2010/9/30

アーサー・ペンとトニー・カーティス  映画

 アーサー・ペンと、トニー・カーティスの訃報が同時に入った。
 ペン88歳。カーティス85歳。
 両者とも立派な大往生と言えるのではないだろうか。

 80年代から本格的に映画を見始めた、私の世代にとってのアーサー・ペンは、『フォー・フレンズ/四つの青春』(1981)に強烈な印象を受ける。
 アメリカにおける人種と階級意識の業の深さは、この作品から教えられたようなものだ。

 高校に入学したばかりの私は、この時点でまだ『俺たちに明日はない』(1967)しか見ていない。だから、というかそれだからこそ、アーサー・ペンというのは、「青春映画の巨匠」というイメージを個人的に持っている。

 だが、たぶんそれは間違っていなくて、アーサー・ペンという人は、非常に厳しい環境の中を生き抜く青春群像をこそ描いたのではないだろうか。
 『奇跡の人』(1962)でのヘレンとサリバンの青春ほど過酷なものも、またとあるまい。
 命ギリギリを生き抜くのに必死な、ペンの描く若者像は、『小さな巨人』(1970)も『ミズーリ・ブレイク』(1976)も、いつも死と隣り合わせで、しかも客観的にはどこか滑稽だ。
 そんな両極端を最もよく示したのが、『俺たちに明日はない』の「死のダンス」だろう。

 ペンの描く青春はあまりにも厳しく辛い。その厳しさ極まる『フォー・フレンズ』で始まった80年代的青春映画は、やがてジョエル・シュマーカーの傑作『セント・エルモス・ファイアー』(1985)の別の形へと変容し、ジョン・ヒューズの楽天性へと発展する。
 そうした傾向が、より同時代の感性であったなら、ペンの居場所はもはやない。

 私はアーサー・ペンの映画を、80年代青春映画のネガの関係としてとらえてきたし、今後もその対象項として常に参照し続けるだろう。ご冥福を。
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写真:アーサー・ペンとメラニー・グリフィス。『ナイトムーブス』(1975)にて。
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 そしてトニー・カーティス。

 私はスタンリー・キューブリックの『スパルタカス』(1960)に、ことの他、好きなシーンがある。それは、戦闘に疲れたスパルタカス率いる兵士たちが、焚火を囲んで束の間の休息を得ている場面だ。
 ここで、トニー・カーティス演じるアントナイナスが、にこやかに朗々と笑い話を披露しつつ、手品を見せる。

 笑いさざめく兵士たち。さすがの強面スパルタカスも、ここでは笑みを隠せない。剣はからきしダメなのに、スパルタカスが彼をことさらに大切にしたのも道理。
 アントナイナスの芸によって、明らかに兵士たちは生気を取り戻し、明日の戦闘への活力を取り戻している。
 これこそ娯楽の持つ力なのだ、という哲学をまざまざと見せてくれる名場面だと思う。

 アントナイナスの役割は、現代でいうところの、映画スターであり、映画作品そのものだ。どれだけ過酷な日々の中でも、決して失ってはならないもの。
 それを表現するのに、若きトニー・カーティスの見目麗しい美貌は、すばらしく説得力があった。
 キューブリックは、これこそ映画スターの輝きである、というものを、物語に託して映像で見せてしまったのである。

 このとき、トニー・カーティスは映画そのものを体現した。過酷な日々にあって、武器や食料以上に大切なもの。大スターの存在意義。
 ご冥福を。
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写真:トニー・カーティスとジャネット・リー。ケリー・カーティスが後のジェイミー・リー・カーティスにキス!
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2010/9/28

レベッカ・キーガン『ジェームズ・キャメロン』  

 レベッカ・キーガン『ジェームズ・キャメロン 世界の終わりから未来を見つめる男』(吉田俊太郎・訳 フィルムアート社)読了

 本書を読了した今日、『タイタニック』で“現在”のローズを演じた、グロリア・スチュアートがなくなったとの報道があった。100歳。心からご冥福をお祈りしたい。
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写真:『タイタニック』より。グロリア・スチュアート(中央)。
この作品にあって、この老女優を記憶に留めぬ者はいないという点で、彼女の演技と存在感がいかに秀でていたかを思い知る。ご冥福を。画像リンク元


 さて、本書はジェームズ・キャメロンの伝記本である。
 タイム誌の記者である著者は、取材のために『アバター』撮影現場を訪れた時に、この本の執筆を決意する。
 その現場が「映画の製作方法が根底から覆されたもの」であり、その現場を仕切りながら、「困難なことにしか興味がなく、それが完璧にやってのけるこの人物に深い好奇心を抱くようになった」からだ。
 そこでジャーナリストらしく、キャメロン周囲の関係者にくまなく取材し、その生い立ちから『アバター』までを詳らかにする。とてもよく書かれた、いい本である。

 またしても暴論を吐くのを許していただくと、世にいわゆる「呪われた映画作家」というのがいる。たとえば、シュトロハイムやウェルズ。
 彼らをキャメロンと並べてみた場合、「呪われた」とはずいぶん都合のいい言い草だという気がしてくる。
 ウェルズもシュトロハイムも、単にキャメロンほどの才気に欠けただけだ。
 製作費をコントロールできず、それを会社に説得できず、尺数を通すこともできず、そもそも作品自体の力を世間に納得させられなかった。ただそれだけじゃないかと。

