2011/11/29

12月2日(金)13:00〜 茨城大学教育学部 「システム論」の授業にご参加になる方へ  ノンセクション

 茨城大学 教育学部 12月2日(金)13:00〜 L8クラスの「システムとしてみる社会〜映像表現のシステム」にご参加なさる皆様にお知らせです。

 ここでは、宮崎駿、またはピクサー作品を例にとり、感動を呼び起こすシステムについて、お話しできればと思います。

 映画においては、日光をどのように見せるかというのは、描写においてとても大切なことです。それを見せることによって、呼び起こすことのできる感情のバリエーションは無限です。
 この日のお話は、あえて実写作品を除外しますが、近年で太陽光を表現したもっとも素晴らしい達成は、『けいおん!!』第20話のこの場面です。
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 昨年、ピクサーが発表した『トイ・ストーリー3』の、たとえばこのシーンでは、画面における座標軸のどのあたりに太陽があって、時間経過と共に太陽が動くことにより、太陽の反射がどのように変わっていくか。
 そして、それがどのような感情を、見たものに呼び覚ますのか。
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 それと同様のことが、では『天空の城ラピュタ』のこのシーンではどうなのか。
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 そうしたことに少し触れながら、さまざまなお話ができればと思っています。
 もし、時間が許すようでしたら、『トイ・ストーリー3』、『天空の城ラピュタ』を、今、この画面では太陽ってどこにあるんだろう? ということを、ほんの少しだけ意識しながら、あらかじめご覧になってみてください。

 当日、皆さまとお会いできるのを楽しみにしております。

2011/11/27

『ウィ・キャント・ゴー・ホーム・アゲイン』、『あまり期待するな』  映画

 ニコラス・レイ『ウィ・キャント・ゴー・ホーム・アゲイン』(1973-2011)
 スーザン・レイ『あまり期待するな』(2011)
於 東京フィルメックス

 ニューヨーク大学の講師として着任したニコラス・レイは、受け持つ学生たちに、とにかく映画を実践的に作らせる。
 「映画作りを学ぶには、実際に作ってみるしか方法がない」からだ。
 その結果が『ウィ・キャント・ゴー・ホーム・アゲイン』(以下、WCGHA)であり、その過程のメイキングが『あまり期待するな』である。

 「WCGHA」の芝居とも現実ともつかぬ映像の、大胆不敵なコラージュぶりは、ゴダールの『映画史』をあらかじめ先取りしたかのような、印象さえ与える。
 しかし、それよりもさらに凶暴で禍々しい印象は、いっそケネス・アンガーの諸作品にさえ近いような気もする。
 役者として映像に映っている学生たちの、やたらに生々しい姿は、アンディ・ウォーホールのいくつかの実験映画も連想せずにいられない。

 たとえば分けても衝撃的なシーンとしては、ニックの「投げろ!」の掛け声と共に、半裸の女子学生に向け。いっせいにトマトを投げつけるという、意味不明の場面がある。
 トマトの果汁で血しぶきにまみれたかのような女子学生に、ピカソの「ゲルニカ」や、あろうことか、自身の『大砂塵』のワンシーンがコラージュされて、すさまじい不協和音を起こす。
 画面がきしむ中、ニックは「トマト喰いたくなっちゃったよ! 塩ない? 塩!」とか言い出す。こうした毒々しさの数々に、先ほどケネス・アンガーの名前まで引っ張り出した次第である。

 この映像が撮られた73年頃は、すでに60年代カルチャーはそろそろ終わり、映画としては前年の『ゴッドファーザー』のヒットをきっかけに、メジャー超大作指向へと、カジが切られ始めていた。
 けれど、ニコラス・レイが率いる空間は、まだ闘争的な空気が強く残っていた。
 この映画を見ると、70年代初めのアメリカ(特に東海岸)の若者の気分がものすごく、生々しく伝わってくるように思った。
 時事的なものとしては、共和党側の大統領候補として勝利する、二期目ニクソンの姿や、何やら演説を行うアビー・ホフマンや、アレン・ギンズバーグの姿なども見える。

 『あまり期待するな』では、学生たちはとにかく何も知らない素人なので、フィルムは切れる、機材は倒れる、どこからともなくコードが落ちてくる、といった証言がある。
 素人だから、ではない。どう見ても全員、ヤクでラリってるから満足に動けてないだけの話だ。
 「WCGHA」は、スーザンの言葉を借りるなら、「金を払ってでも見たくない映画」と称されたそうで、主にコッポラの音響・編集で名高いウォルター・マーチは、「完全に失敗作だ」と、これは極めてロジカルな彼らしいと言う他ないのだが、しかしにべもない。

 たぶん「WCGHA」は、見る者をどこにも導いてくれないところで、人を戸惑わせるのだろう。狂気のどん底に人を落とし込むわけでなく、70年代初頭のアメリカへの窓を開くわけでもない。政治的でも芸術的でもない。それはしょうがない。“家には帰れない”のだから。何かを納得させてくれる、帰属場所を教えてくれるはずがない。
 けれどここには、そこにフィルムがあれば、それに何かを感光させずにいられぬ、映画地獄というものに囚われた人物の「魂」が生々しく脈打っている。ここにあっては成功も失敗もない。

 この映画を見ていて、真の「独創性」とは何なのか、ということを思う。それは、いかなる形式化への誘惑にも屈さず、自分を“イメージ”の名のもとに固定化しようとする、“個性”からさえも自由であることなのではないか。

