2011/9/30

『ワイルド・スピード MEGA MAX』、『スパイ・キッズ 4D:ワールドタイム・ミッション』  映画

ジャスティン・リン『ワイルド・スピード MEGA MAX』
 どこかで誰かが言っているのかもしれないし、製作者がどこまで意識しているのかどうかも定かではないながら、高級車専門の窃盗が話の中心になり、ヒスパニック系の美女がやたらに出てくるという意味で、『ワイルド・スピード』は、クリント・イーストウッド『ルーキー』(1990)への、猥雑なオマージュと言っていいと思う。

 それなりに面白いながらも、いささかよそ見をしたかに思える、2作目・3作目だったが、3作目のエンディングでカメオ出演したヴィン・ディーゼルが、4作目で完全復帰し、ポール・ウォーカーとの滑舌悪いコンビっぷりが、イーストウッドとチャーリー・シーンの、これまた決して滑舌がよかったとはいえぬコンビをトレースして、今回の5作目も快調に飛ばしている。
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写真:『ワイルド・スピードMEGA MAX』より。ジョーダナ・ブリュースター。1・4・5作目で出演。ずいぶん垢ぬけて美人になってきた! 画像元allcinema.com

 IMDBをひもとくと、前作8500万ドルから、今回1億2500万ドルと、製作費大幅アップで、アクションも目分量でちょうどそのくらいに、パワーアップしている。
 ワイルド・スピードのチームにあっては、現金1億ドル強奪に、ソダーバーグのオーシャンとその仲間たちのように、神経質な策は弄しない。
 2台の大型スポーツカーに、鋼鉄のロープをつなぎ、超大型金庫にがっちり固定させると、壁ごとそのままぶったぎる!

 一軒の家ほどの大きさがあろうかという、金庫を猛スピードでひっぱり、ごろごろ転がし、その巨大な質量が、ブラジルの街を木端微塵にするだけでなく、追っ手の車も次々なぎ倒していく。
 ラスト30分の、この情け容赦のない破壊アクションの威力は、入場料の元を完全にとった気分にさせられる。それでいい。
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写真:『ワイルド・スピードMEGA MAX』より。ガル・ギャドット。本シリーズ初参加。かわいいが、まだまだ露出がたりない。次回作以後に期待である。 画像元allcinema.com

 警官隊のこわもてリーダーとして、ドウェイン・ジョンソンも参加し、ヴィン・ディーゼルとの激しい肉弾戦もあって、これが手抜きの一切ない殴り合いだ。
 ドウェイン・ジョンソンの「奴らを車にだけは絶対に乗せるな。ひとたび乗せたらおしまいだ。いいか、絶対に乗せるな」という部下たちへの的確にすぎる指示も、車どころか、拳と拳の激突で敗北し、さらに銃撃戦でも助けられてしまうとあっては、もはやワイルド・スピードの面々に穴はない。

 ラストの驚愕の上にも驚愕させられるカメオ出演から、さらにさらにパワーアップした6作目が期待でき、このシリーズ、まだMAX値ではない。

ロバート・ロドリゲス『スパイ・キッズ4D:ワールドタイム・ミッション』
 「スパイ・キッズ」シリーズも4作目まできた。
 今回の敵は、時間泥棒とあって、ついミヒャエル・エンデの『モモ』なんかを連想してしまったりする。なかなかチャーミングである。
 思えば前作『スパイ・キッズ3-D:ゲーム・オーバー』(2003)は、いち早く3Dを手に入れた作品だったのだ。それは、ゼメキス『ポーラー・エクスプレス』(2004)さえも先んじる。

 今度の新味は何かというと、4Dとして匂いをつけてきた。場内に入る前に6つの番号が入った紙をわたされる。
 そこで、作品を見ながら画面右下に番号があらわれるので、あらかじめ渡されたシートのその番号部分を爪でこすると、封じ込められていた匂いを楽しみつつ、作品内の情景を実感する、というしかけだ。(においシートは3D版でも2D版でももらえる)
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写真:『スパイ・キッズ 4D』より。ジェシカ・アルバに、『スパイ・キッズ3D』からアレクサ・ヴェガとダリル・サバラが大きくなて再登場。画像元allinema.com

 ジェシカ・アルバの冒頭10分の、まさかの妊婦アクション。中盤からは、『スパイ・キッズ3D』の主演2人組みが、驚くほど大きくなって物語に参加。
 観客サービスとはこういうものだという、見本のような作品。
 それにしても、ジェシカ・アルバは実生活でも子どもを産んだせいか、母親役として、とても柔らかい、感じのいい演技をするようになった。

2011/9/27

『宣戦布告』  映画

 ヴァレリー・ドンゼッリ『宣戦布告』

 於 日仏学院第15回カイエ・ドゥ・シネマ週間
 もう国内での上映は終わってしまったが、この感激は記録しておきたいので以下。

 タイトルからは想像がつかないが、内容的には、まずボーイ・ミーツ・ガールから始まる。このすてきな2人の出逢いの描写がたまらない、
 激しいダンスミュージックの流れるディスコで、ふと目と目が合った2人。男が遠くからキャンディー(?)をぽいっと投げる。それをぱくっと口で受け止める女(たぶんポーズだろう)。そこからキスまではまっしぐらだ。
 「ぼくはロミオ」「うそでしょう? 私の名はジュリエットよ」「だったらよくない運命が待っていそうだね」

 実際、よくない運命が待っていた。2人の間に生まれた子どもは、まだ生まれて2年にもならないのに、脳に腫瘍があったのだ。名前はアダム(!)である。

 子どもが生まれた時の喜びは決して長続きしない。とにかく夜泣きがひどい。夫(ジェレミー・エルカイム=共同脚本も)は、いくらなんでも泣きすぎるとぼやく。子育てに飽きて、何となく遊びに行きたい愚痴さえ口にする。
 妻(ヴァレリー・ドンゼッリ=監督・脚本の1人三役!)は、それを許すでなく、さりとて叱るでなく、絶妙な塩梅でやりすごす。
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写真:『宣戦布告』より。愛の風景。画像元

 やがて来るべき宣告。当初、彼らの子を診察した女医(または子育てのソシアルワーカー?)は「なにも異常はなさそうだ」と言う。
 けれど子どもをじっと見つめ、何か異変をそこに見出す。この彼女の眼差しがいい。「わかった。今、みつけた」直ちに彼女は、専門医に連絡をとるべく受話器をとるのだが、うっかりデスクのおもちゃの電話を手にしてしまう。この絶妙なユーモアの不意打ち!

