2010/10/31

『エクスペンダブルズ』  映画

 シルヴェスター・スタローン『エクスペンダブルズ』 例の「日本語版主題曲」採用に反対して、見ない宣言をしていたが、実際に流れるのはオリジナル主題歌が完全に終わった後とのご教示をいただいたので、前言を翻す。
 そもそもそんな下等なことで、強情を張ってもしかたがない。

 傑作なのは最初からわかっていた。予想は超えたとは言わないが、その予想を非常に高いレベルにセットしていたので、必然的に大傑作である。

 筋肉バカのイメージが先行するが、パソコンを使った犯罪者プロファイリングを行ったのは、実は『コブラ』(1986)のスタローンが最初のはずだ。確か日本ではまだ、“マイコン”とか呼んでいた時代ではなかろうか。
 ついでに、赤いレーザー光が照準となる火器を使ったのも、たぶん『コブラ』が最初だ。そしてこの武器は『エクスペンダブルズ』冒頭でも、過剰に使われて目を楽しませる。
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写真:『未来少年コナン』 第7話「追跡」より。こういうことができるのはコナンだけなのだろうか? 画像リンク元

 いずれにせよ、スタローンが重火器で攻撃する場合、それはとてもリーチの長い拳骨なんだと思っていい。
 まるでぶん殴るかのように、ミサイルを撃ち込むことのできる人間は、スタローンだけで、その成果はスタローン&ステイサムのコンビで、島からの脱出と攻撃と救出のすべてを一挙に行おうとする、凄絶な桟橋でのアクションで存分に見ることができる。
 火薬による炎上ももちろんあるが、その前に重量感あふれる着弾が、橋をへし折っていく。武器と破壊物が何であれ、スタローンの攻撃は必ず相手の骨を断つ。

 が、それにしてもこの一連の桟橋アクションの素晴らしさはどうだろうか。スタローンが演じ、かつ演出する、この「絶対に大丈夫」という安心感と、「ヤバイかもしれない」という危なっかしさが、別妙にブレンドするこの呼吸。
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写真:『エクスペンダブルズ』より。いやいやとんでもない。スタローンだってできるのだ! 画像:映画.comより。

 それを実現できるのはきっと、“拳としての兵器”という思想が明確だからだ。
 だから肉弾戦にあっても、派手にマシンガンを連射しているかと思うと、いきなり飛び出した敵を、銃座でぶんなぐる。そして振り向きざまに、別の敵をナイフで殺る。

 そのナイフだが、鈍器としてのナイフを持ち出したのも、スタローンが最初のはずだ。それまでのイメージでナイフというのは、適当な代表例だが『荒野の七人』のジェームズ・コバーンのように、瞬間鋭く投げる、小型の武器だった。
 それを『ランボー2/怒りの脱出』(1985)のスタローンは、いきなり並みの人間には持てないような、刃渡り30〜40センチものサバイバル・ナイフを出してきた。
 しかも上手投げで、それが壁に突き刺さる時は、ズシーン!と音をたてる。ナイフによる戦闘の概念を変えた瞬間である。
 そのナイフは『エクスペンダブルズ』でもミッキー・ロークが、遊戯性たっぷりに披露し、戦闘シーンではナイフによる殺傷を存分に見せつける、ショーケースになっている。

 なお、誰もが知る通り、“Expendable”という言葉が初めて使われたのは、『ランボー2/怒りの脱出』でのことだ。ベトナム現地で出会った、美少女戦士にジョン・ランボーが、「オレは捨て石だ(I’m an expendable)」と自嘲して語るシーンである。
 もちろん彼女は、「あなたは捨て石なんかじゃない」と返すのだが、やはり彼は“捨て石”であって、25年目にしてそれを爽やかな笑顔と共に映画にしたというわけだ。
 もっとも“捨て石”を集めた映画は、必ずしも初めてではなく、『勝利への脱出』(1981)の選手達だって、いいかげん捨て石だらけだった。(ジョン・ヒューストン監督のこの傑作は忘れられ過ぎている!)

 『エクスペンダブルズ』では、その“捨て石”たちが集まって、よくわからないミッションを行うのだが、マクガフィンなど何もなく、「ただ我慢ならない」という、その理由だけで“捨て石”たちは、“大統領のイスを狙う”男に「バカのやることだ」と言われながらも、バカをやる。

 バカをやるというのは、危なっかしいということだ。決して「生きて帰れない」ということを意味しない。
 この映画にカメオ出演する、“大統領の椅子を狙う男”にとっての、“バカ”とは生きて帰れないかもしれない仕事のことだが、“捨て石”はそんなこと考えない。あくまでも“成功しないかもしれない”ということだけだ。
 なるほどこの点において、この2人は決定的にすれ違っていて、そのかみ合わなさは、劇中最高のコントになっている。

 だから“捨て石”がチームを作ろうとすると、必ず裏切り者が出てしまう、というのは『ロックアップ』(1989)がその最良の成果として示した通りだ。
 『エクスペンダブルズ』でも、当然その「裏切り者」が現れるが、そいつを映画がどう処理するか、この痛快さはこの映画の白眉のひとつなので、ぜひ見届けるべきである。

 スタローンはいつも自分にとって大切な(けれど他人にとってはガラクタ)を、とにかく人にあげたがる。『オーバー・ザ・トップ』(1987)から『ドリブン』(2001)まで、例はキリがない。
 この映画において、彼にとって重要なものはどうも「幸運の指輪」のようで、私自身はこれを彼がいつ(自分の後継者に任命したと思しき)ジェイソン・ステイサムにあげるのだろうか、と思って息をこらして見ていたが、その瞬間は何と訪れなかった。
 あげない代わりに、それがラストシーンへとつながるのだが、それは『エクスペンダブルズ』という作品が、(たとえ実際には作られなかったとしても)続編、続々編へとつながっていくだろうことを示すに余りある、見事な幕切れとして表現された。

 スタローンの歴史を30年間見守ってきた人間にとっては、その辿って来た道を再確認し、しかも発展の余地を見せてくれた、最上の作品であるし、初めて見る者にとっては、アクション映画とはこんなにも爽快なものか、と目を開かせてくれる、極上の傑作!


