2012/8/4

『ダークナイト ライジング』  映画

 クリストファー・ノーラン『ダークナイト ライジング』

 この映画が、とにかく素晴らしいと思うのは、若き熱血警察官を演じるジョセフ・ゴードン=レヴィットが、銃を突き付けられ、もう絶対に助からないという最後のその瞬間に、「彼」が登場するときの姿だ。それは、命を救われた安堵感とか、感謝とか、そんな感情ではない。「彼」が来てくれたんだ、「彼」は本当にいるんだ、というまるで少年のような憧れと、興奮と、歓喜で鳥肌がたつほどあふれ返る、心の震えなのだ。
 その点において、映画史において何千、何万と作られてきた、ラストミニッツ・レスキューと、『ライジング』のそれとは一線を画す。

 あるいは、「爆発だ、伏せろ!」と彼は子どもたちに叫ぶ。しかし、彼よりもさらに曇りなき心を持つ幼い子どもたちは、決して見間違えない。「違う。バットマンだ!」
 ここでまたしてもレヴィットが見せる、笑顔などという生易しいものではなく、魂の奥底から湧き上がる「やった、やった、やった!」という噴きこぼれるような感激。そんな彼は、心の奥のどこかで破滅は避けられないと観念しつつも、「子どもたちに必要なのは、生きる希望なんだ」と、まるで自分に言い聞かせるように、子どもを導いていたのだった。
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 この映画は、それさえあれば人は生きられるという、そんな魂の根源的なものを揺さぶってくる。そしてそれは、絶対的に正しく、憧れるに値する存在のことだ。この世界に「絶対」などというものはない、という議論をこの映画は粉砕する。それはあるのだ。
 それは、何ものをも犠牲にすることなく、秩序の上に築かれ、”夢”を求めることの許される世界のことだ。『ダークナイト ライジング』はそんな世界を追求する。

 『ダークナイト』は、何から何まで二者択一を求める物語だった。善か悪かはもとより、「光の騎士」として正義の実現に腐心したハービー・デントは、投げたコインの表か裏かで、運命を選択させる。そんな彼は、自分の命か恋人の命か、逆にそれを選ばされる力学の前に敗北し、彼女でなく自分を選んで救ったバットマンを憎悪し、残された者はその敗北を隠ぺいすること、すなわち真実か嘘かを選ぶことで、ゴッサムの平和を温存した。
 『ライジング』は、その二者択一によって温存された、平和の地盤が”沈下”することで始まる。正義の人デントにまつわる嘘。そして、恋人レイチェルが、デントとウェインのどちらを選んだかを隠した、マイケル・ケイン演じる執事の嘘。二者択一は必ず誰かの犠牲を伴う。その犠牲とはすなわち、選ばれなかった側のことだ。

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 アメリカ合衆国は、常に二者択一を迫られることで成り立つ社会だ。支持政党から、銃規制、妊娠中絶に、国民保険制度、果ては同性愛婚に至るまで。そして選ばれなかった側を手当するため、詐術と詭弁が弄される。
 そのことに気付き始めているのかどうか、近年のアメリカ映画の多くは、嘘をつき通して表面的な安心を維持するか、波風立ててもそれを致し方なしとして、真実を暴くかの間で翻弄される物語が多くなってきた。ロン・ハワード『僕が結婚を決めたワケ』、ガス=ヴァン・サント『永遠の僕たち』に、キャメロン・ミッチェル『ラビット・ホール』など、いずれも腕のいい作家たちによる秀作群だ。
 『ライジング』は、これらの作品のように、どちらか一方を選ぶことで必然的に生じる、葛藤と犠牲と忍従をよしとしない。それでは、選ばれなかったもう一方の哀しみ、または辛抱と、その揺り戻しの上に築かれる歴史を、繰り返すことにしかならないからだ。

 アメリカ国歌斉唱のもと、遂行されるテロリズム。市民を2つに分けた悪魔ベインの、上から下へと叩きつけるように振り下ろされる拳は、バットマンを地面に打ち倒す。
 それ、はキャット・ウーマンが相手を殴るとき、必ず下から上に突き上げるように打つのとは、真逆の振り付けになっている。だからバットマンは、彼女を最後のところで信じる。キャット・ウーマンは意図せず、根本のところで人生の見方が違うのだ。
 ベインのテロリズムは、飛行機を落とし、床を落とし、橋を落とし、大競技場の地面を落とす。彼の仲間による追放という名の処刑は、薄氷を歩かせ落とす。このテロルは、アメリカ合衆国を見事に二元論へと導いた、911のツインタワー崩落のイメージを、慎重に避けつつ、しかも見事に変奏している。
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 上か下か。二者択一のうち、この世でたった1つ選択してもよいものがあるとすれば、それは上への衝動だ。そこには空があり、未来があり、明日の希望がある。バットマンは飛べないが、跳ぶことはできる。いや、渾身の情熱で跳んでみせる。それは「魂」の問題なのだ、という警句を得て。これは「魂」の映画なのだ。 生きる希望を守るために、バットマンとキャット・ウーマンが空と陸から、カウントゼロに向けて激走する。ゴードンはトラックにしがみつく。もう言ってしまおう。ここは、ゴッサム・シティなんかじゃない。ずばりニューヨークであることを、隠そうともしていない。
 完全ロケによって撮られた、ラスト30分の大活劇の舞台となっているのは、911の跡地グラウンド・ゼロから歩いて5分もかからぬ場所だ。ほんの10数年前、ここは空前のテロリズムで瓦礫と化した場所なのだ(ピッツバーグでのロケも、さまざま混入しているが)。
 この徹底的に無償の、大アクションは何のためなのか。すべては全員の夢と希望を守るためだ。誰の夢をも決して犠牲にしない、二者択一を無効にして、アブハチどちらも取る、無限の歓喜をつかむためだ。
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 半開きであることの多いバットマンの口が、その瞬間、真一文字に引き結ばれるとき、『ライジング』の物語は完結する。だが本当に完結するのか? まったく信じられない事実を明かしながら、またしても足元がライジングした瞬間、「上映が終わった」などというちっぽけな満足感を超え、自分の中にさらに大きな「バットマン」の物語を、構築する可能性が与えられる。
 「マスクは大切な人を守るためのものだ。マスクをかぶれば、誰もがバットマンになれる」と、バットマンがゴードン=レヴィット演じるブレイクに語ったように。




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