2011/8/30

『カンフー・パンダ2』  映画

 ジェニファー・ユー・ネルソン『カンフー・パンダ2』
 すばらしい。しかし、この女性監督の名にまったく心当たりがないので調べると、『マダガスカル』や『スピリット』に遡って、ドリームワークス製作アニメの、アート部門を担当してきている。地道な仕事を丁寧にこなしてきての大抜擢か。

 そして、その抜擢に十分以上に応えた立派な作品だった。前作は正直、あんまりなできだったので、まるで期待していなかったのだが、ウソのように挽回した。

 基本的には『スター・ウォーズ』+『ベスト・キッド』の構成をとるこのシリーズだが、今回のテーマがなかなかいい。
 「白と黒の動物に葬られるだろう」という予言を受け、ダークサイドに落ちたクジャクが、パンダの絶滅を目論むという、ヘロデ王めいた話が発端。ついにはミサイルまで開発。

 そこでパンダは、平和のために立ちあがる。「しかしカンフーを封印するための武器を相手に、カンフーでどう対抗するの?」というパンダに対し、ヨーダみたいな師匠は「内なる平和」だと謎をかける。
 これが話の大枠で、要するにキリスト教の聖書物語と、中国の古武術と、近代批判を強引に結びつけるという、アメリカ映画ならではの無茶を、無理なくやってのけている。
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写真:『カンフー・パンダ2』より。しかるべきところでは、チャン・イーモウ『HERO』も十分に咀嚼してのける。真ん中の琵琶弾きの老人に注目。 画像元eiga.com

 そのうえ、枝葉の部分も実に濃い。実は捨て子であったことに悩むパンダ(このへん、モーゼをなぞらえてるところが大袈裟なんだが)と、彼の葛藤を支える育ての父。  「戦地」に赴くパンダに、「行くな」と涙ながらに訴える父の感情表現がいい。
 本当の父でない彼との、永遠の和解へのプロセスも、抜群の丁寧さで描かれる。

 また、前作ではほとんど人格がないに等しかった仲間たちも、実に生き生きと描かれる。特に女性でありながら、これまで特訓一筋で生きてきたタイガーの、どこか人生忘れ物をしてきたかのような描写が、なかなか泣かせる。
 たとえば、パンダが思いきり彼女にパンチをくらわせるのだが、「特訓ばかりしてきたから…ちっとも痛くない」と語る、哀愁をたたえた表情が抜群。
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写真:『カンフー・パンダ2』より。仲間たちのコラボレーションを手際よく描けるのは続編の強み。 画像元eiga.com

 パンダのお師匠が、「内なる平和」のイメージを伝えるため、一滴のしずくを掌に受け、カンフーを舞いつつ、そっと草の露に戻す一連の動画が素晴らしい。たっぷり時間をかけ、これでベストと思えるまで、考え抜いて作られたことが、よく伝わってくる。

 アクションの見せ方も最高。『スター・ウォーズ/エピソード2・3』の大詰めで、ヨーダが火の玉のようなバトルを見せたように、『カンフー・パンダ2』の終盤でもこのお師匠が、華麗なカンフー・ファイトを見せてくれる。このあたりは、「待ってました!」と思わず手に汗握る展開で、純粋にうれしくなる。

 物語のオチもこの上なく、ドリーム・ワークス製作アニメの、これは大きな飛躍だ。 

2011/8/27

『ゴーストライター』  映画

 ロマン・ポランスキー『ゴーストライター』
 
 多くのサスペンス映画の主人公は、自分にとって何の関係もないのに、なぜだかつい「真実」を知ろうとしてしまう。
 そのままほっとけば、何にも心配のない将来が待っているのに、どういうわけか彼らは、「真実」の探求に乗り出して、ヤバイ状況に追いやられてしまう。どう考えても不条理だ。

 私が、コナン・ドイルの代表作の1つ『赤毛連盟』が、子どもの時からもう一つピンと来ないのは、その主人公が、大人しく辞書の書き写しに精を出してりゃいいのに、なぜよけいなところに首を突っ込んで、わざわざ窮地にはまろうとするか、ということだった。
 名高いホームズものさえこれなのだから、つまり小説というジャンルでは、これはNGなんだ。

 けれど、映画というジャンルでは、わざわざ「真実」を知ろうと動き回る主人公に、まったく違和感なく同化することができ、しかもしばしばそれが傑作となる。
 なぜそんな騙しが映画には可能なのか。その秘密のすべてが、『ゴーストライター』にある。
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写真:『ゴーストライター』より。見つけてしまえば、どういうわけか後にひけなくなるのが、映画の宿命である。 画像元eiga.com

 元英国首相(ピアース・ブロスナン)の自叙伝執筆の、ゴーストライターとして雇われる主人公(ユアン・マクレガー)。実は前任のライターが、謎の溺死(?)を遂げており、彼はその後任として選ばれるのだ。
 そのため、インタビューと執筆のため、元首相宅に滞在することとなるが、その過程でさまざまな悪徳がだんだん明らかになっていく。

 この構図、最近どこかで見たなと思ったら、シャブロルの『仮面』だった。あの作品は、シャブロルにしては、ずいぶんな出来栄えに感じたが、『ゴーストライター』は、びしっとシャープにキメてくれる。