 冒頭、学生たちの前に初めて姿を現したニック・レイは、こんなジジイよく知らんなあという表情の学生どもに、『理由なき反抗』を作った人だ、とか、『夜の人々』を作ったでしょ、と言われるなど、様々な個性の特定化の作業の嵐にさらされる。
 それらを「そうではあるけれど、そればかりじゃない」、といった風情で適当に受け流し、次の瞬間にはその場を支配している。学生たちごときに尻尾をつかませはしない。
 しかし『あまり期待するな』では、関わった学生たちが決して、ニックについて悪いことを口にしないことから察するに、個性的たらんとする彼の意図は、彼らに十分に通じたのだという印象を持つ。

 夫人であるスーザンさんは、上映後のティーチインでこの映画は自分にとっての、「重荷(burden)」なのですと口にした。
 きっと、そのような「独創性」はときに、自分にとってのもっとも身近な人を巻き込み、幸福と不幸の両方をもたらしてしまうのだろう。
 ハリウッドの巨匠の「遺作」というには、あまりにいも「独創的」で「個性的」で、はみ出しているにも程がある、すさまじさだ。

2011/11/25

『マネーボール』  映画

ベネット・ミラー『マネーボール』

 知的なタイプの演出家は、弱小集団がある秘策によって常勝軍団に変貌する、というストーリーを語るのに、『がんばれ!ベアーズ』のような爽快さをなるべく避けようとする。

 『カポーティ』を撮ったベネット・ミラー監督に、『シンドラーのリスト』のスティーブン・ザイリアンと、『ソーシャル・ネットワーク』のアーロン・ソーキンによる共同脚本というのだから、この映画はまったく絵に描いたような知的肌による、スポーツ映画だと思う。
 だから感動の頂点と映画の見せ場を、チームの勝利には持っていかない。肝心の試合場面を必要最小限に、ほとんどがニュース映像(?)を見せるだけで、ドラマチックな演出を避け、弱小球団が勝ち星を重ねる爽快さにつなげない。

 その意味で、この映画は集団を描いているのに、ちっとも集団映画になっていないのだけど、それでも力を入れて見てしまうのは、チーム作りに奔走するマネージャーを演じるブラッド・ピットと、その相棒のジョナ・ヒルの造形にぴたりと視点を定めているからだ。
 逆にいうと、この映画はブラッド・ピットとジョナ・ヒル以外にはまったく興味がないようにさえ見える。
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写真:『マネーボール』より。ジョナ・ヒル。この映画の最大功労者だと思ふ。 画像元eiga.com

 この映画の一番の見どころが、連勝を続けるチームの勝敗なんかじゃないところがすごい。いや、人によってはそこに感動するのかもしれないが、少なくとも歴史的な事実として、その結果はわかっているのだから、そこにクライマックスを作るのは、この映画作家たちとして避けているように、私の目には見えた。
 しかも、この物語の元となった実話は、10年と昔のエピソードではない。2002年という、つい最近のできごとなのだ。
 
 その見どころというのは、ブラッド・ピットのオフィスの中で起こる。選手のトレードを巡って、他チームのマネージャーと電話だけで、駆け引きを繰り広げる場面だ。
 ブラッド・ピットによる電話機を前にした1人芝居と、時おり選手データを伝える相棒、ジョナ・ヒルによる、他チームとの火傷しそうに熱い灼熱の腹の探りあい。
 「保留」と「通話」を繰り返し、不要な選手を放出し、意中の選手を獲得する。超弩級のプロフェッショナルな脚本家のみが為しえる圧倒的な台詞と、徹底的に訓練を積んだ俳優たちによる超絶技巧に、洗練を極めた演出と編集。

 それにしても、この場面の奇妙さは何だ? これ以上ないくらいに、熱い感情がほとばしる場面なのに、ここで売り買いされる選手たちは、あくまで感情などない商品にすぎず、人間扱いされていない。しかもその生殺与奪は、数分の通話でのみ完遂するのだ。
 ブラッド・ピットとジョナ・ヒルは、達成感のあまり心の底からの歓喜を込めて、ガッツポーズをするが、その後は人を人とも思わぬ、選手たちへの放出通告だ。

 やがて映画は、かつて金で道を誤ったから、2度と金では未来を決めないという人生訓を巡る葛藤と、天使のような娘の歌声に涙する、ブラッド・ピットの“人間らしさ”をこれでもかと見せる。
 ここに私は作者たちの、捩れた人間観を見ずにいられない。自己の中では熱い感情がたぎっているのに、他者に対してはその感情がまるで起動しない。そしてそれはどうも、仕事と私情は切り離すというプロ意識とは、別の何かのように思えてならない。
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写真:『マネーボール』。娘の前ではめろめろ。いかにも素朴なこの女の子ケリス・ドーシーも実にいい。 画像元:eiga.com

 ブラッド・ピットは、カンと目利きだけでチーム作りをする、古参のマネージャーどもを追い出し、データ野球を実践する。厄介なのはその古臭い連中が、選手たちを人間的に扱っていたかというと、全然その限りではない、ということだ。
 しかし心根は同じでも、ハイテクに基づく新しいやり方では、事は急速に進行する。連戦連敗のチームが、あっという間に20連勝という極端なことをやらかす。

 だから、この映画のタイトルに「マネー」の一語がある通り、これはまさにマネーゲームなのだ。金では動かぬと決めているブラッド・ピットにあってこの矛盾。
 しかし私には、この映画がどうしても、雪崩をうって破綻に至ったリーマン・ショックへと至る、アメリカ経済の裏返しの戯画に見えてしまう。
 
