2011/3/30

『トゥルー・グリット』  映画

 ジョエル・コーエン/イーサン・コーエン『トゥルー・グリット』
 西部劇において、ハワード・ホークス『赤い河』(1948)のジョアン・ドルーほど、私にとって魅力的な存在は他にない。
 彼女は対立するジョン・ウェインとモンゴメリー・クリフトの諍いを、たった一つの冴えたやり方で止めて見せた。そして映画を完璧な調和に導くのである。

 ルーティンとしての西部劇を見る機会を失った、私たちの世代としては、銃声というのは相手を撃つときの音、という以外のイメージをなかなか持ちにくい。実は銃声というのは、とてもたくさんの使い道があるのだ。
 たとえば『赤い河』のジョアン・ドルーが、一発の発砲だけで2人の男たちの殴り合いを止めたように。西部劇における女と銃声の使い方。その美しさにおいて、個人的に『赤い河』を至高と信じる理由である。
クリックすると元のサイズで表示します
写真:『赤い河』より。ジョアン・ドルー。なんつーかこう「あんたたちいい加減におし!」みたいな? 画像リンク元

 『トゥルー・グリット』でも、実に多彩に銃声が活用される。攻撃はもちろん、動物を追い払う。威嚇する。合図をおくる。腕前を見せる。断末魔から開放する…。この映画は銃が完全に体の一部であり、どのように使うかを心得抜いた男たちの物語でもある。
 男たちはジェフ・ブリッジスとマット・デイモン。どちらも西部劇の顔をしている。
 西部劇というのは、距離をいかに意識させるかのジャンルでもある。

 その距離というものについて、この映画の2人の男たちは、非常に遠い距離の相手を撃つべく、それぞれ1場面ずつ発砲する機会がある。
 撃つ。直ちに銃声。ここでとても長い間があって…被弾。
 撃った後、相手までの距離はすごく長いので、銃弾が届くまで、何事も起こらぬ息のつまるような間があく。これが激しいサスペンス、そして魂を揺さぶるような感動を生み出す。

 離れた敵を撃つ。銃というのは、距離を縮めるための道具だ。だからこの映画は、常に距離というものを意識させられる。父の仇を追い続ける14歳のヒロイン、ヘイリー・スタインフェルドは、長い距離を移動させられるが、ロジャー・ディーキンスのカメラは、あまりにも横に長いアメリカ大陸の風景を、スクリーンいっぱいに描き出す。

 距離を縮めるための銃とヒロインといえば、『赤い河』に話を戻すと、ジョアン・ドル―は銃によって、2人の男どもの感情の乖離を一挙に近づけてしまった。
 その点、『トゥルー・グリット』のヘイリー・スタインフェルドはどうなのか。
 2人の男たちに比べると、この映画で彼女が発砲する機会はごくわずかだ。が、彼女の撃った最初の一発にだけ、その銃声に複数の役割が与えられている。
 それは敵を撃つ。人を呼ぶ。そして、2人の男をもう一度引き合わせる、ということだ。
クリックすると元のサイズで表示します
写真:『トゥルー・グリット』より。ヘイリー・スタインフェルド。なんつーかこう、わたし的には結婚するならこういう子。 画像allcinema.comより

 これ以上書くと、どうしても話を明かすことになってしまう。だからここで控えるが、私が西部劇の女性ナンバー1と信じる、『赤い河』のジョアン・ドルーの銃声は、たった1つの目的しか担っていなかった。
 けれど、ヘイリー・スタインフェルドの銃声は、いくつもの目的を成し遂げる。これが『トゥルー・グリット』が『赤い河』を超えた理由でなくてなんだろう。
 そしてもちろん、西部劇史上最高のヒロイン誕生である。

 そして最後にもう1つ。私は距離を縮めるための銃、という書き方をしたが、西部劇のいま1つの重要アイテムである、馬もまたそのための道具である。
 川をはさんだ向こうとこちら。この距離を縮めるために、少女は馬で川を渡る。

 瀕死の少女を抱えた1人の男。彼女を救おうと、男はあまりにも長い距離を、馬でひた走る。そして、この映画が胸震わせるのは、最後の最後の段階でその距離をゼロにするものは、銃でも馬でもなく、人間の足であったという結論であった。

 私は『トゥルー・グリット』の一瞬、一瞬のすべてを忘れることができない。今みるべき映画は、これ以外に考えられないし、考える必要もない。

2011/3/28

『お家をさがそう』  映画

 サム・メンデス『お家をさがそう』
 前作『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』(2008)は、その極みだったと思うが、サム・メンデスの基本モチーフは一貫して、夫婦間に入った“ひび”、または家族関係に刻み込まれた“亀裂”といったもののようだ。
 
 そう考えると、映画のどこかに必ず、隠そうにも隠せない家族間の“傷”を、描き込まずにいられぬスピルバーグ率いる、ドリームワークス作品『アメリカン・ビューティ』(1999)でデビューし、いきなりオスカーを独占した経緯が、ひどくうなずける。
 その『アメリカン・ビューティ』こそ、一人の中年男性の煩悩から、ゆっくり裂け目が広がっていくように、家族が崩れていく物語だった。

