2011/2/27

劇的3時間SHOW 侯孝賢×蓮實重彦  映画

 2011年2月26日 於スパイラルホール
 劇的3時間SHOW 侯孝賢×蓮實重彦
 3時間のうち、前半は一青窈さんが登場。主演の『珈琲時光』より、彼女のお気に入りシーンを7つ紹介しつつ、対話していくものだった。
 その7つのチョイスから、彼女がいかに聡明な女性かがわかる。「画面の切り取り方が面白かった」、「短いんですけど構図がいい」などなどのコメントを含めて。

 冒頭から一青さんが、自分の妊娠を母親役の余貴美子さんに告げるシーン。確かにこれは、画面中景のふすま枠が、画面内フレームにもなる、凝った画作りだが、その奥と手前を出入りする人物の動きがとてもいい。
 しばしば一青さんは観客側に背を向けるのが、この場面だけ見ると気になってくる。そこで一青さんのコメント。
 「背中で演技をするというのもあるんですけど、カメラが怖くて後ろ向きで動いていたんです」
 と、いやいや緊張感みなぎる素晴らしいシーンなのだ。

 6番目だったろうか、一青さんの乗る電車の中から窓外を撮ったカメラで、向かいの電車が追いつ追われつして、もう1台の電車が同方向に走るシーン。ここで、向こうの電車がこっちにすーっと接近した後、路線の流れからやがて向こうに離れていく、その刹那に向こう側の電車に乗った浅野忠信が見える。
 これはものすごいシーンで、私は初めて見たとき、まさかCGかとさえ思ったのだけど、これを来る日も来る日も撮ったのだという。
 その日数、実に15日!(はじめ侯監督は「14日くらい」と言ったがそこはさておき)

 私事で恐縮。もう20年近くも前になるだろうか、日比谷シネシャンテに侯監督が来日し、トークを行ったことがある。その日の参考上映は『坊やの人形』だった。
 記録を残してないので記憶で書くが、そのとき侯監督は映画監督の仕事を、「とにかく待って待って待つことだ」という意味のことをおっしゃった。

 私はトーク後の質疑応答で挙手し、「映画監督が待つことは理解できますが、キャストはじめ、スタッフを待たせるのは、かなり精神的にキツイのではないかと思う。どうやって彼らを納得させるのでしょうか」と質問した。恐ろしいことである。若かった。

 侯監督の返事はごく端的だった。能弁な今日の監督なら、もっといろいろ話してくれたのかもしれない。あるいは、私の質問がくだらないと思われたのかもしれない。
 「繰り返しになりますが、待つことが監督の仕事です。それは待たせるということも含むのです」

 ああ、今に至るまで侯監督は撮影にあたって、待ちに待ち抜いているのだな、と感慨を新たにした一瞬だった。

 ほぼ1時間にわたり、一青さんによるお気に入りシーンを中心にしたトーク。(ちなみに7番目は、もちろん『珈琲時光』のラスト。複数の電車がまるで夢のように交差する俯瞰から、そのままエンドクレジットに至るシーンである)
 15分の休憩の後、第2部へ。

 第1部の焦点は、侯監督がいかにものごとを長く見つめているか、ということに尽きたと思う。
 「監督は本当にいろんなものを見ているんですねえ」という一青さんの驚きの声に代表されるように、東京にもう44年も住んでいる私からして、『珈琲時光』のラストのような風景、1度たりとも見たことがない。

 侯監督はそれに応えて曰く、「自分の目で見たリアルを大切にしたいのです。だからものごとをなるべく長く観察します」。

 第2部は、蓮實御大の登場だが、その幕開けは何とも劇的だった。御大はたまにこういうロックスターがやりそうな、ステージ演出をする。
 開始早々、スクリーンに『百年恋歌』のオープニングが映し出される。
 「煙が目にしみる」の歌にのせて、主要登場人物がビリヤードに興じる、忘れ難い画面。

 ほどよいところで、参考上映が終わり、やおら御大は口火を切る。
「人類を2つに分けるのは簡単なことです。今の場面を見て、泣けるか泣けないか。昔は泣けない奴とは金輪際つきあわないと決めていましたが、歳をとってきますと、わからないならわからせてやろうとしてしまいます。そして私はとにかくどうにも泣いてしまう。さて、こんな私を監督は許してくれるでしょうか?」

 苦笑する侯監督で、監督はそれを許すとも許さないとも言わなかったように。
 御大は「こうしたカメラの動きは『悲情城市』の頃はありませんでした。『フラワーズ・オブ・シャンハイ』からでしょうか、パンをたくさん使うようになりました」と話をふる。

 侯監督は「『フラワーズ…』は台湾で撮ったが、外は撮っておらず、室内だけで撮っている。そしてカメラマン(リー・ピンビン)には、「人が動いたらそれを追え」と指示していました」と語る。

 興味深いのは、蓮實御大が「パンはするけど、移動撮影は避けられています。こうした映画では移動は不要なのでしょうか?」と言うところ、「パンはしていますが、下にはレールをしいています。だからパンだけに見えるのだと思います」の回答。
 信じ難く手のこんだ撮影をやっているのだ。

 さらに続けて、「リー・ピンビンにとってもこの撮影(『百年恋歌』のこと)は難しかったようで、人が動けばそれを追えといっても、なかなかそうはいきません。だから3回撮っている。あ、私のいう3回というのは、3テイクという意味でなく、3日間撮っているという意味ですが…。私はリハーサルをしないので、俳優がどこに動いていくか、わかりません。だからカメラマンに任せています」と、印象的なことを言う。

 さてこの日、蓮實御大は「世界映画史で最高」「世界一」という言葉を2度使った。
 まずは、撮影リー・ピンビンを「世界一のカメラマン」と。そして、映画史上最も美しいタイトルとして、『恋恋風塵』を指した。
 話題は前後するのだが、概要報告というこのレポートの性格上お許しいただくとして、タイトルにまつわる話題が面白かった。
 侯監督作品のタイトルに頻出する「時光」という言葉である。

 「「時光」という言葉は、非常に美しい言葉だと思うのですが、どのような意味なのでしょうか。そして、なぜ2作続けて(『珈琲時光』と『百年恋歌』―原題『最高的時光』)「時光」なのでしょうか?」と御大質問。

 侯監督の回答もまた美しかった。「中国語の「時光」とはただの時間の流れでなく、記憶や場所のことも含みます。「時光」はもとに戻すこともできます」

 御大の「では「時光」という言葉を使った映画は他にあるのでしょうか?」という問いに対しては、首をかしげる侯監督。しかし、あ、思い出したという感じで出て来た言葉がすごかった。
 「アンドレイ・タルコフスキーが書いた本の中にありました。映画でなく本の中にです」

 その本の特定はできないのだが、邦訳のある中で考えると、『タルコフスキー日記』か『映像のポエジア』か。いずれにせよ、「時光」の引用元がタルコフスキーとは!
(追記*)
(本件、西田博至さんから貴重の上にも、貴重な情報をいただきました。「タルコフスキーの日記『Time Within Time』は台湾では『時光中的時光』、『Sculpting in Time』が『彫刻時光』ってタイトルです。台北の「珈琲時光」って喫茶店に併設の本屋で、タルコフスキーのポラロイドの写真集を買いました。」すばらしい。これは超重要情報かと思われます。侯孝賢研究にとっても、映画史にとっても。心から感謝します!)
ちなみに、この「珈琲時光」という喫茶店は、本トークの中でも侯監督が紹介していて、でも自分が関係しているわけではないです、といったような話もしていました)


