2011/10/30

『ボクシング・ジム』  

 フレデリック・ワイズマン『ボクシング・ジム』

 スピルバーグの『マイノリティ・リポート』で、コリン・ファレルが素手と素手でトム・クルーズと殴り合う時、首にぶらさげたロザリオに接吻しつつ、さっとファイティング・ポーズをとる。
 その姿は、実にセミプロ並みのボクシングの心得があることをうかがわせ、彼が演じる人物像をくっきりと浮かび上がらせている。

 ボクサーの多くがアイルランド系であることから、いかにもアイルランドの血を思わせるコリン・ファレルへの役付けとして、この演出は申し分ない。
 『マイノリティ・リポート』の舞台設定は2054年。50年後のアメリカでも、ボクシングというのは、この国にとても根付いたスポーツなのだと思わされる。
クリックすると元のサイズで表示します
写真:『マイノリティ・リポート』より。 画像元

 ワイズマン『ボクシング・ジム』の主人公といっていい、ジムのオーナー、リチャード・ロード氏は、肥満気味の少年にボクシングの心得を伝えるとき、こんなことを言う。

「腕は上げておけ。顔を守ることができる。腕が下がっているのは街のケンカだぞ」

 『マイノリティ・リポート』のコリン・ファレルは、主演のトム・クルーズに匹敵する名演を見せたと信じるが、彼の腕は十分に上がったまさしく、ボクサーのポーズだった。

 妙な参照をもってきてしまったが、この映画でワイズマンが取材したボクシング・ジムとは、このように実にアメリカ的な現場だと思う。

 今回、ワイズマンがカメラを持ち込んだのは、テキサス州オースティンのボクシング・ジム。先に述べたリチャード・ロード氏が仕切る、「ロード・ジム」というきわめて映画的な名前を持つジムである。
(ただしR・ブルックスの名作映画は“Lord Jim”。こちらは“Lord’s Gym”。念のため)

 いつもながらのワイズマンのやり方として、手短にその舞台の外観を見せたかと思うと、カメラはすぐにその内部に入っていく。
 そしてその被写体として、トレーニングにいそしむ男たちと同時に、ちょっと意外なものも写していく。
 たとえばそれは、子どもであり、女性であり、選手が連れてきている赤ん坊であり、さらにはシャドー・ボクシングにいそしむ、歳の頃10歳程度の少女である。

 その10歳前後と思われる少女は、素足にサンダル履きで、しかもその足指をきれいにペディキュアで塗りそろえているのが、実に印象的なんだが、私たちはボクシング・ジムってそんな人たちもいるのか、という軽い驚きを味わうことになる。

 ある舞台にカメラを持ち込み、まずはその場にそぐわぬ“異物”というか、“場違い”なものを撮るというのは、ある意味では平凡というか、珍しくもないことのように思える。
 けれど、ワイズマンがそれをやると、映画の進行につれてそんな彼らの存在にこちらが不自然を感じないようになっていく、という重要な効果がある。

 そのことに気付くのは、たとえば画面手前に、バスケットの中の赤ちゃんを置き、画面奥に先の10歳くらいの少女の姿を置いて、1ショットで見せたカットだったのだが、実はそのあたりから、私たち観客は、ボクシング・ジムにはそうした人たちもいるということに、なじんでくる。

 それはちょうど、初めてボクシング・ジムを入門に訪れた者が味わう感情に似る。
 見学に訪れた者は、てっきりそこには筋肉隆々の男どもが、ひしめいていることと思う。
 ところが意外や、そこには男性はもちろん、女性もいれば、ほんの小さな少年から少女に、老人までもいる。果ては先に述べたように赤ん坊までいて、その子はジムに寝かされていて、そろってトレーニングをしている夫婦が、かわるがわるあやしに来るくらいだ。

 まだ幼い子を入門させようという、ヒスパニック系の父母もいる。“てんかん”の発作があるので、頭を殴らないでほしいのだと、ロード氏に説明する母。英語がヘタだ。
 「子どもの頭は殴らないよ。トレーニングだけだ。いつから来れるかな?」と応対するロード氏の英語も、十分に通じていない。

 このように、言葉もままならぬ入門者がいるうえに、映画が進行するにつれて、どうもスペイン語かなんかで会話している連中もいるらしいことがわかる。
 きっと入門後しばらくしたら、誰もがそうした環境に慣れていくのだろう。実際、ジム生たちは老若男女、誰がいようと意にも介さずトレーニングに励んでいる。
クリックすると元のサイズで表示します
写真:『ボクシング・ジム』より。女の子だってトレーニング。画像元

 映画はロード氏が、入門希望者にジムのルールを説明し、また入門希望の動機を質問する対話シーンが、ところどころに織り込んでいる。
 ボクサーの夢を果たせなかった夫に誕生日プレゼントとして入門させたいという妻。父と見た試合が忘れられなくて、という若者などなど、さまざまだ。