 ジェームズ・キャメロンは、映画史上最高の製作費もかけるが、映画史上最高の収益もあげている唯一の作家だ。
 興業性と偉大さにおいて、キャメロンに匹敵するスピルバーグは、史上最高収益を何度もあげたかもしれないが、製作費は徹底的に切り詰めることにその手腕の1つがある点で、キャメロンとはまた異なる資質の監督である。

 本書を読んで実感するのは、ジェームズ・キャメロンの優位は、常に現実的な判断のもと、理性をもって製作にあたっていることだ。いわゆる“狂気”の作家ではない。
 製作費もかけるかもしれないが、大胆さと繊細さを織り交ぜたビジネス手腕で、その費用をとってくる。そして納期を守る。『タイタニック』は封切を伸ばしたが、その説明責任はきっちりとっている。
 必要とあらば、ロジャー・コーマン仕込みの、超ローテクな撮影もためらわない。要するにムダ使いはしない。

 尺が長くなり、カットが必要になっても「だったらフィルムを縦に切れ」などとは言い出さず、客観的な現況分析のもとに判断を下す。
 (たとえば『アビス』ラストの津波シーン。これは試写のアンケート調査で賛否が分かれた。実はフォックス上層部さえ、映画のために残すべきだという判断も出ている。けれど、当時の観客の印象にあって、キャメロンはこれを不要と判断し削除した。後に「完全版」として再公開したことは誰もが知る通りだ)

 著者は、こうしたことができる力を、キャメロンが「科学と芸術の両分野に同じくらい興味を持っていた」点に着目する。
 だから自らのヴィジョンを実現するため、自ら機材開発を行い、撮影技術を発明する。
 既存の技術では描けないものを求めるから、自ずとすべての新作が革命的なものとなる。科学と芸術、両方が対なのだ。

 それだけなら、スタンリー・キューブリックという先駆者の名を思い出すが、キャメロンは自ら開発した機材と装置で深海に潜って、実際のタイタニック号を探索してしまうし、そのうえ史上最高収益を叩きだす。
 「飛行機には絶対乗らない」と英国を出ようとしなかったキューブリックとは、当然持てるヴィジョンのケタ数も違うだろう。

 キャメロンの映画はどれもすごい。すごいのだが、そのすごさを「映画」という枠だけで語ることができないし、語ってもいけない。だからその言葉を発見すべく、批評はとりあえず、キャメロンに追いつく必要がある。
 ましてや、従来の「映画」のつもりで、賢しらにキャメロン作品に非難がましい言質を下す者は、己のスケールの小ささを恥じてしかるべきだろう。


2010/9/26

ポルトガル映画祭 オリヴェイラ3本  映画

「ポルトガル映画祭2010」 於 フィルムセンター
 マノエル・ド・オリヴェイラ『アニキ・ボボ』(1942/78Min)
 ロッセリーニ、トリュフォー、タルコフスキーからカネフスキー、さらに成瀬や小津まで、ある種の映画作家はその初期作品(しばしばデビュー作)において、みな子どもを使った映画を撮っているのだと、このオリヴェイラの長編第一作も、子どもたちの生活を描いたものであることに、少し驚きつつ思った。
 しかしその大半が、胸をふたぐほどに辛い作品であるのに対して、オリヴェイラのそれは子どもたちの生きるべき道を指し示す、幸福感にあふれたものだった。

 通学カバンに「正しき道を歩め」と書かれた主人公は、なかなかそれを守れない。そしてそんなカバンは、時に置き去りにされ、移り気な子どもの気持ちを巧みに象徴する。

 そんな彼が、ほのかに恋心を抱く同級の少女の気をひこうと、彼女がほしがっていた人形を万引きすることで、物語にはドライブがかかる。
 「正しき道を歩め」と書かれたカバンに、くすねた人形を突っ込むとき、子どもの心は後戻りできないところに行くだろう。
 そんな子どもの様子は、映画の中に何度も登場する猫の姿で代喩される。主人公の少年は、少女に人形を手渡そうと、まるで猫のように深夜の屋根伝いに、彼女の家に赴く。
 ここでふと、『泥棒成金』のケイリー・グラントが頭をよぎったが、『アニキ・ボボ』はもちろんその10年以上前の作品である。

 人形を売る店の店主とその丁稚は、その犯人を幾度も「泥棒猫」と呼ぶように、子どもと猫は同類である(猫は学校の授業にさえ参加している)。
 そういえば『アブラハム渓谷』のヒロインは、黒猫を飼っていたと記憶するが、それもむべなるかな。
 ある決定的な事件がもとで、物語は『動くな、死ね、蘇れ』の少年の末路にさえなりかねぬ事態に発展するが、少年の心を正しく導くのは大人の役割である。

 1942年。まだ大人は判ってくれる時代だったのだ。

 マノエル・ド・オリヴェイラ『春の劇』(1963/91Min)
 打楽器の緩慢なリズムが背景に流れるオープニング。なんと。これはまるで『ノン、あるいは支配の空しい栄光』の冒頭の音楽とそっくりではないか。

