弁な語りかけをあらかじめ封印する頑なさに、その一因があるまいか。たとえば『シチリア!』のメインヴィジュアルである、画面を圧する、ぬっとした背中。ロマン主義とは遠く離れたこの寡黙さが、見る者の画面への参加を強く促す。
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写真:『シチリア!』より。冒頭のシーン。黒々とした背中が何ものをも語ってくれない。

 『アンナ…』の演奏シーンは多くの場合、背中ばかりが異様なまでにこちらを向く。なぜこれほどつれなくされるのか、見ている側はやり切れない思いとなる。
 それは、私たちが映画を見ている限りは、「感動させられたい」「感情を揺さぶられたい」という、誰と約束したわけでもないはずの“契約”を、“誰か”と交わした気に勝手になっているからである。
 けれど、そんな“契約書”などどこにもないし、誰ともサインなどしていないので、どうしたらよいのかと戸惑う、そのこちらの感情。これがストローブ/ユイレに動かされる心のざわめきの正体だ。
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真:『アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記』より。マタイ受難曲。異様なまでにみんなこちらを見ない。

 けれど、それくらいのことなら「写真」でもできそうだ。だがそれが「映画」であるからには、さらにもう一打が必要となる。
 それが、映画の側から突然こちらを見つめ返すかのような、突然の切り返しではなかろうか。映画からこちらに目を向けられると、それは向こう側からの働きかけなので、これが見ることの“安心”というものになる。
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写真:『アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記』より。そのマタイ演奏直後に、突然こんなカットが私たちを射る。太陽が私たちを見ている。

 映画への能動的な姿勢は常に不安を煽り、受動的な態度は安心につながる。そして、それを交互にできるのは、映画以外にはあり得ないはずだ。
 こうした“不安”と“安心”の絶え間ない連鎖。これがストローブ/ユイレに親しむための、基本的な構造ではなかろうかと、坂本龍一「スコラ 音楽の学校」を眺めていて、ふと考える。
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写真:『アンナ・マクダレーナ・バッハの年代記』より。アンナを演じるクリスティアーネ・ラング。画としては無機的な演奏シーンの後に、このようにこちらへと妖艶に出てくると、ドキっとする。
以上、画像リンク元

2010/5/17

『コロンブス 永遠の海』  映画

 マノエル・ド・オリヴェイラ『コロンブス 永遠の海』
 予告編だけで涙が出る映画だったが、本編の感動はまた格別だった。

 コロンブスはポルトガル人だった。この新説に基づき、その足跡を辿る、人生の物語。
 ここでコロンブスが「ポルトガル人」だったかどうかは、さほど重要でないと思う。たまたま監督オリヴェイラが、ポルトガルの生まれであるというだけで、そんなことはちっぽけなことだし、オリヴェイラほどの人物はそんなこと気にもしないだろう。
 実際、オリヴェイラ自身も「コロンブスがポルトガル人であっても、中国人であっても、構わないのです。重要なのは彼がなしとげたことです」と語っている通りだ。何となれば、そんなことは「運命が選ぶものですから」。(パンフ所収インタビューより)

 ただしコロンブスが、大海原にのりだし、そして新大陸を発見したということの重要さは語っても語りきれない。
 新大陸、正確を期すのならそういうことだが、コロンブス自身がその大陸を何だと思ったかはさておき、これをアメリカ大陸と言おう。コロンブスはアメリカを発見した。そして生涯4度もの航海に出たのだ。

 この映画の主人公も、ポルトガル(出身)→アメリカ(移住)→ポルトガル(結婚)→アメリカ(コロンブス記念碑見学)→ポルトガル(コロンブス住居見学)と、都合4度の移動を行う。
 映画の中心であり、最も感動的なのが、ポルトガルで結婚した若い2人が、その47年後にニューヨークに赴くあたりであることは言うまでもない。
 若く活発だった2人が、その47年後のニューヨークを訪れる。
 それに遡る60年前に、初めてニューヨークに移住してきた主人公は、そのときまるで未来への不安を象徴するかのように、自由の女神は霧に隠れて見えなかったのだが、今度は澄んだ青空の下、すべてが澄明に見えている。
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写真:『コロンブス 永遠の海』より。自由の女神。オリヴェイラ夫妻。このスチールを眺めているだけで涙が出る。
実際の映画ではこの星条旗の軸を中心に、自由の女神が右に行き、左に行きする。


