2011/12/31

2011年度 ベスト10  映画

 2011年も終わる。
 今年はこんな1年だったという想いをこめて、私的ベスト10を。

●『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』(ブラッド・バード)
●『タンタンの冒険/ユニコーン号の秘密』(スティーブン・スピルバーグ)
●『恋とニュースのつくり方』(ロジャー・ミッチェル)
●『僕が結婚を決めたワケ』(ロン・ハワード)
●『カウボーイ&エイリアン』(ジョン・ファブロー)
●『映画 「けいおん!」』(山田尚子)
●『永遠の僕たち』(ガス・ヴァン・サント)
●『ラブ・アゲイン』(グレン・フィカーラ/ジョン・レクラ)
●『風にそよぐ草』(アラン・レネ)
●『コンテイジョン』(スティーブン・ソダーバーグ)
●『無言歌』(王兵)
●『ラビット・ホール』(ジョン・キャメロン・ミッチェル)
【特別枠】『ミツバチの羽音と地球の回転』(鎌仲ひとみ)

 上位2本がぶっちぎりの他は、いつも通り順不動です。本当です。

 何がなんでも落とせないのをどんどん並べていくと、『トゥルー・グリッド』、『ウォール・ストリート』、『ゴーストライター』、『ヒア アフター』、『愛の勝利を ムッソリーニを愛した女』、『塔の上のラプンツェル』、『お家をさがそう』を入れられなかったのは痛恨。

・しかし今年は、アメリカ映画が圧勝だったという印象が残る。
・『MI4』と『タンタン』は文句なし。
・『恋とニュースのつくり方』は今年いちばん愛した作品。レイチェル・マクアダムスは個人的主演女優賞。
・『僕が結婚を決めたワケ』と、『カウボーイ&エイリアン』は上の2本がなければ、代わって上位2本になるのだが。
・『映画「けいおん!」』を見ている間の幸福感は今年最高。
・『永遠の僕たち』、『ラブ・アゲイン』、『コンテイジョン』、『無言歌』は絶対に落とせない。
・『風にそよぐ草』は昨年のレネ映画祭で。一般封切祝。
・『ラビット・ホール』は入れておかないと無視される。と思ったら、ん? 12本?
・特別枠は2011年を決して忘れないために。何年後にも見直されるべき作品と思う。

 なお、『宣戦布告』、『三人の結婚』は、特別な上映機会ということではずしています。ワイズマンやシャブロルの日本初公開となる旧作も同様です。

 さて、今日で2011年も終わりです。いろいろなことがあった1年でした。今年お世話になった皆さま、1年間ありがとうございました。来年もどうぞよろしくお願いします。
 そして、いつも閲覧くださっている皆さまには、最大の感謝を。どうぞよいお年をお迎えくださいませ。

2011/12/28

『無言歌』  映画

 王兵『無言歌』
 映画にはこれほどまでにすさまじい、まだ見ぬ風景があったかという驚きの連続。
 かつて寺山修司は新宿の底辺に住む者どもの生活空間に見出すあれこれを、「あゝ、荒野」と呼んだが、しかしこれほどまでに凄絶な「荒野」は、さすがの寺山もイメージしてはいまい。

 ドキュメンタリー作家、王兵初の長編劇映画作品。
 毛沢東率いる中国共産党は、それまでの方針を転換させ、それまでに共産党批判した知識人を、1957年より右派として粛清を開始する。
 右派分子とされた者どもを、ゴビ砂漠辺境の収容所に送り込み、「再教育」という名の強制労働をを行う、その過酷以上に過酷な地獄を109分に至って描く、『鳳鳴』『鉄西区』の王兵にしてみれば、ほんの短編といっていいくらいの凝縮度の作品だ。

 開巻早々、圧倒的なまでに乾燥した空気と、過酷そのものとしか言いようのない、枯れ果てた風景に心がくじかれる。こんな環境に、数百人もの人々が送り込まれているのだ。
 1人の新参者がやってくる。突風吹きつける中、お前の寝ぐらはここだよ、と案内される、その人物の後ろからカメラはついていく。ああ、王兵の見慣れたカメラだと思う。

 そこには、荒れ果てた原野に、ぽっこりとあいた、穴のようなところがあって、そこへと入って行く。無論、カメラもついていくのだが、えっ、カット割りもせずにそのまま入っていくのか、と、早くも心が動揺してしまう。
 これほど必然的なワンカットも滅多にあるものじゃなく、そのまま入っていったカメラは、とても人間が住むような空間ではない、奥行きだけがある穴倉へと案内してくれる。
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写真:『無言歌』より。こんな穴蔵には人は住めない。これではどのみち人は死ぬ。射し込む光はさながら、リドリー・スコット。 画像リンク元

 窓、というよりは、むしろ空気穴と言った方がいい、隙間からは外からの強烈な太陽光が刺している。その光の筋は、まるでリドリー・スコットさえも思わせるが、さらにすごいのは、外で吹き荒れる突風があまりにも激しいので、土埃がまっており、その光の筋によって、もうもうたる埃の粒子がくっきりと浮かび上がって、それすなわち空気を可視化している、ということなのだ。
 とてもじゃないが、マスクもせずにこんな空気を吸い続けていたら、肺などあっという間に腐ってしまうだろう。『風の谷のナウシカ』の腐海なんてものではない。

