2012/2/20

キネマ旬報 3月上旬号  映画

 本日、2月20日発売の「キネマ旬報」3月上旬号『戦火の馬』特集で、「スピルバーグの映画史 1972〜2012」という文章にて、スピルバーグ40年の仕事を振り返っています。
 ご興味あれば、ぜひご一読ください!


2012/2/18

『果てなき路』  映画

 モンテ・ヘルマン『果てなき路』
 思いがけず轟き渡る銃声。そして何が起こったんだと思う間もなく、軽飛行機が湖水にざぶりと墜落するショット。
 その落ちっぷりを見て、ああ、スコセッシはきっとこんなふうに飛行機を落としたかったはずなのだと、『アビエーター』の墜落場面を思い出しながら、ほれぼれ思う。

 こういうのが「映画」の手触りのはずなんだ、と紋切り型にして曖昧なことを思ってしまったのは、その「映画」というものの定義を再確認せずにはいられぬ、本作の121分だったからだ。

 モニター内の女優を、残り上映時間のことなど、気にもしていないかのようなゆっくりとしたテンポ感で映し出し、画面の外と内とが自在に行き来し、映画内映画というよりは、映画外映画(「メタ」映画の反対というのは、何と呼べばいいんだろう)。
 『果てなき路』は、現実そのもののトリュフォーの『アメリカの夜』とも、夢の世界に行ってしまったフェリーニの『81/2』とも違う、その波打ち際をゆるやかに滑っていく。
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写真:『果てなき路』より。シャニン・ソサモン。確かに美人といえば美人だが、どこか化粧でごまかされている気も…。 画像元:allcinema.com

 私は不勉強にして、モンテ・ヘルマンを『断絶』しか見ていない。だから、把握を間違えているかもしれないが、この作品を見ながら、映画を作ることと映画を見ることとの間に、意外と差異はないのではないかという、あり得ぬことを思う。
 けれど、それは実際に映画を作る側に身を委ねた人々にとってであって、作ったことのない人間にとってのことではない。
 見るだけの者にとっては、映画作りの世界への道のりはそれこそ果てしなく遠い、まさに「果てなき路」である。

 その遠さと近さが、この映画には混在している。信じられないほど映画作りの内部に接近したかと思うと、どっと距離をおかれてしまう。「映画」というものは、「見る」ものであり、また「作られる」ものであるという、その認識が示される。それがモニターの中と外の意味であると思う。この視点は新鮮だった。
 
 この映画の主人公である「映画監督」は、その日の撮影が終わっての夜、映画内映画の「主演女優」と、自室で抱き合いながら『ミツバチのささやき』を見つめている。
 映画が終わって2人してさめざめと泣きながら、「それにしてもいったい何という傑作なんだ!」とつぶやく。その後、2人は映画について語り合うでなく(当たり前だが)セックスを始める。
 たとえばこうした、一般人にとっては圧倒的にフィクションながら、しかし一方で、状況さえセットされれば、当然そうなる圧倒的に必然的な展開に、見る者と作る者の立場が融解して、一つになる。

 どちらにせよ、映画にのめりこみすぎてしまえば、そこに待っているのは、何らかの形で訪れる「死」しかあるまい。
 なるほど、「呪われた」映画作家、モンテ・ヘルマンの面目躍如と言いたくなる。

2012/2/11

『ペントハウス』  映画

 ブレット・ラトナー『ペントハウス』

 『ニューイヤーズ・イブ』といい、『ステイ・フレンズ』といい、最近ニューヨークを舞台にした映画では、実際の大イヴェントをそのまま模して、大量エキストラを使ったロケーション撮影を、しばしば見せるようになってきた。

 今回も、実際に行われたメイシーズの大パレードにそっくり便乗し、ベン・スティラー以下、ケイシー・アフレック、エディ・マーフィ、マシュー・ブロデリック、マイケル・ペーニャといった、“見せ方”を心得た面々が、大富豪からの大金奪還作戦を繰り広げる。