 現在の悲劇を過去の悲劇と折り重ねるように、人類の歴史をとらえた『ノン、あるいは支配の空しい栄光』は、だから『春の劇』の続編のようだ、と無体な連想をする。
 『春の劇』はキリスト受難劇を、クラリャ村(トラス・オス・モンテスの一地域だそうだ)の人々が野外劇として演じたものを、周到な編集でカメラにおさめたものだ。

 キリストの受難というよりは、キリストを死に追いやった人類の愚行にこそ、着目しようとするオリヴェイラの意図は、映画のエンディングで、モノクロ映像として唐突に“現代の悲劇”が挿入されることで示されるように思う。
 その意味でも、『春の劇』は『ノン、あるいは支配の空しい栄光』との親近性を感じるが、このエンディングはちょうど、ゴダール『アワーミュージック』の第一部を、はるか先どったようにも思われる。
 
 映画のキリスト受難劇は、朗々と述べられるセリフでのみ演じられる。この劇を伴奏する音楽はまったくなく、また、画面を見る限りかなりの強風が吹いているのに、自然音による風の音などはまったく入っていない。
 クリーニングされた復元版のフィルムであることも手伝って、セリフのない場面は完全に無音になるので、演者の声の抑揚のみが耳に刻み付けられる。
 (音楽に近いものは、十字架を担ぐイエスの顔の汗を拭った亜麻布に、イエスの顔が刻印されたことに気づいた女が歓喜の歌を朗唱する、1箇所のみ)

 かくも声の力を重視する『春の劇』を見て、こんなことを思う。
 声によって、言葉によって伝えられたイエスの悲劇。この映画は「ヨハネによる福音書」の冒頭の一節「はじめに言葉ありき」の朗読から始まる。
 しかし“現代の悲劇”、それはこの『春の劇』エンディングで示されたように、核爆発、上陸作戦、火炎銃による殲滅、全身ケロイドの民衆、などなど、“映像”で示され、そこにもう“言葉”などない。
 となると映画とは、もしや“言葉”を失った“現代”の悪魔の術ではないのか。
 文字通り、“言葉を失う”としか言いようのない、オリヴェイラ『永遠の語らい』のラストを思い出しつつ、少し鳥肌がたつ。

 『過去と現在、昔の恋、今の恋』(1972/115Min)
 まるでウディ・アレンが作りそうな、複数夫婦の愛憎もつれあう物語。
 ただ決定的に違うのは、ウディ・アレンが多くの場合、Chapter1、Chapter2と言った感じで、章立てにして次々と物語が進行していくのに対して、オリヴェイラは夫婦=男女の真髄を、複雑なようでいて、もっとシンプルにとらえているように思う。

 それは男女関係とは、これすべて無限の繰り返し、ということだった。
 主人公の1人ヴァンダ(決して忘れられぬ名前だ!)は、現世の夫は憎むくせに、夫が死んだとなると途端に愛し始めるという悪癖を繰り返す。
 その夫が双子であるという、ダブルのモチーフに、夫妻の友人の一人は飽かずに他人の妻を口説こうと繰り返し、この映画における窓は、人が落っこちるためにあるとしか思えない。
 そして、メンデルスゾーン『真夏の夜の夢』が全編にわたって、しつこく鳴り響く。

 よく考えてみたら、結婚式というものが、要するに繰り返しの儀式だった。
 この映画をしめくくるのは、新たに登場する若いカップルの結婚式だが、「健やかなる時も、病める時も(中略)誓いますか」なる、神父・牧師の決まり文句の後に、「誓います」という言葉が、新婦と新郎それぞれにより、2度繰り返される。

 こんな儀式が無限に繰り返されて、女も男も現在に至る。完結などすることはない。

2010/9/25

ポルトガル映画祭 モンテイロ3本  映画

「ポルトガル映画祭2010」 於 フィルムセンター
 ジョアン・セーザル・モンテイロ『黄色い家の記憶』(1989/122Min)
 ジョアン・セーザル・モンテイロ『ラスト・ダイビング』(1992/88Min)
 ジョアン・セーザル・モンテイロ『神の結婚』(1999/154Min)

 噂に名高いモンテイロ初見。
 いったい次に、何が起こるのかわからぬ無軌道ぶりに瞠目する。
 そしてその無軌道な作風は、たとえば残された寿命はあと1日、といわれた場合、人が欲望にまかせてどんな行動をとるかわからない、ということに似ているように思った。
 モンテイロの映画はだから、ひどく下品な悪ふざけに満ちているようで、どこかただならぬ死の匂いがある。

 『黄色い家の記憶』の、「黄色い家」とはもともと刑務所を指すそうだ(冒頭のモノローグでそう説明される)。
 舞台は、おそらくその「黄色い家」の暗喩と思われるアパート。主人公はそこに住む初老のジョアン・ド・デウス(神)で、監督のモンテイロ自身が演じている。

 この老人は道徳心とは無縁で、下品な欲望だけを全開にして生きている。美人の大家の娘が入浴直後のバスに忍び込み、まだ流れきらず浴槽に残った、彼女の体を覆ったであろう泡を飲み下し、その泡に混じる陰毛を探しあてて嬉々とする。そんな男だ。