 よせばいいのに、つい真実追究に走る主人公の行動に説得力を与えるには、まず彼が少なからず不快な状況にある、ということだ。
 宿が「修道院なみ」に陰気ということはさておき、彼はどんな所にアクセスするにも、間違いなく邪魔立てされる。

 入室にあたっては、逐一(最初にゴーストライトの面接をする出版社社屋にさえ)ボディチェックを受け、執筆中の自伝原稿にさえ秘書(キム・キャトラル!)の認証カードがないと、手にとることもできない。
 そうでなければ、目的地に車で向かうにしても、カーナビの音声がいちいち煩わしく、玄関先ではインタフォンが主人公に無駄な労働を強いる。

 そしてもう1つは、主人公は少しずつ「何か」を発見してしまうのだが、その「何か」によって、自分が知らず知らず片棒を担いでいるのでは、という気分にさせられることだ。
 『ゴーストライター』の場合、その“不快”な状況に「やってられねえや」とばかり、荷造りしようとしたら、そのとき偶然にある種の情報をつかんでしまうことが、決定的な発端になる。
 『ゴーストライター』は、こうした種々の段取りであったり、筋立てが、最高にいい。
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写真:『ゴーストライター』より。 実に実にカッコいい構図である。 画像eiga.com 

 かくして、この「知りすぎた男」は、その運命が大きく変わることになる。

 思えば、ゴーストライターとして雇われるとき、彼のエージェントは、エージェントであるからして、何とかユアン・マクレガーに仕事をとらせようと、イケイケなのだが、その一方で出版社側の担当編集者は、どういうわけか、彼に「君向きの仕事ではない」とか何とか、あれこれ難癖つけてマクレガーを雇わぬよう仕向けている。

 今、こうして書きながら、冒頭に出てくるこの2人のことが気になってならない。彼らはどこまで「知っていた」のか。
 アレクサンドル・デスプラの見事に躍動的な音楽と相まって、すみずみまで素晴らしいとしか言いようのない傑作に仕上がっている。

この作品をキーに、ポランスキーについて長々と書いてみたい誘惑に駆られるが、長くなりすぎるので別の機会に。

2011/8/26

大阪滞在記 その3 〜万博記念公園〜  ノンセクション

 万博記念公園。
 下の子(小5)が、どういうわけか前々から太陽の塔にひかれているようで、一度本物を見せたいと思っていた。また、私自身も4歳の時以来、41年ぶりにぜひ見たかった。
 また、今年は岡本太郎生誕100年。今回行かずにいつ行くか。
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写真:「太陽の塔」。モノレールの駅を出て早々この雄姿が。撮影Incidents

 モノレールの万博記念公園駅をおりると、もうそこから見える。森からちょうど鎌首をもたげているこれは、どうしたってゴモラあたりを連想させずにおかない。
 それにしても大きくて、園内の解説によると太陽の塔(70m)は、自由の女神(約46m)よりも大きいのだそうだ(ただし台座を入れると93m)。
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写真:『ウルトラマン』より古代怪獣ゴモラ。どう考えてもこのパースペクティブにいちばん近いのはこんなイメージだ。

 この公園はかつて大阪万博が開かれたところだが、当時のパビリオンはもう一切なくなっている。
 ではなぜ、太陽の塔だけ残したかについては、「Brutus Casa」の2011年4月号「あなたの知らない岡本太郎100」に、
「予定外の<太陽の塔>が残った理由のひとつはには、しっかりした構造があるだろう。仮設的な建物が多い万博会場では異色だった。塔を成立させるため、建築家の吉川健と構造家の坪井善勝が協力した。吉川は、塔が会期終了後も撤去されることなく永久に残る可能性を察し、本格的な建築工法を採用したという。」 という記載がある。
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写真:「太陽の塔」裏面。こっちはこっちで素敵な顔がある。撮影Incidents

 その後、紆余曲折もあったようだが、これだけは絶対に残すべきものだと改めて思う。
 どこからどう見ても美しく絵になるこのフィギュアは、やはり空前のもので、あれほど感受性に乏しい私の家族どもの目さえ釘づけにする。そして何よりとにかく、でかさの実感がすごい。

 太陽の塔から数百メートルほど歩いたところに、EXPO’70パビリオンという、当時の万博の資料をいやというほど集めた、記念館がある。
 鉄鋼館を改装して2010年にオープンした。資料総数約3000。入場料は大人200円。小中学生無料。
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写真:EXPO'70パビリオン内。こんな家族写真もありだろう。撮影:Mama-san

 この中に入ると、あっというまに気分は1970年へ。
 当時の圧倒的な文化的高揚を感じるために、これほどいい記念館はまたとないと思う。この会期中の日本は、戦後最も芸術面で先鋭化していたかもしれない。
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写真:鉄鋼館 スペースシアターホールでの演奏プログラム。なんと贅沢な楽曲が採用されていたことか! 撮影Incidents

 東京生まれの東京育ちの私だが、4歳の時に大阪万博に日帰りで行ったのを覚えている。
 とある日曜日の早朝、父親がまったく気まぐれに思い立ったのだ。当時はかなりの貧困にあえいでいたはずの我が家。

