2011/4/30

『四つのいのち』  映画

 ミケランジェロ・フランマルティーノ『四つのいのち』
 これはしかし、ロメールのように繊細で、アンゲロプロスのように雄大で、オリヴェイラのようにおおらかで、キアロスタミのように周到、ブレッソンのように崇高で、そしてディズニーのように生命感がある。

 文明から切り離された、南イタリアはカラブリア地方の村での営みを、一切のセリフも音楽もなしに見せる。
 この地方の主な産業は、炭焼きに牧畜、若干の農業程度か。すべていのちは皆、つながって、循環している。

 と、つい生命賛歌的な道徳主義っぽいことを書いてしまいそうになり、それはむしろ容易なのだが、いや、思うと映画だって、編集によってショットとショットをつなげて、循環させる装置ではないか。
 ショットとショットという、個々の“いのち”がつながって、それが映画であるなら、この作品はまさしく映画そのものだ。
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写真:『四つのいのち』より。共生のひとつの形。画像は公式サイトより。

 この映画の冒頭は、炭焼き作業のシーンから始まる。細かくした材木を小山のように積み上げ、その上に乗った作業者が、大きなトンボみたいなもので、焼き上がりつつ炭を焼き固めるべく叩く。
 その炭を叩く「パーン! パーン!」という乾いた音は、ほどなく登場する、ヤギ飼いの老人へと受け渡されるだろう。
 老人は高齢で、喉も悪くしているので、常にいつでも「コホ、コホ」と乾いた咳をしている。

 この咳の音は、イエスの受難を模した村人による行進の、太鼓の「ダム! ダム!」という音へと受け継がれるだろう。
 そして、映画中ほどであるここで、信じられぬ長回しを私たちは見ることになる。

 監督インタビューによると、22回ものテイクを繰り返したというこの、奇跡的なショットにおいて、人間の少女はヤギ飼いの犬に、ひとり通せんぼをくらって、行進する保護者達から切り離されてしまう。
 この犬によって取り残された少女の姿は、後に子ヤギが親たちの群れからはぐれてしまうことの伏線となるだろう。本来、子ヤギが迷わぬよう、ヤギ飼いの犬は訓練されているのだから、この犬の無意識の悪意とユーモアに、思わず口元がゆるむ。

 順番は前後するが、先に述べた太鼓の「ダム! ダム!」は、画面が暗転した一瞬、心臓の鼓動のようなものへと、印象連携した後、子ヤギの誕生へと引き継がれ、そこから先はヤギたちの鳴き声へと手渡されるだろう。
 さらにクライマックスのモミの木祭りから、再びそのモミの木を用いた炭焼き作業へと、いのちを託した音が、次々手渡されていき、映画全体も“いのち”を以て、閉じる。

 淡々とした情景を積み重ねたように見えて、膨大な手間と細心の上にも細心の緻密さで、作られていて、その成果はほとんど奇跡的なほどだ。
 冒頭に幾人かの映画作家の名前をあげて、その評価を託したけれど、本当にそれほど驚くべき達成なのだ。

2011/4/28

平倉圭『ゴダール的方法』  

 平倉圭『ゴダール的方法』(インスクリプト)読了。

 意を決して、ついに『映画史』のDVD購入を決めた頃のことだ。手持ちのゴダール作品のDVDも、かなりの点数になってきたので、とにかく断片的でいいから、空いた時間はすべてゴダールを眺めていよう。ゴダールの数々のショットを何とか頭に刻みつけよう。そうすればきっと、何か見えてくるものがあるさ、と思い立ったことがある。

 ある程度の努力はしたつもりだったが、挫折するのに時間はかからなかった。ただ漫然と見ていても、何ひとつ頭に入ってこないからだ。
 おそらく著者も、それに限りなく近いことをやったのだろうと想像する。大きな違いは、著者は挫折しなかったことだし、これは卵と鶏どっちが先か、という議論に近いが、見出すべきテーマの見通しが立っていたことだろうと思う。
 何より、「あとがき」には「ある頃から、普通に暮らしていても視−聴覚の同期が壊れる感覚を覚えるようになった」とあるのだけど、そう、私はこういう状態にまで自分を持っていければよいな、と夢想したのだった。
 それはすなわち、ゴダールと同じような視力を持つことである。

 それにしても、本書をもって映画研究の方法論は、完全に変わったことを思い知らされた。
 数あるゴダール作品のソフトを「編集台」にかけて考察する。詳しく明記されていないが、たぶん著者はPCでの様々な再生方法を駆使して、作品分析を行っているのだ。
 たぶんそれによって、画面キャプチャしたのだと思うが、権利処理は大丈夫なのだろうか、と余計な心配をしてしまうほど、多くの作品スチールが図版として添えられている。