 『ロード・トゥ・パーディション』(2002)では、父の職業から来る宿命的家族崩壊と、擬似家族というものの限界性を突き詰め、現状、サム・メンデスの至高と思われる『レボリューショナリー・ロード』で、家族(夫婦)を描き尽くした。
 一見、そうしたテーマと無縁そうな『ジャーヘッド』(2005)でも、イラク戦争最前線の駐屯地の兵士に、妻から突然ビデオテープが送られてきて、それが最愛の妻の不倫セックスの映像だった(夫の浮気へのここ一番の、妻からの復讐)という、ブラックなエピソードがあったことを思い出してもいい。

 『お家をさがそう』は、そんなサム・メンデスの履歴を、おさらいするかのような、とても小さな作品だった。
 30半ばにもなって、生活の基盤が築けず悩む夫とその妻。思いがけず妻が妊娠したことで、いよいよ生活を変えることを決意する。
 それには住み慣れてはいるが、今住むこの地を引っ越さなければならないと、理想の土地を求めて、アリゾナ、マディソン、モントリオールなど、少ない肉親や友人を頼って各地を訪れる。いささか変則的なロード・ムービーだ。

 主人公夫婦が訪れる町で、たずねる夫婦、または家族は、それぞれに問題を抱えている。ある土地ではうんざりし、ある土地では怒り、ある土地では幻滅し、ある土地では哀しみに包まれる。それらの描き分けは、実に多彩かつ柔軟だ。
 しかも、それぞれの土地の風物や、そこに住む人々の空気感を、インサートショットなんかでなく、主人公夫婦と彼が関わる人たちが、語りながら散策する背景の中に描きこんでいくのがいい。これこそ複合的な視線というやつだ。

 添い遂げるつもりではあるが、妻は決して「結婚」という制度に頼ろうとしない。だから結婚することは拒否する。一方、夫は「結婚」というよりどころがほしい。このギャップは、この夫婦にあって来るべき将来に広がりかねぬ、“亀裂”の1つだが、そこをどのように克服するか、本作ではきわめて誠実な会話が用意されている。
クリックすると元のサイズで表示します
写真:『お家をさがそう』より、ジョン・クラシンスキーとマーヤ・ルドルフ。
サム・メンデスが描いたもう1つの夫婦の類型。 画像allcinema.comより


 この夫婦がついに至る境地としての風景は、サム・メンデスがこれまで描いた、もっとも美しい画面のひとつと信じる。
 『お家をさがそう』は、『ロード・トゥ・パーディション』や『レボリューショナリー・ロード』のような、重量感はない。けれど、目指すテーマがぐっと凝縮されていて、きっとサム・メンデスという作家に興味を覚えずにいられぬ作品だと思う。

 蛇足を書いておく。『お家をさがそう』は一見、とても明るい。
 サム・メンデスとケイト・ウィンスレットの離婚が伝えられたのは、だいたい2010年の初め頃だ。本作の発表直後のことである。
 映画作家の私生活を、不用意に作品と関連付けるのは控えねばだが、そんな監督自身の環境変化が作品にうっすらと影響を与えてはいまいか。
 ちょうどモーツァルトの音楽が、作曲家の不幸が深まるほどに、明るい輝きを帯びていくように。
 

2011/3/26

『神々と男たち』  映画

 グザヴィエ・ボーヴォワ『神々と男たち』
 舞台は1996年アルジェリア。フランス人修道士たちが、宗教を異にしていても、互いを尊重し合い、医療にも携わりつつ修道院生活を送っている。
 そこに武装イスラム集団による蜂起が、その平和を壊していく。

 修道院生活というのは、つましく静かだ。だから、ここでたてられる、一番大きな音とは、せいぜい讃美歌の斉唱におけるメゾフォルテ(やや強く)くらいのものだ。
 しかし映画の中で、賛美歌斉唱より大きな音というのが、たった1つあって、それが過激派たちの乗るジープのエンジン音だ。あるいは、彼らが民衆を恫喝・殺害する大声。

 まるでそうした音を耳に入れまいとするように、修道士たちの賛美歌斉唱が、ちょうどロンドのように、映画に挿入される。
 そして、ジープの音よりももっともっと大きな音をたてるのが、ヘリのプロペラ音だ。映画はここで初めて、暴力の音と賛美歌の声を同時に鳴らす。どちらの音がより大きいのか、それはよくわからない。私の耳には、ヘリの音の大きさが勝ったように感じたが。

 修道士たちは、アルジェリアの地を離れる決断を迫られる。安全を保障できないからと、アルジェ政府筋からもそれを促される。修道士たちの間でも、意見は割れる。
 「死ぬために修道士になったのだはない」と言う者。「自分の使命はここにある」と言う者。結論は出てこない。
クリックすると元のサイズで表示します
写真:『神々と男たち』より。去るか残るか。背景に世界地図というのは注目しておきたい。画像:allcinema.comより

 「私には結論が出せない」と述べて、森や湖水を散策するのが、修道士のリーダー格である、ランベール・ウィルソンだ。
 彼が見つめる湖の水面がすごい。さざ波ひとつたっていない。これだけ広大な湖で、しかしそよとも騒がぬ湖水というのは、ちょっと見た記憶がない。
 重要な決断を前に、完全に澄明な心境を表現したこのショットはすごい。そこにそっとクローズアップにされる、ランベール・ウィルソンの滋味ある顔。

 その日の夜…だろうか? 修道士たちは残るか逃げるかの、決断の採決がとられる。
 ここでだけ映画は、いわゆる映画的な詐術を編集によって示す。「では残る者。挙手を。」と述べるとき、リアルな時間の中でなら全員一斉にそれを行うだろう。
 けれど映画は、修道士たち全員のアップのショットを次々つなげ、ひとりひとりの決断を順に見せていく。

 現実的に考えるなら、これはおかしい。順番に意思表示をするよう言われたのではないから、手を挙げるか下げるかするのは、全員同時のはずなのだ。
 セミドキュメンタリー的なところも多いこの映画の中で(特に前半)、ここで映画的“盛り上げ”を演出するボーヴォワ監督の大胆さに驚く。
 いや、あるいは、どうしてもここに(「通俗的」とあえて言うが)、フィクショナルな演出をせずにいられなかった、監督の逃げなのだろうか?

