2011/7/27

『アイ・アム・ナンバー4』  映画

 D・J・カルーソー『アイ・アム・ナンバー4』
 実に楽しかった。予告編を見て、これはイケそうだと思った直感は当たりだった。
 SFファンタジーというより、筋のいい学園ものと見るのが妥当で、これがいい。
 もちろん何より、宇宙から来た超能力者ナンバー4(アレックス・ベティファー)の、地球での恋人役を演じるダイアナ・アグロンが、あまりにきれいだったからだ。
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『アイ・アム・ナンバー4』より。かわいいなあ。

 強大な超能力を持つ仲間が9人、地球に身を潜めて暮らしているが、謎の異星人に駆り出されては、次々と殺されていく。次の標的はナンバー4。
 普通の高校生として暮らしたい彼には、護衛の超能力者がついており、彼の安全に気を使うあまり、過剰な保護監視を行うので、煙たがられてもいる。

 クライマックスはもちろん、ナンバー4と刺客との凄絶な戦闘アクションに。ここで時折、伏線のように登場していた、美人超能力者ナンバー6(テリーサ・パーマー)も、助っ人として乱入し、いかにも「製作マイケル・ベイ」印の超絶バトルへ。
 けれど、実はそのバトルにも新味はなくて、それにもかかわらず、この映画に共感できるのは、友だちができない高校生たちの孤独感が、とてもよく表現できていたからだ。

 主人公のナンバー4は、逃亡生活を強いられているために、友人を作らぬよう厳命されている。だから学校では目立てない。
 目立てないのに、過剰に目立ってしまうのはヒーローの宿命だが、その彼の苛立ちが、気の合いそうな仲間と話すときに、ふとなごむ。

 その友人が、いじめられっ子のサム(カラン・マッコーリフ)で、この子と築く関係がとてもいい。
 いじめられながらも、それも高校生活だけの不運と、すべてを甘受する彼の知的な眼差しが印象的なのだが、ナンバー4をとっさに救い救われるその関係に、互いに“初めてできた友だち”感が宿る。

 また、ナンバー4が恋に落ち、ダイアナ・アグロン演じるサラの家を訪問し、陽気な家族に囲まれて夕食をごちそうになって、初めて家庭的な空気に触れるナンバー4の表情も、お約束とはいえ、胸しめつける。
 その後、初めて入る(2階の)彼女の部屋の空気感。どこかすさんだ、物悲しさあふれるインテリアに、やはり彼女の心にも、小さな闇が隠れていることがわかる。
 そんな彼女の趣味はカメラだ。「レンズを通すとその人の真実が見える」と、いつも真実を欲している子だが、実は彼女は真実を見誤り、男で失敗していることがわかる。
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写真:『アイ・アム・ナンバー4』より。どこか寂しそうな室内。しかしかわいい。

 なお、デートの帰りの玄関先で、互いに別れ難くおでこをくっつけあっていると、「さっさとキスするか、家に入ってくるかしなさい!」と言わんばかりに、ちょっかい出す彼女の母親の存在も、これぞアメリカ映画の伝統! と、思わず喝采したくなる。

 若手俳優のアンサンブル映画として上々。
 基本、ダイアナ・アグロンにしか眼がいかないが、主人公のアレックス・ベティファーの面構えはいい。アメリカ映画の顔をしてる。
 友人役のカラン・マッコーリフは、きっといい役者になる。どんどん出演作増えるだろう。
 物語の納得感で『トワイライト』サーガをしのぎ、俳優のクオリティでは『スーパー8』に勝る。
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写真:『アイ・アム・ナンバー4』より。いやあ、ヤバい。これはすごい。かわいい。

以上、画像リンク元はすべてこちら

2011/7/24

クロード・シャブロル特集 @日仏学院 その3  

 クロード・シャブロル『愛の地獄』、『権力の陶酔』、『主婦マリーがしたこと』、『ベティ』
 今日のシャブロルは、さしずめ「姦通」編としよう。

 最初の『愛の地獄』(1994)は、その典型例だ。美しすぎる妻を持った、生真面目な性格の夫が、妻が誰かれかまわず不倫に走っているのではとの疑心暗鬼で、すっかり精神を崩壊させてしまう。
 妻はエマニュエル・ベアールだ。当時29歳。無理もない。
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写真:『愛の地獄』より。しかしこの夫は別に奥さんにおあずけくらってるわけではないのだ。この肉体を好きにできるんだから、文句言うなと言いたくはある。画像リンク元

 いつもそうだが、シャブロルは最初の1分がすごい。新居にやってきて、真新しいベッドに飛び込むように腰をおろすベアール。
 その刹那、ちょっと上にずれた超ミニスカートの裾を、すぐに下げてしまうので、「ベアール、余計なことをするな!」と声を上げそうになるのだが、そんな彼女をみつめる夫は、観客以上にあからさまに彼女に欲情してしまっている。

 さらにすごいのは、そんな2人を後ろから見ている、ベアールの女友だちだ。
 間違いなくこれからセックスを始めるに違いない2人に気を使って、そっと部屋を出るものの、そこにいる建築作業員に「タバコある?」とエロくモーションをかける。
 つまり、彼女自身も欲情していたというわけなのだが、これこそシャブロル・タッチ炸裂の、すさまじく濃厚なオープニングである。
 かくしてこの空間は、最初の1分で性の館と化し、こんな家の中で、夫フランソワ・クリュゼは疑心暗鬼のとりことなり、狂っていく。