 巧妙な映画だ。この映画のブラッド・ピットのあれこれに感動できるとすれば、似たようなドラマツルギーで、実はたとえばリーマン・ブラザースのCEOの物語にも、感動作にできるのではないか。
 いや、つい最近亡くなった、世界中の尊敬を集めてやまぬ、リンゴのマークで有名な企業の創始者の人間性にも、この主人公は似るのではないか?
 『マネーボール』は、ゆっくりと、しかし急速に破綻をきたしたアメリカの現実を、ごくごく小さな声で語っているように思う。 

2011/11/22

『いちご白書』  映画

 スチュアート・ハグマン『いちご白書』

 ずっと未見だった一作の1つ。ついに見ることができた。
 この作品が一連のアメリカン・ニュー・シネマのように、伝説的な作品にならなかったのは、どこかわかるような気はする。
 あまりにも“反逆”の匂いに乏しい。そして軟弱な気配も漂う。何しろ主人公のブルース・デイヴィソンは、ジャック・ニコルソンのようないかがわしさがなく、ダスティン・ホフマンのような狂気がなく、デニス・ホッパーのように眼つきは悪くない。
 ヒロインのキム・ダービーなんか、普通に美少女だ。

 撮影も編集も、スタティックな観点からいえば、ひどいものだと思う。カメラをむやみに振り回して、ワイルドな自由さというには大胆さを欠くので、粗さの方が際立つ。もっと対象に肉薄してもいいのに、ちょっと引き気味にすぎる嫌いがある。

 けれど、今の目でみると1970年製作のこの作品が、真実1968年のサンフランシスコそのものを、映し出しているように思われ、愛しさに胸がいっぱいになる。
 バフィ・セント・メリーの若さで張り裂けんばかりの歌声で“The Circle Game”(ソングライターはジョニ・ミッチェル)が聴こえてくると、それだけで今が青春ど真ん中という気分が募ってくる。

予告編。とても“気分”が伝わってくる。

 画面を颯爽と駆け抜ける、ブルース・デイヴィソン。サンフランシスコの坂のてっぺんを、杖をついた老婆がよれよれと歩く、その脇をいささか無神経に突っ走っていく。無関心なのではない。若さのあまり目に入らないのだ。
 彼が走り抜けるサンフランシスコの街並みは、つい最近ガス・ヴァン・サントが『ミルク』の冒頭で、当時のフィルムも混ぜながら、見事に再現してしまったが、しかしここにあるのはロケーションによる本物である。

 自分の部屋に入れば、「ドクトル・ジバゴ」に「2001年宇宙の旅」のサントラがあり、カーマ・スートラのセックスの体位図がべたべた壁に貼ってあり、ボビー・ケネディのポスターに、ラジオをつければシャロン・テート殺人事件の報道だ。
 60年代末期の記号が、いかにもわかりやすく散りばめられている。今から見ると気恥ずかしいくらいに。
 この時代を題材にした映画を現在作るとすれば、この部屋みたいなセットを作るんじゃないかという、見本のようだ。しかしこれがリアルタイムの映像なのだ。

 先に撮影が粗っぽいと否定的な書き方をした。けれど、いつも空を見上げる主人公を追って、上を上をと旋回するカメラの動きには、たまらない魅力がある。
 そして、まるで屋上の上から見下ろすかのような下向きのショットの連投も、上へ下へのダイナミズムがむしろ心地よい。上を向いたり下を見たり、若い頃の視線の動きってこうじゃないか?
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写真:『いちご白書』より。連帯へ。画像元

 1968年コロンビア大学での学園闘争を題材にとる。
 タイトルは、学部長が言い放った「学生どもの主張など、彼らの中のいちご好きの比率ほどにとるにたらないものである」という、言葉から来る。
 「いちご白書」(The Strawberry Statement)はだから、実際本当にとるにたらないんだという、自虐の意味も含むだろう。

 学園内に籠城する学生たちの様子は、どこか文化祭の合宿中の風景にも似る。ギリギリの緊迫感があるわけでなく、何かしら行動を起こしているという自己満足だけがそこにある。 そこを映画は、早くも1970年にあって見透かしているが、そこに共感の空気があるのは、少なくとも学生たち全体に漂う「一体感」だけは共有されているからだ。
 ひとつの場所で皆がひしめくというのはそういうことだ。

 で、なるほどそうした「一体感」というものを高める、共通コードとして、たとえばジョン・レノンの“Give Piece A Chance”という歌があるのだろう。全体を一に束ねるという機能が、ビートルズらの音楽には確かにある。
 うねるように動きつつ見下ろすカメラが、その歌と共に連帯する学生たちをとらえ、やがて押し寄せる怒涛の一斉検挙から、主人公が警官隊の中心に身を躍らせるストップ・モーションまで、圧倒的な勢いがあって、一瞬たりとも気をそらさせない。
 (なお、映画の舞台は1968年であるのに対して、“Give Piece A Chance”は1969年の発表だから、ここには少しウソが入っている)
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写真:『いちご白書』より。警官隊へのダイブ。 画像元

 この感覚は日本のドラマ『三年B組金八先生』第2シリーズでの、加藤優・松浦悟逮捕のシークエンスにそっくりだ。中島みゆきの『世情』が朗々と流れる名シーン。あれは間違いなく『いちご白書』のクライマックスをベースにしていることを、今さら発見する。