 映画は、外からこの穴倉に入って来るワンカットのショックと、ここから外に出るときのワンカットのショックの2つを用意する。
 どのシーンをとっても驚愕の連続なのだが、ことにそのクライマックスとなるのは、強制労働者の妻が面会にやってくるくだりだ。
 夫はとうに死んでいることを聞かされるが、それを受け入れられない彼女は、せめて夫の墓を探す! と、穴倉からよろよろと出ていく。
 
 またしてもカメラはそんな彼女の背後からついていく。狭く低い土段をのぼり、薄暗い穴倉から、強烈な光の射す荒野へ。
 いやはや、ここで彼女が見ることになる荒野の荒野っぷりがすさまじい。そこにはどこまでも砂だけが広がり、激しく吹き付ける風に、人間ごときの力ではもはや取りつくしまのない、絶望的な風景が広がっている。
 それでも彼女は歩いていく。その後ろをカメラはどこまでもどこまでも追いかけていく。いったいどれだけの長時間長回しで撮っていたのか、検討がつかない。ものすごい体感時間だったことだけ記しておきたい。

 そして、彼女の視線が向いた先は、どこまでも無限に続く土饅頭だ。墓碑など無論ない。ただそこには、無名の死体が埋まっている。個人認証の木札は死体にくくりつけているというが、夫の墓を知るには、1つ1つすべての墓をあばいていかなければならない。
 そして、実際に彼女はそれらを手袋こそしているとはいえ、素手で掘り起こしていく。

 この無限に広がる土饅頭も、またすごい。整然とした配列がないところに絶望の深さを思わせ、死体が出れば適当なところを掘り返して埋めておきました、という感じなのだ。
 たとえばキューブリックの『スパルタカス』の、沿道の左右に無限に続く磔死体も忘れられぬイメージだし、コッポラ『友よ、風に抱かれて』などで見られる、ワシントンDCの石の庭の整然と並んだ無数の墓地も印象に残るのだが、そうした規則性とはまったく無縁の、不規則であるが故に、一層深く迫るこの墓地の無常感。
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写真:『無言歌』より。無限の荒野をどこまでも歩く。カメラもどこまでもついていく。 画像リンク元

 食料がないための、飢えの描写もすごい。生きたネズミを罠でとらえ、熱湯をかけてドロドロのシチューにしてすする描写など序の口。
 悪い物を食べたと思しき1人が、深夜に嘔吐すると、それを冷ややかに見ていたもう1人が、その吐しゃ物の中から固形部分を選って、それをむしゃむしゃむさぼり喰う。他人の反吐さえも平気で喰らうほどの極限飢餓なのだ。これほどまでの描写、見たことがない。

 この作品は、かつてあった現実へと、見る者を連れていってしまう。この収容所の現実を、その場で目撃しているような映像体験へと導いてくれる。リアリズム映像の極限。 

2011/12/25

『永遠の僕たち』  映画

 ガス・ヴァン・サント『永遠の僕たち』
 死というものに深く魅せられた映画であり、その死に抗うのではなくて、それと共に寄り添って生きることを選択した、2人の高校生の物語。

 新進ジェイソン・リュウによるそんな脚本に、ニューヨーク大学時代の同窓である、ブライス・ダラス・ハワードが共感する。さらにプロデューサー役を買って出て、実務的な製作に入るにあたって、父ロン・ハワードとブライアン・グレイザー率いるイマジン・エンターテインメントに話を持ちかけたのは、いささか安易なようだが、納得できることでもある。

 というのは、ロン・ハワード最初期の監督作品、『ラブINニューヨーク』。
 これがまさに、死体安置所を犬劼伐圓沐「両譴箸靴鴇h悗紡澆圭个靴董⊂ソ「魏圓位覺峽挌OC離灰瓮妊C世辰拭C修靴董⊆膺邑「呂修両h悗裡運佑販「僕遒舛襪里澄

2011/12/22

『ラブ・アゲイン』  映画

 グレン・フィカーラ/ジョン・レクラ『ラブ・アゲイン』
 邦題からだと内容が少しわかりにくいのだけど、原題は“Crazy,Stupid,Love”。
 それでもまだ、わかりにくいが、鑑賞後ならよくわかる。
 映画の内容は、人は恋する気持ちで、とにかく愚かしいことばかりするけれど、しかし恋する気持ちを通して、よりよい自分に変わることができるということだ。
 ここには何のアイロニーもない。抱腹絶倒の笑いをちりばめ(筆者は映画を見ながら、久しぶりに劇場で何度も声をあげて大笑いした)、多彩な登場人物を描き分けつつ、よりよい自分を見出し、よりよい他者との関係を得るためのプロセスを語った恋愛交響曲だ。実に、実にすばらしい。
 この楽しさは、あえてたとえるなら、ジャック・ベッケルのいくつかのラブコメディ、たとえば『幸福の設計』や『エドワールとキャロリーヌ』をさえ思わせる。
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写真:『ラブ・アゲイン』より。スティーヴ・カレルとジュリアン・ムーア。ジュリアン・ムーアはいつも実に素敵である。 画像元allcinema.com