 『主婦マリーがしたこと』(1988)は、ドイツ占領下のフランスを舞台にとる。生活苦の中、主婦マリー(イザベル・ユペール)は違法な堕胎の手伝いをすることが、大きな収入源となることを覚える。
 金ができれば、もとから浮気性の性格ということもあって、彼女が若い男との肉欲におぼれるようになるのも、あっという間だ。
 こちらは疑心暗鬼でもなんでもなく、あからさまに妻に浮気をされる夫が、またまたフランソワ・クリュゼである。切ない。
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写真:『主婦マリーがしたこと』より。美人の奥さんを持つと何かと気苦労が多いのはわかるのだが、しかし。 画像リンク元

 この映画で最も残酷で、胸しめつけられる場面は、決してイザベル・ユペールの末路なんかではない。
 妻をこそ愛しているのに、指一本ふれさせてくれぬ妻に、「君だけがほしいんだ」と、多少手荒なまねに打って出る夫が、「絶対にイヤ! とにかくイヤなの!」と、とりつくしまなく、決定的、絶対的に、容赦なく性交渉を拒否される、その場面だ。
 これほど徹底的な、全存在を完全否定するかのような拒否って、ちょっと見たことがない。このとき、全員の運命は決するのだ。そのターニング・ポイントの激烈な描き方。

 ちなみに、ユペールが最初に堕胎させる若い女性が、後に『刑事ベラミー』のドパルデューの妻役として、素晴らしい演技を見せるマリー・ビュネル。

 『権力の陶酔』(2006)は、大企業トップをめぐる汚職疑惑を追う凄腕女性検事(イザベル・ユペール)が、巨悪を暴く陰謀ものだ。
 彼女が捜査を進めれば進めるほど、謎の手による妨害が入り、ついには命までも狙われるようになる。しかし同時に彼女自身も、その手腕と業績から大きな権力を持つようになり、次第に自らの正義のものさしも揺らいでいく。
 『仮面』で、フィリップ・ノワレの悪を暴こうとするが、自分の中の悪にも気付いて行く主人公に、どこか通じるテーマでもある。

 『権力の陶酔』の端正にして、シャープな話運びは本当に素晴らしい。たたみかけていくプロットの精妙さと、複雑な人間模様において、今回の特集上映ではこれを個人的ナンバー1に推しておく。
 『引き裂かれた女』の清潔な物腰に見え隠れする、邪悪な眼差しをそのままに演じる、フランソワ・ベルレアンがここでも見事だ。
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写真:『権力の陶酔』より。かっこいい女性がてきぱき仕事をする。いい。この映画、たとえばホリー・ハンター&シガニー・ウィーバーの『コピーキャット』コンビで、リメイクしても十分いけると思う。 画像リンク元

 と、ここまで書くと『権力の陶酔』は、ちっとも“姦通”テーマではないように思える。
しかし、夫にとって自分自身以上に夢中な何かを持つ妻、というのは、常に落ち着かぬものである。そして、それはすでに事実上の姦通でさえあるのだ。
 ここではついに、身辺に数人のボディ・ガードをはべらせるまでになった、仕事の鬼イザベル・ユペールの夫が、その犠牲になる。
 この映画では、とうとう彼は妻の仕事の煽りを受け、人事不省の重傷さえ負ってしまうのだから、夫の虚しさここに極まる。

 ボディガードとして、お側に仕えているガードマンの1人に、ユペールはにこやかに「お茶でもいかが?」と声をかける。勤務中故、彼はもちろん丁重に断るが、ユペールはそんな自分の立場に、明らかに酔っている。これぞ「権力の陶酔」と言わずしてなんだ。
 したがって、『権力の陶酔』も“姦通”もののバリエーションなのだ。

 最後の『ベティ』(1992)の切なさは、またひときわである。
 完全に行き場を失ってアルコールに溺れるベティ(マリー・トランティニャン)を、富豪の女性(ステファーヌ・オードラン)が拾って面倒を見る、という発端はどことなく『女鹿』に通じるように思う。
 しかしヒロインの、決して幸せになることかなわぬ、ナチュラルボーンな浮気癖は、『ヴィオレット・ノジエール』のヒロインと一直線でつながっていく。

 このタイプのヒロインにあっては、自分を不安定で、不確かな境遇においておくことこそが、存在証明なのだ。
 そして『ヴィオレット・ノジエール』のヒロインは、とにもかくにも、精神においてはレジスタンスだった。けれど『ベティ』のヒロインには、対立すべき対象がない。
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写真:『ベティ』より。この映画の最大の欠点は、ヒロインがちっとも美人じゃないことなのだ。 画像リンク元

 今回、妻ベティに不倫される夫は、前3作のようなタマなしではない。だからフランソワ・クリュゼは演じていない。それどころか、裕福で精神のうえでも高潔な、立派な夫である。だから、彼は彼女の心を気遣って精一杯の「男」を見せる。
 彼女もそのことを承知している。けれどそれではダメなのだ。シャブロルのある種のヒロインにあっては、目の前の幸福を得ることは、存在そのものの危機なのだ。

 夫の優しさに対して、遠くからお辞儀をするベティの姿の哀しさは、忘れ難い印象を残す。その“申し訳ない気持ち”にウソ偽りはないはずだが、次の瞬間には邪悪で純粋な悪魔が、男の体を求めていくだろう。
 これがシャブロルの女性観における、ひとつの真理なのかもしれない。 