 『黄色い家の記憶』はもちろん、同じ人物を主人公とする三部作の最後を飾る『神の結婚』も、そんな無軌道な奔放さは敗北に終わるしかない。
 それもそのはずで、“神”など死んだ後のこのポストモダンの世界にあっては、自らデウス(神)と名乗る者の勝手を許すはずがないのだ。
 だからこそ、モンテイロ作品のはちゃめちゃな狂気に、死の匂いがつきまとっているように感じたのかもしれない。
 それはたとえば、『神の結婚』のきわめて濃厚なセックスシーンに表現される。

 『神の結婚』では、冒頭いきなり「神の使い」を名乗る男が、モンテイロに大金を手渡す。「USドルでなく、レートが安定しているマルク建てにしておくぞ」と、ひどく現実的な「神の使い」でもある。
 その大金に浮かれたモンテイロは、放蕩三昧を尽くすのだが、“姫”と呼ばれる超絶グラマー美人を手に入れる。彼女は「さあ、果実をめしあがれ」と、これが実に実に立派な黒々した陰毛を持つ自らの全裸を、惜しげもなくモンテイロに与えるのだった。

 ここから濃密極まりない、長い長いワンカットのベッドシーンが始まるのだが、彼女の肉体をむさぼる全裸のモンテイロが、これが何ともはや、実に「口ほどにもない」というありさまなのだ。
 画面は、彼女の全裸よりむしろ、モンテイロの貧弱に老いた裸身の方を強調する。

 ここでもし、モンテイロのペニスが立派にそそり立っていたら、映画はまた違う様相を見せたかもしれない。が、そのペニスはあるのかどうかさえわからぬ貧弱さだ。
 そして、どの作品でも「女のあそこを舐める」というセリフを、幾度も好んで使うモンテイロだが、いざ、いくらでも舐めてよい状況になると、それをためらうばかりか、このゴージャスな女体を前に、どう責め立ててよいかわからぬげな気配なのだ。
 これではダメだ。いくらグラマーとはいえ、女の裸身に負けては“神”の面目がない。

 また、『ラスト・ダイビング』の驚きは、男2人のまるで何もせぬ数日間を描いたことだ。
 劇中2度続けて見られるダンスの2回目は、何と無音という演出も大胆なのだが、人物をただブラブラさせるだけで、88分の上映時間をもたせるパワーもすごい。

 今回のモンテイロ作品3本に共通して言えることは、男どもが一切労働などしないことだ。労働というのは、“明日”があるからこそするのであって、“明日”がなければ労働などしない。そのことがまた、作品に死臭をふりまくことになる。

 が、もう1つの驚きは、『ラスト・ダイビング』で、生命力いっぱいに咲き乱れるひまわり畑だった。
 そして、『神の結婚』ラスト近くの刑務所面会シーンで、そんなモンテイロでも愛してくれる女性の服が、小さなひまわりの花を無数にプリントしたデザインだったことだ。
 ここにモンテイロは、人生に対して、そっと“希望”の芽を与えているかのようだ(『ラスト・ダイビング』ヒロインの名は、「希望」を意味する“エスペランサ”だ)。

2010/9/23

『国境の南』  映画

「ラテン・ビート映画祭2010」於 新宿バルト9
 
 オリバー・ストーン『国境の南』(2009/78Min)
 キューバのフィデル・カストロに取材した、忘れ難き『コマンダンテ』(2003)と対をなすドキュメンタリー作品。
 ベネズエラのチャベス大統領を軸に、南米の指導者たちにインタビューを重ねる。

 映画の構成としては、『コマンダンテ』とほとんど変わらない。オリバー・ストーンが現地に乗りこみ、肩を叩き合いながらの友好的な歓迎と共に、(たくさんの撮影クルーと通訳者と共に)大統領の執務室にまで入り込んで、対話を積み重ねる。

 『国境の南』は、ネオコン系のフォックス・チャンネルはもとより、CNNを含む、さまざまなアメリカ合衆国の国内メディアが、チャベス大統領を「独裁者」として報道するのを次々と見せていく。
 こうした偏向報道を何よりも憎む―それは『サルバドル』、『トーク・レディオ』、『JFK』の作者であることから瞭然だが―オリバー・ストーンはまずそこから糾弾する。
 なぜチャベスが「独裁者」呼ばわりされるのか。それは彼が社会主義政策をとる、反米的指導者で、かつその石油貿易政策が、アメリカ合衆国を利するものではないからだ。
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写真:2006年9月20日 チャベスは国連総会において、ブッシュを「昨日ここに悪魔が来た。ここはまだ硫黄の悪臭がする」と批判し、注目を集める。
後2009年9月24日、チャベスは同じ場で「ここはもう硫黄の匂いはしない。希望の匂いだ」とオバマ政権誕生を歓迎する。


 チャベスは、軍の司令官時代に一度、政府の圧政を覆そうとクーデターを企て失敗。2年間投獄されている。出所後、改めて大統領選に出馬。「民主的な選挙により」圧倒的多数で当選するが、反米色を強めるチャベスに合衆国を後ろ盾にした、反チャベス派がメディア報道において、徹底的なネガティブ・キャンペーンを張る。
 これを「世界初のメディア主導のクーデターだった」と表現するオリバー・ストーンは、こうした偏向報道に、ことのほか敏感だ。しかも、ここにはCIAが一枚噛んでいるのだ。