 そうでないことは、続く“最後の晩餐”の場面で証明される。賛美歌の他にまったく音楽を使わなかったこの映画で、初めて高らかに音楽が鳴り響くからだ。
 ここで大きな感情的高揚をもってこなければ、20世紀末の人類の悲惨を描くには、不足がある。それが明確になる、一度見たら忘れられぬ、素晴らしいシーンだ。

 “情景”という副題を持つそのメロディは、譜面を見るならば、最後から19小節目において、フォルテシシモ(フォルテシモ(より大きく)よりも大きく)が、作曲家によって指示されている。
 つまり、修道士の1人がラジカセのスイッチをそっと入れることで流れた、この音楽の頂点は、自分達の賛美歌よりも、過激派グループのジープよりも、そしてさらにはヘリのプロペラ音よりも大きいということなのだ。
 ここにおいて、修道士たちが静かに流す涙とともに、それを見ている私たちもそっと涙を流すだろう。

 静かだが、とても、大きな感銘を受けずにいられぬ傑作。 

2011/3/24

青山真治『ストレンジ・フェイス』  

 青山真治『ストレンジ・フェイス』(朝日新聞社)読了。
 近年、『エンターテインメント!』(朝日新聞社)、『地球の上でビザもなく』(角川書店)など、読み応えたっぷりとはいえ、いま1つずしりとした重量感(たとえば『死の谷'95』(講談社)のような)とは異なる作品が続いた思いがあり、いささか飢餓感があったが、本作は質・量・テーマいずれも大きな作品で、読書を堪能する。

 「第一章 島」とあるものの、舞台となる島が、つまりどこのことなのか、微かなとまどいを覚えつつ読み進めていくと、不意に「やがて島はそれを国から略奪したアメリカ合衆国から勝手に国に変換され・・・」(P.17)の一文に出くわして、瞬時に焦点を結ぶ。
 この小説は、その「島」を舞台にした、どろどろとした土着の魂と、それとどうにも相交わらぬ外部との、中上健次をも想起させる衝突の物語である。

 「島」から決して出ないことを信条としている主人公、英理子。その「島」のリゾート用高層ビルを建てた本土からの社長と、建設を機に「島」への永住を決めた設計士。その設計しは、「島」に来た台風によって妻を失っている。
 そして、高層ビル建築に反対する「島」の狂信的集団たち。それぞれの運命がスピーディに交わっていく。

 近作『帰り道が消えた』(講談社)でもそうだったが、作者が描く登場人物にとって、「生まれた場所」へのほとんど霊的でさえある、執着の強さはいったい何なのか。
 作者にとって人間の存在証明とは、彼らが生まれた土地と、決して分かつことができないようなのだ。

 青山真治の小説世界では、ときどき驚くほど、ぎらりとしたえげつなさで、登場人物の内面の本性がむきだしになることがある。
 一瞬、顔を見せるこの本質の部分が堆積して、ある場合はアルコール、ある場合は強いストレスによって、とめどない性の奔流や暴力の発現、といった形であふれ出すことがあり、それが出自というものに結びついたとき、人間のどうしようもない限界性が顔を出す。
 それを人間の持つ絶対的な「弱さ」、「脆さ」という言葉で片付けられるかどうか、私はまだそれを表現する適切なフレーズを見出しかねている。

 けれど、そうした著者のこだわりが、この作品では特に明確に露出しているように思う。
 登場人物たちが、それぞれの本質を露にするとき、あとはどこまでも物語にドライブがかかっていく。終盤の狂気の密室の凄絶な描写を読むにつれ(村上龍的ではある)、著者の小説世界はまったく新しいステージに入ったように思った。




2011/3/21

『ランナウェイズ』  映画

 フローリア・シジスモンディ『ランナウェイズ』
 70年代に、花火のように咲いて散った女性ロックバンド、ランナウェイズの結成から解散までを描く。
 ランナウェイズの音楽に対して、どれだけ時代的共感を持っているかで評価は分かれるかもだが、それはなくてもクリステン・スチュワートとダコタ・ファニングの、演技対決という点でも見応えありと言えると思う。

 ランナウェイズの音楽的ブレインである、ジョーン・ジェット(クリステン・スチュワート)と、ヴィジュアル的シンボルである、シェリー(チェリー)・カーリー(ダコタ・ファニング)の2人に、ドラマは集約される。
 これは驚いたことに、シェリー・カーリーによる回顧録をベースに、ジョーン・ジェットが製作総指揮に名を連ねての映画化なのだ。
 そのせいか、ランナウェイズの他のメンバーは、ほとんどまったく描かれない。彼らだって、そこそこ個性的な面々なので、それを残念と感じる向きもあるかもしれない。

 オープニングがいい。アスファルトの地面にぽたりと垂れた、ひとしずくの血。
 ん? と思うと、股間から血を流して道路にたたずむ、双子の姉妹。遠からず、ランナウェイズのボーカリストとして名を成す、シェリーのそれが初潮だった。
 何とロックな映画の始まりであることか。