 本稿、長くなりすぎたので、面白かったエピソードをもう1つ書いて、最後のトピックとする。『百年恋歌』の冒頭ビリヤードシーンについて、もう1つ。
 「この質問がもしもご不快なら答えなくてもけっこうです。ここには『クーリンチェ少年殺人事件』にも出てきた2人が出ています。これは、エドワード・ヤンへの非情に心のこもった挨拶なのではありませんか」
 と、御大が非常に言葉を選んで、慎重な、しかし明からさまに「はい」と答えさせたくてしかたがない質問をする。ここは緊張した。

 侯監督はしかし、あっけらかんとしたものだ。
 「いえ、実はぜんぜん考えていませんでした」
 会場爆笑。御大の表情は読めなかったが、重ねて侯監督が、日本語で「スミマセン」。

 たぶん、がっかりした御大。
「いや、いいんです。今エドワード・ヤンが亡くなってからこれを見ると、ますますそのことを感じます。そしてエドワード・ヤンの女の子も出ているので、ますますこれが挨拶のうように思え、それでなお私は泣いてしまうのです」と。

 その流れでは、『ミレニアム・マンボ』からスー・チーとカオ・ジエの室内シーンの参考上映(カオ・ジエがキッチンで何やら料理しているシーン)。
 カオ・ジエの存在感の素晴らしさについて、話が盛り上がる中、御大は特にその声のよさを強調する。
 その中で、侯監督が「チャン・チェンはそれほどよくない」と発言したところ、御大が「いや、チャン・チェンもいい」と強弁。ここもスリリングなやりとりが走ったが、スー・チーの声の素晴らしさについては、2人にまったく異論ない会話が交わされる。

 その声の話の展開、『悲情城市』でトニー・レオンが妻子と記念写真を撮る、あの言葉にならぬほど素晴らしい名場面の参考上映を受け、そこで「他に考えられぬくらい素晴らしいナレーションが流れる」と御大が言うところの、確かあのナレーションは、トニー・レオンの妻役シン・シューフュンによるものだったろうか、これは記憶だが、その声が何とも素晴らしい、という話を受けてのことである。

 3時間の長く濃密なSHOWだったが、御大の「そろそろ侯監督の、最初の4作品。これを許してやってはくれませんか」
 の言葉に、監督はまあ言葉を濁したのだと思う。いささか要約しにくい弁明をふるい、最後の参考上映は、『川の流れに草は青々』。

「この場面も、きっとどっとこみあげてくると思われますので、どうか皆さん、ご準備のほどを…。流れてくる歌に、手拍子をしたってかまいません」

 という御大の言葉とともに、『川の流れに草は青々』のエンディング。
 子ども達が川に入って魚をすくっている姿から入って、私はこれに本当に「どっとこみあげて」きて、号泣してしまう。いかん、準備していなかった。
 とめどなく涙がこぼれて、ティッシュをまさぐっているうちに、先生と子供たちの別れ。列車を追いかける子ども達。流れる歌。エンディング。

 映画ってすばらしい。それ以外に言葉が出てこない、映画への愛情と情熱がかきたてられる、すばらしい3時間だった。
 やっぱり侯孝賢監督も、もちろんすばらしいのだが、蓮實御大の煽動力はすごい。いつまでもこの先何十年も、現役として映画に携わってほしい。心からそう思った。

2011/2/25

フランソワ・ゲリフ『クロード・シャブロルとの対話 不完全さの醍醐味』  

 フランソワ・ゲリフ『クロード・シャブロルとの対話 不完全さの醍醐味』(大久保清朗・訳 清流出版)読了。

 恥ずかしいことに、私自身のシャブロル体験は、最初期と後期の両極にしかない。
 比較的見る機会を得やすい、初期の『美しきセルジュ』と『いとこ同志』。その他は、ミニシアター隆盛の結果、少し国内公開されやすくなった、『主婦マリーがしたこと』以後の一般封切作品のみにすぎず。あわせても10本に満たない。
 シャブロル年代記のど真ん中がごっそり抜けおちているのだ。すべて国内未公開のためだが、私はこれをかねがね、手痛い不見識だと痛恨の思いがあった。
 だから、そのせめてものリカバリにせんものと、本書の出版は待ち遠しかった。

 さて、訳者の大久保さん御自らお送りいただいた本書を、早速手に取り「ああ、いい本だな」と思う。
 表紙にはほとんど晩年だろうか、壮年のシャブロルの写真。そこからほんの少し右に視線をズラすと、本の背には若き日のシャブロルの写真。
 2つの写真には、同じところと違うところが1つずつあって、どちらもカメラのレンズを手に持っている。(ちなみに裏表紙は、素のままの若きシャブロル)

 壮年シャブロルはパイプをくわえているが、青年シャブロルは葉巻をくわえている。パイプなどくわえていると、ついメグレ警視…という名前を口にしたくなるが、シャブロルの嗜好が、巻き煙草からパイプに移ったのか、バイなのかそれはわからない。
 けれど若き日から、晩年まで、常にレンズを通してものを見ていた人だったのだろう、という印象を授けられ、そのまま本文ページへと誘われる。
 そういう本は、きっといい。
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不完全さの醍醐味 クロード・シャブロルとの対話

 本書は著者が発する、短く簡潔な問いに、シャブロルがおおいに答える体裁になっている。
 何より心ひかれるのは、いつでも上機嫌といった風情のシャブロルの、「気のいい」しゃべりっぷりだ。
 自分にとって、どれだけ不名誉なことでも、巧みなユーモアにくるんでにこやかに語る。こんなおおらかな映画作家のインタビュー記事は、とんと読んだ記憶がない。

 シャブロルは(作品数が膨大でもあり)、必ずしも傑作ばかりでないと聞く。批評も興業も木端微塵の作品も少なからずある。

 「失敗作」に対しても、「そういうふうに頭を悩ませたことは一度もない。自分の撮りたい映画を撮ることが許されるなら、その範囲のなかで私は映画を撮る。」(P.75)と、悠々たるものだ。

 何より可笑しいのは、『十日間の不思議』をさして「絶対的失敗作」だと。それ以外は「自発的失敗作」なんだと言う。なるほど、そんな仕分けがあるか!
 そして、自らの「クソ映画」の極めつけとして、『ブルース・ダーンのザ・ツイスト』を「<国際的駄作>というジャンルなのさ!」と、いやはや語りに語る。
 そのように言われると、何から何まで是非見たくなるではないか。

 そんなおおらかさは、ヌーヴェル・ヴァーグの仲間たちへの言葉にも表れる。

 「いつまでも仲はよかった。私たちの結束は退役軍人のそれではなかったんだ。決して、ほんの一瞬たりとも、揚げ足とりなどしなかったよ。フランソワとジャン=リュックが大ゲンカしたときもフェアプレーの域にとどまっていた。あれはほとんど愛情表現だよ。」 とはいえ「あなたをきつく避難していました」と匙を向けられても、
 「ゴダールは非難したのではないんだ。私のことをデュヴィヴィエ並みだといったんだ。」 なかなかこんなことは言えない。加えて「あなたを冷笑家(シニック)だといっていました」と言われても、
 「だってゴダールがそうじゃないか!(笑)」 (以上P.82)

 と、私はこのやりとりにおける「(笑)」ほど、温かなものを他に知らない。たぶんこれは、訳者の繊細な上にも繊細な配慮によるものでもあると思う。
 この本は、何しろ訳者の努力の跡が深々と刻まれている。
 会話の中に、記事や書籍から引用があると、直ちにその元情報の訳注が添えられる。どうやら、原書における誤りもあるようで、そこもきちんと示唆してある。