2011/7/21

野崎歓『異邦の香り―ネルヴァル『東方紀行』論』  

 野崎歓『異邦の香り―ネルヴァル『東方紀行』論』(講談社)

 『レ・ミゼラブル』や『赤と黒』や『ボヴァリー夫人』や『居酒屋』や『女の一生』や『ゴリオ爺さん』や『狭き門』や『ジャン・クリストフ』や『悪の華』みたいな、極めつけの代表作がないせいか、一連のフランス文学にあって、ネルヴァルはどうも分が悪い。

 本書は、そんなネルヴァルの魅力を、当時まだ「紀行文」というものが、まだ十分に確立していない時代にあって、執筆された『東方紀行』を指南として、平易に解き明かしていく。

 この本を読んでいて、コスモポリタンとしてのネルヴァルという存在に、すっかり心奪われる。
 それがどれだけ魅力的かということは、西洋のオリエントに対する視線の歪みを糾弾した『オリエンタリズム』の中で、サイードがネルヴァルだけは擁護した、という事実から本書は進行する。

 シャトーブリアンやラマルチームの紀行と突き合わせ、アルトーやボードレールなどなど、多数引き合いに出しつつ、引用が引用でなくなるほど、美しく本文に溶け込んだ『東方紀行』からの引用を散りばめて、本書の話題は進んで行く。

 本書をじっくりと読み進めつつ、非常に個人的な感想としては、ネルヴァル最大の資質は、「何も決めないこと」と感じた。
 何ごとも決して決めつけない。断定を行わない。そのうえで、さまざまな土地や人の中に入っていく。
 著者はそんなネルヴァルの心性を、「積極的な受動性」と呼ぶ。
 
 そうした資質を獲得するのは、ネルヴァルが常に「異邦人」としての精神を維持しているからなのだが、そこに悲劇の源があることもまた、著者は見出そうとする。
 19世紀フランスの哲学者、メーヌ・ド・ビランの定義によると、「精神異常とは自我が自らにとって異邦人となるような心身の状態である」と。

 東方への旅の途中で、狂気による中断を余儀なくされてもいるネルヴァルは、46歳というあまりにも早すぎる死を自ら選んだ。
 精神の自由さは、必ずしも心のゆとりを生み出してくれるものではなく、そのことによってその末路が神話性を帯びてしまうのは、皮肉と言うほかない。


2011/7/19

クロード・シャブロル特集 @日仏学院 その2  映画

 クロード・シャブロル『破局』、『仮面』
 あくまでも個人的な趣味として、この日の2本はいささかがっかりする。本特集が始まって初めて、さしたる興味を持てずに終わる。

 『破局』(1970)は、ある朝、幼い息子をヤク中の夫が背中からつかまえて、ぶん投げて重症を負わせてしまう。妻は直ちに離婚を決意、息子を病院に入れ、回復を待つ間、病院と通りを隔てた向かいにある共同住宅に仮の住まいを持つ。
 ところが彼女はかつて、短期間ながらストリップの仕事にも手を染めたこともある水商売あがりの女で、富豪である夫の両親には、もともとその結婚は快く思われていなかった。

 夫の両親は、ジャンキーの息子の不始末を棚に上げ、孫を引き取るために、彼女を社会から法的に葬ろうとあれこれ画策を始める。
 というのも、息子を傷つけられて逆上した彼女は、手にしたフライパンで夫をぶちのめしているのだ(フライパンの丸い面でなく、側面でぶん殴るところが怖い)。

 開巻早々、夫が息子に大けがをさせ、妻が夫をぶちのめすまでの展開は、さすがにすごい。たぶん上映時間にしてほんの2〜3分。とにかく尋常でない場面が連続する。
 半全裸の夫の登場も衝撃的だ。早朝、おさ息子がすでにテーブルについている、というのも不気味さを増す(その息子がキューブリックの『シャイニング』の子どもに、どこか似てるところも)

 が、そうした意味ありげでエキセントリックな描写の数々が、ちっとも物語的に回収されずに、とっ散らかったままに進んでいく。
 これも個人的な趣味になるのだけど、“なんかへん”というタイプの映画が、あんまり好きじゃない。

 息子の嫁から親権を奪うのに、「生活力がなくて、だらしなくて、十分な教育がないってことを理由にしてはどうか」と、富豪の父は弁護士に言うのだけど(このへんの悪口三昧ぶりは『二重の鍵』をかすかに思い出す)、その弁護士はむしろ人権肌で、「失礼だが、それはむしろあなたの息子さんの方でしょう」とけんもほろろ。
 むしろ、こうしたきちんとしたドラマ部分が面白いだけに残念。

 “なんかへん”という意味では、続く『仮面』(1986)も同じ。
 TVタレントとして地位のあるらしい、老人向けのど自慢大会の司会者が、若いライターに半生記を書きたいと言われ、インタビューを受けるかたがた、自宅に住まわされる。
 実はその司会者にはとんでもない人生の暗部があって、ライターはそこを暴くべく、暗躍をはじめる。

 唖の運転手や、目の不自由な養女、などなど、ここでも「なんかへん」な登場人物が、ぞろぞろ出てきて、もったいぶったドラマが展開する。
 ライターもTV司会者も、不自然に愛想のいい笑いを常にうかべている、どこか怪しげな気配が少々露骨で精彩を欠く。