2010/10/30

マイルス・デイヴィス『ビッチェズ・ブリュー(レガシー・エディション)』  音楽

マイルス・デイヴィス『ビッチエズ・ブリュー(レガシー・エディション)』
 マイルスの数ある名盤の中で、私はこの大作『ビッチェズ・ブリュー』が特に好きだ。
 それはこのアルバムの発表が1970年。メインストリームの音楽の世界では、まずビートルズが解散した。サイモン&ガーファンクルも分裂し、ジャニス・ジョプリンとジミ・ヘンドリックスが立て続けに亡くなったという、そんな年。
 何かが音をたてて終わろうとしている中、マイルスのこれだけが、際立って誇らしげに、何かを始めようとしている強烈な意思の力を感じるからだ。

 このアルバムには、時代の重苦しさや、ジャケットイラストからイメージされる、ドロドロした淀みのようなものはない。
 マイルスのトランペットはどこまでも、黄金色に、高らかに鳴り響く。ジョー・ザヴィヌルやチック・コリアのエレクトリック・ピアノ他、電子楽器が硬質な空気感を作り上げて、クールが誕生している。

 もっとも、ここでは今さら『ビッチェズ・ブリュー』のよさを語るつもりはない。
 今回は、従来の音源に別テイクの曲(既出)と、未発表ライブのDVDがついて、レガシー・エディションとして再発され、そのDVDのすごさに目が眩んだので、そのことを書いておく。

 ここに追加されたのは、1969年11月4日コペンハーゲンでのライブ映像、約70分。
 アルバム『ビッチェズ・ブリュー』のセッションが同年8月19〜21日だから、その音楽の方向性のままに臨んだライブといっていいと思う。
 編成はマイルス以下、ウェイン・ショーター(Sax)、チック・コリア(EP)、デイブ・ホランド(Bass)、ジャック・デジョネット(Drums)の5重奏。

 幕が上がって早々、デジョネットが、釜の火のようなリズムを不気味に刻んでいる。このドラムは、ライブの最後まで休むことなく、炎を上げ続けるだろう。
 そこに余分な汗も、過剰な情熱も、一切感じさせぬチック・コリアが、弾くというより、何かを確認するかのように、少しずつエレピの音を置いていく。そして、せわしなく走り続けるホランドのベース。

 ほどなく無表情のマイルスが、リズムとリズムの微妙な間を縫って音を挿入してくる。
 アルバム『ビッチェズ・ブリュー』でのそれよりも、若干スモーキーな音色だ。
 そのせいか、まるで突っ込んだペニスで、いやというほどヴァギナの中をかき回すように、サウンドを白濁させたマイルスが、たっぷりと真っ白な音を吐き出した後、こめかみを押さえながら、不機嫌そうにステージを去っていく。
 すると後を継いだショーターが、じわりと小刻みに震えるフレーズの火種をまき、残された3人が次から次へと火をくべていく。

 2人の白人は顔色ひとつ変えず黙々と沈着に音を出し、2人の黒人は顔をゆがめ、苦しそうに音を出す。ときどき思い出したように、マイルスがステージに現れ、また何度も突いては去っていく。すごい。
 個人的には、涼しい顔をしながら、途方もない超絶技巧の、目にもとまらぬ超高速で、鍵盤を愛撫する、サイレント・ウェイなチック・コリアのプレイに、目をみはる。
 
 合計7曲。5人に絞った編成で、『ビッチェズ・ブリュー』で描こうとしたものの、“核”だけを取り出したような、すさまじい演奏を目で見ることができる。映像状態も良好。音もよし。とにかく必見・必聴。


2010/10/27

11月19日の講義に参加なさる茨城大学の学生さんへ  映画

 今年の夏、スタジオ・ジブリは『借りぐらしのアリエッティ』というタイトルの作品を発表しました。
 とても素敵な作品でしたが、この「借りぐらし」という言葉は、実はとても宮崎駿的に感じます。すなわち、定住の地がないので常に流浪を余儀なくされているということ。
 それは瘴気に犯され、定住の地を追われる人類の物語、『風の谷のナウシカ』から既に始まっていたことでした。

 いや、定住所をそもそも持たずに、どこに住んでいるのやらわからない、ルパン3世とその一味たちから、「借りぐらし」の人生は始まっているのかもしれません。
 『紅の豚』のポルコが住所不定なのは言うまでもありませんし、『魔女の宅急便』で修行中のキキも人間界に「借りぐらし」ているわけなのでした。
 城を動かしてまで永遠の旅に出かける『ハウルの動く城』と、人間としての居場所を探し求める『もののけ姫』は、「借りぐらし」の人生を選び取る者どものお話の、最たるものといえるでしょう。

 このように、宮崎駿の世界にあっては人は、本当には住むべき場所を持っていない、というのがその思想の根源にあるかのように見えます。
 だから最終的には単独で行動します。『カリオストロの城』のルパンはいつしか、次元と五右衛門という相棒たちとは別行動になりますし、あれだけがっちりチームを組んでいたにもかかわらず、『未来少年コナン』のクライマックスも、最後にギガントを落とすのはコナンの単独行動なのでした。彼らは究極、たった一人です。
 それを案じた、『未来少年コナン』のおじいは、だからこそ死の間際、コナンに対し「仲間を探せ」と言い残したのかもしれません。

 それに対して、ピクサーの作品はいつでも、帰って来る場所がある。『トイ・ストーリー』のシリーズは、それが叶う叶わないは別として、自分たちにとってそここそが定住の場所である、というポイントがはっきりとあるのです。
 『ファインディング・ニモ』は、住むべき場所からはぐれた息子を、自分の家へと連れ戻す父親のお話でした。

 自分にとって最も快適な場所がはっきりわかっている以上、ピクサーのキャラクターたちは、とても仲間意識が強い。だから、みな例外なく彼らはコンビ、またはチームを組んで、決して離れることがありません。仲間を「探す」必要はなく、友はアプリオリに存在します。

 ウディとバズ、サリーとマイク、ドリーとマーリン、レミーとガストン、カールじいさんとマックス(とケヴィン)、インクレディブル家の人々から、もちろんウォーリーとイヴに至るまで、彼らは決して離れることがなく、その慣れ合いぶりは、コナンとジムシィをしのぐでしょう。