 47年後の夫妻の姿を、オリヴェイラ監督夫妻自身が演じている。そのことの感動を書く字数があれば、若い2人の姿から一気に47年後へと時空を飛んだその映画的省略の衝撃の方を語りたい。
 この感動に満ちたジャンプは、スピルバーグが『A.I.』でいきなり1万年をかけぬけた以上の、眩暈にもにた衝撃をもたらしてくれる。
 映画のその前後における、夫妻の姿の変貌ぶり。けれどびくとも揺るがぬ2人の愛情。その愛の賛歌に涙する。
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写真:『コロンブス 永遠の海』より。その人生の節目には必ず天使ミカエルが見守っている。

 映画=movieが、moving picture・・・、すなわちmoveという動詞からくることは言うまでもないが、その語が「動く」という意味のほかに、「移動する」「出発する」「行動をおこす」という意味を持つことをおさえておきたい。
 コロンブスはまさに「出発」を企て、「移動」への「行動をおこ」した結果、「アメリカ」を見出した。アメリカ=映画だと書いてしまうと、さすがに理に落ちようが、オリヴェイラが自分自身とその配偶者をスクリーンに映し出し、その出発と、行動を映画に撮ったことは事実だ。そして、それが可能にするものはただ1つ。
 moveという動詞が含むもう1つの意味、「感動させる」ということだ。

以上、画像2点リンク元  

2010/5/16

上島春彦×吉田広明 於 ビブリオテック(千駄ヶ谷)  

 この2月に千駄ヶ谷にオープンしたブックカフェ、「ビブリオテック」
 デザイン、写真、美術などの開放式の小図書館。映画関連の出版物もあって、懐かしい書籍や雑誌をずいぶん閲覧することができた。

 さて、こうした魅力的な場で、第一回文明講座として催されたトークイベントが、上島春彦×吉田広明「黒澤を映画の現在に奪還するために」である。上島さんの『血の玉座』刊行記念の企画。

 同書を読了したばかりなので、楽しみに駆けつける。このコンビは上島さんが『レッドパージ・ハリウッド』(作品社)、吉田さんが『B級ノワール論』(作品社)という、どちらもほぼ同時代の映画を、違った切り口で語り尽くした、凶器に使えそうな分厚い大著にして、名著の執筆者なので、理想的な競演だ。
 対談そのものは、『血の玉座』の内容を、吉田さんが発展的質問を行い、上島さんがそれにコメントする、という流れで進む。
 
 2時間たっぷりの超高濃度の対談。聞き惚れるのみだったが、そうかそれは私と感じ方が異なるのだな、と思ったのが『血の玉座』の「「門」と「拠り代」―黒澤映画の空間構造」の章。黒澤の画面構成を平面の「X軸」と、垂直の「Y軸」として、書かれたパートだった。

 ここについて吉田さんが、まだ書き足りてないんじゃないか、という疑問を提示される。つまり、黒澤の空間構造なら、垂直のY軸に対して、平面にX軸ともう一本、Z軸が必要だろうと。
 平面を立体化するZ軸に関する記述を欠いているが故に、このパートはさらに面白くなり損ねたし、現にページ数が一番少ない、という指摘だった。

 上島さんはこれに同意する。確かに黒澤の空間にある奥行きを語るためには、もう1方向が必要だったし、平面性というのは向こう側へと広がるものだから、それは課題として残されたと。

 私はここ、もう1つ腑に落ちなかった。というのは、実のところ私自身が同著で一番感銘を受けたのがこの章で、この読解が黒澤の様々な議題をクリアにしたように思ったからだ。現に本書について綴った拙文も、その表現をお借りした次第だった。
 そこで、お声かけ頂いたのに甘え、図々しくもトーク後の打ち上げについていき、テーブルをご一緒したのをいいことに、直接上島さんにこのことをお伺いした。
 
