2011/6/28

RIP クラレンス・クレモンズ、そしてマイケル。  マイケル

 2009年の6月25日、マイケル・ジャクソンが急死した。
 7月13日から始まる、ロンドンにおける“THIS IS IT”ライブが目前のことだった。

 そして、それにやや先立ち、マイケルの死の3日後である6月28日、すなわち2年前の今日、同じくロンドンのハイド・パークで、ブルース・スプリングスティーンとE・ストリート・バンドによる凄絶なライブが開催された。
 それが“London Calling Live in Hyde Park”である。これは欧米50都市以上を駆け巡った、2009年のツアーの1つ。

 私たちが見ることのできる、公式の大掛かりなスプリングスティーンとE・ストリート・バンドのライブ映像としては、これが最新のものだ。(より最新のものとしては、2010年12月7日の約30分ほどの映像を収めたものが、『プロミス:メイキング・オブ“闇に吠える街”』に収められた。そして、これがE・ストリート・バンド最後の演奏の姿である)

 さて、E・ストリート・バンドのサックス/パーカッション・プレイヤー、クラレンス・クレモンズがこの6月18日に亡くなった。マイケルの2周忌のちょうど一週間前だ。
 6月はマイケルに続いて、パワフルなミュージシャンをまたしても連れていってしまった。
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 ブルース・スプリングスティーン率いる、E・ストリート・バンドは、異論あるとは思うが、サウンド的には基本的にロイ・ビタンを中心とする、ピアノ・バンドだ。
 3作目『明日なき暴走』など特にそうだ。

 しかし、バンドとしての存在感で断トツに光っていたのは、巨体を微動だにさせず豪放なサックスを吹き鳴らす、クラレンス・クレモンズであることに異を唱える人はいないだろう。
 誤解と虚飾を恐れず言うと、ブルース・スプリングスティーン1人では、あくまでも“ニュージャージー出身”の歌手だった。
 けれど、クレモンズの今にも音が割れる寸前のところで吹き荒れるサックスの、広大な大地の音によって、スプリングスティーンは“アメリカ合衆国出身”の歌手となる。

 この2枚組DVD“London Calling Live in Hyde Park”では、そのクラレンス・クレモンズが、元気いっぱいにサックスを吹き鳴らし、ときにはスプリングスティーンと1本のマイクを分け合ってコーラスし、ときには口笛さえも聴かせ、何もしないときは、黙々とタンバリンを叩いている。
 ブルース・スプリングスティーンのこんなライブは、クラレンス・クレモンズがいなくなった今、もう永久に聴くことはできない。
 しかもこのライブ、全盛期と比べてもまったく遜色ない、相変わらず3時間ノンストップで、熱量最大の演奏を聴かせてくれるのだ。

 私は幸い、1985年の代々木競技場での“Born In The USA”ツアーでの、ブルース・スプリングスティーン& The E Street Bandのライブを聴くことができた。
 あんなすごいライブ、後にも先にもない。
 本音を言うと、“Bad”ツアーに始まる3度の来日におけるマイケルのライブさえ、あれにはかなわなかった。

 あと1回、何とかもう1回聴けないものかと思いながら、とうとう26年がたってしまったが、クラレンス・クレモンズの死で、それも永遠に叶わぬ夢となった。
 心からご冥福を。

2011/6/25

クロード・シャブロル特集 @ユーロスペース  

 クロード・シャブロル『肉屋』、『ヴィオレット・ノジエール』、『刑事ベラミー』、『女鹿
 クロード・シャブロルの連続上映初日。いきなり快調な4本を満喫。
 イザベル・ユペール登場以前の60年代シャブロル『肉屋』と『女鹿』は、睡眠薬でなく、まだ刃物である。
 ちなみにfilmcomment誌に掲載された、シャブロル作品ベスト20の第1位は『肉屋』、『女鹿』は第10位の好位置。

 この頃のシャブロルの撮影監督ジャン・ラビエによるカメラは、光の反射が際立つ。『肉屋』で折りたたみナイフの刃がパチンと飛び出る時、いったいどんな照明の超絶技巧があれば、その瞬間ギラリと刃先が輝いたりするのだろう。
 『女鹿』にいたっては、水面のみならず、水着のステファーヌ・オードランの太ももまでが、キラキラと光を撒き散らしている(一転『ヴィオレット・ノジエール』では、そういった「反映」は無縁となり、鈍くくすんだ戦前という時代の空気感で描かれる)。
 そして全編に鳴り渡っているのが、アレンジがラヴェルの『水の戯れ』を間違いなく意識した、ピエール・ジャンセンの音楽だ。

 4本が4本とも、求めても届かぬ愛の物語だと言えるかもしれない。
 『肉屋』のステファーヌ・オードランは、たった1人で暮らす女性の孤独感を鮮やかに演じるが、シャブロルは“その部屋にたった1人で住んでいる”という状態を、必ず描いてみせる。
 さらに『女鹿』では、部屋にはたくさんの人がいるのに、まったく視線が向けられないことによって、ジャクリーヌ・ササールの孤独感をくっきりと示しつつ、いざ本当に誰もいなくなったときにどのような行動に出るか、という心理劇でもある。