 たまにはこうしたこともある。

2011/7/16

『コクリコ坂から』  映画

 宮崎吾朗『コクリコ坂から』
 『風の谷のナウシカ』で、私がいちばん好きなシーンをあえて挙げるとすれば、ナウシカが乗り捨てたメーヴェが、最後の最後に風の谷に還ってくるところだった。
 きっと還って来る。そう信じて、あるいは『もののけ姫』のカヤは、今でもアシタカの帰還を、じっと待っているのかもしれない。

 『コクリコ坂から』のヒロインも、じっと父の帰りを待っていた。もう帰らないのがわかっていて、それでも心のどこかで待ち続けている。何かを。
 そうした切な気持ちは、きっと誰かを呼び寄せる。

 宮崎駿に限らず、スタジオ・ジブリのヒロインたちは、高畑勲は必ずしもその限りではないが、その目はきっと何かをひたと見つめている。
 待っているから、その人が帰ってくる方向をしっかりと見ている。だから彼女たちの視線は、強靭に鍛えられている。
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 今回、ヒロインに(が)思いを寄せる男の子は、その目線を受け止められず、それを幾度となくそらすことになる。
 それはヒロインとのある“関係”を知ったからだが、ジブリにあって、ヒロインの視線をそらした(たぶん)最初の男性である彼は、いつしかすべての視線をそらさず、受け止めるようになる。

 映画はそうした青年の迷いと、その迷いに真っ向立ち向かう少女の、決してそらさぬ視線の両方をまるごと受け止めて、描いてくれる。(手に手をとった2人が疾走する船の舳先に、GHIBLIとあるのは、だから決して楽屋落ち的なお遊びではないと信じる)

 映画において、観客に伝えたい、そして訴えるべきことがあるというのは、何て素晴らしいことかと改めて思った。
 この映画の企画・脚本(共同)の宮崎駿の、明確にして力強いメッセージ。正しい青年のありかたと、彼らを育む正しい大人のありさま。一致団結して一事にあたる喜びと尊さ。愛する人を待っていることの切なさ。ほのかに芽生えた恋の育み。

 これまでの仕事を見てきて、徹底的に知らされている通り、宮崎駿の中には、(特に年若い)観客に伝えたくて仕方がないことが、きっと煮えたぎっているのだと思う。
 だが、こうして上に列記してもわかる通り、己の文才のなさを棚に上げても、それをベタに書いてしまうと、何と陳腐で恥ずかしいことか!

 しかしその陳腐で恥ずかしいことは、物語化し、映画にすると、ちっとも陳腐でなくなる。だからまっすぐに、その主張が伝わってくる。これこそ映画の最大の効能のひとつだろうか。そして、宮崎駿はその映画の効能をフル活用しているように思う。
 その伝えるべきことを伝える、ということは、ファンタジー性一切抜きの、『コクリコ坂から』という作品だからこそ、より鮮明に伝わってくる。
 そしてその企画を、息子である宮崎吾朗が映像化している。さまざまな報道では、その吾朗自身が名乗りをあげたと伝えられる。

 父が伝えるべきことを託した作品を、息子が引き受ける。きっと宮崎駿自身も、吾朗にとって「帰らない父親」であったに違いなく、この2人の関係性にふと思いを馳せてみると、また一層胸にせまるものがあるような気がする。

 震災後の今、私たちは受け止めるべきメッセージがたくさんあるはずで、たとえばこの映画の中に、ある議題について、その場の誰もが愕然とする他ない結果が、全学生の過半数をこえてしまう場面がある。
 この4カ月くらいの日本、そんな場面を何度となく見てこなかったろうか。『コクリコ坂から』は、そんなあり得ない民意を覆そうとする、情熱のありかと行動を追う。それはきっと、今、製作者側が伝えたいことに他ならないだろうと思う。

 企画製作そのものは、震災以前からスタートしているに違いないのに、現実とのこのシンクロニシティには、やはり驚かずにいられない。
 あるいはこれこそが、優れたクリエイターの、時代との共振性というものなのだろうか。


2011/7/13

『127時間』、『X-MEN:ファースト・ジェネレーション)  映画

 ダニー・ボイル『127時間』
 登山の好きな青年が、渓谷のすきまに腕をはさまれ、脱出できない窮地に陥る、というほとんど一発ネタ的な作品。それを94分。長い。

 とはいえ、個人的にはこれを、脱獄映画のある種の亜流と見る。
閉所に閉じ込められ、そのくびきから逃れようと、腕をはさみつけている岩を削ろうと、小型ナイフでごしごしこするなど、脱獄映画でどれだけ見せられたシーンだろうか。
 イメージ的には『アルカトラズからの脱出』と『ミッドナイト・エクスプレス』を足して10000くらいで割ったら、こんな感じになるような、気がする。

 マシュー・ヴォーン『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』
 マシュー・ヴォーンの前作、『キック・アス』があんなに素晴らしかったのに、『X-MEN:ファースト・ジェネレーション』に私がもう1つノれなかったのは、「どっちにつくか」という二者選択のテーマが、最後までつきまとったことではあった。
 それを物語の一貫性とは言えるのかもしれないし、冷戦という時代背景からも、二者択一構造を物語に導入するのは、理にかなっているようには思う。
 が、とにかく息苦しい。テーマ性はあってもいいが、もっと爽快に楽しませてくれまいか。