 また、しかるべきソフトを使ってのことのようだが、何しろ画面とサウンドトラックの波形とを、ダイアグラムとして表記してみせ、終盤にはキャプチャしたゴダールその人のクローズアップの、明度をあげての画像処理してまでみせ、ゴダールにおける「類似」のテーマを突き詰めていく。

 ゴダールからさまざまなキーワードを見出し、ゴダールが世界をどのように見つめているのかを、丁寧に分析していく限りでは、従来的な「テマティック」批評の(ただし比類なく優れた)本だと思う。
 ただしその手法が画期。ゴダールが「編集台」の前に座って、作品製作を続けている以上、批評家だって「編集台」の前に座って批評を試みていけないはずがない。
 というより、これこそ限りなくゴダールに「類似」した思考をすることであり、これぞまさしくゴダール的方法と言える。

 ゴダール研究というより、映画研究の手法として、本書はまったく新しい次元に突入したことに、少なからず衝撃を覚える。
 何より優れているのは、ドゥルーズはもちろん、さまざまな現代思想の成果を視野に収めつつ記述しているのに、読んでわからない点がまったくないということだ。それほどに明晰な書といえる。曖昧な点がまったくない。素晴らしい。
 今後ゴダールを語るうえで、本書にまったく触れることなしには、立ち行かなくなった。

2011/4/26

『わたしを離さないで』  映画

 マーク・ロマネク『わたしを離さないで』
 ときどき私事を語ってしまって、たいへん恐縮なのだが、小学校低学年の頃、すなわち、ちょうどこの映画の、アンドリュー・ガーフィールドの少年時代と、ほぼ同じ年頃に、私自身もいじめられっ子だった。

 そして、この映画でガーフィールドがやったのと同じように、受けた仕打ちへの悔しさに、校庭の真ん中で気がふれたように絶叫したことが、私自身にもある。
 このシーンはだから、とても他人ごとのようには見れなかった。そして、その絶叫しているときに、後ろから声をかけてくれた少女が、私にもいた。
 申し訳ないが、その少女はこの映画での後のキャリー・マリガン(少女時代だからイソベル・メイクル=スモール)ほどの、超美人ではなかったけれど。
 そして、思わず反射的に彼女の顔を叩いたりもしなかったけれど。

 そして、その3年後、私は別のある少女に対して非常に心ない発言をして、それを横で聞いていた彼女は、信じられないくらいに激怒したのだ。
 いじめられている私に親切にしてくれた彼女は、傷つく思いを知ってていいはずの、よりによって私が、他の子に対した行った行為を、絶対に許せなかったのだと思う。
 きっと本当に潔癖で、優しい子だったのだ。

 同じ地元なので、小学校を卒業し、その後も中学、高校まで、近所で彼女を見かけることが時折あったが、彼女はその後決して私に口を聞いてくれなかったし、挨拶もしてくれなかった。
 まるで、ギルバート・ブライスに対する、アン・シャーリー状態である。私たちはとうとう和解しなかったが。

 そのことは今でも、ときどき幼少時代の心の傷として思い出す。彼女は、私が暴言をはいたその子と私が、それほど間をおかずしてお付き合いを始めたことを知っていたろうか。
 いや、知っていたと思う。クラスではそこそこ話題になったし、子ども心にも覚えているが、彼女は本当にいろんなものをじっと見ている人だった。

 映画『わたしを離さないで』の中心としてそびえるのは、キャリー・マリガンであることに異を唱える人はいないだろう。
 キャリー・マリガンは自分を含め、身の回りに起こっていることを、じっとじっとじっとじっと、いつも泣き濡れたような目で見つめてくれている。
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写真:『わたしを離さないで』より。キャリー・マリガン。とりあえずこの顔に至近距離でじっと見つめられたら、まあ死んでもいいっすよ。画像リンク元

 いわば「人間牧場」として飼われている、施設内の子どもたちという設定は、この際、忘れていいように思う。その非現実感にとらわれると、感動しそびれてしまうからだ。
 人間には感情というものがあって、その感情は「思い出」によって形作られる。逆にいうと「思い出」のために、人は生きられるし、「思い出」のために人は死ねる(かもしれない)。