 ワイズマン特有のこの会話場面を見ていて、このジムのオーナー、リチャード・ロード氏の振る舞いが、まるで合衆国への入国審査官のように思えてくる。
 さまざまな人が、出入りするここは、まるでアメリカ合衆国の縮図なのだ。
 (しかし、ジムの壁面はびっしりとボクシング関係のポスター・写真・新聞の切り抜きで埋め尽くされているが、ロード氏のデスクのちょうど後ろに、タイタニック号沈没の新聞記事が貼られているのはなぜだろう?)
クリックすると元のサイズで表示します
写真:『ボクシング・ジム』より。ジムのオーナー、リチャード・ロード 画像元

 最近刊行された『全貌フレデリック・ワイズマン』(岩波書店)を参照すると、この映画についてワイズマンは、「ボクシングという形に「儀式」化された暴力というテーマ」を想定したという。
 私見の限りでは、この映画の中に“暴力性”というものはまったく感じられず、むしろきわめてスポーツの現場としての取材だと思ったのだが、暴力的なるものが顔を見せるのは、終盤でジム生たちが、バージニア工科大学の銃乱射事件に関する話をするあたりだ。

 2007年4月16日に発生したこの事件は、有名なコロンバイン高校の乱射事件を上回る、現在のところ史上最悪の33名の犠牲者を出している(参照はウィキペディア)。
 前掲書によると『ボクシング・ジム』の撮影時期は2007年初夏。撮影の真っ只中で起きた事件なのだ。

 ジム生の1人は、知り合いの娘がこの事件に巻き込まれたのだという話をしている。その一方で、別の場面では何人かのジム生たちが、この事件の四方山話をしながら、「オレならぶちのめす」やら「一番ムカつくのは犯人が自殺しやがったことだ」などと話している。
 まさにアメリカだ。

 個人的に一番感動したのは、映画の終わりの方で、ジム生の中でもかなりの実力者の部類と思われる、男女2人の選手がそれぞれリング上で、別々にシャドーをしている長回しのシーンだった。

 2人は同じリング上にいるとはいえ、めいめいのリズムでシャドーをしているので、微妙にビートが異なっている。
 カメラは2人を同時に写したり、一方を写したり、足さばきを写したりで縦横無尽だ。ボクシングはいかに自分のリズムに相手を巻き込んでいくかだと聞く。完全に自分のリズムに没入している2人は、自らの動きに磨きがかかっていく。

 2人の調和せぬ動きは、同じリング上にいるというその一点においてのみ、まるでハーモニーを奏でるかのようになる。
 やがて3分の時間経過を知らせるブザー音がして、2人は動きをやめる。

 混沌と調和。91分というワイズマン作品としては短編の部類にも入れられよう、この作品の味わいは計り知れない。
(2010“Boxing Gym”91Min)

2011/10/27

井上篤夫『素晴らしき哉、フランク・キャプラ』  

 井上篤夫『素晴らしき哉、フランク・キャプラ』(集英社新書)
 キャプラの評伝が、まさか新書の形式で出版されるとは思わなかった。さすが集英社。かつては『ロードショー』という映画誌を持っていたことの縁だろうか。
 
 それ以上に、日本にこれほど熱心にキャプラ研究をしている人物がいたことに驚く。
 2010年には、カリフォルニア大バークレー校のアーカイブで、無声映画時代を含むキャプラ作品を集めた映画祭が開かれたという。
 著者はそこに参加し、かつキャプラ伝の執筆者である、ジョセフ・マクブライドに長時間インタビューを敢行したそうだ。
 おそらく、この小さな書物には書ききれぬほど、膨大な蓄積があると思われ、いつの日かそれをすべて記してほしいものだと思う。

 本書は、これまでほとんど知る機会のなかった、キャプラの生涯をわかりやすく、しかも不足なく伝えることに徹して、価値あるものだと思う。
 イタリアからの移民として苦労してアメリカに来て、職を転々としつつ、映画界への夢を持つようになる。

 コロムビアのハリー・コーンに見込まれ、ヒット作を連発してコロンビアのメジャー入りへの立役者となる。
 が、「ワンマン・ワンフィルム」を唱え、当時にしてすでに、映画は監督のものという強い考えを抱いていたキャプラは、盟友である脚本家リチャード・リスキンともども、確執が深まり、ついには決別。
 さらに念願の独立プロの設立を果たしたものの、『素晴らしき哉、人生』の興業的失敗から、恵まれたとは言い難い晩年。

 こうしたキャプラの一生が、既存の評伝類をしっかり読みこんだ上で要約されている。
 新書という形式では、ここまで書いてあれば十分。その限りにおいて、本書はきちんと使命を果たしている。特に、ハリウッドとバンク・オブ・アメリカとの関係について、多くのページ数を費やしているのは炯眼だと思う。
 
 キャプラという題材は、戦後の没落について、表面的な事実だけでなくもっと踏み込んだ記述や、第二次大戦のプロパガンダフィルムを含んだ個々の作品解釈、現代における影響範囲など、さらに面白くなるはずの材料に事欠かない。
 いつの日か、そうした事柄も盛り込んだ決定版が著されるのを期待したい。