 かなり無理をしたはずなのだが、それは幼い私にぜひこの歴史的イベントを体験させようと思ったか、あるいは単に自分が行きたかったのか。
 知る術はないが(聞いても、お前に見せたかったのだ、と言われるに決まってる)日帰りで、生まれたばかりの弟と母親は行かなかったというのが、当時の無理を物語っている。
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写真:EXPO'70パビリオン内 太陽の塔のジオラマ。かっこいい。 撮影:Mama-san

 とにかく圧倒的な人ごみだったことを覚えている。
 今でもはっきり記憶しているが、実は4歳の私がいちばん入りたかったパビリオンは、フジパン・ロボット館だった。
 ここには、ジャンケンしたり、写真をとってくれたりと、いろんな未来のロボットが展示されていたはずなのだ。プロデュースは誰あろう、手塚治虫。

 どうしてもこれにだけは絶対に入りたいと主張して、とうとう泣き叫ぶ私だったが、たぶん待ち時間6時間とか、そういうことになっていたのだろう。
 とにかく、「これに入るんなら、お泊まりしなきゃいけないんだ!」と、父親にばっちんばっちんぶん殴られたのだった。
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写真:「太陽の塔」つくづくどこから見ても絵になる。 撮影Incidents

 今から思うと、いや、当時もだけど、なんでそこまで殴られなきゃいけなかったのか、どうしてもわからないのだが、まあおそらく、その日に宿泊するだけの持ち合わせがなかったのだろうと思われ、そのことが父親としてひどく不甲斐なかったのだろうと邪推する。

 となると、4歳の私は八つ当たられたわけかと、万博というと、そんなことばかり思い出してしまう。
 とはいえ、曲がりなりにも大阪万博の雰囲気を、幼い私の記憶に残してくれたという意味で、そのことは心から感謝している。
 そんな私と父が、その日に見学できたパビリオンは、唯一、太陽の塔だけだった。

 ちなみに、太陽の塔については、「これだけは絶対に入る!」と父親が強く主張し、あれっ!? ロボット館には入れないのに、これには入るのか!? と、ひどい矛盾を感じたことも忘れられないことである。
 しかし、そこで太陽の塔に入り、内部の「ツリー・オブ・ライフ(生命の樹)」の記憶を、これも鮮明に残してくれたことで、父親の選択は確かだった。そのことも感謝している。
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写真:「太陽の塔」。あまりにも絵になる。 撮影Incidents
 もうひとつ余談になるが、この日、万博内で私はお昼ご飯として、生まれて初めてのスパゲティ・ミートソースというものを食べている。

 と、いうようなバカバカしい4歳の頃の記憶を妻子に語ってきかせつつ、公園内を歩いたわけだが、誰もそんな話に興味を持ってくれようはずはないのだった。
 確かなことは、太陽の塔の造形に、誰もが胸を打たれていたということだけど、まったくそれでOKだ。 

2011/8/25

大阪滞在記 その2 〜海遊館〜  ノンセクション

 たぶん、国内でいちばん楽しい水族館のひとつは、大阪天保山にある「海遊館」だ。
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写真:海遊館。この建物の3色は、それぞれ海・火・地をあらわすそうだ。 撮影Incidents

 高い建物のちょうど吹き抜けにあたる中央を、縦に長い巨大なメイン水槽として、まずはじめにいちばんてっぺんに登らされた私たちは、その周囲をぐるぐる回りながら下ることによって、全飼育種目を見学することができる。

 右にメイン水槽、左に個別の水槽があって、世界の全海洋の生物を見れるという、斬新な順路だ。
 そして、そのメイン水槽にいるのが、この水族館の目玉である、魚としては最大のジンベイザメがいる、というわけだ。
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写真:ジンベイザメ。実に余裕のでかさである。 撮影Incidents

 この海遊館を設計したのは、各国でいくつものアクエリアムを成功させている、ケンブリッジ7という、マサチューセッツ州の設計集団であることは、帰ってきてから、脚本家の羽田野直子さんにご教示いただいたことだった。

 それを教わるまで、海遊館に対する私の興味は、無名時代のエドワード・ノートンが、この水槽を設置するスタッフとして働いていた、という事実だった。
 ノートンがある程度の日本語を話せるというのは、有名な話だと思うが、それをマスターしたのが、この海遊館で働いていた数カ月の経験だというわけだ(だから大阪弁)。
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写真:『真実の行方』より。リチャード・ギアとエドワード・ノートン(左)
この映画のノートンは、確かに忘れられないほどすごかったが、リチャード・ギアも最高の演技だった。


 日英のウィキペディア情報をつきあわせると、彼が日本に来たのはイエール大学卒業後の1991年頃のこと。
 海遊館の開館が1990年だから、ここちょっとおかしい。卒業後に大阪に来たという、英語版ウィキペディアの情報は矛盾がある。

 それはまあいい。なぜエドワード・ノートンが海遊館と関係するかというと、彼の祖父は大富豪である。商業土地開発や、都市計画を請け負う、ラウス・カンパニーの創業者、ジェームズ・ラウスだ。
 せ、その祖父が経営する今ひとつの開発会社が、海遊館の建造に関係しており、そのつながりで「お手伝い」にやってきていたわけだ。

