2010/12/31

2010年度 ベスト10  映画

 2010年が終わる。
 今年はこんな1年だった、という意味を込めてベスト10を選出しておく。以下順不動

『アバター<特別編>』(ジェームズ・キャメロン)
『ゴダール・ソシアリスム』(ジャン=リュック・ゴダール)
『ナイト&デイ』(ジェームズ・マンゴールド)
『借りぐらしのアリエッティ』(米林宏昌)
『白いリボン』(ミヒャエル・ハネケ)
『エクスペンダブルズ』(シルヴェスター・スタローン)
『ノルウェイの森』(トラン・アン・ユン)
『シルビアのいる街で』(ホセ・ルイス・ゲリン)
『ブライト・スター~いちばん美しい恋の詩』(ジェーン・カンピオン)
『あの夏の子供たち』(ミア・ハンセン=ラブ)
『コロンブス 永遠の海』(マノエル・ド・オリヴェイラ)
『ユキとニナ』(諏訪敦彦/イポリット・ジラルド)
以上、順不動。
特別枠:『マイマイ新子と千年の魔法』(片渕須直)

 毎年、お前の「順不動」はウソだと言われるけど本当です。順不動です。
 ちなみに、コッポラの『テトロ』や、ポルトガル映画祭でのモンテイロ、オリヴェイラ、『トラス・オス・モンテス』、そしてアラン・レネの諸作(特に『風にそよぐ草』)、そしてジャック・ロジエに、スコリモフスキは、特別上映とみなし、対象外としました。

・『マイマイ新子』は昨年封切だけど、実際に見たのは今年のため特別枠として。
・特別編でも何でも、とにかく『アバター』は入れる。ゴダールは別格中の別格。
・『ナイト&デイ』と『アリエッティ』と『シルビア』は悠々ランクイン。
・ハネケを入れる自分に驚くが、しかしこれは素晴らしかった。
・『エクスペンダブルズ』は、ついにスタローンの作家性が認められつつある、その記念碑。
・『ノルウェイの森』を、私は断固支持する。ブログでは水原希子のことばかり書いたけど、あの情け容赦なく吹く風など、瞠目するシーンにあふれていた。
・今年いちばん愛したのは『ブライト・スター』。そして『あの夏の子供たち』。
・今年は実に7本ものオリヴェイラを劇場で見ることができた。新作『ブロンド少女』を外したのは個人的趣味。あの種の作品にノれないのは、私が『カニバイシュ』みたいな作品がどうも好きになれないのと同根。だから『コロンブス』。これは掛け値なしに最高。
・美しすぎる『ユキとニナ』をそっと滑り込ませ、ん、12本? 数え間違えでは?
・こうしてみると、全体にアメリカ映画が低調な一年だった気がする。

 絶対外せないものを入れていたら、『抱擁のかけら』『キック・アス』『トイ・ストーリー3』『インビクタス』『クリスマス・ストーリー』『バレンタイン・デー』『(500)日のサマー』『ガールフレンド・エクスペリエンス』が落ちたのは痛恨。
 気になりつつ見落としたのが、『瞳の奥の秘密』、『バッド・ルーテナント』、『ヘブンズ・ストーリー』。


 さて、今日で2010年も最後です。今年お世話になった皆さま。それから映画に、1年間ありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いします。
 そして、いつも閲覧くださっている皆さまには、最大の感謝を。どうぞよいお年をお迎えくださいませ。

2010/12/30

『海炭市叙景』、『玄牝』  映画

 熊切和嘉『海炭市叙景』
 北海道函館の海炭市に生活する人々のオムニバス。
 ゼメキス『フォレスト・ガンプ』に、いい台詞があって、娼婦の1人がこんなことを言う。
 「お正月って大好き。もう一度やり直せるっていう気になれるから」

 『海炭市叙景』は、そのお正月に向けて複数のエピソードが語られる。いずれもいたたまれぬ挿話ながら、決して居心地悪いだけの、凄惨な内容にならないのは、『フォレスト・ガンプ』的な楽天性のかけらを手放していないからだ。

 小学生の手が、窓ガラスの曇りをかき消すところから始まるこの映画は、もっぱら手によって記憶される。
 その手は、事故で父親を亡くした生徒の両肩を、慰めるように優しく叩く教師の手の場合もあれば、住みなれた家からの立ち退きを迫られている老婆が、愛猫を撫でる手の姿をとることもあるだろう。
 または、深夜のバーで無理を言う悪質客の裸の胸を、そっと押し戻すこともある。