 それに、私は先ほどからシャブロルの「おおらかな人柄」などと、繰り返し書いているが、その人となりを形づくっているのは、訳文の力によらずしてなんだろう。
 シャブロルの日本紹介は、今からだという時期にあたって、その基本書たる使命を担った本書の役割のひとつは、読者がシャブロルを好きにならなければいけない、ということだ。そのキャラを産み出す必要のあった、訳者の重圧いかばかりだったか、としのばれる。
 
 また、私は以前、ある映画書に添えられたフィルモグラフィに、その存在意義と記載基準に少なからず疑問を抱いたことがあったが、本書のフィルモグラフィの充実ぶりには、目をみはるものがある。
 可能な限りの出演者名があるばかりでなく、その役名まで記すとは! もちろん内外の封切日まで記載され、ここまでくると訳者のシャブロルへの執念というより、もはや愛だ。

 本書は、ヒッチコック/トリュフォーの『映画術』のような、映画技法の奥義に踏み込むものとは、少し違う。
 個々の作品における、技術的な話というより、思い出話というに近い。そしてそれがたぶん、作品鑑賞の明解な補助線になると思うのだけど、そんな本書は「映画術」というより「映画話術」と呼んではどうだろうか。

 他にも、ヒッチコックとラング、あるいはルビッチと、敬愛する監督たちと、自らとの距離感について語るシャブロルの見解には興味が尽きない。

 何とも痛切なことに、つい昨年の夏にシャブロルが急逝したことは記憶に新しい。これを機にシャブロルの特集上映・未公開作封切の動きが徐々に高まっていると聞く。
 そんな中、思いがけぬ偶然の、ほぼ理想的なタイミングで、本書が出版されたというのは、やはり映画の神様っているんだ、としか思えない。
 シャブロル鑑賞時には、本書を片手に携えて出向かねばならないし、それに足る本だ。

 シャブロルは、『女鹿』について「これ以来、私は自分の撮りたい映画を撮れるようになった」(P.108)と啖呵を切る。
 となると、その前後作品を、その気で見ずにはいられないではないか。

 最後になるが、「最も知り尽くしている作家だ」と述べるジョルジュ・シムノンについて、「シムノンは傑作をものにしようという野望を夢見ることはなかった。一瞬でさえそんなことに挑もうとはしなかったばかりか、そうした野心を避けようとすらした。」(P.134)と語っている。
 この言葉、シャブロルがまるで自分自身について語っているかのように感じた。

 おおらかで、ユーモアがあって、(そしてそれを芸術作品の中でただひとつの肝心なことと言う)「謙虚」な人なのだ。
 ひとりの映画作家の作品を読み、思想を読み、そして、人柄を読む。

*訳者・大久保清朗さんのコメント http://d.hatena.ne.jp/SomeCameRunning/20110225

2011/2/22

『トスカーナの贋作』  映画

 アッバス・キアロスタミ『トスカーナの贋作』
 贋作に関する書物を執筆した男(ウィリアム・シメル)と、どうも彼のことを尊敬しているのか、恋しているのか、何とも判然しがたい女(ジュリエット・ビノシュ)。
 この2人の関係が、映画が進むにつれて、てっきり他人同士と思っていたのが、やがて夫婦の真似事をしだし、あげく本当の夫婦としか思えない振る舞いを見せ始め、結局のところどっちなのか、見ている者にとってだんだんわからなくなってくる。

 これまで、フィクションとノンフィクションの狭間のような、映画作りをしてきたキアロスタミだけれど、これほど過激なものは初めてのような気がする。
 だから映像というものは、虚か実かわからないのだよ、という小賢しい話に落とすのは簡単だけれど、驚いたのはこの映画の画面の奥のそのまた奥なのだ。

 全部ではないが、多くの場合、この2人の男女の背景には鏡ないしはガラスがある。
 そして、その鏡かガラスの表面に、彼らやその他の人が必ず写りこんでいる。
 映画の虚像の中の虚像。メタ虚像という意味不明な言い方をすると滑稽だが、まあそう
いうことだ。
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写真:『トスカーナの贋作』より。
画面中の枠の奥の、“生命の樹”のガラスケースに映り込んだ新婚夫婦。その手前にいる実像の新婚と、画面左にいる大写しの夫婦と、虚像も実像もぐちゃぐちゃである。こんなシーンばかりだ。画像allcinema.comより


 いちばんすごいのは、ブニュエルを中心に、アントニオーニ、ゴダール、大島、シュレンドルフらの脚本を書いてきた、ジャン=クロード・カリエールも登場する広場のシーン。
 ここで、ジュリエット・ビノシュが道行く人に、あれこれ尋ねるのを、ウィリアム・シメルが一歩離れたところで、いくぶんうんざりしつつ、手持無沙汰にしている。
 この場面では、シメルの傍らにあるバイクのミラーと、その奥にあるガラスだか窓だかの両方に、ジュリエット・ビノシュの姿が映り込んでいるという、恐ろしく手のこんだ撮影を見せる。
 ここに至るともはや、虚と実がまるで乱舞しているかのようだ。

 クライマックスといっていい、「まずいワイン」をきっかけに始まる、終盤での凄絶な2人の口論も、窓ガラスを背にしたシメルの背後の(画的にも音的にも)騒々しいこと。
 そうかと思うと、その直前に置かれた、こちらを向いたビノシュが、観客側を鏡と見立てて化粧室で顔を直す、性がいろめきたつシーン。
 そんな場合、私たちは彼女のメイクする様を、自分たちが鏡であると仮想して、ビノシュの姿。鏡など画面に映ってない以上、それをつまり実像として鑑賞すべきなのか。
 または、ビノシュのその姿を鏡に映った虚像とみなして、外側から鑑賞すべきなのか。
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写真:『トスカーナの贋作』より。
鏡に向かって顔をお直しするジュリエット・ビノシュなんだが、本当は鏡など画面に映ってないわけで、これは虚像というべきか実像というべきか。
しかし、いい女優であることは認めるものの、何しろこの人は不細工なのが残念である。画像allcinema.comより。


 とにかく、こんなシーンばっかりだ。だんだんわからなくなってくる。しかし、基本的にはどうでもいいと思う。けれどどうにも撹乱させられる。
 確かなことは映画の画面の官能性であるし、触れ得ぬ男の心と女の心の、度し難き距離の遠さであるようにも思う。

 ここ最近、真実か虚偽かを厳密に問おうとする、アメリカ映画が不思議と多い。そしてそれに呼応するかのように、この10年くらいの間、世界はそれが真実か虚偽かをしつこく追求しようという動きがひどく盛んである。
 キアロスタミは真実も虚偽もないまぜの世界ばかり描いてきて、『トスカーナの贋作』はいよいよその極みのような映画だ。

 そして、そんな映画はこうした世界に対するカウンターというべきなのか、親和力というべきなのか、よくわからないながら、今こそ手のこんだアイロニーとして存在価値を持つと思う。
 そして、間違いなくそれが世界の現状を象徴しているように見えるのだけど、しかしその存在意義の本当のところが掴み得ないとなると、もともとそれが芸術というものでなかろうか。
 この作品はとにかく実際に見て、そして混乱させられてほしい。

2011/2/20

『ヒア アフター』  映画

 クリント・イーストウッド『ヒア アフター』
 製作総指揮スティーブン・スピルバーグの名前から、ゆるやかに遊離していく、監督クリント・イーストウッドの刻印は何かというと、まるで銃声のようにビュン、という音と共に一瞬で交わってしまう魂と魂だ。

 『E.T.』の触れ合う指と指や、『太陽の帝国』のエンディングなどを引くまでもなく、スピルバーグが手と手の触れ合いを描くとき、それはしっかり長い時間触れ合って、すぐには離れ難いものとなる。