 ノートンがブレイクするきっかけとなった大傑作、『真実の行方』が1996年作品なので、彼が有名になるにはまだ、もう一息かかる。
 だが、実際の海遊館のどこをどう探しても、エドワード・ノートンがそれに関わったという痕跡のようなものはない。当たり前だけど。
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写真:海遊館のナポレオンフィッシュ。実にマヌケな顔で底に居座っている。撮影Incidents

 話変わるが、海遊館の大水槽の底の方で、いつもマイペースな表情をして面白いのが、ナポレオン・フィッシュである。映画系の人間としては、北野武監督の『ソナチネ』(1993)のポスターで、くしざしになっている魚と聞くとわかるだろうか。
 ナポレオンフィッシュの腹を、銛で貫く。この神をも恐れぬ行為ひとつで映画がどれだけヤバイかと、公開当時には見る前から震えあがったことを思い出す。
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写真:『ソナチネ』

2011/8/22

大阪滞在記 その1 〜ユニバーサル・スタジオ・ジャパン〜  

 ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)の園内を歩くと、その建物の多くは、もちろんレプリカながら、さまざまな映画作品に登場するセットであることをご存知だろうか。
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たとえばこれ。『アニー』のセット。

 人気アトラクションを楽しむのは、もちろん前提だけど、シネフィルを自認するなら、目に入る建物が、何の映画に登場するものかを推測しながら歩くと面白い。
 いや、偉そうに書いたけれど、私が言い当てることのできたものなど1つもないが。
 ともあれ、答えは各セットのレプリカに、金のプレートで貼り付けてあるからすぐにわかる。
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こんな感じで、プレートの表示がある。これを探すのもまたいとをかし。

 その他、これだけはディズニー・ランドがUSJを真似できないことは、扱っているアトラクションのオリジナル作品が多彩なことだ。一般的な観客が、映画本編をどれだけ知った上で遊びに来ているかはわからないが(たとえば、人気ライブショーの『ウォーターワールド』とか、映画作品の方を実際に見ている人って、どれだけいるんだろう?)。

 たとえば『バックドラフト』。
 この燃え盛る炎の、すさまじい熱気を体感できるアトラクションの前振りとしては、ロン・ハワードその人が登場して、映画のメイキングを語ってくれる。
 そして主演のカート・ラッセルとスコット・グレンも出演して、撮影について語るのを見ることができて、非常に感激させられる。
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これなんかは言われてみるとわかる。エリア・カザンの『波止場』に登場した倉庫。 

 昨年リリースされた、ブルーレイ版『バックドラフト』には、DVD未収録のメイキング映像がいくつか収録されたが、これがUSJで見れるのと同じかどうかは未確認である。
 実に贅沢な話なのだけど、贅沢と言えば人気アトラクションの「バック・トゥ・ザ・フューチャー・ザ・ライド」では、クリストファー・ロイドが、感動的なまでにエメット・ブラウンそのままに、再び役柄を演じつつ入場者を誘ってくれる。

 トマス・F・ウィルソンも、ビフそのものとして出演。時空を超えて逃げていった彼を追って、入場者は体感型アトラクションを楽しむしかけなのだ。
 これに乗らなければとりあえず、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズを、コンプリートに体験したとは言えないだろう。
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「バック・トゥ・ザ・フューチャー・ザ・ライド」。どうしたってワクワクしてしまう。

 コンプリートな体験といえば、「ターミネーター2 3-D」は、監督としてジェームズ・キャメロンが正式クレジットされたアトラクションで、ディズニー・ランドの『キャプテンEO』がコッポラの監督作品として、DVD化されようのない貴重作であるのと同様、このアトラクションを体感しなければ、キャメロン作品をコンプリートできない。
 いや、3D仕様のDVDも出てきた最近なら、『キャプテンEO』のDVD発売も可能性がないではない。けれど、ライブアクションも含むこのアトラクションに限っては、どのみち無理だ。
 そしてこれは、事実上『アバター』に先立つ、キャメロンの初3D作品なのだ。

 ついでながら、このアトラクションが、ロサンゼルスのユニバーサル・スタジオに登場したのは1996年のこと。
 キャメロンよりも一足早く、3Dを手掛けたようなイメージのあるロバート・ゼメキスだが、彼の初3Dが2004年の『ポーラー・エクスプレス』だから、実はジェームズ・キャメロンがそれを先んじている。

 もっとも『キャプテンEO』のディズニー・ランド初登場は、1986年のことだから、現在のレベルに近い3D(つまり赤と青のセロハンを使ったちゃちなメガネでない、偏光レンズを使う方式)は、コッポラが最初ということになるのだが。
 そんなコッポラが劇場作品では、いまだに3Dを作っていないというのは、皮肉な話だと思う。
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これに出くわすとおおっ、と思わされる。ヒッチコック『めまい』のエンパイア・ホテル

 ただしそれを言い出せばキリがない。『キャプテンEO』が登場する前の、ディズニーランドの3Dアトラクションは、『マジック・ジャーニー』。
 開園当初のTDLを知っている人は、このアトラクションを記憶しているかもしれない。「イッツ・ア・スモール・ワールド」のシャーマン兄弟による主題歌が印象的な、この3Dアトラクションの監督は、ジミ・ヘンドリックスやザ・フーなどのミュージック・ドキュメンタリーを手がける、マレイ・ラーナー。