 『ヴィオレット・ノジエール』のイザベル・ユペールは、いつも必ず、まっすぐ上を向いて眠るのだが、そんな姿勢では決して熟睡することなどできはしない。
 実際、ふとした弾みで直ちに目覚めてしまうのだけど、どんなに男と体を重ねても、彼女は真実抱きしめられることはついぞない。
 そんな彼女の眠りの姿勢は、無意識に自分を上から抱きしめてくれる誰かの登場を、待ち望んでいるかのように見えてならない。
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写真:『ヴィオレット・ノジエール』より。イザベル・ユペールはついぞ抱きしめられることはない。画像リンク元

 そんな中で、『刑事ベラミー』は素晴らしい愛の映画だった。
 シャブロル遺作となったこの作品は、愛を求めて得られぬ人物たちばかりの中、間違いなく“そっち”の側の人間になる可能性大だった、ジェラール・ドパルデューを、見事に感動的な慈愛で包む、マリー・ビュネル演じる妻がいた。

 このマリー・ビュネルの演技の素晴らしさを、どう表現すればいいかわからないのだけど、彼女の優しさを得るにふさわしい、気配りの正しさがドパルデューにはある。
 朝食の妻のバゲットにバターを塗る手つきの優しさ。食器洗いのときには傍らに寄り添って、洗い終わった皿をふきんで拭く自然なコンビネーション…。
 一方、ステファーヌ・オードランが開いたノートの上に、そのまま飲み物のグラスを置くような人物が、『肉屋』のジャン・ヤンヌである。

 『刑事ベラミー』で思わず泣けてしまうシーンがあって、外出前にマリー・ビュネルが、「これはどう?」と首に巻いたスカーフを、ドパルデューが「あんまりよくない」と言って、結局、何も巻かずに2人で出かける。
 いささか精神の均衡を失したドパルデューが、その外出の途中でマンホールの穴に落ちそうになり、ビュネルが彼の巨体をあわてて支え、そのとき冷汗やら涙やらでぐしゃぐしゃになったドパルデューの顔を、彼女が布でやさしく拭うのだが、その拭った布が、首に巻かずに出たはずのスカーフなのだ。
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写真:『刑事ベラミー』より。マリー・ビュネルがとにかく素晴らしい。画像リンク元

 『刑事ベラミー』は、実は生死ギリギリを接した人々の映画で、冒頭いきなり広大な墓地を延々と移動するカメラが、やがて海岸の崖下まで進み、そこには車の残骸とともに、首がもげて黒こげになった死体という、ショッキングなシーンから始まる。
 ここで「首」というものを考えるに、冒頭からずっと登場人物の全員が、ちょうど首のところで切れた状態の構図で登場することがわかる。

 その最たる者が、ドパルデューを事件に巻き込むべく、庭でうろうろしているジャック・ガンブラン。彼の体はちょうど窓のブラインドや、窓枠などなど、さまざまな水平線で、首のところが切れている。
 他にも、生首がしゃべっているかのように、首のところで切れた構図でキャスターが話している、TVニュースの画面など。

 一方、マリー・ビュネルだけは、全身フルサイズで登場してくるのを見て、「ああ、この人だけはこの映画において祝福されている!」と確信させられる。
 彼女の首がいかに讃えられているかは、先のスカーフの一件でも明らかだ。

 本日の4本においては、さすがに遺作のことだけある、『刑事ベラミー』が美しさとおおらかさで、他を完全に圧していると感じた。本当に素晴らしいと思った。

2011/6/23

エステバン/パニチェリ『絆と権力 ガルシア・マルケスとカストロ』  

 アンヘル・エステバン/ステファニー・パニチェリ『絆と権力 ガルシア・マルケスとカストロ』(野谷文昭・訳 新潮社)

 キューバの指導者フィデル・カストロと、ノーベル文学賞作家ガルシア・マルケスが、非常に懇意な仲にあることが、記憶のどこかに残ったのは、ビル・クリントン元合衆国大統領の自伝『マイライフ クリントンの回想』(朝日新聞社)を読んだ時のことだ。

 同書で、マルケスの『百年の孤独』について、「これはウィリアム・フォークナーの死後、あらゆる言語で書かれた小説のうちでもっとも優れた作品だ」と述べるクリントン元アメリカ合衆国大統領である。
 合衆国にとって、目の上のたんこぶのような、キューバの指導者とそれほど懇意な作家について、よくそれだけのことを言えるなというのが、まずあった。

 さて『絆と権力』という本書は、マルケスとカストロはもちろん、その周辺の人物たちによるテキストや発言、直接の取材から、その関係の深さを追いかけ、記述したものだ。
 ガルシア・マルケスという人物は、私自身もそのあたりについて、不勉強だったが、小説家という以上に、むしろ政治記者として膨大なジャーナルを執筆している人物であり、それらの過程でフィデル・カストロの知己を得る。
 それは社会主義者として、キューバ革命に対する深いシンパシー故のことだ。

