2010/7/31

『赤毛のアン グリーンゲーブルズへの道』  映画

 高畑勲『赤毛のアン グリーンゲーブルズへの道』
 於 シネマ・アンジェリカ。ジブリ美術館ライブラリーとしての上映企画。
 もちろん新作ではない。公式HPなど、さまざまな媒体での説明によると、1979年のTVシリーズ『赤毛のアン』全50話から、1〜6話を1989年に高畑勲自ら再編集。ただし上映には至らなかったものの、劇場初公開だそうである。
 
 再編集とはいえ、カットは最小限に抑えられて見事につながれている。
 生活シーンが少しつままれている程度だろうか。いや、省略の度合いはマリラがアンを送り返そうとする道中を描く、後段あたりが一番大きいか。
 ただ、いずれの場合も、大きな時間の塊と言うべきもの(それは『赤毛のアン』の生命のようなものだが)の実質が、しっかりと残っているので、少しも気にならない。
 
 TVエピソード各話の切れ目の処理もあまりにスムーズで、そこは客観的にきちんと確認しつつ見るつもりだったのだが、物語にのめりこんでいるうちにきれいに忘れて、最後まで見てしまう。
 だがそんなことよりも、主題歌「きこえるかしら」をスクリーンのサイズの映像と、劇場音声で見ることができる喜びに震えたい。

 『赤毛のアン』1〜6話というのは、1話『マシュウ・カスバート驚く』、2話『マリラ・カスバート驚く』、3話『グリーンゲーブルズの朝』、4話『アン、生い立ちを語る』、5話『マリラ決心する』、そして…6話『グリーンゲーブルズのアン』
 すなわち、アンがグリーンゲーブルズの子として引き取られるまでである。

 改めて思うのだが、『赤毛のアン』の物語の起動は、『アルプスの少女ハイジ』とまったく同じである、ということだ。

 アルムおんじも、当初は女の子などとんでもない、連れて帰れと怒るのだった。しかし、アルムのその家を心から気に入り、そんなハイジの屈託のなさに心変わりする。
 アンも同様に、望まれずにやって来た女の子だった。そして彼女たちの存在が、彼女たちを受け入れた初老の人物の心の雪解けを促す。
 何よりも、ハイジにとってのアルムの山、アンにとってのグリーンゲーブルズという、その場所が一目で“自分の場所”と運命の出合いとなることが見事に同じである、という点で、まさに2つは姉妹作とも言えようか。

 あるいは、些細なこととして、彼女たちを引率して連れて来た者は、ハイジもアンもその場に置いて、厄介払いと言わんばかりに、みな逃げるように去って行く点も。
 おじいさんの山小屋にも、グリーンゲーブルズにも、ゆるやかな坂を上って行かなければならない、という位置関係も含め、偶然というには見事すぎる一致がたくさんある。

 だがそれにしても、人間として生きるために必要なことは、すべて『赤毛のアン』の中にあると、改めて思い知らされる。
 もっと言えば、初めてマシュウがアンをグリーンゲーブルズに連れてくる道中に、すべてある。夕暮れまでの長い道。その途中に、まるで長くは続かぬ青春のように燃え上がる、「よろこびの白い道」。
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写真:『赤毛のアン グリーンゲーブルズへの道』より。「よろこびの白い道」。この時、“想像”によって無数の花びらと共にアンは宙を舞う。そして、その宙を舞うイメージの背景が真っ黒に塗りつぶされた悪夢を、彼女はその日の晩に見ることになる。


宮崎駿が一度も描いてない、けれど高畑勲がいくども描くのは、「悪夢」を見る主人公である。
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 男の子と間違って、連れて来てしまった女の子。さてどうする。
 現実主義的なマリラは、内心この女の子を引き取ろうと考えているマシュウの心を見透かし、「女の子なんか何の役に立ちゃしないんですからね!」と、ある意味、自分に言い聞かせるようにも聞こえる声で宣言する。
 それに応じるマシュウのセリフ。
 「そうさのう。わしらの役には立たなくても、わしらがあの子の役に立つかもしれないよ」

 このような言葉を聞いてしまったら、批評はすべてのさもしい言語を封印して、ひれ伏す他ない。
 これを見たすべての者は、“いい人間”に変わるに違いない、まさに偉大なる神の言葉である。これに匹敵する言葉を批評は決して持ちえない。

 アンがグリーンゲーブルズにずっといられることが決まったところで、映画『赤毛のアン グリーンゲーブルズへの道』は、終わる。
 すなわち物語としては、まだダイアナもギルバートも出てこない。だが私たちは知っている。この後、アンがさまざまな出会いを通して、すばらしい物語を紡いでいくことを。

 まだ自分が間違われていることに気づかぬアンは、グリーンゲーブルズへの道中、マシュウに言う。「わたしの腕がぽちゃぽちゃと太ってて、ひじのところにえくぼができればいいと思うわ」
 そして、彼女は後に本当にそのような腕を持つ、ダイアナという“心の友”を得る。

 アンがグリーンゲーブルズにやって来たことが、一つの奇跡であるなら、その家の真向かいにダイアナが住んでいるということも、またもう一つの奇跡である。
 残念ながらそうしたあれこれを見ることができずに、映画は終わる。
 そのエンドクレジットの向こう側に、たくさんの美しいエピソードがあることを、私たちがアンよろしく“想像”する余韻を残しつつ。

 高畑監督による、この劇場用編集版『赤毛のアン』の第2、第3弾を望んだりはあえてするまい。この世にはしっかりと、最終話までが残されているのだから。
 主は天にいまし。世はすべてこともないのだ。 

2010/7/27

『エアベンダー』、『ザ・ウォーカー』  映画

M・ナイト・シャマラン『エアベンダー』
 シャマラン、というよりキャスリーン・ケネディ/フランク・マーシャル夫妻製作作品という方が、ファクトとして重いと思うが、そこは人それぞれだろう。

 さすがにこれほど行きあたりばったりの物語は、いかがなものかと思う。たまに不思議に思うのは、アメリカ映画というのは、しかもこの規模の作品だと、製作費が並大抵でないのだから、ある水準以上の脚本でないと、GOサインが出るはずないと思うのだが。
 実際、IMDBによると『エアベンダー』の製作費は推定1億5千万ドル。その額は、たとえば『スター・ウォーズ/エピソード3』より3700万ドルも上回るのだ。超大作である。