 主人公は、交際当初から妻一筋の堅物男(スティーヴ・カレル)。ところが、ある日突然、妻(ジュリアン・ムーア)から思いがけず離婚話を切り出される。会社の同僚(ケヴィン・ベーコン)と不倫中だというのだ。
 あまりといえばあまりのことに、自暴自棄の日々に転落。夜な夜なバーで、管を巻いているが、そんな彼を見つけた名うてのプレイボーイ(ライアン・ゴズリング)が、遊び半分の暇つぶしに、彼を少しは見栄えのする男性に改造しようと名乗り出る。
 そこから先は、高校生のベビーシッター(アナリー・ティプトン)やら、息子の担任(マリサ・トメイ)やら、弁護士志望の女学生(エマ・ストーン)やらと、いくつもの関係が生まれていく。キャスティングがとにかくいい。半主演格の俳優ばかりで、豪華とまでは言えないながら、見ごたえある演技陣がバランスよく集まっている。

 人は変わる。たとえば主人公は、40も過ぎて妻以外の女性を知らずに生きてきた(ここは傑作『40歳の童貞男』の、スティーヴ・カレルならではの役どころだ)。そんな彼は女性を前にまるで話題がない。口説くどころか、社交のためのボキャブラリーがないのだ。
 映画の当初は、基本的に“OK”と“All Right”くらいしか口に出さないし、酔って愚痴をこぼすにしても、同じ単語を使って同じことしか繰り返せない。
 それが、ライアン・ゴズリングの指南も手伝って、映画の終わりの方になると、実になんとも表現力豊かな饒舌家に変貌している。
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写真:『ラブ・アゲイン』より。エマ・ストーンとライアン・ゴズリング。今年ライアン・ゴズリングは大活躍だ。 画像元:allcinema.com

 そんな脚本の妙味は、軽い一言の中にも存分に発揮されている。
 そもそも、生涯妻1人だけなんて主人公の人生は、毎晩寝る女を変えているゴズリングにとっては、ほとんどSFの世界だ。そこで聞く。「しかし驚いたな、いつからそんなになったんだ?」それに対して、「1984年ごろに何かあったことは確かだよ」と完璧なセリフが帰ってくる。
 たぶんそれは、妻と出会った年を指してはいまい。これは『すてきな片思い』の製作年。すなわち80年代ラブコメの幕開けだ。(それにしても1984年というのは、なんと偉大な年なのか!)

 冒頭に私は、この映画はジャック・ベッケルのラブコメのようだなどと、またかと思われるのを避けるため、大嘘を書いた。が、使用楽曲を含め、実は80年代ラブコメの空気を濃厚に宿した作品なのだ。
 スティーブ・カレルとライアン・ゴズリングの役は、かつてならエミリオ・エステヴェスとロブ・ロウが受け持ったことだろう(この映画は彼らの後日談とさえ言えそうだ)。
 主人公の中学生の息子(ジョナ・ボボ)が、ベビーシッターを恋するあまりの暴走ぶりは、ジョン・クライヤーが見事に演じた類型だ。そのベビーシッター(逆にこの子はスティーブ・カレルが好きなのだ)の恋心の持て余し方は、まるでモリー・リングウォルドそのものだ。
 エマ・ストーン演じる、堅物ぶりがどこか主人公に似た女学生の、真面目さのあまり一度タガがはずれると、果てしのない思い込みの激しさは、アリー・シーディの得意技だった。
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写真:『ラブ・アゲイン』より。愚かな愚かな愚かな男ども。 画像元:allcinema.com

 もちろんこの映画は、80年代ラブコメなど1本も見ていなくても構わない。いかにも80年代的な外面の下に、そんな“昔話”を知らなくても100%楽しめる独創を備えている。
 その独創とは、人物と人物の最初の出会いに、必ず衝撃力を与えていることだ。数多くの登場人物に関わる話をパラレルに進めて、複数の糸が次第にからめていく、ジョン・ヒューズ的な段取りなどついぞない。
 人と人とを、不意にぶつけて思いがけず話がつながっていく、という構成に徹して、次に何があるかと身構えさせるテンションが常にある。もちろん、細かく見ていくとそこここに伏線はあるのだが。

 こうして最後の大団円に向けて、息もつかせぬラブゲームが繰り広げられるが、結局、いちばん損をするのはケヴィン・ベーコンとマリサ・トメイという80年代の出世組というのは、当然、作者としては狙いすました展開であることだろう。
 この作品は、今年最高の思いがけない拾いものだ。

2011/12/20

東浩紀『一般意志2.0』  

 東浩紀『一般意志2.0』(講談社)
 ブリリアントの一言。
 本書が言わんとすることは、ごくごくシンプルで、中学生の国語の問題にしたいくらいでさえある。たとえば、「筆者の言わんとするところを、文中の語句を使って50字以内で述べよ」とかそうしたものだ。

 たとえば実際にやってみるならば、(著者の主張は)熟議に基づく民主主義の限界を補完するため、可視化した大衆の欲望を組み合わせた、新たな政治形態を作る(こと)。
以上49字。

 しかし、これではあんまりなので、もう少し内容をまとめてみる。
 発想の源はルソー。ところが歴史的にみると、その思想はナショナリズムやファシズムの根拠となりかねぬものをはらんでおり、まだ未熟なものとされてきた節もある。
 そのスキを克服すべく、ヘーゲルやカント、カッシーラーらが思想を展開し、アーレントやハーバーマスらがそれを補強していく。
 しかしその結果、世界は熟議による政治こそが理想であるとされたものの、21世紀もほぼ10年が過ぎた今、いよいよそれが限界に突き当たってきた。
 なぜなら、分断化され複雑化した現在にあっては、熟慮によった“公共”の合意など得られようもないからだ。
 そのため、近年の社会学者の時代認識はどうにも歯切れの悪い部分があったが、それはカント的な考え方から脱却できなかったためといえる。

