2009/4/25

『グラン・トリノ』  映画

 クリント・イーストウッド『グラン・トリノ』
 大雨の東京、いささか肌寒かったのでセーターを一枚上に着たところ、せっかくシャツの裾をズボンにたくしこみ、ベルトをきりりと締めたのに、外からは見えなくなってしまう。劇場内はさぞや、同じ服装の観客にあふれているだろうと思ったのだが…。

 それにしても、4月25日は今後、「グラン・トリノの日」として、国民の祝日にしてもよいのではないか。そうでもしないと、この作品に対する敬意を表しきれない。

 たわごとはともかくとして、『チェンジリング』のときにそうだったように、『グラン・トリノ』についても、当面は言葉を並べることは慎もうと思う。この映画作家には上限というものがない。どれほどすごい映画を作っても、すぐにそれを上回るものを出してくる。

 『父親たちの星条旗』と『硫黄島からの手紙』が対になっていたように、『チェンジリング』と『グラン・トリノ』もちょうど対になる。すなわち夫のいない妻の物語と、妻のいない夫の物語。あるいは、我が子のために立ち上がる女の物語と、他人の子のために立ち上がる男の物語。

 そんなこともどうでもよく、私は『チェンジリング』のとき、イーストウッドが執拗に描き続ける暴力の連鎖について、それは決して歯止めのかからぬものであると。
 なぜなら、暴力は亡霊のように蘇り続けて、永遠に転生し続けるからだといった内容のことを書いた。であるが故に、鉄拳制裁も封印したのだと。
http://green.ap.teacup.com/applet/nanbaincidents/20090305/archive
http://green.ap.teacup.com/applet/nanbaincidents/20090304/archive

 しかし『グラン・トリノ』で、クリント・イーストウッドは、暴力の連鎖を止めるための、これ以外にあり得ない、たったひとつの冴えたやり方を、ついに発見する。
 しかも、これまでどうにも折り合いの悪かった、神様と法律の両方とも仲直りをする。

 今回、クリント・イーストウッドは久しぶりに、本当に久しぶりに、鉄拳制裁を行う。しかしてその結果として起こる事態は、従来のイーストウッド作品とまったく同様だ。すなわち、女と子どもが犠牲になる。だから鉄拳はダメなのだ。となると、鉄板による装甲も見直さねばならなかろう。

 暴力に歯止めをかけるということは、必然的にこれまでの作品を集大成することになる。はたして『グラン・トリノ』はそうした作品となった。その「映画」の灰は、エンディングに唐突にあらわれる湖に撒かれたのだろうと夢想する。
 人類が産んだ至宝。



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