 しかし、独裁者としてのカストロは、反革命的な手合いに対しては、それ相応の行いでもって報いる。たとえば詩人エベルト・パディーリャへの言論封殺と思想統制。
 親キューバといえど、それに反発した知識人たちの行動に対し、マルケスの行動は曖昧さを極める。

 本書を読み進めていて、直観的に拭いがたく感じるのは、カストロに対して然るべき発言できる“ノーベル文学賞受賞者”、ガルシア・マルケスは、これはどうも広告塔としてうまく“利用されているな”という思いである。
 情報ソースの絶対量にも関わるはずだが、カストロのマルケスへの“熱い絆”は、マルケスのそれに比べて、どこか不鮮明だ。
 
 たとえば、マルケスは、カストロへの口利きによって、多くのキューバ人を合衆国への亡命の手助けをするが、先に挙げたビル・クリントンの回想によると、それは「カストロが、国内の問題をアメリカに押しつけようとして、キューバ人にアメリカへの大量亡命を許している」という捉え方になる。
 
 その関係において、キューバに対するアメリカの経済封鎖に反対するマルケスは、その解除をクリントンに求めるのだ。
 もちろん封鎖解除など不可能だが、クリントンはキューバとの間に協定を成立させ、カストロはキューバ人の大量流出を食い止めることを誓約。アメリカ側は毎年2万人のキューバ人受け入れを約束する。少なくとも、クリントンの任期期間中、カストロはこれを遵守したという。

 本書とクリントンの回想録を照らし合わせつつ、これら外交の達人たちによる、大きな動きの中でみると、ガルシア・マルケスなど実に取るに足らぬ狂言回し程度にしか、見えてこない。
 さらにクリントンの証言では、「のちにガルシア・マルケスの口から、フィデル・カストロとビル・クリントンの両方を友人に持つ人間は自分しかいないという冗談も出た」というのだから、ますますだ。

 ガルシア・マルケスは権力への執着について、『族長の秋』という小説に結実させる。すごい作品だと心から思う。
 しかしたぶんこの作家の、いちばん大きな資質としては、自らの卑小といえば卑小な、あえていうならば権力への誘惑を、莫大な言葉の渦の中に溶かしこんで、結果的に生まれた作品からはもはや“私”というものなど、跡形もなくしてしまえることなのだろう。
 しかし、それこそが盲執というものの正体なのかもしれない。

2011/6/20

『アジャストメント』  映画

 ジョージ・ノルフィ『アジャストメント』
 基本的にマット・デイモンは、「ボーン」シリーズの関係者とは、あまり付き合わない方がいいのではないかと思うのだけど、ノルフィ監督は『ボーン・アルティメイタム』の脚本家で、これが監督デビュー作。

 マット・デイモンは相変わらず実にいい。いかにも、未来の大統領ポストを狙う青年政治家という、知性と威厳と誠実さが滲み出ている。うっかり、将来はこの人に合衆国の国政を任せてもいいんじゃないか、と本気で思ったくらいだ。選挙権もないくせに。
 問題はそんなマット・デイモンの、存在感と風格のある演技に、物語の荒唐無稽さがあまりに噛み合っていないことだ。

 要するに、レオ・マッケリー『めぐり遭い』(1957)のように、何をどうやってもすれ違いの連続で、どうにも出会えぬカップルの「偶然」は、実は「調整局」という異界の組織が仕組んでいる、という物語だと理解すれば話が早い。
 そこにP・K・ディックなど持ち出さず、ストレート・アヘッドなメロドラマにすれば、十分に成り立つのではないかと思う。
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写真:エミリー・ブラント。や、やばい。いくらなんでも美人すぎる

 というのは、ヒロイン、エミリー・ブラントの登場のしかたが、あまりに素晴らしくて、なるほどこれなら確かに“生涯賭けた運命の女性”、と決意するはずだと思わせるに、強烈な説得力があったからだ。いきなりのキスについても、まったく違和感なし。
 この映画の「出会っていきなりのキス」は、ロン・ハワードの『スプラッシュ』以来、もっとも納得感あるものとさえ言いたい。

 人生終わった。お先真っ暗だ。しかしこれから平静な態度で人前に出ねばならない。そんな鬱憤と憤懣を、誰もいないと思っていた洗面所で、1人ぶちまけていると、不意に個室からがちゃりと絶世の美女が(それも素足で)目の前に現れる。
 その現れたエミリー・ブラントと、「ッッッ!!??」というマット・デイモンを、洗面所の鏡にも映しこみつつ、きれいに動かしたカメラがおさえた一瞬で、この映画を愛した。