 たとえば、本書ではほとんど触れられなかった作品、『失はれた地平線』一つとっても、その作品が完成するまでのごたごたなど、ここにたとえばキャプラの不遇と、現在のコッポラの不遇に通じるものを見てとることは十分可能なのだ。
 2人ともイタリア系であることは偶然かもしれないが。

 ともあれ、本書によってフランク・キャプラという名前が出て来たことだけでも価値がある。ルビッチやスタージェスほど、シネフィルに好まれる名前ではないが、それはやはり怪しからんことだ。もっとスポットがあてられるべき映画作家だと思う。
 参考:http://foodpia.geocities.jp/howardthemovie/chapter17.htm
    http://foodpia.geocities.jp/howardthemovie/chapter14.htm



2011/10/15

『神様のカルテ』、『ツレがうつになりまして』  映画

 深川栄洋『神様のカルテ』、佐々部清『ツレがうつになりまして』

 川本三郎の『マイ・バック・ページ』では、その映画版も含めて、ある種のキーワードになっていたのが、彼が少し懇意にするモデルの女の子が口にする、「男の人が泣くのを見るのは好き」という言葉だった。
 泣く男なんて男じゃない、と彼女に反論する川本だが、彼女は「私はきちんと泣ける男の人が好き」と答えるのだ。映画版はともかく、川本三郎のこの記述は、確かに「同時代生きる気分」の瑞々しい描写だった。

 そこからほぼ40年。日本映画の男どもは、いくらなんでも泣きすぎるようになった。
『マイ・バック・ページ』の彼女が肯定した男の涙は、何でも腕っぷしで片をつけた“男”のやり口が、究極、兵器の使用へとつながり、従ってそれが泥沼化するベトナム戦争につながっていることに対する、アンチテーゼとしてのノーだった。
 けれど、何かに対するノーでもなんでもない涙というのは、これはなんだろう。

 そういえば、耳に残って離れぬ「ノー」という言葉が深い印象を残した、『猿の惑星:創世記』だったが、最近ネット上でとても評判の悪いこの広告が、メジャーにおける今の日本の映画の現状を物語っているように思う。
クリックすると元のサイズで表示します

 さて、もしも格付会社のようなものがあるなら、昨今、男の涙なんてまるで価値を失ってしまった、その象徴のような作品が『神様のカルテ』と『ツレがうつになりまして』の2本で、これが実に2本とも宮崎あおいが出演している。

 それはよいとしても、この2本における宮崎あおいというのが、実に何とも絶望的なまでに、男にとって都合のよすぎる女性を演じており、映画のフェミニズム論は不得手なれど、異様なほどに男尊女卑的なこの2本にあって、製作者がそのことにまるで無自覚に見えることが、さらに不安を倍加する。
 決して怒らず騒がず、自らの感情は奥に秘め(いや、自分の感情などないかのようだ)、ただ優しく微笑んで、男どもの涙を受け止め、家に帰れば温かく待っている女性像。

 『マイ・バック・ページ』の頃の男の涙は、それは間違えようなく、男の強権が価値を失ったことの現れだった。
 けれど、『神様のカルテ』や『ツレがうつになりまして』のような作品における、きわめて利己的な男の涙を見ていると、そこに宮崎あおいのような、女神としか言いようのない女性をそこに配置しているぶん、ひどく手の込んだ、悪質なマッチョイズムのプロパガンダにさえ見えてくる。

 その片棒をかついでいるのが、今や、日本映画の女優として不動のナンバー1と言っていい、宮崎あおいとあれば、その病の深さは底が知れない。
 彼女はほんの少し前まで、『初恋』、『ハブと拳骨』、『闇の子供たち』などなどなどの、意欲的な作品への出演を連発していたはずだ。
 今のままでは、きわめて凡庸な「国民女優」に…それこそ『男はつらいよ』のマドンナ役をやりかねない存在に、成り下がるように思えてならない。

 ちなみにこの2作品について述べておくと、『神様のカルテ』は宮崎あおいの登場シーンはほとんどない、詐欺まがいの作品だったが、『ツレがうつになりまして』は、ほとんど出ずっぱりの上に、かわいらしさはほとんど神様。こちらは料金を払う価値、おおいにあり。

2011/10/13

『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』  映画

ルパート・ワイアット『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』

 どんな生き物を飼う場合もそうだけど、いや、それが我が子であってさえ、まだ小さいうちは、ひたすら「かわいいかわいい」で通用する。
 けれど、それがひとたび成長してしまうと、必ずしもそうは言っていられず、飼い主、または保護者は、ある種の覚悟を強いられる。
 
 『猿の惑星:創世記』は、その覚悟を欠いた近視眼の人間が、保護者となってしまったが故の悲劇(人類の末路を知る我々としては悲劇と呼ぶ他ない)と言っていいと思う。

 もともとは、老人の認知症の特効薬として開発されたが、それを動物実験として投与したことで、知性を備えたチンパンジーの子が、やはり高度な知能を持って生まれてくる。
 それを育てることになる、薬の開発者の科学者(ジェームズ・フランコ)とその父(ジョン・リスゴー)だが、彼を広い世界で遊ばせてやりたいと、ひとたび森林に解き放つや否や、ここから猿の急激な成長が始まる。彼はもう保護の必要な赤ちゃん猿ではない。