 かくして夫婦の、我が子の病への宣戦布告が始まる。どこで手術をするのか。誰が手術をしてくれるのか。いろいろな障害がある。
 あるとき夫は「外に出るぞ」と行って、家族3人で勢い、海まで行ってしまう。何ともさみしい風景だ。
 もしかしたら、フィルムから少し色を抜いて現像したのだろうか、今彼らのおかれている心象風景そのもののようだが、この家族はもう一度、そろって海を見られるのだろうか。

 ドンゼッリ監督の演出は、子どもの描写を必要最低限にしているように思える。
 きっとそれをやると、安っぽい難病ものになり下がる可能性がある。ただし、子どもの愛らしさが、観客に強い印象を残す程度には、きっちりと見せる。
 手術室へと向かう、長い長い長い長い病院の廊下を、ベッドに乗せられて、これから自分にいかに大きな、そして重大な手術が行われるか、まったく知るよしもなく運ばれていく。しかし、何という無垢な顔を刻みつけるのか。

 手術室の扉が閉まる。取り残される2人。向かい合う。これ以上はないタイミングで、抱きしめ合う。手術の成功のみを願って。

非常に印象的な予告編

 時に映画は、生活のうえでの最高の指南を与えてくれると思うことがある。
 この夫婦は決して会話を忘れない。ほどよいところで、どちらからともなく、シリアスな話題をユーモアに変える。
 このシリアスからユーモアへの転換は、先の女医のおもちゃの受話器のように、全編を支配するものでもある。

 そして、個々の困難の合間に2人は必ず移動し、動く=ジョギングすることもあれば、遊園地の回転ブランコに乗ることもある。あるいはバイクで疾走する。
 映画の命がアクションであってみれば、夫婦の命もアクションだ。動いていけば絆も保たれるはずだ。まるで彼らはそう信じているかのようだ。

 バッハ、ヴィヴァルディから、ドルリュー、モリコーネ、はてはロリー・アンダースンまで幅広く、しかし躍動感あふれる音楽が、彼らの気持ちを沈ませるのではなく、勇気づけ、生の側へと押し出すかのように盛り上げる。
 決して落ち込まない。そうすることによって、現に生きている私たちも、たいがいの苦難は乗り越えられるのではないか。そんな勇気さえも、与えられる。

 いや、実は一度だけ落ち込み、弱音を吐く。
 誰もいない、薄暗い病院の待合室で、窓を見ながら夫ロミオがついに口走る。
 「なぜぼくたちなんだ。なぜアダムなんだ。どうしてなんだ」
 この時、何ともしれないすてきな横顔で、やはり窓の外を見つめる妻ジュリエットが、わずかな間をおいてそっと呟く。
 「私たちだったら、打ち勝てるからよ」

 さらに感動的なのはこの後に訪れる。実はその日の朝、ロミオは通院が億劫で、どうしても朝起きることができなかった。そのためジュリエットよりも遅れて病院に来た彼は、ある知らせを受けとることができず、それに呵責を感じていたのだ。

「私たちだったら、打ち勝てるからよ」の言葉に、ジュリエットを見つめて、ロミオは何か言葉を口にしようとするが、感極まっているので出てこない。
 そこでジュリエットは、すかさずつぶやく。「私もよ!」

 これ以上の愛情表現って他にない。
 私は映画史上最高の“I love you.”は、『スター・ウォーズ/帝国の逆襲』で、リー・ブラケットが書いた、ハン・ソロとレイアの“I love you.” “I know.”であると堅く信じて来たが、いよいよそれが乗り越えられたように思う。

 きっとこの時、ロミオが口に出したくてついに言葉にならなかったのは、“I love you.”(ジュ・テーム)だ。
 けれど言葉にならないから、それを先回りして「私もよ!」とささやくジュリエット。
 しかしこれは、何て繊細で、可憐で、美しい愛情告白だろうか。

クリックすると元のサイズで表示します写真:『宣戦布告』より。渾身のジュテーム。素晴らしい陽光が遠くに。 画像元

 決して難解じゃない。もちろん通俗に堕してもいない。これは万人の心に訴えるフィルムだと思う。もちろん子を持たぬ人にとっても。なぜなら、これは人と人との関係の物語でもあるからだ。

 映画はところどころ、夫婦以外の声によるナレーションによって、夫婦の状況を言い表してくれる。
 彼らは幼い子どもの長い治療の果てに、結局は他者との関係がいつしか途絶え、2人きりになる。
 職も失い、2人だけの世界の中に囲いこまれてもいく(とナレーションは説明する)。そんな彼らを、映像はどう表現するか。これが実に、遊園地で遊んで、力いっぱい2人で笑顔を見せるところなのだ。
 どうやって人と人との関係を維持し得るのか。その答えの1つがここにあるように思う。

 日仏のディレクター、坂本安美さんのツイッター(@ElleaWatson)をフォローしていると、「フィルムに誰かがこだわり続けなければならない」という発言もあり、この作品も当初デジタル上映だったところ、おそらく大変なご尽力でフィルム上映を実現したのだろうと思う。
 この映画の繊細な肌合いは、きっとフィルムでなければだめだったと思う。
 そして、そのプリントは、今、日本を発って釜山に渡ったのだという。またそれが日本に戻って来て、そのときは一般封切でと願ってやまない

エンドクレジットで流れてくる、Jacno“Triangle”無機的で楽天的なテクノが、あふれた涙をほどよく乾かしてくれる。 

2011/9/24

『ジュリエットからの手紙』、『親愛なるきみへ』  

 ゲイリー・ウィニック『ジュリエットからの手紙』
 ラッセ・ハルストレム『親愛なるきみへ』


 今年に入って、どういうわけかどっと公開作の増えた、アマンダ・サイフリッド。
 当初は、だってあの救い難い『マンマ・ミーア』の田舎くさい女の子でしょう? と、まったく関心を持っていなかったが、『ジュリエットからの手紙』を見て、完全に彼女に対する認識を改める。

 冒頭、携帯電話を片手にてきぱきと仕事を処理しながら、マンハッタンを闊歩する彼女の姿が実にいい。
 服装やヘアスタイルなどで、これほど変われるなんて、恐ろしいのは女性という生き物なのか、女優という存在なのか。

 その『ジュリエットからの手紙』は、オープニング・クレジットで、さまざまな美術作品におけるキスシーンを、まるで紙芝居のように見せてくれるところが、まず楽しい。
 そこに『ニュー・シネマ・パラダイス』のエンディングへの、ささやかなオマージュがこめられているのかどうか、この映画の舞台はイタリアである。
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写真:『ジュリエットからの手紙』より。アマンダ・セイフリッド。さして美人でも何でもないのに、彼女の透明な空気感がものすごくいい。 画像元allcinema.com