 以後、胡散臭い空気を発散させつつも、マーケティング手腕は決して悪くない、キム・フォーリー(マイケル・シャノン)のプロデュースの元、ランナウェイズのコンセプトが作られていき、デビューへのお膳立てが整えられていく。
(マイケル・シャノンは『レボリューショナリー・ロード』でディカプリオ/ウィンスレット夫妻の隣に住む、キャシー・ベイツの精神を患った息子役である)

 ミュージシャンをモデルにしたほぼすべての作品が、成りあがって頂点を極める前半と、ドラッグや金にまみれて、転落していく後半から成る、というのが、だいたいのパターンだと思う。
 基本的には『ランナウェイズ』も、まあその通りなのだが、そうした図式的な構成をギリギリ突き抜けたのが、この映画の個性だと思う。
 
 複雑な家庭事情の中、自分だけが有名になっていくシェリーの後ろめたさと、自分の信じる音楽に一直線だが、ソロでは頂点を極める力の伴わぬジョーンのもどかしさ。
このあたりのすれ違いが、バンドに亀裂を入れていく。
 しかしそれ以上に、『ランナウェイズ』は、まだあまりにも年若く(何しろランナウェイズのメンバーは人気絶頂の時点で、まだ20歳にもなっていなかったのだ。シェリーが下着姿でシャウトしていたのは、ほんの17歳の頃であることに、今さら驚かされた)、しかも女性であることの、限界についてのドラマだった。

 胸苦しくも切ないシーンがあって、バンドの全盛期には薬・タバコ・酒を自由にしていたシェリーが、ストレスのあまりバンドを離れ、地元での生活を始めてから、ドラッグストアでふと1本のウォッカを買おうとする。
 けれど店員は、IDの提示を要求し、頑として売ってくれようとしない。キレたシェリーはひとしきり暴れるのだが、下着姿でマイクを握っていなければ、彼女は酒一本買えないほどに、幼い身であることが、ここで一気にあらわになる。
 
 もともとジョーンは始めからジョーンだった。けれど、シェリーはデヴィッド・ボウイもどきのメイクを施して、「別の自分になる」という描写が、冒頭にある通り、素のシェリーはあまりにも弱く、常に“変身”を自らに課す必要があったということなのだ。

 年若い女が、別の自分になることの困難。または、道を切り開いていくことの困難。シェリーとジョーンに託した、それぞれの描き分けが、実に明確で、しかも切ない。ラスト・シーンなど涙なしで見ることができない。
 そして、それを演じるクリステン・スチュワートとダコタ・ファニングの入魂の演技。
特にクリステンは、風貌も歌声も、本物のジョーン・ジェットそっくりだ。その点、ダコタあまり似てない。歌声もやや不足。
 だがその分、まだ幼いのに背伸びに背伸びを重ねた、シェリーのイメージを見事に表現しており、ここはそれぞれの個性が生きた、適切なキャスティングと言うべきだ。
 
 あえて不満をいえば、ランナウェイズの音楽が、今まさに生まれたという瞬間の描写が物足りない感があり、そんな高揚感がやや犠牲になった気はする。
 
 現実のランナウェイズは、やがて来る80年代のMTVの時代を迎える前に、活動を終えてしまった。ヴィジュアル・コンセプトを意識したバンドだけに、それはとても残念なことだと思う。彼らこそMTVの時代にふさわしい華になる可能性があった。
 彼らが、特にジョーン・ジェットの音楽性が、あともう少し柔軟でしなやかであれば、80年代ミュージック・シーンにうまくのれたのかもしれない。
 けれど、それは歴史の「もし」に限りなく近いことが、この映画のジョーン・ジェットの一直線な性格描写を見るとよくわかる。

 80年代ロックは、同じ女性バンドでも、ランナウェイズのように、すべてを蹴散らす激しい音楽でも、男に媚びつつ男を攻撃する、矛盾を抱えたスタイルでもなく、あくまでポップでキュートなバングルスの時代に入るのだ。
 ジョーン・ジェットが“エジプト人のように歩く”ようなマネを、果たして許すだろうか。映画の中で、彼女が本名の「ジョーン・ラーキン」の名で呼ばれるとき、「私はジョーン・ジェットよ」と力強く訂正する、その声には忘れがたいものがある。

 この映画で描かれたように、男は女のバンドなんか見たいと思ってない! ブーイングに耐える練習だ、と空き缶や犬の糞まで投げつけながら演奏を続ける練習までさせられる、ランナウェイズの薄暗い情熱は、およそ80年代的でない。
 何しろシェリーが心酔するデヴィッド・ボウイが、極めて口当たりのいいポップ、“Let's Dance”へと移行した時代なのだ。

 『ランナウェイズ』は、70年代を駆け抜け切れなかった女性ロックバンドの栄枯盛衰なんかでなく、その限界をこそあえて見つめた、そしてそれはそのまま70年代ロックと80年代ロックの断絶でもあったことを明かした、極めて的確な作品である。傑作。

 最後に映画よりの情報を述べておくと、シェリー・カーリーはランナウェイズを離れ、そろそろ過去の人になろうとする頃、『フォクシー・レディ』(1980)でジョディ・フォスターと共演。残念ながらスクリーンでは、もう1つ印象に残らぬ容姿だったことが、露呈した。
 これは今でもDVDで容易に見ること可能。エイドリアン・ラインのデビュー作でもある。