 その成長の過程を、見事なCGIを駆使し、木から木へと飛び移り、森林を滑空する怒涛の連続アクションで一気に見せる。
 実に禁欲的なBGMと共に示すこのシーンは、誰の目をも奪うことと思うが、これはすでにディズニーの『ターザン』(1999)が、作品の冒頭でやったことであり、『猿の惑星:創世記』の製作者も、それはもちろん承知だと思う。

 だから、この映画はディズニー版『ターザン』へのオマージュと思えなくもない。猿に育てられた人間の子ターザンが、成長につれて保護者を凌駕していく話の流れを、そのまま逆転すれば、人間に育てられた猿の子が、成長につれて保護者を凌駕していく『猿の惑星:創世記』の物語そのままだからだ。
 
 密林をサーフしながら成長する姿を、作品の冒頭においた『ターザン』のこの場面が、どこまでも無償の喜びに満ちているのは、ターザンが大人になった姿から物語が始まるので、あとは彼の活躍を無条件に楽しめばよいからだ。

 しかし、それを映画の中間におく『猿の惑星:創世記』は、どこか不吉さをまとう。猿がもうベイビーではないという、痛みがそこにあるからで、しかもそのシーンでは、猿の成長を見守る保護者の視線をまったく欠くが故に、これから始まる悲劇の予感=つまり成長するということに、人間があまりに無自覚であることが暗示されるためだ。
クリックすると元のサイズで表示します
写真:『猿の惑星:創世記』より。“知性”を表現するにはやっぱり「目」なんだなあとうくづく思ふ。画像元eiga.com

 話を一気に短くしてしまうなら、人類を滅ぼしたのは、ジェームズ・フランコ演じる科学者のせいだ、ということになる。
 彼は、父親の認知症を治したい一心とはいえ、効果が不確実な新薬を投与するという、科学者としてあるまじき愚か者である。
 もちろん彼は決して、悪い人間ではない。むしろ正義心に富んだ立派な青年だが、しかし責任というものについて無自覚にすぎる。

 いつまでも自分が保護者だと信じているので、拘束された猿を、自分の手元に取り戻すことさえできれば、万事まるく収まると信じてもいる。
 必然的に、彼は自分が保護者であったはずの猿に、ノーを突きつけられ、呆然とすることになる(この“No”の意味については、別に考察したいところだ)。

 たぶん、現世界の混乱の多くは、こうした保護者としての自覚と覚悟を欠いた者どもによって、引き起こされているのかもしれない。その意味で本作は、時代への批評ともなっているように思われる。
 あくまでたとえばの話だが、『ソーシャル・ネットワーク』(2010)の主人公なんかも、その1人ではないか。彼は確かに世界を変えたかもしれないが、変革後の社会についてのビジョンなどまったく欠いている。
 その意味で、私の目には『ソーシャル・ネットワーク』と『猿の惑星:創世記』の主人公が、同種の人間に思えてならない。
クリックすると元のサイズで表示します
写真:『猿の惑星:創世記』より。フリーダ・ピントとジェームズ・フランコ。強いて難癖つけるなら、彼女の描き方がよくない。彼の無自覚ぶりを補完する、自覚ある“母親役”として機能すれば、「それでもダメだったか」と、人類の悲劇が一層深まったのに、さしたる役割を与えられてないし、演技力も伴っていない。画像元eiga.com

 だが、そんなテーマ的なことはともかくとして、アクション映画としての『猿の惑星:創世記』の完成度の高さは無頼だ。
 「猿の軍団」の脱出から、研究室の占拠を経て、ゴールデンゲート・ブリッジでの大活劇に至る、ラスト30分のめくるめく展開はすべてを忘れさせる。
 
 よく考えると、猿と人間、観客はどっちの味方をすればよいのか、迷うはずなのだが、ここでのアクションは、どちらに勝ってほしいか、という次元を超越した演出に成功している(もちろん、こいつは死ぬべきだ、という悪役はいるわけだが)。

 ぱっと集まっては、瞬時に離散していく、猿の軍団の敏捷性にはこたえられない快感があるし、それを前に右往左往するばかりの人の軍団のとまどいに、どきどきさせられる。
 その間に入るジェームズ・フランコの無策ぶりも、なぜか共感できる。「行って!」と恋人が彼を送りだすとき、彼女から不意に熱いキスをするのだが、そのとき互いの唾液がかすかに糸をひくのも、なかなかその場の緊迫感を増している。

 ゴールデンゲート・ブリッジという、きわめて限定的な空間であるのも、功を奏していて、縦横無尽に動くカメラの効果を大いに助けている。場所が場所だけに、アルカトラズ島が見え隠れしそうなのも、意味なく映画的である。
 完璧としか言いようのないオチを含めて、必見中の必見作だと思う。すごい。