 一方『ヒア アフター』で霊能士を演じるマット・デイモンの身振りは、普通じゃない。
 死者と交信するために、相手の手を両手で握った瞬間、まるで銃にでも撃たれたかのように反応したかと思うと、すぐにぱっと手を離してしまう。これだけでいいのか? と思わずにいられない。
 けれどその後は、相手と触れ合っていなくとも、依頼人が求める霊の声が聞こえてくる。一度受けた銃創が、いつまでもじくじくと痛み続けるように。
 
 スピルバーグがこの脚本に興味を持ち、しかもそれをイーストウッドに託したというのは、それが「幽霊」のモチーフを持つからで、イーストウッドはこれまでずっと「幽霊」を描いてきたからじゃないか、というのは一見すぐに思いつきそうな話ではある。

 けれど、これを決して相手に触れてはいけない男の哀しみ、ととらえたならばどうか。
 相手に触れてしまうと、霊を通して相手のことがすべてわかってしまう。その痛みに耐えられないのが、主人公マット・デイモンが背負った「のろい」だ。
 これまで多くの作品で、相手と触れ合うことによる救済を描いてきたスピルバーグである。そして、かつて相手に触れることが「できない」男の“不可能性”を描いた『オールウェイズ』の監督でもあった。
 ならば、それを深めて、触れては「いけない」という“禁止”の哀しみならば、それが極めてイーストウッド的な題材と考えるのもありかもしれない。
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写真:『ヒア アフター』より。触れられぬ悲哀。ブライス・ダラス・ハワードとマット・デイモン。画像allcinema.comより

 「〜することができない」監督であるスピルバーグと、「〜してはいけない」監督であるイーストウッドの、そこを差異であると、あまりに乱暴すぎるかもしれないが、ここではごく端的にそう述べてしまおう。
 相手に触れてしまうと幸福な結末になれないとわかっているマット・デイモンは、ブライス・ダラス・ハワードとのロマンスの今一歩に踏み切ることができない。
 本来なら触れ合うことで成就するはずの恋愛というものが、触れられぬことによって、あらかじめ禁じられていることの不幸がここにある。

 不幸ということでは、この映画はあと3つの不幸を準備する。ハワイ滞在中の大津波で九死に一生を得た女性リポーター(セシル・ドゥ・フランス)は、その臨死体験を機に、これまでの順風漫帆な人生を決定的に損ねてしまう。
 また切っても切れぬ仲の双子の兄弟たちの不幸。そして、もう1つは薬物中毒で生活を持ち崩している、その兄弟の母親。

 マット・デイモンの不幸を含めて、それらの不幸をいかに乗り越えていくかという、『ヒア アフター』は臨死を扱っておきながら、これは極めて現世的な内容へと話は進んでいく(“Hereafter”は「来世」といった意味だ−リーダースプラス英和辞典)。
 そしてその仲介役となるのは、マット・デイモンがこよなく愛する作家として登場する、チャールズ・ディケンズなのだ。
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写真:ロバート・W・バス『ディケンズの夢』。ディケンズ博物館を訪れるマット・デイモンがこの絵を前にして浮かべる微笑みは忘れられない。画像はディケンズ博物館HPより

 双子の兄弟の一人は、まさにディケンズの小説に登場する少年よろしく、不幸な境遇にありながらも、動いて動いて移動を重ねて、その乗り越えに努力を重ねる。
 そして、少年とマット・デイモンとセシル・ドゥ・フランスが形作る3つの糸が、安寧を求めてひとつに収斂していく様は、なんだかリチャード・ドレイファスとフランソワ・トリュフォーとメリンダ・ディロンの3つの魂が、デビルズ・タワーへと向かっていく『未知との遭遇』の運動さえ思い出させてならない。

 イーストウッドのいずれの映画にも感じ取れるのは、何ともしれぬ思慮深さであるのだが、『ヒア アフター』がまとうものはひときわ深遠であるように思われる。
 それは決して、死生観ということではなく、死者の魂をも飲み込みつつ、なおも進んでいく人生の侮りがたさであり、生と死とがあまりにも紙一重だということでもあり、この点については従来のイーストウッドのテーマにも連なろうと思う。

 『ヒア アフター』は、鑑賞後にふと立ち止まって周囲を思わず見回したくなる、そんな気配に満ちている。
毎度のことだが、イーストウッドはまたしても自己ベスト作品を作ってしまった。

 ちなみにだが、劇中に登場する『ディケンズの夢』を含むさまざまな、ディケンズの挿絵をめぐる挿話については、清水一嘉『挿絵画家の時代-ヴィクトリア朝の出版文化』(大修館書店)が非常に多くを教えてくれる。
 

2011/2/19

『ミツバチの羽音と地球の回転』  映画

 鎌仲ひとみ『ミツバチの羽音と地球の回転』

 私たちの生活にとって、とても大切なことなのに、まったく報道されていないことが、無数にあることくらいは知っている。
 そんな事実を知らしめてくれる、こうしたドキュメンタリーは本当に貴重だと思う。

 舞台は瀬戸内海の祝島。人口500人の小島である。ここでは豊かな自然と、豊富な種類を抱く海洋生物で、細々ながら農業と漁業を営む人々がいる。
 この真向かいの湾を埋め立てて原発を作ろうとする計画があり、島民たちは実に26年にわたって反対し続けている。

 そんな島の人々の生活と、反対活動の様子を淡々と、そしてこれが重要なことだが、ユーモアを忘れずに描いている。
 ここに描かれるのは、握り拳を振りあげて、原発反対を叫ぶ戦闘的なデモ行動ではない。
もちろん、強引な原発誘致審議のやり方や、電力会社の無神経極まりない発言などに、怒気を露わにすることもしばしばだが、たとえばそれは、島のおばあちゃんたちがお弁当作って、水筒にお茶をたっぷり入れて、座り込み運動を繰りだすという、そういうものだったりする。
 島民たちは島民たちのできる方法で、細く長く反対を叫ぶのだ。


 電力会社の言い分で最悪なのは、1次産業だけで生活できるわけがない、今のままでは島はどんどん高齢化して、やがて生活できなくなる。(原発は)そんな状況を救うのですという世迷言だ。
 そのような開発ありきの発想を、まだ捨てられないのか。

 さて、限りなく自給自足な生活を守ろうとする、島民たちの生活を中心に、映画は持続可能なエネルギーの可能性について模索しようと、中盤は舞台をスウェーデンに移す。

 この国では国民投票により、脱原発を決定し、2020年までに石油エネルギーに依存しない社会の建設を進めている。風力・太陽・波力がその代替エネルギーだ。
 そしてゆるやかながら経済発展もし、社会保障も充実している。
 なぜ日本でこれができないか。発想が不自由だからだ。

 私たちは現政権の不備を、いいようにあげつらって、怒っている。けれど、そもそも私たちの生活基盤を支えるべきエネルギーについても、もっと目が向けられていい。
 こうしたメカニズムを知り、それはおかしいという疑問が芽生えることで、全体が動くかもしれないのだから。
 すべての人が見るべき作品だと思う。
 監督は、『六ヶ所村ラプソディ』でも原発問題をとりあげた鎌仲ひとみさん。
 公式HP http://888earth.net/index.html
 鎌仲監督のツイッター http://twitter.com/#!/kama38


2011/2/18

野中裕『カール・リヒター論』  

 野中裕『カール・リヒター論』(春秋社)読了
 
 この本が書かれ、そして出版されたことがただただ嬉しい。
 カール・リヒターについて書かれた書物が世に出る。こんなめでたいことがあるだろうか。

 バッハ演奏といえばカール・リヒター。こうした時代は確実にあったし、もっと続くはずだった。しかし惜しむらくは1981年のあまりにもあっけない逝去。54歳の若すぎる死だった。