 この『マジック・ジャーニー』の初登場は1982年なので、叶うものなら、たとえばジブリ美術館の土星座が、各種短編映画をかわるがわるかけているのと同じように、TDLでも『マジック・ジャーニー』と『キャプテンEO』そして、『ミクロ・アドベンチャー』を一定の周期でかからないものかと、夢想することがある。
(ちなみに『キャプテンEO』の後、TDLに登場した3Dアトラクション『ミクロ・アドベンチャー』(1994)の監督は、『グリース』、『青い珊瑚礁』などのランダル・クレイザーだ)

 なんだかUSJから話題がTDLに移ってしまったが、USJは映画好きなら映画的連想があふれ出てしまう遊園地だ、ということを言いたかったのだ。
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『ジュラシック・パーク・ザ・ライド』どうしたってワクワクする気持ちを抑えられぬ。

All Photo by Incidents

2011/8/15

『ツリー・オブ・ライフ』  映画

 テレンス・マリック『ツリー・オブ・ライフ』
 
 生命の神秘から、太古の世界までを網羅する驚異の自然映像というのは、ナショナル・ジオグラフィックの動画サイトを見れば、いくらでも転がっている。多くの図書館にもDVDが置いてあるし、最近は書店でもずいぶん廉価で売られるようになった。
 だが、それらの映像を見ても「すごい」と思いこそすれ、感動に震えることがないのは、そこには決定的に人間的な感情を定着させていないからだ。
 
 しばしば封切られる、大自然系の劇場映画が、きっと気の遠くなるような撮影チームの根気と、大変な撮影技術の成果であることはわかるが、それが生涯忘れられない、「これ一作」と思うことがないのと同じだろう。

 『ツリー・オブ・ライフ』という映画を見ていて、思ったのはそれと同じ気持ちだった。
監督テレンス・マリックは、特に『天国の日々』など、それこそ「生涯忘れられないこれ一作」を撮った人物だ。
 けれどそこにあった、痛々しくもひたむきな人間の生命への渇望は、ここではきれいさっぱりなくなってしまった。

 たとえばスタンリー・キューブリックも、きわめて無機的な非人間性を描き尽くした、映画作家だった。けれど彼の試みはそれを取り除いていって、後に残るものは…という映像実験であって、それは逆説的な人間性の探求でもあった。

 けれど、ここでのテレンス・マリックの作り方は、単に人間というものに、鈍感なだけのように思える。
 それはブラッド・ピットはじめ、俳優陣の扱いに抑制をかけた、ということではどうもなさそうだ。何かがない。
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写真:『ツリー・オブ・ライフ』より。大森林。この森林を見上げるのと同じように、ショーン・ペンは後に、超高層ビルを見上げることになる。 画像リンク元

 『ツリー・オブ・ライフ』は、テレンス・マリックにして驚くべきことだが、『2001年宇宙の旅』などの伝説的なSFXマン、ダグラス・トランブルを呼んできて特殊撮影アドバイザーを務めさせている。
 そこでCGの恐竜を登場させてまで、ビッグ・バンから生命の誕生、そして水から陸へ、という生物の変貌の様を見せていく。

 それ自体はよいのだが、はて人類の進化がないというのはどうしたことか。地球への隕石激突による氷河期への突入、巨大生物の絶滅まではいいのだけど、そこから哺乳類から人類への進化の過程をごそっと飛ばす。

 そうして現在のブラッド・ピットが、強権的な父親として君臨する、アメリカの家庭の描写へとつなぐわけだが、これは何だろう?
 主人公が敬虔なカトリック教徒らしいことを慮っての、あるいは、キリスト教右派などの反発を恐れての省略だろうか? まさか。

 その家族の描写として、光の反映といい、カメラの動かし方から何から、凝りに凝った映像が展開するわりには、その描写に驚くほどディテールがない。
 かなり保守的な家庭だろうに、星条旗をとうとう目にすることがなかった。

 ブラッド・ピットこそ、ピアノを弾いたりオルガンを弾いたり、それなり趣味が見え隠れするが、母親を演じるジェシカ・チャスティンの無味乾燥ぶりは空恐ろしくさえある。この人は本当に生きているのか?

 ディテールがないから、この家族に対して何ら感情は芽生えない。それは、ちょうどこの家族の歴史にぶつけた、種の起源への驚異の感情を、この家族が共有していないからだ。
 『未知との遭遇』の撮影において、スピルバーグはトリュフォーに対して、あなたがとにかく第三種接近遭遇に心の底から感動してほしい。あなたが感じる異星人への感情が、そのまま観客の感情になるのだから、と演出したのだそうだ。
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写真:「ナショナル・グラフィック」誌の公式HPからランダムに。『ツリー・オブ・ライフ』程度の画なら、いくらでもふんだんにある。

 映画や映像が観客の魂を揺さぶるためには、多くの場合、その揺さぶる魂を、映画の中の誰かに託さなければならない。
 「生命の樹」への畏怖を、この映画の登場人物と分断してしまったら、それはただ長いだけの映画になるし、事実この映画は138分もある。
 だがそもそも、こんなどこにでもある家族の物語を、種の起源と等価になぞらえるような、そんな人間の傲慢は厳に慎まなければならないはずだ。