 場合によってその手は、子を殴る母の、妻を殴る夫の手にもなるのだが、意識を伝える媒介としての身体パーツには違いない。
 谷村美月が好演する兄妹の挿話で、だから彼女は手袋をしているべきではなかった。
 子どものとき父を失ったことを教師に伝えられ、寂しそうに2人手をつないで早退する彼らの後ろ姿は、忘れようにも忘れられないショットだが、そのときも彼らは手袋をしているので、もしかしたら互いの気持ちは伝わりきらなかったのかもしれない。
 だから全挿話中、ある意味もっともやるせないパートになったと言えるのかどうか。

メイキングに胸打たれる。
 手の運動を描き、そこから放たれる意識を描く代表的な人物は、ロベール・ブレッソンとスティーブン・スピルバーグ。
 そして、スピルバーグ的に最後に見上げる満天の星空で、『海炭市叙景』はブレッソンからスピルバーグまでを、駆け抜けていく。
 映画はやはり、忘れ難い手の動きで締めくくられ、これはぜひ熟視したい。

 そしてもちろん海炭市という地域性のみならず、ひいては人の営みのやるせなしを描いて、しみじみ傑作。

 河瀬直美『玄牝』
 自然分娩をよしとする、老産婦人科医の開く病院のような、道場のような場所に集う女性たちの、いい気な姿を描くドキュメンタリー。
 『殯の森』あたりから、この方の作る作品は、どうもカチンとくるんだが、本当に自分だけで閉じきった、一方通行の世界を作っているからなんだろうなと、つくづく感じる。

 今回も、「我が家は2人とも帝王切開で、家族4人幸せで健康だが、何か?」とイラ立ちを抑えかねて見ていたが(うちの奥さんとか見たら、烈火のごとく怒るに違いない)、院長が女性たち(私の目には“信徒”に見える)を前に「どうかよい日本人を産んでください!」と言ったところで、我慢できなくなって劇場脱出。

2010/12/29

『きみがくれた未来』、『バーレスク』、『シュレック フォーエバー』  映画

バー・スティアーズ『きみがくれた未来』
 『セブンティーン・アゲイン』が何しろよかった、バー・スティアーズ監督/ザック・エフロン主演の第2作。当然、期待も高まる。

 痛快コメディの前作とはうってかわって、今度は哀しい悲劇のドラマだ。
 エフロン君は、ここでも理想的なオール・アメリカン・ボーイを演じる。
 ヨットのチャンピオンで明るい未来が開けていた彼だったが、不慮の事故で最愛の上にも最愛の弟を失う。
クリックすると元のサイズで表示します
写真:『きみがくれた未来』。いまどきこんな親密感を出せる若手俳優、あまりいない。
画像リンク元 allcinema.comより


 傷心の彼が立ち直れぬままに、ある日、海を見やると流れるようにヨットが滑って行く。
 そのヨットの滑走とまったく同じ速度と方向で、エフロン君が横に動くと共に、カメラがすーっと横に移動する瞬間の美しさに、ぼろりと涙がこぼれてしまう。
 このショットが見事。彼の心にほんの少しだけ炎がともった瞬間だ。

 以後、物語は『ビューティフル・マインド』な運びとなる。あるいは、ひょっとしたらひょっとして、バー・スティアーズとザック・エフロンのコンビは、ロン・ハワードとトム・ハンクスのようになるかもしれない。そんなかすかな期待を持つ。いい。

スティーブ・アンティン『バーレスク』
 スターを夢見て、LAに流れる少女の物語。冒頭の1分は手際よくていい。勝気で機転がきいて決断が速く才能も十分という、主人公のキャラクターを過不足なく伝える。

 が、そこからが今ひとつで、アイオワのド田舎からLAにバスで到着したとき、LAの強烈さに画面は、ドッと変わらなければいけないはずなのだ。
 LAの太陽とアイオワの太陽はまったく違う。LAの光はまったく別ものなので、そのデラックス感を表現し損ねた映画は絶対NG。まして、同じルックで撮るなんて論外。

 ただ、悪い点ばかりでもなくて、プロデューサーとしても名を連ねる、クリスティーナ・アギレラが、歌手として何を規範として生きてきたか、リスペクトの対象が明確にわかる。
 たとえばマドンナ“Ray of Light”。こうした映画において、既存曲をこれだけ思い切りよくフィーチャーしたところに、マドンナに対する敬意がはっきり読みとれる。