 北米でも最高級とうたわれる超高級高層マンション。実際のトランプ・タワーをモデルにした、ここの管理従業員たちは、超高額所得者である住人たちのプライバシーに一切関与せず、しかもそれを熟知することで、限りなく快適な住空間を提供することが使命だ。
 ベン・スティラーはそこの腕利きマネージャーであり、住人たちはもちろん、従業員一同の信頼も厚い、CSとESを両立させた理想的な管理人だ。

 しかし、住人のひとりである投資家アラン・アルダに、自分を含めた全従業員の積立年金をそっくり託したことで、一同は全財産を失ってしまう。不正投資の嫌疑にかけられ、資産すべてを凍結されたのだ。
 それもこれも、「財産を3倍にしてやる」という彼の甘言に乗ったからなのだが、これほど知恵の回る、有能マネージャーであるベン・スティラーをして、こんな愚かな誘惑に目が眩むとは、現代アメリカ市民の金融感覚がどれほど地に堕ちているか、察するに余りある。
 リーマン・ショックは、一概に金融会社の強欲がもたらしたものでなく、市民全体の見通しの甘さによるのだということが、容易に想像できる。
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写真:『ペントハウス』より。ベン・スティラーと仲間たち。どこか『MI4』の面々を思わせる。 画像元:allcinema.com

 かくして、自分と従業員たちの財産を取り返そうと、ベン・スティラーが慣れないながらも周到な計画の下に仲間を集め、奪還作戦を展開する。ターゲットはアラン・アルダが自室のどこかに隠した財産だ。
 建物内部なら、管理マネージャーの自分が誰よりも詳しい。それを生かしたクライマックスが、冒頭に書いたNY市大パレードの真っただ中で展開する。

 こうしたプロットは最高に面白い。が、残念ながらブレット・ラトナーの演出の切れ味がもう1つ足りず、脚本は悪くないのにエピソードの進行が、畳みかからない。
 宙づりの車や、エレベーターのワイヤを使った、『MI4』を思わさぬでない、高層アクションも、もう少し何とかならなかったものか(ブレッド・ラトナーは『ラッシュ・アワー3』のエッフェル塔アクションの不手際をまた繰り返してしまった)。

 キャラクター造形も不徹底だ。エディ・マーフィのダイアログは薄く、彼の真骨頂が引き出されているとは言い難い。
 何より、不運にも財産は失ったが、有能なトレーダーという設定のマシュー・ブロデリックを生かせてない。ここぞという時に、投資家としての冴えた知恵を授けて事態を好転してみせる、という胸のすく場面が1つでもあればよかったのだが、暗算が速いという程度の扱いではもったいなさすぎる。だから、最後まで役立たずのままで終わってしまう。
 
 最悪なのは、FBI捜査官のティア・レオーニで、職業柄ベン・スティラーに肩入れするわけにもいかないが、心情的には理解できるので、陰から援助しようとはしているが、脚本の 書き込みが足りないので、どっちつかずで終わっている。
 いつもくたびれた顔で、せっかくの美人が台無しなのは、描き方次第で設定のせいだと納得できるはずなのだが、これでは彼女も地で老けこんじゃったな、と思わされてしまう。

 そんな中での見どころは、やはりベン・スティラーだった。『ペントハウス』は必ずしも、手放しで面白いと強弁できる作品では、残念ながらなかったが、この人の主演作品としては、大いに楽しめる。
 背筋のよく伸びた、てきぱきとした身のこなしと、キレのいいセリフ回し。瞬発的な行動の早さとその持続は、ことによると、アクション・スターとしての可能性を秘めているのではないかと思わされる。
 何より目力が強いので(カメラもそう思ったか、彼の眼をしっかり覗き込むよう撮ってくれている)、行動に説得力があり、画面が引き締まる。
 何より、自分のでなく、守るべき部下たちの財産を取り返すため、という動機がすべての行動を促す、その男気がいい(こういう設定が、いかにもイマジン作品だなあと思わされる)。

 「これでよし」と言わんばかりの、ラストの彼の無言の表情など、そのスターオーラに、思わず握り拳を固めてしまう。
 終わりよければすべてよし。 

2012/2/4

『J・エドガー』  映画

『J・エドガー』(クリント・イーストウッド)
(注:本稿は結末にあたる部分に触れています)