 その後、「偶然」通勤のバスで隣り合わせ、改めて自己紹介し合うシーンも、ロマンチックで実にいい。ああ、こんな風に知り合うのって理想だな、と素で思わされてしまう。
 狭苦しいバスの座席で、隣り合う2人を撮るのは、相当に厄介だと思うのだけど、それがすごくいい。
 手に持ったコーヒーをこぼす一瞬も、演技といいカット割りといい、ほぼ完璧。
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写真:『アジャストメント』より。この洗面所での出会いのシーンだけ何度でも見たい。画像は映画.comより

 だから、このままディック原作というSF仕立てでなく、シリアスなメロドラマとして展開したら、どんなに傑作になったろうと、無念でならない。
 ダンサーという役柄故の、エミリー・ブラントの創作ダンスもまた素晴らしい。

 が、SF云々より、コーヒーに浸かった携帯電話がその後も使えたりなど、映画が終わってしまうと思い出せないような細部が満載で、作劇に厳密さが足りないところからすると、メロドラマ仕様にしても、全体通すとやっぱりダメかもしれない。
 すっきりしない作品であることは確かだ。 

2011/6/17

『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』  

 マルコ・ベロッキオ『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』

 追われている男。追っ手の目を逃れるべく、逢瀬を交わしている恋人を装おうと、たまたまそこにいた女性と唇を重ねる。
 こんな冒頭から、「ああ、映画だ!」という想いがいきなり迫りくる。

 接吻する恋人を装って追っ手から逃れる。私の世代で、これから真っ先に思い出すのは、トリュフォーの『日曜日が待ち遠しい!』(1982)だが、しかしこれを最初にやった映画は何だろう?
 山田宏一さんは『フランソワ・トリュフォー映画読本』(平凡社)の中で、この振る舞いについて、ルネ・クレールの『巴里祭』を引き合いに出しておられる(これが映画史上初という言い方はしていない)。

 では、仮に『巴里祭』を最初とすると、『巴里祭』は1932年作品。
 『愛の勝利を』のヒロイン、イーダが、後のムッソリーニを匿うべく、唇を許したこの場面は20世紀初め。2人に子どもが生まれたのが1915年とのことだから、『巴里祭』よりずっと前だ。だからムッソリーニの機転は、ルネ・クレールに先んじて勝っている。
 すなわち、この2人の主人公は、出逢いのその瞬間から「映画的」だった!

 後にチネチッタという、ヨーロッパ最大規模の撮影所を建設することで、映画史に名を刻んだと言えるこの独裁者は、独裁者であるが故に、都合の悪い声は徹底的に封じ込める。
 ハナ・アーレント『全体主義の起源』(みすず書房)によると、全体主義とは(人々を)孤立させ、その政治的能力と、公共的領域を破壊することに他ならない、という。
 であるならばそれは、まさに『愛の勝利を』において、ムッソリーニがイーダに対して行った仕打ちそのものではないか。

 後の独裁者ムッソリーニを愛し、体と財産の全てを彼に与えて、息子までもうけつつも、一切の関係を断たれるイーダ。
 彼の愛情と息子の認知を得ようと、あくなき執念で全人生を賭けての行動に挑むイーダの姿が、この映画の途轍もない推進力を形成する。

 そして愛の盲執というのが、映画における一大ジャンルを形成するならば、彼女の一切合財の権利と主張を、徹底的、完膚なきまでに封じ込めたムッソリーニの手配は、必然的に「全体主義」そのもののカリカチュアになるだろう。
ムッソリーニに想いを伝えんとするイーダ(とその息子)の主張と行動は、あまりにも絶望的に一方通行である。この一方通行ぶりこそが、アーレント言うところの「全体主義」でなくてなんだろう。
 かくして『愛の勝利を』は、歴史と個人を同時に描き出す総合絵巻となった。

 さらに、ムッソリーニとイーダの間に生まれた息子が成長し(一人二役である!)、父・ムッソリーニの演説を本物と見まごうばかりにそっくりに物真似ができるようになる。
 その物真似のあまりのうまさに、最初ははやし立てていた学友たちも、ドン引きで彼から離れていってしまうほどだ。

 そんな息子も精神病院に放りこまれ、見ている者の身がすくむほど凄絶に、父ムッソリーニの大演説を真似るとき、全体主義の起源が狂気と紙一重であることが焙り出される。
 のみならず、何万もの民衆に宛てた、父ムッソリーニの演説が、誰一人聞く者のない精神病院での、息子ムッソリーニによる演説と酷似することから、全体主義・独裁者というものに、その無内容・空虚さの表象をまとわせていく。

 これぞベロッキオ版『1900年』と呼びたい。

2011/6/11

『GGR グレンガリー・グレン・ロス」  ノンセクション

『GGR グレンギャリー・グレン・ロス』
 於 天王洲銀河劇場作:デヴィッド・マメット 演出:青山真治

 1984年のピューリッツァー賞受賞の戯曲。
 クリストファー・ウォーケンとショーン・ペンによる『ロンリー・ブラッド』(1985)といった、血管がブチ切れるような、熱く集中力の塊のような映画を撮らせたら、超一級のジェームズ・フォーリー監督が、ひときわ沸点を上げて作った『摩天楼を夢みて』(1992)として、映画化もされている。