 けれど、今、未熟で危険なものとさえされた、ルソーの思想、特に「集合知」というものが我然、意味を持ち始めた。
 それはグーグル、ツイッターといった技術が、集合知を可視化する可能性を持ち始めたからだ、といったことを、対抗する思想を紹介しては、それらの限界を詳らかにし、フロイトまでも召喚することで、肉付けしていく。

 という感じで、これは逐一、実感を伴って読書ができる。主張が一貫して、かつシンプルなために、そこに書いてあることを、他者に伝えやすい。そういう書物は内容もいい。
 そしてそれは、本書にとって一番重要なことだと思う。たとえば、今、現在師走に入って忘年会シーズンたけなわだが、その酒の席でちょっと難しい顔をしてみせて、「そういえば最近読んだ本で、東浩紀って人が面白いこと書いててさぁ…」といった知ったかぶりをするのにさえ、最適とは言わないまでも、「あり」だと思う。
 そして、そんな場で人の興味を引くに足るだけの、「おもしろい」発想なのだ。

 かくして、本を読んだものの口を通して、読んでいないものへと伝わり、それがやがて大きな一般意志として膨らんで行く。まさにツイッター的な言葉でいえば、「拡散」である。こうしてゆっくりと、「一般意志2.0」は実現・実装の可能性へと動いていく(とすばらしい)。

 人に伝え、人を動かす本というのは、きっとそういうものだと思う。思想というのは、書いて発表することが問題なのでなく、実現可能性への種をまくことが重要なのだ。
 そして本書はそんな種として、十分すぎるほど明晰だ。


2011/12/17

『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』  映画

 ブラッド・バード『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』
 すでに傑作すぎるほどの傑作が3本もあるのに、これ以上、何を作れるのかという4作目。
 とても高ペースで作られている印象があるが、「3」からすでに5年も経っている。そしてこの5年は、トム・クルーズにとって、決して順風満帆とは行かぬ歳月だった。
少し整理しておこう。
 まず、主演作品の興行力が保障されなくなった。「トム・クルーズ」の名だけでは人が来なくなり、時代は彼を置き去りにしつつあった。そして、長年パートナーとして、クルーズ/ワーグナー・プロダクションを経営してきた、ポーラ・ワグナーとも決別する。彼女が2006年から就任したユナイテッド・アーティスツのCEOの座を、2008年に辞したためである。相前後して、私生活における信教を理由にパラマウント社との関係もこじれた。
 挙句、自身の企画であるにもかかわらず、MIシリーズ主演交代の噂まで飛び交った。

 きっかけはいろいろ求められようが、『M:i:3』の興行が振るわなかったのは大きかった。全米興収約1.3億ドルは普通なら及第点だろうが、しかしこれはトム・クルーズ主演の人気パッケージなのだ。
 彼にとって、万一「4」でしくじることがあれば、最悪の場合キャリアが終わる。シリーズ企画自体もとりあげられるだろう。だから背水の陣のはずだが、ここで私は、クルーズが「3」の監督として大抜擢した(当時の位置づけでいえば“大”のはずだ)、J・J・エイブラムスと手を切らなかったことに、その勇気を見る。
 ただし監督としてでなく、失ったパートナー、ポーラ・ワグナーの代わりとなる、共同プロデューサーとしてとなるが。

 オープニング・クレジットに見慣れたCruise/Wagner Productionsでなく、Cruise Productionsと、単独名での表記を見たとき、今の彼の孤独な闘いぶりを思う。
 それがどこか「ゴースト・プロトコル」の内容にもかぶるように感じるからだ。今回、クルーズ演じるイーサン・ハントは、クレムリン爆破の実行犯とされ、IMFから切り離されて(ゴースト・プロトコル発令)、わずか3人のパートナーと共に、孤立無援に濡れ衣をはらすと同時に、核によるテロを阻止しなければならない。
 この状況はまるで映画「ゴースト・プロトコル」の製作布陣のようだ。「3」からの持ち上がりとなるサイモン・ペッグは、さしずめ前作監督のJ・J・エイブラムスの位置づけだろう。
新規の相棒となるジェレミー・レナーはもちろん、今回の監督として“大”抜擢となるブラッド・バードだ。
 そして、ただ1人の女性メンバーとなるポーラ・パットンは・・・、トム・クルーズ自身が失った共同製作パートナー、ポーラ・ワグナーの代理となるだろう。あろうことか、ポーラとポーラ。名前まで一緒のこの2人は、まさに互いのゴーストのようだ。
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写真:『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』より。トム・クルーズ/イーサン・ハントは、まるでこの4人の疑似家族を作ろうとしているようだ。 画像元:allinema.com

 この製作体制で臨むトム・クルーズと、この不可能使命遂行メンバーで臨むイーサン・ハントは、どちらもこのミッションに“失敗できない”状況にある。
 演じる人物と本人とが分かち難く結びついた、トム・クルーズ/イーサン・ハントが、こうして完全に一つに重なり合い、あらゆる意味で緊迫感あふれる、超傑作が生まれることになった。