 ここには、花嫁を奪ったり、全身鉢の巣になって絶命したり、バイクに乗ってるところショットガンで撃ち殺されたりなどの、派手なクライマックスはない。
 けれど、そのぶん『いちご白書』の方が、よりいっそう私たちに近い姿の青春像を、みせてくれるように思う。

 『いちご白書』はもっともっと、語られ見られるべき映画だと思う。時代のひとつの気分の記録として。また、“今”しかできないことを、しっかり“今”やるということの価値を決して忘れないために。
 
 新宿武蔵野館で上映中

2011/11/18

『コンテイジョン』  映画

スティーブン・ソダーバーグ『コンテイジョン』

 新種の病原体によって、世界各地で死者が続出する。
 この映画が面白いのは、どんどん感染が拡大し、次第に世界がパニック状況に陥っていく、前へ前へと不可逆的に進む時間の推移と同時に、その病気の発生元を探るため、後ろへ後ろへと時間を遡るという、正反対の時間軸がパラレルに描かれる、ということだ。

 これ以上の感染を食い止めねばと、職業意識と責任感の塊のように、粉骨砕身して奔走する女性学者がいる(ケイト・ウィンスレット)。これを前へと進むプラスの時間軸とする。
 一方、第一感染者(グウィネス・パルトロウ)の行動を徹底的に洗い出し、病原菌の出所を探すため、時間を遡っていく学者(マリオン・コティヤール)がいる。これを逆向きに進むマイナスの時間軸とする。
 ここまで書いて分かる通り、このプラスとマイナスの時間の中で、ダイナミックに活動するのは、みんな女性である。
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写真:『コンテイジョン』より。グウィネス・パルトロウ。この人妻のカジュアルな不倫ぶりが、不思議とリアルである。この人はアメリカ人。 画像元eiga.com

 そして、そのプラスとマイナスが折り重なったゼロ時間に位置するのが、この奇病への対策を一手に担う医師(ローレンス・フィッシュバーン)で、この人物が人類の叡知そのものであるかのように、沈着に行動している。
(ただしこの俳優が持つ独特の雰囲気と、これまで基本的に信用ならぬ人物ばかりを演じて来たことから、いつこの医師が人類に対する、とんでもない反逆をやらかさないかとドキドキさせられもする)

 それと同時に、拡大する感染に“たまたま”免疫を持っていた一般人(マット・デイモン)がおり、彼はやはり免疫を持つと思われる娘の安全を確保しつつ、第一感染者となった妻が、実はその直前に不倫していたことを知る。
 発病しない彼は、娘と共にあるいは感染するかもという、プラスの時間の中に生きつつ、マイナスの時間で発覚した妻の不倫の事実に苛まれ、やはりゼロ時間の中にある。
 または「今」のど真ん中に居座って、事態に便乗するブロガー(ジュード・ロー)の存在。
こうして、過去からも未来からも切り離されてあるのは、みな男性だ。
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写真:『コンテイジョン』より。ケイト・ウィンスレット。徹底的に無私な態度に胸打たれる。この人はイギリス人。 画像元eiga.com

 やはり伝染病による破滅的状況を描いた、ヴォルフガング・ペーターゼン『アウトブレイク』(1995)は、とても面白い映画だったが、結局はヘリコプターによる大アクション映画にすることでしか、クライマックスを築けなかったのは、こうしたプラスとマイナスの時間の処理に対して、意識的ではなかったからだ。

 必ずしも練りに練ったシナリオという印象は与えないのに、『コンテイジョン』がこれほどの強度を持ち得ているのは、かつて『ソラリス』(2002)まで撮ったソダーバーグが、その作品歴からもわかる通り、こうした時間の取り扱いに長けているからだろうと思う。
 ジル・ドゥルーズが『シネマ2*時間イメージ』の中で、現実的なものは未来と現在の往復の中に生じるという意味のことを語ったように、ソダーバーグのスペクタクルは時間軸の構成の中に発生し、独特の映画内時間を形成する。

 進行する時間と、遡る時間との往復で、この映画ができているならば、往復する時間の中にいる女性は、ゼロ時間にいる男性と、多くの場合ペアを組んでいる。だから、この映画の中では、男女が対で映っている頻度はとても高いように感じる。
 さらに事態が進展し、これ以上は映画が進まなくなったときに、男と男、それもしかるべき時間を生きて来た大人と、まだ年端もいかぬ少年が握手を交わす、というのは必ずしも偶然でないように思う。
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写真:『コンテイジョン』より。マリオン・コティヤール。薄いブラウスが胸の形をくっきりと示してやたらに萌えさせられる。この人はフランス人。 画像元eiga.com

 ここではソダーバーグの巧みな時間軸操作に着目して書いたが、『コンテイジョン』が描く、パニックが起こっていく様と、その対応にあたる権力・権威側の動きのあり方。そして、風評が形作られて事態がより混乱していく描写を見ていると、まるで震災後日本のパロディのようにも見えてくる。そうした点からの鑑賞も十分に興味深いものになるはずだ。
 本作はソダーバーグ作品の中でも最上位にランクしたい。   

2011/11/13

『ラビット・ホール』  映画

 ジョン・キャメロン・ミッチェル『ラビット・ホール』

 今年もっとも心に残る一本だと思う。
 ベッカ(ニコール・キッドマン)とハウイー(アーロン・エッカート)の夫妻は、不慮の交通事故でまだ幼い息子を失っている。
 傷の癒えぬベッカは完全に外界との接触を断ち、ハウイーは何とか元の生活への回復を試みるが、夜な夜なスマートフォンに保存した、息子の映像を見て微笑みと涙にくれている。