 やがて合衆国の支持をバックに、軍部がチャベス政権転覆を企て成功。暫定政権が発足するが、それを受けて原油価格が急激に下降。それは市民、特に貧困層の経済を直撃する。彼らは親チャベスだ。
 民衆の支持がないと見るや軍部は日和る。クーデターは2日で収束し、チャベスが返り咲く。こうした90年代から2000年代の、ベネズエラの動向を、映画は手際よく見せる。

 ストーンが苦々しげに描くのは、アメリカ合衆国が(それはブッシュ政権のことだ)、これら南米の国々に対して、大国であることを背景に一方的な抑圧をかけていることだ。
 自由経済を標榜しながら、それはあくまで、アメリカ合衆国の利益を前提とし、だからオリバー・ストーンは「私は資本主義を悪いとは言っていない。侵略的資本主義がいけないと言っているのだ」と強調する。

 ストーンはアルゼンチンの大統領(当時)にこんなことを聞く。
 「南米も、ヨーロッパがそうなったように、やがて統一され、共通の通貨が使われるようになるのだろうか」
 それに対し、迷わず「きっとなる」と答えるキルヒナー大統領。それが、合衆国の驚異に対する防衛であり、より確かな国家の基盤となるからだ。

 映画はオバマ大統領の就任で幕を閉じる。ブッシュの時代が終わり、対話を唱える合衆国大統領の出現を、南米指導者たちは歓迎を隠さない。
 だが、チャベスが求める握手ににこやかに応じるオバマの姿に、合衆国の保守系メディアは嫌悪を露わにする。
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写真:2009年4月19日 トリニダード・トバコにおける34ヶ国米州サミットにて。合衆国保守層を苛立たせたオバマとチャベスの握手

 かくしてオリバー・ストーンが糾弾するは、権力ある側の一方的な支配であり、多様性を阻む勢力だという図式が浮かび上がる。
 そうした気質のあり方が、ストーンのその他の作品世界にどのように投げかけられているか。その議論は別に委ねなければならないが、そのことがオリバー・ストーン作品に、独特の力強さを与えていることは間違いない。
 政治論、作家論、どちらの観点からも必見の力作。一般封切りは困難かもしれないが、せめてソフト化だけは期待したいものだ。
   ↓Incidents特選書。

 

2010/9/21

『テトロ』  映画

 「ラテン・ビート映画祭2010」於 新宿バルト9

 フランシス・フォード・コッポラ『テトロ』
 コッポラはすごい。『胡蝶の夢』に続いての小規模映画だが、この作者がかつて当時最高額の予算をかけて、1本は当時の映画史上最高興業収益を、1本は狂気寸前まで追い詰められ、1本は壊滅的な赤字で自らのスタジオを売りに出すほどの苦渋をなめた、ということを誰が思うだろうか。
 それが、ハリウッドどころか合衆国さえ離れて、遠くアルゼンチンでモノクロ映画を撮る。

ニューヨークからはるばるブエノスアイレスまで、何年ぶりかで兄に会いに来た、まだ18歳の弟。
 兄は家族を捨てるように出て行った。だから自分のことも捨てたのだと思っていた弟だったが、いざ再会すると案の定、ひどく冷たくそっけなくされる。
 救いは心から歓迎し、親切にしてくれる美人の“兄貴の嫁さん”なのだが、兄弟仲をとりもってくれるほど、どうも兄に睨みはきかないようだ。
 「彼のことであなたに傷ついてほしくない」とのみ言い残す義姉である。
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写真:『テトロ』より。兄のもとを訪れる弟。華麗としかいいようのない見事なオープニング。
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 旅の体を休めるべく、ソファに寝転がり、とりあえず眠ろうとはするが、おもむろに兄からの手紙を読み返す。
 そこには「連絡をくれたら必ず迎えに行く」という意味の、兄の温かい言葉が書かれている。涙にくれる弟。彼の当ては完全にはずれたのだ。
 このとき、彼をいたわるかのように、そっと近づいて行くカメラに胸をうたれる。この映画の目線は、なんて温かいのか。

