2010/8/30

北海道滞在記その2 〜富良野〜  ノンセクション

 富良野というと、倉本聰が有名にした土地、というイメージしかないが、私はその作品に明るくないので、そのゆかりとなる所がよくわからない。
 あるドラマで長澤まさみがとにかくかわいかった、ということくらいだろうか。 
 ここはレンタカーでドライブするだけで気持ちがいい。というわけで、所々の面白そうな場所に立ち寄ってみる。
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写真:「富良野チーズ工房」の森での木漏れ日。日射しは強いが決して暑くない。撮影:Incidents

 「富良野チーズ工房」では、地元のチーズを生産販売している。子どもたちは手作りバターの体験もできる。びんに入れた生クリームをひたすら振って、脂肪分を固めるのだ。
 清潔な建物内では、お土産もの用のチーズが売られている他、チーズに関する薀蓄があれこれ紹介されている。
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写真:「富良野チーズ工房」。森の中にひっそりと建っている。撮影:Incidents

 ”物語に出てきたチーズ”のコーナーでは、もちろん『アルプスの少女ハイジ』。幼児期にそれを見た者は、生涯忘れられぬ第2話「おじいさんの山小屋」のとろけるチーズ。
 ハイジはそれを焦がしてしまい、決してそれを叱らぬおじいさんに対して、深く反省する印象的なエピソードにインスパイアされたフィギュアがある。
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写真:ハイジのフィギュア。他、『トムとジェリー』のフィギュアも。撮影:Incidents

 あのとけるチーズの動画を、1974年にして作った日本アニメーションの技術水準には、2007年の『レミーのおいしいレストラン』をもってしても、いまだ到達していない。
 というか達成されようがない。そこには「それを初めて見る」というハイジの視点を欠くからだ。

 『レミーのおいしいレストラン』に驚くのは、ダイレクトに観客であり、『アルプスの少女ハイジ』を見る者は、それを見て驚くハイジの姿に共感するのであり、ハイジというフィルターを、一旦経由するのだから、物語への感動としてこれにはかなわない。

 このチーズ工場では、できたての釜焼きピザをいただくことができる上、現地生産のアイスクリームも食べることができる。いずれも絶品。
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写真:『アルプスの少女ハイジ』第2話より。とろけるチーズ。画像リンク元はこちら

 「富田ファーム」は、どこまでも広がるラベンダー畑。
 ラベンダーはやや時期がはずれるので、そのブルーを楽しむことはできなかったが、サルビアをはじめ、さまざまな花々が咲き乱れ、見事に美しい風景を楽しむことができる。
 ことに、コスモスが咲き広がる区画を見渡すと、“♪Me and you must never part,Makidada♪”という、『カラーパープル』のわらべ歌を思い出さずにいられない。クリックすると元のサイズで表示します
写真:『カラーパープル』より。咲き乱れるコスモス畑で再会を喜び合う姉妹。これと『太陽の帝国』を、スピルバーグの色彩時代とする。画像リンク元はこちら
 
 そしてここは、売店も広く美しくレイアウトされ、ポプリ好きにはたまらぬ魅力の場となっている。
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写真:「富野ファーム」売店。品のいい香りが、カントリー風の店内を満たしている。撮影:Incidents

 せせらぎの道では、地下60メートルから湧いているという、清水が流れている。手を浸してみると、肌が痛くなるほど冷たい。
 日中の暑いさなかには、これはありがたい恵みで、懇々と湧く冷水を手のひらに受けて、子どもたちと顔を洗ってみる。どんなに徹夜をしていても、目が覚めそうだ。
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写真:コスモスのお花畑。まさにカラーパープル。そして空はどこまでも青い。撮影:Incidents
 
 こんなふうに車を走らせるうち、やがて日が暮れる。一日は本当に早い。  

2010/8/29

北海道滞在記その1 〜 旭山動物園〜  ノンセクション

 北海道旭川市旭山動物園は、東京上野動物園と年間入場者数の一、二位を争うという。
 その発展への試行錯誤の様子は、マキノ雅彦監督『旭山動物園物語 ペンギンが空をとぶ』で、人情味たっぷりに描かれた通り。
 実際に足を運ぶと、夏休みとはいえ、なるほど確かにたいへんな賑わいである。

 実の所、敷地はそれほど広くない。ここでしか見られぬ珍獣がいるわけではないし、しかも種類も少ないので、全部を見るにそれほどの時間はかからない。
 が、趣向に趣向をこらして見せているので、各動物の見物時間が長くなり、結局まる1日を過ごさせて飽きない。

 頭上に吊り橋があるので、これは何だろうと思うと、不意にレッサーパンダがトコトコと、その橋をかわいらしく渡ってくる。
 かと思うと、目の前の檻で何かが瞬時に動いた気配を感じるや、テンの子どもが棚に置かれたヒヨコの死体をかっさらって、頭からガリガリかじり始める。面白い。

 アザラシは、なるほど評判にたがわず、ひっきりなしに透明パイプをくぐりぬけては、子どもたちを大いに沸かせている。
 すぐ横の水槽では、2匹のアザラシがじゃれ合い、常にダンスを踊っている。実に巧みに導線を作っているので、こんなことが実現されるし、このあたりの苦労話はマキノ雅彦監督の映画が描いた通りだろう。
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写真:パイプを通り抜けるアザラシ。何が面白いのか次々と泳いでくる。撮影:Incidents