 庭が広く、窓も大きくとって美しい外光もたっぷり入って来る、夫妻の家は、いかにも住み心地がよさそうだ。部屋の中もよく整頓され、白く統一された趣味のよい室内に注ぐ柔らかな光を、カメラはとても気持ちよくとらえている。
 その外観は、もしそんな悲劇が起こる前は、どれだけ幸せな家庭が築かれていたろうと察するに十分だ。
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写真:『ラビット・ホール』より。2人が一緒にいない時の時間の濃密度も、この作品の白眉である。 画像はeiga.comより

 表面的には夫婦関係は最低限のマナーの元に、かろうじて成り立っている。けれど、何かがすっかり失われていることは、どちらかが家に帰ってきたときに、何の挨拶も交わされないことで、何となく伝わってくる。
 いや、会話をしていないときの互いの様子を、そっと見るときの視線と表情が、2人の間から薄れつつある親密さを指し示してあまりある。

 たとえば、そっと妻の様子をうかがいつつ、部屋に入ってくる夫。それに十分気がついているのに、何も気づいていないかのように、いかにも平静そうな様子で、雑誌に目を落としている妻。とりあえず、不機嫌ではなさそうだ、という探り合いに、互いに安心しながら、いかにもとりつくろった会話のもとに、生活が維持されている。
 けれど、何か積極的に前に進もうとすると、どうしても言葉尻がキツくなり、つい口論に走ってしまう。

 というのは、亡くなった息子の記憶を何とかとどめておきたい夫と、あまりにつらすぎるから、息子を想起させるものは一切捨ててしまおうという妻。
 この決定的なすれ違いが、ますます修復をややこしいものにしている。それぞれが、我慢できることと、我慢できないことが、まったく違うのだ。
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写真:『ラビット・ホール』より。息子を轢き殺した少年と語り合う…。この名を出すのはなるべく控えたいのだが、こうして2人が並んだときの空気感は、小津安二郎のそれを連想せずにいられない。 画像はeiga.comより。

 とても深刻な内容なのに、凄惨さが一切ないのは、感情的になりすぎないよう、理性的な演技に徹した、主演2人のすばらしさだと思う。
 ある日ベッカは、車の中から、息子を轢き殺した高校生の少年が、卒業式へと向かう、祝祭にあふれた様子を目にする。
 
 ここで初めてベッカは、この映画の中で初めて、身も世もなくどっと号泣するのだが、ジョン・キャメロン・ミッチェルの抑制のきいた演出は、そこからカメラを遠くに引き、この世の終わりと泣き叫ぶベッカの様子を、遠く車の外からただそっと見つめている。
 この時、彼女にかけられる言葉など何もない、と言っているかのような、慈愛と悲哀に満ち溢れたカメラだ。こんな演出ができる監督なのか。

 原作戯曲はピュリツアー賞受賞。機会があるなら、ぜひ舞台版も見てみたいと思わされる。ただし、演技というものの可能性を極限まで突き詰めたような2人の見事な演技に、「映画」が見せてくれるもののすごさを、改めて思い知る。

2011/11/11

『セントラル・パーク』  映画

フレデリック・ワイズマン『セントラル・パーク』

 この映画の撮影時期は1988年。
 当時のニューヨーク市長エド・コッチによる、「アイ・ラブ・ニューヨーク」キャンペーンが一定の効を奏し、いわゆるヤバイ街というイメージを脱出しつつある時期だ。
 びっしりと落書きに埋め尽くされた地下鉄は、これによってすっかりピカピカになり、街の浄化も進んだ。犯罪率も低下し、観光地としてのイメージは大幅アップした。

 この映画の終盤では、ニューヨーク・シティ・マラソンのスタート地点である、セントラル・パークにやって来て、スタートの合図を送り、市民たちに囲まれ、にこやかに接するコッチ市長の姿も見ることができる。

 そんな世相を反映したかしなかったか、『セントラル・パーク』は深夜の危険地帯という部分はまったく触れずに終わる。
 ワイズマンが見せたのは、日中の明朗な公園の様子である。あらゆる年齢のあらゆる人種の人々が集まる公園だ。
 そのうえ名もなき一般市民だけでなく、野外コンサート場では、パヴァロッティとキャスリーン・バトルがデュエットしている。
 ひっそりとしようのないエネルギーを撒き散らしながら、ヴィットリオ・ストラーロを従えた、フランシス・コッポラが映画の撮影をしている。
 人間だけでなく、動物たちも集まる。映画の冒頭ではさまざまな鳥たちやリスの姿を見せ、それに続く人間たちも、彼らとまるで等価であると示したようにも思える。

 そこにいる人々を映すだけでも、十分に面白い「セントラル・パーク」であるから、ワイズマン定番の“話し合い”シーンはないのだろうか? と思っていると、1時間を過ぎたあたりから少しずつ議論の場面も登場する。
 自転車の乗り入れ禁止徹底作戦から、資金調達会議に寄付金集めのミニパーティ。最後にいちばん多く時間を割くのは老朽化したテニスコート付属の建物の改築の是非である。

 最後の大団円は、セントラル・パークを始点とする、同性愛者たちによる権利拡張デモのにぎわいで締める。
 ちなみに、コッチ市長はゲイ・レズビアンへの差別撤廃にも尽力しており、この映画の終盤はさながらコッチ礼賛のような印象すら感じる。