 その二者択一世界のことの発端である、後のマグニートーの少年時代の描写が、あそこまで悲惨だと、冗談になってない。『キック・アス』は冗談になってたのだけど。
 冗談になってないのは、やはりナチスという実在の団体を持ち出したからなのだと思う。米ソの冷戦に巻き込まれるミュータントたちという展開も同様。

 そういえばシリーズもので、同じキャストによる続編作りが厳しくなってくると、「ビギニング」に還るのが定着するのは、やはり『バットマン ビギンズ』あたりなのだろうか。
 そういうのは、どうしてもトラウマ系になるせいか、『ハンニバル・ライジング』といい、確かに楽しくない作品ぞろいと感じる。

 ケヴィン・ベーコンの悪役は確かにかっこいいし、いい役者だけど、この人は巨悪をやるにはもう1つ線が細いかな。

2011/7/9

『東京公園』  映画

 青山真治『東京公園』
 カメラマン志望の主人公(三浦春馬)は、自室に大きな美女のパネルを貼っていて、その美女はまっすぐにこちらを見ている(わずかに視線は逸れているが)。
 写真の美女がシャッターを切るリモートレリーズを手にしていることで、それが本人によるセルフポートレートであることは、すぐにわかる。が、彼女が誰なのかは、しばらく映画を見ないとわからない。
 ともあれ、彼女は自分自身をまっすぐに撮ることができる。つまり対象をまっすぐ見つめることができる人だった、ということだけを押さえておく。

 映画の終盤、主人公は亡き親友の元カノ(榮倉奈々)から、あなたは腹違いの姉(小西真奈美)のことを、まっすぐ見つめたことがないでしょう、と難詰される。
 それは、姉の彼に対する気持ちを単に“弟”という立場からしか見ていない、彼の鈍感さを責めているのだが、ここにきてようやく(敏感な観客はとっくに気づいていただろうが)、三浦春馬と榮倉奈々との会話のショットは、そういえばかなりの場面で、正面対正面の切り返しで撮られていたことに気づく。
 (ちなみにこの場面の榮倉奈々は、亡くなった元カレと同じブランドのジャケットを着ていることにも、驚かされるわけだが)

 だいたい映画というのは、往々にして「横顔がいい」とか、「見上げる姿がいい」とか、場合によっては「(逆光の)シルエットがいい」とかばかりで、とにかく真正面に分が悪い。あげく「振り返る姿がいい」と言い始める。
 映画が人物を真正面から撮りにくいのは、被写体の目線に困るからだ。

 人物が真正面からこちらを向くと(ウディ・アレン『アニー・ホール』の冒頭のように)、観客に向けて話すことになってしまうか、(ジョナサン・デミ『羊たちの沈黙』のように)ホラーになってしまうか、いずれにせよ、見る者が居心地悪くなる。観客が観客であり続けるためには、イマジナリー・ラインが必須で、それにはどうあれ斜めがほしいのだ。
 が、映画撮影のド素人としては、この件に深入りするのはよそう。

 三浦春馬vs榮倉奈々のシーンはそうした意味で、正面から見つめあう2人を描いた、出色のシーンになったと思う。
 しかも青山監督は、そこに彼女の目には見えない“幽霊”の存在を配して、交わってるくせに交わりようのない視線を作り出すから厄介だ。
 もちろん現世の人間と幽霊との、一方は見えないのに一方からは見えるという視線劇は、スティーブン・スピルバーグ『オールウェイズ』が、完璧にやってしまっているのだが(決して『ベルリン/天使の詩』のヴェンダースではない)。

 正面から向き合ってきた、榮倉奈々から「(姉を)まっすぐ見たことがない」と言われるのだから、三浦春馬はたまらない。それは当然、榮倉奈々のことさえ本当に見ているのか? という問いにもつながるからだ。
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写真:『東京公園』より。画像元allcinema.com

 カメラマン志望の青年、三浦春馬は、ある歯科医から娘と公園散歩している美女(井川遥)を尾行し、その姿を撮影してほしいという謎の依頼を受ける。
 それが盗撮である以上、彼はあらかじめ正面からの撮影を封印されてしまう。
 もちろん彼が普段、どんな作品を撮っているかはわからない。けれど、そのうえ彼は、今こそ正面からカメラを向けるべき、両親が住まう島に姉と訪れるとき、事もあろうにカメラを忘れてくるのだ(その訪問後、榮倉奈々との「まっすぐ見つめてない」問答となる)。
 
 映画のクライマックスは、ついに三浦春馬が小西真奈美にカメラを向ける場面だ。万感こめた入魂のこのシーンには、ただただ涙をこらえるのに精一杯なのだけど、銃弾か何かを撃ち込むように、情け容赦なくシャッターを切る三浦春馬に、その被写体としての小西真奈美は、どう自らの身体をレンズにさらすのか。
 彼は彼女の“真正面”を撮れるのか。彼女は彼に“真正面”を向けるのか。
 BGM一切なし。シャッターを切る音と自然音以外は、完全に沈黙が支配する、この場面の恐ろしい緊張感は、筆舌に尽くし難い。