 この映画全編にみなぎる雰囲気というのは、実はシンプルの上にもシンプルだ。それは何がどうあっても、決して決して絶対にあきらめないという、行動原理だ。『ミッション・インポッシブル』の「1」〜「3」においては、気分高揚の焦点、すなわちテーマ曲を鳴り響かせるポイントというのは、基本的に敵を出し抜く瞬間においてであり、まんまと相手を欺き倒したことの成功に対する快感だった。

 「ゴースト・プロトコル」では、作戦はいつもどこかで破綻する。まんまとしてやることができず、先へ先へと送られてしまう。だからその意味での爽快感は欠く。けれど、それを補って余りあるような、石にかじりついても、決して立ち止まらない=絶対に走り続ける意思が漲っている。
 インタビューでの談話によると、今回監督を務めたブラッド・バードは、トム・クルーズと面接を行ったとき、「スパイ映画の条件とは何か」という質問を受けたのだという。
 それに対して彼がどのように答えたかは、語られていないのだが、私自身が想像(妄想)するに、彼は決して「何がなんでもあきらめない人物を描くこと」と答えたのではないか。
 そしてそれは、『アイアン・ジャイアント』から始まり、『Mr.インクレディブル』、『レミーのおいしいレストラン』といった、彼の旧作からも濃厚に感じられることのはずだ。

 核発射コードを奪還する。できなければ発射を阻止する。阻止できなければ起動を無効にする。どんどん解決が遠のいていく中、それがダメならこれ、これがダメならあれ、と無尽蔵に作戦を追加変更していく。
 それは、次々と作戦が失敗していくことの焦燥とは無縁の、「まだ大丈夫」「まだ勝てる」という積極果敢な闘争心に裏付けられている。だからこちらの魂をも動かしてくる。
 このようにリーダーとしての、トム・クルーズ/イーサン・ハントの真骨頂は、「ゴースト・プロトコル」にまざまざと顕現しているのだが、ここでのアクションは、そのためいつも二段構えになっており、その二段目は必然的に体当たりアクションとなるので、この映画のスーパー・アクションはクレッシェンドする。
 たとえば今回、もっとも有名になったドバイの高層ビルのスタント。ミッション遂行のための当初は、作戦通り壁面吸着手袋で慎重を期した行動をとってみせるが、後半からは軌道修正する必要に迫られ、窓ガラスは叩き割り、慎重どころか一気に地上に向けて全力疾走さえやってのける、
 緻密に計画された作戦成功の快感より、破綻した作戦のリカバリに賭ける意思の力へと気持ちを瞬時に切り替える。これが「ゴースト・プロトコル」が狙ったエモーションなのだ。
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写真:『ミッション:インポッシブル/ゴースト・プロトコル』より。今回のヒロイン、ポーラ・パットン(左)のアクションのキレは素晴らしい。女と女の殴り合いもある。 画像元:eiga.com

 もちろん、トム・クルーズ/イーサン・ハントの瞬時の決断の力強さは健在だ。
たとえば、私が好きなイーサン・ハントの行動の1つに、通信装置を投げ捨てる瞬間というのがある。
 たとえば「2」のクライマックスで、バイクでのチェイスが始まったとき、味方のヘリとコンタクトをとりながら、ヒロインの位置と安全確認に関するやりとりをしつつ、敵を撃ち、逃れ、追う、という一度にいくつもの行動を行う場面。
 ヒロインは仲間に任せられると確信するや、耳に装着した通信機を投げ捨て、目前のチェイスにぐっと集中する。
 「3」でも上海のどこかに幽閉された妻の位置確認を、携帯電話で探りながら走り、ナビゲーションなしでも位置確認できる見込みが立った瞬間、携帯電話を打ち捨てて突っ走っていくのだった。
 その瞬間、イーサン・ハントは確かに「これでよし」という空気を全身から発散する。そのトム・クルーズの演技の確かさは、間違いなくこのシリーズの魅力を支えている。

 「ゴースト・プロトコル」では、それと同種のシーンこそないが、迷っている時間のないときは、即、体が反応する。その反応にムダがまったくないトム・クルーズの演技は、ほとんどすべてのスタントを自らやっていること以上に、無二のものだ。
 車が動かなくなれば、直ちに車を飛び出て全力疾走すればいい。行動から行動への切り替えの早さにおける、彼の反射のよさは、もはや「活劇」などという手垢にまみれきった鈍重な言葉を「死語」とせしめるはずだ。
 代わりに言うなら、これは「アクション」の一言なのだ。
 もちろん、そうした目に見えるアクションだけではない。1つだけ例をあげると、「この局面でだけは敵をだましてはいけない。万が一にもだましていることを悟られると、もはや取り返しがつかなくなる」、とイーサン・ハントは決断する。
 その瞬時の決断において、目には見えないオーラがほとばしる。しかしそれをジェレミー・レナーが謀反する。反論されたから今度は説得する。
 ここの丁々発止は、いくつもの忘れ難いシーンの中でも、特に見ごたえある熱いシーンになっている。

 ここまできて、映画/ミッションを絶対に成功させなければならないという、トム・クルーズ/イーサン・ハントのインポッシブル・ミッションは成功したと言えるのだろうか、と改めて問うべきだろうか。
 映画そのものの成否は、全米公開もこれから始まったところなので、まだわからない。映画の出来栄えと収益は誰もが知る通り、比例の関係にはないから。
 けれど収益の問題以上に、これだけ力と心を込めて作られた映画なんか、そうそう体験できるものではない。