 最初から最後まで、常にキャリー・マリガンは目をそらすことなく見つめている。「思い出」を見失ったら人間が人間でなくなる。
 私はカズオ・イシグロの原作を未読である。けれど、この映画がキャリー・マリガンの視線を通して、首尾一貫した哲学を構築したことは十分に感じ取れた。
 シニカルな視点はいらない。終盤にかけて、高められていくこの映画のエモーションに、さめざめと泣けばよいと思う。

2011/4/24

『キラー・インサイド・ミー』  映画

 マイケル・ウィンターボトム『キラー・インサイド・ミー』
 50年代、テキサス。平素は銃携行も行わぬ、品行方正を旨とする副保安官が、ときに圧倒的な殺人衝動をみせて、周囲をじわりと巻き込んでいく。
 この副保安官を、ベン・アフレックの傑作監督デビュー作品、『ゴーン・ベイビー・ゴーン』でのイメージそのままに、殺人鬼としてケイシー・アフレックが地味ながらも、一瞬の燃焼度の高い演技を見せる。
 彼の周辺を固める女はジェシカ・アルバとケイト・ハドソン。どちらも、「女の武器」を100%活用して官能的にして、作品世界の住人として完全に溶け込んでいる。

 暴力描写といえば、ケイシー・アフレックが情け容赦なく、徹底的にジェシカ・アルバの顔面を連打に次ぐ連打に次ぐ連打。あの美貌が、見るも無残に損壊していく。
 この強烈な殴打に並ぶのは、若松孝二『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』で、自分自身を痛打して、坂井真紀の顔がみるみる崩壊していく「総括」シーンくらいだろうか。
 いや、『実録・連合赤軍』が58回のベルリン映画祭に出品されたとき、ウィンターボトムは、ひょっとしたら若松作品を見たのではないか、という空想に誘われる。
 ショックのあまり、失禁してしまうケイト・ハドソンの姿を見るだに、それもあながち空想ではないような気もしてくる。

 が、そうしたことはさておくとして、この映画のみごたえを作っていたのは、ケイシー・アフレックの物静かな二重人格ぶりである以上に、むしろ、彼をめぐる人物たちの二面性だったように思う。

 ことにジェシカ・アルバの最初の登場シーンの、微妙な顔面演技は忘れ難い印象を残す。街外れに住む娼婦を演じる彼女が、ケイシー・アフレックのノックに応えて、扉を開いて最初にその姿を見せるとき、開いた瞬間のいかにも世をすねた険しい表情が、扉を叩いたのが“いい男”であることを認めると、その表情があっというまに溶解する。
 このジェシカ・アルバの最初の精密な演技が、この映画のすべてを決定づけたように思う。

 その後、実は彼が客でなく、司法の人間だとわかったときの豹変ぶり。さらにはケイシー・アフレックに半レイプされかけたときの、決定的な拒否の態度から、臀部の殴打によってそれが快楽に変わっていく、その微妙な態度の移り変わり。

 このように、ここではジェシカ・アルバのことばかり書いたが、ケイシー・アフレックをめぐる男どもの裏と表(ことに表裏使い分けて、ケイシー・アフレックに接触してくる、「組合側」人物を演じるイライアス・コティーズの説得力ある演技)もかなりのものだ。
 それらに比べれば、主人公にかかわる今一人の女、ケイト・ハドソンについては、あるいはもっとも二面性のない、女の純情まっしぐらな人物といえるのかもしれない。
 けれど、普段は教師として貞淑な生活を営むはずである彼女の、ベッドにおける情熱的な姿はやはり、この映画におけるいま一つの二面性を形作っているようにも思う。

 結果的に、いちばん表と裏がないのは、実は主人公ではないか。少なくとも彼の表面的印象においては、品行方正な表の顔と、暴力を炸裂させる裏の顔とで、話し方から表情まで、何ひとつ変貌しない。
 何しろ、「ごめんよジョイス…。愛してるんだ」と、表面的には愛の言葉を囁きさえしながら、女に対して暴力行使する男ではあるのだ。

 そして、テキサスの乾燥した空気と、ぎらつく太陽。この街にはいかにも何もないことが、画面からいやおうなく漂ってきて、いかにも行き止まりである。
 あまりにも何もない。これほど閉ざされた街では、ある種の人間の精神なら、壊れていかぬはずがない。
 そんな合衆国の暗部も、きっちり描写して、ウィンターボトムのこれは会心の作か。

2011/4/22

四方田犬彦『女神の移譲』  

 四方田犬彦『女神の移譲 書物漂流記』(作品社)読了
 特に最近の著者の書物に、ところどころ見え隠れする、微妙な上から目線に、時にわだかまったりするのだけど、こうした様々な芸術の諸相に関する、長文のエッセイを書くときの、著者の密度はさすがにすごい。