 そしてもちろん共演者としてのシェール。この人をスクリーンで見るのは何年ぶりだろうと思うが、この人を再び映画にひっぱり出そうとしたところに、この映画のド根性を感じる。作り手の人生とリスペクトが滲み出る映画は、やはりいい。
 実際、シェールの歌唱は圧倒的である。ものすごい。

 歌手出身の俳優というと、シェールこそオスカーまでとったが、その後が続かない。
 シンガーから、スクリーンの星をもつかもうとして、マドンナもホイットニーもマライアもブリトニーも、無残な最期を遂げた。
 クリスティーナ・アギレラが、その二の舞にならなければよいと思う。ともあれ、彼女がこれほどとてつもない巨乳の持ち主だなんて、知らなかった。
 あの胸を拝むためにも、映画スターとしても成功してほしいと心から祈りたい。

マイク・ミッチェル『シュレック フォーエバー』
 完全にやることがなくなっている。内容的にも「3」との既視感があって、もう終わっている(正確には「2」でネタはもう尽きていたはずだ)。

2010/12/28

中央大学人文科学研究所 編『映像表現の地平』  映画

中央大学人文科学研究所 編『映像表現の地平』(中央大学出版部)読了

 映画の本を読む、という悦びに心から浸る。諸々のテーマの映画論をまとめて計10本。映画は見るのも楽しいが、それについて書かれたものを読むのも劣らず楽しい、と改めて思う。

 今、「諸々のテーマ」といい加減に書いたが、ラング、ブレッソン、シャブロル、ヴィダー、堀禎一など、扱う作家はまちまちだが、奇しくも10本どれも言わんとすることに共通項がある。
 それは、“映画”は対象を変容させる。だが、それはなぜ、いかにして、という興味と関心だ。

 正確に数えてはいないが、本書1冊を通じて、最も多く使われた語彙は、たぶん間違いなく「変容」という言葉だ(もちろん、ショットとかフィルムといった映画用語は除いて)。
 たとえばラングの『ドクトル・マブゼ』について、精緻を極めた論を展開する岩本剛さんは、「見ること/見えるもの」に対する“変容”について迫る。

 三原智子さんは、小説から映画へ、すなわちメディアの変容は、作品に何をもたらすかにつき、『ボヴァリー夫人』(主にルノワールの)を俎上に、魅力たっぷりの文体で語る。
 ほぼ重なるアプローチで、鈴木重生さんは吉行淳之介の『暗室』を。

 福田桃子さんは、ブレッソンが「モデル」と呼ぶ出演者による、作品世界の変容という、誰もが知りたがっているくせにちょっと聞きにくいテーマを、平易な言葉なのに美しく解き明かしている。
 映画そのものの変容と共に、その作家生活も変容させた/させなかった、キング・ヴィダー(!)について論じた佐藤歩さんの論文には、本当に興奮させられ、本当に多くを学ばされた。
 また、同じパニック映画でも70年代と90年代のそれで、何が変容したのかを述べた、石橋今日美さんのパニック論にも興味は尽きず、読中何度もうなずかされた。

 そして、やはり分けても透徹したアプローチを示したのは、大久保清朗さんのシャブロル論だ。
 なぜなら、映画内の“変容”への関心において共通する各論文の中で、これだけが映画を見る側、すなわち観客である私たちの側の“変容”に対してもベクトルが向けられ、それだけ複眼の視線を持っているからだ。

 ここではシャブロルの『ヴィオレット・ノジエール』が中心に語られる。
 論者は、私たちはあまねく「日常という名の仮面」を知らず知らずかぶっているという。
 すなわち、そのことを暴きたてるシャブロルを見た前と後とでは、私たちの世界は変容を余儀なくされるということだ。
 シャブロルは変容を続けた作家である。それがいかに変容したかは、本論が稠密に述べているので、ここでは触れない。
 が、中でも『ヴィオレット・ノジエール』がチョイスされたのは、この作品が「1人の少女の小さな「物語」が、大きな「歴史」によって、上書きされ、さらに言えば敗北する過程」の映画だからであり、まさに変容についてだからだろうと、まずは邪推する。

 論文ではこの作品について語りつつ、シャブロルの描く物語が「日常を維持するために非日常に加担せざるを得ない人々」についてであると定義づける。
 となると、シャブロルを見ることで、なぜ私たち自身も変容させられるか、のキーはここにある。
 それは、「日常」を維持するために遂行する「非日常」が、それによって「日常」が維持され続ける限り、それは「完全犯罪」だからだ、という結論を突き付けられるとき、論者の立論に戦慄するとともに、シャブロルの恐るべき作家性に慄然とする。