 そして、前述したように、まるで映画製作者としてのトム・クルーズが、エージェントとしてのイーサン・ハントにだぶるかのような人物構成を行った本作では、4人がいつも頭を並べて議論し、やがて束の間のくつろぎの時間へと移行する。
 それはまるで、トム・クルーズ/イーサン・ハントが、彼を中心とする、擬似家族を作ろうとしているかのようだ。
 スパイに家庭はあり得ないから、架空の家族をでっちあげる。ブラッド・バードは監督就任のための、トム・クルーズ面接で、スパイ映画の条件を尋ねられたとき、家族の扱いについてはどのような見解を語ったろうか。
 旧作でもやはり、特に『Mr.イングレディブル』において顕著だった「家族」というものの表象を、「ゴースト・プロトコル」はこの上なく叙情味たっぷりに、描き切ったと思う。
 おそらく「ミッション・インポッシブル」には「5」があるだろう。そのとき、「4」までにはない、いったいどんな要素がこの上なお残されているのだろうか。
 もはやこのシリーズには、期待以外の何もない。 

2011/12/13

スーザン・ストラスバーグ『マリリン・モンローとともに』  

 スーザン・ストラスバーグ『マリリン・モンローとともに』(山田宏一・訳 草思社)

 山田さんの翻訳による書物を読める喜びをかみしめる。
 まさか山田宏一さんによる久々の翻訳書が、マリリン・モンローについての、スーザン・ストラスバーグの半生記とは。

 モンローがリー・ストラスバーグ率いる、アクターズ・スタジオの薫陶を受けていたことは、一般常識として知っていた。
 しかし彼女がストラスバーグ家と、家族ぐるみ、これほど密接な関係を持っていたとは、不勉強にして知らなかった。本書はリー・ストラスバーグの娘、スーザンによる回顧録だ。

 私の世代ではスーザン・ストラスバーグというと、ウィリアム・ガードラーの『マニトウ』(1978)という、『エクソシスト』に二番煎じホラーになるのだけど、悪魔の子を宿した彼女の「パ・ナ・ヴィ・チ・サ・リ・ド・ウ」という全く抑庸のない、まさしく感情の抜け落ちた、悪魔の言葉の呟きが、今も耳に残るこれこそトラウマ映画と言っていい。

 ロジャー・コーマンによる『白昼の幻想』(1967)を見たのはそのずっと後だ。脚本はジャック・ニコルソン。スーザンはピーター・フォンダの妻役として出てくる。激しいドラッグ体験映画で、彼女は全裸もいとわぬ激しい演技を見せてくれる、これもサイケデリック映像の連続で、強烈なトラウマ映画だ。

 こうして私の中では、偉大な父親の娘として、どこか反体制的な仕事をしているという、イメージができあがっていたのだけど、本書で書いている通り、もともと『アンネの日記』の舞台で注目を浴びた本格的な女優である。
 ほとんど家族同然に、ストラスバーグ家に出入りするマリリンを目前にしながら、スーザンはキャリアを築いていった。

 マリリンに対して、娘以上に指導と愛情の情熱を捧げつくす、父リーにスーザンの心は揺れっぱなしだ。
 父の称賛を得たいのは誰よりも自分だったのに、という絶叫を本書ではあられもなく繰り返す。眠れぬマリリンに歌を歌って聞かせながら、抱きしめている父の姿を目にしたりもし、心は揺れに揺れる。
 けれど、スーザンはマリリンに対する(いろいろな不平は隠せないとはいえ)愛憎入り混じらせたりはしない。もっぱら愛だけが書かれている。

 それは、マリリンだけが持つ、スーザンには何度生まれ変わっても得られなさそうなもの、つまり圧倒的なセックス・アピールと大スターとしての輝きに、はるかな羨望を抱きつつも、逆にマリリンがどんな代償を払ってでも得たかった、知的環境とアカデミックな尊敬をスーザンは生まれながらに備えていて、その埋め尽くせぬ差異をきちんと理解していたからだろう。

 そのうえで、マリリンに対する激しい感情を、時には示しつつ、こんな共感において1つになる。
「どうやらマリリンとわたしには想像もつかないほどの共通点があるようだった。わたしたちはふたりとも教師であるひとに――つまりは私の父に――認められることを求めていたのだ」(P.179)

 とはいえ、客観的な生活感覚からしたら異常な家庭である。本書で面白いのは、もう1人の登場人物で、スーザンの弟ジョニーのスタンスだ。
 この狂った家族に巻き込まれまいと、徹底的に観察に徹し、シニカルに振る舞う彼の証言はとても地に足がついたものなのだが、後に結局は俳優業に手を染める。しかしそれに踏み切った本音はこれである。
「ぼくが俳優になろうって思ったのは、そうすれば家族の一員でいられるからさ」(P.172)

 この演技一家にあって、ある意味では切なすぎるこの言葉に、何ともしれないわびしさを感じずにいられない。
 それはともかくとしても、本書の魅力をおおいに増しているのは、巻末の山田宏一さんの長いエッセイだ。温かくも詳細な解説を施しつつ、『王子と踊り子』の監督および共演者として、本書にもたびたび登場した、ローレンス・オリヴィエ卿の尊大ぶりに対し、嫌悪をかくさないのも楽しく、こういう場面でなら依怙贔屓だって、ぜんぜんかまわない。