2011/10/11

『ステイ・フレンズ』  映画

ウィル・グラック『ステイ・フレンズ』
 フラッシュモブというのがあるのだそうだ。多くの群衆が、ある特定の場所で示し合わせて、ある行動をすることを言う。
 言葉よりも百聞は、でいこう。ずいぶん前に、映画研究者・大久保清朗さんに教えていただいたこの動画を見てほしい。これがフラッシュモブだ。

アントワープ駅でのフラッシュモブ「ドレミの歌」。この高揚感、涙なしには見れない。

 このフラッシュモブというやつを、映画の中で初めて見た。

 ニューヨークのヘッドハンター、ジェイミー(ミラ・クニス)が、ロサンゼルスのWebデザイナー、ディラン(ジャスティン・ティンバーレイク)をスカウトし、泣く子も黙る大出版社『GQ』のアートディレクターの職を斡旋する。
 たいへんなキャリアアップなのに、今ひとつ乗り気でないディランだが、それというのも、住みなれたLAがどうにも離れ難いからだ。
 かくして、映画はNYとLAという、合衆国両端の大都市カルチャーギャップを描く。
 LAもNYも選びようなく好きな人間、要するにアメリカが好きな人間にとっては、答えられない映画だ。

 この脚本はいいぞ、と思ったのが、NYでの仕事を説得するために、彼女はビジネスの話を一切しないことだった。
 年棒とか、地位とか、未来とか、そうした話はまったく抜き。彼女は彼に仕事そのものでなく、働く場所としての、NYという街そのものを売り込むのだ。それがいい。

 マンハッタンで、彼女がお気に入りの場所を次々と見せて行く。そして最後の極め付けでやって来たのが、タイムズ・スクエア。
 ありふれてるぞ、と訝しむ彼だが、そのとき突然はじまるのが、フラッシュモブなのだ。
 タイムズ・スクエアのど真ん中で発生する、フラッシュモブ! ここで熱い涙が流れるのは、もちろんこんな都市に住まずして、何としようと思わされるからだ。
クリックすると元のサイズで表示します
写真:『ステイ・フレンズ』より。突然のフラッシュモブを楽しむ、ミラ・クニスとジャスティン・ティンバーレイク。実にいいシーンである。あ、ミラ・クニスは『ブラック・スワン』ナタリー・ポートマンのライバルの子。 画像元allcinema.com

 彼女のこの手際には、誰だって感激する。かくして、「負けたよ!」と、彼はLAを離れてNYにやって来る。ここから中盤が、テーマとなっている「セックスだけの関係」というわけで、LAから越してきて寄る辺のない彼は、どうしても普段の時間を彼女と多く過ごすわけだが、恋愛関係なし、セックスだけ、という関係を約束し合うようになる。

 そうした関係へと移行する演出も、うまく描かれている。
 ある日の晩、さしたる刺激のないTVドラマを、部屋でだらだら見ている2人だったが、つまらなくもなければ、さりとて面白くもないメロドラマを眺めた後は、なんかこう「あ〜あ」と伸びをしたくなる気持ちは、多くの人が経験することだろうと思う。

 そんな感じで、「うーん」とばかりに体を伸ばした彼女だったが、そのとき何となく、本当に何となく、絶妙なタイミングでこんなことを言いだす。
 「なんかこう、セックスしたくなった。時々ならない? 首をならすような感じで、とりあえずセックスしたくなることって」
 これはなるほど、あるような気がする。24時間いつでもセックスしたい私なんかは実感ないが、何かだりいなあ、といった彼女の表情と声が絶妙なので、いやに説得力がある。

 かくして、そうなった2人の関係はしばらく続くが、正直なところ本論であるべきこのあたりは、中だるみと言える。脚本上は安定期だから、ことがあまり動いていかない。
 転機になるのは、今度は彼女がLAにやって来てからのことだ。

 ここでもまた、LAの良さを見せてもらえるが、ここでもまた初めて見たぞ、というすごい風景を見せられることになる。
 何と、柵を乗り越え山中に入り、ハリウッドサインの“O”の字に、2人が腰をおろす!
 こんなことができるのは、ティンバーレイクのスターパワーか、製作のジェリー・ザッカーの力か。
 NYのフラッシュモブと、LAのハリウッドサインに腰掛ける2人。これを見るだけでも、この映画は価値ありだ。
クリックすると元のサイズで表示します
写真:『ステイ・フレンズ』より。ちょっとあり得ないことだ。ハリウッドサインに座ってる!

 ハリウッド脚本術の定番通り、ここでひとしきり関係性の危機があって、また和解の方向にベクトルが向かうのだが、そのプロセスが彼女が彼にNYを売り込んだ手順の、あれやこれやがいちいち伏線になっているので、これまた快感だ。
 彼女の行方を追う彼が、手にしていたスマートフォン独特の、つるつるした表面に映り込むビルの影で、彼女の居場所にピンとくる、という描写も実に洒落ている。
 とどめは、セントラルステーションでリフレインされる、フラッシュモブ!