 ジョーン・ジェットは、ランナウェイズが忘れられ、既にジョーン・ジェット&ザ・ブラックハーツとしてのイメージが定着した頃、『愛と栄光への日々/ライト・オブ・デイ』でマイケル・J・フォックスの姉役で共演。(2人の母親を演じるのはジーナ・ローランズ)
 ポール・シュレイダーの暗鬱な個性が全編を覆う、居心地のいい作品とは言いがたいながら、ブルース・スプリングスティーンが書き下ろした主題曲、“Light of Day”を、マイケル・J・フォックスと共にシャウトするジョーン・ジェットの姿は、思い出すと涙が出そうになる。これは現在DVD廃版。機会あれば、再見したい作品の1つである。

 なお、シェリーの母親役として、テイタム・オニールの出演に驚く。『ペーパー・ムーン』、『がんばれ!ベアーズ』の彼女の出演は、否応なく気分を70年代へと連れて行ってくれる。
 バンドメンバーの間で「ファラ・フォーセットって好き?」といった会話が出てくるのは、偶然だろうか? (ファラはテイタムの継母にあたる)

2011/3/19

『マイキー&ニッキー』  映画

 イレイン・メイ『マイキー&ニッキー』
 1976年作品。アメリカ建国200年。この年、「イタリアの種馬」とあだ名される、一人の無名ボクサーが、「15ラウンド終了のゴングが鳴ったとき、それでもまだ立っていられたらただの負け犬じゃなかったことが証明できる…」と男の実存を賭けて、リングに立つ映画が伝説になった。

 それにひきかえ、マイキー(ピーター・フォーク)とニッキー(ジョン・カサヴェテス)のだらしなさは目を覆う。
 ギャングに狙われているニッキーが、幼馴染のマイキーに助けを求め、深夜のニューヨークをさまよう物語である。
 恐怖からか生来の性質か、ニッキーの気まぐれでワガママな振る舞いは、マイキーを傷つけうんざりさせ、互いが神経をすり減らしていく。

 かつてウォーレン・ビーティとダスティン・ホフマン、イザベル・アジャーニという特大スターをそろえた、これも奇妙な逃避行の物語『イシュタール』(1987)以来、私にとってイレイン・メイというのは(当時の表記はエレイン)、最も謎の存在の1人だった。
 名前を覚えたのは、やはりウォーレン・ビーティ(とバック・ヘンリー)の『天国から来たチャンピオン』(1978)の脚本家としてだったが、この人はどうもアメリカン・ニューシネマの中心にいるようで、しかし外の存在でもあるようで、どうもよくわからない。
 どちらかというと、演劇畑の人物だということまでは、わかっていたけれど。

 しかしこの『マイキー&ニッキー』という、不安な時間をとにかく蕩尽するだけの、しかもこの逃避行が、どこかよそに行こうという意思はあるようだが、結局は同じところをぐるぐる回っているだけの映画が、実はアメリカン・ニューシネマの核だけを取り出したような作品であることに気づく。
 その核とは、「押し問答」ということではないか。多くの場合、コンビで行動するニューシネマの登場人物たちは、自分の意思を伝えるために、いちいち押し問答をする。
 これが当時のアメリカが、国と国民の行方について、どうにも方針のまとまらぬ、動乱の時代背景を反映したものだとか、そうした決めつけはまた別の、丁寧で慎重な議論を要するので、多くは触れずにおきたい。

 しかし『マイキー&ニッキー』はまさに押し問答の映画としか言いようがないのだ。たとえば、この映画では何度も繰り返される「部屋に入る」という、ただそれだけのために、マイキーもニッキーもおおいに苦労することになる。
 ミルクひとつ買うのさえ、店員と口論になり、腕力で脅しつけねばならないし(このシーンで、キレたピーター・フォークが、目にもとまらぬアクションで、カウンターを飛び越え、店員を締め上げる演技に瞠目する)、バスから降りるのも、素直に後部側ドアから出ればよいのに、前から無理に出ようとするから、運転手との押し問答になる。

 演技と、イレイン・メイ自身のペンになる、膨大なセリフの中に込められた大量の憤懣。これこそがアメリカン・ニューシネマの枝葉と末節を、除いて除いて除き尽くしたあげくに残った核なのだ。
 
 核ではあるが、しかしその息は長い。
 このストレスの多い映画の中で、分けても息が詰まるのは、愛人宅に赴いたニッキーが、彼女と妙に生々しいセックスを始めてしまうところだ。
 彼女のダメよダメよが(これもある種の押し問答だ)、やがて快楽にあふれた吐息に変わっていき、はっきりと挿入がわかるような動きまでしつつ、ついに絶頂に至るまでの長い時間を、同じ室内にいるマイキーが身の置き所がなく、画面奥の空間でうろうろする、その時間に耐える演技の巣晴らしさたるや、とても筆では書けない。

 さらに性的に満足したニッキーが、今度はお前も犯れよと、マイキーに誘いをかけ、ここでもまたひとしきり問答になるが、ついにその気になったマイキーが彼女を口説きにかかると、唇を拒まれたうえに噛み疲れ、たまらずビンタをくらわすその一連の流れ。
 
 この息の長いシークエンスを、あるいは演劇的というのかもしれないが、それはよくわからない。
 ただ言えるのは、所在ない無為の時間を1つのフレームで収めた、ロングのショットと、不意に押問答に切り替わるときのバストアップといった、テンションの持続のさせ方のバリエーションに、イレイン・メイのアーティフィシャルな腕のよさを感じずにいられず、これは、同じ風合いをもつ今1つの女性監督バーバラ・ローデンによる、やや遡るものの、同時期の傑作『ワンダ』(1971)にも共通するものだ。
 そして、それを驚くべき技術で表現するピーター・フォークとジョン・カサヴェテスの演技合戦。