 とはいえ、画面の中で起こっている“現象”には、やはり目を奪われる。
 やっぱりこの監督は只者じゃないと思わされるのは、いかにも無造作に置かれたようなカメラで、まったりとした、けれど過激なアクションシーンを見せられる時だった。
 たとえば、エアベンダー一行がやって来た土の国で、火の国に苦しめられる民を解放すべく、主人公が力を放出するシーン。

 決して広くない平面空間の一角にカメラを置いて、超能力が忙しく猛威をふるうのを、ときどき右や左にパンするだけで、まるでひとごとのように粛々と映す。あたかも編集さえ放棄したかのように。そしてそれが不思議とよかったりする。

 CG全盛の現代にあって、コケおどしの映像とは、ネガティブな表現だろうが、ここではそれを精一杯肯定的にとらえたい。
 『エアベンダー』はコケおどしの映像の羅列でできているが、画面の中で起こっていることの大袈裟さと、それがいっこうスケールの大きさを感じさせぬ、まるで他人事のようなスペクタル。これはスクリーンというフレーム枠に描かれた、動く絵本だ。
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写真:『エアベンダー』より。これはクライマックス、水の国での戦い。こんなロングのアクションでいいのかなぁ、と思うけど、とめどない動きに満ちたこれが案外、“間”がもつのである。画像リンク元 eiga.com

ヒューズ兄弟『ザ・ウォーカー』
 『ザ・ロード』に続いて、また世界崩壊後の、ならず者ばかり世の中を、延々と旅するバディ・ムービー。
 この手の世界観はもう飽きたなあと思いつつ、まるでキリスト教教会の一大PRといった風情のこの映画に、突然目を見開かされたのが、主人公と少女が旅をする中で、ふと立ち寄った荒野の中の一軒家での銃撃戦からだった。
 前方からのガトリング砲で、粉々になる扉のあたりで、何ともかっこいいカメラの動かし方をしてみせる。

 また、このいかにもポツンと残された、雰囲気のこの家屋と、それを捉えるカメラと編集がとてもいい。一瞬驚くほどの生々しさがある。
 そして、そのシーンに続く、取り残された少女が、自ら単独で戦闘を開始し。敵の車を破壊しようと手榴弾を道路に沿って投げるその見事さ。
 このあたりに、監督名というよりは、なるほど製作ジョエル・シルバーの刻印だな、と思わされる。 

2010/7/24

『借りぐらしのアリエッティ』  映画

 米林宏昌『借りぐらしのアリエッティ』
 前回が「崖の上(のポニョ)」だったから、今度はさかさまの「床下(の小人たち)」で行こう、と宮崎駿/鈴木敏夫が思ったかどうかはわからない。

 けれど、落下することによって、ナウシカが腐海の謎を解き、パズーとシータが天空の城を発見し、メイがトトロと出会い、キキが初めて涙をこぼすほど笑い、豚がフィオと出会うきっかけとなり、ハクが名前を取り戻すことを考えあわせるならば、物語の舞台が「崖の上」から「床の下」へと落っこちることが、決して悪いことになるはずはない。

 その契機として、米林宏昌監督がデビューを果たす。重圧の中、見事に仕事を成し遂げたことをお祝いしたい。
 クレジットでは「企画・脚本 宮崎駿」とあるが、ここを愚直に信じるとして、いやしかし「監督・米林宏昌」を強く意識したのは、ヒロインの「決意表明」を髪を後ろにまとめるというアクションに収斂させたことだった。

 基本的に宮崎ヒロインの「決意」は、『未来少年コナン』の昔から、そでをまくりあげることによって示される。細かく精査すれば、どこかにはあるのかもしれないが、それを髪で表現することはついぞなかったはずだ。少なくとも、ナウシカが一度たりとも髪に手をやらなかったことは、断言できる。
 気絶したルパンの額を冷やそうと、肘まである長い手袋をとるクラリスや、階段疾駆を前にたすきをかける千尋のアクションは、そでをまくりあげる動作のバリエーションと言えるだろうか。

 『借りぐらしのアリエッティ』のヒロインは、行動を起こす時、髪を後ろにまとめて、人間に“借りた”であろうミニクリップで、それをピッと止める。
 まったく新しいジブリヒロインの誕生だ。
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写真:『借りぐらしのアリエッティ』より。この場面、2人は葉っぱと網戸という、2重のスクリーンを通して対話をする。人間の目に映るのは、小人のシルエット。画像リンク元はeiga.com

 「人間に見られてはいけない」アリエッティは、人間にみつかる。“借り”ようとした角砂糖と共に添えられた、人間からのたった5文字のメッセージ。
 これを見たアリエッティは、行動を起こすための決意を固める。ここで、下ろしていた豊かな髪をうしろにまとめ、はっきり心を決めた者だけの持つ、毅然とした表情に変わる。
 その瞬間、コンマ1秒の狂いもなく、完璧なタイミングで中音域のピアノの一音が打ち鳴らされる。沸き立つ感情。
 完璧。この一瞬に私は幸福のどん底に叩き落とされる。この瞬間こそが映画の喜びでなくてなんだろう。

 もちろん、アリエッティばかりでなく、最後にひとつ添えておくと、アリエッティの一家が優雅に使っている家庭用品の描写のすばらしさ。
 「いい香り・・・」と匂いを頼りにふと、アリエッティのお母さんが使い残していった、ミニチュアポットを手にとると、中には1枚のハーブの葉。
 一家が団欒のとき入れていたハーブティの正体である。その葉の小さな小さなささやかさが、一家の育んでいた小さな小さな幸福を一挙にイメージさせる。

 その小さな生活の幸福感。『借りぐらしのアリエッティ』では、その住み心地のよさそうな部屋の中で、お母さんとアリエッティがいつでもテーブルを拭き、食器を片づけ、洗い物をしている。おおいにおしゃべりを楽しみながら。
 そして父が外から帰ってくると「お茶にしましょう」と。

 この空気感に『赤毛のアン』を想起せずにいるのは難しい。米林監督は若いのに、高畑演出の骨法も取り入れている。宮崎/高畑の血を汲んで、これは正真正銘のスタジオ・ジブリ最新作だ。

2010/7/22

高畑勲『赤毛のアン』の音楽  音楽

 私の蔵書の中でも1、2を争う大切な本があって、それが『赤毛のアン ピアノ曲集』(全音楽譜出版社)だ。奥付を見ると、昭和57年9月25日の発行。
 高畑勲『赤毛のアン』の放送が1979年のことだから、その3年後の刊行である。
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写真:『赤毛のアン ピアノ曲集』(全音楽譜出版社)もうすっかりボロボロ。撮影:Incidents