 これは日米の差なのでしょうか。それとも、宮崎駿という作家とジョン・ラセターを代表とするピクサー製作集団という、個人の資質に帰するのでしょうか。

 そうしたことにほんの少し触れつつ、宮崎駿作品とピクサー作品の魅力にせまることができるよう、当日のお話を進めることができればよいと思っています。

2010/10/24

椹木野衣『反アート入門』  

椹木野衣『反アート入門』(幻冬舎)読了
 ちょっと凝った本だと思った。「美術」または「アート」。言葉はこの際どちらでもいいが、この本の命題は、アートというものを、いたずらに神格化するのはやめよう、ということから始まる。
 アートというものが、生活や人生においては「余剰」であると断言するのが本書である。

 だから、アートというものの虚構を明るみに出すために、本書はアートの歴史を、実は懇切に解説してこれがわかりやすい。
 だが、これまで様々な形で表現を変えてきたアートというものは、もともとそうした虚構を明るみに出す試みとして、進化・深化してきたのではなかったか。
 だからアートの歴史は、これすなわち常に「反アート」である。

 真摯にアートを語ることは、自ずと反アートだ。そのことに感づくならば、自分の中で作品を評価する、という物差しができるに違いない。
 物差しができたら、いたずらにアートをありがたがることなど、なくなるだろう。
 だからの「反アート入門」。周到な本だ。

 美術に明るくない人にとっては、文字通りの「アート入門」として、十分な理解を得られる書物だし、造詣の深い人にとっては、書名通り「反アート入門」として、自分のアート感をメンテナンスさせてくれる書物と言える。

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本書から敷衍し、ビジネスの現場としてのアートをレポートした、ソーントンのこの本もまた興味深い。

2010/10/19

デイヴィッド・フォスター&フレンズ ジャパン・ツアー2010  音楽

デイヴィッド・フォスター&フレンズ 来日公演
於 東京国際フォーラムA

 私個人が考える、最高のメロディメーカー3名は、戦前編でジョージ・ガーシュウィン、コール・ポーター、リチャード・ロジャース。
 戦後編ではバート・バカラック、マーヴィン・ハムリッシュ、デイヴィッド・フォスターだ、というのは当ブログで50回くらいしつこく言ってきたと思う。

 そのデイヴィッド・フォスターが来日公演を行った。音楽美の極致。このステージを聴き逃すわけにはいかない。

 定刻19時を15分ほど遅れて、場内が暗くなり、ステージ左右にあつらえられたスクリーンに、フォスターの過去のヒット曲の断片が流れ出す。
 “Love Theme From St.Elmo’s Fire”に始まって、ホイットニーの“I Have Nothing”に終わる映像が3分ほども続いたろうか、生演奏による“Love Theme From St.Elmo’s Fire”のイントロが鳴り響く。
 そしてご機嫌な様子のデイヴィッド・フォスターが、勢いよく現れ、彼がYAMAHAのピアノに着席するまで、イントロが繰り返される中、疑いようもなくこの人のタッチの演奏で、あの『セント・エルモス・ファイアー〜愛のテーマ』の旋律がきらめくように零れ落ちる。
 至福。光輝くような音色とメロディがあふれる。

こればっかりは本当に、映画も音楽も最高だ。

 そして、大喝采の中、この程度は小手調べとばかりに、最初のシンガーとして登場するのは、ナタリー・コール。熱っぽい1曲目、“Fever”に続き、しょっぱなからのハイライトは、発表当時に話題になった、父ナット・キング・コールとの映像での共演による“Unforgettable”。それをこの東京のステージで再現してくれる。
 超絶技巧のスキャットが見事な、“This Will Be(An Everlasting Love)”では、もはやバック演奏などいらなくて、ベースだけを伴奏に聴かせてしまう。

 続いての登場は、カナディアン・テナーズ。
 4人男声によるヴォーカル・グループだが、さすがの声量で圧倒される。やはり、フォスターが見出しただけに、濁り一つないハーモニーとは、つくづくいいものだなと思う。
 聴き間違いようなく、フォスターの曲だとわかる“The Prayer”。そして、レナード・コーエンの声から一切の苦悩を見事なまでに取り払い、高貴な輝きだけを残した“Hallelujah”に、アルビノーニの「アダージョ」をヴォーカルで。

 会場いっぱいに響き渡るコーラスに圧倒されながら、フォスターも「ぼくがあんなふうに歌えるなら、こんなことやってない」などと冗談を交えつつ、3人目のシンガーは、ルーベン・スタッダード。
 「アメリカン・アイドル」で名を馳せた、これもデイヴィッド・フォスター好みの、声量豊かなボーカリストだ。
 この人の1曲目は、これがうれしい、かつてアル・ジャロウがスウィートに歌った“Moanin’”。
 声量が半端じゃない分、アル・ジャロウの小気味よいボーカルが、耳に焼きついた者にとっては、心持ち重たい気もするが、後半のメロディの崩し方がいい感じで、気持ちよく耳をほぐしてくれる。

 続いていかにも90年代フォスター的な、オール4ワンがかつて歌って、“I Swear”を持ち味の豊かな声を生かして朗々と歌いきった後、ちょっと楽しい余興がある。
 フォスターが「君がまだ生まれていないころ、ぼくはエアプレイというグループを作っていた」(会場喝采)と言いつつ、“Nothing You Can Do About It”のイントロをピアノで弾き始める。
 意外な選曲に驚くが、「よしこれを歌ってみようか」というフォスターに、戸惑い気味のスタッダード。
 と間もなく、「なーんて、この歌はまだ教えてなかったね。今晩教えとくから、明日のステージでは歌うんだぞ。そのかわりにこれだ」
 と始まるのは、名曲“After The Love Is(Has) Gone”。エアプレイのオリジナルを、EW&Fが名作アルバム『黙示録』でとりあげた傑作バラード。言葉もない。