 で、私が実はいちばん楽しみにしていたのは、ホッキョクグマだった。これを見物するのに、実に30分待ち。でもかまわない。
 ここでの趣向は、動物目線を体感するため、透明な半ドームの内側から、ホッキョクグマを見物するというもの。
 このドームが、実に『風の谷のナウシカ』冒頭で、ナウシカが王蟲の抜け殻から切り出す目玉と同じイメージなのだ。
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写真:王蟲の目を通してホッキョクグマを見る。かなり奥にいるんだが。雪が降っていないのが残念でならない。撮影:Incidents

 というわけで、ナウシカが王蟲の目の内側から腐海を見つめたように、自分も透明ドームの内側に顔を突っ込んでみる。とても幸せである。
 ここで胞子よろしく、雪が降れば完璧だが、今は夏。冬場ならきっと、映画と同じような情景を見ることができるに違いない。
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写真:『風の谷のナウシカ』より。王蟲の目を通して腐海を見るナウシカ。撮影:Incidents(TV画面を直接撮影)

 もう1つ。旭山動物園を好ましいなと思ったのは、動物たちの解説や道案内など、園内表記のすべてが、従業員たち自身による手書きだということだった。
 細かなイラストを含め、色鉛筆を使ってとても丁寧に描かれている。このへんの哲学は、ジブリ美術館に通じるものもある。
 
 そして、ホッキョクグマ観察を待つ間も、骨格標本や解説もさまざまあって、あまり飽きさせない。
 このあたりの工夫は、ディズニーランドを思わせ、ジブリ美術館とディズニーランドの、よいところを盗もうという工夫を随所に感じ、さすがに集客ナンバーワンは伊達じゃないと思うのだった。
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写真:旭山動物園限定ガシャポンで出したフィギュア。製作は海洋堂。恐ろしく精巧。3種ゲットだぜ。撮影:Incidents

2010/8/22

『ベスト・キッド』  映画

ハラルド・ズワルト『ベスト・キッド』
 世代的に、84年のオリジナル版にはどっぷりと思い入れがあるだけに、そもそもこの映画が作られること自体、快く思っていなかった。

 オリジナルは舞台がロスだからいいんだとか、スミスの息子のクソ生意気そうな顔が気に食わないとか、エリザベス・シューと結婚したかったとか、さんざん私の愚痴を聞かされた友人・知人も多いはずだ。
 心からお詫びする。新版『ベスト・キッド』はオリジナルの心を残しつつ、きちんとアップデートした、大変な傑作だった。

 オリジナルの心が何かというと、一心に正しく事を為す者にこそ、幸運が訪れるということだし、アップデートした部分は、多文化との出会いの要素をじっくり描いた点だ。
 ここで舞台を中国に移したことは、現在高まる米中関係という政治状況と、必ずしも無縁ではなかろうが、ここは大きく触れずにおきたい。
 デトロイトでは働けなくなって、やむなく中国に来たという主人公の母親の設定だけで、多くを語る必要はないだろう。

 この映画に胸打たれたことの1つは、実はジャッキー・チェンだった。
 最初、主人公と師匠となるジャッキーが手と手を交わす時、ふと見えるのがジャッキー・チェンの手の大きさなのだった。たとえばスミスとジャケットの受け渡しをするときなどに、それがわかる。
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写真:『ベスト・キッド』より。ジャッキーの手の大きさ。スチール写真から伝わるだろうか。
画像リンク元allcinema.co より。


 ジャッキーの手のひらは、まるでスミスのひじから先くらいまである。細いスミスの腕など、もちろん手のひらですっぽり握れてしまいそうだ。
 決してジャッキーも身長の高い人ではなかったはずだが、手と足の大きく、そして太いこと。か細いスミスと比べると歴然としている。大きくそして頼もしい。こんな手の持ち主こそ、師匠たるべし。
 パット・モリタは弟子の拳を受けるのに、野球のプロテクターを必要としたが、ジャッキーならそんなものは無用である。弟子の掌底をそのままどっしり胸で受け止める。

 そして、2人の特訓がほぼ完結する頃。スミスの母親がその様子を見に訪れる。そのトレーニングの様子は濃い影絵として示されるのだが、その頃にはもう、2人の動きは影として1つになり溶け合っており、ジャッキーの手の大きさは、もはや彼を特権化するものではなくなっている。こうして来るべきクライマックスへ。

 強い物語はやはり人を夢中にさせる。ぜひ、万人の少年少女に見てほしいものだと、心から願う。 

2010/8/21

『小さな命が呼ぶとき』、『ソルト』、『特攻野郎Aチーム THE MOVIE』  映画

トム・ヴォーン『小さな命が呼ぶとき』
 おそらく世界最高の「ファン・ボーイ」として、羨望を集めてやまぬ人物とは、ブレンダン・フレイザーのことだ。
 『ハムナプトラ』シリーズを始めとして、これまで一貫してジョーンズ博士もどきの役柄を演じて、彼はスターの地位を獲得したわけだが、ここにきてついにハリソン・フォードと共演を果たす。
 しかもハリソン・フォード自身を製作総指揮とする作品において、ビリングがそのフォードより上。
 さらに、不治の病を持つ自分の子どもたちを救うため、ハリソン・フォード演じるジョーンズ博士ならぬ、ストーンヒル博士に、秘薬の開発を依頼するという役どころだ。およそ「ファン・ボーイ」冥利に尽きるというものだ。