 『マイキー&ニッキー』は、『イージー・ライダー』や『俺たちに明日はない』や『スケアクロウ』といった知名度の高い作品の中に、ひっそりと埋もれた小さな作品にすぎないかもしれない。
 けれど、アメリカン・ニューシネマとは何だったのか、ということを検証するうえで、絶対にはずせない傑作にして、重要作品だと思った。

 同じイレイン・メイが、『俺たちに明日はない』の主演俳優による監督作品『天国から来たチャンピオン』のシナリオを書き、『真夜中のカーボーイ』の主演俳優が『帰郷』でオスカーをとった1978年あたりを境に、アメリカ映画はまた変わっていく。
 よい悪いの問題ではなく、押し問答というのがなくなっていくのだ。それはたぶん、カサヴェテス自身の監督作品からさえも。
 また、この年のアカデミー賞の勝者が、目前の状況を静かに受け入れようとする姿勢に、完全に移り変わった『ディア・ハンター』(1978)であることは、いかにも象徴的である。

 ニューシネマの残滓は、『レイジング・ブル』(1980)にひっそり燃えたが、やはり状況受容的作品である『普通の人々』(1980)が、その年のオスカーを征することで、完全に埋葬される。
 そして、アメリカ映画は来るべき80年代へ。

2011/3/16

村上春樹 最新刊2冊  

村上春樹『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』(文藝春秋)
村上春樹『雑文集』(新潮社) 読了。

 両著は、村上春樹による口語篇。
 ところで私は、生きて動いている村上春樹の姿を見たことがない。
 いや、正確には『雑文集』にも収録された、エルサレム賞受賞の、あるいは村上春樹全作品中最高傑作かもしれぬ、「壁と卵」スピーチの報道映像は見たことがある。
 が、あれは英語で、しかも報道による一部のみでもあり、やはり十分とは言いにくい。

 これまでも、口語篇の本はもちろん、村上龍との対談『ウォーク・ドント・ラン』(品切れ)や、『東京するめクラブ 地球のはぐれ方』(文藝春秋)などあるものの、いずれも比較的気心知れた相手との肩の凝らぬトークという体裁だったので、内外のインタビューアーによるオフィシャルで外向けの発言や、やはり内外でのスピーチをおさめた両著は、なかなか得難い新刊であると思う。

 両著における一連の発言、あるいは短文を読んでいて、改めて強い印象を受けたのは、村上春樹の「物語」というものに対する、強いこだわりだった。
 そしてついに、こうした発言が出る。
「ただ僕は、自分の小説の最終的な目標を、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』においています。そこには、小説が持つすべての要素が詰め込まれています。そしてそれは、ひとつの統一された見事な宇宙を形成しています。僕はそのようなかたちをとった、現代における「総合小説」のようなものを書きたいと考えています。」
(『夢をみるために毎朝僕は目覚めるのです』P.180)

 この発言を含む村上春樹の執筆スタンスは、どんな物語をいかに語るかについて、徹底的にこだわる、ということに尽きる。そしてその姿勢は、たとえば音楽について語る村上春樹のエッセイ(著者の仕事の中でも最高レベルのものに属すると思う)についてさえ、変わらず適用される。
 つまりビリー・ホリデイやジム・モリスン、ビーチ・ボーイズらについて語るときも、彼らのヴォイスやナレーションのあり方について、すなわち彼らの「物語」る方法についてを語ろうとしているということが、両著をまとめて読むことで見えてきた。

 ハイブラウな批評の世界では、ざっくり言って、物語について語ることは一段低く見積もられ、文体や語彙について語ることが、より高いような風潮があるけれど、物語の力はやはり強い。
 が、その物語の力を誤ると、地下鉄サリン事件を起こした教団の力ともなり得る。村上春樹が『アンダーグラウンド』を執筆した本当の動機・真意、というものが、今はじめてうっすらと見えて来たような気がする。

 たぶん、これは推測にすぎないのだけど、村上春樹がこだわりぬいている物語の方法が、最悪の形で用いられた近年の例として、彼としてはそこに本能的にひかれずにはいられなかったのではないか。
 同書のあとがきなどでは、社会とのデタッチメントやアタッチメントといったことを述べているけれど、誤った「物語」が人をどのように導くかという疑念が、著者をして、被害者へのインタビューを経て、執筆へと駆り立てられた理由なのではないかと愚考する。
 それがこの近刊2冊を読んで、ふと思ったことだ。

 しかしその一方で、「物語」は結果的に、言語や国籍から風俗、宗教やイデオロギーまでをも超えて行く可能性がある。そしてその可能性に賭けるのが作家の仕事である、というのが、たとえば「壁と卵」のスピーチに私が読んだ意志の力である。
 そしてもちろん、人の心に訴えかける力の源を、批評は決して忘れてはならない。

2011/3/9

朝吹真理子『流跡』、『きことわ』  

 朝吹真理子『流跡』、『きことわ』(ともに新潮社)
 前者はドゥ マゴ文学賞(堀江敏幸選)、後者は芥川賞受賞。
 『流跡』の最初の2ページくらいを、書店で立ち読みしてずるっと引き込まれ、そのままレジに持っていってしまう。こんな経験は、少なくとも日本文学では初めてだ。
 いや、大昔にはあったような気がする。村上春樹『羊をめぐる冒険』、または村上龍『限りなく透明に近いブルー』。そして、吉本ばなな『TSUGUMI』だったか。