 それは(たぶん)期せずして、なぜ私たちが映画を見るのか、というテーマに肉薄してしまったようにも感じた。
 シネフィルも、そうでない人も、なぜ映画を見ようとするのか。それは多かれ少なかれ、見る前と後とでの自分が、少しだけ変わっていることを期待しているからではないか。
 だから映画を見た後に、その“変容”を確認するために、あれこれおしゃべりをしたくなるのではないか。

 さらに言うと、映画評論家のような困った存在は、映画についてこれでもか、と書くことで自分の変化を確認しようとさえする。
 今、自分で書いて「あっ」と思ったが、そうか、映画について書くことは自己確認の営みであったのだ。

 さて、そんな大久保さんの論文だが、「完全犯罪」を遂行しつつある私たち観客であるとするならば、私たちは少なからず罪ある存在なのだろうか。だとすると、それは極めてキリスト教的な視点にもなりそうである。
 が、本論によると、シャブロルは宗教については批判的姿勢を貫いているのだという。すると、その点はどう考えるべきなのだろうか。

 だがそこは、この論文が未解決に残したテーマではいささかもないことを断っておきたい。
 優れた映画論には映画論でお返ししなければならない。それが映画の往復運動であるが故に、その疑問に対する解答は『ヴィオレット・ノジエール』を実際に見て、自らが出さなければなるまい。

 だからこそ、痛恨にも未見の『ヴィオレット・ノジエール』を何としても見たい。そして願わくばシャブロル全作品を見る環境が到来するのを、恋い願う次第だ。

 なお、同じくシャブロルの『主婦マリーがしたこと』について述べた、大寺眞輔さんの論文も忘れ難い。
 ここではシャブロルと歴史とのシンクロニシティを述べることで、大久保論を補完する。併せて熟読されたい。

(注)『ヴィオレット・ノジエール』については、今のところmaplecat-eveさんの優れたレビューを参照することで、当面は欲求をおさめておきたい。


2010/12/27

トマス・ピンチョン『逆光』  

 トマス・ピンチョン『逆光』(上・下 木村善彦・訳 新潮社)読了。
 上下合計実に1700ページ。3カ月かかりきりで読んでいた。『メイスン&ディクスン』も2カ月かかったから、今年は実に年間のうち半分近くをピンチョンに捧げたことになる。

 とにかく『逆光』。物語は1890年からスタートする。ジュール・ヴェルヌを思わせずにいられぬ、波乱万丈のオープニングである。
 しかし、ふと気がつくと物語はハードボイルドへ。やがてウェスタンへと変換し、ファンタジーもポルノもごたまぜになっていく。
 その要素を書きこんでいくだけで、優にいつもの字数になってしまう。

 この作品の中で、うすらぼんやりと通奏低音のように響いているのは、「エーテル」というものの存在だ。広辞苑を引く。
 「初め光の伝播を媒介する媒質としてホイヘンスが仮定し、のち一般に電磁場の媒質とされた物質。相対性理論によってその存在が否定された」

 要するに、19世紀末のこの時期まで、光が伝わるためにはエーテルという物質が介在しているという説があったわけだ。
 だがしかし、なんでまた? そもそも光って何だ? そしてこのタイトルは、どうしてそれに抗わなければならないのか(原題は“Against the Day”)。

 訳者あとがきによれば、この原題が含意すると思われる、いくつかの意味の中から「著者に単刀直入に尋ねた」のだそうで、その結果が『逆光』。
 それを愚直に信じるのであれば、この小説に登場する膨大な人物たちは、実によく好き好んで光に抗った行動をとる。つまりは、その人生を選択したらろくでもないことしか起こらない、とそういうことなのだが、けれど歴史はすべからくそうであったとも言える。

 エーテルというのはある種の神秘だ。アインシュタインが特殊相対性理論が発表して、エーテルの存在を否定したのが1905年。一般相対性理論が1915年。すなわち、この小説の時代にほぼかぶる。
 すなわち、この19世紀から20世紀にかけて、世の神秘は覆されてしまったともいえる。
 
 けれどその一方で、H・G・ウェルズが『タイムマシン』から『宇宙戦争』などの作品を旺盛に発表したのもほぼ同時期のことで、これもある意味では光に抗おうという振る舞いではないか。