 ここまでくれば、ハッピーエンドに向かってまっしぐら。アメリカ映画は最高だ。 

2011/10/9

『スリーデイズ』  映画

 ポール・ハギス『スリーデイズ』
 いよいよ、ポール・ハギスのことは本格的に要考察として、ファイリングの対象にしなければいけないように思えて来た。

 ある日突然、妻(エリザベス・バンクス)が殺人容疑で収監される。
 妻が殺人など犯すはずはないと、持てるあらゆる手段を弄して無罪を主張する夫(ラッセル・クロウ)。
 しかし、妻の潔白を証明するにはあまりに証拠が乏しく、万事は窮する。そこで最後の手段に打って出る。妻を脱獄させ、息子とともに外国へ高跳びするのだ。
 そのことは一切誰にも知らせない。妻にさえも。理由は「反対されるから」。

 それにしても、合鍵を作る方法や、テニスボールを使った車の解錠の方法など、ここまで見せても大丈夫なのか? と思わされるほどの、脱獄手段のディテール。これだけ細部を徹底的に描けば、必然的に全体に神は宿るだろう。
 特にテニスボールで車のキーを外した瞬間は、ラッセル・クロウの巧さもあって、その鮮やかさに思わず声をあげてしまう。
クリックすると元のサイズで表示します
写真:『スリーデイズ』。ラッセル・クロウに脱獄の極意を与えるのは、リアム・ニースン。画像元

 コケの一念で手配した綿密極まりない脱獄作戦の妙と、犯罪のプロではないが故の、微妙な危なっかしさが最後まで、テンションを途切らせない。
 しかも、考え抜かれたカメラと編集によって、観客は何度でもだまされ続けるだろう。

 ポール・ハギスの前作『告発のとき』(2007)も、イラク戦争を背景に無断離隊した息子の汚名を晴らすべく、真相究明のために、その父が不遇な努力を続ける作品だった。
 アカデミー賞受賞の初監督作品『クラッシュ』を含めてそうであるように、ポール・ハギスは映画の外見的な重厚感からは、意外にも思えるが、この社会を作り上げているシステムの矛盾や欺瞞を告発するようなタイプではない。

 社会システムや国家的イデオロギーがどうあれ、ここがアメリカである限り、どのみち避けて通れぬ可能性のある運命を提示する。そして、その運命に抗おうとするとき、登場人物たちは社会システムの盲を逆利用し、結果的にそのダークサイドが焙り出されていく。

 『スリーデイズ』のすごさもそこだ。ここで、実際に妻が殺人を犯したのかどうかはさておく。しかしそれがどちらであれ、無作為な誰かが殺人犯として逮捕されかねぬ現実が、確かにあり得るというリアルなテーマ設定。
 その中で、夫婦としての関係性は絶対に崩さない、という大前提にブレがないとするならば、それを実現するために、システムのほころびをいかに味方につけていくか。
クリックすると元のサイズで表示します
写真:『スリーデイズ』より。今一人の美人オリヴィア・ワイルド。この映画は脇役がなかなかいい。他にはラッセル・クロウの父親としてブライアン・デネヒーなど。画像元

 そのうえで、そのほころび自体を是としない方法があって、ラッセル・クロウは偽造IDを手に入れるために金を使った、謎のコンビ(つまり“社会のほころび”そのものとしての存在)に「あんたは必死すぎる。必ず失敗するぞ」と言われる。
 悪いがお前たちに言われたくない。逆にラッセル・クロウは“必死すぎる”ことで、ヌケモレのない逃走作戦と、土壇場においての機転を獲得するのだ。
 それによって、“ほころび”はしょせん“ほころび”に過ぎぬことを露わにする。

 こうした脚本のスキのなさに舌を巻くと同時に、だからといってラッセル・クロウの行為を正当化しないことは、今度は演出の役割である。
 息子を車に残し、病院の車を解錠し、書類を差し替えて脱獄への布石を打つ、その父の姿を、息子は車の中からじっと見つめている。
 父の行いは、そんな息子の目に恥ずかしくないものであるかどうか。何度も挿入される、父を見つめる息子のカットは、親としてあるまじき行為への告発とは言えまいか。

 そんな彼の努力も、すべて無になってしまうような、たった1つの妻の行為(しかもそれは、当然想定すべきだったが、“必死すぎる”が故に、想定し得なかった事とも言える)。
 そのとき、背景いっぱいに広がっている、理不尽に濃い西海岸の空の青さがすばらしい。
 これは『クラッシュ』の決定的なクライマックスに見たのと、まったく同じ空の色だ。これを『スリーデイズ』にも見た瞬間、ポール・ハギスの何かが見えたような気がした。

 ポール・ハギスは、古くはスタンリー・クレイマー、そしてシドニー・ルメットを経て、オリバー・ストーンへと連なる、いわゆる告発型とはまったく違うスタイルの社会派監督として、いよいよ足場を固めたのではないか。 

2011/10/8

『ザ・ウォード/監禁病棟』  

 ジョン・カーペンター『ザ・ウォード/監禁病棟』
 下着姿で人目をしのんで森を逃げる若い美女(アンバー・ハード)。やがて、彼女は一軒の家屋に火を放つ。そこを逮捕され、精神病棟に放りこまれる。