 音楽は、三善晃と毛利蔵人。三善晃はOPとEDを含む4曲を作ったが、多忙のため弟子にあたる毛利蔵人にメインを任せたことは、様々な所で語られている通りかと思う。

 さて、23曲をおさめるこの曲集が貴重なところは、その譜面が三善晃および毛利蔵人自身によるペンであるということだ。
 私の知る限り、この譜面に基づく録音は行われていないが、三善および毛利が『赤毛のアン』本編で聴かせたのとは、また異なるバージョンの音楽を、ここに読むことができる。

 有名な主題曲「きこえるかしら」。
 三善晃作曲によるこのピアノ譜は、原曲におけるフルオケによる前奏と、非常に複雑なリズムを持つ「♪きこえる・かしら/ひづめの・お・と・♪」の後の間奏を見事に切り落とし、ピアノ=つまりビートの効いた撥弦楽器であり、エコーもばっちりかかる音階楽器としての特性を、フルに生かしたアレンジをほどこしている。
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写真:「きこえるかしら」楽譜(部分)。「♪ゆるやかな丘をぬって」のフレーズに入る前のややこしい休符が好きなんだが、そこはカットされてるのがやや残念。撮影:Incidents

 この曲集での「演奏の手引き」において、三善自身がこれを、「3・3・2や2・3・3・などのリズムによる運動性(ムーブメント)を活かすこと。旋律は、大きなプロポジション(欒句のまとまり)で弾き切り、その中でスラーによる分切の奏法(アーティキュレーション)を活かす。」と指示している。

 そして、この歌の「♪迎えにくるの/迎えにくるのね/だれかが/私をつれていくのね♪」のフレーズの、どんどん高揚していく所に向けて、左手は常に上昇音階を保つ。
 この、上昇しかしないという音型。これが、この曲の沸き立つ高揚感の秘密であって、上から下に音階が下がる部分は3か所だけである。
 このように、この譜面はいくら見つめても飽きることがない。

 もちろん、ほぼすべてのBGMを書く毛利蔵人の音楽には言うべき言葉もない。
 かねがね『赤毛のアン』の音楽には、ジョルジュ・ドルリューの面影を重ねてきたが、それもそのはず、「毛利蔵人」の名前はモーリス・ラヴェルとクロード・ドビュッシーからとられている。純フランス音楽を指向する人なのだ。

 私が分けても好きなのは、マシュウが亡くなった後、泣くことさえできなかったアンの涙が、鋭く入って来るフルートの音で、まるでそれがきっかけだったかのように、ついに堰を切ってあふれ出す、哀しみの音楽なのだけど、残念ながらその楽譜はこの曲集に入っていない。
 たぶんあの曲は、ピアノでの表現は不能と踏んだのではないかと思う。

 それとは対極の、喜びに満ちた「ほのぼのとしたアンとマリラの愛情」という、2人がおしゃべりしてる時に(正確にはアンが一方的にしゃべっている時に)よく流れてくる曲に、毛利蔵人のジョルジュ・ドルリュー的…と言うのが不正確なら、ドビュッシーに近い曲調を発見することができる。
 多くの場合、よく響くリコーダーの音色で流れてくるこのメロディは、次に音がどこに飛んでいってしまうのか、予想のつかない面白さに満ちている。
 それはまるで、話題がどこに向かうのやら、検討のつかぬアンのおしゃべりのように。
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写真:「ほのぼのとしたアンとマリラの愛情」楽譜(部分)。腕に覚えのある人は、このフレーズを小学校の時の、ソプラノ・リコーダーで吹いてみてほしい。最高に快感。撮影:Incidents

 この曲を、やはり本書中の「演奏の手引き」によると、毛利蔵人自身の筆で、「誰もが特定の色に対する好みがあるのと同じように、私にはある調性への偏愛があり、それがこのEdurへの執着に顕著です」と。

 Edur。すなわちホ長調。この言葉を読んで、直ちに思い出すのは、ドビュッシー「アラベスク1番」だろう。いかにも『赤毛のアン』にも流れてきそうな曲だ。
 この曲集では、他にホ長調の曲は3つあり、毛利がこの調をいかに愛したかがわかる。

 ホ長調では「希望へ」と題される曲も。これは本編中、いたるところで聴けるが、話し合うアンとダイアナがふと沈黙する時に流れると、これが最も印象的に響くと記憶する。
 このピアノ譜では、アニメ本編中のゆったりと、間を大きく開けたアレンジとは異なり、ピアノの減衰音が消える前に、次の音符を鳴らすよう配慮されており、ここでもやはり楽器特性を生かしたものとなっている。
 このように、音と音との響き合いが、例えようもなく美しくお色直しをしている。
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写真:「希望」楽譜(部分)。3小節目3拍目から始まる主旋律。これを非常に広い音域の左手が支えて、たとえようもなく美しい。テンポ指示はレント・カンタービレ(ゆっくりと歌うように)。ドビュッシーの名曲『レントより遅く』を意識したかどうか・・・。撮影:Incidents

 師・三善晃は現在もご活躍だが、弟子である毛利蔵人は惜しんでも惜しむ切れぬことに、1997年に46歳の若さで急逝している。
 寡作ではあり、作品数は極度に少ないのだが(劇映画としては小栗康平『泥の河』を残すのみ)、もし今も健在で、ジブリ作品で筆をふるっていたらと、惜しまれてならない。
 私見にすぎないが、野見祐二が担当した『耳をすませば』の音楽が、毛利蔵人の感性にもっとも近いように思う。

 なお、高畑勲は『翼は心につけて』(1978 堀川弘通)の主題曲が好きで三善晃に音楽を依頼したということは、しばしば自ら語っているが、この方の音楽センスはやっぱりズバ抜けている。
 それもそのはず、『風の谷のナウシカ』で久石譲を見事にコーディネートした人物なのだから。