「XYZ軸にまつわるお話について、しかしスクリーンが平面である以上、Z軸という観点はむしろ不要であり、スクリーンの平面性があればこそ、XとYだけの説明で十分イメージできるし、より説得されたのですが」と無礼を申し上げる。

 それに対して親切なご回答をいただいたが、それは公的にでなく、個人的な対話の中で行われたことなので、ここに記載するのは控えるが、十分お考えあってのことだったことを知り、納得した。
 ポイントとして、画面が表象する3次元性について述べてくださったが、それは決して昨今の3D映画との関連ではないということだけ、備忘として記しておく。

 最後に、間違いなく言えることは、対談でも語られた通り、同書が黒澤明のごく一断面だけに特化した、むしろ「特異な本」であること。
 そして、黒澤にまつわる書物は星の数ほどあれど、そのほぼ全部が関係者の証言または回顧録であって、それはそれで貴重であること間違いないが、批評を活気づけるテマテックな評論は皆無に近いこと。

 だから『血の玉座』には、私自身おおいに動機づけられたし、ようやく本格的な黒澤研究の口火が切られた、という思いで熱いものを感じた次第である。

2010/5/14

上島春彦『血の玉座 黒澤明と三船敏郎の映画世界』  

上島春彦『血の玉座 黒澤明と三船敏郎の映画世界』(作品社)読了

 久々に映画論らしい映画論の書物に出会う。黒澤明作品の中で、三船敏郎という稀有な役者に特化し、それがどのようにその映像世界に貢献したか、を語り尽くす。これを読んでいる時の快楽を例えるならば、『七人の侍』を見ている時にも似る、といったらさすがに大げさだろうか。

 いや、大げさではない、と断言したいのは著者自身が、『椿三十郎』の作品解説中に、黒澤シナリオの方法論について、こんなことを述べているからだ。
 「謎解きやドンデン返しの要素は最初から存在しない」「むしろ手の内をいかに「うまく見せるか」が勝負になる。観客を騙す気は黒澤にはまったくない」(P.284)

 本書もそれと同じで、どこに転がっていくかわからぬ論を、著者と共に根気よく読み説くという作業ではなく、あらかじめ提示された主題を、黒澤(三船主演)作品の中から次々と紐解いていく、という趣向なのだ。
 その読書はちょうど、本書では「Y軸」と仮定される、たとえば『七人の侍』で志村喬が○と×を書きこむ集落の地図を覗きこむ、明解さに通じるように思う。

 その提示された主題が何かを、ここでわざわざ紹介するに及ばない。目次を提示すれば足りる。たとえば「ボディ・ダブル―黒澤的分身の成り立ち」の章では、「二人の「青二才」」、「「師」と「敵対者」」、「「野良犬」と「狂犬」」…。という具合である。

 本書では、黒澤の空間構造について、たとえば「これから語ろうとする物語を概念としては一枚の平面にしてしまいたい欲動の人」(P.109)とし、これを「Y軸」とする一方で、それに対する「X軸」として、垂直に屹立する「杭」のようなものを提示する(たとえば『姿三四郎』で、三四郎が池の中でしがみついていた棒杭)。

 では、「Y軸」を「三船敏郎」とするならば、本書においての「X軸」が何かというと、それを「志村喬」としよう。黒澤世界のもう1人の大重要人物。
 その「X軸」たる志村喬が、『蜘蛛巣城』を最後に「三船に拮抗する存在たることをやめる」(P.255)以上、本書のクライマックス(というより、本書が成立する元となった論文)が「血の玉座―『蜘蛛巣城』論」であることは必然だろう。

 『蜘蛛巣城』以後の黒澤作品で志村喬が、出演してもほぼ「ゲスト出演」のような背景に収まって以後、つまり三船がY軸であると同時に、X軸でもある存在になってしまうなら、本書も(少なくともここで提示された議論に限るならば)書かれるべきことは終わるのも、これまた必然だ。