 しかし、被写体をまっすぐ正面から撮る。そんな写真は、実にあっけなく、実に意外な人物による手によって、まったく思いがけない形で撮られてしまう。
 その展開に、相手を真正面から見つめること。それは間違いなく「幸せの予感」であることが示される。
 もちろん、それを撮るデジカメが、何に使われたもので、しかも元をただせば誰のカメラだったのかということも、決して忘れてはならぬ観点だろう。

 『群像』7月号での蓮實重彦×青山真治対談で明らかにされたように、恐ろしいほど映画製作上の野心に富んだ映画作りをしつつ、そんなこととまったく無関係に、素直に人の心を温かくさせてくれる、素晴らしく美しい青春映画の誕生なのだ。

2011/7/5

『奇跡』  映画

 是枝裕和『奇跡』
 是枝監督の『誰も知らない』(2004)は、親に見捨てられた子どもたちの話だった。
 その中で、個人的にもっともいたたまれないシーンは、家の中に閉じこもり続けるのに耐えられなくなった下の弟が、とうとう1人外に出てしまい、自動販売機をみつけるたび、小銭がないかと釣銭口を探る姿だった。
 その姿を、2階の窓から見下ろす兄の視線でとらえるカメラがまた、ひときわ切なく、これほどさもしくなってしまった子どもの精神は、決して取り返しようなく、深く深く損なわれてしまったと思わされるに十分だった。

 『奇跡』には、これと似たようでいて、まるで違うシーンがある。
 お金が必要な子どもたちは、今度も自販機に落ちてる小銭を狙う。しかし『誰も知らない』と違って、『奇跡』のそれが思わず微笑まずにいられないのは、そのシーンが素晴らしい幸福感に満ちているからだ。
 そのお金は、子どもたちが団結して冒険に向かうための、軍資金となる。映画においては、まったく同じケチな行為も、こんなに違った印象で見ることができるのだ。

 このとき私なんかは、「奇跡」など起こっても起こらなくてもいい。もちろん起こるにこしたことはないが、子どもたちがこれだけ心を通わせ、一つの目的に向けて協力関係を育んでいる、それそのものが一つの奇跡じゃないか、と思わずにいられない。

 神経質で苦労性の長男は、長男らしく、家族の調和を求めて悩んでいる(だから彼の周りは男の子ばかりだ)。
 何しろ、彼が通学に使うバッグというのが、ランドセルの他は、ピンクと黄色だったか、うっかり失念したが、ともあれ男の子がまず持たない女の子用なのだ。
 どんな事情でそれを持っているのか不明ながら、それを素直に使っているところに、親に心配かけないようにと気を配る、従順な彼の我慢強さが見え隠れする。

 一方、楽天的な弟は、次男らしく、とりあえず現状を受け入れて楽しそうにしている(だから彼の周りは女の子ばかりだ)。
 放課後のプール教室の帰りには、必ずアイスを買ってなめているが、兄ならきっとそういう無駄遣いを我慢するだろう。
 そんな次男坊の本音は、たった一度「だってさ、楽しそうにでもしてなきゃしょうがないやん」と兄との電話で、不満そうな表情で言うところに、瞬間表される。
 心の中は同じ。けれど、それをどう表に出すかは、兄弟それぞれの人柄なのだ。

 「奇跡」を目撃するための一夜を、見事な機転で、ある老夫婦の家で過ごす子どもたち。
 その夫妻が彼らに心を許すのは、2人のうち長身の方の少女が理由なのだが、別れ際、思わず涙ぐんでしまうほど、すてきな行動をとるのは、実は小さい方の少女である。
 そのことに夫妻はどう思ったろうか。彼らの家を出た自分たちの娘のことを、また別の意味で思い出したのではないか。
 『奇跡』の子どもたちの描写は、そうしたそれぞれの子どもたちの人となりが、驚くほど細やかに演出されている。

 私がこの映画に何より感激したのは、どんな時代にあっても、どう世代が変わっても、子どもたちはきっと「奇跡」のありかを、探し当ててしまうということだった。
 この映画の大人たちにだって、ある意味、子ども以上に強く欲する「願いごと」はある。
 けれど、「奇跡」の場所を見つけられないから、どこか暗い(同窓会の後、1人になった大塚寧々の姿!)。
 暗いし、祖父(橋爪功)のように、行動を起こす時は子どもをダシに使って、求められてもないのに、観覧車に乗せておだてさえしなければいけない上、そんな借りを作ってしまうから、子どものアリバイ作りの手助けまでするハメになる。弱い。

 『歩いても 歩いても』(2007)のときは、もう一つ灰汁が強くて、いささか裏目に出た感があったが、生活感ある被写体(もちろん人物だけではない)を丁寧に撮っていく是枝監督のカメラが、今回はくっきりと各登場人物のキャラクターを浮かび上がらせる。
 そのカメラの確かな温かみに、この映画をどんな人にも、薦めて回りたい気持ちになる。

 蛇足ながら、子どもたちの冒険の途中、半端な広さの空き地にコスモスが咲き群れているのを見つけて無駄に時間をつぶす、不思議なシーンがあるのだけど、あれはやはり「久々のきょうだいの再会」という事で、『カラーパープル』が念頭にあるのかな???

