2012/11/12

デイヴィッド・フォスター&フレンズ 2012  音楽

デイヴィッド・フォスター&フレンズ
@東京国際フォーラムA

 いつかどこかで書いたように、私の音楽感を形作る45%はデヴィッド・フォスターである。
 一昨年のステージはその期待に違わぬ、究極にして至高の最高のものだったが、一転、昨年のはもう本当にだらしのない、ぐだぐだな演奏で途方にくれたものだった。
 ...だから今年はそのリベンジを期待した。だってチャカ・カーンが来るのだもの。ということは、超名曲“Thru The Fire”を聴けるということだ。それだけのために入場料払っても惜しくない。

 が。
 恐ろしいことに、昨年のひどいステージをさらに上回る、どうしようもないコンサートだった。たぶん日本なんてなめられてる。
 冒頭“The Flight Of The Snowbirds”~“Winter Games”の流れは、これまでと違っていて「おおっ♪」と思わされたが、それもつかの間。

 ヘイリーという、顔はきれいだが、歌はどうってことないニュージーランドの歌手が「涙そうそう」とか、こともあろうに「アメイジング・グレイス」とか(しかも日本語で!)歌って、のっけから「もう帰ろうか」という気にさせられる。

 それからしばらく、どうでもいい歌手のどうでもいい歌が続いて、ポール・ヤング登場。
終わってるな。本人は楽しそうにしてるのだが、もう完全に声が出ていない。
 “Every Time You Go Away”とか、真顔で言うが、オレの方がもっとうまく歌える。いくら旧知とはいえ、なぜこの状態のポール・ヤングを、御大ともあろうものがステージに乗せたか。

 それに対して、ピーター・セテラはまだしもさすがである。
「おい、2人で書いたあの曲あったろ」「なんだっけ?」「ほら、空手映画の」「ああ、あれね」「もともと“ロッキー4”の主題歌だったよな」「ソ連に行って戦う話だっけか?」「そうそれ。スタローンがなあ」「そういえばそうだった、弟に歌わせるといってきかなかったんだ」「なんて名前だっけ?」「忘れたなあ」「えーっと」「フランク、そうだフランクだよ」「あ、それそれ」「で、二人で取り下げたんだよね」「んなことあったなあ」「てなわけで“Glory Of Love”行くかね」「OK」「♪Tonight is very clear / As we're both lying here♪…」

 こういう調子で、もはや往年の声は完全に失われていて、一昨年のパワーさえもないけれど、その代わり軽い歌いっぷりを身につけ、軽妙なトークと存在感でステージを回してみせる。
 だが「そこ!」というところで、D・フォスターのピアノが入ってこない。

 実はピーター・セテラが出てくる前に、デヴィッド・フォスターが過去の自作曲を数小説だけ口ずさむコーナーがあった。しかしどんなに歌が歌えなくてもいいから、これだけを2時間延々やってくれた方が、むしろ13800円の価値があったのではないか。
 まさかのスカイラーク時代の“Wild Flower”や“The Best Of Me”(ついに聴けたよ)や“Look,What You Done To Me”、“Will You Still Love Me”、エアプレイの“Nothing You Can Do About It”や“Moanin'”など7〜8曲をさらりと流したろうか、“You're The Inspiration”を歌ってたところで、後ろからP・セテラが出てきたという趣向だ。

 ベイビーフェイスは素晴らしい。「オレはこいつにだけは勝てないんだ」というD・フォスターのMCはいささか、下品でしつこかったが、御大を“サー”をつけて呼ぶベイビーフェイスの謙虚さは感じいいし、なんだか音楽の才能が全身から噴きこぼれてる。
 あと10年早く生まれていたら、スティーヴィ、ライオネル、マイケル、そしてベイビーフェイスということになってた可能性もあったと思う。
 “Change The World”の歌唱はとにかく圧巻。しかしどんなに圧巻でも、この曲は別段、デヴィッド・フォスターと何の関係もない。

 で、トリはチャカ・カーンなわけだが…。それは確かに聴けば泣く。御大のピアノで今日いちばんの期待である、“Thru The Fire”のイントロが出てきた瞬間、涙腺が粉砕したわけだけど…。まあこれ以上は言葉を継ぐまい。

 そうはいっても、アンコールでピアノだけで“St. Elmo"s Fire”~“Conscience”を弾かれたときには、またまた涙腺を粉砕させられたわけなのだが。
 しかしその後、最後にEW&Fの“September”とかやられてすべてぶち壊し。あんな曲(嫌いな曲じゃないけど)デヴィッド・フォスターとなんの関係もないじゃないか。フィリップ・ベイリーが来た昨年ならいざしらず。
 “Conscience”でそのまま家に帰りたかったよ…。