 上昇気流にのった、ディカプリオ演じる、後のFBI初代長官エドガー・フーバーが、若い衆を紹介されてがっちり握手するが、彼が去った後、その手をハンカチで拭いとる。
 その様子を見て、そういえばガス・ヴァン・サントの『ミルク』でも、ミルクとジェームズ・フランコ演じるその相棒が、引っ越してきたサンフランシスコの家の向かいの店主が、彼と握手するやいなや、(嫌悪のあまり)その手をハンカチで拭くのを思い出した。
 脚本はどちらも同じ、ダスティン・ランス・ブラック。

 エドガーはそのとき併せて、彼の服装にも一言するのだったが、彼はどこまでも身につけるものにこだわり、部下たちの服装チェックも厳しかった。身なりのことでは、部下の解雇さえ辞さない。それというのも、初めてしかるべき役職に就いた時、ジュディ・デンチ演じる母親に、ふさわしい服装をしなさい、と釘をさされているからだ。
 そんな母の影響がどれほど強いかということは、彼が後のシーンで、その母親の衣服を身につけまですることで、存分に表現される。

 ハンカチの方に話を戻すと、生涯の(公私にわたる)パートナーとして、アーミー・ハマー演じるクライド・トルソンとの出逢いと、最後の朝食の場面はハンカチを通して、手と手を握りあう2人だった。そして、あまつさえその手が触れた、そのハンカチの残り香を深く吸い込みさえもする。

 そして、衣服にこだわったエドガーは、何も身につけていない姿で転がっているのを、発見されるのだ。脂肪がたっぷりついたその見苦しい裸身―今回のディカプリオは、その老けメイクがずいぶん喧伝されている節はあるが、一番すごいのはこのボディメイクではないだろうか―は、誰にも負けぬぱりっとしたスーツで覆い隠されていたというわけだ。
 それこそまさに、表面とその裏の乖離の著しい、エドガーの人生、ひいては、彼が君臨した合衆国の姿そのものを象徴してはいまいか。

 若き日のエドガーが、ジェシカ・ヘクト演じるアナーキスト、エマ・ゴールドマンを国外追放に至らしめる裁判の場面で、その評決を与える後ろの窓の、はるか向こうには自由の女神が小さく映っている。ただし、焦点があわないのでぼんやりと、ちょうど“幽霊”のように。
 移民の国アメリカが、まさにその移民たちが、合衆国にやってきて最初に目にすることになる象徴としての自由の女神のおひざ元で、厳しく自由を制限する法案を行使している。

 この映画を見て受ける印象としては、エドガー・フーバーという人物は、大を生かすために小を殺すことをいとわぬ、典型的な人物だ。それを実行するために、徹底的に表と裏を使い分ける。
 その一貫として、この映画は、エドガーがこれまで功績としてきた、犯罪者逮捕歴を最後の最後にひっくり返し、すべてをメタフィクションの闇の中に葬ってしまう。
 この映画の中でもっとも胸のすく下りでもある、次々と凶悪なギャングたちに手錠をかけていくアクション・シーンをウソに塗り固めてしまうのだ。

 そうしたエドガーの生涯が、合衆国史上もっともうさんくさい大統領である、ニクソン政権の時に終わるのは実に不思議なものである。
 そんなニクソンの思惑を無と化すために、この映画の最後は、ナオミ・ワッツ演じる、生涯エドガーにつかえた秘書、ヘレン・ギャンディの作業シーンで終わる。
 彼女の姿で終わるのは他でもない、おそらくたぶん彼女ただ1人が、まったく裏も表もなく、素のままの人物として描かれているからだ。きっと彼女だけが、やましい所なく、何も恥じていない。それもこれもアイロニーである。

 ちなみに、エドガー・フーバーが死んだのは1972年5月。目の上のたんこぶがなくなったからかどうか、それは知る所ではないが、ニクソンが民主党委員会オフィスに盗聴器をしかけさせ、いわゆるウォーターゲート事件をしでかすのは、ついその翌月、6月のことだ。



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