 暑く寝苦しい夜、ふと美の結晶のようなこの曲集を広げてみた。


2010/7/20

『トイ・ストーリー3』  映画

リー・アンクリッチ『トイ・ストーリー3』

 前作『カールじいさんの空飛ぶ家』から、ピクサーは「失われ、決して戻ってこない過去」というものを強く打ち出すようになった。
 妻と過ごした、あのかけがえのない日々が、『カールじいさんの空飛ぶ家』全編を通して強く漂う“気分”であり、おくさんのエリーの写真(少女時代の)が、画面に映るたび、もう戻ってこないあの日々のことが思い出され、そのことが私たちの涙腺をゆるませた。
 それは私たちの誰もが、そうした日々を持っているからで、それを表現する方法が、『カールじいさんの空飛ぶ家』をかけがえのない傑作とした。
 ただし、今こそがまさしく“かけがえのない日々”を生きる、現役の子どもにとってはそれがどれだけ意味をなすかは疑問ではあった。

 さて『トイ・ストーリー3』。
 「1」と「2」ではまだ子どもだったアンディが、大学生になる。仲良しだったウディとバズたちは、これでお別れとなる。
 おもちゃたちに囲まれて、にっこり微笑む子ども時代のアンディの、セピア色の写真。戻ってこない過去を記録した、その写真を見つめながらウディたちは胸しめつけられる。
 ちょうどエリーの写真を見つめたカールじいさんのように。

 「1」と「2」を知る私たちも、アンディが子どもだった“あの頃”を覚えている。分けても胸しめつけられるのは、なかなかハンサムに成長したアンディ以上に、むしろ大きくなった妹のモリーかもしれない。「1」では彼女もまだ赤ちゃんだった。
 
 あるいは、アンディの飼い犬バスター。ウディが口笛を吹くと、目にも止まらぬ猛スピードでやって来たこの犬が、今では老犬となり、よたよたとしか歩いてこない。
 「1」(1995)と「2」(1998)からは実に10年以上がたったのだ。この間、私たちもその歳月を過ごしてきたのだ。

 少しだけ私事を語らせていただく。「1」のときまだ私の娘は生まれていなかった。
 「2」のとき、ウディとバズの玩具が大好きだった、まだ3歳の娘を劇場に連れていった。しかし、初めてのスクリーンの巨大さに仰天した娘は、恐怖に泣き叫んでしまい、10分もしないうちに劇場を脱出することになった。
 そして今夏、その娘はクラスの仲間たちと、携帯メールで約束し合い、友だちグループだけで「3」を見に行った。
 これが時の流れというものだ。

 今、ピクサーが幅広い年齢層の観客を勝ち得ているとしたら、時の流れに対するこうした強い意識があるからかもしれない。
 『トイ・ストーリー3』でウディがくじけそうになるとき、彼はふとアンディの子どもの時の写真をみつめる。
 その気持ちは、アンディに遊んでもらう玩具のそれでなく、親としてのものだ。

 『トイ・ストーリー3』はしかし、その方向でウェットに走りすぎた感のある『カールじいさん…』の軌道を少し修正し、囚われの保育園からのウディたちの「大脱走」に物語の比重を置く。ほとんど全編、この「大脱走」のハラハラに費やされるところが肝だ。

 その高揚感の多くは、ジョン・スタージェスの『大脱走』がそうであったように、持てる道具を知恵を絞って利用する、という機転の連続からくる痛快さによる。
 黒澤明『椿三十郎』の赤い椿、白い椿の暗号を用いる「大脱走」もその類だ。
 ロン・ハワード『アポロ13』で、ロケット内にある道具だけを使って、いかに空気漏れを防ぐかという、あの最も胸のときめくシーンを思い出してもいい。

 今ある道具をいかに使って、難局を切り抜けるかという知恵と工夫と発想の転換。これは映画が面白くなる、最強の筋書きパターンだ。
 それはもちろん、『未来少年コナン』から『天空の城ラピュタ』あたりをピークとする、宮崎駿映画の面白さの真髄に他ならない。

 『トイ・ストーリー3』はまさしくそれをやる。しかもこの映画の面白さは、「大脱走」を試みるのが玩具たちであって、その玩具自体がそもそも「道具」であるということだ。文字通り体を張った脱出。

 こうして、『トイ・ストーリー3』は大人にとっては、これ以上ないほど感情を揺さぶられる構造を持っている上に、そんなノスタルジアなどに無縁の子どもにとっては、最高にエキサイティングな娯楽作になっている。完全映画という他ない。

2010/7/18

『ハロルドとモード』、『パリ二十区、僕たちのクラス』、『バウンティー・ハンター』  映画

ハル・アシュビー『ハロルドとモード 少年は虹を渡る』
 於 新宿武蔵野館。1971年製作作品。
 いわゆるアメリカン・ニューシネマは、不思議と2人のコンビで物語が展開する。『イージー・ライダー』のピーター・フォンダとデニス・ホッパー。『真夜中のカーボーイ』のジョン・ボイトとダスティン・ホフマン。『スケアクロウ』がジーン・ハックマンとアル・パチーノ。『俺たちに明日はない』はそもそも原題がボニー&クライドで、『明日に向かって撃て!』の原題もブッチ・キャシディ&サンダンス・キッドだ。ちょっと変わったところで『ハリーとトント』というのも含められようか。

 この映画もその一本で、タイトルが示す通り、コンビの映画。分けても異常の度合いは高く、19歳の少年と79歳の老婆の純愛である。

 19歳の少年ハロルドを演じるのが、『バード★シット』に続き、バッド・コート。79歳の老婆モードを演じるのがルース・ゴードン。ルース・ゴードンというと、オスカーも獲得したポランスキー『ローズマリーの赤ちゃん』の恐怖の隣のおばさんかもしれないが、もっと強烈なのは間違いなく、『ダーティ・ファイター』でショットガンをぶっ放すのが大好きな、イーストウッドも勝てぬ威勢のいい婆ちゃんだろう。
 『ハロルドとモード』では、19歳の若者とセックスするのだから、たいしたものだ。いや、79歳とセックスするバッド・コートがたいしたものなのか。それはどちらでも。
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写真:『ダーティ・ファイター』(1978)より。ルース・ゴードン。1970代初頭。この人とセックスができてしまうほど、当時の19歳は病んでいたのである。写真画像リンク元はこちら

 ハロルドは母親の目の前で狂言自殺するのを好み、他人の葬式への参列を趣味とする、度し難い甘ったれ坊やだ。1971年という時代の雰囲気が、いかに若者にとって“生きる意味”とやらを失っているとはいえ、容認しかねるものがある。
 その母親も慣れたもので、息子が目の前で首を吊ってぶら下がっていても、平気な顔である。そうした中、ハロルドとモードが劇的な出会いを果たし、“自由”であることを追求しつつ、心と心を通わせ合う。