 『流跡』は、主人公(語り手)がどんな人物なのか、判然としないまま、本は半分以上も進んでしまう。そもそも主語がないので、人称もない。
 現実なのか夢なのかもわかりにくいが、美文調の文体なのに、不意に「ケータイ」だの「ISBNコード」だの「USBメモリ」だのといった、デジタルな言葉が登場して、まるでソフトフォーカスの映像の中に、不意に(だけどいやに明瞭に)ノイズが走るような印象を残す。
 そして、どんどん読み手を押し流してくれるのは、この小説のカメラアイが実に流麗だからだ。

 小説も中盤をすぎて、この話の語り手はどうも中年にさしかかった男性であるらしい、とわかるのが、妻と幼い子が登場してくるからだ。
 リアルとファンタジーが自在に行き来する。ぼやっと次の文を読み始めると、ひどい違和感に襲われることにもなる。
 この奇妙な時の流れ方は、とても日常生活における「気分」を表現するのに、ひどくテクニカルで、かつ絶妙だと思われる。

 我が身を照らしてみても、毎日をうかうかと過ごす中、夕食後に何もせず、卑猥な妄想などにふけりつつ呆けていると(ファンタジー)、突然、うちの奥さんから保険に満期がきたんだけどどうしようか、といった、やけに現実的な話を持ちかけられる(リアル)。
 年齢的にはさすがに、死のことを考え出すには、まだ少し余裕があるけれど、時間だけはどんどん流れて行く。それはちょうど、この本の冒頭に描写された、どうしても読み終われない本のようだ。

 『きことわ』になると、もう少しピントが合ってくる。『流跡』に比べると、貴子と永遠子という2人の登場人物が明確なので、文章がくっきりと輪郭線を持っている。
 しかし、少女時代に過ごした別荘の、所有者の娘とその管理人の娘という関係だった2人が、25年の時を隔てて再会するという物語構造から、やはり過去と現在の境界が淡く溶け合っていく。

 25年の間には互いにいろいろあったはずだが、それを共有し合おうと思うと、そっくり25年かかってしまう。人と人は時の共有などできない。ただ取捨選択された出来事だけを、ピンポイントで伝えることだけができる。
 互いに時間を分け合うというのは、音楽でいえば、常にベスト盤だ。主要なことしか相手に伝えられない。

 人の「時」というものに対する無力。けれど、人が持つ「語る」という能力の、これは逆に「時」に対する優位。その優位と無力の狭間に、英語ならば“life”、またはフランス語なら“vie”というものがあるのではないか。
 『きことわ』からはそんなメッセージを感じ取った。

 作者は今年でまだ27歳。まだ2作品。『流跡』102ページに、『きことわ』141ページ。中編である。きっと遠からず、上下巻規模の長編を書くだろう。それがどんなものになるのか。久しぶりに、今後の30年を付き合っていける小説家が誕生したような気がしてならない。


2011/3/6

『英国王のスピーチ』  映画

 トム・フーパー『英国王のスピーチ』
 吃音の症状があるジョージ6世(コリン・ファース)。それを案じた夫人(ヘレナ・ボナム=カーター)は、克服のために次々と専門医をあてがうが、どうもうまくいかない。

 私が、この映画が物語を紡ぐ方針として感心したのは、「うまい」スピーチと、「いい」スピーチがあるということを明確にした、という点だった。
 ジョージ6世の吃音を直そうと、果たせなかった何人もの専門家たちは、彼に「うまい」スピーチの技術を授けようとしたわけで、それでは医師を何人変えたってだめだ。

 そして最後に、やけのやんぱちのようにダメモトで選択した「専門家」(ジェフリー・ラッシュ)が、これまでの専門医と違っていたのは、彼が王室のものだろうと例外なしの態度を貫いたことや、風変りなメソッドなどではなくて、「いい」スピーチの方法を授けようとした、ということなのだ。

 映画は当然、映画だから、波乱万丈ある。面白い。けれど、それ以上に目指したものが明確だから、説得力がある。
 それが証拠に、「うまい」スピーチを要求される、英国王即位のスピーチはすばっとカットする。そのレッスンが無頼に面白かっただけに、本番も見たい気がしたけれど、即位式というのは型さえ作ればいい。だからこの映画にはミートしない。

 だがクライマックスは、「いい」スピーチであるべきもので、これが映画の見せ場であり、コリン・ファースとジェフリー・ラッシュのレッスンの成果の見せどころとなる。
 この映画が見事なのは、このクライマックスに臨む前のコリン・ファースが、「ある人物」の悪魔的なまでに「うまい」スピーチのニュースリールを、家族で見るシーンを、用意したことだった。

 そして映画は、その悪魔による「うまい」スピーチとは、まったく異なるスタイルの、「いい」スピーチを聴かせてくれる。
 その悪魔を産んだ国が産んだ、いまひとりの聖なる人物が作った、アレグレットのメロディにのせて。

 そのメロディ、現在の平均的な演奏よりは、かなり遅めのテンポにとられている。エンドクレジットを見た限りでは、どうも既成の演奏でなく、映画のための録りおろしのようだが、もともとが同じ高さの音がリピートされる、吃音的な曲でもある。しかし「いい」メロディである。
 これをぐっと速度を落として、そこに言葉が乗っていく。言葉はメロディになる。そのメロディを厳格に統治し、相手の心に届ける。指揮するはジェフリー・ラッシュ。演奏はコリン・ファースの、それは見事な場面になった。