 イタリアはヴェロナ。『ロミオとジュリエット』の舞台。婚約者と休暇に訪れたはいいものの、彼女そっちのけで、自らの経営で開店を控えるレストランの食材探しに奔走する相手(ガエル・ガルシア・ベルナル)。
 そこで偶然訪れたのが「ジュリエットの家」。そこには、世界中から寄せられたジュリエットへの手紙に対し、ボランティアが返信を出しており、そこでヒロイン(アマンダ・サイフリッド)が、50年前の手紙を発見してしまう…。

 その50年前の手紙を書いたのが、イギリス人女性(ヴァネッサ・レッドグレーブ)。かくして、アメリカ人がイギリス人の手をとり、イタリアの大地を巡るという国際色。
 キューピッド役を買って出る、セイフリッドのブロンドが、イタリアの太陽に実によく映える。
 そして、たくさんの出逢いを重ね、たくさんの人と対話をする中で、彼女の中の価値観が再検討されていき、まったく新しい人生に踏み出す勇気を身につけて行く。青春映画として屈指の展開だ。

 プロットとしては、ジュリア・ロバーツがヒロインを演じる『食べて、祈って、恋をして』に似ているが、あのおよそ愚劣な帝国主義的反知性など微塵もない。
 『ジュリエットからの手紙』全体から感じる、謙虚さはやはり、アマンダ・セイフリッドの初々しい印象、とりわけ彼女の大きな瞳によるところが大きいと思う。

 『ジュリエットからの手紙』がそうであるように、『親愛なるきみへ』も、今どき珍しい、手書きの手紙に関する映画だったのは偶然だろうか。
 そしてどちらの作品も、手紙であることのすれ違い、というか、送信と着信の時間差によって、2人が結ばれるのを延期し続ける物語であるということも。

 ある日、偶然に出会った2人(アマンダ・セイフリッド/チャニング・テイタム)の、2週間の愛のひととき。
 米軍特殊部隊兵士の彼は、赴任地に戻り、任務を終えたら除隊し、結婚するという約束を交わしたが、そこに911が起こる。
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写真:『親愛なるきみへ』より。アマンダ・セイフリッド。ほんとに美人でも何でもないのに、何しろ雰囲気がすごくいい。清潔感あふれる金髪も得してると思う。画像元eiga.com

 何とももどかしく前に進まない物語に加え、全体からは無駄そのものと言える、自閉症を患った主人公・父の設定がさらに話をブレさせ、演じるリチャード・ジェンキンスの熱演も、空振りに終わらざるを得ない。

 ハルストレム監督自身が、脚本というよりはニコラス・スパークスの原作そのものに、手の施しようなくまとわりつく、そうしたあんまりな通俗性からだろう「脚本に従わなくていい」と、演技指導を出したことで、たぶんせめてもの見られる映画になったのだと思う。
 アマンダ・セイフリッドの、全身から漂う若さのオーラはやはりいい。それについては、『ジュリエットからの手紙』も同様。しばらくは、彼女の天下は続くのかも。

 この映画の意外な出演者としては、『E.T.』のエリオット少年を演じた、ヘンリー・トーマスだろうか。出て来た瞬間、絶対に間違えようのない面影の残る雰囲気で登場。存在感を残す。 

2011/9/21

『サウンズ・アンド・サイレンス』  映画

 ピーター・ゴヤー&ノルベルド・ヴィードマー『サウンズ・アンド・サイレンス』
(Peter Guyer&Norbert Weidmer“Sounds And Silence”)
 ECMレーベルからDVD発売(現在、輸入版のみ)

 ECM側の発表によると、この87分のドキュメンタリーは、2009年のロカルノ映画祭で上映されている。
 ECMレーベルの創立者、マンフレート・アイヒャーが、世界中の各地をめぐって、様々なミュージシャンと音楽を作り上げていく様子を、淡々とカメラが追いかけて行く。

 今でこそレコード会社のオーナーだが、アイヒャーは60年代のベルリン・フィル、すなわちカラヤン時代のコントラバス奏者の1人だった。だから、プロデューサーとしての音楽的背景は鉄壁である。
 映画の人で、音楽には必ずしも明るくない方でも、アイヒャーが1990年の『ヌーヴェル・ヴァーグ』以後のゴダール作品に、ECM音源を与えたといえばピンとくるだろうか。
 きわめて知的で、透明度の高い音楽をジャンルを問わずに送り続けるレーベルだ。

 今まさに、音楽が湧き立ち、生まれ出る瞬間。何もない沈黙から、精妙なアンサンブルが立ちあがって、その場の空気を震わせる。
 そんな至福の時を、このフィルムは見事にとらえていて、その都度、熱い何かが胸の奥からこみ上がってくる。

 国境も音楽の垣根も軽々と越えて行くアイヒャーこそ、真の国際人と呼びたいが、彼が世界各国のミュージシャンと音楽を作り上げ、レコーディングを行い、ライブに立ち会って、最良の響きと沈黙を生み出す、その移動と行動を記録したこのフィルムは、さながらロード・ムービーの側面さえ持っている。

どうだろう。まるでゴダールが作ったんじゃないかと思わされる予告編だ。

 レコーディングにおいて、楽曲最後の残響が消えるところを、渾身の集中で耳をすまし、はたと手を打って(エンジニアに)カットの指示を出す。その“指揮”っぷりは実に熱い。
 それが本当にプロデューサーの仕事なのか、ミュージシャンの仕事か、境は微妙だと思う。しかし、このフィルムでアイヒャーと共に、アテネでのライブを構成している、アンゲロプロスの作曲家、エレニ・カラインドルーはこんな発言をする。

 「マンフレート・アイヒャーは100%介入してくるわ。彼と働く以前はそんなことはなかた。全部自分でやっていたから。それが彼の情熱の源なのよ。彼はその瞬間に全力を注ぎ尽くし、関わるアーティストの全てに関わってくるの」

 ライブの間、カラインドルーが演奏する時を除き、アイヒャーは常に彼女にぴたり寄り添っている。
 寄り添っているといえば、アルヴォ・ペルトとのレコーディングだ。

 このフィルムを見ると、ペルトが見た目にいかにおどおどした人物か、ということに驚く。エストニア共和国の聖ニコラス教会での収録。ペルトは自作のスコアを手に、実に不安そうに、管弦合唱団を見つめている。
 無論、演奏者に対する不安でなく、自分の曲がちゃんと思った通りに響くだろうか、と心の底からビビっているのだ。