 確か映画版は、雨が降りっぱなしで、全俳優陣が脂汗と冷汗と、鼻水から涙まで、ありとあらゆる液体を顔から噴き出して、テンパった演技をする、とにかく湿度の高い演出が為されていた。
 一方、この青山演出版では、前半の中華料理店場面ではよく水分を取るし、後半の事務所場面でも、給水器からしばしば紙コップで水を飲み、むしろ水分は出すのでなく、内に取り込もうとする。
 もっとも、これほどまでのマシンガントークを要求する舞台では、本番中の水分補給は必須で、それを演出に組み込んだという現実的な配慮も、あるいはあるのかもしれない。
 いずれにせよ、この取り込む水というのに、彼ら一人一人の立場の“アツさ”が滲む。

 この戯曲では、すべての会話は絶体絶命のドタンバだ。あらゆる応答が、その場しのぎの思いつきで為されるが、この台詞の処理。
 映画においては、交わることのない視線は、舞台においては交わったり交わらなかったりする。
 それと同じように、映画では複数の人間が同時に話してしまう事態は滅多にないが、ここでは互いの台詞も、交わったり交わらなかったりしていく。
 この台詞と台詞のかぶさり合いに、ありとあらゆる申し出が、一切合財、他人のためでなく、自分のためにのみ為されているという、強烈な各人のエゴがむき出しになる。

 さらに後半、事務所場面の舞台美術において、ちょうど真正面におかれた掛け時計の存在が、極限ギリギリの焦燥感を表現してやまない。
 物語上は、特に何時までにこうならなければヤバイ、といった時限設定があるわけではないが、舞台にさりげなく置かれた時計が、刻々と時を刻んでいくのを、ちらちらと目の端で確認させられてしまう。
 「説話論的な持続」というのか、映画は時間を省略することが可能だが、舞台は“場”を変えない限りは、同じひとつの時間だけが推移していく、ということを否応なしに見せつけられる。

 舞台の可能性が、そんなところにも試されているようにも思われ、劇場では早くも青山真治監督として、舞台演出第2弾の案内があった。
 マーシャ・ノーマン作『おやすみ、母さん』。こちらもピューリッツァ賞受賞戯曲で、またすごい世界が展開するような気がする。是非足を運びたいと思う(2012/11/26〜12/4)。

 『GGR グレンギャリー・グレン・ロス』都内での日程は、2012/6/10〜6/19。

2011/6/10

ひし美ゆり子 樋口尚文『万華鏡の女 女優ひし美ゆり子』  

 ひし美ゆり子 樋口尚文『万華鏡の女 女優ひし美ゆり子』 (筑摩書房)
 ひし美ゆり子さんは、いわゆる「巨匠」「名匠」の監督作品には、とうとう出ることがなかった。83年の木下恵介監督(『この子を残して』)が、いちばん大きな名前かもしれないが、これは出演シーンの短い、非常に小さな役である。
 ご本人もおっしゃる通り、少なくとも映画作品においては、「代表作がない」。

 それなのに、その名前は広く知られ、ことに愛され方の切実さと熱狂度においては、日本映画史上最大じゃないかとさえ思う。これに匹敵するのは、絶頂時の吉永小百合ただ1人ではないか。

 私自身は、本書を筑摩書房のPR誌「ちくま」連載時に、欠かさず読んでいて、その折に『ウルトラセブン』の封印12話、「遊星より愛をこめて」について、
「亡くなる前の高野宏一さん(特技)に伺ったら、ちゃんと十二話の音がはクリーニングして保管してあるから安心してよとは言われたんですが」(本書P.108)
 という、驚くべき発言に触れ、さっそくそのことをツイッターにあげたところ、私としては異例の数のリツイートがついて、とても驚いたものだった。
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写真:ウルトラ警備隊制服もいいが、看護婦姿のアンヌは究極にして至高である。

 ひし美さんが愛されるのは、やはり1にも2にも「セブン」のアンヌ役によるものだ。
 ではなぜ、アンヌなのか。『ウルトラマン』のアキコ隊員でも、『ウルトラマンエース』の南夕子でも、『人造人間キカイダー』のビジンダーでさえなく、なぜアンヌなのだろう。
 もちろん、往年のヒーローもの、いや、ヒーローものの枠を超えて、「セブン」の水準が断トツに高いことはひとつあると思うが、個人的にはアンヌ隊員は、大人になった今みてもまったく遜色なく美しいからとしか言いようがない。

 アンヌ隊員だけは、子どもごころには憧れのお姉さんであるし、成長してからはそのままの姿で、まったく幻滅感なく理想の女性として映る。いわゆる「昭和」の顔をしていないのだ。どの時代に登場しても、間違いなく成功するタイプの美貌なのだと思う。
 ノスタルジーとリアリティの両方を刺激する稀有な顔だ。