2011/7/2

クロード・シャブロル特集 @日仏学院 その1  映画

 クロードシャブロル『二重の鍵』、『野獣死すべし』、『夜になる直前』

 ユーロ・スペースから日仏学院に場所を移しての、シャブロル特集。
 今日の3本は、さしずめシャブロルによる「罪と罰」ともいうべき作品がそろった

 いかにフランスというお国柄とはいえ、自分の家族を住まわす邸宅から、ほど近い距離の住宅に愛人を住まわせる中年男。
 誰もが予想する通り、ほどなくその愛人が死体となって発見される『二重の鍵』(1959)。

 この映画は、いい歳して朝っぱらから超セクシーな愛人といちゃつく父親と、庭先でワインをがぶ飲みしつつ、口の回りを卵の黄身だらけにしながら、食えるものなら何でも食う勢いの姉の婚約者(ジャン=ポール・ベルモンド)の、ウルトラ肉食系男に“二重に”はさまれた、草食系男子の息子の苦悩の物語でもある。
 ベルモンドなんか、シャワーを浴びて前など隠すでもなく、婚約者の前に仁王立つ。

 愛人との新たな生活をはじめたいのに、別れられぬ妻を痛罵する夫がすごい。徹底的に言葉で追い詰めて、まるでタランティーノの原点さえ見る思いに駆られるほど、「お前は醜く、不寛容で、陰気で、口うるさくて、不感症で、バカで、ええいとにかくもう年なんだよ!」といったようなことを、ありとあらゆるボキャブラリーで延々と攻めまくる。
 当初は強気の妻も、この執拗な言葉の攻撃についに崩れて落ちる。こんな人間のクズの罪はいかに購われるべきか。
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写真:『二重の鍵』よりアントネッラ・ルアルディ。まあ父親がこんなセクシィな愛人と朝昼晩犯ってると思うと、息子としてはおかしくもなるよね。画像リンク元

 草食系と肉食系の、罪と罰をめぐった口論の果ての、川辺での格闘などさらにものすごく、泥だらけで取っ組み合う2人の姿は、ちょうど川にひそむ肉食のワニが、草食の鹿かなんかを、泥にまみれて食い荒らしているかのようだ。

 誰よりも罰されるべきはずの父親は、同時に他者の罪に許しを与えねばならぬ羽目になる。「彼を許せるか?」という問いに「許したい。でも無理だ」と答える彼の答えの後、登場人物全員をカメラは上空の神の目線から見下ろしていく。

 『野獣死すべし』(1969)では、罪と罰の問題はさらに突き抜けていく。
 息子をひき逃げされた男が、復讐を決意する。執念の探索で犯人を突き止めた彼だったが、その過程において、その妹を深く愛するようになっている。

 妹に免じて罪を許し、罰を封印するべきなのかどうか、しかしその犯人の男の外道ぶりは、『二重の鍵』の父親など比べようもない衝撃度だ。

 フランソワ・ゲリフによるシャブロルへのインタビューでは、この作品について実になんともいいことが書かれている。

「私はこの映画をフリッツ・ラングに見せた。配給業者だったと思うが、こんなことをいった人がいた。「わけが分からん。あの曖昧な終わり方はなんだ。誰が殺したのか分かりゃしない」これにラングは抗議した。「はっきりしているだろう。あの男がすべてを仕組んだんだ。かくかくしかじかのカットを見れば分かるだろう」。感激したよ。曖昧さはただひとつ。観客の願望から生まれる。」(『不完全さの醍醐味』P.113 大久保清朗・訳 清流出版)

 映画の上映後、シネマテーク・フランセーズのプログラム・ディレクター、ジャン=フランソワ・ロジェさんの講演があった。
 その講演を報告する任ではないので、割愛させていただくが、ここでは忘れ難い見識をもらえていて、それは「ヒッチコックからラングへの横滑り」といったテーマだった。

 ゲリンによる同書の中には、「私はあまりヒッチコック的な監督ではない」(P.52)という発言もあり、ロメールと共にヒッチコックに関する著書も出しているシャブロルであるのに、その真意には少なからず関心を持っていた。

 ロジェさんは、ヒッチコックには濃厚に残るカトリシズムの背景を、シャブロルは拒否している。それすなわち、ラング的な演出への移行ということであって、ヒッチコックには見える「いかにも」な演出術に対して、ラングは演出が見えない。そういったラングの形而上性を、シャブロルは好んだ。
 それがこの時期の、ヒッチコックからラングへのシャブロルの横滑りである、と。

 「見える」演出=形而上的≠カトリシズムという見解に、大きく視野を開かされると共に、これもやはり中央大学人文科学研究所編『映像表現の地平』所収の、大久保清朗「ヴィオレット・ノジエール論」で教えられたことだが、シャブロルは宗教については批判的姿勢を貫いているという“謎”に対し、ひとつの解のきっかけが与えられたように思う。
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写真:『野獣死すべし』より。あれ? 像を張り付けて気がついたが、車のナンバープレートが左右さかさまである。 画像リンク元

 ロジェさんは、『野獣死すべし』冒頭について、やがてひき逃げされる子どもの俯瞰から始まる。これを神の視野であるとし、ひき逃げされた子どもに人が集まって来るとき、その背景に教会が今度は見上げるように映っている。ここにシャブロルの「神の否定」を見ると指摘する。

 個人的にこのとき、『肉屋』冒頭が教会での結婚式にはじまり、そこを出た2人の中心人物となる男女が、どこまで歩いても教会からの音が途絶えず、あげく鐘の音まで鳴り響くことと結び付けて考察する可能性も、あるように思った。
 『野獣死すべし』から引っ張り出せそうな、罪と罰のテーマは計り知れない。