 それにしてもこの映画は、ワイズマンの“厳しい”視線からはもっとも離れているように感じる。やはり、マンハッタンの喧騒のど真ん中に位置して、しかもその最大の憩いの空間としてある、セントラル・パークの存在を裏切るまいという意図なのだろうか。
 1989“Central Park”176Min

2011/11/7

『ミサイル』  映画

 フレデリック・ワイズマン『ミサイル』

 1986年1〜2月に撮影されたというこの作品は、いかにも当時のレーガン政権アメリカの題材として、タイムリーなものだったろうと思う。
 当時のソ連を「悪の帝国」よばわりしたレーガンのアメリカでは、年中、ICBM(大陸弾道弾ミサイル)が、報道にあがったものだった。
 『ミサイル』は、そのICBMの操作担当官を養成する、14週間のプログラムを追いかける。

 映画は、まるで『トップガン』に出てくる、トム・スケリットのような顔をした、主任教官からのガイダンスから始まる。
 「この短期間に、核を搭載したミサイル発射について、一からすべてを身につけなければいけない君たちの訓練の厳しさは、通常のパイロット養成訓練の10倍厳しいものだ」

 なんと。『トップガン』で、トム・クルーズやヴァル・キルマーたちが積んでいた、あの訓練よりさらに10倍キツイのか。
 面白いことに、『トップガン』はワイズマンが『ミサイル』を撮影していた、まさにその夏に全米で封切られ、記録的な大ヒットを飛ばすことになる。

 私自身が『ミサイル』を見ながら、いちばん関心を持っていたのは、シドニー・ルメットが『未知への飛行』(1964)で描いたような事態は、この頃にはもう回避できるようになっているのだろうか、ということだった。

 ルメットの『未知への飛行』は、本当にくだらないシステムエラーで、暗号が誤送信された結果、モスクワに向けて核爆撃機が発進。すでに爆撃命令が発動されているため、合衆国大統領から直々の命令取り下げさえ、東側からのフェイクかもしれないという理由で、もはや無効、というドラマである。
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写真:『未知への飛行』より。とにかく何かとヤバイ映画である。必見。

 『ミサイル』を見た結論として、それが改善されたかどうかは、「よくわからない」だった。
 2人の操作官が組んで行う、ICBM発射オペレーションは、2人そろってのスイッチオンを必要とするが、キャンセルについては1人のものだけでOKという程度のことが、今回わかったことだった。

 ここへきてよくわからなくなるのは、『ミサイル』に関する解説文を読むと必ず書いてある、ミサイル発射操作官として行われる倫理教育と、発射決定はあくまでも大統領の指令に従うので、そこに一切の個人的判断があってはならないという教育の、二律背反だ。

 訓練生たちは、ベトナムのソンミ村事件や、ホロコーストを参照しつつ、越権行為や反道徳的な戦時行為に関する議論と考察を促され、大量殺戮兵器を扱うことの倫理問題を繰り返し問われる一方、従うべきは大統領からの指令だけだと、口をすっぱくして言われる。

 『未知への飛行』では、その直接大統領指令さえ、捏造された可能性があるので無効という“規則”にのっとり、ついに核ミサイルは発射された。
 では、『ミサイル』が見せてくれた、実際の訓練生たちの「道徳観」が発動し得る可能性は、どこかにあるのだろうか。

 ここで倫理問題を、訓練生たちに再三問うているのは、あくまで発射オペレーションの背後に、こうした「責任」を背負っているんだぞと思わせるための、単なる“お化粧”ではないのかという気もしてくる。
 だって、ここの訓練生たちは、軍の中でも生え抜きの人材である。それが、大統領命令に従うだけの単なるオペレーターでは、彼らの虚栄を満足させられないではないか。
 映画ラストの、ベテラン軍人によるスピーチでは、「君たちは常に待機する兵である。そして、待機の身であることの誇りを忘れないでほしい」と、威厳をもって語られる。

 映画を見る限りでは、『トップガン』の「10倍ものキツイ訓練」が施されているようにはみえない。もっぱら教室での講義につぐ講義の連続である。実技はあまり示されない。
 トム・クルーズや『愛と青春の旅立ち』のリチャード・ギアみたいな、ある人物だけをカメラが追うわけでなく、基本的にはまったりと時が流れていく。むしろのんきなくらいだ。

 指導教官たちは、かなり訓練生本位でものを考えてくれる。実技・ペーパーともに、及第点に達しない訓練生には、補習までしてくれる。
 その補習内容がすごい。「テストで得点をとる最後の手段を教えよう」と、四択問題では、説明文が一番長い選択肢が多くの場合正解である、とか、数値を問われる場合は、一番大きな数と、一番小さな数はまず間違いだから、これで正解の確率は二分の一になるとか、そういう「受験テク」なのだ。
 そして、その指導は教官たちのミーティングで、「試験テクニックを教えてやっていいですか?」「ああ、そうしてやってくれ」と、教官ぐるみで決がおりたことである。

 対脅迫電話対応のトレーニングもすごい。
 「某所に爆弾をしかけた。あと45秒後に爆発する」という入電がある。
 それに対して、目的だの何だのをあれこれ、問いただすわけだが、「しかしもう遅い、あと45分後に爆発するからな」と言うので、「は? 45秒後って言わなかった?」と聞き返すと、「あ、間違えた。初めてのことだから緊張しちゃって」とか、こういう間抜けな対テロ訓練である。