 ポンペ病。それは筋萎縮症とも呼ばれ、細胞が糖分を吸収できぬことにより、全身の筋肉が弛緩し、やがて死に至るという病だそうだ。
 ここでいう筋肉とは、それは心肺を含む、全内蔵機能を指し、それが活動できないということなのだ。その病にかかった子どもの平均寿命は約9年。
 そして今日は、ポンペ病を病んだ長女の8歳の誕生日である。
 
 フレイザーは3人の子どもを持つ父親だ。会社では成功し、重役の席も約束されている。しかし長男こそ健康だが、長女と次男の2人がポンペ病を病んでいる。
 フレイザーのいつも懸命な雰囲気を漂わせる童顔は、よき父親を演じて申し分ない。常に笑顔を絶やさず、子どもたちへのキスを欠かさない。

 そんなある日、長女の容態が急変。ここで映画はさりげなく、しかしはっきりとした事実を丁寧に演出する。
 大丈夫、きっとよくなる、と懸命な笑顔を見せるフレイザー。けれど、娘はそのとき彼に微笑み返さない。
 それはきっと苦痛からではなくて、筋萎縮症という病気は、筋力を失うので、微笑むことができないのだ。この病気は微笑む力を奪うのである。
 この時は奇跡的に容態が好転し、一命をとりとめたが、投げかけた微笑みに、微笑みが返ってこない。このようなことは、決してあってはならないのが映画であるから、ここでフレイザーは決心する。
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写真:『小さな命が呼ぶとき』より。これは、微笑みとそして暖かい家族のキス。それを懸命に維持しようとする映画である。
母親役のケリー・ラッセルの賢妻賢母ぶりもすばらしい。『M:i:V』冒頭で殺されてしまう、イーサン・ハントの愛弟子役の女優だ。画像リンク元allcinema.com

 
 そこでフレイザーがとる行動とは、ポンペ病の権威だが、臨床の機会を持たぬ博士(ハリソン・フォード)に、新薬の開発を依頼することだ。
 さらに2人はそのために起業し、開発にまい進することになる。
 
 フレイザーはビジネス担当として、金策から経営まで。フォードは科学者として研究開発を受け持つが、道は険しい。何しろ新薬開発には数千万ドルを要するのだ。
 科学的な裏づけと共に、ビジネス作法に即したプレゼン。資金を引き出し、かつ開発の自由を確保するために、2人のパートナーシップはいいことばかりではない。
 フレイザーには時間がない。いつ子どもたちの容態が急変するかもしれない。手段のために、フレイザーはフォードを裏切りさえするだろう。

 こうした手順を、トム・ヴォーン監督の演出は実に手際よく、コンパクトに示していく。この要領のよさは、ほとんどロン・ハワードさえ思わせて、実に見事だ。
 うまいのは、フォードとフレイザーの描き分けなのだ。フレイザーは、妻子にはいつも笑顔で接する。それが心からの笑みである一方で、ビジネスマンとしても、表面的な笑みを絶やさない。
 けれど、彼が一人になる時、その笑みは消え失せることを私たちは見る。
 
 一方、気難しく偏屈な科学者を演じるハリソン・フォードは、いついかなる場合も、決して微笑むことはなく、フレイザーの家族と接する時でさえ、それを見せることができない。まるで笑い方を知らないかのようだ。
(子どもたちにキスをねだられて―この映画ではキスは不可欠なのだ―、ひどく困惑するフォードの見事な演技!)

 だから、映画はそうしたギャップを埋めるように、進んでいくことわけだが、脚本は厳しい行き違いと、大人の妥協をたくみに取り混ぜて話を進める。それを表現する2人も、大変な名演だ。

 ここまで書けばわかる通り、この映画は誰の顔にも笑顔を回復させようとすることが、メイン・テーマとなる。筋萎縮症とは微笑みを失わせしめる病だった。
 さて、そんな微笑みをどのようにリフレインさせたら(またはさせなければ)、この映画は終わることができるのか。
 これはおよそ考えられる限り、ほぼ完璧なエンディングを用意してみせる。
 そこでの、音の入り方と、場面の積み重ねなど、最高の手際だ(スピルバーグさえ思わせる)。
 
 アメリカ映画がいささか元気のない昨今、これは起死回生の一発。ハリソン・フォードは、『正義のゆくえ』に引き続きローバジェット作品への出演で、とてもいい年齢の重ね方をしつつあるように思う。


 フィリップ・ノイス『ソルト』
 感心する。もともとトム・クルーズ主演で企画された作品とのことだが、それも納得の、最初から最後までアクションに次ぐアクションの連続だ。
 
 普通、どんな映画でも状況説明や、話の展開のために、アクションが止まる場面があって、それをだれさせずに見せるのが、メリハリというものなんだが、メリもハリもない。アンジェリーナ・ジョリーの行動は完全にノンストップである。

 そして彼女の強さが只事ではなく、べらぼうに強い。手錠をかけようが、武器を取り上げようが、いつでも反撃可能。これほど強い人物はちょっと思いつかないのだが、匹敵するとしたらハンニバル・レクターだろうか。逆転に次ぐ逆転。画面的にはいろいろケチをつけたい点もあるが、楽しく見る。

 序盤は素足のアンジェリーナの受難。ファンならここで大いにお楽しみだろうが、この脚ではこれ以上のアクション(ヒロインにとっては逃亡)は不可能と判断し、彼女の服をうまく着替えさせるという設定と段取りがうまい。
 そして、それによってアクションがきちんとパワーアップするのも天晴れ。