 うっかり読んでいると、まったく別の登場人物がどんどん出てきて、挿話もまったく変わってしまうので、何とも油断のならない書物なのだが、この本の時代は折しも映画誕生の年ともほぼダブる。
 映画こそ光に抗うどころか、光を求めなければ映像はフィルムに感光しない。映画は神秘と現実の両方が供される。
 そのわりには、それを楽しむためには、光に抗って映画館という暗闇に侵入せねばならない。そして、この本の終わりが行きつく先は、まさに光あふれるカリフォルニアなのだった。もちろん映画の街でもある。
 映画こそ、光に対する二律背反をもっともよく体現した発明品だ。

「…この先どうする?」
「カリフォルニアに行くつもりだ」とロズウェルが答えた。
「それはいい」とマールが言った。
「本気で言ってるんだ。あそこには光の未来がある。特に映画だ。大衆は映画を愛してる、いくら映画を作っても足りないくらい。それもまた新しい心の病気かもしれない。でも誰かが治療法を見つけない限り、映画中毒を蔓延させてるからといって保安官はおれに手を出せない」 
(上巻 P.707)

 このあきれるほど長大な書物を、それでもなお読まなければならないとしたら、それこそが光に抗うことであり、その活字を根気よく追い続けることで、それで何かを得られるとまでは言うまい。
 けれど、ネットの中には絶対にない巨大さがここにあって、2006年発表の本書が、911以後、というよりは、インターネット革命以後のトマス・ピンチョン最初の本であり(前作『メイスン&ディクスン』は1997年発表)、それが結果的に(現在のところ)ピンチョン最長の書物となったことは、きっと偶然ではない。

 後から後から登場人物と挿話が、芋蔓式に手繰り寄せられるようなこの本こそ、ネット的という思いもある。が、これはどこまでも活字の書物なのであり、人間はこんな本を書けるのだ、そして読了できるのだ、ということを知る限界極限に挑んでいるようにも思う。
 たぶん現代ほど、「読む」という行為がないがしろに時代はなく、「歴史」が軽視されている時代はない。
 そんな時代にどこまでも抗うこと、それがピンチョン流の逆光=時勢に逆らうこと、でもあろうか。上等。ならばこちらは、それを読み尽くすことで、とことんピンチョンに付き合おうじゃないか、と思う。

 なお、訳者あとがきによると、この世には『逆光』を朗読した42枚組、収録時間54時間のCDがあるそうだ。朗読した奴(ディック・ヒル)もすごいが、聴く奴もすごい。
これが朗読版↓

2010/12/25

『キック・アス』  映画

マシュー・ヴォーン『キック・アス』
 素晴らしい!
 スパイダー・マンにせよ、バット・マンにせよ、いわゆるDCコミック系のスーパーヒーローものの映画は、これまで意外とジョン・ウーを参照してこなかった。
 もちろん、参照することは義務でもなんでもないので、かまわないのだが、超人的な身体能力を持つスーパーヒーローたちは、ジョン・ウーによる生身の人間仕様のアクションには基本的になじまないということも、1つあるかもしれない。

 逆に言うと、生身の人間でスーパーヒーローを気取る者が出てくれば、ジョン・ウーでイケるということにもならないか。
 製作側がそう考えたかどうかは知らない。でも、かつて『フェイス/オフ』の主演俳優が、ここでは父親として、娘のクロエ・グレース・モレッツに、戦闘の天才教育を施しながら、基礎教養(?)として、「ジョン・ウーのデビュー作は?」と質問するところでは、思わず共感の渦に我を忘れさせられる。
 さらにそれに「カラテ愚連隊!」と高らかに答えられると、目頭さえ熱くなる。

 わずか13歳のクロエ・グレースが展開する、目の覚めるような超絶アクション。スタントのアイディア自体は、さほどの目新しさはないのに、このスピード感はやはり運動神経なのか何なのか。
 彼女の小さな体に、回転を中心としたジョン・ウー風味のアクションは、実によくなじむ。
クリックすると元のサイズで表示します
写真:『キック・アス』より。クロエ・グレース・モレッツ。白いシャツが実にいい。画像allcinema.comより。