 このあたりは、場内も爆笑につぐ爆笑で描かれる。しかしほんとうに笑っていいのか?
 『ミサイル』撮影にあたっては、フレデリック・ワイズマンは『基礎訓練』『軍事演習』同様に、「あっさりと」ペンタゴンから許可が出たという。

 ここでワイズマンとペンタゴンは、どうも騙し合いをしているような気さえする。
 訓練生に対してとても親身な教官を見せ、ぬるいともいえる訓練の撮影を許可しつつも、考え抜かれたプログラムを見せることで、軍部の宣伝につなげようとするペンタゴン。
 一方、それに乗せられたように見せつつ、どこかとぼけた軍事教練を見せることで、ペンタゴンを出し抜いて、裏を暴こうとするワイズマン…とかそういう。
 
 見事、実技試験をパスして、訓練生の中から一抜けに成功するのは、女性訓練生ペアである。抱き合って及第を喜ぶ2人であるが、その直前の実技試験では実に完璧にマニュアル通り、きびきび動く2人の姿を見せ、その行動は高度にトレーニングされたモンキーさながらだ…という見方もできれば、圧倒的な行動力を誇る訓練生の技量と見ることだって可能だ。

 ワイズマンの寡黙なドキュメンタリーは、どうにも一義的な見解を許さない。
1987“Missile”115Min 

2011/11/5

『視覚障害』、『聴覚障害』  映画

 フレデリック・ワイズマン『視覚障害』
 フレデリック・ワイズマン『聴覚障害』


 どちらも、アラバマの盲聾学校を取材する。
 『視覚障害』では、映画がはじまって間もなく、まだ4歳か5歳だろうか、いい点がとれたのを先生に見せるんだと、小さな男の子が弱視のためにおぼつかぬ足取りで、手でつたう壁と階段の手すりの感触だけを頼りに、長い長い廊下と階段を歩いて行く。
 その子に誰も手を貸すでなく、カメラはそれをずっと追いかけて行き、ついに目当ての先生のところまで辿りついた時には、こちらの目頭も熱くなっている。
 
 それに続けて、今度はやはり同じ歳の頃の女の子。こちらは杖を使って歩くコツを教わっている。少し難しいのは杖に頼りながら、階段を下りる方法だ。
 サポートする先生は「階段はのぼるよりも降りる方が難しいね」と言いつつ、それに続く言葉がいい。「でも大丈夫。行きたい所へは、この杖が連れて行ってくれるものね」
 魔法使いがいつも杖を持っているのは、これが理由だったのか、とさえ思いたくなるほど、健気なシーンが連発する。
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写真:『視覚障害』より。手のひらの感覚だけを頼りに、算数のテストを片手に先生の元まで歩く歩く歩く! 画像元

 けれど、こうした健常者である私が感動していたって、何の意味もない。やがて子どもも成長していくと、どうしても素行の悪さも出てくる。
 映画がもう少し進んだところで、校長先生は盗癖があり、成績も上がらぬ子どもの保護者に電話をしている。どうしても素行を直せないので、転校を通達するのだ。十分な配慮を払ったうえでの休学、転籍を伝える校長は、それに続いて、やはり授業中の態度が悪い子どもに長い説教を与えなければならない。

 ワイズマンの取材は、校長のお説教だけでは終わらず、その後、その子の指導方針を巡っての、担当教員たちの熱心な話し合いの場にまでおよぶ。この学校は子どもをきちんと導くまでを使命としているのだ。

 感心したのは、映画の終わり近くで、子どもたちに薄布をふわふわと体にかけさせて、その感触を楽しませているところだ。
 目の不自由な子どもにとっては、視力以外の感覚をいかに研ぎ澄ますかが勝負なのだろう。どのプログラムも、“感じる”ことに重きを置いたものになっている。

 さまざまな技能訓練の様子を見せる『視覚障害』だが、目が不自由であることは、とにかくいかに職能を身につけるかが、その後の人生の最優先事項となるだろう。
 一方、おそらく生活の不自由の度合いでいえば、まだしも聾の方が健常者に近い作業が可能である。
 だから『聴覚障害』で見られる指導は、技術習得以外にもっと、生き方や生活の上での心のありようといったものに、より重点が寄っているように見える。
 とにかく、1人で生活できるような技術を身につけることが、まずは必須の視覚障害者にくらべ、聴覚障害者にはより心の問題に踏み込む余地がある。
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写真:『聴覚障害』より。小さな子たちもみな補聴器を耳につけている。画像元

 『視覚障害』にくらべ『聴覚障害』は、上映時間で30分ほど長いのだが、その理由の1つに、自殺衝動を口にする少年をいかに導くかという、校長と母親を交えた三者面談を完全収録したことにある。
 障害を持った子を拒否した父に対する感情が、その場面での議論の焦点だ。そうした心のケアを含めて、(束の間かもしれないが)解決へと導くのもまた、学校の仕事なのだ。

 専門のカウンセラーが、さまざまな質問や相談に応じている。心の問題と技能の問題は別なので、そこは的確にジャッジして、答えるべきは答え、別口への相談がベターと思われる場合は、すかさずそちらに話を流す。その切り返しがプロの仕事である。

 このシリーズ、他に『適応と仕事』、『適応障害』と併せて4部作の構成をとる。その2本は未見だが、『視覚障害』と『聴覚障害』の2本を見るだけでも、ワイズマンがいかにその障害固有の特性を見出して、描写を仕分けているかの明晰さに瞠目させられる。
1986“Blind”132Min
1986“Deaf”164Min  