 これでは台頭しつつあった、古楽器演奏の隆盛に抗うことはできない。
 これは私自身が個人的な趣味として、古楽器演奏を10秒と聴いていられない、ひどいアレルギー体質だから言うのではないと自信するが、クラシック音楽の聴き手が南極の氷以上のスピードで、消滅していっているのは、古楽器演奏が主流になったからに他ならない。

 たとえば初めてモーツァルトを聴こうとする人が、昨今一般的に出回っているピリオド奏法のモーツァルトを聴いて、新たなクラシック音楽ファンになれるだろうか。
 そして今や、ピリオドでないモーツァルトを探すのは簡単ではないだろう。
 
 ストローブ/ユイレの『アンナ・マグダレーナ・バッハの年代記』は、もちろん最高の映画の一本だが、あの映画のレオンハルトとアーノンクールが悪くないのは、端的に彼らの演奏があまりにもつまらないからだ。
 あのエロスを一切欠いた、無味乾燥な(しかしプロフェッショナルな)演奏が、ストローブ/ユイレの強く硬質な映画作りに、ジャストミートしている。

 それは同じくストローブ/ユイレの『雲から抵抗へ』も同様。しかも使用楽曲が、バッハの『音楽の捧げもの』のトリオ・ソナタから、もっとも記憶に残りにくい第3楽章を使っているということからも察せられる。音楽監督はこれもレオンハルト。

 ではもし、『アンナ・マグダレーナ・バッハの年代記』のバッハ役を、カール・リヒターが演じたとしたら。
 これは間違いなく、その音楽が画面に勝ってしまうとは言わないが、画よりも前に音楽が出過ぎてしまう。それはストローブ/ユイレが目指すものではないだろう。

 リヒターの音楽は、聴く者を巻きこんでくる。しかし、それをリヒターの「精神性」と言ってしまっては、「カール・リヒター論」にはならない。
 実は本書を読んでいて、著者のそのカール・リヒターへのいわゆる「全人的」な演奏への、あられもない賛美の言葉が次々と書きつけられるのに、辟易としたことは確かだった。

 けれど、読書中に「あとがき」をふと読んで、著者が執筆に難儀しているとき、担当編集者が「論調が、リヒターへのオマージュとなっても全く構いませんよ」と助言されたのだと知った。
 それならば理解できる。意識したうえでのことなら、そのつもりで読めばよいのであって、そうしてくると著者の熱っぽいリヒターへの愛着が、ちょうどリヒターによるバッハへの熱意とシンクロするようにも思われてくる。

 もちろん著者は、称賛ばかりを書き連ねることはしておらず、なぜそのような熱をリヒター演奏が帯びるのか、といったことをきちんと解き明かしてもくれる。
 たとえば『ミサ曲ロ短調』演奏の、終盤に向けての構成など、まさしくその通りのことが書かれていて、その論旨をここに要約するにはあまりに長文化するので避けるが、演奏における「精神性」というのは、イメージだけで生まれるものではないことがよくわかる。
 そしてその解釈は、実際に演奏家でもある著者ならではのものだろう。

 また、リヒターはカンタータにせよ、器楽曲にせよ、全集をのこさなかった。私はこれを、彼の早すぎる死が完成を妨げたのだとばかり思っていたが、そうではなくて、リヒターが自分の感性に従い、それにふさわしい楽曲を選びぬいていたのだということを、きちんとした分析のもとに教えられる。
 その意味でリヒターは、決してレパートリーの広い演奏家ではなかった。そのレパートリーは、実のところバッハ以外にも広がりを見せるが、その広がりの中にある狭さもまた、彼の本質が、教会のカントール(音楽監督)だということから、説明がつけられる。

 やはり痛恨なのは、どうしても私の中でカール・リヒターは古楽奏法の台頭に滅ぼされた、という思いを拭えない。
 この本の著者は、きわめて紳士なので、決して批判的な書き方はなさらないが、古楽演奏への無反省な追従には疑問を持たれているのだろうことは読みとれて、そこはありがたかった。

 「もし今日バッハが生きていれば、彼は現代の改良された、いい楽器を使いたがるにちがいないと思うのですよ。」
 という、リヒターのいささか不用意というか、凡庸な言葉を引きつつ、この言葉をこんなふうに読みかえるべきなのだ、と提案する。
 曰く、「表現内容に即応できない事態を招くくらいなら、バッハ時代の楽器にこだわる必要はない」(P.284)
 ここに収斂されていようかと思う。

 ただ、そうした著者の温かい筆致には弱点もあって、どうしても古楽に限らず、他の演奏との比較吟味が為されないので、リヒターのどのような点が、他の演奏家たちに比べて屹立するのかが、もう1つイメージしにくい点が残る。
 そのせいか、リヒターが残した2つの『マタイ受難曲』そして、ヘンデル『メサイア』の演奏を比較検証した章が、もっとも「リヒター論」というべき格調を感じたことも白状しておきたい。

 思えばリヒターがアルヒーフから、次々とバッハのカンタータの新譜を出していた時代が確かにあったのだ。私が小学生から中学生にかけてのことだが、著者と私は同年の生まれのようなので(1966年)、きっとそうした思いは共有できそうな気がする。

 60〜70年代は、ステレオ録音が進化し、古典名曲のカノン(規範)たる録音を各レーベルが、どんどん生みだしている時代だった。わけてもドイツ・グラモフォン〜アルヒーフの功績は大きい。

 バッハだけをとっても、フルニエとシェリングによる無伴奏。ヴァルヒャによるオルガン、イエペスのリュート全集などなど。
 そしてもちろん、リヒターによる2つの受難曲を含む一連の教会音楽に、ブランデングルクと管弦楽組曲、あるいはゴールドベルグ。

 思うに古楽器演奏は、そのカノン(規範)へのカウンターだった。リヒターのブランデンブルクを至上としていては、新進の演奏家のやるべきことがなくなってしまう。
 クラシック音楽の不幸は、古楽とモダンが共存の方に動かなかったことにある。この動きにあって、一番悪いのは批評家だったのだと思う。
 世の中には古楽でないと聴けないなどという人間もいるのだ。そういう人に会うたび、ときどき見かける、自分はハリウッド映画など見ないという「映画ファン」と似た、偏狭なスノビズムを感じて苛立たせられる。

 結果、クラウディオ・アバドによるブランデンブルクの最新録音のような、まるで中途半端な演奏が生まれてしまう。それが「古楽奏法もとりいれたモダン演奏」というものだ。

 アルヒーフは今や古楽器演奏専門のレーベルである。『音楽の捧げもの』のカノンとして、真っ先に推薦盤として出てくるのは、リヒターの歴史的名演ではなく、ムジカ・アンティンクワ・ケルンによる、楽器の響きも音色も欠いた、無感動な演奏だ。
 小学校4年生の私がリヒターの『音楽の捧げもの』を聴いて、完全にクラシック音楽の世界に墜ちたという体験は、あの演奏では決して訪れることはあるまい。

 リヒターを語り継ぐために、これほどありがたい書物の登場はない。愛情にあふれた本である。


2011/2/16

『RED/レッド』、『デュー・デート』、『グリーン・ホーネット』  映画

ロベルト・シュヴェンケ『RED/レッド』
 予想を超えてよかった。いや、臆せず言うと傑作。
 ある意味、スタローンの『エクスペンダブルズ』より、もっと捨て石っぽい俳優たちが、何とも余裕綽綽に演じているのが、見ていて楽しい。