 以後、読みとっていけばいくらでも言葉を連ねられる、兄弟・家族の驚くべき物語が続く。それを語るために、この映画は温かい画面と冷たい画面が交差する。
 これは何なのだろう。具体的に画調が変わるわけではないのだが、間違いなく厳しさに満ちた画と、くつろいだ画とが、使い分けられているのだ。
 それはたぶん光の当て方一つなのだろうと、素人ながら推測する。それほど、このモノクロ画面は繊細にして雄弁だ。
 この映画にたった1度だけ、親密な関係をひととき取り戻した兄と義姉の、ソフトなベッドシーンがあるのだが、そこに当てられたわずかな光の素晴らしさ。
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写真:『テトロ』より。ヴィンセント・ギャロとマリベル・ベルドゥ。いい。
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 この映画は、兄弟間で決して正しい形で継承されない様々な事項を散りばめる。
兄が結末を書けずに放擲した家族に関する手記を、弟は引き継ぐが、しかしその結末は事実と反する。
 世界的指揮者・作曲家であった兄弟の父(ここについカーマイン・コッポラの反映を見てしまうのだが)の死後、残された指揮棒が父の兄に形見として手渡されるのだが、複雑な感情のもつれから、それも折られてしまう。
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写真:『テトロ』より。この映画はこんな珠玉のカットでいっぱいだ。
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 1つだけ確かな形で引き継がれるものがあって、冒頭なぜか「バスにひかれた」と、負傷した左足にギブスをはめて登場する兄なのだが、後に弟までも交通事故で左足を負傷することになる。血なまぐさい事柄に限って、引き継がれてしまうのだ。
 このとき、かつて蓮實御大がコッポラに放った「なぜあなたの映画では、いつも重要な部分で病院が出てくるのでしょう」という質問(『フランシス・F・コッポラ ~Francis Ford Coppola & His World』(エスクアイアマガジン・ジャパン所収)の鋭さに、改めて舌を巻く。
 当然、その“成功した引き継ぎ”は、兄弟の和解と決定的な別離の両方を演出することになるだろう。いずれにせよ、ろくなことにはならない。
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写真:『テトロ』より。マリベル・ベルドゥとオールデン・エーレンライク。やって来る“兄”の影。直感的にエリア・カザンのようだ…と思わされるショットもしばしば。
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 今にして思えば、『ゴッドファーザー』自体が、兄弟間で正しく引き継がれるべき内容をしくじった悲劇だった。コッポラにあっては、どういうわけだか、引き継ぎは必ず中断されてしまい、そして誤る。
 それが家族というものの宿命なのか、そうしたあらかじめ敗北していることの、コッポラの哀歌に私たちは感応する。
 『テトロ』はそんな避けられぬ悲劇を情け容赦なくさらけ出すとともに、それを“宿命”として切って捨てるのでなく、救いの可能性を示してくれる。
 ここに至ったコッポラの境地に、深い感銘を受ける。

2010/9/19

『トラス・オス・モンテス』、『カニバイシュ』  映画

「ポルトガル映画祭2010」於フィルムセンター

 アントニオ・レイス/マルガリーダ・コルデイロ『トラス・オス・モンテス』(1976/108Min)
 地図を見るならば、トラス・オス・モンテスは、ポルトガルの端っこ、スペインと国境を接する一地方。現在はリスボンから高速バスで6〜7時間なのだそうである。

 今ではほどほどに都市化もされつつあるようだが、この映画が撮られた頃は、寒村といっていい。とても広い原野が広がるのだが、丘の起伏が比較的大きいため、地平線までが見えてくるわけではない。
 だが何もない土地が広がっていて、この寂しさにはやり切れない思いがする中、人々はそれぞれ生を営んでいる。が、男たちがいない。

 これは原野と風の音、そして女と子ども、それから老人の映画と言える。
 厳しい自然の中の、貧しい暮らしのせいだろうか、子どもたちの顔には、なるほどあどけなさこそ残るが、すでに老人になったときの顔がイメージできるような、そんな老成した佇まいが見うけられる。
 働く男の姿が見えないのは、おそらく出稼ぎでみな、出払っているからだろうか。

 映画は、この土地に住む人々の幾十年もの生活が、時間と空間を行ったり来たりしながら、進んで行く。
 風の音が耳につく。けれど映画はときどき自然音を完全に消してしまう。すると、アナログ録音のノイズの音だけがやけに耳に入ってくる。そのとき、これは映画であり、その音が録音されたものである、という当たり前の事実を不意に思い出させられる。

 詩情あふれるショットも多数。陽の落ちかかった時間。自分の影が長く長く伸びているのをじっと見つめる少女。風の自然音がうなる中、追われる羊をじっと見つめて佇む少女。

 この子たちの中に、どのような感情、思考が眠っているのだろうか。
 映画はそれを明らかにすることはない。土地と生活は一体である。ただ黙々と女と子どもと老人はそこに生きている。
 これはアメリカ合衆国が建国200年に湧く年に、はるかポルトガルで撮られたひそやかな、けれど素晴らしい映画であった。

 マノエル・ド・オリヴェイラ『カニバイシュ』(1988/91Min)
 外見的には、魅力的な中年子爵様と、彼に恋する令嬢と、その関係に嫉妬の炎を燃やす若き青年の、三角関係の物語である。
 舞踏会の場面からスタートする、ジョアン・パエズによるオペラは、フルオーケストラの堂々たる構成で、登場人物たちは(皆吹き替えではあるが)本格的な歌唱を聞かせる。
 狂言回しのテノールと、それを伴奏する狂騒的なヴァイオリンが、物語を時には煽り、時には笑いに落とし、時には生真面目に進行する。

 その外観は、ヴィスコンティさえ思わせ、けれど、そんなものが全然関係ないことは、オペラが進むにつれて、うっすら見えてくる。
 それは、堂々と歌われ、登場人物個々の感情が少しづつ露出していく背景では、現に歌われつつある歌のリズムなど無視して、舞踏会客たちがどこ吹く風とマズルカを踊り続けるどこか珍奇なバランスから伺われる。
 これは『夏の嵐』のような、本格オペラを見せるつもりなどなさそうだ。
 ちなみに改めて申すまでもないが、マズルカはポーランドの民族舞踏であり、ポーランドの作曲家ショパンが名曲を幾多も残している。