 私自身はこの映画にもう一つピンと来なかったのだが、その理由としては、ハロルドとモードの行動に、明確な主張を発見できなかったこともある。
 が、それ以上にハロルドの行動に、生と死の境を接した、ギリギリの緊張感が見えないことだ。ここに私は狂気とユーモアを共存させられない、バッド・コートという人の俳優としての限界を見たような気がするし、ハル・アシュビーという監督の本質的な品の良さが、裏目に出た結果のように思う。
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写真:若かりし日のルース・ゴードン(1896〜1985)。歳月というのはかくも残酷なものかを示す好例。うむ、この人とならセックスできる。というか是非したい。画像リンク元はこちら

 アシュビーの代表作と言っていいだろう、『さらば冬のかもめ』や『チャンス』の、ジャック・ニコルソンとピーター・セラーズという、狂気もユーモアも必要以上に持った怪優を使ってなお、どこか確かな手ごたえのない(けれどそれが美点でもあるのだが)作品群。
 異論はあるかもしれないが、だから『帰郷』のように明快な輪郭線を持つ作品であれば、作品が澄んだ輝きを得るように思う。
 
 製作年の関係から、どうしてもこの作品を、ベトナム戦争化のアメリカ合衆国の“気分”と結びつけて考えたくなるが、終盤に明かされるモードの腕に刻まれた、ある刺青によって、物語は第二次世界大戦も射程に入れる。
 だから『ハロルドとモード』が視野に入れた領域はもっと広い。だからその広さにふさわしい、あともう1つが足りないように感じた。
 
 そのもう1つというのは、映画表現そのものに襲いかかる、激烈なショットなりカットなり演技なりだと思う。他のアシュビー作品は、もっと「はっ」とさせられる場面を、作品に含んでいたのではないだろうか。
 残念ながら、この作品では歴史の淘汰に勝てないような気がした。

ローラン・カンテ『パリ二十区、僕たちのクラス』
 申し訳ないが、これは認められない。できの悪い作り物だ。
 手法そのものは、あたかも現実の教室にカメラを持ち込んだかのように、撮られているし、そのように喧伝されもし、かつそのことでカンヌ映画祭パルムドールも得たようだが、その手法がかえって、ちょっとドラマチックな事件が起こるとすぐ、ウソくささを露呈させてしまう。

 教室内にはさまざまな人種、移民がいる。その混淆は、日本の中学校の教室からは想像もつかぬ複雑さだが、それをウソだとは言わないが、その人物造形があまりに類型的だ。
 優等生の中国系の少年とその父母の入国にまつわる展開にしても、これもウソとは言わないが、あまりに“いかにも”なので、逆に作り物めいてみえる。

 また、クラス一の問題児である、マリ国からの移民の息子をめぐる、あれこれのエピソードのステレオタイプぶりには、さすがにうんざりさせられる。
 この子と、前の学校を退学させられて、転入してくる少年の組み合わせは、『三年B組金八先生』2シーズンの松浦悟と“腐ったみかん”加藤優の関係とほぼ同じで、日本人にはおなじみの展開。つまりは、その程度に平凡な設定である。

 この映画が胡散臭いのは、あたかも「現実」を映しているようで、その実、誰もがイメージしそうな「現実」しか描いていないからだ。
 作り物なら作り物で、そのこと自体は否定しない。でも、これがいかにも現場にカメラを持ち込みました、と言わんばかりに作られているから、たちが悪いのだ。

アンディ・テナント『バウンティー・ハンター』
 「バウンティ・ハンター」でなく、「バウンティー・ハンター」という表記がどこか垢抜けないなと思いつつも、まずまず楽しむ。
 ジェラルド・バトラーという俳優の、罪のない軽快さは、けっこう貴重ではないだろうか。下品になるギリギリの所で、2枚目に踏みとどまれる、珍しい役者だと思う。同系統のメル・ギブソンやジョージ・クルーニーのような、近寄りがたいセレブ感がないのもまたいい。
 すべての作品が超大作である必要はないし、本当にこの程度にそこそこ楽しませてくれれば全然いい。そして、こうしたそこそこの映画がたくさんあって、その総和で世界最強というのが、アメリカ映画の美点のはずなのだ。

 ただ、楽しんだとはいっても、中途から少しだれる。面白い脇役があと1人足りなかった。ウィル・スミス『最後の恋の始め方』、ドリュー・バリモア『エバーアフター』、リース・ウィザースプーン『メラニーが行く!』と、いいタッチの映画を作って来た監督なので、今回も期待したが、主演の2人に少し寄りかかりすぎた点で、ちょっと残念。
 でも、身も心も休めたいウィークエンド・ムービーとして、実にうれしい作品。

2010/7/14

『ガールフレンド・エクスペリエンス』  映画

 スティーブン・ソダーバーグ『ガールフレンド・エクスペリエンス』
 必見。風俗を描くとはこういうことかと思う。
 こんな映画を撮ってしまうから、ソダーバーグはやっぱり追い続けないといけない。

 参照として引くには申し訳ないが、村上龍が映画『トパーズ』(1992)を撮った時、たとえばソダーバーグのようなセンスがあればよかったのだと思う。
 もちろん時代が時代であって、村上龍が『トパーズ』を作った90年代初めは、まだまだ文化的に娼婦の生態そのものが珍しかった。あえて突飛な状況を設定しようという、村上龍の作家的野心も、後づけだが理解できる。だから同じレベルで比較はできないはずだ。
 けれど、やはりソダーバーグとの作家的余裕の差は、歴然としたように感じた。

 ニーチェをたしなむ高級娼婦の日常を描く『ガールフレンド・エクスペリエンス』には、スキャンダラスな映像や挿話はひとつもない。
 ヒロインのチェルシーを演じるのは、実際のハードコア・ポルノ女優サーシャ・グレイ。
 日本でいえば、原沙央莉か吉沢明歩か麻美ゆまといったあたりの位置づけだろうか。
個人的にはアメリカのポルノ女優では、レイシー・ハートを最も愛しているが、欧米のこのジャンルの女優は、あってはならないところにタトゥーがあったりして、これも個人的にはちょっと。欧米ポルノ最大の特徴たるカメラ目線も嫌いだし。とはいえこれはまあ、別の議論である。