2010/12/9

大貫妙子&坂本龍一『UTAU』  音楽

 大貫妙子&坂本龍一『UTAU』(COMMONS)
 坂本龍一の最新プロジェクトは、大貫妙子との共演によるデュエット。
 いつもながらに、坂本龍一は導く。その音源を聴くことで、必ず何か別の音楽へと、ネットワークを伸ばさせられる。そこがいい。
 そして、今回は歌曲へと導かれる。ドビュッシーやラヴェルの、というよりは、むしろたとえばシューマンの歌曲へ。
 本CDを聴き終えて、私が真っ先にイメージしたのは、シューマン歌曲集『女の愛と生涯』だった。または『リーダークライス』。(そしてシュワルツコップの声)

 シューマンの歌曲におけるピアノは、限りなくロマンチックだ。そして歌にしっかりと寄り添う。ピアノの中に声を溶かし込むドビュッシーの歌曲とは、また違う魅力を放つ。
 そして『UTAU』は全体を通して、それに近い音楽になっていると感じた。

 清澄そのものである名曲『美貌の青空』(1曲目)は確かにいい。
 けれど、それ以上に胸震えたのは、ブライアン・デ・パルマ『ファム・ファタール』のテーマに、大貫が詩をつけた『Antinomy』(6曲目)。
 アンチノミー・・・二律背反、と題するこの曲で、声とピアノが終盤に向けてからみ合っていく様は、曲名の二律背反・対立・矛盾どころでなく、完全調和そのものだ。
 私がこのアルバムはシューマンだ、と感じたことの多くはこの曲に負う。

 なお、『UTAU』は2種類が発売されている。大貫との共演11曲のみの「スーパーエコパッケージ」1枚組と、それに坂本ソロ9曲も加えた「フルアートワーク」2枚組だ。
 どちらを購入するか迷われているなら、ためらわず2枚組版を薦めたい。

 ピアノソロ版は、もちろん伴奏パートのみを入れたものでなく、新録音、新アレンジ。右手で歌うことに徹する坂本演奏は、あまり聴く機会はないと思う。
 たとえば『Aqua』。大貫はこの曲にも、詩をつけようと検討したそうだが、あまりに器楽的で断念したそうだ(だからボーカル版はない)。
 そこで、歌唱的なアレンジが施されている…とまで述べる自信はないが、しかし少なくとも後半の一部ではメロディに対して(もちろん単純なそれではないが)、左手のアルペジオさえ聴けてしまう。坂本龍一のアルペジオ?
 
 ちなみに最後の“Geimori”は、リハーサルの断片をつないだもので、これはこれで興味深い9分31秒(ところどころ坂本+大貫のおしゃべりの断片やハミング、本録音では聴けない音型のアレンジや、『Firecracker』の『Tong Poo』もどきも)。

 何より、シューマンの歌曲を聴いたら、『クライスレリアーナ』や『森の情景』なども聴いてみたくなるではないか。それと同じである。

2010/12/2

村治佳織『ソレイユ〜ポートレイツ2〜』  音楽

 村治佳織『ソレイユ〜ポートレイツ2〜』(DECCA)

 あり得ない美貌に、またしてもハートを鷲掴みされつつ、村治佳織の新譜を聴く幸せ。
私のような邪なファンには、アンサンブル演奏より、こうしたギター一本のソロ演奏が何よりうれしい。

 今回も耳に優しいBGM的楽曲から、チャレンジャブルな大曲まで、気持ちよく聴かせてくれる。
 実際、本当に気持ちがよくて、超高速パッセージでも、指がもつれそうな停滞感などまったくなくて、すごく爽快に音楽が駆け抜けていく。
 ソロ演奏でしばしばありがちな、思い入れたっぷりなリタルダンドなどなく、楽想は決して緩まない。若い。心地いい。
 だから、少々くさみのある『ギターのためのカルメン組曲』(ビゼー/佐藤弘和・編)のような曲でもまったく気にならない。疾走感で勝負されているからだ。
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写真:村治佳織 それにしてもこんな美人がこの世にいるとは!!!

 ギター・ソロのよさはもう1つあって、それはたとえば『そよ風の誘惑』、『アローン・アゲイン』、『追憶』など、ほとんど知り尽くした感のある、ポピュラー名曲でも、こんな和音で作られていたかと、はっとする発見をもたらせてくれることだ。(編曲:佐藤弘和)

 旋律と伴奏の住み分けが恐ろしいほどクリアなので、そうなるのだが、そうした演奏で、キース・ジャレットの歴史的名演「ケルン・コンサート」からのアレンジ、『ケルン 1975年1月24日 PARTUc』(マニュエル・バルエコ トランスクリプション)を聴かされると、ブルーノートというものの真髄が見えてくるような錯覚にさえとらわれる。

 圧巻はやはりギターのための大曲、バリオスの『大聖堂』だ。このギター音楽の頂点でギターの機能を最大限に引き出しつつ、ピアソンズのボサノバ、『エル・ディア・アンテス』では何と、興に乗った村治佳織がメロディをハミングするのさえ聴こえてくるではないか。
 人によっては、フランシスコ・タレガが見事な編曲を施した、ショパンのプレリュード『雨だれ』での、弦を弾く位置を目いっぱいコマから遠く離しての、そのやさしく柔らかい音色に涙ぐむこともあろう。