 もともとオタクとスーパーヒーローは相性がいい。もちろん映画とも。野球やサッカーのうまい奴に、映画など絶対にわかるわけがないという確信というか、偏見が私にはある。
 その妄想を突き詰めた時、オタクの真実の発想として、自分を救ってくれる人物に誰を求めるか。美少女キャラに決まっている。
 クロエ・グレース・モレッツは、身体能力ゼロのくせに、しかし性欲だけはあり余っていて、カッコだけはつけたい男性諸氏の欲望の根源に触れてくる。

 よく考えたら、マシュー・ヴォーン監督の前作『スターダスト』は、残念ながらそれほど面白い映画ではなかったけれど、ヒロインのクレア・デインズはきれいに撮っていた。ミシェル・ファイファーもまた。女優の趣味はすごくいい監督かもしれない。
 

2010/12/22

『ロビン・フッド』、『トロン:レガシー』  映画

 リドリー・スコット『ロビン・フッド』
 リドリーにとっては、4作連続のラッセル・クロウ主演作。そして前々作『アメリカン・ギャングスター』に続いての、ロン・ハワードとブライアン・グレイザー率いる、イマジン・エンターテインメント作品。クレジットはグレイザーの方のみ。

このイマジン・エンターテインメントというところに、ポイントを絞ろう。なぜなら、最近ではクリント・イーストウッドの『チェンジリング』を、どうしても思い起こすからだ。
すなわち、どちらも「取り換えっ子」としての物語であるということだ。

 『チェンジリング』は周知の通り、誘拐された息子が戻ってきたはいいが、それが別人であった、という話だった。
 この『ロビン・フッド』もそうだ。ロビン・フッドが偶然、その死をみとった兵の遺した剣を、その父に返しに戻る。その父はロビン・フッドを、まさに自分の息子に仕立て上げる。そして未亡人になったはずの妻には、彼を夫として扱わせるのだった。

 こうして続いた、「フェイクとしての子ども」というモチーフを続けたがる、イマジンの意図は何だろうか。
 さらに言うならば、イマジン製作でジョディ・フォスターが出演した『フライトプラン』では、やはり自分の娘が飛行機内で失踪し、しかもその子が“いなかった”ことにされてしまう物語で、これはやがて『チェンジリング』に発展することになる物語の、バリエーションと言っていいだろう。

 イマジンは、一貫して家族の絆をモチーフに作品を発表し続けてきた。ある種の作品では、その“かすがい”であるべき子どもを消失せしめることで、家族が揺らぐ様を見せる。
 そのとき問われるのは、親のアイデンティティだ。『チェンジリング』も『フライトプラン』も、母親は“頭がおかしい”ことにされてしまう。
 が、面白いことに『ロビン・フッド』では、子を失った者の苦悩は、ほとんど描かれない。
逆に、フェイクとしての子である、ロビン・フッド自身のアイデンティティが焙り出され、自らが見出されようとしていく。

 自分が確かに自分であることを、いかにして知るべきかということ。それは、リドリー・スコットの名高い『ブレード・ランナー』の登場人物たちが、人間かレプリカントかという、自己確定に苦悩する物語であったことを考えると、イマジン作品に特徴的なモチーフであると同時に、いかにもリドリー的なテーマであることもわかる。
 『ロビン・フッド』は、それぞれがそれぞれの主題を、もう一歩押し進めた作品であるとまで、ここでは示唆するに留めよう。

 ジョセフ・コシンスキー『トロン:レガシー』
 1982年のオリジナル『トロン』が、驚くほど退屈だった作品であることを振り返れば、その続編が面白くなる道理はない。
 だが、オリジナル『トロン』の主演者でもある、ジェフ・ブリッジスが、CGの力によって若き日の姿と現在の老いた姿で、2人が対峙する場面を見て、これはなるほど、ジェフ・ブリッジスが自らのキャリアをおさらいする作品なのだな、とふと思った。

 ジェフ・ブリッジスはかねがね、いい歳のくせに一向、自分で自分の落とし前をつけられぬ人物を演じ続けてきた。
 出世作の『ラスト・ショー』(1971)が既にそうだが、逆にいうと『恋のゆくえ/ファビュラス・ベイカー・ボーイズ』(1989)のように、外見のわりには人生にだらしのない人物を演じると、最も魅力的な俳優であるとも言えそうだ。
 まして息子と1対1のような映画として、『アメリカン・ハート』(1992)を思い出すならば、まったく父親としては失格な男であった(この時の息子役はエドワード・ファーロング)。