 そして問題は『夜になる直前』(『一寸先は闇』)(1970)。
 今回のシャブロル特集では、今のところこれが個人的ベスト中のベスト。
 初老の男が愛人とのSMプレイの度が過ぎて、彼女をうっかり殺してしまう。しかし彼女は無二の親友の妻であった。
 あまりの展開に、彼はその場を逃げるが、警察が犯人の手掛かりをつかめぬままに時が経つにつれ、彼の苦悩は深まっていく。
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写真:『夜になる直前』より。まあ人の勝手なんだが、すぐ後ろに全裸四つん這いの美女が待ってるのだから、もっと楽しそうな顔しようぜと、文句の一つも言いたくなる。 画像リンク元

 ここでのステファーヌ・オードランは、『刑事ベラミー』のマリー・ビュネルに劣らぬ賢妻ぶりを見せてくれるが、彼女がここで見せる行動はまた別の思想に貫かれる。

 自らの罪を告白したくてしかたなく、罰されたくてしかたないのに、本質的に小心者なのでそれができず、しかも告白する機会がなぜだか先延ばしにされていく。
 そんなミシェル・ブーケの演技が輝くが、それ以上に罪を許す立場となる、フランソワ・ペリエの哀しみの演技、さらにステファーヌ・オードランの母と妻という両方の立場で、逐一の行動を選び取る様に、とにかくうならされる。

 罪は罰されねばならないのか、そしてそれは誰がどのようにして? 人はどこまで許せるのか、ということについて、この映画の3人はベストな選択をしているわけではない。けれど行動のあり方として真実迫ったものを見せられる。これぞ「人間ドラマ」だ。

 ロジェさんは、講演の最後に興味深いことを明かしてくれた。
 シャブロルは3人の女性と結婚したが、最初の子を授かったものの、その子は10日ほどで亡くなってしまった。
 哀しみのあまり、その子と同じ名を、2人の子どもにつけたのだが、最初の子のお墓参りをして、そこにぼくの名前がある…と。
 シャブロルはそのことで親子で哀しみ、生涯苦しんだのだ、と1度だけ明かしたことがあると。
 これもまた、シャブロルが背負った罪と罰なのかもしれない。

2011/7/1

『スーパー8/スーパーエイト』  映画

 J・J・エイブラムス『スーパー8/スーパーエイト』

 私も子どもがいるので、自分の子どもたちが小さな頃の映像は、それなりに持っている。しかし、何かの折にそれを見る時、しばしば思うことだけど、そのどこにも私自身は決して写っていない。
 それは私がたまたま男性で、そして父親だからだ。家庭差はもちろんあると思うが、一般的に家族フィルムを撮るのは、おおむね父親の役割だろう。

 どうやら『スーパー8』の主人公の少年の家庭もそうだったようだ。少年と少女が心通わせるその時、赤ん坊の頃の少年と母親の姿のフィルムが映し出される。
 当然ながら、その映像の中に父親の姿はない。なぜなら、そのフィルムを撮影しているのは、父親だからだ。
 そうだ、映画とは母性なのだ。そして家族というもののメタファーなのだ。と、そのシーンを見ながらふと思った。母と共に子が映り、その外側に父親がいる。

 まだ恋人同士として、唇を求め合うには、やや幼い少年と少女はそのことを感じ取る、ギリギリの年齢だ。もうほどなくすると、多くの少年と少女の興味は、性へと移行するだろう。
 このシーンの美しさは、そんな成長過程における年齢の、男女へという分化の彼岸にあるからでもある。

 少年の父は、映画に夢中な少年を案じて、もっと友だちを作れ。サマーキャンプにでも行くか、と少年をさとして、彼を外へ向かわせようとする。
 父親としては母親を失って数カ月がたった今でも、母に拘泥して母性の中に魅入られている息子を、外に送り出したいのだ。
 いつまでも映画の中に(母と共に)映っている存在であってはいけない。そう導くのは父性である。

 その母性から父性へのイニシエーションとして、少年たちは少女を救い、少女は共に脱出し、という冒険という名の試練をひとたびくぐるだろう。しかるべき後、彼らは父親と共に、空を見上げることになる。
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写真:『スーパー8』より。この画にもはや説明不要! 画像:映画.comより

 スピルバーグが繰り返し描いた、この見上げる姿。それを、映画館でスクリーンを見つめる姿と同一視する見解も多かろう。正しい。
 が、そのときまたしても思う。これも家庭差はあろうが、子どもを映画館に連れていくのもまた、多くの場合、父親の仕事ではあるまいか。
 このとき母性はぐるりと逆転して、今度は見上げる父と子を外側から見つめる存在となるだろう。だからの映画は家族のメタファーだということだ。
 
実のところこの文章は、少女の立場については触れ損ねている。けれど、彼女はおそらくそうした家族的体験とは無縁の存在なのだ。そしてそれはまた、別の映画のテーマとなるだろう。

 J・J・エイブラムスは、スピルバーグが今ひとつ表現しあぐねてきた、映画と家族というモチーフを、この上なく美しく描きぬいた。
 スピルバーグの忠実なフォロワーのようでいて、エイブラムスはスキあらばスピルバーグを乗り越えようとしている。
 そしてもちろん、スピルバーグはさらにその先を行くに違いない。なんてエキサイティングなことだろうか。これだから映画は決してやめられない。 



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