 ギタリスト村治佳織を味わい尽くすことのできる得難き一枚。





2010/12/1

Steve Reich“Double Sextet/2×5”  音楽

 スティーブ・ライヒ“Double Sextet/2×5”(NONESUCH)
 ライヒ新作は2曲収録。相変わらず冴えた音楽だ。

 “Double Sextet”は2007年作品で、フルート、クラリネット、ヴァイオリン、チェロ、ヴィヴラフォン、ピアノの6重奏。演奏はNYの演奏集団eighth blackbird。2009年のピューリッツア賞の音楽部門を受賞している。
 ライヒ自ら「最高作の1つ」と述べるだけあり、聴いた瞬間“ライヒ”とわかる音楽が、連綿と続いていく。
 
 この曲のポイントは、あらかじめ録音された六重奏に合わせて六重奏が演奏する、6×2=12重奏曲ということ。
 永遠に続く音の洪水は、前作で911という未曾有の事態に、音でイメージを与えた苦痛感に満ちたものだったが、ここではそれから数年が立ち、世界はますます悪くなっているようだけど、それでもまだ“ここに在る”というエネルギーにあふれている。
 もちろんライヒの作品はどれもこれも、常にハイエナジーではあるけれど、彼の作品はいつでも合衆国の「今」と結びつけて聴くこと不可欠だろう。

 もう1曲の“2×5”は、2本のエレクトリック・ギター、エレクトリック・ベース、ピアノ、ドラムによる。ライヒとは古い関係ある音楽集団Bang on a Canによる演奏の2008年作品。
 ライヒが「ロック・インストルメント」を目指したと語るもの。これも”Double Sextet”同様に、5人があらかじめ録音した演奏と合奏することで、合計十重奏とするものである。
 ここでのポイントは、一方の五重奏は記譜されたものであるが、もう一方は記譜されていない即興演奏を伴う。こうして「“2×5”は、ロックンロールではないが、クラシック音楽でもないものとなる」(ライヒ)。

 電子楽器を使っていることもあり、“2×5”はより明るい高揚感にあふれている。これは“それでも”世界は在るという“Double Sextet”のイメージに対し、“とりあえず”世界は在るのだからという、楽観的なイメージを提示しているように思われる。
 この2つの中間で、世界=合衆国は動いていくのだろう。ライヒの新譜には、アメリカの「今」が音で表されている。


2010/10/30

マイルス・デイヴィス『ビッチェズ・ブリュー(レガシー・エディション)』  音楽

マイルス・デイヴィス『ビッチエズ・ブリュー(レガシー・エディション)』
 マイルスの数ある名盤の中で、私はこの大作『ビッチェズ・ブリュー』が特に好きだ。
 それはこのアルバムの発表が1970年。メインストリームの音楽の世界では、まずビートルズが解散した。サイモン&ガーファンクルも分裂し、ジャニス・ジョプリンとジミ・ヘンドリックスが立て続けに亡くなったという、そんな年。
 何かが音をたてて終わろうとしている中、マイルスのこれだけが、際立って誇らしげに、何かを始めようとしている強烈な意思の力を感じるからだ。

 このアルバムには、時代の重苦しさや、ジャケットイラストからイメージされる、ドロドロした淀みのようなものはない。
 マイルスのトランペットはどこまでも、黄金色に、高らかに鳴り響く。ジョー・ザヴィヌルやチック・コリアのエレクトリック・ピアノ他、電子楽器が硬質な空気感を作り上げて、クールが誕生している。

 もっとも、ここでは今さら『ビッチェズ・ブリュー』のよさを語るつもりはない。
 今回は、従来の音源に別テイクの曲(既出)と、未発表ライブのDVDがついて、レガシー・エディションとして再発され、そのDVDのすごさに目が眩んだので、そのことを書いておく。

 ここに追加されたのは、1969年11月4日コペンハーゲンでのライブ映像、約70分。
 アルバム『ビッチェズ・ブリュー』のセッションが同年8月19〜21日だから、その音楽の方向性のままに臨んだライブといっていいと思う。
 編成はマイルス以下、ウェイン・ショーター(Sax)、チック・コリア(EP)、デイブ・ホランド(Bass)、ジャック・デジョネット(Drums)の5重奏。

 幕が上がって早々、デジョネットが、釜の火のようなリズムを不気味に刻んでいる。このドラムは、ライブの最後まで休むことなく、炎を上げ続けるだろう。
 そこに余分な汗も、過剰な情熱も、一切感じさせぬチック・コリアが、弾くというより、何かを確認するかのように、少しずつエレピの音を置いていく。そして、せわしなく走り続けるホランドのベース。

 ほどなく無表情のマイルスが、リズムとリズムの微妙な間を縫って音を挿入してくる。
 アルバム『ビッチェズ・ブリュー』でのそれよりも、若干スモーキーな音色だ。
 そのせいか、まるで突っ込んだペニスで、いやというほどヴァギナの中をかき回すように、サウンドを白濁させたマイルスが、たっぷりと真っ白な音を吐き出した後、こめかみを押さえながら、不機嫌そうにステージを去っていく。
 すると後を継いだショーターが、じわりと小刻みに震えるフレーズの火種をまき、残された3人が次から次へと火をくべていく。