 どれだけすごい「映像」を撮っても、それだけでは「映画」にならない。そこを忘れてしまったら、テレンス・マリックは映画作家ではない。ただの映像作家だ。 

2011/8/13

『復讐捜査線』、『ラスト・ターゲット』  映画

 マーティン・キャンベル『復讐捜査線』
 久しぶりにメル・ギブソンの姿をスクリーンで見る。調べてみると、実に『サイン』(2002)以来のようだ。間に監督作品として『パッション』(2004)と『アポカリプト』(2006)をはさんでいる。その後、ゴシップ誌をあれこれ賑わしていたのは周知の通りだ。

 そしてその賑わせぶりが、決して人気にプラスに働くものでないだけに、このいかにもB級なノリの邦題はいただけない。
 仮にもメル・ギブソン主演で、『007/カジノロワイヤル』のマーティン・キャンベル監督作品、ということなら、もう少し丁寧な作品の扱いもあったろうにと悔やまれる。
原題は“Edge of Darkness”と、なかなかシャープなのに。

 いきなりギブソン演じる刑事の愛娘が、まともに殺されてしまうところから、しかしこれはタイトル通り、本当に法を破りまくって無法な捜査をする、ギブソンの陰惨なダーティ・ハリー路線なのかな、と思ったが実際にはまったく違う。
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写真:『復讐捜査線』より。メル・ギブソンの面構えは、やっぱりさすがなのだ。

 娘の死の背景には、現在の日本ならさしずめ、原発政策の背後に眠る暗い利権になぞらえ得ようくらいの、核開発を巡る大企業と政府の癒着がある。
 それをギブソンは静かに静かに追いかけていく。原動力は娘との間の過去の記憶だ。どうも一刑事の手には追えぬレベルの背景だろうことは、ギブソン自身も見えてくる。
 だから1人1人消していく…のではなく、1枚1枚、真実のベールをはがしていくのだ。

 メル・ギブソンも年をとった。格闘をやらかすと倒れ込んで、大きく肩で息をしてあえぐ。
『リーサル・ウェポン2』で、手を出せない相手に、とりあえずオフィスの巨大水槽を、銃でぶっ放すようなわけにはいかない。
 アメリカの敵はもはや、そんなことでは驚かないし、ギブソンもそんなイキがったポーズもとれなくなった。
 陰謀を隠ぺいするための工作員、レイ・ウィンストンの存在がいい。メル・ギブソン以上に、彼の存在を通してアメリカの闇が見えてくる。

 舞台はボストン。現在、アメリカをまたしてもろくでもない方向に持って行こうとしかけている、“Tea Party”の発祥地である。


 アントン・コルベイン『ラスト・ターゲット』
 ジョージ・クルーニー主演のこちらも、やはり憂鬱な主人公、だがこっちは暗殺者だ。
 そしてこちらの邦題もやや安易だが、原題はずばり“The American”と重い。
 
 引退を決意した暗殺者クルーニーが、大ボスからとりあえずの待機を命じられ、イタリアの片田舎での日々を過ごす。そこに最後の仕事として、銃のカスタマイズ依頼が入る。

 今回も製作者に1人として名を連ねるクルーニーの目は、相変わらず確かで、最後の仕事として接近してくる女(テクラ・ルーテン)といい、彼が最後の恋人として目をかける行きずりの娼婦(ヴィオランテ・プレシド)といい、思わず息を呑むような美女の連発である。

 見た後に知ったが、その娼婦を演じたヴィオランテ・プラシドが、容姿といい全裸といい、そのセクシーさにあっけにとられたのも道理。
 『ゴッドファーザー』で、シチリアに逃げたアル・パチーノが束の間の結婚生活を送った美女、シモネッタ・ステファネリを母親に持つのだそうだ。
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写真:『ラスト・ターゲット』より。ヴィオランテ・プレシド。

 映画は、カステル・デル・モンテという、どこがと改めて問われると答えに窮するが、いかにも映画的な名を持つイタリアの片田舎の、ほとんど流れていないも同然の時間。
 そして、その数百年変わらぬ時間間隔を持つ村にあって、「アメリカ人」がひとたび動き出すと、あっという間に「アメリカ時間」がその空気を乱してしまう。

 足を洗うというのは、アメリカ時間からその身をひきはがすことである、ということに着目した構成と、ジョージ・クルーニーと監督アントン・コルベイン(コービン)の共犯ぶりは、なかなか見応えがある。
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写真:『ラスト・ターゲット』より。テクラ・ルーテン
以上3点の写真元はallcinema.com

2011/8/10

『カウボーイ&エイリアン』  映画

 ジョン・ファブロー『カウボーイ&エイリアン』

 『未知との遭遇』と『宇宙戦争』と『バックマン家の人々』と『ミッシング』を同時に取り込み、『捜索者』と『シェーン』の味わいを加えるなどという離れ業ができるなんて、いったい誰が想像するか。
 そんな奇跡が、スティーブン・スピルバーグとロン・ハワードが、初めて同じ一本の映画の中でクレジットされるという、歴史的な作品でなら可能となる。
 そんな大親分2人組の鉄砲玉として担ぎ出されたのが、『アイアンマン』のジョン・ファブローだ。

 ここ数年、スピルバーグとロン・ハワードは、クリント・イーストウッドという名の恒星の周りをぐるぐる公転してきた。
 それが『硫黄島からの手紙』『父親たちの星条旗』『ヒア アフター』(スピルバーグ製作総指揮)であり、『チェンジリング』と撮影中の新作『J・エドガー』(ハワード製作)である。
 イーストウッドといえば、元を正せば西部劇。であるからには、スピルバーグとロン・ハワードの最初の手合わせがウェスタンになるのは、必然、とは言わないが、すばらしい偶然ではなかろうか!