 彼女の名はクリステン。どうやら、彼女がぶちこまれるその個室は、つい先だってまでタミーという名の女が使っていたようだ。
 となると、アヴァンタイトルで惨殺された女性は、このタミーなのかどうか。

 私などは、タミーという名を聞くと、ほとんど反射的にデビー・レイノルズの“Tammy”という歌を思い出してしまう。
 この歌が歌われる『タミーと独身者』(1957)というコメディを、私は未見である。けれど、あまりにも有名なその主題歌“Tammy”は、多くの人が耳にしたことがあるだろう。

デビー・レイノルズの歌う“Tammy”。何だかこの部屋、『ザ・ウォード』の集合部屋のように見えてきた。

 清純無垢としか言いようのないデビー・レイノルズが、しかしこの映画で歌う姿を見ると、そのドレス姿がまるで『ザ・ウォード』の病棟の患者のように見えてくるのは、あまりにも気のせいがすぎるだろうか。

 そしてクリステンと聞くと、私などはほとんど反射的に、クリステン・スチュワートを思い出してしまう。言わずと知れた、『トワイライト』サーガで、吸血鬼に恋をする女の子だ。
 吸血鬼といえば、『ヴァンパイア/最後の聖戦』(1998)といった作品もあるカーペンターのことだ。
 まして、日本の観客へのメッセージ・フィルムで、AKB48について言及するほど美少女好きの彼なら、クリステン・スチュワートは当然、意識していることだろう。ことによれば、本作の主演は彼女を希望していなかったとも限らない。
クリックすると元のサイズで表示します
写真:クリステン・スチュワート。とてもきれいである。

 デビー・レイノルズからクリステン・スチュワートへ。何の偶然か、デビー・レイノルズが『雨に唄えば』でブレイクしたのが20歳の時。
 『ザ・ウォード』の公開年である2010年で、クリステン・スチュワートは20歳になった。そして、この映画のヒロイン、クリステンは20歳という設定である。

 私はまたしても、ろくでもない妄想にふけって、根拠のない連想ごっこをしているのだろうか。もちろん、そうかもしれない。
 だが、精神病棟ものとしての、おそらく最高峰の一本、『リリス』を遺作とするロバート・ロッセンは1966年に死去しており、『ザ・ウォード』の舞台設定はその1966年なのだ。
 あまりにも関係ないが、私自身が誕生した年でもある。

 おまけにダメを押すかのように、『ザ・ウォード』の舞台となっているオレゴン州ノースベンド(舞台となるのも、ノースベンド精神病院だ)。
 カンのいい人なら、直ちにピンとくるだろう。もちろんここは、デヴィッド・リンチの『ツイン・ピークス』の舞台である。
クリックすると元のサイズで表示します
写真:『ザ・ウォード/監禁病棟』より。アンバー・ハード。残念ながらもう一声、美人度がたりない。ここはせめて脱いでくれないと納得度を欠く。 画像allcinema.com

 『ゴースト・オブ・マーズ』以来、実に10年ぶりのカーペンター最新作に興奮し、人はその繊細極まりない演習術に酔うことだろう。
 しかし私はむしろ、全ては偶然なのか、それとも仕組んだのかわからない、ジョン・カーペンター最新作の、こうした不気味な符号ぶりに、より一層戦慄するのだ。

2011/10/5

『5 windows』  映画

 瀬田なつき『5windows』
 横浜トリエンナーレの一環として、「港のスペクタクル」なるイヴェントにて。「漂流する映画館」という企画で見ることができた。
 資料をあらかじめいただいていたとはいえ、実はこれがどういう作品なのか、実際に体験するまでまったくわからなかった。
 けれど、こんな鑑賞はまったく初めてで、しかもそれがすばらしかったので、体験記として残しておく。

 起点は、横浜の黄金町にあるジャック&ベティという映画館。
 ここで料金を払い、参加カードと地図・案内書を受け取って、横浜・黄金町界隈に偏在する上映スポットを、めぐっていく。
 地図によると、ポイントは4か所。その各地点でループ上映されている5分の超短編を鑑賞し、最後にもう一度、ジャック&ベティに戻ってきて、約30分の中編を劇場で体験して完結となる作品だ。
 オリエンテーリングにイメージは近い。途中でお茶したり食事したり、男性諸氏は趣味と気分次第で、その界隈に点在する風俗店に入ってパワーアップするのも自由。
 あくまで自分のペースで参加する、まさに「漂流する映画館」というわけだ。
 
 同行の面々と、ジャック&ベティから歩いて数分の第1スポットへ。1Fがバーになった雑居ビルを、真っ暗な階段を2Fにあがると、そこに上映設備がある。
 丸座布団がしかれ、床にじか座りしてスクリーンを見つめる(暗くてわからなかったが、ここを出るときに、そのスクリーンが段ボール箱を積んだものとわかって、とても驚く)。

 染谷将一が、すがすがしく。でも、さりとて深刻でもない、空気感だけといった風情で、黄金町界隈を自転車で疾駆する5分間。
 ラストに俯瞰のカメラが、自転車の進行に沿って絶妙のタイミングで入ってくる列車をきっちり収めて、大変な技巧と段取りの妙をみせてくれるが、この段階では、まだこれから何を見ることになるのか、私たちはまったくつかめない。