 この映画の見事な点は、チェルシーの内面を徹底的に描かなかったことにある。無駄なクローズアップがなく、たまに大写しがあったにせよ、画面のメリハリをつけるためのみに限られ、しかるべき感情を表す時にカメラが近づいていくようなことはない。
 チェルシーは一個の個人ではなく、ニューヨークという街にある一つの風俗なのだ。

 だから彼女をとりまく人物(それはつまり彼女を買う男たちということだが)も、政治や経済のことを彼女に愚痴るが、それも当然、現代アメリカに偏在する風俗である。そんな人物やその発言に、際立った個性は与えられない。
 だから、娼婦である彼女のメイン業務である、セックスそのものも描かれない。それはルーティンの1つだから、あえて見せるまでもない。そこで交わされる、チェルシーと顧客の会話のぶっきらぼうな描き方にこそ、今の政治と経済の空疎が滲み出る。
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写真:『ガールフレンド・エクスペリエンス』より。
金を数えるサーシャ・グレイの指先。彼女は現金決済なのだ。画像リンク元


 チェルシーの無機質な表情からは、驚くほど何も読みとることができないのだが、彼女の顧客たちはそれを一向気にする様子がない。
 顧客たちは、時折「本当の君の素顔を見たい」などというが、本気で見せてほしがっているようにも見えない。あくまでガールフレンド経験をしたいために、そんなようなことをポーズで言ってるだけだ。だからセリフも棒読みで、第一、目が本気じゃない。
 「本当の君を見たい」と真剣に男が言うときは、相手の顔を覗きこむものだ。彼女の顧客は彼女と目も合わせない。いや、それを言う顧客の顔を、そもそも映してない。

 けれど、そんな彼女は自らの価格を据え置く、または値上げのために、娼婦ランキングのブロガーに、よい評をつけてもらうべく、それなりの努力をしたりもする。そこにふと見える人間味は、つまるところ株価に憂える顧客たちのそれと変わらない。
 なぜならそれは、自分を資本とした、「商品」の小売価格を吊り上げる試みにすぎないのだから。この辺に、資本主義へのソダーバーグの皮肉な視線があって、『チェ』、『ソラリス』、『インフォーマント!』などに論を継ぎたくなるが、それはまた別作業だろう。

 さらに彼女の人間味は、占星術にとらわれていることにもある。それをきっかけに、同棲中の男性と別れ話に発展するが、その別れる別れないの口ゲンカのシーンがこの映画のクライマックスかもしれない。
 感情的な男の方と、淡々と主張を述べる彼女の、切り返しを伴わない長回し。彼女が人間味を発揮する場所(占星術)は、どこか間違っている。
 けれど、カメラはどちらか一方に肩入れすることなく、ただじっと見ている。対象をただじっと見るだけのカメラというのは、なかなかないものだ。
 なぜなら、カメラはただそこにぽんと置かれて回っているだけでも、観客はそこに映っている事物に対して感情を捏造してしまう。映像にはなぜだかそうした効果がある。
 
 ただ撮影しているだけで、観客に対するそれ以上の感情操作を一切せぬ画面。それをソダーバーグはすでに『セックスと嘘とビデオテープ』で実現しているが、77分という、この映画の極端に短い上映時間は、それをさらに絞り込んで行っている。

 ひとりの高級娼婦の日常を示すだけで、芋づる式に現代NYのビジネスシーンやポリティカルシーン、そして生活人の“気分”を示してしまう。すなわちこれこそソダーバーグが「風俗」を描くということだ。
 となると、それらが等価で描かれていることから察して、ニューヨーカーの営みはみな“娼婦”の仕事と同じと主張しているんだ、とも解釈できそうだが、私自身はその見解をとらない。
 チェルシーの仕事そのものを、映画はいささかも卑下していないし、偏見もないからだ。それこそが究極のリベラリスト、ソダーバーグたる所以でもあるのだ。
 
 ちなみに、『プリティ・ウーマン』でジュリア・ロバーツ演じる娼婦は、口へのキスはなしというのを、最低限のモラルと称していたが、そんな娼婦は3流以下で、チェルシーは誇りある超高級娼婦だからして、もちろん口への濃厚キスもOKである。
 だいたい、口へのキスはNGなどと、自らの職業・商品を恥じているから、そんなことを言う。それでは自らを卑下しているようなものではないか。 

2010/7/12

『バード★シット』  映画

ロバート・アルトマン『バード★シット』

 於 新宿武蔵野館。
 この作品は初見だが、アルトマンが作る映画の自由さに、つくづく溜息がでる。MGMという社の名前を借りて、よくもこれだけの悪ふざけができたものだと思う。
 けれど、ただの悪ふざけでなく、それが1970年という製作年を考えると、この頃の合衆国の息苦しさがうっすら見えてくる。映画の中で起こる現象自体は、クレイジー極まりないのに、主人公のブリュースター・マクラウド(バッド・コート)のまだ失われていないイノセンスを思わせる顔が、その憂鬱を引き立てる。
 (ちなみに原題は“Bird Shit”ではなく、“Brewster MacCloud”)

 先に私は「自由」と書いた。この映画は、「人類はかねて鳥のように飛ぶことを夢見てきた。しかしそれは、飛ぶという自由を求めるからなのか、飛ぶことによって得られるはずの自由を求めるからなのか」という、刺激的な命題から始まる。
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写真:『バード★シット』より。冒頭いきなりそういう命題を言い出すルネ・オーベルジョノワ。

 この映画で飛ぶことを夢見ているのは、主人公の少年ブリュースター。彼が謎の美女(サリー・ケラーマン)の助けを借りつつ、自分で空を飛ぶ夢に黙々と取り組んでいるのだ。

 考えてみたら、アルトマンという人は、けっこう空を飛びたがる作家だ。
 そのことは『M★A★S★H』(1970)冒頭で、ジョニー・マンデル作曲の、美しい“Suicide Is Painless”(しかし何というタイトル!)が流れる中、不気味にヘリが飛ぶタイトルバックを思い出してもいい。または『ストリーマーズ』(1983)。