 何より世界各地に実際に見聞しに足を運んでしまうころで、まずかなわないと思う。著者の近年の研究領域としての、インドネシア、イタリア、韓国はともかく、そして中東。
 さらにはアルテミス信仰についての実見を深めるために、遠くトルコのエフェソスまでも出かけていく。

 そうした著者の専攻である宗教学をベースに、比較論を始めたならば、やはり並ぶものはないと思った。
 特に感銘を受けたのは、イエスの受難をめぐる4つのバージョンについて。すなわちマルコとヨハネとルカと、そしてマタイによる福音書について、思考を遊ばせる「マタイ福音書の余白に」のエッセイである。

 著者は、それぞれファクトの異なった、相互に矛盾するこの4つの記述が、なぜ2千年の長きにわたって踏襲されてきたか。そんな素朴な少年時代からの疑問から語りはじめるが、そのきっかけはベケットの『ゴドーを待ちながら』における、福音書をめぐる応酬であった。
 「ゴドー」の反復される「非物語」の話法は、聖書が同じ1つの物語を反復していることの、神学的なパロディではないか、というのが著者の仮説的確信である。

 さらに話を進めて、イエスの生涯を福音書の言葉のみを使った、映画『奇跡の丘』の監督、パゾリーニと、彼とほぼ同時代人であり、業績の傾向が共にダブるという、『マチウ書試論』の著者、吉本隆明を突き合わせて論じてみる。
 その疑問の起点は、両者が下敷きにしたのは、なぜマタイなのか。なぜ、その他3つではないのか、ということ。

 2つのテクストを紹介しつつ、これだけでも十分に刺激的なのだが、実は本論の要旨はそれでさえなく、田川健三・訳として出版された『新約聖書 訳と註』全六巻(作品社)の刊行開始が、このエッセイの主論なのだった。
 この書物は、聖書の新訳と共に、「先行研究や翻訳の主だったものを取り上げ、厳密に批判を書き連ね」たものであり、「注釈が、ほとんど一字一句のレヴェルで添えられ」た、膨大なものだという。
 この労作によって、「読者に積極的な思考と関与」を求めることになり、その過程の中で著者は、「イエスの言動を生々しい闘争の現場に生きた思想家のそれとして読み説く」材料たることを期待しつつ、文章を締める。実に濃い。

 こうした作業が、たとえば溝口、赤塚、サーク、アドルノなどなどの作品に対して行われる。対象を身につける、という作業において、実に範としたい書物。

2011/4/19

『ファンタスティックMr.Fox』、『エンジェル ウォーズ』  映画

 ウェス・アンダーソン『ファンタスティックMr.FOX』
 なぜかどういうわけか、私の美意識が叫びをあげて拒否する映像作家がたまにいて、さしずめウェス・アンダーソンはその代表格だ。
 前作『ダージリン急行』の、冒頭の名高い列車乗り込みシーンも、個人的にはなんて物欲しげで、さもしい演出をするんだろう、とがっくりしたものだ。

 『ファンタスティックMr.FOX』はある意味、その生理的な嫌悪感を最大限引き出してくれて、どうしてもっとこう、スマートに見せてくれぬものかと、スクリーンに目を向けていられなくなる。
 ジョージ・クルーニーの英語は好きなので、目を閉じたついでに、音を聴きながらこのまま眠ってしまおうと思ったが、(たぶん)真ん中あたりでこともあろうに、ジョルジュ・ドルリューの音楽が流れてきて、許せなくなる。

 しかも私が最も愛する、『恋のエチュード』の横移動シーンのメロディ。もしやまさか、本作冒頭の下品でこれ見よがしな横移動と、『恋のエチュード』の高貴な横移動とかけてやしまいなと、こうした物欲しげな演出が嫌いなんだ、と直ちに劇場を出る。

  ↑『恋のエチュード』より。この世にも美しい音楽と画面をこの映画は汚しやがったのだ。
  あ、ちなみに上映前の監督からのお見舞いメッセージは感動的でした。


ザック・スナイダー『エンジェル ウォーズ』
 冒頭いきなり不気味なアレンジで、ユーリズミックスの“Sweet Dreams”が流れるかと思いきや、悲劇のヒロインが叩き込まれる精神病院の名前が、レノックス・ハウス、ってこれはすごいこだわりだな! と、それをどう判断しようか迷っているうちに、映画はいつ始まってもよければ、いつ終わってもいい妄想戦闘が延々とメリハリなく続いてしまう。