ジョー・カーナハン『特攻野郎Aチーム THE MOVIE』
 楽しく見るといえば、こちらも楽しく見る。
 いちばん偉いのは、ジョージ・ペパード以下、オリジナルTVシリーズでの面々がそっくり入れ替わって、そこにほとんど違和感を感じさせないことだった。
 役名も全員同じにしているところもOK。
 かつてのイメージを残したまま、映画へのリメイクに成功したテレビシリーズの例が思いつかないだけにひときわ(映画として最高の傑作になり得たのは『スパイ大作戦』かもしれないが、あれはテレビとはまったくの別物)。

  ただ、かつてはミスター・Tが演じた、B.A.の役どころだけは、ちょっといじりすぎて、結局物語を殺してしまっているように思う。おかげで彼の見せ番も少なくなっている。ここだけ少し残念。
 しかし、何よりジェシカ・ビールがいい。この人はどんどんきれいになる。

 なお、『ソルト』と『特攻野郎Aチーム』。どちらも楽しむには楽しんだが、しかし、つくづく感じたがアメリカのアクション映画の病理は本当に深い。
 ここまでくると、ポール・グリーングラスのせいばかりではないのだろうが、きちんとアクションを見せる方法論が、撮影からも編集からも完全に失われてしまったようだ。これはもう2度と元に戻ることはないのだろうか。

2010/8/19

加藤馨『脚本家 水木洋子』  

 加藤馨『脚本家 水木洋子 大いなる映画遺産とその生涯』(映人社)読了。

 著者は水木洋子市民サポーターの会会長。生前の水木が暮らした市川市に遺贈された、膨大な資料および財産の整理・分類に運用、そして上映会、資料展示の主催、さらには水木邸の一般公開にあたっての案内役までを行う、「水木作品を語り継ぐ」市民団体だ。

 素晴らしい団体ってあるのだな、と思う。
 恵まれた作家だと言うはた易いが、それを実現する資料を残すだけの、生前の水木のケタ外れの物持ちの良さと几帳面さ。そして、全財産を市に寄付して異を唱えぬ遺族の方々の、心ある振る舞いが為した、これは奇跡ではないだろうか。

 そしてその活動における、貴重な成果の1つとして本書が生まれた。
 脚本家・水木洋子の生涯を、膨大の上にも膨大な資料(段ボール箱にして100個を超えるそうだ)を丁寧に読み解き、さまざまな証言や資料を、適切に散りばめながら、くっきりと浮かび上がらせる。実に450ページ以上。
 いや、その伝記的事実はもちろんだが、彼女の人柄をこそ描出した、と言えるだろうか。

 というのは、著者は引用にあたって、水木洋子がその状況において、どのような感想を持ったか、という部分にこそ注目しているように感じたからだ。
 事実には複数の裏が必要だろうが、感情に裏付けはいらない。
 そんな作業が、水木洋子という人物を浮かび上がらせ、だから彼女を好きになる。そんな仕事ができる人は、他に山田宏一さんしか思い浮かばない。
 その意味で、本書は山田宏一さんの著書の魅惑にも通じるものがあった。

 私自身は不勉強なことに、かねて水木洋子は成瀬巳喜男の脚本家という意識が強かった。だが、水木/成瀬の7本に対して、水木が組んだ映画作家は、今井正11本が最多なのだ。
 最も有名なのは『ひめゆりの塔』かもしれないが、他にも『また逢う日まで』、『キクとイサム』など、聞けば「ああ!」と思わされる作品の数々。

 そして必然的に本書でも多く言及される、今井正監督についても、その魅力的な人柄をとてもよく伝えてくれる。
 特に、シナリオ完成の過程で今井監督が、水木にリライトを求める書簡での、腰を低くして相手の創意を重んじつつも、自分の方向を指し示す、大人の態度に敬服させられる。
 正直、これまでノーマークだった今井作品に対する興味も掻き立てられる。

 また、水木作品の持つ強度は、徹底して足を使った取材ぶりに裏付けられることが、本書を読むとわかってくる。
 が、その起源はやはり戦時中に従軍作家として選抜され(この時、林芙美子と知遇を得る)、ビルマから蒙古など、実に積極的に「外」を見聞しようとする心にありそうだ。
 彼女は住居こそ、40年を超えて市川市に住まったが、仕事の上では常に精力的に動き回る人だったのだ。

 動き回るといえば、彼女の目と手も実によく動く。
 水木は終戦後すぐの一時期、疎開先の名古屋で地元の子どもたちに勉強を見ていたそうだ。やがて東京に戻る時、その教え子たちを「お別れ遠足」に連れて行ったという。その時の思い出話がとてもいい。遠足からの帰路のことである。

 「私は、満員電車の中で一人々々の背中のリュックを開けて、使ったガマ口のカネをたしかめ、使いすぎた子が帰って叱られないように穴埋めをした。」(P.164 )

 こんなふうに、水木洋子という人は目を配り、手間をかける人だったのだ。

 このような繊細な目配りと気遣いは、きっと『キクとイサム』の根源となるのだろうし、またお金にまつわる気配りというところが、その後の水木作品のあれこれを思い出すと「やはり」という思いがする。