 「この曲とか君が生まれる前だよね」とフォスターが言うと、「ていうか、この曲作ったのいつなの?」とスタッダード。「1978年。」「あ、それはぼくが生まれた年だね」と、見た感じではとても30歳前半とは思えぬスタッダードである。
 そしてこれはサービス。再びナタリー・コールが登場して、ナット・キングの名曲“When I Fall In Love”をしっとりデュエット。

 続くは私にとっての真打ち登場、ピーター・セテラ。80年代シカゴのメインボーカルのこの人の声が、ボズ・スキャッグスと共に、デイヴィッド・フォスターの黄金期を作ったと言っていい。

 最初の3名が、いかにも大きなボーカルを聴かせるのに対して、本当のアメリカン・ポップな雰囲気のピーター・セテラに少しほっとする。いい意味で、力が抜けていて軽い。
 その軽みのままに、“Hard To Say I’m Sorry”。会場が大きく湧く。今もまったく変わらぬタイミングで、叩かれるフォスターのピアノが最高だ。
 長年のつきあいらしい軽口をたたき合いながら、やはりシカゴ時代の名曲、“You’re The Inspiration”。ここで涙が出そうになるが、泣くのはまだ早い。お楽しみはこれからだ。

 ここで、クライマックスに入る前に、意外な曲を聴かせてくれる。
 デイヴィッド・フォスターによる転換前の、シカゴの名バラード、“If You Leave Me Now”を、セテラがいい感じにギターを弾きながら、実にかるうく歌ってくれる。
 改めて聴くと実にいい歌だと思う。フォスターのピアノサポートもいい。

 そうして、オスカーノミネートがどうのという冗談を飛ばしあった後、いよいよ登場、名曲“The Glory Of Love(Theme From Karate KidU)”。
 短縮なし。完璧にフルコーラス歌いきる。自分の中の何かがあふれ出る。


 これで今日はもう終わった、満足だ、と思っていたのだけど、とんでもない奇跡がこの後おこる。
 オフラ・ウィンフリー・ショーで大ブレイクしたと言われるシャリース。
 18歳のフィリピン出身の少女で、正直、今回まったくノーマークだったが、この子の歌を聴いて腰が抜けるほど驚く。
 それまで聴いた、ナタリー・コール以下、4組の歌手のパフォーマンスが完全に頭から消える。それほど衝撃的な歌手だった。

 1曲目にセリーヌ・ディオンの“The Power Of Love”。イントロが始まったときは、「ほう、こんな大層な曲を歌うとは、お手並み拝見である」と偉そうなことを思ったのだったが、サビに至るころには滂沱の涙。セリーヌの100倍すごい。
 畳みかけるように、やはりセリーヌの“To Love You More”。あり得ない。

 実はフォスターのコンサートは、私にとって初めてではない。
 1994年に来日して、そのときも今回のように複数歌手を連れてのステージだったが、ピーボ・ブライソンに加えて、その時はなんとセリーヌ・ディオンが来ていた。
 まだ彼女も、今ほどの超スーパースターではなかったために実現したことだが、その時も彼女はこの2曲を歌っていて、私はそれを聴いている。
 その時もすごい歌手だと思ったのを覚えているが、今回のシャリースの歌唱はそれどころでなく、会場が完全に凍りついたのをまざまざと感じる。


 フォスターもこの絶唱に、「イエス!」と言うのみだ。また、彼女が歌うのを伴奏しながら浮かべる、彼のうれしそうな笑顔が、何とも知れずよかった。
 たくさんの才能ある歌手を発掘してきた人だが、本当にこういう若い才能の登場を喜ぶ人なんだな、ということが強く印象づけられる。

 フォスターも、「彼女はもう立派なスター歌手だけど、今日だけは自分のヒット曲でなく、ありがたいことにぼくの曲を歌ってくれるんだよ」と一言添えつつ、衝撃冷めやらぬままに、続く3曲目は、オリジナルはエリック・カルメンで、セリーヌもカバーした“All By Myself”。
 「大きな曲だよ」とフォスターに言われて歌い始めたこの曲だが、本当に大きな歌唱で表現する。誇張でなくセリーヌ・デイオンを超えている。

 それでもまだクライマックスがやってくる。セリーヌを超えるのだから、ホイットニーなど軽々超える。続いては“I Have Nothing”。
 3重にクライマックスがやってきて、どこで息継ぎをすればよいのやらわからない、この超難曲を、どこまでもとどまるところを知らぬ声量で、クライマックスに次ぐクライマックスを見事に演出する。
 会場はもはや沈黙と言っていい。天才はこんなふうに登場するんだ、とおそらくその場にいた誰もが思った瞬間だと思う。
 メドレー形式で切れ目なく、“Always Love You”に移った頃には、今日のコンサートは、デイヴィッド・フォスター&フレンズでなく、デイヴィッド・フォスター&シャリースになっていた。

 熱狂の上にも熱狂を重ねる拍手の中、「もう1曲?」と促されるまま、今日の最後の曲はこれで、と。
 マイケル・ジャクソン畢生の名曲“Earth Song”。この曲は、作詞・作曲がマイケルだが、プロデュース(共同)とアレンジ、ピアノはフォスターである。
 これをマイケルもかくやという歌唱で、シャリースが歌う。

 そしてセカンド・コーラスは、ナタリー・コールが歌い、続いてルーベン・スタッダードがコーラスに参加し、ほどなくカナディアン・テナーズも入ってくる。最後の大コーラスでは、ピーター・セテラも入ってきて、見事なクライマックスを作るが、そのクライマックスの中、さらにシャリースとナタリーが、交互にアドリブをとって、盛り上がりに輪をかける。

 終わる頃には、会場スタンディング・オベーション。これほど贅沢なステージはない。
 誰一人として不満を持った人間などいないと思われる中、手を振りながら全歌手がステージを去ると、カーテンコールもアンコールもまったくないままに、終演する。

 その点、幕切れの余韻がまったくないのは、いささか寂しい気もしたが、これほど極上の音楽を聴かせてもらって、これ以上何を求めるか。

Incidents超特選↓

2010/10/18

『アバター<特別編>』  映画

ジェームズ・キャメロン『アバター<特別編>』 
 2D方式含めて、すでに6回見ており、11月26日発売予定の3枚組『アバター DVDエクステンデッド・エディション』も予約購入済みなので、ただ映像追加しただけの「特別編」なら、さすがに足を運ぶことはなかった。