 だが後から思うと、この前面で歌われている歌と、背景で踊られているステップのアンマッチぶりが、実は本作終盤の怒涛の倒錯を準備していたのかもしれない。
 
 しかし、それを別段タブーという風情でもなく、人肉食まで出してくるオリヴェイラの根性は、いったいどこからくるのか。
 そして、あたかも“堅いこと言うなよ”とばかりに、圧倒的大団円で映画が締めくくられるとき、そういえばこの映画のオープニングは、そもそも登場人物が一人一人大邸宅にやってきて、沿道のファンたちに挨拶を送る、というものだった。
 (狂言回しとヴァイオリン男が到着した時だけ、出迎えの者が顔をしかめたのはなぜだろう)
 つまりこれらは劇中劇なのであり、全部が虚構だったことを思い出し、であるならば当然、最後はカーテンコールでああなるしかない、というわけであろうか。
 
 オリヴェイラの人の悪さが炸裂。すべてをひっくり返しておきながら、けれど、それは入念に準備されてもいるような、まるでオリヴェイラにケンカを売られて、それを買ったはいいが、気がつくとまんまと逃げられていた、とでもいうような気分の作品だ。

2010/9/17

蓮實重彦『随想』  

 蓮實重彦『随想』(新潮社)読了。
 全15編。「あとがき」を除けば、ぴたりノンブルで250ページで終了している、このキリのいい本書。
 む、これはもしやと思いつつ、読了後直ちに、書架から『凡庸さについてお話させていただきます』(中央公論社 1986)を取り出してみる。
 こちらは全12編。そしてページ数はノンブルにして、何とぴたり250ページ…とはさすがにいかなかったが、とはいえしかし250ページとプラスたったの4行。だから251ページにはなるが、これは誤差だ。

 「もしや」と思ったのは、実のところページ数が同じではなかろうか、と直感したことの他にもう1つ、“映画”や“文学”などのようにテーマを決めず、その時の気持ちの反応に従って書かれた文章を編んだ書物で、かつ対談ではないもの、というのがまさに、この『凡庸さについてお話させていただきます』以来ではないかと思ったからだ。
 ということは、これが24年ぶりの「随想」録。24。『凡庸さについて…』収録の12編という数のちょうど2倍である。

 という数字遊びはさておき、しかし『随想』15編のすべてが、その書き出しを律儀に年月日を、場合によっては時刻までも記載していることはどういうことか。
 著者はこれを「あとがき」の中で、阿部某の長編小説へのオマージュであると記して、あっさり種明かしをするのだが、本当だろうか。
 実際、『凡庸さについて…』の各編にも、表題とあわせて年と月が書かれているのだ(日付と時刻こそ記載されていないが)。

 こうしてみると、まるで姉妹品のようなこの2著書だが、変わったものだなと思うのが1点。すなわち、各々の文章を書くきっかけというのが何であるか、ということだった。
 例外は逐一あげない。だから、ここはどうだ、あそこはどうだ、というご指摘は無用に願いたいのだが、『随想』は、その折々に著者をよぎった「固有名詞」が、“随想”を起動するトリガーとなっている。

 ル・クレジオ、直木三十五賞、マルコ・ミュラー(ミュレール)、バラク・オバマ、国民服、中村光夫、ジーン・クルーパ、ギュスターブ・フローベール、パブリック・エネミーズ、「終の住処」、ボヴァリー夫人、中秋の名月、小野寺龍二、エリック・ロメール、国民読書年という、15個の固有名詞がそれだ。
 2つほど「固有名詞」ではないではないか、という指摘も無用に願いたい。

 一方で、『凡庸さについて…』の、“随想”(?)開始のトリガーが、凡庸、大韓航空機撃墜事件、性の表層化、コーヒーとともにビフテキを食す女性、大学入試問題の漏洩、竹馬に乗る志賀直哉、「ル・モンド」匿名のインタビュー、国際映画祭、コム・デ・ギャルソン、特定不能の何か、「私は女子大生が嫌いだ」、愚かさ、といった調子だ。

 コム・デ・ギャルソンと国際映画祭、といったあたりが「固有名詞」といえそうだが、残りはすべて、何かしらの“現象”に取材しているということ。

 現象から固有名詞へ。著者の24年間におけるこの変貌は何か。
 もちろん、それぞれの書物が成立の過程も、執筆意図もまったく違うのだから、それを変貌というには当たらないかもしれない。
 けれど、ここには著者の着眼点を考えるうえで、案外思いがけない何かが隠れているような気もする。
 あるいは、著者の着眼点が変わらざるを得ない社会の変化か。いや、これも単なる直感である。

 そして、これもまた直感なのだが、その変貌の無意識のカギは、本書の中で「名高い使徒の名前を二つ律儀に組み合わせた洗礼名」と表現されたファーストネイムを持つ、ある映画作家の変貌にほぼ重なるのではないかと思われる。