 オカルティズムへの傾倒や、終生共にすごした母の没後に進む認知症など、晩年の生活については、決して力強いことばかりが紹介されるわけではない。
 けれど、それも数々の水木作品の反射の中でイメージするならば、一人の女性の巨大な仕事を締めくくる結末として、大きな感慨がある。
 何と言っても、「女は入れない」という時代の映画界に、堂々不動の地位を築いた人物なのだ。

 おそらくなのだが、著者による水木研究はこれが大きな一区切りかもしれないが、しかし決して終わりではないだろう。
 というのは、まだまだ紹介されきっていない、膨大な資料・証言があるはずだからだ。たとえば、本書の中ではほとんど触れられていないのが、脚本家・水木洋子と俳優たちとの関係である。
 書簡も相当数が保管されているという。花柳章太郎のものが多いそうだが、「断トツに加東大介」(P.22)なのだそうだ。
 とてもユーモラスで魅力的に違いない加藤と、水木の間にどのような交友があったのか。想像するだにわくわくする。

 著者は当年82歳というご高齢である。ジャック・リヴェットと同じ生年でいらっしゃると思うと、さらなるご研究をとねだりたくもなるが、こうした日本映画史の重要な一断面に光が当たることで、私たちもますます作品に駆り立てられる。

 最後に私が感動した一節に触れたい。著者はサポーターに加わった理由を、こんなふうに述べている。

 「何か面白そうだし、時間はタップリある。出来る範囲ならという軽い気持ちであった。あの水木シナリオが書かれるまでのプロセスを、この目で確かめたい、そんな映画大好き人間の好奇心に尽きるようだ。」(P.20)

 好奇心! 好奇心だ。これによって、映画のみならず、全ての文化は延命を続けている。

 今年は水木洋子、生誕100年。改めて、その作品世界を意識的に触れてみるよい機会であり、本書はその最良のガイドラインではないだろうか。

 なお、今なら本書を定価(2499円)より500円引きで購入可能。お問い合わせは
http://twitter.com/kiyoakiokuboへ。


2010/8/16

『ヒックとドラゴン』、『ザ・コーヴ』  映画

クリス・サンダース/ディーン・デュボア『ヒックとドラゴン』
 マーケット飽和で、ひどく苦戦しているようだ。が、全米ではともかく、少なくとも国内ではそれも無理もないかな、と感じた。

 主人公のセリフが過剰で、説明過多な冒頭からして、子どもには状況設定がわからないだろう。いきなりのアクションも、暗い夜の設定なので、何が起こっているのかわかりにくく、登場人物の紹介としても機能していない。
 少なくとも子どもが、ここで登場人物を把握するのは無理。きっとどの人物に対しても「この人だれ?」という疑問を、最後まで持ち続けるはずだ。
 CG特有の無機的なキャラデザインも、(私を含め)日本の子どもには受け入れにくかろう。あくびを噛み殺しながら見る、子ども達の姿が容易に目に浮かぶ。

 そうしたことどもは、シナリオだけでなく、画面についても言えて、見せるべきものを、ことごとく見せそびれている、という感がある。
 ヒックが放った投げ縄大砲が、ドラゴンにまぐれ当たりをするのだが、どんなふうに当たったのかよくわからない。しかも、それが渾身の一発のまぐれ当たりでなく、何だかあたふたとよくわからぬままの射撃だっただけになおさら。

 尾びれの半分が欠損したドラゴンは、ヒックが考案した手作りの義ひれ(?)をつけ、ヒックが乗ることで初めて飛べる、という設定もどこまで伝わるか。
 そのため、身体を欠損したことを知った時の、ヒックの曖昧な無反応ぶりも、“人間が見せるはずの当然の感情”を表現しそびれていると感じた。
 この身体欠損で、肉体ともどもドラゴンと同格になる、と言いたいのだろうが、それを子どもが了解するにはちょっと難解だろう。
 プロットはいいだけに、どこか急ごしらえのような粗雑さを残念に思う。

ルイ・シホヨス『ザ・コーヴ』
 騒ぐほどのことはない。上映反対派は、放っておけば国内上映もおぼつかなかったろうに、なまじ騒ぎ立てるからヒットする。まあ、いつものケースだ。

 おそらくこの映画の製作者たちは、「イルカは知能が高いから」とか「愛すべき動物だから」とかいう理由で、イルカ漁を禁止すべしと主張して、それが通るはずはないと考える程度には、知恵はありそうだ。

 だからそれを少しでも裏付けようと、肉中の水銀濃度とか、個体数の減少とか、クジラ肉と称した不正売買などの問題を、ちらちら出して議論を補強しようとする。
 ところが、むしろそっちで押した方が、よほど説得力があるのに、本音がイルカへの個人的な入れ込みにすぎないから、その肝心の部分がおざなりになる。

 製作者はマイケル・ムーアばりに、捕鯨漁の会議の場にアポなし乗り込みをするが、ムーアと違って、根本的に主張の裏付けが幼稚にすぎるから、胸を打たれようがない。
 普通にスルーしてしまえば、誰の記憶にも残らぬ作品だろうと思う。

2010/8/15

四方田犬彦『「七人の侍」と現代―黒澤明再考』  

四方田犬彦『「七人の侍」と現代―黒澤明再考』(岩波新書)

 例によって私事である。
 中学2年のとき、学校の生徒会長に選出された私は、就任にあたっての宣言文を校内プリントに書かされた。大筋は忘れたが、ダラダラ書いた文章の末尾をこう締めた。
 「そして最後には、黒澤明監督の『七人の侍』の名セリフをもじってこう言いたい。
 「勝ったのは生徒会ではない。あの全校生徒たちなのだ」と」
 馬鹿馬鹿しさの極みだが、この作文が教師陣にひどくほめられ、記憶に残っている。