 そういう、ダメ人間としての若き日の姿をまとった、CGのジェフ・ブリッジスに、自分の息子の未来を守るべき、現在のジェフ・ブリッジスが対峙する。
 『トロン:レガシー』はそのように見ると、ブリッジスにとって過去の自分を償おうとするかのような、皮肉でいささか自虐的な映画であるようにも見える。
 そう考えてみると、この映画も、我然価値を増すかのようだ。


2010/12/20

『人生万歳!』  映画

 ウディ・アレン『人生万歳!』 
 ウディ・アレンの作品は、多くの場合、訪問者によって物語の口火が切られる。
 それはたいてい、主人公にとっては異質の存在であって(というのは、主人公は頑固にも程があるほど、自分のライフスタイルを守っているから)、ほとんどエイリアンのようなものであったりする。『カイロの紫のバラ』にいたっては、スクリーンの向こうから、映画の登場人物がこっちに訪れたりさえもする。

 その意味で『人生万歳!』は、まさに訪問者の映画だった。”いつも通り”カフェで仲間たちを相手に、皮肉な弁舌を奮う主人公だが(仲間相手でもまだ足りずに、彼はスクリーンこちら側の観客に向けて話し始めてしまう!)、アパートに家出少女が住みついてしまい、あれよあれよという間に、何と結婚までしてしまう。歳の差、それも40以上。

 「運命が扉を叩く」というベートーヴェンの警句そのままに、交響曲第五番の主題にのせて扉は叩かれ、若妻の母が、そして父が訪問して、話はどんどんややこしくなる。
 この訪問者ということを考えるときに、何がわかるかというと、ウディ・アレンの登場人物(特に主人公)は、常に価値転倒を迫られている、という今さらの事実だ。

 自分が信じる価値などというものは、常に揺り動かされる。そのストレスこそがウディ・アレンが描き続けているモチーフであって(『カメレオンマン』では、どんなものにでも変身できる奇人になってしまった)、その価値転倒を受け入れても、受け入れなくても、どのみち彼らはひどいめにあう。どちらにせよ無傷ではいられない。

 でも本当にそうなのか。どちらにせよひどいめにあうのか。それも“運命”次第ではないか。
 『マッチ・ポイント』で、橋の欄干に当たって、川底に沈まなかった指輪と同じように、あり得ぬ奇跡、またはなり行き=運命の不思議によって、信じ難く幸福なハッピーエンドへの道筋を示したのが、『人生万歳!』であるのなら、ここ数年、撮影場所をヨーロッパに移して、凡作を繰り返したウディ・アレンの迂回も、大きな意味を持つと思う。

 久しぶりにNYに還ってきたウディ・アレンはやっぱり素晴らしい!



2010/12/18

『ゴダール・ソシアリスム』  映画

 ジャン=リュック・ゴダール『ゴダール・ソシアリスム』

クリックすると元のサイズで表示します
       二番目の天使は海を血に染める。この天使には悪意はあるか。

クリックすると元のサイズで表示します
       太陽が襲ってくるとき、この人なら太陽をぶん殴れるのです。

クリックすると元のサイズで表示します
       あなたはアメリカを信じますか?

クリックすると元のサイズで表示します
       ルノアール? そう。この動物は美しい物をとらえ損ねたのです。

クリックすると元のサイズで表示します
       ナイト&デイ

クリックすると元のサイズで表示します
       外交特権。自動車税を払わぬこと。そして初心者であること。 

クリックすると元のサイズで表示します
       フランスに住民票があるので、JLGはそこで税金を払っている。

クリックすると元のサイズで表示します
      フランスは、書籍のデジタル化に関して急伸していたかもしれないが、
       今や深刻なまでに衰えている。

クリックすると元のサイズで表示します
      ブラックorホワイト

クリックすると元のサイズで表示します
     トナカイも少女も搾取されている。

クリックすると元のサイズで表示します
     1億円の夢の対価として、3時間が値付けされる。

クリックすると元のサイズで表示します
      武器よさらば。

クリックすると元のサイズで表示します
      適正価格

クリックすると元のサイズで表示します
      33位

クリックすると元のサイズで表示します
       かつて“再来”と呼ばれた男は、怪人にこの道を走らせる。
             メルド(糞)のタイトルのもとに。