 その横にアイヒャーはその長身を、ゆったりとそびえさせている。時々「これでいいんだよね?」と言わんばかりに、怯えたような目で彼を見つめるペルトが、どこかおかしい。
 それに安心するのか、折に触れて指揮者に意図を伝えるペルト。表情もほころんでいく。
 そしてその頂点で、あろうことかペルトとアイヒャーは、2人で手に手をとって、ダンスを始めてしまうのだ。完璧な響きができあがった瞬間だ。

まさに音楽が生まれていく。あまりに素晴らしすぎる。

 その他、オードという楽器を奏することの(とてもレアな楽器としての)困難さと喜びを率直に語る、チュニス出身のアヌアル・ブラヒム(Anour Brahem)。
 自分はアカデミックな音楽を身につけていないという、コンプレックスを語るバンドネオンのディノ・サルーシ(Dino Salizzi)。
 彼が地元の仲間とジャムるときの陽気の笑顔から一転、「アカデミックな」奏者である、チェロのアニア・レヒナー(Anja Lechner)とデュオをとるときの、険しい険しい顔の対比が忘れ難い。そして演奏が終わった瞬間、破顔する。
 
 そして、これら多様な上にも多様な音楽を引き出しているのは、すべてアイヒャーなのだ。
 音楽に生きることの喜びが極まったフィルムとしか言いようがない。
(英語・ドイツ語・フランス語字幕付)

2011/9/18

『世界侵略:ロサンゼルス決戦』、『サンクタム』  映画

 ジョナサン・リーベスマン『世界侵略:ロサンゼルス決戦』
 こうして改めて見ると、アメリカ軍って、つくづくたくさんの兵力と兵器を擁しているんだな…と目を丸くする。
 そして目を丸くした瞬間「しまった、それがこの映画の狙いか。米軍はすごいんだぞというプロパガンダ作品か」と、気がついて恥じた。もちろん合衆国海空軍全面協力。
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写真:『世界侵略:ロサンゼルス決戦』より。とりあえずかっこいい。画像元allcinema.com

 ここで敵をテロリストや、ある種の国家にしてしまうと、何かと不具合もあろうと、地球戦略を目論む宇宙人にしているところが、小癪である。
 宇宙からの圧倒的な武力に対しても、なおひるまぬ、海兵隊員の勇気と、無尽蔵に出てくる米軍の戦略兵器の数々。

 だまされてはいけない、だまされてはいけない、と思いながらも、有無を言わさぬ116分の大戦闘。完膚なきまでに破壊されたロサンゼルスと、そのがれきの山の中もなお、不屈の闘志で立ち向かう精鋭海兵隊員たち。
 この映画は、震災の影響で封切が伸びたはずだが、攻撃の後のこの廃墟は、確かにあの被災地跡を思い出さずにいられない。
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写真:『世界侵略:ロサンゼルス決戦』より。なかなかいい画を作ってくるのだ。 画像元allcinema.com

 さらに巧妙なことに、彼らは星条旗の下にでなく、あくまで戦友とその誇りのために闘うこと、を強調する。
 そんなあれこれに、迂闊なことに感動させられてしまうのだ。それに、近代兵器の速度やら、爆発力やらが、すごい勢いで体感させられる。

 今回も、魅力的な女性兵士として『アバター』のミシェル・ロドリゲスが登場。今後、彼女のことは、何を演じてもトルーディと呼ぶことにしよう。
 敵母艦への米軍渾身のミサイルが、敵側の無人護衛機が犠牲着弾することで、当たらない。2発目。母艦への着弾寸前に、またしても無人護衛機が邪魔しようとする刹那、トルーディが狙い澄まして撃った砲が、護衛機を爆破。ミサイルが母艦に命中して、一挙に形勢逆転、といったところは、白状すると血が燃え、胸が躍った。
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写真:『世界侵略:ロサンゼルス決戦』より。ミシェル・ロドリゲス。この人はもう永久にトルーディ。 画像元allcinema.com
 
 それから、もう一点、いいところを挙げておくと、このギリギリの戦闘において、米軍側はただの一度も、核兵器使用を口にしなかった。
 いろいろ難しい映画ではあるのだけれど、そうした所も、つい擁護したくなる原因だったりする。


 アリスター・グリアソン『サンクタム』
 「製作総指揮ジェームズ・キャメロン」が、最大の売り文句になっているので、何の映画かということが、まったく伝わってこない宣伝は間違っている。
 絶体絶命。極限状態の地下洞窟からの脱出をもっと強調すればいいのだ。

 パブアニューギニアの密林に、ぽっかり口をあける地下鍾乳洞。
 この洞窟の地下水脈がいかに海に流れ込むか、ということを解明するために雇われた、探検隊一同と、その関係者たちが地下に集う。
 やがて巨大サイクロンの発生で、その洞窟に増水した大量の雨水が一気になだれ込み、帰り道が閉ざされ、脱出不能になる。
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写真:『サンクタム』より。すべての対立を超えて、とにかく生還すること。画像元allcinema.com

 それにしても、製作総指揮とはいえ、キャメロンらしさが、隅々まで漲っている。
 キャメロンが海底に眠るタイタニック号の探索を描いたドキュメンタリー、『ジェームズ・キャメロンのタイタニックの秘密』(2003)にも登場する、自ら開発した無人深海探索機さえ、『サンクタム』には登場する。

 そして、たとえていうなら、私は個人的に『エイリアン2』で一番恐ろしかった場面は、サイボーグ乗組員のビショップが、脱出口を求めて狭い坑道の中を進んで行く所なのだけど、そんなシーンが全編ぶっ通しで続く。
 ものすごい勢いで襲う、超大量の水の情け容赦のなさは『タイタニック』も連想する。
 また、洞窟内のしくみを、PC動画で説明するあたり、いかにもキャメロンが好む手だ。
『サンクタム』は震災の影響で、封切が伸びたわけだが、この怒涛の水による攻撃は確かに「あの」津波を思い出させて不思議じゃない。

 不屈の闘志で生き延びようとする、リーダー役リチャード・ロクスバーグ以下、いかにもキャメロン映画らしい顔ぶれがそろって、一秒たりとも気のゆるまぬ極限体験ができる。
 ほとんどオタク的とも言えるほどの、潜水技術のディテールや、ロッククライミングのテクニックを、目で見せる圧倒的な細かさにも、目を奪われる。
 こうした細部を徹底的に見せると、画面にはいやでも魂が宿る。
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写真:『サンクタム』より。映画のテーマは、生還からいつしか、父子の和解へ。 画像元allcinema.com

 最後だが、この3Dも実によくできているが、当然ながら『アバター』のような絢爛豪華さはない。洞窟という、きわめて限られた舞台設定だからだ。
 その意味では、ブレンダン・フレイザーの出た『センター・オブ・ジ・アース 3D』(2008)と設定は同じ。けれど、その製作の意味が全然ちがっているのは、『アバター』みたいな特別な作品は、それこそ10年に一本作れるか作れないか、という話になってしまう。