 そんな中、その捨て石たちを追う、CIA捜査官を演じるカール・アーバンの、颯爽とした男ぶりに心ひかれた。
 ブルース・ウィリス以下の捨て石たちに、ことごとく出し抜かれるのだけど、ちっともマヌケじゃない。
 この人はこの人で、最高の腕利き捜査官だという威厳がばっちり出ているから、それでも先を越されてしまうが故に、ウィリスたちの凄腕ぶりがひときわ際立つ。

 殺しのライセンスを持つ元英国諜報部員を演じるヘレン・ミレンもよかった。何がよかったといって、銃の撃ち方。
 上半身から上腕にかけて、まったくブレない上に、銃弾発射のときにも決してまばたき一つしない。いかにもプロフェッショナルといった風味満点。
 まばたきなしに銃を撃てなかった、『エピソード1』の頃のナタリー・ポートマンに見せてあげたい。

 個人的にたいへんうれしかったのは、メアリー=ルイーズ・パーカーの登場。
 大大大好きなのだが、寄る歳なみには何とも勝てず、いささか残念な容姿で登場するのだけど、見ているうちに元美人にも杵柄というのはあるもので、表情とか仕草の逐一が麗しく見えてしかたがないというのは、個人的趣味の為せるわざだろうか。
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写真:メアリー=ルイーズ・パーカー。何というかこう…好き好き大好き超愛してる。

 他にも何とアーネスト・ボーグナインの登場とか、リチャード・ドレイファスの相変わらずの小憎らしさとか、次々と出るキャストの見事さと、彼らのプロフェッショナルな演技が、映画としての出来のよさを、幾重にも増幅している。

 なお、ウィリスの策略によって、パトカーに包囲されてしまう、痛恨のカール・アーバンを360度延々とぐるぐる回るカメラとか、いやカッコいいなあと思わされるカメラは、フロリアン・バルハウス。
 その名字からわかる通り、ミヒャエル・バルハウスの息子なんだそうだ。さすがだ。

トッド・フィリップス『デュー・デート〜出産まであと5日!史上最悪のアメリカ横断〜』
 5日後に出産を控えている、ロバート・ダウニーJrの奥さんを演じるのが、ミシェル・モナハン。
 何より驚いたのが、あのきれいなミシェル・モナハンが、メイクとかそういうのでなく、いかにも素で妊娠しているような、リアルな妊婦っぷりで登場するのだ。
 顔はむくんでいるし、顔はともかく指先とかが、まさしく妊娠中の肉のつき方だ。
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写真:『デュー・デート』より。ミシェル・モナハン。いやもちろん、ものすごくかわいいんだけどね。画像リンク元

 これはもしや、本当に妊娠中に撮影したのだろうか? と思って調べてみたら、それはなくて、2008年頃に妊娠が報じられている。
 『デュー・デート』は2010年度作品だから、撮影時期を考えるならば、ミシェル・モナハンのほぼ産休時期明けの仕事ということか。
 下世話な言い方で恐縮だが、産後のダイエットに大失敗したか、撮影のためにわざとしなかったか。もしそうなら、非常に肝の据わった映画ですごいと思う。

 ミシェル・ゴンドリー『グリーン・ホーネット』
 ゴンドリー監督がどうというより、この映画がひどいな、不誠実だなと思うのは、ひとえに何もきちんと見せようとしていないことだ。
 私自身はもうよほどでないと、逐一3D料金は払えないと見切ったので、2Dで見たが、この作品に2千円もの高額料金を払わせる劇場もあるのだ。
 ジェームズ・キャメロンが超人的な努力で押し広げた“新たな波”を、ハリウッドは寄ってたかって、つぶしにかかっているかのようだ。
 
 この映画にはアクションは皆無で、逐一動きを止めては、CGで描いた静止画の連続を見せられるにすぎない。
 話の展開もいきあたりばったりで、その場限りの一発ギャグの小ネタでかわすだけなので、主人公コンビがいかにしてスーパー・ヒーローになったかの、心理的・資金的・技術的背景はスルーされる。
 回想シーンを見せてほしいわけではないが、「カトー、お前強いな!」「子どものときは危険なところに住んでたからね」では、さすがにマズかろう。

 唯一の見所たるべきキャメロン・ディアスも、露出の多い貴重な自宅シーンで、カメラは彼女(の下半身)にカメラを向けることを怠っているので、せっかくの彼女のおみ脚(生足)を拝むことかなわない。
 ほとんど物語上の必然性がないのに、無理にそれを必然と化して、彼女のビキニをきっちり見せた『ナイト&デイ』の素晴らしさが、今さらながらしのばれる。

 結果的に映画がつまらなくても、金を返せとは思わないが、誠意を持って作っていると思えない作品には腹が立つ。 

2011/2/14

『幸せの始まりは』  映画

 ジェームズ・L・ブルックス『幸せの始まりは』
 最高。これだからアメリカ映画は素晴らしい。
 鈍そうな少年が、何度バットを振ってもボールに当たらない。それを後ろでかわいい金髪をいじりながら見ていた少女が交代すると、バット一振り! ジャストミートしたボールが彼方に飛んでいき、一気にその少女が現在のリース・ウィザースプーンに。
 この冒頭シーンの快さだけで、映画にハートを奪われる。

 この映画は失意を描く。
 リース・ウィザースプーン演じるヒロインは、プロ(?)ソフトボール・チームの主力選手としてがんばってきたが、31歳という盛りを過ぎた年齢から、チームメンバーをはずされてしまう。

 いや、オスカー女優というのは、これほどのことができるかと、毎度驚かされる。
 もはや自分が一線ではないことを知った彼女が、起き抜けの姿で洗面台に向かい、歯磨きをするのだが、カメラはその顔をじっとアップにして、見つめている。
 しゃかしゃか歯磨きをしているうちに、だんだん感情が高まってきて、両目から涙がぽろりとこぼれ落ち、やがてむせび泣いてしまうという、この息の長い演技に胸打たれない人はいないと思う。
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写真:『幸せの始まりは』より。リース・ウィザースプーン。
きっと山田宏一さんなら、「ちんくしゃな顔」と表現なさる典型の容姿だと思う。確かに現在アメリカ映画最高のコメディエンヌ。


 そんな今の自分にとって必要なのは、むしろ「空気を読めない鈍感男」ということで、オーウェン・ウィルソン演じる、悪気はないがデリカシーゼロの凄腕野球選手に急接近し、同棲まで始める。
 そこに三角関係を形作るもう1人、これがもう一人の失意の人になるが、突然に証券偽造かなんかで当局に告発されることになった、ポール・ラッド。
 体育会系の2人に対して、こちらは文科系であることも手伝い、彼もアスリート気質でさっぱりしたリース・ウィザースプーンの性格に、参ってしまう。
 この映画の小気味よさのひとつは、彼女の立ち直りの早さで、こんな女性とはぜひ付き合ってみたい、友だちになってみたい、と思わずにいられないことなのだ。

 この三角関係の行方で映画は物語をひっぱるが、男女は必ずしも互いの失意が理解できるが故の癒しとしてだけ、付き合うわけではない。
 だから心情的にはリース・ウィザースプーンとポール・ラッドが結ばれてほしいと願いつつ、そんな悩みとは無縁のポジティブな包容力(鈍感さと紙一重の)を持つ、オーウェン・ウィルソンと結ばれた方が幸せではないか、という気にもさせられ、そのあたりの手綱がすごく見事で、これぞまさにアメリカン・ラブコメの真髄。
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写真:『幸せの始まりは』より。リース・ウィザースプーン、オーウェン・ウィルソン、ポール・ラッド。
この映画は三角関係をいかに解決するかに関する最良の指南書。画像は2枚ともallcinema.comより。