 それはちょうど、『用心棒』や『椿三十郎』のようなスーパーマンを演じてでさえ「青二才」にすぎなかった三船敏郎が、『赤ひげ』においていよいよ「青二才」でなくなり「すぐれた年長者」になってしまったときに、黒澤と三船の共作も終了するように。

 上島春彦『血の玉座』という書物の素晴らしさは、それが優れて刺激的な映画論であると同時に、自らが語りつつある、黒澤明の映画の魅力に近似した語りを持っていることだ。

2010/5/13

港千尋+今福龍太 トークセッション in ジュンク堂  

 港千尋+今福龍太 トークセッション「書物への愛―グーグル時代の読書をめぐって」 於 ジュンク堂新宿店

 最近、港さんの美しすぎる書物を何冊か立て続けに読んだこともあり、ぜひその肉声に接したいと走る。
 しかも、大変失礼ながら激しく気になる著述家でありながら、まだその単著をきちんと通読したことのない今福さんとのセッションなれば、聞き逃せぬ。

 このトークは、港千尋さんの近著『書物の変』(せりか書房)刊行記念として催された。内容は、電子化されようとする書物についての議論である。
 博覧強記のお2人のこと故、デジタル化された「あれ」の受け入れ難さについて、言葉を尽くして、おそるべき饒舌さでしゃべりにしゃべる。
 それにしても研究者というのは、改めて思うが雄弁である。もちろん例外もあろうが、いわゆる口下手な学者というのにお目にかかったことがない。
 それほど膨大な言葉が費やされたので、ここにそれを再現するなど字数がいくらあっても足りないが、一貫して語られたことは、紙の「書物」というものの物質性に関する強いこだわりだった。

 だが話の中で、特に今福さんが何度もおっしゃっていたが、デジタル化する書籍に関して「不満ばかりをいくら言っていてもしかたがない」わけなのだ。
 処方箋などは、ない。デジタル化を止めることなどできないし、今はまだ「書物」に対する理解のある人間もいるが、やがて戦争を知らない世代が育っていくのと同じで、紙の書物へのこだわりなく育っていく世代も出るだろう。
 それこそ、白黒映画は頭痛がするから見せるなと主張する、映画学校の学生さえ出始めたとも耳にする。

 今福さんがおっしゃったことだが、キンドルなどの端末でものを読む者のことは、“user”と呼ばれる。決して“reader”ではない。“reader”というのは今や機械のことであって、「読み出すもの」という意味である。決して「読者」という意味ではない。すなわち、「読者」というのはどこかに消えてしまったのだと。

 ただ、こうした傾向に抗うことなどできないし、抗うことが正しいことかどうかも、相対的なものにすぎない。
 俗なことをいうと、収納スペース的に、個人でこれ以上の本を所有することなどできない、という住宅事情のことだってある。
 
 思うのだけど、書籍のデジタル化といっても、それが進むのはおそらく「万単位」で出る書物が中心になるのではないか。
 いわゆるエンタメ系の娯楽小説から、1年後には何の役にもたたない、あまたあるビジネス書や新書の類。

 私たち(という言い方がすでに傲慢だが)が普段接しているような、人文系の書物までデジタル化されるという事態は、当分は訪れないのではないだろうか。
 2千〜5千部レベルの書物など、電子化の流れからは、完全に取り残されるに違いない。
 で、これまでもそうであったように、そうした書物を作る出版社が本当にゼロになるとも思えないから、うまい具合に共存して、案外いい状態になるような予感も、またする。

 J・K・ローリングやダン・ブラウンの新刊が、部数でなく、ダウンロード数で語られる日は年内にもやって来るだろう。ポピュラー音楽の世界がとうにそうなっているように。
 でも、港千尋や今福龍太の新刊がダウンロード数で語られる日は、きっと来なかろう。出版へのハードルはさらに高くなるのかもしれないが、ゼロのはずは絶対にない。