 いつもながら、山田さんの解説を読んでいると、直ちにマリリンの作品を一本一本見返さずにはいられなくなる。

2011/12/11

『リアル・スティール』  映画

 ショーン・レヴィ『リアル・スティール』

 ロボット同士のファイトだから、日本だと手塚治虫の『鉄腕アトム』をどうしても思い出すが、原作はリチャード・マシスンの短編“Steel”で初出は1956年。
 1963年にはTV『トワイライト・ゾーン』の1エピソードにもなったそうで、その時の主役はリー・マーヴィン。
 原作は主人公が元ボクサーであるという以外、何1つ重なることはないので、ほとんどオリジナルと言っていい。だからロボットの名は、たぶん手塚へのオマージュとしてATOMだ。

 最新技術を駆使しているのに、元ネタは驚くほど古い。それ以上に、物語は『ロッキー』と『オーバー・ザ・トップ』そのもので(スローモーションを織り交ぜ、音声を失うなど、最後の試合の演出はほとんど『ロッキー2』)、ますますオールド・ファッションな内容になっている。
 それに舞台は2020年という未来社会だが、ロボットを動かすテクノロジーが進化している以外は、まったく現代ママの意匠だ。
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写真:『リアル・スティール』より。ヒロインは『ハートロッカー』の主人公の奥さん役エヴァンジェリン・リリー。 画像元:allcinema.com

 しかしこうして、あられもなくスタローン物語を再現してみせたのは、いっそ清々しくさえある。
 スピルバーグとゼメキスが製作者として手を組み、最新技術を使ってスタローンをやるなんて、こんな幸せな結びつきがあるだろうか。よい物語はこうして、何度でも蘇る。
 
 素敵なのは、『ロッキー』では降って湧いたような偶然で、圧倒的な強者であるチャンピオンを迎え撃つ羽目になったのに対して、『リアル・スティール』は少年が自らの意思と力で最強の敵に挑戦し、試合権を勝ち取ることだ。
 ここには今に至るまで、スピルバーグが成し遂げていない、息子による父親の乗り越えがあり、スタローンが成し遂げていない、庇護されるばかりの息子による父からの解放がある。

 スタローン物語を現在に再現するとはこういうことだ。この映画には圧倒的な未来があって、2020年というほんの少しだけ先の未来を設定しているのは、だから当然かもしれない。
 これだけ世界がへこたれている現在、『リアル・スティール』の少年(ダコタ・ゴヨ)ほど、未来に対して積極的な態度を、今の子どもたちに求めるのはやや酷だ。
 けれどほんの少し先、あと10年くらいたてばわからないぞ、こんな昔ながらの、チャレンジャブルな少年が誕生しているかもしれない。いや、今すでにその芽はあるに違いない、というそんな熱いメッセージを感じさせられる。
 
 そもそも、この少年が父親(ヒュー・ジャックマン)の前に最初に姿を現したとき、彼が着ているTシャツは驚くなかれ、なんと1981年のヴァン・ヘイレンのワールドツアーのものだ!(いったい誰に譲り受けたんだよと問いたくなるが)。
 そしてそれは、スタローンにもスピルバーグにもゼメキスにも(ついでに筆者自身にも)、まだまだ輝く未来が待っていた頃である。

 父親が再起をかけて最初の試合に向かうとき、それは陽の当たらぬ地下闘技場であったのに対し、少年が自分の力で最初の試合に臨むときは、まだ闇試合ながら、薄暗いトンネルを抜け、闘技場に出た瞬間、ぱっと晴れ渡り、日光がハレーションさえ起こすほどの、きらめく青空の下であったことに注目したい。これが未来だ。
 
 『リアル・スティール』は50年代の物語を参照しつつ、70〜80年代のドラマツルギーを用いて、今後2020年への若い可能性を問うている。それこそすべての子どもに見せてあげたくなる。

2011/12/9

『50/50 フィフティ・フィフティ』  映画

 ジョナサン・レヴィン『50/50 フィフティ・フィフティ』
 ここのところ、ちょっと腰痛がする。少しヘンだな、と思って病院に行ったら、ガンを宣告されてしまう。まだ27歳だというのに、治癒の確率は5分5分だという。

 そんな深刻な題材を、なるべく重くならず、清々しい物語にしようとするあまり、ちょっと薄味にしすぎたような印象がある。
 いかにも草食系な『(500)日のサマー』のジョセフ・ゴードン=レヴィットが主演で、彼と彼をとりまく人物像が、もうひとつ生活感のディテールをもってせまってこないので、どこか遠い。

 レヴィットくんの部屋も、ズラリとCDを並べてあって、かなりの音楽好きと見受けられるのに、それらを使ったキャラクターの彫り込みにも消極的であるように思う。
 親友役のセス・ローゲンが物語に賑やかさをもたらすけれど、少々ワンパターンだ。
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写真:『50/50 フィフティ・フィフティ』より。セラピスト役のアナ・ケンドリックが実にいい。 画像元:eiga.com