 そんな決定的な役であるにもかかわらず、ひし美さんご自身は、アンヌのことをたくさん演じた役のうちの1つくらいにしか考えていなかったという。
 いわゆるアンヌ・ブームというのは、本書とも照らし合わせると、80年代後半以後にビデオなどによって、「セブン」にアクセスしやすい時代が来たことで始まる。

 けれど、ご自身の役柄へのそうしたこだわりのなさが、ひし美さんの独特のキャリアを形作ったのかもしれない、と本書を読んで思う。
 そんなあり方を樋口尚文さんは、「「流され」女優」と表現する。
 彼女のキャリアは、「積極的な野心や企みによって手に入れられたものでは」なく、「時代の波に乗るというよりも波にさらわれるように、目の前にやってきた映画やテレビやグラビアの仕事をこなしてきたにすぎない」という分析に基づく。  私は冒頭に、「巨匠」「名匠」と組んでいないと書いたが、いくらなんでも出ていなさすぎると感じることもある。
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写真:これほどの美貌なら、2011年の今登場したってトップ女優だ。

 「私はなにかそういうメジャーなものには気がすすまなくて、ちょっとあやしい映画でコソコソやってるほうが性に合ってたんですよ(笑)」(P.195)
 と、ご本人は笑うのだが、間も悪い。
 たとえば資生堂のCMにも決まりかけてたのだと言うが、折しも『ポルノ時代劇 忘八武士道』のヌード写真が男性誌に出て、話が潰えてしまう。
 究極的なところ、大島渚『愛のコリーダ』主演を断ってしまうという、痛恨の事態も起こる。(樋口さんは「よりによってここで「流され」なかった」と残念がる)

 やはり「名匠」の作品に主演をはるためには、「女優」としての「野心や企み」というものは不可欠なのだろうか、という感想も持ってしまう。
 というのは、ひし美さんを『愛のコリーダ』に熱心に誘った大島渚をはじめ、ひし美さんを迎える監督たちは、誰もが熱烈に、熱狂的に彼女の出演を求める。
 その筆頭が石井輝雄だった。そして江崎実生、関本郁夫。最近では押井守まで。みな「しがない」(by山田宏一)監督たちだ。
 きっとひし美さんの、そんな飾り気のない「しがなさ」は、彼女の独特の愛され方と無関係でないのかもしれない。
 現在のひし美さんが、ブログやツイッターを通じて、本当に気さくにファンと交流を深めている様子をみると、その一端がわかる気がする。

 こうした、ひし美さんのキャリアを、日本映画史の流れの中に位置づけて、樋口尚文さんはこのうえなく素晴らしく分析してみせる。長いが引用する。
 「ひし美は、かかる映画撮影所の創世記から最盛期を知る映画の虫ともいうべき職人監督たちの現場を知る、最後の世代の女優であろう。そして同時に、こうして手だれたちに愛されたひし美は、裸という表現を求められることで、たとえば東宝が長年積み上げてきた東宝カラーをきわどくかき乱す立場にもなっていた。
 こうして映画の最盛期に遅れてきたひし美ゆり子は、映画の伝統に愛されながら、それを壊す「境界人」的な女優だった。」(P.211)

 本書は、ひし美さんの肉声を伝えてくれる、かけがえのない書物である他、編者・樋口尚文さんの懇切丁寧をきわめた補足解説が、60年代後半から70年代にかけて、撮影所が崩壊し、映画産業が完全にダメになって、テレビへと軸足が移っていく日本映画史を、ひし美ゆり子というプリズム、いや、万華鏡を通して、透視しきったすばらしい成果である。
  


2011/6/7

大島渚『わが封殺せしリリシズム』  

 大島渚『わが封殺せしリリシズム』(清流出版)読了

 そもそも、「リリシズム」ってよく聞く言葉だし、イメージとしてはわからないでもないが、どういう意味なのか。

 ある知人は「「凛々しい」ということだよ。だから「りりしずむ」だ」と、とてもくだらないことを言うのだが、私はそういう言葉遊びが大嫌いだ。
 ビル・エヴァンス「ワルツ・フォー・デビー」がリリカルだ、という感想はよく見かける。
 かつて、TV番組「題名のない音楽会」で、オスカー受賞直後の坂本龍一が、フルオーケストラで『ラスト・エンペラー』を指揮したとき、司会の黛敏郎が「非常にリリカルな、美しい音楽ですねえ」とコメントしたのは、はっきり覚えている。
 「大辞泉」によると、「抒情詩的な趣や味わい」とのことだが、これはさっぱりわからない。

 「ワルツ・フォー・デビー」や、「ラスト・エンペラー」のテーマをリリカルというなら、何となくイメージ的にはつかめるような気はする。
 それを、非常なシリアスな緊張感をはらみつつも、きわめて美的なロマンチシズムにあふれた様子としてみよう。
 となると、それはなるほど大島渚というよりは、同時代の監督では吉田喜重こそが、リリシズムの監督といえそうな気もする。

 ではしかし、大島渚は何を封殺しようというのか。
 実は本書の表題となった、「わが封殺せしリリシズム」という文章は、収録文中でも最も短く、たったの2ページしかない。
 しかしそれが書名にまでなるとは、その意図はぜひとも探らねばならない。