クリックすると元のサイズで表示します
      ノー・コメント 


すべての画像は、『ゴダール・ソシアリスム』東京での上映館シャンテシネ周辺にて、12月18日に撮影。Photo by Incidents

2010/12/16

『ノルウェイの森』  映画

 トラン・アン・ユン『ノルウェイの森』
 個人的に、この世で最も映画化してほしくない作品だった。
 誰がどのように映像化しても、納得できるはずがないからで、私にとって村上春樹の『ノルウェイの森』はあまりにも大切な作品だったからだ。
 けれど、驚いたことにこの映画がよかったのだ。むしろ素晴らしかった。『ノルウェイの森』という小説に対する、ひとつの解釈として、これは受け入れられる。

 まず、ミドリを演じる水原希子があまりにも美しく、素晴らしかったからで、これほど清冽な女優のデビューを見たのはいったいいつ以来だろう。
 私事に堕すと、私はこのミドリという登場人物がことの他好きで、自分の娘に「ミドリ」と名付けてしまった馬鹿者だが、それほど強いこだわりを持つ私にあって、この水原希子はいい。
クリックすると元のサイズで表示します
写真:『ノルウェイの森』より。緑を演じる水原希子。すばらしい。これこそまさに緑だ!

 が、そうしたことは重要だが、それだけではない。
 もともと村上春樹の『ノルウェイの森』は、人が生きていくに当たって、何度も何度もぶち当たる“喪失感”を描いた作品だった。が、それと同時に、どうしようもない“幻滅感”というのも並行させている。
 それがこの小説の、最も胸をしめつける根本であり、他のいくつもの村上春樹作品の傑作の中で、分けてもマジックを持った理由だった。
 幻滅があるから、喪失の哀しみは深まり、幻滅したときに喪失したものの大切さを知る。これが『ノルウェイの森』が描き尽くした、生きるということの構造である。

 トラン・アン・ユンは、映画化にあたって、この「喪失」と「幻滅」のうち、「幻滅」の方をばっさりとカットした。
 その結果、悪くなったかというと、それが正解だったところに、この映画のよさがある。小説のニュートラルな文体と違って、生身の肉体を持つ映画にあっては、「幻滅」を描いてしまうと、原作の持つ透明感を欠いてしまう。「幻滅」はリアリズムだ。
 けれど、「喪失」はメランコリーである。メランコリーなら、原作の澄明さを失わずに、実体を与えることができる。その結果が、映画『ノルウェイの森』だ。

 たとえば、主人公ワタナベ君には、素行の悪い永沢さんという先輩がおり、彼のガールフレンドであるハツミさんは、後に手首を切って自殺する。そのくだりの一部は、原作ではこうある。

「彼女の死を僕に知らせてくれたのはもちろん永沢さんだった。彼はボンから僕に手紙を書いてきた。「ハツミの死によって何かが消えてしまったし、それはたまらなく哀しく辛いことだ。この僕にとってさえも」僕はその手紙を破り捨て、もう二度と彼には手紙を書かなかった。」(『ノルウェイの森 下』(講談社 P.117)
 ここでの「僕にとってさえも」の「さえ」の部分に、どうしようもない幻滅感が潜む。
 そして映画は、こうした部分の描写を断念する。それが正解であるのは、述べた通りだ。

 この映画がすごいのは、直子の歩きっぷりだ。速い。とんでもなく寒そうな草原を、直子が心境語って、とにかく歩く。ワタナベ君は追いつくのに必死だが、その超長回しに瞠目する。
 直子は歩いて歩いて歩きまくるのだが、やがて草原の端っこにぶち当たってしまう。どうするかと思って見ていると、何と彼女はそのままUターンして、また同じところを戻り始める。これはすごい。
 そこまで本気で演じきらせ、しかもそれを追いかけるカメラ・編集の粘り強さ。やらせる演出の残忍さ。
クリックすると元のサイズで表示します
写真:『ノルウェイの森』より。緑を演じる水原希子。すばらしい。これこそまさに緑だ!
なお、歩く直子に対して、緑はほとんど歩くことはない。こうして座っている。
画像リンク元は2点とも映画.comより


 失って失って失って、ついに自分のいる場所を見失う。鳴り響くジョン・レノンの歌声。
 おそらくある種の映画は、それだけは何としても実現しなければならない、大きな試練があるのだと思う。そしてこの映画の場合、それがザ・ビートルズの『ノルウェイの森』楽曲使用だと思うが、確かにこの楽曲の使用が叶わなければ、映画化もまたあり得ないことだったろう。
 なぜなら、ジョン・レノンこそ、紛れもなく喪失感をこそ歌い続けた歌手だろうからだ。

 様々な形で、この映画には賛否がつきまとうことと思う。私は自信を持って“賛”を唱えたい。




teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