 けれど、3D作品普及のためには、そんな悠長は許されず、ある程度のレベルの3Dが量産できる基盤を作りたい、とキャメロンが思っても不思議はない。ここでの3Dとは、すでに量産されている水準のものでなく、キャメロンが納得できるレベルのもの。何より、IMAXをどんな劇場でも備えているわけではないのだ。

 暗くて狭い洞窟という舞台は、案外3Dになじむ。IMAXならかなりのレベルで克服したとはいえ、画面の暗さや、視線が中央にしか集まらず、画面奥ばかりを凝視させられる、横への視線の広がりを欠いた通常3Dの特性に、洞窟という舞台はぴたりはまる。
 IMAX以外の3D環境でも、十分な鑑賞に堪える作品を製作するということ。すなわちワンクラス下げた3D劇場での鑑賞にも堪える作品の製作基盤を整えることで、キャメロンの3D界支配は、一層推進され、やがて完成するのだ。きっと。

2011/9/14

『パレルモ・シューティング』  映画

 ヴィム・ヴェンダース『パレルモ・シューティング』

 冒頭。豪華な高層マンションとおぼしき部屋の、一枚ガラスの窓から外界を見る主人公。下着一枚の半裸。自信満々の肉体美を誇り、この体なら全裸の女性を前にしても、いささかの劣等感もないだろう。

 一転、画面はプールへ。冒頭の下着一枚が海水パンツに変わっただけの同じ姿。
 飛び込み台から水にダイブしようとするが、水恐怖症の主人公は、足がすくんで飛び込めない。

 水に飛び込めない? 単純な私はこの瞬間、これはヴェンダースがロン・ハワードに挑戦状を叩きつけているな、と直感するわけだが、そうなると、映画のどこかでこの主人公は、水に飛び込むか落ちるかするだろう。
 その後はきっと、女性とキスするかセックスするはずだ、と確信する。

 で、あまりにも予想通りの展開になってしまうので、つい笑ってしまったのだが、ついでに言うと、デニス・ホッパーに死神めいた存在をやらせる程度のことは、『エドTV』や『24』でロン・ハワードがとっくにやっている。
 デジタルとアナログの境というテーマについても、そのものズバリでないとはいえ、『パレルモ・シューティング』と同年の製作作品『チェンジリング』で、これはイーストウッドに手掛けさせたことでもある。

 音の処理についても、実音と錯覚の音という点で、はるかに興味深い実験を、『ビューティフル・マインド』で実行済みなわけで、ヴェンダースごときほめそやす暇があれば、ロン・ハワードにきちんと向き合いたまえと、声を大にして言いたくなる。
 …という本音を語ってもしかたがないし、ヴェンダースがロン・ハワードを意識しているとも思えないので、それはそれとして見る方が健全である。
 と、いうより音声とかキャスティングとか、デジタルとアナログの境目とか、そうしたことからこの映画を語ることは、ヴェンダースに対して逆に失礼だと思う。

 その観点でいけば、もちろん『パレルモ・シューティング』は、素晴らしい。死神めいたデニス・ホッパーという意味では、当然『アメリカの友人』のヴェンダースの方が早いので、そこはこっそり訂正しておくが、『アメリカの友人』で贋作がテーマとなり、『ことの次第』でフィルムがテーマとなっていたことを考えるに、『パレルモ・シューティング』のデジタル写真とは、フィルムを贋作化する格好のメディアだろう。
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写真:『パレルモ・シューティング』より。ジョヴァンナ・メッツォジョルノ。実に実にいい。 画像元allcinema.com

 「画」を生業とする者として、真贋の問題とは何なのか。主人公の苦悩の源は本当に、そこなのかどうか考えあぐねるが、母性回帰にまで彼の意識が及ぶにつれ、デジタルというのは、悪魔に魂を売り飛ばすに等しい所業だとでもいうのかどうか。

 たぶん、そうではあるまい。
 ヴィム・ヴェンダースの写真集『かつて…』(PARCO出版)という本がある。古い本なのでもちろん、デジタルカメラなど使われていない。
 その本の中のヴェンダースによる序文に、こんな言葉があって、私はこの文章がすごく好きだ。

「あらゆる写真は、ある映画の最初のカットでもある。多くの場合、これに次の瞬間が続く。もう一度シャッターを押せば動きが生まれる。次のイメージができれば、固有の空間と固有の時間における、「物語」が動き始める。」

 すなわち2つの写真があれば、そこには自ずと物語が生じてしまう。そここそが「映画」の虚構の危うさであるとヴェンダースは喝破するわけだ。
 一方、『パレルモ・シューティング』の主人公であるカメラマンは、デジタル写真の利点を生かし、撮影した写真を加工に加工を加えてファッショナブルに仕立て上げて、セレブな地位を築いた男だ。
 何しろ、複数の国の写真から空や太陽やらを加工合成して、ひとつの風景写真を作り上げてしまう。だが、その写真はいったいどこの風景になるのだろうか。

 複数素材からなるデジタルは、単独の1枚だけで「物語」を動かしてしまう。写真集『かつて…』所収の言葉と照らすと、ここにヴェンダースの震えを感じずにいられない。
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写真:『パレルモ・シューティング』より。ジョヴァンナ・メッツォジョルノ。実に実に実にいい。ベロッキオ『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』のヒロインでもある。画像元allcinema.com

 だがしかし、そこまででわかったような結論にしてしまうのも、危険である。というのは、その写真集『かつて…』の中には、たった1枚だけ合成写真がある。
 ある一枚の静物画に、ジム・ジャームッシュが映り込んだ写真だ。

 ここにヴェンダースはこんなキャプションを添えている。
「かつて、わたしは、「静物」を見ていた。ジム・ジャームッシュがこの絵の中に映り込んだとき、それはもはや「死んだもの」ではなく一枚のポートレートになった。」

 難解なキャプションだと思う。写真に加工を施し、1人の人物を入れ込むことで「死んだもの」ではなくなるということ。
 ヴェンダースは案外、デジタルによる加工について、前向きな視線を向けているのではないか。そして、彼の前に訪れるデニス・ホッパーは決して死神なのではなく、ある種の恩寵をもって、彼を“笑顔”で迎え入れているのではないか。
 そんなふうにもまた、思ったりするのだ。クリックすると元のサイズで表示します
写真:ヴェンダース写真集『かつて…』(PARCO出版)より。静物画に写り込むジャームッシュ。