 2人の白人は顔色ひとつ変えず黙々と沈着に音を出し、2人の黒人は顔をゆがめ、苦しそうに音を出す。ときどき思い出したように、マイルスがステージに現れ、また何度も突いては去っていく。すごい。
 個人的には、涼しい顔をしながら、途方もない超絶技巧の、目にもとまらぬ超高速で、鍵盤を愛撫する、サイレント・ウェイなチック・コリアのプレイに、目をみはる。
 
 合計7曲。5人に絞った編成で、『ビッチェズ・ブリュー』で描こうとしたものの、“核”だけを取り出したような、すさまじい演奏を目で見ることができる。映像状態も良好。音もよし。とにかく必見・必聴。


2010/10/19

デイヴィッド・フォスター&フレンズ ジャパン・ツアー2010  音楽

デイヴィッド・フォスター&フレンズ 来日公演
於 東京国際フォーラムA

 私個人が考える、最高のメロディメーカー3名は、戦前編でジョージ・ガーシュウィン、コール・ポーター、リチャード・ロジャース。
 戦後編ではバート・バカラック、マーヴィン・ハムリッシュ、デイヴィッド・フォスターだ、というのは当ブログで50回くらいしつこく言ってきたと思う。

 そのデイヴィッド・フォスターが来日公演を行った。音楽美の極致。このステージを聴き逃すわけにはいかない。

 定刻19時を15分ほど遅れて、場内が暗くなり、ステージ左右にあつらえられたスクリーンに、フォスターの過去のヒット曲の断片が流れ出す。
 “Love Theme From St.Elmo’s Fire”に始まって、ホイットニーの“I Have Nothing”に終わる映像が3分ほども続いたろうか、生演奏による“Love Theme From St.Elmo’s Fire”のイントロが鳴り響く。
 そしてご機嫌な様子のデイヴィッド・フォスターが、勢いよく現れ、彼がYAMAHAのピアノに着席するまで、イントロが繰り返される中、疑いようもなくこの人のタッチの演奏で、あの『セント・エルモス・ファイアー〜愛のテーマ』の旋律がきらめくように零れ落ちる。
 至福。光輝くような音色とメロディがあふれる。

こればっかりは本当に、映画も音楽も最高だ。

 そして、大喝采の中、この程度は小手調べとばかりに、最初のシンガーとして登場するのは、ナタリー・コール。熱っぽい1曲目、“Fever”に続き、しょっぱなからのハイライトは、発表当時に話題になった、父ナット・キング・コールとの映像での共演による“Unforgettable”。それをこの東京のステージで再現してくれる。
 超絶技巧のスキャットが見事な、“This Will Be(An Everlasting Love)”では、もはやバック演奏などいらなくて、ベースだけを伴奏に聴かせてしまう。

 続いての登場は、カナディアン・テナーズ。
 4人男声によるヴォーカル・グループだが、さすがの声量で圧倒される。やはり、フォスターが見出しただけに、濁り一つないハーモニーとは、つくづくいいものだなと思う。
 聴き間違いようなく、フォスターの曲だとわかる“The Prayer”。そして、レナード・コーエンの声から一切の苦悩を見事なまでに取り払い、高貴な輝きだけを残した“Hallelujah”に、アルビノーニの「アダージョ」をヴォーカルで。

 会場いっぱいに響き渡るコーラスに圧倒されながら、フォスターも「ぼくがあんなふうに歌えるなら、こんなことやってない」などと冗談を交えつつ、3人目のシンガーは、ルーベン・スタッダード。
 「アメリカン・アイドル」で名を馳せた、これもデイヴィッド・フォスター好みの、声量豊かなボーカリストだ。
 この人の1曲目は、これがうれしい、かつてアル・ジャロウがスウィートに歌った“Moanin’”。
 声量が半端じゃない分、アル・ジャロウの小気味よいボーカルが、耳に焼きついた者にとっては、心持ち重たい気もするが、後半のメロディの崩し方がいい感じで、気持ちよく耳をほぐしてくれる。

 続いていかにも90年代フォスター的な、オール4ワンがかつて歌って、“I Swear”を持ち味の豊かな声を生かして朗々と歌いきった後、ちょっと楽しい余興がある。
 フォスターが「君がまだ生まれていないころ、ぼくはエアプレイというグループを作っていた」(会場喝采)と言いつつ、“Nothing You Can Do About It”のイントロをピアノで弾き始める。
 意外な選曲に驚くが、「よしこれを歌ってみようか」というフォスターに、戸惑い気味のスタッダード。
 と間もなく、「なーんて、この歌はまだ教えてなかったね。今晩教えとくから、明日のステージでは歌うんだぞ。そのかわりにこれだ」
 と始まるのは、名曲“After The Love Is(Has) Gone”。エアプレイのオリジナルを、EW&Fが名作アルバム『黙示録』でとりあげた傑作バラード。言葉もない。