 これを見に来たのは私が悪かったと思った。この映画は劇場の椅子に座ってコーラ片手に見る種類の映画ではない。
 傑作『イエスマン “YES”は人生のパスワード』で、ジム・キャリーのオタク上司が、自宅で『300』の変態仮装パーティをする、というシーンが明らかにしたように、同じ『300』の監督によるこの『エンジェル ウォーズ』は、自宅での特殊環境による鑑賞用に作られたのだと思う。

 特殊環境というのは、複数種のドラッグとアルコールをたっぷり用意した(日本はもちろん、たぶんアメリカでも違法な)、男女混交パーティのことで、この映画は大型テレビのBGVにかけられる映像として消費されることを目指している、ということだ。
 当然、ヤクが効いてきたら、乱交セックスにも及ぶだろうし、そのとき流れているのは、この映画の大音響と果てしなく続く殺戮シーンということだ。

 近年の映画には、こうした環境次第でゴミになったり、大傑作になったりする作品があって、一該に切り捨てることはできない。
 『エンジェル ウォーズ』は、ドラッグパーティのお伴としてなら、(経験ないけど)大傑作のはずだ。

 私がこの映画を見に劇場に入ったとき、手にはスタバのコーヒーしかなく、もちろんヤクも隠匿していない。
 これは間違いだったと気がついたので、30分ほど見て、コーヒーを飲み終わったあたりで劇場を脱出する。

(追記)『ファンタスティックMR.FOX』について、上のようなことを友人に怒っていたら、その後『アメリカの夜』の“映画讃歌”も聴けたのに、と笑われる。

2011/4/17

『引き裂かれた女』  

 クロード・シャブロル『引き裂かれた女』
 あまりにも緻密な心理劇で、幕が降りてしばし呆然。そのまま今日の日程を変更して、2度目を見てしまったことを白状したい。
 図式的には三角関係の物語なのだが、背景となる心理模様が膨大なので、そんな単純化では収まらない。
 ひとまず、宣伝用チラシにある、「性格や年齢の異なる2人の男に愛されたヒロインが思い込みの激しさゆえ、歪んだ恋愛関係に溺れ自分を見失っていく様をスリリングに描いたサスペンス・ラブストーリー」という紹介でお茶を濁しておく。
 実際に見た者ならわかる通り、それだけの物語でもないのだけれど。

 本稿の書き出しを考えあぐねているのだけど、たとえば結婚相手の母親が、年若いヒロイン(リュディヴィーヌ・サニエ)に対し、「この子は教会にも行ったことがないのよ」と憎まれ口をたたくとき、彼女はヒロインについて、“何をどこまで”知っていたのか。

 私はこの一瞬に、クロード・シャブロルが「道徳」と「不道徳」の狭間を描いた作家であったと不意に理解した。
 もちろん、これまで私が見たシャブロル作品など両手に満たないので、安易な決めつけは厳に控えたいが、少なくとも『引き裂かれた女』からは、そうした印象を受ける。

 ヒロインを恋い慕う若い男(ブノワ・マジメル)は、彼女のとある性向を嘆いて、「おお主よ」と口にする。ヒロインはすかさず「ここでなんで主が出てくるのか」となじる。
 じゃあ、若い男はこれまでの人生、卑しくも「主」の名に値する生活を送ってきたか。彼は「ぼくはほしいものは何でも手に入れてきた」と、映画の最初の方でキレて、ヒロインをあやうく殺しかけてしまう…とまではいかずとも、失神させかける人物だ。
 
 もっと言うなら、彼の少年時代に関する暗部も明かされさえする。それだけでなく、経験なキリスト信者としての、この家族にも、後ろ暗いところは山ほどあることは、容易に想像される。
 けれど、この若い男(と彼の家族たち)は、「道徳」の側の住人といえる。少なくとも本人たちはそう信じている。
 一方で、ヒロインがほとんど妄執的に恋い慕う老人(フランソワ・ベルレアン)の方は、「不道徳」の世界の住人である。

 しかしこの老人は、ゴンクール賞受賞暦もあり、アカデミー・フランセーズ入りも狙うポジションの小説家として、尊敬を一身に集めている。
 最愛の妻を持ち、彼女に対する愛情は、一切嘘偽りないものである一方で、裏の世界ではきわめて「不道徳」な貞操観念で生きていることも、見えてくる。
 そして、ここがシャブロルのシャブロルたる演出術の所以と思うが、妻はそれを全部知っている・・・が、見てみぬふりで生活しているらしいことが、画面のあらゆる細部が小さな声でささやいている。