 けれど、これらを見てもわかる通り、アルトマンにとって“飛ぶ”というイメージは、“自由”などをいささかも意味するものではない。
 『M★A★S★H』冒頭のヘリが戦場のそれであり、従ってそれが自由とほど遠いことは自明であるし(いや、この映画で描かれた朝鮮戦争が「資本主義」という「自由」を守るための戦争であると考えるなら、限りなく「自由」に近いのか。どちらにせよ悪いジョークである)、『ストリーマーズ』も、ベトナム戦争における、空挺部隊の物語だ。
 あるいは『ショート・カッツ』(1994)も、冒頭いきなり(害虫駆除のための)ヘリの飛行。映画全編を通して通奏低音のように聞こえるヘリの音は、息苦しさしか産みはしない。
 これ以上、逐一の記述はしないが、『ニューヨーカーの青い鳥』(1986)でも、そうした意味の符号を見てとることはできるだろう。

 『バード★シット』の主人公の少年が住み、飛行を試みるのは、アストロ・ドーム。
 ヒューストンにある世界初の屋根付き球場だ。(ここは『がんばれ!ベアーズ特訓中』(1977)のクライマックスの試合場として、70年代アメリカ映画好きには、記念すべき場所かもしれない)
 Wikipediaで調べたところ、この画期的建造物がオープンしたのは、1965年だそうだ。なんと。1965年とはもちろん、北爆開始の年である。
 ついでに言うなら、アストロ・ドームのあるテキサス州は、その北爆を決行したリンドン・ジョンソン大統領の選出州ではないか。これは決して偶然なんかではないだろう。
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写真:『バード★シット』より。自力飛行を夢見るバッド・コート。この子の丸メガネはやっぱりジョン・レノンを意識したものなのだろうか。

 さて、『バード★シット』の主人公が飛び立とうとするのは、こうした“屋根つき”球場内であって、大空ではないのだが、ではこの主人公が求めた自由とはなんなのだろうか。ここに“自由”というものの明確なイメージの不在が明らかになる。
 こうして、冒頭の博士による「求めるのは飛ぶという自由なのか、飛ぶことによって得られるはずの自由なのか」という命題に戻るだろう。

 ちなみに、主人公の飛行を阻止せんものと、警官隊が突入するアストロ・ドームの入り口は「北口」だった。“North”の標識をはっきり撮ったことに、「北ベトナム」…「北爆」といった暗喩を見てとることも、あるいは可能だろうか。

 1970年という時代にあっては、「自由」というものをどのように考えるべきだったのか。そのイメージできぬ“自由”を追った結果、どういうわけだか警官隊に追われることになる不条理と共に、そうしたことに、深く想いを馳せられる。
 『バード★シット』から40年もたったのに、私たちはこれぞ「自由」だと言える何かを一切掴んでいないのではないか。
 必見の上にも必見。時代と切り結びつつ、それが現在にも届く光を与えたアルトマン屈指の傑作と言う他ない。
(上記2点の画像リンク元はこちら

2010/7/9

『風の谷のナウシカ GUIDE BOOK』  映画

 来る7月14日の『風の谷のナウシカ』ブルーレイディスクの発売を記念して、1984年に出版された『風の谷のナウシカGUIDE BOOK』が復刻発売された。

 初出当時のものを持っているので、必要ないと思いつつも、ことは「ナウシカ」に関わることなので、ためらわず購入する。実に26年の歳月が立ったのだ。
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写真:オリジナル(右)と復刻版(左)の「ナウシカGUIDE BOOK」 帯が違う…。撮影:Incidents

 私の中で、映画『風の谷のナウシカ』はまったく色褪せていないが、本の方もほとんど色褪せていなかった。当たり前である。私はこの本を、読書用と保存用の2冊持っていたからだ。ついでに書くと、切り抜き用としてあと3冊ほど買ったから、この本を当時5冊買ったことになる。

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写真:オリジナル(左)と復刻版(右)の表4。違いはISBNコードの有無。オリジナルは「アニメージュ増刊」の扱いだからかな。撮影:Incidents

 そんな恥はともかく、こういうことは古い人間の酔狂な作業としてご容赦いただくとして、この作業にはまったく100%意味もなければ、積極的な主張も一切ないけれど、この「GUIDE BOOK」のオリジナル版と復刻版の異同を一覧にしておく。
 左側がオリジナル、右側が復刻版である。

【表1】
アニメージュ増刊 → ロマンアルバム
GUIDE BOOK → GUIDE BOOK復刻版
帯「クラリスからナウシカへ」→「ブルーレイディスク発売記念復刻版」
480YEN → 680YEN

【表2】なし → 表2・3の広告は昭和59年当時のものです。
(Incidents註:驚いたことにサントラの広告をそのまま復刻)

【P.181】
11人の話すそれぞれの宮崎駿 → 10人の話すそれぞれの宮崎駿
宮崎氏と対談した9人の会見印象 → 宮崎氏と対談した8人の会見印象

【P.199】
脚本家・伊藤和典 インタビュー記事 → ナウシカ原画に差し替え

【P.205】
写真キャプションとして
押井・伊藤さんらと激論 → 押井さんらと激論

【P.230】
編集後記 尾形英夫 → 編集後記 尾形英夫(アニメージュ初代編集長)
なし → 復刻版であることの註(引用省略)

奥付アニメージュ増刊 
映画「風の谷のナウシカ」ガイドブック
昭和59年3月30日発行 定価480円
編集人 発行人 尾形英夫
発行所 株式会社 徳間書店
〒105東京都港区新橋4の10の1
電話 03(433)6231(大代)
印刷 製本 大日本印刷株式会社
雑誌01578-3 C徳間書店 1984
    ↓
ロマンアルバム
映画「風の谷のナウシカ」ガイドブック 復刻版
平成22年7月15日初版発行
発行人/吉田勝彦 編集人/松下俊也
発行所 株式会社 徳間書店
〒105-8055東京都港区芝大門2-2-1
電話 03(5403)4341(編集) 048(451)5960
印刷所 大日本印刷株式会社
C徳間書店 2010

【表3】
なし → 表2・3の広告は昭和59年当時のものです。
(Incidents註:驚いたことにVHSビデオ、レーザーディスクの広告をそのまま復刻)
なし → 本書は、1984年に刊行された「風の谷のナウシカGUIDE BOOK」を一部再構成の上、復刻したものです。
なし → クレジットの詳細(省略)

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写真:ちなみにこちらは、封切当時の『天空の城ラピュタ』、『紅の豚』のGUIDE BOOK。「トトロ」と「魔女」については発売されなかった。
「ラピュタ」や「豚」がブルーレイ発売されるときは、この2冊も復刻されるのかな?
撮影:Incidents