 が、そこをあえて駆けつけたのは、まだIMAX3D方式での上映を体験していなかったからだ。
 もともと『アバター』がIMAX3D方式で撮影されている、ということもあり、それを見ておかなければ、『アバター』鑑賞は完結しないはずだ。

 そして、なぜ封切時に行かなかったかというと、私の住む都内近郊で、現在行くことのできるIMAX3D方式で上映しているのは、川崎109のみ。
 土日はずっと座席を確保できず、できないうちに、『アリス・インなんとか』という作品の封切が始まってしまい、とうとう『アバター』の上映が終わってしまったからだった。

 今回、初めてそのIMAX3Dを体験し、これは本当に別次元の映画体験だと。ジェームズ・キャメロンがこれほどまでに、積極的に3D化を推進する訳がはっきりと理解できた。そして、『タイタンの闘い』はじめ、安易な3D作品に対して眉をひそめるのも。

 ごく端的に言うと、3Dによる立体映像は現在主流と思われる、ワーナー系のRealDや、TOHO系のXpanDに比べて、映像の立体化の次元がまるで違う。
 IMAX3Dでは、2台のデジタル映写機を用いて、シルバー・スクリーンに投影するから、だそうだが、何しろ画面の明るさが肉眼で2Dを見ている時のそれと、まったく変わりがない。
 だから3D独特の画面の暗さが完全に解消されている。画面の解像度からしてまったく別物なのだ。

 これまでまったく見えていなかった、細かい雲蚊のような虫がこんなに飛んでいるとは知らなかったし、生命の樹が燃え上がる時の、火の粉の恐るべき繊細さ。
 2人の主人公が、川を遊泳する俯瞰ショットでも、水面の反映が、これほどの色彩を幾重もの層にしたものだったなんて。しかもそれが完璧に立体化されるのだから驚く他ない。

 追加映像であげるなら、新しく加わったシーンの1つとして、ナヴィ族が『ハタリ!』、または『ロスト・ワールド』よろしく、サイのようなパンドラの生き物を狩るシーンがあるのだが、突進する暴走のド迫力と、飛び散る土くれの生々しさ。
 これほどのシーンを作りつつ、カットしていたキャメロンの贅沢さにつくづく恐れ入る。
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写真:『アバター<特別編>』より。やはりスチールだと凄みがわからない。が、本当にここにいるかのような気分なのだ。いい歳して、まるで幼児のような反応かもしれないが。画像元eiga.com

 まったく誇張でなく、今自分が、惑星パンドラに実際にいるかのような体験をさせられる。ここまでの驚くべき体験を、ジェームズ・キャメロンは提供していた。
 『タイタニック』以来の新作、それも3D初挑戦作品として、彼がこの地球上ではなく、1から世界を作り上げた別惑星を舞台にした理由がこれではっきりわかる。
 キャメロンは、劇場の中にいながらにして、肉体ごと別世界に人を移動させる、それはすなわちキャサリン・ビグローが撮り、自分は脚本にまわった『ストレンジ・デイズ』の世界観を実現させるという意思があったに違いなく、その初段階をクリアしてしまったのだ。

 もちろん、IMAX3Dの設備が、現状どんなに最良であろうと、その可能性を十分に切り開いた、『アバター』という最良のコンテンツあらばこそだろう。どんな作品でもいいとは言えないはずだ。
 今回つくづく思ったが、ジェームズ・キャメロンの映像作りには、ほんの一瞬たりとも手抜きがない。「どうせ観客にはわかりはしないさ」という意識など、まったく皆無であることだった。
 いったいワンカットあたりにどれだけの情報量を込めているのか、想像もつかないが、結局IMAX3Dの『アバター』にこれだけ驚かされ、熱中させられるのは、やはり全てのショットにこめられた、言葉にならない魂の熱さに他ならないのだと思う。こんな映画、他にない。
 
 『アバター』の怪異な動植物たちが動き、キャラクターも負けじと動く。そしてその動きは、空気そのものを振動させ、その波紋はまた別の動きを呼ぶ。
 走れば地面の土は飛び、飛んだ土片は草葉に当たって、それを揺らし、それが揺れることで周りを飛んでいた蠅のような虫が、パッと飛ぶ。

 そうした顕微鏡レベルの細かなところまで、全部作り込んだ上で、こんな巨大な本編を産んだジェームズ・キャメロンの恐るべき映像力!
 逆にいうと、そこまで徹底的に作ってあるからこそ、作品がこれほど大きな力を持つ。
 たいへん下世話なことを付け加えておくと、ジェイクたちを救出に来た、女性兵士トルーディのバストも、実にぷりぷりとよく揺れる。

 確かに映画は別次元に突入した。間違いなくジェームズ・キャメロンは世界の王だ。

2010/10/15

紀伊国屋映画叢書『ビクトル・エリセ』  

紀伊国屋映画叢書『ビクトル・エリセ』(紀伊国屋書店)読了。
 「20年間で長編」が3本と呼ばれたエリセ監督だったが、現在のところ最後の長編『マルメロの陽光』(1992)から、間もなくさらに20年が経とうとしている。

 処女長編『ミツバチのささやき』(1973)から、次の『エル・スール』(1983)までは10年、そして『マルメロの陽光』まで9年の時間が流れた。そこで、その間隙を埋める働きをしてくれるのが本書となる。
(しかし、宮岡秀行さんによる、小津100年に際して来日したエリセの、広島観光記録である「エリセと過ごした4日間」で、ちらりと明かされたことだが、まさかエリセが、自身のiPodに『ヒロシマ・モナムール』を保管して行動したとは!)