2011/9/10

『三人の結婚』  映画

 ジャック・ドワイヨン『三人の結婚』
 於 日仏学院 第15回カイエ・ドゥ・シネマ週間。

 ドワイヨン最新作(2010)ならば、何をおいても駆けつける。そして、これ以上は考えられぬくらい、ある意味ではセルフパロディと思えるくらいに、密度の高い心理戦ドラマだった。
 国内公開済みの作品中、もっとも印象の似た作品としては、ドストエフスキーの『永遠の良人』を原作にした、『女の復讐』(1988)あたりだろうか。とにかくすごい。

 登場人物は正確に5人のみ。新作発表を控えて執筆に励む劇作家(パスカル・グレゴリー)と、今なお肉体関係にある元妻(ジュリー・ドパルデュー/ジェラール・ドパルデューの娘)、その新作劇の主演を予定する俳優(ルイ・ガレル/フィリップ・ガレルの息子)、作家のアシスタントの若い女性(アガタ・ボニゼール/パスカル・ボニゼールの娘)、そして作品の演出家となる男性である。
 この5人が、劇作家の住宅に結集し、愛と肉欲と人生をめぐる泥沼の果たし合いが繰り広げられる。
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写真:『3人の結婚』より。この人たちはいつだってマジなんだけど、その真剣さがいつしか、ルノアール的なユーモアに転換してしまうこともあるからおそろしい。 画像リンク元

 タイトルでは「3人の結婚」とあるが、「3通りの」といったところだろうか。ともあれ形のうえでは、「3人で結婚する」という状態を、安定的な関係にしようとする彼らだが、そのようなものがうまくいくはずがないので、早々に破たんする。
 フランスというと、トリコロールの国であるわけで、「3つ」というと特殊な状態を呼び起こす。国の体制としてそもそも三角関係だ。

 いずれにせよ、結婚における3様相の可能性を、映画が明らかにすることはない。どのみち確かなのは、ドワイヨンにおいて男女の関係というのは、まさしく喰うか喰われるか。
 相手の魂をまるごと飲みこんでしまうことだが、人の魂を飲み込むことなどできはしないので、永遠の諍いだけが続くことになる。

 もとはといえば、主演を元妻にセットしていた新作劇の内容だったが、彼女が主演男優との結婚の可能性を示唆するや、その主演を俳優経験のない、若いアシスタントに割り振るための書き換えが行われる。
 ここで、作家を頂点とするはずだった、彼以下の人間関係のヒエラルキーが、少しづつ壊れ始める。そして肉体関係と、精神的上下関係がむき出しになる。
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写真:『三人の結婚』より。ドパルデューの娘(左)VS ボニゼールの娘(右)。2人の女のこの距離感。どこかベルイマンの『秋のソナタ』さえ連想させる。 画像リンク元

 それにしても、ドワイヨン的登場人物の心情吐露には、相手に対するいささかの妥協もない。要望に対しては、ウィ以外の答えを「禁じ」、「もはや本能なんだ」という肉体関係は、誰がそれを要求するにせよ、基本的な他者への配慮など微塵もなく、自分への帰属という意味でしかない。

 丁々発止のダイアログは熾烈を極め、語りながら人物と人物は、自在に空間を移動し、カメラは対象にぐいぐい迫る。十分すぎるほど過剰な言葉を発しているのに、それでもまだ足りないのだと言わんばかりに、女は全裸を見せ、男さえ裸身を誇示する。

 ジャック・ドワイヨンの濃密さは、『ラ・ピラート』(1984)の昔から、まったく衰えぬどころか、さらにさらに過激さを増している。
 ドワイヨンによる魂と魂の格闘技もここまでくると、人によっては耐えられぬ過剰さとなって迫るかもしれない。
 けれど、私自身はこのテンションを好きにならずにいられない。映画にあられもなく埋没することを、受け入れてくれるからだ。

次の上映は9月14日(水) 

2011/9/8

『ナッシュビル』、『天国の日々』  映画

 ロバート・アルトマン『ナッシュビル』/テレンス・マリック『天国の日々』
 当然反論は覚悟しているし、それがただの感傷的な世代的共感にすぎないと言われれば、その通りと言わざるを得ない。
 けれど、70年代から80年代にかけてのアメリカ映画こそ、古今東西の映画の歴史で、やっぱり最良の10数年だったと堅く信じている。
 この頃のアメリカ映画ほど、豊饒な鉱脈を有する国と時代が他にあるか。

 そんな豊饒さを、いやでも思い知らされる2作品が、このたび連続再映された。
 『天国の日々』は封切以来の再見。東京在住の観客なら、この作品を当時まだ開館したばかりの、ピカピカの新宿シネマスクエアとうきゅうで見たはずだ。
 上映中の飲食禁止に驚き、埋もれるほど大きく柔らかい座席に驚いて、ここがその後のシネ・ヴィヴァンやシャンテなどの、ミニシアター開館の嚆矢となる。

 当時まだ無名のリチャード・ギアとサム・シェパードが、広大な草原に佇んでいる。いつだって風が吹いていて、草はそよぎ、髪は揺れる。葉切れも飛んでいく。
 そんな中、一人の少女を巡って男同士が対峙し、年少の少女はそれを見つめている。さらにその全てを、結末まで含めて見通しているかのような、年配の老人が馬上にいる。彼は来るべき悲劇を予感し、警告も与えるが、何もできずに去っていく。
 彼の容貌はどこか“I need You!”と訴える、アンクル・サムのようだ。
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写真:『天国の日々』より。たぶんリチャード・ギアほど、アメリカのイノセンスと悪徳の両性具有を見事に身体化した俳優は、他にいない。 画像リンク元

 きっとアメリカは、彼の声が聞こえなかったか、聞こえないふりをしたのだ。『天国の日々』のサム・シェパードのように。
 1978年製作の『天国の日々』からわずか2年後、俳優出身のロナルド・レーガンが、第40代合衆国大統領に当選し、彼が標榜する「強いアメリカ」はまさにつかの間で、虚構の「天国の日々」を生きることになるだろう。

 遠く2001年9月11日のカタストロフは、そのレーガン政権での外交によって、ひそかに種がまかれていたことを、世界が知るのは、まだずっと後のことである。
 それはちょうど、『天国の日々』の“天国”が、兄妹の関係を「偽る」ことによって、成り立っていたことにも似る。

 テレンス・マリックは、大いなるアメリカの大地を舞台に、卑近な三角関係を描くことで、間違いなくアメリカ史を洞察していた。
 そして『天国の日々』では、イナゴの大群が麦畑を襲うというカタストロフの直前に、映画は地中の種が芽を吹くという、超高速度撮影をそっと挿入させている。
 すべては、現実の時間の中だけで展開するこの映画にあって、まさかの特殊撮影。