 かくして、ヒロインは「道徳」と「不道徳」の狭間に、知らず立たされる。しかし「道徳」の側は「不道徳」さを、「不道徳」の側は「不道徳」そのものを、慎重に隠しており、どちらも皮をむいてしまえば同じである。
 本能的にそれを知る若者の、老人に対する敵愾心は、必ずしも恋敵としてだけではなさろうだ。
 それは、若者が老作家に関する新聞記事を見て「この手合いはムカつくんだ」と、登場早々に宣言することをはじめ、いろいろなところに痕跡を残す。

 さて、すべてが取り返しのつかぬ事態になった後、ヒロインは「道徳」の世界の住人と、「不道徳」の世界の住人、それぞれの人物から「もっと大人になりなさい」と、まったく同じことを言われる。
 前者は「この子は教会にも行ったことがない」とも言い放った、若者の母親(カロリーヌ・シオル)、後者は老人の担当編集者と思しき、おそらくは共犯者でもあるだろう、中年だが色気あふれる女性(マチルダ・メイ)。

 「大人ではない」ということは、道徳と不道徳の間に立たされ、しかも自分がそのポジションにいることに無自覚であるということだ。

 驚くほど昼間の映画である。画面から受ける印象は真っ白だ。若者の登場シーンでは、彼の姿が密室の暗闇で(ほとんど姿を認識できぬほどに)真っ黒に塗りつぶされていることから察して、彼はあるいは「大人」たることを知った…のかもしれない。
 一方、ヒロインについてはどうか。シャブロルのこれは恐るべき心理映画だという感想を持った。

 今後シャブロル作品の上映が実現していくが、のっけからこれでは空恐ろしくなる。

2011/4/15

黒沢清『黒沢清、21世紀の映画を語る』  

 黒沢清『黒沢清、21世紀の映画を語る』 (boid)読了
 ロジカルである、というのは本当に大切なことだと改めて教えられる。ロジカルだから、首尾一貫している。この人の発言、書いたものには(少なくとも記憶にある限り)、だってあの時、こう言ってた(書いてた)じゃないか、と思わされるようなことが、まずまったくない。

 たとえば2010年のfilmcomment誌、Jan/Feb号では、黒沢監督による2000年代ベスト10が掲載されている。
 採録すると、またどんな批判を浴びるかわからないので、ここではそのベスト10紹介は控えるが、本書を読むと、なぜ黒沢監督がそれらの作品群を「2000年代の」ベスト10としてチョイスしたかが、くっきりと理解できる。
 本書では、そんなベスト10のことなど、話題として一言も触れていないのに。

 それは、21世紀の映画とはどのようなものなのか、という具体的な説明。それを端的に「不意に露呈する外側」と表現する。その「不意に露呈」した「外側」の例をさまざまに述べていく。
 「外側」というのは、ずばり、今見ている映画の舞台の外側ということだ。
 これを述べるだけなら、そうか、あなたはそうした作り方に胸を打たれるわけですね、と、ひどく客観的な読書になってしまう。

 けれど、その例をひきながら、その「外側」を描くにあたって、そこに必ず流れている「河」の存在を示して、その“情景”たるものを引き寄せつつ、外の世界に「満ちている暴力」について想いを馳せる。
 「「21世紀はどうもこのように始まってしまった。これがあと百年続くというのか。これでいいのか。映画史は20世紀の百年間いったい何をしてきたのか」などと、この監督たちは考え、頭を悩ましているように思えてならないのです」(P.304)
 とまで語るとき、もはや感動にさえ包まれる。

 映画を語ることと、その語られる映画から抽出されるものが、そのままイコール、この21世紀初期における、社会把握になっていること。
 振り返ると、2000年代ベスト10というのは、単にそれが「好きだから」「趣味が合うから」といった、ただの印象論ではない。
 それらが選ばれていたのは、それらがそのまま「21世紀を生きる気分」のようなものを、反映しているからなのだった。

 映画はとかく感情に従って、好き嫌いをイージーに述べてしまい易い。これは自戒でもある。
 もちろん、感情的な好き嫌いであってもかまわないのだが、それを語る上では、大局的かつ堅牢な世界観を踏まえたうえのことでなければ、ただのおしゃべりだ。
 おしゃべりでなく映画を「語る」ということの、確かな実例が本書と言える。