 最新2010年のものを含む6本のインタビューと、内外5本のレビュー、そして作品紹介に略歴を読み進めながら、幾度も出てくる「ドキュメンタリー的」という言葉を改めて考えてみる。
 なぜなら、それがエリセの本質をつかまえる最初の突端になるように思うからだ。
 まずエリセにとってのドキュメンタリーのあり様を、本書の中の言葉を組み合わせて、対象にカメラを向け、真実の瞬間としか言えぬ時間を、しかもそれが永遠のものとして記録すること、と定義だてておく。

 それを実現するための方法を、1992年と2003年のそれぞれのインタビューで、エリセは『マルメロの陽光』でカメラを向けた相手である、画家アントニオ・ロペスの言葉を、表現を変えて2度繰り返している。
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写真:『マルメロの陽光』で見るのとは、まったくイメージの違うアントニオ・ロペスの、エリセ言うところの“ニューレアリズム”の作品。すごい。">写真リンク元

「アントニオは(略)こんなことを言いました「私は毎年秋になると、釣り竿を持って樹のそばに立つんだ。もしどうやっても餌に食いついてくれなければ、自分がそこにいるだけでいい」。この釣り人の比喩はきわめて意味深長です。(1992年のインタビューよりP.148)

「アントニオはこの種の試みの要諦をこう語っています。そこに寄り添うこと、注意深くあること、そして投網を打つこと、とね。漁獲の保証はありません。」(2003年のインタビューよりP.176)

 エリセの映画に海を見た記憶はついぞないが、永遠をつかまえることについての、釣り人の比喩。
 たとえばこうした作業の結果、本書所収のポール・ジュリアン・スミスによる論文「ささやきと恍惚」では、「『マルメロの陽光』は、スペインの新しいコスモポリタニズムの証言となり、不安に満ちた都市へのアノミーへとこの国が入りつつあることの証言となっている」(P.140)と指摘する。

 エリセはこうした方向性について、ロッセリーニに代表されるイタリアン・ネオリアリズモに、起源を見出そうとし、もちろんそれはヌーヴェル・ヴァーグにもしかるべき影響を与えたが、それはあくまでも本質的には個人主義の運動であるとして、イタリアのネオリアリズモとは、また違うんだとするエリセの議論は実に面白い。
 翻ってスペインはというと、そうした運動と言える動きは起こっていないとして、だからまだ為されるべきことはたくさんあるんだ、と言わんばかりの発言は、時にとても熱い。

 エリセの新作長編を見れなくなって、間もなく20年がやってくる。長い長いエリセの空白期間に、彼の頭の中ではかくも複雑な思考が重ねられていたことに、驚きと強い興味を持って本書を読む。
 巻末の外国も含む関連文献のリストも充実しており、ビクトル・エリセ研究の基本書として必携の書だと思う。

 紀伊国屋映画叢書は、既刊の『イエジー・スコリモフスキ』にせよ、『ヌーヴェル・ヴァーグの時代』にせよ、それを叩き台として、今すぐにでも「映画」にと取り組まさずにおかぬ、どこか強壮剤のような効果がある。とにかく刺激される。

2010/10/10

『ブロンド少女は過激に美しく』  

 マノエル・ド・オリヴェイラ『ブロンド少女は過激に美しく』
 驚いたので続けて2回見た。超高齢監督の余裕の仕事だろうと、画面の推移にだけ身を任せようと鑑賞に臨んだら、とんでもなかった。
 オチがわかった上で再見すると、驚くほどあちこちに、こまごました演出がしかけられていることがわかる。

 返すがえすも、オリヴェイラというのは、「語らい」の映画作家なのだと思った。この監督にあっては、「聞く耳を持つ」というのがいかに大切なことであるか。

 「妻にも友にも話せないような事柄は、見知らぬ人に話すべし」と語り始められるこの物語は、主人公が列車の中で隣り合わせた女性に語る身の上話である。
 オリヴェイラ作品の守護神のような、レオノール・シルヴェイラ演じるこの女性だけが、「どうぞ、お話しなさい」と聞く耳を持つ女性、ということになる。

 叔父さんの店で会計士を務める主人公は、仕事場の向かいの窓に姿を見せる、ブロンド少女の過激な美しさに、まともに恋に落ちる。
 彼女をめぐって、映画が終わるまで彼は人生のアップダウンを繰り返すが、それというのも、彼は人の話をちゃんと聞かないからだ。

 話をちゃんと聞かない、という点では私たち観客も同じである。
 ブロンド少女に恋をした後、主人公と彼の雇い主である叔父さんとの、奇妙な食事シーンがある。画面に向かって、2人が横に並んで食事をするという珍妙な構図で、この2人は会話しているようで、実はちっとも相手の話を聞いていない。

 ここで叔父さんの話をきちんと聞いていれば、主人公は以下に続く人生で、失敗しなかったかもしれないのだ。
 そして観客の私たちにも、物語に関係なさそうなだけに、何となく会話が筒抜けていく。
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写真:『ブロンド少女は過激に美しく』より。気持ちはわかるが、叔父さんの話はちゃんと聞くべきなのだ。画像リンク元

 主人公が、ブロンド少女と交際を始めるきっかけを掴む、文学クラブのパーティでも事情は同じである。
 主催者側のゲストが朗々と詩を朗読するのを横に、主人公とブロンド少女ら一同は、別室でカード・ゲームを始める。ここで彼らは朗読など聞いちゃいない。

 この一連の流れで、いちばん大きな問題は、たぶんすべてを察していると思われる叔父さんの言う事を、主人公がまるで察していない、つまりは聞いてないということなのだ。
 もちろん叔父さんにも非はあって、主人公の結婚を頭ごなしに反対し、イヤなら出てけと言うのみで、主人公ならずとも観客も、横暴な叔父さんの言動に、聞く耳を持ちにくい。

 ここで唐突だが『ナイト&デイ』を持ち出したい。
 この映画でもトム・クルーズはわかりにくいメッセージを発し続ける。映画の冒頭、「物事にはすべて理由がある」と、キャメロン・ディアスに耳打ちするが、それは要するに「この飛行機に乗るな」ということなのだが、それを彼女はわからなかったために、とんだ災難に巻き込まれることになる。聞く耳もたなかった、彼女の落ち度だ。

 あげく、映画の中盤でキャメロンは、「わかるように言ってよ!」とクルーズを責めるが、彼の行動は、すべて彼女を利するものの、その真意は彼女にわからない。観客にもわからない(だから「この男、敵か?味方か?」という宣伝コピーが通用する)。