 ジェームズ・L・ブルックスは、人と人との正しいコミュニケーションを描く、とても良心的な脚本家・監督である。
 この映画はリース・ウィザースプーンの人柄がにじみ出るような、魅力あふれる演技に尽きるが、それを受けるポール・ラッドの演技が素晴らしい。
 彼女の振幅豊かな演技を受け止めて、さらに細かな表情付けをしつつ、騒ぎすぎずにならない、とても人当たりのいい演技を見せてくれる。
 トム・クルーズとジョン・キューザックを混ぜたような、品のいいハンサムぶりも、この清潔な映画にふさわしい。
 で、彼の父親役を演じるジャック・ニコルソンも、持ち前の毒気をほどよく抜いて、ブルックス作品の常連らしく、もののわかった存在感を示す。
 ハンス・ジマーの音楽がまたいい。

 ジェームズ・L・ブルックス。寡作なのが残念。もうあと3倍くらいのペースで作品を発表してほしいものだ。資質はハーバート・ロスに似て、腕前はそれ以上。


2011/2/12

『ウォール・ストリート』  映画

 オリバー・ストーン『ウォール・ストリート』
 ブラボーの一言に尽きる! 20数年前に第一作『ウォール街』(1987)を始めてみたときの、熱い高揚が完全に蘇った。
 そしてそれは、近年もう1つ煮えきらぬ感のあった、オリバー・ストーンの完全復活でもある。

 1987年の『ウォール街』と、2010年の『ウォール・ストリート』との間には、変わったところもたくさんあるが、変わらぬところもたくさんある。
 活気に沸くトレーディング・ルームを、同僚たちと次々挨拶を交わしながら、自分のデスクにつくまでの、ほどほどの長回し。
 かつてそのカメラが追いかけた対象は、チャーリー・シーンだったが、今はシャイア・ラブーフに変わっている。
 最初のこのシーンで、この20年間の変化と、変わらぬ部分の両方が凝縮されている。変わらぬ部分は、“金”に対する飽くなき“欲望”である。
 
 そして復活したマイケル・ダグラス演じるゴードン・ゲッコーは、前作でのオスカー受賞に大いに寄与したはずの、圧倒的名演説での有名な決めゼリフ「欲望は善だ」をさらに推進し、今回は「今や欲望は合法だ」と喝破する。
 今回も、前作同様にこのセリフを含むマイケル・ダグラスの長い長い大演説。ギラつくオーラをむき出しにして、当時にまったく引けをとらぬ名演技を見せる。ものすごい。
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写真:『ウォール街』(1987)より。マイケル・ダグラス。“The Greed Is Good.”画像リンク元

 私は不覚にもこのシーンに涙をおさえられなかったが、今や「合法」になった「欲望」は、金融崩壊にあたって、金融エグゼクティブと政府筋の担当官が、対策検討にあたる。その場で、企業の生殺が決定されるのだが、それは国民の生殺与奪に直結する。

 そして、そのどことも知れぬ、薄暗く怪しい会議室とその議事の様子は、オリバー・ストーンが『ブッシュ』(2008)で描いた、ブッシュ以下閣僚たちの軍事会議の場面とまったく同じではないか。
 
 政府が銀行に資金供与を行わなければシステムが崩壊する。その会議の場にあって、ある政府筋役人が叫ぶ。
「いわば銀行の国有化か。それは社会主義ではないか! 私はそのような事態にならぬよう、生涯賭けて戦ってきたというのに!」

 そのような声は届かない。それはまるで『ブッシュ』(2008)の中で、慎重論を唱えるパウエルの発言が、うやむやにされることともまた重複する。
 その会議の現場に、『ブッシュ』でブッシュ大統領その人を演じたジョシュ・ブローリン(今回の巨悪はこの男が演じる)が出席していることも、そのイメージを増幅するだろう。

 私自身は、ハンニバル・レクターなど軽く抑えて、ゴードン・ゲッコーという人物を、映画史上最高の悪役と信じているが、今や黒塗りリムジンでなく、地下鉄で移動するこの男の変化した点は、移動手段だけかどうか。
 彼の言葉は20年前と変わらず、饒舌ではあるがセンテンスは短く、多くが決めゼリフだ。そして答えられぬ質問はないが、答えるときは相手からも見返りのあるときに限られる。

 実はそれと同じようなしゃべり方をしていたのは、『ウォール街』ではマーチン・シーンである。前作で悪徳を代表したのがマイケル・ダグラスなら、良識を代表したのがマーチン・シーンで、彼の息子(実生活でも作品中でも)を演じるチャーリー・シーンはその間で揺れるのだった。
 しかし、今作『ウォール・ストリート』のシャイア・ラブーフは、マイケル・ダグラスとマーチン・シーンの両方の資質を、ひとつの体に持っていて、場面場面でそのどちらかが顔をのぞかせる。
 そんな自分を、シャイア・ラブーフは自ら「(理想主義でも拝金主義でもなく)現実主義者だ」と宣言する。
 
 『ウォール街』は、チャーリー・シーンが二者択一、どちらをとるかのドラマであったが、『ウォール・ストリート』のシャイア・ラブーフはその葛藤からは開放されている。
 なぜならその両面を一身に持つからで、そんな人物の登場がこの20年間の最大の変化だとするならば、ゴードン・ゲッコーの変化は彼への対応方法である。
 彼のことはチャーリー・シーンと違って、手足のようには使えない。彼が自分の娘(キャリー・マリガン)のフィアンセであるかどうかは、ゲッコーにとって何ら障害にも弱みにもならないが、少なくとも悪徳への誘惑がきかない。だから操る。
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写真:『ウォール・ストリート』(2010)より。マイケル・ダグラス。“I once said "the greed is good",now it seems it is legal." (注:このセリフが語られたのは写真の場面とは異なります) 画像リンク元


 『ウォール街』の時代のポイントは、内部情報をいかに取得するか、つまり“インサイダー取引”だったから、ゲッコーはチャーリー・シーン演じる、バド・フォックスのようなぼんくらな若者をかどわかして使いまわせばいい。
 しかし、ネットの発達した『ウォール・ストリート』の時代の株式操作の決め手は“風評”だ。
 だから、甘い蜜に惑わされぬ上に、抜群に頭の切れるシャイア・ラブーフは、チャーリー・シーンのようには使いまわせぬ代わりに操るといい。逆にそうした人物を生み出す土壌もまた現代である。
 この点を見逃さないところが、ゲッコーのしたたかさであると同時に、それを見事に物語の中に生かした、オリバー・ストーン以下、シナリオチームの優れた時代認識である。

 それにしても、被写体にぐいぐい喰らいつくような接写で、その人物の内面をえぐりだすようなカメラワークは、まったく健在で、私が前作と変わらぬ高揚感を味わえたのは、この点が不動だったからだ。

 なお、そうしたことと同時に、シャイア・ラブーフとキャリー・マリガンのロマンスが、2人の揺れる心情を実に細やかにすくいあげて、これがまた素晴らしかったことを付け加えておきたい。

 最後に、ネタバレにならぬ程度に、少し明かしておくと、前作同様にオリバー・ストーン監督自身も、トレーダーとして出演して相変わらず投資をしているし、前作でチャーリー・シーンに高級マンションを売りつけたシルヴィア・マイルズは、今回もシャイア・ラブーフに物件を売りつけている。

 それに、シャイア・ラブーフの携帯の着信音が『続・夕陽のガンマン』なのだが、金融業界の黒幕として、イーライ・ウォラックが登場するのに驚かされる。実に95歳。
 たぶん『続・夕陽のガンマン』にかこつけてだろう、明かすとネタバレになるので留めるが、絶妙の演技をやってみせる。
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写真:『ウォール・ストリート』より。左から、The Good,The Bad,and The Ugly。画像リンク元 映画.com