 「この曲とか君が生まれる前だよね」とフォスターが言うと、「ていうか、この曲作ったのいつなの?」とスタッダード。「1978年。」「あ、それはぼくが生まれた年だね」と、見た感じではとても30歳前半とは思えぬスタッダードである。
 そしてこれはサービス。再びナタリー・コールが登場して、ナット・キングの名曲“When I Fall In Love”をしっとりデュエット。

 続くは私にとっての真打ち登場、ピーター・セテラ。80年代シカゴのメインボーカルのこの人の声が、ボズ・スキャッグスと共に、デイヴィッド・フォスターの黄金期を作ったと言っていい。

 最初の3名が、いかにも大きなボーカルを聴かせるのに対して、本当のアメリカン・ポップな雰囲気のピーター・セテラに少しほっとする。いい意味で、力が抜けていて軽い。
 その軽みのままに、“Hard To Say I’m Sorry”。会場が大きく湧く。今もまったく変わらぬタイミングで、叩かれるフォスターのピアノが最高だ。
 長年のつきあいらしい軽口をたたき合いながら、やはりシカゴ時代の名曲、“You’re The Inspiration”。ここで涙が出そうになるが、泣くのはまだ早い。お楽しみはこれからだ。

 ここで、クライマックスに入る前に、意外な曲を聴かせてくれる。
 デイヴィッド・フォスターによる転換前の、シカゴの名バラード、“If You Leave Me Now”を、セテラがいい感じにギターを弾きながら、実にかるうく歌ってくれる。
 改めて聴くと実にいい歌だと思う。フォスターのピアノサポートもいい。

 そうして、オスカーノミネートがどうのという冗談を飛ばしあった後、いよいよ登場、名曲“The Glory Of Love(Theme From Karate KidU)”。
 短縮なし。完璧にフルコーラス歌いきる。自分の中の何かがあふれ出る。


 これで今日はもう終わった、満足だ、と思っていたのだけど、とんでもない奇跡がこの後おこる。
 オフラ・ウィンフリー・ショーで大ブレイクしたと言われるシャリース。
 18歳のフィリピン出身の少女で、正直、今回まったくノーマークだったが、この子の歌を聴いて腰が抜けるほど驚く。
 それまで聴いた、ナタリー・コール以下、4組の歌手のパフォーマンスが完全に頭から消える。それほど衝撃的な歌手だった。

 1曲目にセリーヌ・ディオンの“The Power Of Love”。イントロが始まったときは、「ほう、こんな大層な曲を歌うとは、お手並み拝見である」と偉そうなことを思ったのだったが、サビに至るころには滂沱の涙。セリーヌの100倍すごい。
 畳みかけるように、やはりセリーヌの“To Love You More”。あり得ない。

 実はフォスターのコンサートは、私にとって初めてではない。
 1994年に来日して、そのときも今回のように複数歌手を連れてのステージだったが、ピーボ・ブライソンに加えて、その時はなんとセリーヌ・ディオンが来ていた。
 まだ彼女も、今ほどの超スーパースターではなかったために実現したことだが、その時も彼女はこの2曲を歌っていて、私はそれを聴いている。
 その時もすごい歌手だと思ったのを覚えているが、今回のシャリースの歌唱はそれどころでなく、会場が完全に凍りついたのをまざまざと感じる。


 フォスターもこの絶唱に、「イエス!」と言うのみだ。また、彼女が歌うのを伴奏しながら浮かべる、彼のうれしそうな笑顔が、何とも知れずよかった。
 たくさんの才能ある歌手を発掘してきた人だが、本当にこういう若い才能の登場を喜ぶ人なんだな、ということが強く印象づけられる。

 フォスターも、「彼女はもう立派なスター歌手だけど、今日だけは自分のヒット曲でなく、ありがたいことにぼくの曲を歌ってくれるんだよ」と一言添えつつ、衝撃冷めやらぬままに、続く3曲目は、オリジナルはエリック・カルメンで、セリーヌもカバーした“All By Myself”。
 「大きな曲だよ」とフォスターに言われて歌い始めたこの曲だが、本当に大きな歌唱で表現する。誇張でなくセリーヌ・デイオンを超えている。

 それでもまだクライマックスがやってくる。セリーヌを超えるのだから、ホイットニーなど軽々超える。続いては“I Have Nothing”。
 3重にクライマックスがやってきて、どこで息継ぎをすればよいのやらわからない、この超難曲を、どこまでもとどまるところを知らぬ声量で、クライマックスに次ぐクライマックスを見事に演出する。
 会場はもはや沈黙と言っていい。天才はこんなふうに登場するんだ、とおそらくその場にいた誰もが思った瞬間だと思う。
 メドレー形式で切れ目なく、“Always Love You”に移った頃には、今日のコンサートは、デイヴィッド・フォスター&フレンズでなく、デイヴィッド・フォスター&シャリースになっていた。