 むしろ恐れるべきなのは、書物がなくなる日では決してなくて、港さんや今福さんのような書物を書く人がいなくなる日なのだ。

2010/5/10

マイク・フィギス『デジタル・フィルムメイキング』  

 マイク・フィギス『デジタル・フィルムメイキング 新しいプロフェッショナルとは何か』(桂英史 村上華子・訳 藤幡正樹・監修 フィルムアート社)読了

 マイク・フィギスが、主にデジタル撮影による映画製作の実践について書き下ろした書物。原著は2007年。
 「カメラは単なるモノではなく、人格や知覚の延長である。そうでなければ映画監督とは言えないし、良い作品を作ることもできない」(P.30)と言い切るこの本の多くは、カメラの扱いについて費やされる。
 そして、自分が手に入れたカメラのメカニズムを知りつくし、カスタマイズの必要さえもあると説く。映画製作はそこから始まるのだと。

 映画作りとはまったく無縁の私が、なぜこの本に興味を示したかというと、デジタル撮影というものの効能をまったく知らないからだった。
 マイケル・マンのデジタル撮影なんかは、個人的には単に下品に感じることを白状しておくが、オリヴェイラもデジタル撮影を活用する昨今、それの映画との関わりを知るヒントを得たかったのだ。

 本書を読む限り、フィギスのデジタル撮影の選択に、審美的な観点はほとんどない。あくまで、製作の利便性と経済性の追求にある。なぜなら、今やその画質にアナログとの差異はなくなりつつあるからだ。
 さらに、プロ用とアマチュア用の機材の差はないに等しい。だから、映画製作において、自分のヴィジョンを実現する方法は可能性を増した、という、これは映画製作を目指す若者への書でありながら、自分自身の高揚感さえ伝わってくる。

 もちろん、映画製作の入門書であるから、カメラについてだけでなく、編集・音楽・配給の在り方にも触れており、どちらかというと私はフィギスのこれまでの映画作りの遍歴として読書した。

 個人的な感想では、マイク・フィギスというと『背徳の囁き』(1989)、『心のままに』(1993)の2本のリチャード・ギア主演作で、ダメな作品なんだがそのダメさは監督のせいでなく、むしろ大健闘しているのに、プロデューサーがその芽をつぶしているという印象だった(だから遠からず必ず傑作を撮るはずだ)。
 予想通り、続く傑作『リービング・ラスベガス』(1995)で脚光を浴び、主演のニコラス・ケイジはアカデミー主演男優賞を獲得。続く『ワン・ナイト・スタンド』(1997)で、その才能は完全に花開く。
 が、それを頂点として『セクシュアル・イノセンス』(1999)、『HOTEL』(2000)は、理念が勝ち過ぎていて、映画としては退行したようには感じている。
 とはいえ、そのフィギスの理念(つまり映画製作についてどう向き合っているか)を理解するための補助線として、本書は興味深く読んだ。

 「ジャン=リュック・ゴダールがデジタル・テクノロジーについて批判したとき、デジタルでは何にでもピントが合って、映画的な感じがしない、といったようなことを言っていた。これはかえって制約であるように彼には感じられるのだ。僕に言わせればそんなの「ドンと来い」といったところだ」(P.51)とまで言うのだから、いっそ痛快ですらある。

2010/5/7

『のだめカンタービレ 最終楽章 後編』、『スラヴォイ・ジジェクによる倒錯的映画ガイド』  映画

川村泰祐『のだめカンタービレ 最終楽章 後編』
 たぶん日本人が撮った、もっとも魅力的な巴里ではないか、と思わされた前編であるが、後編でもまったくそれは衰えていない。
 オープニングからして、巴里の街並みの情景に、ベートーヴェン「のだめ」交響曲の、それもリストによるピアノ独奏編曲版が流れる。見事である。

 また、日本から来た友人たちが、帰国するバスに乗り込むのを上野樹里と玉木宏が見送るシーンがあるのだが、このショットが何しろすばらしい。
 何の変哲もない車道である。瑛太と小出恵介がバスに乗り込み、バスの進行につれてすっとカメラが横に流れるのだが、そこに何ともなめらかに凱旋門がフレームインしてくるのだ。ここは巴里。
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写真:『のだめカンタービレ 最終楽章 後編』より。「旅の恥はかき捨て」とはあまり感心しない言葉だが、ここまでやられるとさすがに感心する。