 そして、彼女がそれをすべて理解できるようになった時、『ナイト&デイ』の2人は完璧なコンビとして、さらなる展開を見せるのだが、失礼、本稿はオリヴェイラの話である。
 しかしそう考えると、『ナイト&デイ』と『ブロンド少女は過激に美しく』が、同じ座標軸に並んでしまい、この映画の奇跡に興奮せずにはいられない。

 つまり、ここで言いたかったことは、私たちは映画の声を聞かないことで、いかに映画にだまされているか、ということだ。
 映画の中で交わされている会話など、いつでも耳の右から左へ筒抜けなのではないか(字幕なら読んだ気になって読んでない)。
 そのことを、『ブロンド少女…』は改めて知らしめてくれ、その上、「聞いてない」ということの不具合を、主人公の運命に託して見せてしまう。これは素晴らしく面白い。
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写真:『ブロンド少女は過激に美しく』より。主人公が彼女との仲介を友人に申し込む、会員制クラブ。この場の人々も、どこまで人の話を聞いてるのかどうか…。画像リンク元

 オリヴェイラの映画のほとんどは、相手の語りをいかに理解するか。その声をいかに聞きとるか、というものだ。
 徹底した「声」の映画である『春の劇』がすでにそうだったが、『夜顔』の果てしない食事シーンの会話など、今から思うととても重要なやりとりが為されていたのではないか、と思わずにいられない(彼らがどんな会話をしていたかなど、たぶん観客のほとんどは覚えていないだろう)。
 
 そして、多言語による『永遠の語らい』の会話が、その頂点であることは、言うまでもない(あの場面で、マルコヴィッチ船長以下、3人の多国籍女性たちが、どんな会話をしていたか、覚えているなら本当にすごい人だと思う)。

 私たちは映画においても、たぶん実生活においても、とてもたくさんのものを聞き落としているに違いない。そしてそれによって、ものすごく損をしているだろう。
 オリヴェイラを見ることは、その損失を少しでも回避するたった一つの冴えたやり方なのかもしれない。
 
 『ブロンド少女は過激に美しく』は、主人公の愚行に笑いながら、その轍を踏まぬ方法を教えてくれる、優れて教育的な映画なのだ。見事な傑作なり。 

2010/10/9

『ナイト&デイ』  映画

 ジェームズ・マンゴールド『ナイト&デイ』
 今年最高の一本だ、と、まずは態度表明しておきたい。
 彼女を救うため、“彼”がここでやって来ないはずがない。が、しかし…とかすかな不安を覚えたとき、スペインの屋根の上に、一歩踏み出す足がアップでとらえられ、そのまま下から見上げるように、トム・クルーズの雄姿が映し出されるとき(背後のどこまでも青く澄んだ空! それに拮抗して映えるブルーのシャツ!)、私は歓喜の絶頂にいた。実は泣いた。

 トム・クルーズはまるで猫だ。血統書つきの。しなやかで、素早い。風のように疾走し、物から物へひらりと飛び移り、高所からの落下も平気である。音もなく移動し、銃弾の雨の中では小さく身を丸めて、どんな閉所にでも忍び込む。
 そして人心を溶かさずにおかない笑みをうかべて、いきなり爪を出す。
 このエレガンスに、ケイリー・グラントを思い出さずにいるのは難しい。だから、今回のトム・クルーズは、ケイリー・グラントばりに、とても小声でささやく。
 どんな極限状況でも、まったく慌てず騒がず、ひそひそと甘く小声でキャメロン・ディアズにささやき続ける。「大丈夫。必ず助かる」「ジューン、君はいい腕だ」などなど。

 『ナイト&デイ』のトム・クルーズが、凄腕中の凄腕エージェントという役どころから、『M:I』のセルフパロディのように見えつつ、実はまったく違う方向で役を演じ直しているのはそこにある。
 逐一の例をあげないが、『M:I』を含むこれまでの作品履歴として、トム・クルーズはどちらかというと大声の俳優だ。
 『ザ・エージェント』に至っては、「声が小さい!」と叱られさえする(有名な“Show me the money!”のシーン)。


 その意味で、『ナイト&デイ』のネガは『コラテラル』だ。
 日本での評価は、ある大御所評論家の支持も手伝って、極端に高いようだが、トム・クルーズ全出演作品において、ほとんど唯二といっていいこの駄作を、トム・クルーズ自身が納得しているはずがないと、私はかねて信じている。
 
 『コラテラル』のトム・クルーズも、やはりささやく。どこか裏のありそうな薄笑みを浮かべつつ。
 既に多くのレビューが言及する通り、いわゆる「マクガフィン」で物語が起動し、全く無関係の一般人が、彼の行動に巻き込まれること、という基本構造も同じ。道連れが男か女かの違いのみだ。

 『ナイト&デイ』は、あり得ないアクションを、だって映画だもの、と朗らかに楽しめる明朗さに加えて、“猫のような”トム・クルーズの圧倒的なスピード感にあふれている。
 それは『コラテラル』には皆無だったもので、それらを完全にやり直している。

 そのアクションを、出演者のパフォーマンスに匹敵する超絶技巧で、映像化したジェームズ・マンゴールドの手腕にも、瞠目する。
 アクションの連鎖に次ぐ連鎖を、まったくスキなく見せる、マンゴールドが選択するカメラ位置と、カット割りのタイミングは完璧の上にも完璧だ。

今から思うと、封切前に広まったこのフッテージは、すごい技術で撮っているのに、それを俳優の力であるよう、さらりと見せている点で、既に本編の伏線だったのだ。

 車に拉致されたキャメロン・ディアスの背後から、バイクが激走して追ってくる(ような気配を見せる)。そのバイクがジャンプしたのを、キャメロンの目は追うが、車内故にその視界は一瞬途切れる。
 車内に置かれたカメラは、そのままキャメロン目線(だがキャメロンの後頭部なめ)で、ジャンプしたバイクを追うが、その時なぜかバイクは無人で、そのまま海に没していく。
 と思いきや、次の一瞬、ズダーン!と車のボンネットに生身のトム・クルーズが、「助かる。大丈夫」と、にこやかに親指立てて降ってくる。
 よほど細かい計算をしないと、こんなシークエンスは撮れないはずなのに、それを実にさらりと見せてしまう。つまり画面上、変わったことは何一つしていないのだ。