 吃音といえば、音楽のアレクサンドル・デスプラの、既存曲の選択も見事だったが、オリジナル曲も素晴らしかった。ピアノによる、つっかえ気味の、だけど流麗なメロディが、映画の内容によくマッチする。

 スピーチ現場となる部屋や、そこへと向かう狭い回廊。さまざまな室内空間など、この映画をめぐる観点はたくさんありそうだが、それは他の識者の方に任せよう。
 「うまい」映画で、なおかつ「いい」映画だった。

2011/3/5

『恋とニュースのつくり方』  映画

 ロジャー・ミッシェル『恋とニュースのつくり方』
 きた! イーストウッドも、オリバー・ストーンも、キアロスタミも、ロン・ハワードさえもが頭から完全に消えた。今年不動のナンバーワン確定!
 なんて素晴らしい。この映画には、アメリカ映画を見る喜び、スター俳優を見る喜び、物語を楽しむ喜び、外国の都市を見る喜び、リッチな画面を見る喜び、映画に笑う喜び、映画に泣く喜び、何から何まで全部ある。

 そして、ハリウッドのニューヒロイン誕生! レイチェル・マクアダムス! 先日のアカデミー賞では某若手女優がオスカーを獲得したみたいだけど、私の個人的主演女優賞はぶっちぎりで君だ! (ちなみに衣装デザイン賞も)
クリックすると元のサイズで表示します
写真:『恋とニュースのつくり方』より。誰がなんと言おうと、私のアカデミー賞は君だから!
衣装もプロダクション・デザインも最高。


 TVプロデューサーとして奮闘する彼女は、昇進かと思ったら解雇され、再就職に成功するも、新しい現場はやる気なしのスタッフに低視聴率。伝説のキャスター(ハリソン・フォード)とのお目もじに感激するも、彼は世界で三番目にイヤな奴。
 とにかく難題ばかり降って来て、アップダウンの激しいヒロインなのだが、何のその、すがすがしいまでのポジティブ・シンキングで、難局を次から次へと超えていく。
 ここは大事で、明るいだけの脳天気と、ポジティブ精神はまったく違うのだ。
 彼女には、笑顔に隠れた努力と知恵とガッツがある。それに、ほんの少しの時の運を味方につけるから、だから映画にノれる。ヒロインを愛せる。
クリックすると元のサイズで表示します
写真:『恋とニュースのつくり方』より。親子どころか、へたすると孫と祖父母くらい違うのに、丁々発止。

 いや、元気がいいからそれにしてもよくしゃべる。『ソーシャル・ネットワーク』の主人公たちなんか、あんなの比じゃない。
 手をバタつかせながら、目玉をくりくり回して、相手にうったえる。そう、レイチェル・マクアダムスのこの演技っぷりは、若かりし日のダイアン・キートンのそれだ!
クリックすると元のサイズで表示します
写真:『恋とニュースのつくり方』より。どこまでもキュートなこの笑顔を見よ! ピンクもかわいい!

 そんなダイアン・キートンも、ハリソン・フォードとの絶妙の間合いで、ベテラン・キャスター役で、この映画に華を添える。
 基本的には若い彼女のお手並み拝見という、協力的スタンスだが、ライバル役のハリソン・フォードとの関係で、どうにもワガママを炸裂させて、結局ヒロインの頭痛のタネになったりもする。
 けれど我らがヒロインは決してへこたれない。いつでもかわいい笑顔を振りまきながら、ウルトラマシンガントークで、切り抜けていく。これだけ笑う門に福が来ぬはずがない。
クリックすると元のサイズで表示します
写真:『恋とニュースのつくり方』より。持ち帰りの仕事もあるけどへこたれない! 画像は映画.comより

 この映画がうれしいのは、誰一人悪役となる人物がいないことである。ハリソン・フォードは誇り高く気難しいというだけのことであるし、上司のジェフ・ゴールドブラムは、無茶は言うけど経営側として当然のことをしているまでで、悪意をもってヒロインの足を引っ張ったり、私利私欲でヒロインの邪魔をする者は1人もいない。
 すべては、彼女が乗り越えるべきハードルとしてセットされていて、だから彼女も「ようし!」とばかりに奮闘する。
クリックすると元のサイズで表示します
写真:『恋とニュースのつくり方』より。ジョーンズ博士のこの顔を相手でもへっちゃら!

 レイチェル・マクアダムス、実によくがんばった! それもそのはず、この映画の原題は“Morning Glory”。
 若かりし日のキャサリン・ヘップバーンの、初オスカー受賞作『勝利の朝』と、同じタイトルなのだ。
 そう考えると、レイチェル・マクアダムスのこの力強さ、弾丸トークの冴え、先に私はダイアン・キートンのようだと書いたが、彼女が下敷きにしたのは、もしかしたらキャサリン・ヘップバーンか。いや、スター誕生の瞬間とはまさにこのこと。
 そして、この映画の彼女にあって、それはちっとも恐れ多いことと思わない。

 これほど自信をもって、他人に勧められる映画って、本当に久しぶりな気がする。星100万個。クリックすると元のサイズで表示します
写真:『恋とニュースのつくり方』より。いい街だ!
画像は断りのない限りすべてallcinema.comより



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