2011/11/4

『パナマ運河地帯』、『シナイ半島監視団』  映画

フレデリック・ワイズマン『パナマ運河地帯』
フレデリック・ワイズマン『シナイ半島監視団』


 この2本は、アメリカが他の国の中に作った、もう1人のアメリカが題材。1977年の『パナマ運河地帯』は、ワイズマンが初めて合衆国の外にカメラを持っていった作品だという。
 そして撮影を終えて、そのまま『シナイ半島監視団』の撮影に向かったのだそうだ。

 『パナマ運河地帯』は、最初の方でその地域の役回りを、簡潔に説明してくれる。そもそも「運河」って何のためにあるのか、よくわからなくて、それを最もわかりやすく説明してくれるのは、「学研まんが ひみつシリーズ」の『コロ助の科学質問箱』なのだが、今は絶版である。
要するに運河というのは、貿易船の海上輸送を大幅にショートカットするための水路であり、高度の違うところも水門の開閉によって、移動できるという仕組みである。

 ともあれ、80キロの距離を約8時間かけて通行するなど、そうした蘊蓄を、パナマ運河を訪れる観光客向けの説明員の解説が、過不足なく表現してくれる。
 冒頭おおむね40分くらいが、悠々たる海上運送のドキュメントである。

 その後、残りの2時間以上をかけて、運河管理のためにパナマ共和国に駐留するアメリカ人たちの生活風景を見せてくれる。ここでのアメリカ人たちは、パナマ共和国の中に、すっかり合衆国のライフスタイルを、作り上げてしまっている。

 やがて見ていくうち、快適な駐留を実現するためのポイントは、、いかに娯楽施設を準備するかであることがわかってくる。そして、駐留アメリカ人に娯楽を絶やさぬため、生活水準の低い、現地パナマ人たちが動員されていることもまた、次第に見えてくる。
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写真:『パナマ運河地帯』より。絶対に身につくはずのない、なめきった内容のスペイン語講座もTV放送している。 画像元

 たとえば、クレー射撃にうち興じるアメリカ人の姿だが、無表情に操作スイッチを持ち、次々クレーを射出する、初老のパナマ人。どうしてもこの顔に何かを読みとろうとしてしまうのだけど、何も語ってはいない。
 そこにはただ、アメリカ人の享楽の影には現地人がいるという事実だけが横たわる。

 極めつけはエンディング。楽団も交えた壮麗な葬儀が催され、共同墓地は大人に引率された子どもたちがきれいに整備し、星条旗も供えられていく。
 その一方で、現地パナマ人たちが、アメリカ人とは比べ物にならぬほどつましい、自分たち自身の墓石を管理する姿を見せていく。

 娯楽の提供というセンでは、『シナイ半島監視団』は、見事に失敗した例への取材といっていいと思う。
 エジプトとイスラエルの間に横たわる、停戦地域シナイ半島は、アメリカ軍が監視している。そこには国連の力も入っている。そのバランス関係も、うまくいっていないことが、だんだん示されていく。

 冒頭、あまりにもまだるっこしく、とても手際がいいとは言えない、シナイ半島に関する説明を、米軍担当者が行っている。
 「つまるところ、我々は両国の審判をやっている。野球やテニスのと同じだ。だから一切の武装はしないし手も出さない。出入りを監視しているだけだ。」
 この端的な結論に行きつくまでがやたらに長く、効率とは程遠い管理がされていることを、あらかじめ予告しているかのようだ。

 アメリカン・ウェイ・オブ・ライフを維持するために、どうしても保守的かつ過剰に愛国的な、原理主義的でさえある思想が、パナマ運河地帯には持ち込まれていた。
 良くも悪くも、うまくアメリカ的な娯楽を導入しきった点で、生活を守っていたわけだが、シナイ半島ではそれが機能していない。
 理由はさまざまにあるのだろう。物資の輸送がはるかにままならない。パナマと違って国連の目もあるので、アメリカの好き勝手ができない、など…。
 しかしそれ以上に、ここではパナマ共和国の人々のような、“搾取”できる相手がいないということなのだ。

 夜を徹して延々と繰り広げられる宴会の場で、ブーツに流し込んだビールを、その場の全員が回し飲みするなど、たまにハメを外す時の、尋常でなく狂騒的な、監視団員たちの痴態を見ていると、薄ら寒い思いさえしてくる。
 この人たちは、あまりといえばあまりに退屈で、そのくせ制限の多い生活に、いい加減疲れ果てている。
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写真:『シナイ半島監視団』より。ラストの身内コンサート。それでも人は命ある限り、娯楽を見出そうとするものである。画像元

 『パナマ運河地帯』は174分、『シナイ半島監視団』が127分。おおむね1時間の上映時間差がある。
 ワイズマンによると、上映時間は「素材の複雑さと登場人物の偏りのないように」することで決まるという。逆にいうと『シナイ半島監視団』はちょうど1時間分だけ、『パナマ運河地帯』よりも単純である。
 それはやはり、シナイ半島監視団の方が、他国におけるアメリカの生活形態に、バリエーションを用意できていなかった、現実に基づく。
 ワイズマン作品は上映時間の中にさえ、取材対象の現実の一断面が託されている。
1977“Canal Zone”174Min
1978“Sinai Field Mission”127Min
 



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