 この映画のポイントは、『ローマの休日』的な観光案内としての外国を描こうとしていないところだ。異国であるパリで、未来を悩み苦しんで、青春を燃焼しようとしている若者群像。日本とは隔絶した空間であるということ。
 上野樹里のゴミためのような部屋には、日本の食材やらグッズにあふれているし、彼女が作る弁当ときたら、アルミホイルに米の飯と卵焼きと納豆をでたらめに重ねて包むだけ、という不気味なものだが、それが不思議と巴里の日本人という立場を浮き上がらせる。
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写真:『のだめカンタービレ 最終楽章 後編』より上野樹里。ショパンを弾ききる。この面構え。この人もまた神様に選ばれた何者かだと思ふ。

 そんな中で、一心に(悩みながらも)何かに打ち込む若者の姿があって、そこに胸を打たれる。邪心がない。
 いろんな方法で楽譜を見つめる登場人物の姿。立ち向かうべきは譜面である。
 ことに、ベートーヴェン31番のフーガ楽章に立ち向かう、真剣そのものの姿には、かけがえのない若き日のひとときが表出されていて、そのようなことは二度とかなわぬ身なれば、羨望とも憧れともつかぬ感情が掻き立てられ、涙が止まらなくなる。
 わき目もふらず外国で勉強するってすばらしい。正しい「向学心」というものの、最高の映像化。
 原作コミックにあるギャグもおおいに散りばめて、爆笑シーンも満載だが、様々なハンデの中で道を究める姿、という描写にまったくブレがないので、決して軽薄にならない。
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写真:『のだめカンタービレ 最終楽章 後編』より水川あさみ。ブラームス3楽章、炎の熱演。どれだけ熱演かは、演奏の終盤でヴァイオリンの弓の毛が1本切れている。演技の結果、それをやるのはすごい。

 ラストの2台のピアノのモーツァルト。次第に暴走していく上野樹里(鍵盤だけに向かい合う)と、冷静にリズムを会わせていく玉木宏(音を拾いながらも相手の動きを目で追って、呼吸をきちんと測っている)。実は驚くほど細かく演技指導がされていて、信じ難くリアルである。傑作。
写真3点のリンク元はallcinema.comより。

ソフィー・ファインズ『スラヴォイ・ジジェクによる倒錯的映画ガイド』
 ジジェクがさまざまな映画のシーンを示しながら、精神分析学的なあれこれを解説する、150分のドキュメント。

 白状すると、ジジェクが何を言っているのか、さっぱり頭に入ってこなかったのは、こちらの理解力のせいもあろうが、もう1つ言葉に実体性がないからであるように感じた。
 それに尋常でなく落ち着きのない、ジジェクの話し方。決して早口ではなく、むしろ明快な英語なのに、身ぶりがとにかくせわしなく、首を動かし、手をばたつかせ、大暴れである。

 しかし、この話し方は誰かに似ている…とシネマの記憶装置をひもとくにはあたらない。実際に画面にすぐに出てくる。
 ジジェクが本編で、何度となく引用する『ブルー・ベルベット』のデニス・ホッパーその人だ。
 これは意図したことなのか偶然か。まるでホッパーが憑依したかのような、そのしゃべりっぷりに目を奪われる。

 1つだけ、精神分析的なアプローチがなるほど、時には有効なのかもしれないと思ったのは、『スター・ウォーズ エピソード3』のラスト、アナキンがまさにダース・ベーダーに変貌するシーンが引用されたところだった。
 そこを映画史上、最も恐ろしいシーンであると評価しつつ、息子(ルーク)の誕生とともに、父親が不死となる。不死身の父親という、これほど恐ろしい存在が他にあるだろうか、と指摘したところだった。

 個人的には、「それで?」と、その先のところをもっと聞きたいわけで、全編それに終始しているのが何とももどかしく、新しい何かを学んだ気にはなれなかったのだが(つまりその程度には、引用作品もコメントも意外性はない)、ジジェクのしゃべりのパフォーマンスを見るだけでも、入場料の価値はおおいにあると見た。



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