 なお、前作でゴードン・ゲッコーの子どもは男の子だったはずなのに、なぜ今作では“娘”としてキャリー・マリガンが出ているのだろうか? と内心いぶかしんでいたのだが、そこはきちんと劇中で一連のドラマとして説明される。
 感動させられるのが、前作の劇中に登場し、エンディングで流れたトーキング・ヘッズの“This Must Be The Place”が、今回のエンディングでもまた聴く事ができる。
 
 そして今回の副題となった、“Money Never Sleeps”。これはもちろん、前作でチャーリー・シーンが早朝叩き起こされたときに、電話口で聞くことになるゴードン・ゲッコーの名セリフである。

 こうした前作とのつながりを書き始めるとキリがない。もちろん前作との関連性を知らなくとも、映画のドラマそれ自体として大変な見応えがある。
 オリバー・ストーンの剛腕はまったく衰えていない。

2011/2/11

長木誠司『戦後の音楽』  

長木誠司『戦後の音楽 芸術音楽のポリティクスとポイエティクス』(作品社)読了

 ウィーン国立歌劇場の音楽監督になった頃だったと記憶するが、小澤征爾が「東洋人がどれだけ西洋の音楽を理解できるか挑戦です」という意味のことを述べたかと思う。

 注釈を入れて、500ページを超える本書は、戦後の日本がその西洋芸術音楽を、どのように受容してきたかを、テーマごとに語る。
 だが著者が繰り返し断っている通り、これは「通史」ではない。通史を補完するための、トピックをまとめたもの、といっていいようだ。
 だが、ここには先に述べた小澤征爾の言葉を、いかに先人達が取り組んできたかの、その活動史とでも呼べそうな、資料と考察がたっぷりと詰め込まれている。

 考えてみたら、戦後日本の作曲家たちの能力の高さは、ほとんど世界に例をみないのではないか。ここはヨーロッパではないという、圧倒的なハンディキャップがありながら、言語の壁も譜面入手の困難さの障壁も乗り越えて、12音技法からセリーもカバーしてしまう。
 そのようなことが可能だった、たとえばアジアにおいて、他にそんな国があるだろうか。

 そこで私が本書から読みとってしまわざるを得なかったのは、決定的な“批評”の不在であるということだった。
 本書では、ほぼそのクライマックスといっていい、実に120ページ近くを割いた、第四章「戦後のオペラ」に次ぐ規模となった、第三章「日本の十二音技法」において。

 著者は、シェーンベルクが創始した12音技法は、「単なる作曲上の技術に留まらないうひとつの思考方法、突き詰めて言えば価値観の表明でもある」(P.168)と書く。
 つまりそれは、危機の時代を迎えるにあたっての、「政治的・社会的意義」とも不即不離のものだった。
 ところが、日本では12音技法を、単に「技術」の問題として受け入れていた、というところに、著者の問題意識がある。
 これはやはり、批評が機能していないということだ。「思想性をはっきりと有意味化できぬまま、上滑りしていく技術としての十二音技法」として、進んだのは、やはり批評家にその責めがある。

 ではオペラはというとどうなのか。「戦後のオペラ」について思考をうながすこの長大なチャプターにおいて、言葉を旋律に乗せるためにいかに取り組んできたかなどを、語ると同時に「オペラトゥルギー」というものに対する意識の不在を指摘する。

 オペラの問題点・問題意識が整理されぬままに、創作に取り組んできたということ。ここでもやはり、批評の不在が顕現する。
 だから著者は「手つかずの分野は日本の戦後音楽史の中にあまたある」と、繰り返し述べることになる。

 そこで、私自身の専門の方に目を向けるならば、第五章の「戦後映画の音楽」である。映画音楽における批評の不在は、別段日本に限ったことではない。
 現在日本では、菊池成孔さんなど、非常に際立った耳を持った人物が、音楽面からのアプローチを試み始めているが、ごく例外的な動きにすぎない。
 たとえば、バーナード・ハーマンの評伝の類は、(英語でも)私の知る限り1冊もない。
 ニーノ・ロータとフェリーニの映像との本格的な検討など、誰かが本格的に取り組んでいてもよさそうなのだが、そうした話は寡聞にして知らない。

 日本の戦後映画の音楽はしかし、驚くべき水準と、バラエティを達成していると思う。
 たとえば、黛敏郎という人物。著者は彼を「画面に応じていかようにも対処できる」と表現するが、実際、シンフォニックなハリウッド調から、ジャズやマンボもこなし、電子音楽から十二音までも作曲可能な人物など、世界を見回してもちょっと見当たらない。

 ここには、「技法」というものを、ヨーロッパのように、時間をかけて「発見」したのでなく、「学習」してきた戦後日本の作曲家の特権でもあったはずで、「映画の音楽が図らずも日本の洋楽受容の縮図」という側面も見うけられる、ということになる。

 他にこの章では、音と映像の対位法について、黒澤明の映画を中心に、きわめて精緻な分析を行って、これだけで大部の書物に成り得るポテンシャルを含んでいる。
 残念なのは、吉田喜重監督の音楽について、「映像によってしか表象不可能なものと、音によってしか表象できないものとの間の連関とせめぎ合いのバランス」に「意識的に興じていることは、作品を観る=聴く限り確か」とまで喝破しつつ、その分析に十分なページが割かれていないことだ。
 (それでもこの章は100ページにせまるボリュームを誇る!)

 だがこれを私は、本書のページ数の限界における残念な宿題、とは思わないでおきたい。
 私は、ポレポレ東中野での『樹氷のよろめき』の上映における対談において、その音楽について青山真治監督が「自分はここにこんな音楽をつけたくないんだ! と画面から聴こえてくるような…」とコメントを行い、吉田監督が「商業的な映画においてはやむを得ないことなのです」という意味のやりとりがあったことを記憶している。

 いかにも音楽に対して冷淡なこの対話はもちろん、言葉の綾を多く含むと思っていて、決して言葉通りにとるべきでないと思っているし、本書の記述もそれを裏付ける。
 吉田喜重監督の作品研究に対して、まだまだ語られるべき重要な糊しろが、ここに示されている。

 そして、最終章である「戦後の音楽批評」。印象批評と技術批評のはざまで揺れる、戦後の音楽批評の道順を示しこそすれ、言わんとすることはひとつであって、やはりその質と量の不十分さである。
 むしろ職業的批評家よりも、「作曲家としての自分の問題として、対象との出逢いを語ることができた」作曲家自身に、批評ができてしまっていたということ。

 本書全体を通して読むと、著者自身が本書執筆にあたって、いかに先行研究が少ないかを嘆く以前に、創作の背景として批評がその意味を後付け、西洋の成果を歴史的に正しく位置づける行為ができていないことに、最大の問題があることが見えてくる。
 小澤征爾が実演を通して、文字通り命をかけて試みようとしている、西洋音楽を東洋人が理解できるのか、という営みを、批評の言葉として落とし込むという行為が、果たして批評の側に今なされているか。
 能力にさえ恵まれているのなら、是非それをやってみたい。

 本書の感想の結論としては、いかにも凡庸かもしれないが、芸術作品の創作環境と、作品の受容環境をさらに豊かなものにするため、批評の力がもっともっと必要なのだ。
 そんな思いに胸はやらせられる、熱い読書体験を保証する書物だった。

 ここでは触れ損ねたが、第一章「GHQの音楽政策」は、続く章で語られる音楽の営みが、どのような特殊背景があるかのヒントを示し、第二章「合唱とうたごえ」は、“なぜ”日本が西洋音楽を受容する必要があったのか、むしろこちらに本質があったのではないか、という思いに駆られる。
 いずれも読者に強い思考をせまる研究だと思う。




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