 次のスポットは、キネマトグラフ仕立てだ。場所は小さなライブハウスのようなところ。キネマトグラフといっても、個々にレンズをのぞきこむのではなく、中空に吊ったプロジェクターをパーレーションで仕切って、独自に鑑賞する。
 ここでは、どこかのビルの屋上で、無為な気分と思われる斉藤陽一郎が、観葉植物に水をやったり、ぼんやりしたりという5分間。

 ここまでの2本では、何者かの不在が印象づけられる。染谷くんは、サイクリングの途中で、橋の真ん中に落ちている1つのサンダルをみつけ、どこか不思議そうな表情をする。
 斉藤くんは、誰が遊んだか、いかにも夏の終わりの記号たる、バケツの中に放り込まれた花火の燃えさしや、誰が踏んづけているわけでもないのに、突然出なくなったホースの水がいきなり噴出するという、リュミエールのパロディが印象に残る。

 不意打ちは3つ目に訪れる。3番目のスポットは、2番目からやや離れて、川沿いを少々迷いつつ歩かされる場所にある。
 これは、日の出スタジオという建物に沿った、列車の高架線下にあり、何の用を足すのかわからぬ階段上の天井をスクリーンとした上映。音声はヘッドフォンで。

 スクリーンに映った美少女。軽やかなハミングと共に、サンダル履きの彼女が、黄金町をこの上なくさわやかにさまよう5分間。名前は中村ゆりか。
 ここで2番目から3番目のスポットを、多少歩かされた意味がわかってくる。この町にずいぶん慣れ、風景も記憶にとどめた私たちは、映像内の町にもすっかり親しみが沸いている。
 スクリーン内の彼女が、まるで自分のそばにいるんじゃないか、いや、絶対にいるはずだ、という妄想を与えてくれるのだ。

 彼女の美少女ぶりがあまりにも素晴らしく、スクリーンいっぱいに素足を湧水にさらすシーンを見るにあっては、とりあえず界隈に点在する風俗店のどれかに飛び込み、この悶々とした気分を解消せねばならないのではないか、と、同行の面々が邪魔に感じてしかたなくなる。
 願うならばもう4つ目の作品は見たくない。ここで終えてほしいという気持ちでいっぱいになったが、4番目のスポットはもっとすごかった。

予告編。少しでも雰囲気は伝わるだろうか。

 4番目のスポットに向かう途中の川沿いに、中村ゆりかちゃんが、素足をつけた湧水を発見して、心ときめかせたことを付け加えておくが、4つ目は駐車場脇の建物横をスクリーンとして、上映するものだった。
 ここでの5分は、今1人の美少女、長尾寧音がやはりこの町を歩いている。中村ゆりかちゃんもよかったが、この子のさわやかさもこの上なく、彼女にすっかり恋をしている男ども+女性が、上映会場となった駐車場に群がっていた。
 私たちがどれだけ彼女に夢中になったかは、その場にいた全員が、スクリーンに向けて、思わずしらずシャッターを切る、映画泥棒になり下がったことで、それを証明としたい。

 すっかり高揚した気分で、ジャック&ベティに戻り、今度は通常の劇場でこの4人が一堂に会する30分。
 主演は3番目のスポットで忘れ難い印象を残した、中村ゆりかちゃんである、とひとまず言っていいと思う。先に私は、「不在」が印象付けられるという言い方をしたが、彼女の「不在」をさらにコンファームする内容がこの最終篇だ。
 ということは、実は見ている間は全然気が付かなくて、上映後に同行の面々と話をしてわかったことだと白状したい。それほどスクリーンの2人の少女に魅せられていた。

 タイトル『5windows』。野外上映という方式はあるとはいえ、基本的に映画を見るというのは、劇場という閉ざされた空間にあって、スクリーンが窓として外界に開かれたものといっていいのだと思う。
 いや、野外上映であっても、映画が映されているその長方形だけは、また別の世界に開いた窓といえるだろう。

 私たちがこの夜に見た5つの窓=スクリーンに見えるものは、私たちが実際にたった今、歩いた街そのものなのだ。窓の外が、自分たちが現に今いる場所へと開かれることで、時間と空間がまるでループしているかのような、そこには生身の人間でない、別の魂のようなものが現れるのではないか、という妄想に誘ってくれる。
 そして、その別の魂のようなものとして、スクリーン内の「不在」の彼女があるのではないかと、しかしこれはすべて今、書きながら考えたことである。これは3Dどころの騒ぎじゃない、まったく新しい映像体験だ。

 アイディアにも驚くが、上映に際してきっと大変な地元との交渉を必要としたことと思う。クリエイティブ・ディレクターの藤原徹平さんはじめ、スタッフの皆さんのご苦労を思うと、頭が下がる思いだ。
 必然的に期間限定上映とならざるを得ないが、体験できて本当によかった。



teacup.ブログ “AutoPage”
AutoPage最新お知らせ