 大島渚は、『愛のコリーダ』の仕上げでパリ滞在中、エッフェル塔がふとしたはずみに、目の前に現れたとき「私はこんな風景に出会うことを人生の最終目標にしていたこともあったという強烈な感傷」を抱く。

 やがて大学に入った大島は、一年生だけで劇団を作ったが、そのときどうしてもやりたかったのが、デュヴィヴィエ監督作品でも有名な『商戦シナシチー』だったという。
 その「暗く甘い」感傷を愛し、同作品で「女にふられる役のセガール」を演じた若き大島は、「細い細い雨の降る北フランスの港町に恋をし、そこの安ホテルの食堂に座っている感傷的な自分に恋をした」と書く。

 そして「『商船シナシチー』のあと、私はそんな感傷を封殺して三十年を生きた」(下線Incidents)と、文章をしめくくるのだ。そして、この文章が書かれたのは1978年。作品としては『愛の亡霊』の頃だ。
 ここで初めてわかる。大島渚が封殺した「リリシズム」とは、「感傷」の意か。

 そこで私は不意に思い当る。吉田喜重はそもそも「感傷」などという言葉を用いたことはなかった。
 直ちにその著書、『変貌の倫理』(青土社)と『小津安二郎の反映画』(岩波書店)を、慎重にひもといてみる。一字一句たどったわけではないので、正確さは欠くことをご了承願いたいが、全ページ確認した限りでは、「感傷」などという言葉は1度とて使っておらず、その文章があまりに素晴らしいので、ついつい幾編かを通読してしまうことには、吉田喜重にあってそもそも「感傷」などという感情は、根本からしてないように思えてならない。
 大島渚がわざわざ意識的に「封殺」せねばならなかった「感傷」は、吉田喜重にとっては、そもそも「封殺」するまでもなく、初めから存在しないのだ。

 さて、わざわざ「封殺」したと宣言している、大島渚の「感傷」だが、本書を読んでいくと、不意にその「感傷」がほとばしるのを、いやというほど感じさせられる。
 何篇か収められた追悼文がまずそうだ。特に川喜多和子へのそれは感傷にあふれている。

 もちろんだが、これは批判ではない。
 編者、高崎俊夫さんは、この本において「クローズアップしたいのは、そのような大島監督の<繊細で心優しいセンチメンタリスト>の側面」と「あとがき」で書く。
 「そのような」とは、「過激なまでにセンチメンタルで抒情的な資質を隠し持つ大島渚」ということで、ここで「隠し持つ」と書いておられることが、最重要ポイントだ。
 その「封殺」したはずの「感傷」は、不意にほとばしる。その放出が、本書に収録された文章の魅惑に他ならない。

2011/6/4

「クロード・シャブロル未公開傑作選」  映画

 クロード・シャブロル『甘い罠』、『最後の賭け』、『悪の華』
 シャブロルの映画を見ていると、多くのことがいつも後から思い当る。
 たとえば『甘い罠』。2人の中年女性がカフェで会話をしていて、「あの子たち遅いわね」と一方が言うと、もう一方が「延長試合かしらね」と微笑する。
 この段階では、まだこの会話の意味がわからない。
 するとほどなくして、窓の外に若いテニスウェアの男女が、仲睦まじく車を降りてくる。

 2人の中年女性は、この若い男女それぞれの母親で、「延長試合」と言った言葉が、このとき初めて、エロチックにして、子どもの母としてはいささか不謹慎なジョークだったことがわかり、作品の空気がどっと濃厚になるのを感じさせられる。
 するともう、その後に続く4人の食事シーンでは、若い方の男女を「2人はできている」という目線でしか見れなくなってしまう。
(もちろん車を降りて来たときの彼女(アナ・ムグラリス)の脚線 ― この映画の彼女は、いつだってその長い足を、つま先立ちで歩くのだ!― があまりにもまぶしいことが、そうした気持ちを助長する)

 『悪の華』にしても、戦時中の古いシャンソンが鳴りわたるさなかに、いきなりの死体、というオープニング。ここでなぜ戦中のシャンソンか、ということがわかるのは、最後の最後になってのことだ。
 冒頭、3年ぶりにアメリカから帰って来たという、息子ブノワ・マジメルが、久しぶりの家に向かう車中で「ミシェルはどうしてるだろう」ということを、いくらか言いにくそうな、ちょっと異なるニュアンスでその名を出すのだけど、こちらは「ミシェル」誰なのかを知らないので、そのまま聞き流してしまう。
 しかしその数分後、家に帰ってきたブノワ・マジメルの前に、当の「ミシェル」(メラニー・ドゥーテ)が階段の上から姿を現すと、彼を見つめる彼女のまっすぐな視線と、その魅力的な肢体から、一発で「この2人はできている」と直感させられる。
 車の中でのブノワ・マジメルの、すっきりしない言い方はそういうことかよ、と。
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写真:『悪の華』よりメラニー・ドゥーテ 美人は何かと身が危険である。 画像リンク元
 シャブロルは、登場人物を出してくるときに、何か特別な演出や演技を施しているわけでは、たぶんない。ただ、このように、恐ろしく用意周到なのだ。
 だいたいにおいて、人生というのは何から何まで、後になってから思いあたるというのが、現実的な生活実感だろう。