 熱狂の上にも熱狂を重ねる拍手の中、「もう1曲?」と促されるまま、今日の最後の曲はこれで、と。
 マイケル・ジャクソン畢生の名曲“Earth Song”。この曲は、作詞・作曲がマイケルだが、プロデュース(共同)とアレンジ、ピアノはフォスターである。
 これをマイケルもかくやという歌唱で、シャリースが歌う。

 そしてセカンド・コーラスは、ナタリー・コールが歌い、続いてルーベン・スタッダードがコーラスに参加し、ほどなくカナディアン・テナーズも入ってくる。最後の大コーラスでは、ピーター・セテラも入ってきて、見事なクライマックスを作るが、そのクライマックスの中、さらにシャリースとナタリーが、交互にアドリブをとって、盛り上がりに輪をかける。

 終わる頃には、会場スタンディング・オベーション。これほど贅沢なステージはない。
 誰一人として不満を持った人間などいないと思われる中、手を振りながら全歌手がステージを去ると、カーテンコールもアンコールもまったくないままに、終演する。

 その点、幕切れの余韻がまったくないのは、いささか寂しい気もしたが、これほど極上の音楽を聴かせてもらって、これ以上何を求めるか。

Incidents超特選↓

2010/8/11

ウィーン・フィル シェーンブルン宮殿野外コンサート2010  音楽

“SUMMER NIGHT CONCERT Schonbrunn 2010”(DG)
 ウィーン・フィル・ハーモニーの毎夏の恒例である、シェーンブルン宮殿の野外コンサート。2010年度版をDVDで鑑賞。目玉は『スター・ウォーズ』だ。

 この野外コンサートは、ときどき面白い工夫を凝らしてくる。
 たとえば、2006年にはドミンゴ、2004年にはボビー・マクファーリンが指揮をした。
 マクファーリンというと、映画の人としては、トム・クルーズが素晴らしすぎる『カクテル』の挿入曲、“Don’t Worry,Be Happy”を歌った、超絶技巧のボーカリストだと言えばわかるだろう。

 そして、今年の2010年は驚くなかれ『スター・ウォーズ』がメイン。これは面白い。
 指揮はフランツ・ウェルザー=メスト。生粋のオーストリア人で、小澤征爾を引き継ぎ、次期ウィーン・シュターツオパーの音楽監督である。
 2011年のニューイヤー・コンサートの指揮者としても既に決定している。ウィーン・フィルの信任篤い新進指揮者だ。

 ライナーによると、実はこのコンサートも、小澤が振る予定だったそうである。そして、コンセプトテーマを「月・惑星・星」とし、『スター・ウォーズ』も小澤の発案だそうだ。
 ところが世界中の誰もが知る病のためそれを断念。そこで、プログラムごとウェルザー=メストに代理を委ねたところ、快諾。なかなかの男である。
 それにしても、このコンサートが開かれたのが、つい先日の6月8日。実に本番から2カ月にも満たない超スピードリリースなのだ。すごい。

 映像の方は、いきなり『スター・ウォーズ』メインタイトルの、あの壮大なファンファーレと共に始まる。
 ウィーンの金管で聴く『スター・ウォーズ』。うむ、ほんの髪の毛一筋ほど重たい。やや疾走感が足りない。ここは超光速でタイトルが宇宙の彼方に飛んでいかねばならないのだ。

 が、弦楽合奏が入ってくるあたりからは、さすがにこれは本物の演奏で、強拍などまったく神経にぶつからず、実に優美にテーマが奏でられる。そしてその優美さは、「レイアのテーマ」で頂点を極める。
 部分的な主題を、極端に強調することのあるサントラでの演奏とは、まったく違った、「作品」としての演奏であって、これが実に新鮮だ。

 続く、「ダース・ベイダーのテーマ」では団員もおおいに遊ぶ。ベース奏者など、ベイダー卿のマスクをかぶっているくらいだ。
 指揮者を含め、何人かの団員はライトセーバーを振りまわし始める。ニューイヤー・コンサートでもしばしば見る通り、ウィーン・フィルのメンバーはなかなか茶目なのだ。

 演奏が始まる頃は、ほぼ完璧な、いわゆる「マジック・アワー」の時間帯。カメラはその貴重な時間を非常に美しくとらえて、どんどん宮殿に集まる人々の姿を追う。
 やがてとっぷり日が暮れるのだが、いったいどうワイアを張って、どう動かしているのか、ものすごい距離の直線を、超スピードで動く上空からのカメラにも、しばしば驚かされる。いったい何台使って、どこから撮っているのか、カメラワークもすごい。
 これほどの演出は、「月・惑星・星」というコンセプトならではか。

 他の曲目は、ほとんど曲芸に近い演奏で、リスト『ピアノ協奏曲第2番』に、ソロで『パガニーニ練習曲』から第2番。ピアノはイエフィム・ブロンフマン。圧巻である。
(彼は、スモークを吹き上げつつ、舞台下からピアノと共に浮かび上がるように、ステージに登場するのだ!)
 シュトラウス『天体の音楽』や、ホルスト『惑星』より「火星」なども。