 もともと、スピルバーグの最も正統なフォロワーはロン・ハワードで、ロン・ハワードが限りなくスピルバーグに接近した最初の試みが、『E.T..』に対する『コクーン』だったことを考えると、2人がウェスタンにエイリアンをぶつけるのは、これまた必然、とは言わないが、すばらしい偶然だ。
 だから原作ものとはいえ、『カウボーイ&エイリアン』というのは、いかにも2人らしい題材なのだ。

 しかし、それにしても『カウボーイ&エイリアン』はすばらしい。
 上記に述べたような、2人の親分へのオマージュはさておくとしても、ジョン・ファブローの堂々たる西部劇監督としての腕前だ。
 かつての名作西部劇で見たような場面が、たくさん散りばめられているから、というわけでは無論ない。ないからすごい。
 それを一言で乱暴にまとめてしまうと、西部の大地を舞台に、男どもの群像を描き、彼らは全員馬に乗っていて、銃を持っている、ということに尽きる。

 だったらたとえば、ローレンス・カスダンの『シルバラード』(1985)でもいいじゃないか、という話になるが、ことはそう単純でなく、これはリズムの問題なのだ。
 ウェイト&ゴーの絶妙な緩急。馬の速度とそれを追うカメラの速度。まぎれもなく西部劇なのだ。そのうえで、近年のCGを駆使したスーパー・アクション。しかしそれも、やりすぎでないところがまたいい。だからめまぐるしさに、今何が起こっているのかがわからなくなることがない。つまり撹乱されない。

 でもやっぱり、私としてはジョン・ファブローが見事に、スピルバーグとロン・ハワードを融合させた、その手腕に快哉を叫ばずにはいられない。
 空飛ぶエイリアンの宇宙船に拉致されたヒロインを、ヒーローが救出しようとする。その結果、これがロン・ハワードの映画であることの必然で、彼らは当然、水中に落ちる。
 そして水中からあがったヒロインが、ニッコリ笑って一言。
 
 「私たち、空を飛んだ」

 最悪の恐怖に陥ったはずなのに、その第一声が「空を飛んだ」だ。これぞスピルバーグでなくて何だ。
 そして続く初めてのキス。これぞロン・ハワードでなくて何だ。

 まさにこれが、スティーブン・スピルバーグとロン・ハワードが、“映画的に”がっちりと手を握った瞬間である。ここで泣かずに何に泣くか。
 『カウボーイ&エイリアン』の幸福感を私は一生忘れない。

*『カウボーイ&エイリアン』は10月22日封切り
公式HP http://www.cowboy-alien.jp/

2011/8/8

『ふたりのヌーヴェルヴァーグ ゴダールとトリュフォー』  映画

 エマニュエル・ローラン『ふたりのヌーヴェルヴァーグ ゴダールとトリュフォー』

 ヌーヴェル・ヴァーグといえば、どうしたってこの2人になる。
 ビートルズにはジョージとリンゴだって、いるんだと言ってもはじまらない。やっぱりジョンとポールなんだというのと同じだ。

 今どきお宝映像など、正直珍しくもない。動画サイトなどを漁れば、びっくりするような記録フィルムがあれこれ出てくる。
 それにツイッターなどでは、いろんな方がツイートしたりリツイートしたりで、どんどん教えてくれるから、ちょっと前までは考えられなかった映像にありつくことができる。
 カンヌ映画祭に招かれたジャン=ピエール・レオーの姿なども、『大人は判ってくれない』のDVDに映像特典としてそっくり入っている。

 けれど、そうした所から得た映像は、本当に断片的なものにすぎないので、もう一つ心の奥を揺さぶってこない。
 個々にはどこかで見たことがあるような記録映像の数々も、この映画のように大きな歴史の流れとして順々に示されると、これほど生命を持ち始めるかと、そこに驚かされた。
 「映画もまた編集である」というのは、マイケル・オンダーチェがウォルター・マーチと語り尽くした近刊の書名だが、それがいかに真実か、と改めて思う。
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写真:『夜霧の恋人たち』より。「アントワーヌ・ドワネル、アントワーヌ・ドワネル、アントワーヌ・ドワネル、アントワーヌ・ドワネル…!」
 
 彼らの道のりを辿り直すことで、個々の作品にも触れていくと、その作品群にもひときわ愛情が高まって来る。
 改めて抜粋映像で見るところの、ゴダールとトリュフォー作品の、いかに力強いことか。映画本編で何度も見ているのに、『夜霧の恋人たち』でレオーが鏡に向かって、「アントワーヌ・ドワネル、アントワーヌ・ドワネル、アントワーヌ・ドワネル…!」と、自らの名前を連呼する場面の愛しさよ。
 この感覚は、『ふたりのヌーヴェル・ヴァーグ』が、その前後の彼らの様子を、順を追って見せてくれていたからに違いない。