 『最後の賭け』の冒頭で、詐欺師のイザベル・ユペールにカモにされる男にしても、金をくすねられた後、振り返って思い当る節はいくらでもあったのではないか。
 カジノでは喫煙などしていなかった彼女が、バーでいきなり煙草がほしいなどと言いだして、では買って来てあげようとうっかり席など立つから、その間に睡眠薬を仕込まれる。
 行きずりの女を“ものにしよう”と思う場合、実際にものにするまでは、死んでも席を外さないというのは、鉄則中の鉄則だろう。

 シャブロルの映画から、一瞬たりとも目をそらすことができない理由の1つは、このように後になってそれがどんな意味を持ってくるかわからぬという、濃密な気配にあふれていることだ。そしてそれがすべてに効いている。
 では、単に「伏線」をばっちり張りめぐらせるのが、シャブロル流なのかというと、もちろんことがそれほど単純なら、誰でもシャブロルになれてしまう。
 だいたい、後から振り返ってそういうことかと合点するのは、シャブロルならずとも、そんなこと「犯罪もの」のルーティンですらあるだろう。
 
 けれど、伏線なら仮に伏線とそれを読んでおくが、知らずして映画の画面に、官能性や喪失感、あげく失われた時間といったものまで、表面化させてしまうなら、別次元の何かのはずだ。
 フランソワ・ゲリフ『不完全さの醍醐味』(清流出版)の、『肉屋』についてのインタビューの中で、シャブロルは「ひとつのショットで表現できるものにみっつのショットなど必要ないことはいうまでもない」と言っている。

 実人生にはカット割りなどあり得なくて、すべてはワンショットだ。シャブロル・マジックとは、そうした切り詰められた画面が、語られたからには取り返しのつかぬ言葉の一回性とひとつになって、目の前に現れるものだ。
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写真:『甘い罠』よりアナ・ムグラリス。美人は何か映るものがあるとつい覗いてしまうのか、ろくなものを目にしない。写真リンク元
 『甘い罠』で、初めて一家の前に「自分はあなたの娘かもしれない」と現れたアナ・ムグラリスが、あれこれ話をしている中、イザベル・ユペールは何気なくソファに座るのだけど、その手はいつしかソファに置かれた、まるで蜘蛛の巣のようなレースを、編み始めている。
 まるで、いい獲物がやってきたと言わんばかりに? いや、そんな表情ぜんぜんしていない。ただ手が即物的に動いているだけだ。
 日々の生活の中で、そのときそれがどんな意味を持つかなんて、あらかじめわかる人間などいはしない。けれど映画の中でならば、それを順体験できる。
 シャブロルの映画における異様な人間臭さは、そんなところからも発見できるのではないだろうか。

2011/6/2

表象文化論学会『表象 05』  

 表象文化論学会『表象05』(月曜社)読了
 特集「ネゴシエーションとしてのアート」。
 面白かった。加治屋健司さんによるイントロダクションが明解だったからかもしれない。
 このイントロダクションでは、本特集について「アートを社会的な諸力との交渉の場と捉えて、現在のグローバルな文化状況におけるアートのあり方を考察することを目的としている」と、ズバリ定義づける。

 そのうえで、問題意識は3つ。それを非常に俗っぽく要約してみる(従って特集の意図をあるいは曲解させているかもしてない)。

@アートといっても、その他視覚文化(映画はもちろんマンガやアニメを含む)との混淆が起こっており、むしろグローバルな文化状況にあっては、それらこそが問題を顕在化させている可能性がある。

Aグローバル化された社会におけるアートは、必然的に複数の国家・文化をまたがるものになるが、その一方でたとえば「日本」といったドメスティックな傾向を持つ作品もあり、それがグローバルな状況下に、どんな価値を持ち得て、どれだけ市場への発信において意識的なふるまいなのか。

B研究の徒は、そもそもアートや文化の担い手と、必要にして生産的な関係をきちんと築けているのかどうか。

 といった事柄を起点として、約40ページにわたる共同討議に入る。そして特集記事に対応する論考、翻訳ものを含めて4本。
 きちんと編集方針が行きわたってるな、と思わされたのは、「特集」からは直接解放された後半の書評・論文の方が、むしろメッセージを伝える媒介(メディウム)としてのアート、という役割を、明瞭に伝えているように感じたからだ。

 特に、富山由紀子「<日常>写真の静かな抵抗―下津隆之「沖縄島」を読む」と、高岡佑介「労働科学者としてのエミール・クレペリン―「疲労との闘争」に見るドイツ産業社会の一断面」の2本を、個人的には興味深く読む。



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