 驚くべき偶然なんだろうが、これが自身がずっと後に作る、『ツリー・オブ・ライフ』の“生命の樹”の一大シークエンスを、そっと予言していたように思える。
 ただし『ツリー・オブ・ライフ』そのものを、イナゴの襲来同様に、マリック自身の惨憺たるカタストロフだと言ってよいのかどうか。
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写真:『天国の日々』より。風景と人間が1つに溶け合ってる様は、さながらミレーの絵画のようだ…。 画像リンク元

 私は『天国の日々』を再見した日の晩、こっそりツイッター上に、「これを見ることで『ツリー・オブ・ライフ』に対して肯定的な視線を持てた」と呟いた。
 それは対立の中に芽生える生命、そして結局は訪れる破局、というテーマにおいて、マリックが少しも変わっていないという意味でのことだった。

 そして、『天国の日々』から10数年のアメリカは、ギアやシェパードたち同様に、虚構の「天国」を生きる糊しろがまだ残っていたが、21世紀のアメリカに2度目はない。
 2度目のないアメリカで、同じことをやれば、どうなるか。『ツリー・オブ・ライフ』のように、無意味で過剰なスペクタクルと、迷走する映像だけが残るという、やはりこれはマリックがマリック自身にしかけたカタストロフではないか、という思いに戻っていく。

 そう考えて、せめてもの「肯定的な視線を持てた」と述べたわけだが、さて、この『天国の日々』の筆舌に尽くしがたい、アメリカの映像をカメラにおさめたのが、“キューバ”出身のネストール・アルメンドロス。

 このあたりから、本格的にハリウッド入りするアルメンドロスは、少なからず『天国の日々』を意識したに違いない、ロバート・ベントンの忘れ難い『プレイス・イン・ザ・ハート』(1984)でも、見事な上にも見事なアメリカの風景を、フィルムに定着させる。
 『天国の日々』は麦畑、『プレイス・・・』は綿花畑の違いはあるが、この時期、アメリカ映画は確かに、広大な風景を再発見していた。
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写真:『天国の日々』より。まぎれもなく風景が見出されている。 画像リンク元

 広大な風景の発見といえば、タイトルは似ているが、こちらはアメリカ映画の資本を破壊してしまった、マイケル・チミノの『天国の門』(1981)を出してもいいだろう。こちらのカメラはハンガリー出身のヴィルモス・ジグモンドだ。

 そんなジグモンドは、3本のロバート・アルトマン作品などを手掛けて、着々とアメリカの“画”を撮っていくが、さて、そのアルトマンの『ナッシュビル』。こちらは風景もさることながら、より過剰に人間模様に目を向ける。1975年作品だ。

 圧倒的に均質なカントリー&ウェスタンの街であるナッシュビルに、次から次へと他者が紛れ込んでくる。分を超えて成功した歌手、カリフォルニア娘、イージーライダーな青年、黒人、歌の街における聾唖、不倫相手、外国人レポーターなどなど・・・。
 それら全部を売名のネタにするべく、映画全体を支配する大統領選キャンペーンの声(この映画の全編を貫くのは、実はカントリー音楽でなく、街宣カーの声だ)。

 ナッシュビルをナッシュビルで洗ったような、究極のカントリーマンであり、街の名士でもある、年配のカントリー歌手(ヘンリー・ギブソン)は、そうした他者が地元民と起こす軋轢には、逐一「この街を誤解しないでほしい!」と全人愛で対応しようとする。
 けれど、誰よりもその彼がいちばん、危険な大統領候補者のキャンペーンに、協力的な人物であるという、その矛盾に自身まったく気づいていない。
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写真:『ナッシュビル』より。ヘンリー・ギブソン。いい人だから厄介だ。 画像元allcinema.com

 そんな見当はずれの“良心”による、ボタンのかけ違いが、どんどん社会をデタラメにしていく。それは後の、レーガン、ブッシュ(父)、クリントン政権において一貫して続き、ブッシュ(子)で極限に至る、アメリカ社会そのものだろう。
 『ナッシュビル』のロバート・アルトマンは、そんなデタラメを収拾するための、たった一つの冴えたやり方を見せてくれる。
 それはもちろん「一発の銃弾」に決まっている。それも見当はずれな。

 『ロバート・アルトマン―わが映画、わが人生』(フィルム・アート社)で語られたように、撃たれるべきは政治家なのに、エンターテイナーであるという、デタラメな誤爆。
 それが、ほんの数年後のジョン・レノン射殺にまで発展するのは、つくづく恐ろしいことだと思うが、アルトマンがその言葉の奥できっと言わんとしている通り、アメリカを見通しているならば、起こることは起こるべくして起こるのだ。
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写真:『ナッシュビル』より。ロニー・ブレークリー。歌うことが仕事である。 画像リンク元

 70年代から80年代にかけてのアメリカ映画は、史上最高の時代であると述べた。それは、このようにちょうどそれ以前のアメリカと、それ以後のアメリカの、ちょうど分岐点にあたるからでもある。
 そして、それを語る物語の多彩さについては、述べるまでもないだろう。

 最後になるが、『天国の日々』で、嘘つきのイノセンスを見事に表現したリチャード・ギアは、そのロバート・アルトマン晩年の『Dr.Tと女たち』(2000)で、またしてもイノセントな人物(けれどどこかおかしな)を演じてみせる。
 彼が、アメリカ映画に最もふさわしい、俳優の一人と思わずにいられぬ所以だ。 

2011/9/6

『ハンナ』  映画

 ジョー・ライト『ハンナ』
 『ディア・ハンター』のロバート・デ・ニーロは、鹿は一発でしとめるのがポリシーだった。 『ハンナ』のシアーシャ・ローナンは、心臓に当てるのがポリシーである。
 かくも正確無比かつ、冷静沈着な暗殺者としての天才教育を施された少女の、雪におおわれた極寒のフィンランドに始まり、一面砂のモロッコから、スペインを経て、ついには曇天のベルリンへと向かう逃避行。

 監督のジョー・ライトは、主演がシアーシャ・ローナンということもあって、どうしても『つぐない』に連想が飛ぶけれど、『路上のソリスト』だって忘れてはいけない。
 こうした文芸路線の監督かと思いきや、一転ヴァイオレンス・アクション。

 スローモーションや、細かなカット割り、凝ったVFXなどの小細工一切なし。よくよくリハーサルを繰り返したと思われる演技だけで見せるアクションは、王道だと思う。
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写真:『ハンナ』より。シアーシャ・ローナン。『つぐない』も『ラブリー・ボーン』もあんなにかわいかったのだから、リアリズムはいいけど、もっとかわいく撮ればいいのにと、そこはおおいに不満である。 画像元allcinema.com