 中学生の私は、『七人の侍』の「勝ったのはあの百姓たちだ」のセリフを、それに先行する「また負け戦だったな」という言葉を、(たぶん)意図的に隠ぺいした上で、勝利は全員の力によるものだ、決してある一握りの集団によるものではない、と解釈している。
 そしてこれは今でもおおむね間違っていないと思う。勝利とはある秀でた集団の能力のみによるのでない。だからその小集団の働きのみを取り上げると、全体の働きに比せば、必敗なのだというのが、私自身の解釈だからだ。

 本書はそうでなく、侍は同士の半数以上を失った一方、百姓は目論見通り、侍を巧みに利用することに成功した。だから侍は敗者なのだ、という解釈をとる。
 なるほどと思うが、どちらが正解かといった議論は、解答はないはずだからやめる。

 ただ、本書にはこうした解釈上の違和があちこちあり、時折首を捻ったのも確かなのだ。
 たとえば本書では、最後決戦の後に勝四郎が「感激のあまり狂ったように泣き叫ぶ」(P.172)と記されているが、あの号泣が「感激のあまり」だとは考えたことがなかった。てっきりあれは、敬愛する久蔵以下、犠牲となった仲間の死への涙とばかり思っていた。

 けれど、そうした部分はおく。私がいちばん複雑な思いで読んだのが、『七人の侍』の野武士集団を、映画が絶対的な悪としか見ていないことについて、それ自体が作品価値を下げるものではないと注釈しつつも、書きっぷりは間違いなく批判的なそれであり、「黒澤明が設定した枠組みの狭窄ぶりは明らか」(P.216)だと断定していることだ。

 この議論を本書は、『忠臣蔵』の伝統もおさえつつ、日本史研究の成果から解き明かすのだけど、そのアプローチが妥当かどうか。
(日本の戦争映画が、「敵」の側の論理をふまえるのは、『戦場のメリークリスマス』まで待つ必要があった、という断定もどこか胡散臭い。確信持って『戦メリ』と言えるか)

 ことは黒澤明の問題でなく、その「狭窄」とはそもそもジャンル原則であって、その「狭窄」ぶりに気付いた結果として消滅したのが、もとより「西部劇」ではなかったか。
 『サウンド・オブ・ミュージック』や『ウェストサイド物語』、『マイ・フェア・レディ』など、ミュージカルに心理的な“深み”が持ち込まれた結果、往年の天真爛漫なミュージカルが衰退し、結果的にジャンルごと失われたのも、議論として同根だろう。

 だから本書の書き方は、それを間違っているとは言わないが、それは文化全体のテーマなのであって、そこを『七人の侍』問題として書かれると、逆に異議を呈したくなる。
 そうした議論は、ことによると戦時中の日本人の心性に、手のひらを返した戦後日本の偽善性とも似て、いささかフェアな態度とは申しかねる。

 そうした点では、本書はどうも居心地の悪さを禁じ得ない。
 けれど、さすがこの著者にあって、もはや「映画ジャンルと化した」『七人の侍』の、各国の作品世界への、分析的に紹介する第2〜3章あたりの説得力は圧巻そのものだ。
 でもそれだけに、アジア映画を無視したから、ゴダールの『映画史』は欠陥がある、という、この著者のかつての議論に似て、映画作家の側に立てばそれを「狭窄」でもなんでもない点を、個別の作品内で検証しても単に無粋と思うのだ。

2010/8/11

ウィーン・フィル シェーンブルン宮殿野外コンサート2010  音楽

“SUMMER NIGHT CONCERT Schonbrunn 2010”(DG)
 ウィーン・フィル・ハーモニーの毎夏の恒例である、シェーンブルン宮殿の野外コンサート。2010年度版をDVDで鑑賞。目玉は『スター・ウォーズ』だ。

 この野外コンサートは、ときどき面白い工夫を凝らしてくる。
 たとえば、2006年にはドミンゴ、2004年にはボビー・マクファーリンが指揮をした。
 マクファーリンというと、映画の人としては、トム・クルーズが素晴らしすぎる『カクテル』の挿入曲、“Don’t Worry,Be Happy”を歌った、超絶技巧のボーカリストだと言えばわかるだろう。

 そして、今年の2010年は驚くなかれ『スター・ウォーズ』がメイン。これは面白い。
 指揮はフランツ・ウェルザー=メスト。生粋のオーストリア人で、小澤征爾を引き継ぎ、次期ウィーン・シュターツオパーの音楽監督である。
 2011年のニューイヤー・コンサートの指揮者としても既に決定している。ウィーン・フィルの信任篤い新進指揮者だ。

 ライナーによると、実はこのコンサートも、小澤が振る予定だったそうである。そして、コンセプトテーマを「月・惑星・星」とし、『スター・ウォーズ』も小澤の発案だそうだ。
 ところが世界中の誰もが知る病のためそれを断念。そこで、プログラムごとウェルザー=メストに代理を委ねたところ、快諾。なかなかの男である。
 それにしても、このコンサートが開かれたのが、つい先日の6月8日。実に本番から2カ月にも満たない超スピードリリースなのだ。すごい。