 そしてもう1点、この映画が非凡なのは、ヌーヴェル・ヴァーグの研究者らしき振る舞いをする人物として、女優にして映画作家の、イジルド・ル・ベスコを画面に出したことだ。
 当時の新聞・雑誌の切り抜きを読み、ゴダールとトリュフォーの牙城、カイエ・ドゥ・シネマのバックナンバーの数々に埋もれ、時にはPCに何やら書きこんだりもする姿として。

 監督インタビューでは、現代の若者と関係を持たせ、トリュフォーの映画の信念たる、「映画を成功させるためには画面に若くきれいな女性の顔を映し出すべきだ」という言葉に従ったものだと述べているが、いや、彼女の映像があるからこそ、映画とその作家にもっともっと深入りし、もっともっと調べなければいけないな、そうすれば、これほど豊かな映画への関心が芽生えていくのだなという、気持ちになれる。
 これが監督の言うところの、かつての若者(トリュフォーとゴダールとレオー)を描いたのだから、現代の若者と関係を持たせようとした、という言葉に通じるのだろう。
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写真:ゴダールとトリュフォーの、これが初めてのツーショット写真なのだそうだ。 画像元eiga.com

 野心に満ちた若きヌーヴェル・ヴァーグの3人を見つめ、そしてそんな彼らのことをもっと知ろうと、アプローチをかけるイジルド・ル・ベスコの姿を見ていると(時には映画館で居眠りしてしまう姿も含めて)、自分もだ、というひどく前向きな気分になってくる。
 
 これは、生体エネルギーが落ちているときに見れば、ばっちり気力を充電してくれる、得難いフィルムだ。そして、ヌーヴェル・ヴァーグというのは、そんな気力の塊のような運動だったのだろうと思う。 

2011/8/6

『エッセンシャル・キリング』  映画

 イエジー・スコリモフスキ『エッセンシャル・キリング』

 たとえば「飢え」を表現するのに、ロバート・デ・ニーロとか、そのタイプの俳優なら、きっと見事にパントマイム化して、すごい演技をやってのけるのだと思う。
 けれど、ヴィンセント・ギャロはそれほど大層な役者ではないので、スコリモフスキの演出がおおいにものを言うことになる。

 発話を封じられていた、チャールズ・チャップリンなら、『黄金狂時代』で飢えを表現するために、自らのシンボルマークであるドタ靴を、立派なテーブルマナーで食してみせる。スコリモフスキがトライしようとしたのは、これなのだと感じた。
 それは“セリフがない”という、サイレント期チャップリンにとっては必然の、けれど現代のスコリモフスキにとっては異常な製作設計にも、あながち関係しないではなく、だからのトライだと考えた。
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写真:『チャップリンの黄金狂時代』より。飢えのあまり靴を喰らうチャーリー。

 飢えのバリエーションは逃亡のバリエーションでもある。言うまでもなく、チャップリンは、常に警官から逃げ続ける人物ばかりを演じてきた。いかにして逃げるか。
 こうしたことどもを、チャップリンなら笑いの糖衣にくるむことを許されていようが、スコリモフスキはどこまでもリアリズムで迫らなければいけないが、『エッセンシャル・キリング』は『アンナと過ごした四日間』がそうであったように、やはりコメディでもある。
 だって、セリフなしで腹をすかせて逃げるなどという設定は、サイレント・コメディでしかあり得ないではないか。

 このシリアスとコメディの激しい拮抗が、『エッセンシャル・キリング』の極意だ。
 おそらく誰もが言及するだろう、乳児を抱えた女性の母乳をむさぼるシーン。
 でっぷりとよく肥えた若い女性が、雪道に座りこみ、赤子に母乳を与えようとする。
 彼女の「家路」がどれだけ遠いか知らないが、そんなところで乳を与えようとして、それを遠目にばったり見つけてしまうギャロ。ここは笑いどころなのだ。
 そこで彼女にふらふらと近づいていって、銃を向けるギャロ。

 ここから不意に気分はシリアスに転調する。そっと守るように子どもを深く抱きしめる女。ここの彼女の表情がすごい。殺される? 強姦される? どっちが先? という胸の奥の激しい葛藤が見てとれる。
 見てとれるというのは大ウソで、そう思わせるように銃口とギャロの顔の、それぞれに視線がぼんやりと動いていくのだ。
 しかし、ギャロのやることたるや、女の乳房をむき出しにさせ、その母乳をむさぼることという、ここはもはや笑うしかない場面だ。
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写真:『エッセンシャル・キリング』より。 画像元allcinema.com

 ただし、スコリモフスキのこの作品を、ブラックユーモアとまで呼ぶ自信はない。
 けれど、米兵に囚われ、拷問を受け、偶然から脱出を果たす(そのきっかけが、野良イノシシというマヌケぶりなのだから、やはりここも笑いどころなのだろう)、映画でははっきりとした確証はないものの、おそらくはアラブ系兵の物語ということで、現在の国際情勢、神々の目線から見れば(冒頭の空撮!)、要は喜劇にすぎぬという、このことに『エッセンシャル・キリング』の核心はあるのではないか。

 それは、作中人物としては必死そのものなのに、神=観客の目からみたら“ニコニコ大会”になってしまう、サイレント・コメディの本質でもないだろうか。
 といった符号に『エッセンシャル・キリング』の面白みを掴んでみた。





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