 終盤のバイクによるチェイスでも、一連のスタントはカット割りのされ方から、ここは吹き替えだな、となかば冷ややかな気持ちになるのを見透かしたかのように、すぐ次の段で、ジャッキー・チェンばりに、まともに高所から落ちる、吹き替えようのないアクションを見せて、またもや印象をひっくり返す。
 どうしてもトム・クルーズのすごさばかりが際立つのだが、彼を際立たせるためのマンゴールドの演出ぶりには、何一つケチがつけられない。

同じく有名になった、このフッテージも。映画の虚構で観客を楽しくだますという映画の真実を見事に見せたのだった。

 おまけに、たっぷりと撒かれた伏線を、ひとつひとつほころびなく回収していく、ハリウッドの王道を行くシナリオ術など(パトリック・オニール。何と処女作)、古典的ハリウッド映画を、最新の技術力で今に蘇らせようという、作り手たちの意識がうれしい。

 観客を大切にし、入場料に見合った娯楽を提供するために、精魂傾けていることが、これほどひしひしと伝わってくる作品は滅多にない。
 観客に媚びてもいなければ、馬鹿にもしていない。『ナイト&デイ』は全編通して、「お客様は神様です」と、これだけはささやき声でなく、声を大にして叫んでいる。

2010/10/8

紀伊国屋映画叢書3『ヌーヴェル・ヴァーグの時代』  

 紀伊国屋映画叢書3『ヌーヴェル・ヴァーグの時代』(紀伊国屋書店)読了。
 スコリモフスキに始まり、続刊が期待される紀伊国屋映画叢書の、第2回配本の1冊が、「ヌーヴェル・ヴァーグ」だという予告に、白状すると少しがっかりしたものだった。
 ヌーヴェル・ヴァーグ関係の書物は、これまでたくさん読んできたから、今さらこの叢書に付け加えなくても、と感じたのだ。
 読了した今、その不心得を深く恥じている。見事に今後のヌーヴェル・ヴァーグ研究の扉を開き、しかもそれを動機づけるに十分な内容だったからだ。

 冒頭の細川晋「ヌーヴェル・ヴァーグ再考」という、注釈含めて25ページの論考は、実はシネフィリー(映画芸術愛好)の歴史―その台頭と解体まで―を、合わせて語るものだ。
 ヌーヴェル・ヴァーグの作品を産んだのはシネフィルであるが、同時にそれを受け入れた者もやはりシネフィルなのだ。
 よって、情報技術などの発展に伴い、シネフィルなるものが変容を強いられる今、どんな可能性が失われ、どんな未来が獲得され得るのか。そこがまず示唆されている。

 続く、ヌーヴェル・ヴァーグの重要作品の個々の解説によって、本書は正しい「教科書」としての体裁をきっちりまとめる。
 もちろん「教科書」といっても通り一辺倒のことばかりが書かれているわけでなく、たとえば、『シェルブールの雨傘』への、吉田広明さんの解説には、ぱっと目が啓く。
 曰く、この作品が『小さな兵隊』に続き、アルジェリア戦争を扱った、2番目の作品だと。そのため「いかにも作り物めいた外観」なのに、「現在を生きる者のリアルな感情」が表現されて、「本作のドゥミは意外と60年代のゴダールに近い」と、述べる。唸る。

 しかし何と言っても圧巻なのは、本書の編者でもある遠山純生さんによる、実に56ページにわたる、巻末の論文「世界の“新たな波”、あるいはその余波」だった。
 ヌーヴェル・ヴァーグはフランスでの現象というのが、一般的なイメージだと思うが、この文章を読むと、この頃=1950年代末期〜1960年代に映画が作られていたのは、フランスだけではないという、当たり前のことを思い出させてくれる。
 しかも、その当り前さが、なぜか新鮮なのだ。

 というのは、この頃の“新たな波”は、必ずしもフランス発ではない。イギリスのフリー・シネマが微妙に早く、ほぼ同時期にケベックでダイレクト・シネマが誕生している。
 そうしたことを背景に、アメリカ、日本、ユーゴ、北欧、ドイツなどを、概観するが、それだけなら勉強にはなるが、読者を活性化してはくれない。
 同時に本稿ではもう一点、“新たな波”が起こる主な背景が、カメラの軽量化や、高感度フィルムといった、技術革新だということに、むしろ力が込められているように思う。

 ことに、クロード・ルルーシュ『男と女』を巡って、この頃実現した機材とフィルムの性能故に(無論、演出家の才気走った機転が前提となるが)、実に刺激的な撮影が行われていたことを教えてくれる。
 かくして、現在決して高評価とは言い難いルルーシュに光があたる(但し、そのことだけをもって、ルルーシュを安易な評価につなげることには、慎重な保留を置いてはいる)。

 撮影技術の発展が、“新しい波”の背景にあったことを丁寧に説明する、この長い論文を読みながらふと思ったことがある。
 撮影技法も、映画のスタイルもこの時期、大きく変容するが、1点まったく変わらないものが1つあるということだ。
 どんなにスクリーンに投影される作品そのものが、変貌をきたしても、お金を払ったお客が、集団で座席に着席して、前方スクリーンに投影された映像を見る、という観客の側のスタイル=映画を見る方法だ。
 映画を見る方法は変わらないのに、作品だけは大きく変わり続けているのが映画なのだ。

 だが、デジタル化や情報技術の発達で、映画を見る方法も、いよいよ変わりつつある。
 機材の技術革新は、世界に“新しい波”をもたらした。今はさらに激しい技術革新の時代の渦中にあるはずだが、ではその中から“新しい波”に匹敵するムーブメントを、私たちは見出せるか。
 その上、それを受容する方法も変わりつつある、未曾有の自体に、映画はどんな未来を開けるか、というテーゼが浮上した所で、冒頭の細川晋さんの議論に、サイクルは戻る。

 今の、そしてこれからの映画の動きに敏感たるべきことを、本書は主張しているかのように私は感じ取り、だからこそ本書を、当たり前な内容でありながらも、新鮮だと思ったのだった。座右の書とすべき一冊。必携。




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