 映像の方は、いきなり『スター・ウォーズ』メインタイトルの、あの壮大なファンファーレと共に始まる。
 ウィーンの金管で聴く『スター・ウォーズ』。うむ、ほんの髪の毛一筋ほど重たい。やや疾走感が足りない。ここは超光速でタイトルが宇宙の彼方に飛んでいかねばならないのだ。

 が、弦楽合奏が入ってくるあたりからは、さすがにこれは本物の演奏で、強拍などまったく神経にぶつからず、実に優美にテーマが奏でられる。そしてその優美さは、「レイアのテーマ」で頂点を極める。
 部分的な主題を、極端に強調することのあるサントラでの演奏とは、まったく違った、「作品」としての演奏であって、これが実に新鮮だ。

 続く、「ダース・ベイダーのテーマ」では団員もおおいに遊ぶ。ベース奏者など、ベイダー卿のマスクをかぶっているくらいだ。
 指揮者を含め、何人かの団員はライトセーバーを振りまわし始める。ニューイヤー・コンサートでもしばしば見る通り、ウィーン・フィルのメンバーはなかなか茶目なのだ。

 演奏が始まる頃は、ほぼ完璧な、いわゆる「マジック・アワー」の時間帯。カメラはその貴重な時間を非常に美しくとらえて、どんどん宮殿に集まる人々の姿を追う。
 やがてとっぷり日が暮れるのだが、いったいどうワイアを張って、どう動かしているのか、ものすごい距離の直線を、超スピードで動く上空からのカメラにも、しばしば驚かされる。いったい何台使って、どこから撮っているのか、カメラワークもすごい。
 これほどの演出は、「月・惑星・星」というコンセプトならではか。

 他の曲目は、ほとんど曲芸に近い演奏で、リスト『ピアノ協奏曲第2番』に、ソロで『パガニーニ練習曲』から第2番。ピアノはイエフィム・ブロンフマン。圧巻である。
(彼は、スモークを吹き上げつつ、舞台下からピアノと共に浮かび上がるように、ステージに登場するのだ!)
 シュトラウス『天体の音楽』や、ホルスト『惑星』より「火星」なども。

 このようなコンサート映像を見せられると、ヨーロッパの文化が持つ、ケタ外れの贅沢さを思い知らされる。しかも、この催しは入場料無料だというのだ。優雅である。
 何しろ、宮殿の壮麗さもさることながら、色とりどりの花々で満たされた、シェーンブルンの庭園が美しいことこの上なく、しかもそこを何とも贅沢な照明でライトアップする。典雅なうえにも典雅である。花火さえもあがる。
 CDでのリリースもあるが、やはりここは画とともに鑑賞したい。


2010/8/9

『シルビアのいる街で』  映画

ホセ・ルイス・ゲリン『シルビアのいる街で』
 冒頭の1分で、完全にノックアウトされる。驚くほど立体的で、しかも生々しい外気の音に触れて、心はすっかり映画の中の現場に飛んで行く。

 自分の体が、まるで映像の中にいるような体験に、必ずしも3Dなど必要ないことが、これで証明される。左右に駆け抜ける空気の音と、それにぴたり一致した光の揺らめきさえあれば、それでいい。
 そして、空気の音というのは、風の音である必要さえなくて、車かなんかが通り過ぎるエンジン音でもいい。ここでは、その音とともに光線をさえぎる衣(カーテン)が揺れて、光と影が躍るのだから、それこそが空気の音である。

 そんな空気の音に、主人公の男はとにかく敏感だ。ふと見やる窓辺に揺れるキャミソール(これが実にエロチックにはためく!)、風に舞う女性の後ろ髪、激しくめくれる画紙。
 カフェで流れる、2本のヴァイオリンとアコーディオンの音も、元来それが空気の振動でもたらされるものであることを、思わず発見させられる。
 とある一瞬に、まさに空気の通り抜ける楽器であるホルンのケースを持った人物さえ、道を横切っていくと、思わず笑みさえこぼれてしまう。
 その店がコンセルヴァトワールに附属のカフェというのも、大きな勝因だろう。ここは音楽とアートにあふれた界隈なのだ。

 この映画ではそんな空気の振動を、あらゆる形で体感させさらる。
 すべての感情というのは、そういえばこうした“震え”でもたらされるはずなのだ。
その原点は心臓なのであって、恋する心がなぜハートマークで表されるかといえば、それは心臓が震えるからだ。
 いや、今ここで無防備に“恋する心”とか書いてしまったが、この作品の主人公の男は、具体的に恋をしているわけではない。心と記憶の向こう側にある、清らかな何かを恋うていて、映画はそれを仮に“シルビア”と呼ぶ。

 的確という他ない、さまざまな映画的連想は、大久保清朗さんの「キネマ旬報」2010年8月下旬号の、まさに“映画語”で書かれたというべき論評に、すべてを委ねたい。
 ここでは、空気を媒介に映画全体が、まさにふるふると揺れている、ということをただ言っておきたい。
 そして、その映画の中の空気の振動が、こちらの感情をも揺さぶることで、絶対的な映画体験へと導かれてしまう。
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写真:『シルビアのいる街で』。
こうして主人公は“シルビア”を発見してしまう。(だが、それにしても何てすばらしい映像だろう!)
彼の心の震えは、テーブルも揺らしてビールのグラスをひっくり返しさえするだろう。
なお、美しく髪を揺らせてこぼれたビールを拭くのは、“シルビア”に劣らず魅力的なウェイトレスである。(そのウェイトレスも画面右はじに背を向けてしっかり映り込んでいる)画像リンク元