2011/4/12

トマス・ピンチョン『スロー・ラーナー』  

 トマス・ピンチョン『スロー・ラーナー』(佐藤良明・訳 新潮社)読了

 ピンチョンの初期短編集。もうずいぶん前に、志村正雄・訳(現ちくま文庫)で読んだが、『メイスン&ディクスン』、『逆光』という膨大な作品を読んだ今では、まるで印象が違う。

 作者自身は「イントロダクション」の中で語るように、いろいろと自作について、文句があるようだが、すでに十分以上に読み応えがある。
 もう今ではすっかり“ピンチョン”としか言いようのない、大伽藍のような小説を編みあげているのだけど、この本にまとめられた短編群の執筆時期は、(作者自身によると)1958年から1964年。
 ピンチョンは1937年生まれというから、19〜25歳までに執筆されたということになる。

 最後の『シークレット・インテグレーション』はそうでもないが、その他の4編を読むと、この人がどっぷりビートニクにかぶれて、小説家になったのだなということがよくわかる。
 ケルアックが『路上』を発表したのが1957年。ギンズバーグが『吠える』を発表したのは1956年。ずばりだ。

 「イントロダクション」では、ピンチョン自身がこのあたりのことを長々と書いている。容易な要約を許さない規模なのだけど、「ビート運動との関連をいえば、私はまあ、かすった程度というところだろうか」とか書いているが、しかしその前後の文章を読むと、いやいやどうして、完全にいれあげてますよ、と言いたくなる。
 これはおそらくピンチョンの冗談なんだろう。たとえば私とかがよく、「いや、そんなに映画たくさんは見てないですよ、年に200本くらい」とかいうのと、同じことだ。

 さらにビートニクに関する記述で、これは見落とせないと思ったことがひとつ。「ネガティヴな面をいえば、ビートもヒッピーも「若さ」を強調しすぎたのだと思う」と。
 ここは重要で、『スロー・ラーナー』に収められた5編も、ビートニク的な混乱・饒舌・破壊衝動にあふれながらも、いわゆる「若さゆえ」的な部分はまったく感じられない。
 そもそも、ほとんどの作品で登場人物が若くない。

 私見ではビートニク文学は「若さ」という以上に、限りなく「わたし」に関する作品群だ。ピンチョンの小説は「わたし」という部分からは限りなく隔たっている。
 これは自らの素情を、決して明かさないということとも関連するだろうし、ピンチョンに自己破壊衝動的傾向はない。このあたりは、同じ高学歴作家でも(ギンズバーグもケルアックもコロンビア大、バロウズはハーバード大だ)、ピンチョンは全然違うようだ。

 『スロー・ラーナー』は、外側への破壊衝動にあふれた、反体制的気分の小説群が集められている。ビートニクの内向性とは距離が置かれ、世界に向けた視線は限りなくクールである。だからものすごい混沌(たとえば『ロウ・ランド』)を書いても、たがは外れない。

 この、クールなカオスとも言うべきスタイルが、後の怒涛のように長大な作品群に結実していくのは、容易に想像がつく。これはミニアチュール・ピンチョンだ。



2011/4/10

滝本誠×大久保清朗「シャブロルという名の快楽」  映画

 滝本誠×大久保清朗「シャブロルという名の快楽」
 4月9日  於ビブリオテック

 トークが始まっていきなり、会場が抱腹絶倒に包まれたのは、話題はシャブロルでなく、トビー・フーパーから開始されたからだ。
 もちろん、まったく無関係ではない。それはマチルダ・メイつながりである。

 80年代に映画を見ていたヘテロの男性諸氏にとって、『スペースバンパイア』(1985)のマチルダ・メイの胸は、一生涯忘れられぬ至福として、深々と刻み込まれているはずだ。
 その衝撃力に匹敵するのは、70年代に映画を見ていたヘテロ男性諸氏にとっての、『青春の殺人者』における、原田美恵子をわずかに数えるのみだろうか。

 そのマチルダ・メイが、ちょうど同日に、国内でも封切の始まった、シャブロルの    2007度作品『引き裂かれた女』に出演しているのだ。
 この情報によって、たぶん同作への観客動員は、1割方増したのではないかと信じる。
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写真:『スペースバンパイア』よりマチルダ・メイ(の胸)。

 そしてその話題への移行が、いかにも研究者らしい観点で、“全部を見せないこと”、すべての心理・感情表現は暗示にとどめることに、シャブロルの魅力の一端がある、という宣言から始めた大久保さんの前提定義を受けてのことだ。
 大久保節と滝本節が、いきなり激突するわけである。