2010/7/5

『ハーツ・アンド・マインズ』、『ウィンター・ソルジャー』  映画

ピーター・デイヴィス『ハーツ・アンド・マインズ/ベトナム戦争の真実』(1974)
監督名クレジットなし『ウィンター・ソルジャー/ベトナム帰還兵の告白』(1972)

 於 東京都写真美術館ホール。
 どちらもベトナム戦争における、米兵の非人道的行為を告発するドキュメント。『ハーツ・アンド・マインズ』は、同年のアカデミー最優秀長編ドキュメンタリー賞受賞。

 劇場パンフの解説では、「ハーツ・アンド・マインズ」という言葉は、ジョンソン大統領(当時)の演説の言葉、「「(ベトナムでの)最終的な勝利は、実際に向こうで暮らしているベトナム人の意欲と気質(ハ−ツ・アンド・マインズ)にかかっているだろう」から採られているそうだ。
 映画の中にも、この演説の音声は使用されている。

 私自身がこの「ハーツ・アンド・マインズ」という言葉を知ったのは、生井英孝『ジャングル・クルーズにうってつけ日』(筑摩書房)でのことだった。
 私はベトナム戦争についてのみならず、アメリカについて書かれた日本語の本で、これ以上の書物を知らないが、本書の中ではこの言葉を、ベトナム駐留における、米海兵大隊による、S−5/民政対策活動について、米本土の政治家が呼んだ言葉として紹介している。
 すなわち、『心と信頼の獲得』(Winning Hearts And Minds)ということだ。

 この活動の主任務は、「ヴェトナムの一般民衆を対象に無料で治療・衛生活動をおこなう民間対策医療計画や食料・物資の提供、学校・公共施設の建造といった支援活動」だという。
 ところが、このS-5活動は、軍部内できわめて白眼視されていた。というのは、米軍、ことに海兵隊とは、「勇猛に戦うことこそが己が使命の第一義にあると信じる戦闘集団」であり、こうした「地味な平和的活動は猛者にふさわしい男性的な仕事ではなく、たとえ必要だとしてもそれは昇進を諦めた者がやればいいと考えられていた」からなのだと。

 本書は、もしこのS-5活動が機能していれば、米兵がベトナムの民間人に行った残虐行為を少なくし、戦争を早く終わらせ得ただろうという、チャールズ・アンダーソン少尉の発言を(S-5に対する過大評価かもしれないが、と保留を持たせつつ)紹介している。

 映画『ハーツ・アンド・マインズ』のタイトルは、ジョンソンの発言におけるそれよりも、ここで生井英孝さんが紹介した文脈に沿った方が、よりしっくりくるように思われる。
 つまり、「ハーツ・アンド・マインド」を獲得すべく行ったことが、要するにこのドキュメンタリーの中で示されたこと、と逆説的に見ることができる。

 映画の中では、米兵がいきなり銃を取り出し、横に立っていた中年のベトナム人のこめかみを撃ち抜く。ごとりと倒れて、傷口から血があふれ出る。もろ、目の前でカメラがとらえてしまったという感じだが、これは劇映画ではない。
 焼夷弾で全身火傷を負い、皮膚がずるりと垂れ下がってる赤ん坊を抱きしめながら、母親は走る。しかしどこへ。

 この映画の現実は、今もある。けれどそれはイラクやアフガンにではない。それは、ちょうど今時分だと、南アフリカにある。詳しくは知らないが、何やら大きなサッカーの大会をやっているそうだ。
 間違ってテレビをつけてしまうと、たくさんの人が無根拠に自国の旗を振りまわし、熱狂する様子が映っている。
 自国の“勝利”をこれほど願う理由はなんなのか。深夜だというのに、異常な視聴率を記録する、その自国の“勝利”への執着はなぜなのか。

 『ハーツ・アンド・マインズ』では、まさに前後の文脈と直接の関係なく、なぜかアメフトの試合前の選手控室の様子が映される。コーチは選手たちに殺伐とした激を飛ばす。
 誤解を恐れず書いておく。この世にスポーツがなくならない限り、戦争それ自体もなくなることは決してない。
 それは、いわゆる「いじめられっ子」だった私自身の幼少時の経験から、決して揺らぐことのない信念である。私を文字通り「殺す」寸前までいじめ抜いた連中は、みな運動部の子どもだ。音楽や読書が好きな子どもで、私をいじめた者はただの1人もいない。

 それを偏見と言われたらひとたまりもないし、実際その通りだろう。が、映画では小学校にまでやって来て講演を行う将校を映しだす。全員小学1〜2年生くらいだ。
 子どもの1人が質問する。「召集拒否して、カナダに逃げた人のことをどう思いますか?」それに対し「認めない。違法で卑怯な行動だから。行くのはいいが、二度と帰って来るなと言いたい。彼らは国を捨てたんだからね」と。
 また、ベトナムについても「人間以外はきれいな国だった」と言い放つ。
 子どもに聞かせるべき言葉ではない。
 私も子どもを持つので、親子でスポーツ観戦を楽しむ家庭も多いと聞く。それはそれで大いにけっこうだが、これと本質的に似たような会話が為されていないことを祈るのみだ。

 もちろん、こういう書き方をすると反感を買うだけであることは百も承知である。そして、このような発言自体が偏見的であり、自分を同じ穴の狢にしていることも自覚している。
 それに、好きな人がスポーツ観戦しても一向にかまわない。それを楽しむことに文句を言うつもりは全くない。
 けれど、願わくば「自国の応援」だけは、自明であってほしくない。仮に自分の国籍が日本であるとして、なぜ日本を応援するのかを問わない無自覚は、きっと暴力と偏見の起源と無関係でないと言いたい、ただそれだけだ。

 『ウィンター・ソルジャー』について、触れそびれた。
 こちらは、ベトナムにおける残虐行為を伝えるべく、反戦を唱える帰還兵たちが組織した「ウィンター・ソルジャー聴講会」の記録である。
 証言につぐ証言で全編が語られる。すべては証言の形をとるので、『ハーツ・アンド・マインズ』のような迫真力はないが、言葉の力と“当時の顔”の迫力はまた迫るものがある。

 なお、2008年には、この「ウィンター・ソルジャー」からとられた、イラク・アフガンからの帰還兵による反戦告発集会が行われている。
 不覚にも未見・未読だが、その模様を記録した、田保寿一監督『冬の兵士 良心の告発』というドキュメント作品、アーロン・グランツ『冬の兵士』(岩波書店)がある。



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