 “シルビア”が向こうに歩いていく。ついつい目線は、彼女の美しい踵やくるぶしに向かってしまうが、なぜならそれが彼女の歩行と共に、揺れているからだ。
 だからその歩行のリズムと共に、彼女の黒髪も揺れるとき、この世には空気というものがあることを実感してしまう。
 そして、その視線が突然入ってくる路面電車に妨げられ、目の前の視界(フレーム)が、ストロボ撮影のように明滅するとき、その疾駆の音と共にまた画面全体が揺さぶられる。

 いや、これ以上同じことばかりを書いて、無駄に字数を増やすのはやめよう。
 その空気は、“シルビア”の唇から“シーーッ”と鋭く吐き出されてからは、ほとんど突風のようにさえなっていく。ともあれ、ここをきっかけに、空気の流れは我然早くなる。
 そんな突風は、たとえば最初は単に水路に足をつけていただけの少女たちを、騒々しい水かけごっこにさえ発展させてしまう。あれはきっと何かの魔法なのだ。

 “シルビア”の透明感あふれる美貌はもちろん、私たちの胸をも震えさせる。けれど、その震えは映画そのものが導いたものだ。
 映画はこんな驚くべき芸当ができてしまう。映画を見ていて本当によかった。

 なお、一貫してゲリンおよび『シルビアのいる街で』を支持しておられたmaplecat-eveさんの、情熱的な煽動がなければ、こうまで急いでこの映画を見ることはなかったかもしれない。心から感謝したい。

2010/8/7

セシル・コルベル『借りぐらしのアリエッティ サウンドトラック』  音楽

 セシル・コルベル『借りぐらしのアリエッティ サウンドトラック』(徳間ジャパン)
 映画におけるケルト風の音楽で、とりあえず思い出してしまうのが、ジェームズ・キャメロンの『タイタニック』なのだが、その認識が正しいのかどうかは、わからない。
 が、ジェームズ・ホーナーによるこの映画の音楽が、非常に美しいのは確かで、ただそれ以上にジェームズ・キャメロンが、タイタニック豪華客船の、アイルランド的な記号をあちこちに散りばめたことは、誰もが見てとることだろう。

 ディカプリオとウィンスレットが、3等客室に迷い込んだとき、そこはアイルランド人たちの集まりで、ディカプリオたちが、アイリッシュ・ダンスを踊るシーンは有名だと思う。
 そして、実際に沈没前のタイタニック号が最後に寄港したのが、アイルランドのクイーンズ・タウン(現コーブ)だった。従って、このアイリッシュ・パーティの乗客たちのほとんどは、ここで乗船したものだろう。

 そして、映画の中でビル・パクストンも語っている通り、実際にタイタニック号は、アイルランドのベルファストの造船所で作られたものだ。
 そして、『タイタニック』の偉大な点の1つが、階級闘争を描いたことでもあり、それをアイリッシュの悲哀に託している。
 だからこそ、あのようなケルト風の、哀切を帯びた旋律が全編を彩ったわけだが、もちろんジェームズ・キャメロンはアイルランド系である。

 そしてもう1つ、『タイタニック』の中のアイリッシュな場面は、今まさに沈みゆく船の寝室で子どもたちが怖がらぬよう、アイルランドの妖精の話しを語って聞かせる母親があって、これも『タイタニック』を見た者は誰もが記憶にとどめる場面の1つだろう。

 アイルランドには妖精が住んでいる。それがアイルランドという国の、最大の売り文句で、ここでアイルランドの妖精伝説を詳述するのは本旨でないので割愛するが、街の旅行代理店のパンフをどれでもいいから手にとれば、たいがいアイルランドを「妖精の国」と表現しているのを、目にすることだろう。

 さて長くなった。そういうわけだから、妖精の国アイルランドと、その周辺を含む地域を発祥とするケルト風の音楽を、やはり妖精が登場する『借り暮らしのアリエッティ』が彩るのは、ある意味必然であったのだ。

 ケルト音楽独特の物哀しさは、ケルト民族が歴史的に土地への定住を望みながらも(決して遊牧の民ではない)、移住を余儀なくされた歴史とも決して無縁ではないかもしれない。そして、そうした来歴は、ますます“借り”で暮らすアリエッティたちを伴奏するのにふさわしくある。

 このサウンドトラックは、フランスのハープ奏者セシル・コルベルによって、作曲・演奏された。ハープとギターと(一部ピアノも)、透明感ある歌が何とも心地よく、目下ハードローテーションで、聴きこんでいる。
 何より、感情の起伏を控えめにして、ミドルテンポで軽快なリズムで進行する、ケルティックな、哀愁感たっぷりの旋律が最後まで続くのがいい。映画のサントラにありがちな、いかにも非旋律的な劇伴用の音楽で、感情を途切らさられることが決してない。
 つまり、サントラとしては稀な、全曲を通して“聴ける”CDなのだ。

 当然、サウンドエフェクトは精緻にかけられていることだろうが、生楽器の音の心地よさを知らしめてくれる演奏である。微かな摩擦感と共に、指先で弦がはじかれ、その振動が音となる。そして多弦楽器ならではの、きらめくグリッサンド。
 目の覚めるような、緑の草むらを駆け抜ける妖精、アリエッティの姿を思い出しつつ、音楽を聴きながらふと目を閉じる。



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