 このようなコンサート映像を見せられると、ヨーロッパの文化が持つ、ケタ外れの贅沢さを思い知らされる。しかも、この催しは入場料無料だというのだ。優雅である。
 何しろ、宮殿の壮麗さもさることながら、色とりどりの花々で満たされた、シェーンブルンの庭園が美しいことこの上なく、しかもそこを何とも贅沢な照明でライトアップする。典雅なうえにも典雅である。花火さえもあがる。
 CDでのリリースもあるが、やはりここは画とともに鑑賞したい。


2010/8/7

セシル・コルベル『借りぐらしのアリエッティ サウンドトラック』  音楽

 セシル・コルベル『借りぐらしのアリエッティ サウンドトラック』(徳間ジャパン)
 映画におけるケルト風の音楽で、とりあえず思い出してしまうのが、ジェームズ・キャメロンの『タイタニック』なのだが、その認識が正しいのかどうかは、わからない。
 が、ジェームズ・ホーナーによるこの映画の音楽が、非常に美しいのは確かで、ただそれ以上にジェームズ・キャメロンが、タイタニック豪華客船の、アイルランド的な記号をあちこちに散りばめたことは、誰もが見てとることだろう。

 ディカプリオとウィンスレットが、3等客室に迷い込んだとき、そこはアイルランド人たちの集まりで、ディカプリオたちが、アイリッシュ・ダンスを踊るシーンは有名だと思う。
 そして、実際に沈没前のタイタニック号が最後に寄港したのが、アイルランドのクイーンズ・タウン(現コーブ)だった。従って、このアイリッシュ・パーティの乗客たちのほとんどは、ここで乗船したものだろう。

 そして、映画の中でビル・パクストンも語っている通り、実際にタイタニック号は、アイルランドのベルファストの造船所で作られたものだ。
 そして、『タイタニック』の偉大な点の1つが、階級闘争を描いたことでもあり、それをアイリッシュの悲哀に託している。
 だからこそ、あのようなケルト風の、哀切を帯びた旋律が全編を彩ったわけだが、もちろんジェームズ・キャメロンはアイルランド系である。

 そしてもう1つ、『タイタニック』の中のアイリッシュな場面は、今まさに沈みゆく船の寝室で子どもたちが怖がらぬよう、アイルランドの妖精の話しを語って聞かせる母親があって、これも『タイタニック』を見た者は誰もが記憶にとどめる場面の1つだろう。

 アイルランドには妖精が住んでいる。それがアイルランドという国の、最大の売り文句で、ここでアイルランドの妖精伝説を詳述するのは本旨でないので割愛するが、街の旅行代理店のパンフをどれでもいいから手にとれば、たいがいアイルランドを「妖精の国」と表現しているのを、目にすることだろう。

 さて長くなった。そういうわけだから、妖精の国アイルランドと、その周辺を含む地域を発祥とするケルト風の音楽を、やはり妖精が登場する『借り暮らしのアリエッティ』が彩るのは、ある意味必然であったのだ。

 ケルト音楽独特の物哀しさは、ケルト民族が歴史的に土地への定住を望みながらも(決して遊牧の民ではない)、移住を余儀なくされた歴史とも決して無縁ではないかもしれない。そして、そうした来歴は、ますます“借り”で暮らすアリエッティたちを伴奏するのにふさわしくある。

 このサウンドトラックは、フランスのハープ奏者セシル・コルベルによって、作曲・演奏された。ハープとギターと(一部ピアノも)、透明感ある歌が何とも心地よく、目下ハードローテーションで、聴きこんでいる。
 何より、感情の起伏を控えめにして、ミドルテンポで軽快なリズムで進行する、ケルティックな、哀愁感たっぷりの旋律が最後まで続くのがいい。映画のサントラにありがちな、いかにも非旋律的な劇伴用の音楽で、感情を途切らさられることが決してない。
 つまり、サントラとしては稀な、全曲を通して“聴ける”CDなのだ。

 当然、サウンドエフェクトは精緻にかけられていることだろうが、生楽器の音の心地よさを知らしめてくれる演奏である。微かな摩擦感と共に、指先で弦がはじかれ、その振動が音となる。そして多弦楽器ならではの、きらめくグリッサンド。
 目の覚めるような、緑の草むらを駆け抜ける妖精、アリエッティの姿を思い出しつつ、音楽を聴きながらふと目を閉じる。

2010/7/22

高畑勲『赤毛のアン』の音楽  音楽

 私の蔵書の中でも1、2を争う大切な本があって、それが『赤毛のアン ピアノ曲集』(全音楽譜出版社)だ。奥付を見ると、昭和57年9月25日の発行。
 高畑勲『赤毛のアン』の放送が1979年のことだから、その3年後の刊行である。
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写真:『赤毛のアン ピアノ曲集』(全音楽譜出版社)もうすっかりボロボロ。撮影:Incidents