 カットを割るどころか、『つぐない』でやったような、ダンケルクの戦いの惨状を、延々と見せた途方もない長回しは、今回もしっかりやっている。
 路上に立った少女の父(エリック・バナ)が、周囲の気配に警戒しつつ地下に入り、やはり来たかと言わんばかりに次々襲う殺し屋を、いかにもプロの手際で片づけるまでの、目を疑う長回し。

 もっとも、私がこの映画についてさすがだ、とうならされたのは、死にゆく者の無念さを、大袈裟な描写でなく、殺しのバリエーションはさまざまに、イメージとしてだけ残るようしむけた手腕だった。
 この映画で死ぬハメになった人物、または死んだであろう人物たちは、みな、すべて道半ば、あるいは死ぬ云われのない者たちばかりだ。
 そのあっけなさと非情さは、間違いなくこの映画の冷徹な空気感を作っている。
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写真:『ハンナ』より。ケイト・ブランシェット。今回ものすごくいい。画像元:allcinema.com

 そして、いずれの死についても、ハンナによる救出は、決して為されない。殺人マシンとしてのハンナは、誰かを救出するために、自らを窮地に追いやることは決してないのだ。
 いや、もしかしたらここぞという所で、ハンナが大切な誰かを救いに行けば、映画としてのカタルシスは増し、娯楽作品としてのヒット係数は1メモリ上がるのかもしれない。
 けれど、監督はじめ製作陣はそこをぐっとこらえて、この映画から一切の湿り気を奪うことで、ジョン・ウー的なセンチメンタリズムを徹底排除している。

 そして、最後の殺し合いの現場は、父が公園、そして娘が遊園地へと場面を移す。いずれも、親と子が情を育み合い、一緒に遊ぶ喜びを得るはずの場だ。
 そうした一切が流血の場と化すことで、愛情が生まれるはずの場というものをことごとく踏みにじり、銃口は心臓へと向けられる。
 『ハンナ』は一切の情感を排した、鉄壁のアクションで、これもまた一つの達成である。

 

2011/9/4

『レイン・オブ・アサシン』  映画

 スー・チャオピン/ジョン・ウー『レイン・オブ・アサシン』
 昔ながらのいい加減で、けれど勢いだけはあった頃の香港映画を、久しぶりに見た気がする。
 昔ながら、と曖昧な言い方をしたけれど、チョウ・ユンファやリー・リンチェイが元気に跳ね回っていた、80年代半ばから数年間の、香港アクション量産期のことだ。
(ただし本作は中国・香港・台湾の共作(allcinema.com参照))

 よくも悪くも、ジョン・ウーはその勢いの端緒を担ったが、後にハリウッドで成功できる程に、「勢いだけ」の香港映画界の限界もまた同時に露わにし、いつしかその勢いも力を失っていった。
 仮にそれが1997年の、香港中国返還に期を一にするとしても、その因果関係を説明する力は私にはない。
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写真:『レイン・オブ・アサシン』より。ミシェル・ヨーの華麗な剣技。 画像元eiga.com
 
 そのジョン・ウーが共同監督として、本作に協力したのは、来日時のインタビューに答えて、「この歳になると若い監督を育てようという気持ちになった」という言葉通り、若き台湾の俊英をサポートするためだけだったかどうか。
 あるいは、自分が若かりし日の香港映画が持っていた勢いを、リバイバルさせようという、さらなる大志もあったのではと邪推する。
 それはもしかしたら、プロデュース作品も少なくないながら、後継が育つ素地を作れなかったために、いわゆるジョン・ウー・タッチの模倣者は無数にいるにせよ、意外とその後の香港映画そのものが、延びなかったことの、落とし前という考えがなかったかどうか。

 アン・リー『グリーン・デスティニー』(2000)の、アカデミー賞候補にもなり、欧米を巻き込んだ大ヒットは、その後の武侠篇のあり方をずいぶん変えてしまった。その「できのよさ」は、多くの武侠映画から、かつての「無責任さ」という魅力を奪うことになる。

 おそらく偶然だと思うが、『レイン・オブ・アサシン』は『グリーン・デスティニー』の主演の一人、ミシェル・ヨーを主役にいただくことになる。
 さらには、その国際的成功が、やはり中華圏映画の風景を一変させたはずの、チャン・ツィイーに、いかにも雰囲気がそっくりな、バービー・スーを主要人物の一人に迎える。
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写真:『レイン・オブ・アサシン』より。たいそう可愛いバービー・スーは、何とセックス中毒の剣士。彼女は韓国版『花より男子』の牧野つくし役が非常にかわいい。画像元

 『レイン・オブ・アサシン』の筋立てはいかにもバカバカしい。何しろ達磨大師の遺体のミイラを持つ者は、全てを支配するという伝説にはじまる争奪戦だ。
 しかも、そのミイラは上半身と下半身が切断されているので、両方を追うことになる。物語を引っ張るこんなマクガフィン、『グリーン・デスティニー』の威厳のかけらもない。

 そのうえ、最強の剣士として、主人公たちを圧倒的な窮地に陥れる黒幕が、ミイラを求める目的がまたすごい。
 いかにも驚くべき事実のように語られるので身構えてしまうが、さしたる謎でもないので明かしてしまうと、要するに実はそいつは宦官で、ペニスがないために欲望を処理することができない。
 
 そこで、伝説の達磨大師のミイラを手に入れれば、またペニスがはえてくるに違いないという妄信、ただそれだけだ。
 多くの人の運命を左右した野望の最終目的としては、あまりにしょぼい。しかし本人にすれば、切実の上にも切実な望みだろうことは察して余りある。だが、それにしてもだ。

 このバカバカしさは、確かに往年の香港映画の魅力と勢いを形作っていた。見ている間はムダに血湧き、肉踊る、けれど見事なアクションと、べたべたで大甘なロマンス。
 この無責任な勢いは、まるであの頃に帰ったようで、大いに楽しまされる。

 香港映画の隆盛は、そのきっかけも終焉も、ジョン・ウーに責任の一端があること間違いないが、リバイバルもまたジョン・ウーがやってみせた。
 ジョン・ウー自身は「自分は監修」と言いつつサポートした、スー・チャオピンの、理不尽な破綻を避けた丁寧な演出も、粗暴なエネルギーはそのままに、香港映画独特の臭みだけを取り除き、実にいい。

 なお、「顔を変える」という、ハリウッド進出後のジョン・ウーが、しつこく繰り返すモチーフが顔を出すことも、何だかうれしくなる。 



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