 『凡庸さについて…』が執筆されつつあった、80年代のその映画作家は、なるほど作品全体を貫いて、何がしかのテーマを見出そうとする運動を見せていたように思う。
 けれど、90年代も半ばを過ぎて、無数の過去の映画の断片を組み合わせて、全8章総計5時間近くにも及ぶ作品を作り上げたあたりから、瞬発力の連鎖といってもいい作品に変貌を始めたのだと思う。

 その変貌は、“現象”から“名詞”へという著者の変貌と、その本質においてほぼ同じではないかという気がする。なぜ同じかと問われると、答えに窮するのではあるが。

 その集大成といえよう、『アワーミュージック』(2004)というタイトルを持つ作品を発表した時点での(最新作はまだ見ること叶わぬ故、これを最新の長編作品とみなしておこう)、この映画作家の年齢と、『随想』(2010)を出版した著者の年齢はぴたり一致する。これが偶然であるはずはない。


2010/9/16

市川真人『芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか』、東浩紀・宮台真司『父として考える』  

市川真人『芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか』(幻冬舎新書)読了
 本書のタイトルとなった命題に対する、ひとつの解答という意味なら、本書は優れた書物だと思う。間違ってないし、きらめくような慧眼があちこちにある。実際、まったく知らないテキストも参照しながら、十分に説得的な話を展開していると思う。

 だが江藤淳や柄谷行人などなどを、巧みに参照しながら、日本文学における「父の喪失」(それもアメリカとの関係をその隠喩とした)とかについて語る議論は痛切興味がない。
 もちろん、本書題名から察してそうした議論になるだろうことは、予測すべきだったのだが。
 “日本”文学とか、そういうのにおよそ嫌悪を感じるのは、私の個人的な病のようなものだから、こればかりは勘弁していただきたく候。

 東浩紀・宮台真司『父として考える』(NHK出版生活者新書)読了
「そもそも育児か仕事か、というのはあまりにも単純な二項対立です。現実に目を向ければ、仕事でも人生は充実するが、育児でも充実するし、そもそもどんな人生でもなにかしら充実は達成できる。それが真実という他ない。それはむろん、あるタイミングで子どもをつくるために夢を諦めなければならなくなったとか、そういうことはあるでしょうけど、そんなことを言ったら別に子育てに限らず世の中そういう障害で満ちているわけです。
 結局、問題は、それぞれが選んだ、あるいはたまたま選ばされてしまった人生に応じて、どれだけそれぞれの能力を社会に還元することができるかということです。勝ち組・負け組の議論はいかにも貧しい。」(P.64〜65 東浩紀の発言より)

 この子は、確かに生きるうえで大切な何かを、きっちりおさえていると思う。それは間違いない。

2010/9/14

北野武/ミシェル・テマン『Kitano Par Kitano 北野武による「たけし」』  

 北野武/ミシェル・テマン『Kitano par Kitano−北野武による「たけし」』(松本百合子・訳 早川書房)

 今どうしても出展を見つけられないのだが、かつて蓮實御大は北野武について、「私にとって彼は映画を作らなければただの人です」という意味のことを語ったと記憶する。

 この本は(私は実は少し勘違いしてしまったのだが)、その「ただの人」の部分を中心に語られた本だ。
 聞き手は日本に滞在する、フランス人ジャーナリスト。フランス人により、フランスで出版されたものの翻訳である、
 直接、監督作品について裂かれたパートは全357ページ中、87ページ。4分の1に少し欠ける程度。
 
 だが、そういった「ただの人」の部分の饒舌が、結果的に監督作品のそここことダブらせるように読み進めることが、読者としての使命となるだろうし、実際にそのように語られているのだと思った。

 それにしても、自分についてを、実にとめどなく語る人で、とことん「自己愛」の人なのだろうなと思う。もちろん悪い意味でなく。
 「映画を撮るのは、まずは自分が楽しむため」(P.129)と堂々と語るこの監督の口からは、「人から認めてもらいたい」といった言葉は出てくるが、観客のためを喜ばせるためにどうのといった言葉は、まず出てこない。

 たぶん、自らのプロダクションの資金で、自家発電式に映画製作ができる、世界でも稀有な映画作家としての立場が、そのような姿勢を裏打ちするものと思う。
 その意味では、インタビュアーは、そういった点をもっと深めていいんじゃないか、という読後感を持ったことも確かである。

 一箇所、「ハッ」とした部分がある。自作の絵画についてこんなことを言う。
「妙なことにさ、俺、右利きなのに、子どもみたいにさ、ときどき、左手で描くことがあるんだよ」(P.271)

 この人の多彩な活動の秘密は、すべてこれなのではないかと思った。
たとえば、妙なことにさ、テレビタレントなのに、子どもみたいにさ、ときどき映画を撮ることがあるんだよ、といった言い変えも可能かもしれない。
妙なことにさ、シリアスなタイプの監督なのに、子どもみたいにさ、ときどき、おちゃらけた映画を撮ることがあるんだよ、という言い変えなどなど。

 常に追求すべきは、自分でないもう1人の自分。その自在なチェンジリングが、この特異な映画作家の資質を育む、根本的な条件だったのだと今さらに思った。



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