 それでも、この作品を肯定したい気にさせられるのは、いつも自分の足でてくてくと歩いている主人公の描写に、確かな一貫性を感じるからだ。
 ほとんどの場合、ゆるやかな動きをもってシーンを開始することで、きっとこれまでの人生、こうしたテンポ感で生きて来たのであろう主人公が、ガン宣告後も何とか同じテンポをキープしようという、意思の力も同時に感じ取れる。

 それにしても、ブライス・ダラス・ハワードは不思議な女優だ。さして美人でもないのに、その気になれば美女役も演じられるし(『ヒア アフター』)、アート系でも実力を発揮し(『マンダレイ』)、超ビッグバジェットの憎まれ役としても、しれっと登場してしまう(『スパイダーマン3』、『トワイライト』シリーズ)。
 ここでも、主人子のいささか薄情な恋人で、あげくは浮気したかと思うと開き直るぷち悪女を演じて、驚かされる。
 さらに驚くのは、その不倫現場を主人公の親友がおさえて、騒ぎになるというのが、父親ロン・ハワードの『僕が結婚を決めたワケ』を、どうしたって思い出すが、それはさすがに意識してのことかどうか。

 最後に、主人公の新米セラピストを演じる、『マイレージ、マイライフ』のアナ・ケンドリックが、何とも清潔感ある美貌ぶりで目を楽しませてくれる。最後の方で、大手術中の主人公のことが心配になって、彼の家族のいる待合室にひょっこり現れるソファのシーンなど、演出も含めとてもよかった。  クリックすると元のサイズで表示します
写真:『50/50 フィフティ・フィフティ』より。そのソファのシーン。アナ・ケンドリックが実に実にいい。 画像元:eiga.com

2011/12/8

『おやすみ、かあさん』  

 青山真治 演出『おやすみ、かあさん』

 12月4日 於:池袋 あうるすぽっと。
 東京での千秋楽を見る。マーシャ・ノーマンによるピューリッツァ賞受賞の戯曲に基づく。

 私にとって、マーシャ・ノーマンというと、一にも二にも、『ウィンター・ローズ』の脚本によって記憶される。ジェリー・シャッツバーグ監督による1984年作品だ。
 ジーン・ハックマン主演という以上に、『E.T.』でエリオットを演じた、ヘンリー・トーマスの『E.T.』後の初出演作品という超注目作にして、これが私の偏愛する一作ともなっていることを告白しておく。

 今ではすっかり忘れさられた作品だと思うが、『スケアクロウ』のシャッツバーグをイメージすると、完全に裏切られるドラマチックなメロドラマで、これが実は「おやすみ、とうさん」とでも言いたくなる作品だったことは、まあ偶然だろう。
 そこでは、ジーン・ハックマン演じる父親と、息子のヘンリー・トーマスの心が、すれ違ってすれ違ってすれ違っていく。

『ウィンター・ローズ』より。Youtubeに動画があがっていた。そう、久々に思い出したけど、これは音楽(マイケル・ホッペ)も素晴らしかった。

 さて、以上は単なる前置きにすぎないが、この『おやすみ、かあさん』は、これまでずっとすれ違っていたと思しき、娘(中島朋子)と母(白石加代子)による2人芝居だ。
 親と子というのは因果な関係で、子は親に求めてばかりなのに、その成長のある段階からは、逆に親の方が子に求め始める。求めるものは無論、愛情というものだ。

 それを象徴するのが、「おやすみ」という言葉であって、この「おやすみ」というのは、親が子に言う言葉であるはずなのだが、やはり成長の(より正確には人生の)ある段階から、「おやすみ」の言葉は子から親に対して言う言葉に変わっていく。

 「おやすみ」の言葉を言うのが、親の側から子の側へと移り変わる頃、一般的には親と子との葛藤が最大値を示すのではないか。無償の愛が無償でなくなってくる時期でもある。
 そして、まさにその時期にある母娘を切り取ったのが、『おやすみ、かあさん』ではないか。ここでは母と娘のどちらが主導権を握って議論するのかが勝負となる。
 伯仲するダイアログの応酬が2大女優によって不断に繰りだされ、母と娘の立場がぐるぐる入れ替わるのに翻弄されていると、やがて演出はほとんど目に入らなくなってくる。

 青山真治演出による舞台第一作、『グレンギャリー・グレンロス』では、言葉の応酬もすごかったが、時計をはじめとする、舞台上の物質の雄弁さも際立っていた。
 けれど『おやすみ、かあさん』では、なるほど舞台にソファや椅子、テーブルなどが無造作におかれているが、それらはとにかく物質性に徹していて、何も語ってこない。それらはこの母娘が共有していたはずの時間というものを、一切暗示させることなく、切り離された関係としてだけ、そこにあるかのようだ。

 たとえば、舞台向かってやや左にソファが置かれており、2人でそこにカバーをかけさえするのだが、そこに並んで腰かけようとはしない。
 推測にすぎないけれど、青山監督は2人をソファに並んで座らせるようなことだけは、決してするまいと堅く決意していたんじゃないかと思う。
 それをやると、壊れゆく時間は表現できるかもしれないが、心のつながりも表現してしまいそうだからだ(ここで小津の一言を小声で呟いてみる)。

 舞台の最後に一言、中島朋子のぞっとするような音律で語られる、「おやすみ、かあさん」のセリフには、抒情なき抒情とでもいうような、震えるような親子のどうにもならなさが、宿っている。生のセリフのド迫力。



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