 滝本さんは、マチルダ・メイの胸を目当てに、『スペースバンパイア』の複数の海外ソフトを集めたことに触れつつ、『氷の微笑』(1992)のシャロン・ストーン足組み換えシーンの、複数バージョンについてまで、話を進めてしまったが、その組み変えた足の奥にあるものが見える見えないというテーマは、そのまま大久保さんの、「全部を見せない」ことにあるという、シャブロル・タッチに直結していくだろう。
 こうして映画のシナプスがどんどんつながっていく。

 こうして聞き手の注目をぎゅっとグリップしつつ、大久保さんは『引き裂かれた女』の指の演出について、詳細に話される。つまり指の演出だけで、画面の中の人物たちの恋愛関係を描写してしまうという、シャブロルの微妙にして繊細なテクニックを明かすのだ。

 こんな調子でたっぷり2時間。ある程度の示し合わせはあっただろうが、受けた印象としては、自由連想方式の、どこに転んでいくかわからぬ話で、ときに真剣に、ときに爆笑しながら、まだ十分に知られざる作家、クロード・シャブロルの魅力について、語られる。

 胸うたれたことをいくつか。
 1976年刊行のシャブロル自伝、『それでも私は映画を撮る』には、「プルーストのアンケートに答える」という附録があるそうだ。
 会場では、プルーストが答えた31の質問になぞらえて、シャブロルが答えたそのテクストの抄訳がお土産として配布された。

 その中の「私の気に入りの散文作家」の項目に、「ひとつの系列としてバルザック、ジェイムズ、シムノン。もうひとつの系列としてエドガー・ポー、クリフォード・シマック…」
 ここまでは理解の範囲内なのだが、最後の1人の名前に度肝を抜かれる。
誰あろう、「フィリップ・K・ディック」だ。

 このQ&Aについてトークがおよんだとき、シャブロルはディックの映画化という夢も持っていたらしい、ということにも触れられた。
 シャブロルによるP・K・ディックの映画化!

 ここで私事をひとつ。1990年。1週間の休暇をとった私は、モンマルトルにあるフランソワ・トリュフォーのお墓参りをしたくて、パリに赴いたのだった。
 そんなパリでの夜、折しも封切られたポール・バーホーベン監督、P・K・ディック原作の『トータル・リコール』を見に行ったのだった。
 するとあろうことか、主演のアーノルド・シュワルツェネッガーがフランス語を話し始めるではないか。吹き替えであることを知らずに入ったのだ。

 フランス語をまったく解さない私は、あわてて劇場を出たのだが、よく考えるとそのまま見続けてもよかったかと、今では悔やまれる。
 それはシャブロルはともかく、フランス語によるディック・ワールドの実現ではなかったか。
 そして『トータル・リコール』には、ブレイク前のシャロン・ストーンが出演していたことは、今日のトークの冒頭で滝本さんが触れられた『氷の微笑』の話題と、期せずしてつながってしまい、ひとりほくそ笑まずにいられなかった。

 また、大久保さんの紹介によると、まさにこの4月にシャブロルによる、最後の自伝が出版されたのだそうだ。
 シャブロルとも関係浅からぬ、エリック・ロメールはちょうど昨年1月に亡くなっている。最後の出版は、まさにシャブロルが没する直前の作業になっていたはずで、ロメールの逝去にシャブロルは、何かの虫が知らせたのではないか、というのが大久保さんの推理だ。
 私自身はこの事実に、シャブロルのロメールへの偉大な追悼を見、直ちにこの書物を入手し、目を通している大久保さんの研究者としての瞬発力の凄みを見た。

 滝本さんは、フレンチなるものをこれまで拒否してきたのだという。その滝本さんが、シャブロルの訃報を機に、今日のトークに向けて約50本にならんとする、シャブロル全作品のソフトを見たのだという(トーク後に同席させていただいたお食事の場で、結局全部を見きれなかったとはおうかがいしたが)。
 つまり、「ノワール」の達人である滝本誠をして、クロード・シャブロルには、それだけの行動に走らせる魔力があるということだ。

 私自身も、まだシャブロル体験の入り口にも立っていない。そして、このトークを含め、大久保清朗の一連のいくつかの活動は、日本におけるシャブロル布教(?)の一環だと思う。その種は着々と芽生えているのではないだろうか。

【補】
イメージフォーラムにて『引き裂かれた女』上映中
イメージフォーラムにて「シャブロル未公開傑作選」5月公開
大久保清朗氏が愛してやまぬ『ヴィオレット・ノジエール』紹介文



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