 音楽は、三善晃と毛利蔵人。三善晃はOPとEDを含む4曲を作ったが、多忙のため弟子にあたる毛利蔵人にメインを任せたことは、様々な所で語られている通りかと思う。

 さて、23曲をおさめるこの曲集が貴重なところは、その譜面が三善晃および毛利蔵人自身によるペンであるということだ。
 私の知る限り、この譜面に基づく録音は行われていないが、三善および毛利が『赤毛のアン』本編で聴かせたのとは、また異なるバージョンの音楽を、ここに読むことができる。

 有名な主題曲「きこえるかしら」。
 三善晃作曲によるこのピアノ譜は、原曲におけるフルオケによる前奏と、非常に複雑なリズムを持つ「♪きこえる・かしら/ひづめの・お・と・♪」の後の間奏を見事に切り落とし、ピアノ=つまりビートの効いた撥弦楽器であり、エコーもばっちりかかる音階楽器としての特性を、フルに生かしたアレンジをほどこしている。
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写真:「きこえるかしら」楽譜(部分)。「♪ゆるやかな丘をぬって」のフレーズに入る前のややこしい休符が好きなんだが、そこはカットされてるのがやや残念。撮影:Incidents

 この曲集での「演奏の手引き」において、三善自身がこれを、「3・3・2や2・3・3・などのリズムによる運動性(ムーブメント)を活かすこと。旋律は、大きなプロポジション(欒句のまとまり)で弾き切り、その中でスラーによる分切の奏法(アーティキュレーション)を活かす。」と指示している。

 そして、この歌の「♪迎えにくるの/迎えにくるのね/だれかが/私をつれていくのね♪」のフレーズの、どんどん高揚していく所に向けて、左手は常に上昇音階を保つ。
 この、上昇しかしないという音型。これが、この曲の沸き立つ高揚感の秘密であって、上から下に音階が下がる部分は3か所だけである。
 このように、この譜面はいくら見つめても飽きることがない。

 もちろん、ほぼすべてのBGMを書く毛利蔵人の音楽には言うべき言葉もない。
 かねがね『赤毛のアン』の音楽には、ジョルジュ・ドルリューの面影を重ねてきたが、それもそのはず、「毛利蔵人」の名前はモーリス・ラヴェルとクロード・ドビュッシーからとられている。純フランス音楽を指向する人なのだ。

 私が分けても好きなのは、マシュウが亡くなった後、泣くことさえできなかったアンの涙が、鋭く入って来るフルートの音で、まるでそれがきっかけだったかのように、ついに堰を切ってあふれ出す、哀しみの音楽なのだけど、残念ながらその楽譜はこの曲集に入っていない。
 たぶんあの曲は、ピアノでの表現は不能と踏んだのではないかと思う。

 それとは対極の、喜びに満ちた「ほのぼのとしたアンとマリラの愛情」という、2人がおしゃべりしてる時に(正確にはアンが一方的にしゃべっている時に)よく流れてくる曲に、毛利蔵人のジョルジュ・ドルリュー的…と言うのが不正確なら、ドビュッシーに近い曲調を発見することができる。
 多くの場合、よく響くリコーダーの音色で流れてくるこのメロディは、次に音がどこに飛んでいってしまうのか、予想のつかない面白さに満ちている。
 それはまるで、話題がどこに向かうのやら、検討のつかぬアンのおしゃべりのように。
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写真:「ほのぼのとしたアンとマリラの愛情」楽譜(部分)。腕に覚えのある人は、このフレーズを小学校の時の、ソプラノ・リコーダーで吹いてみてほしい。最高に快感。撮影:Incidents

 この曲を、やはり本書中の「演奏の手引き」によると、毛利蔵人自身の筆で、「誰もが特定の色に対する好みがあるのと同じように、私にはある調性への偏愛があり、それがこのEdurへの執着に顕著です」と。

 Edur。すなわちホ長調。この言葉を読んで、直ちに思い出すのは、ドビュッシー「アラベスク1番」だろう。いかにも『赤毛のアン』にも流れてきそうな曲だ。
 この曲集では、他にホ長調の曲は3つあり、毛利がこの調をいかに愛したかがわかる。

 ホ長調では「希望へ」と題される曲も。これは本編中、いたるところで聴けるが、話し合うアンとダイアナがふと沈黙する時に流れると、これが最も印象的に響くと記憶する。
 このピアノ譜では、アニメ本編中のゆったりと、間を大きく開けたアレンジとは異なり、ピアノの減衰音が消える前に、次の音符を鳴らすよう配慮されており、ここでもやはり楽器特性を生かしたものとなっている。
 このように、音と音との響き合いが、例えようもなく美しくお色直しをしている。
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写真:「希望」楽譜(部分)。3小節目3拍目から始まる主旋律。これを非常に広い音域の左手が支えて、たとえようもなく美しい。テンポ指示はレント・カンタービレ(ゆっくりと歌うように)。ドビュッシーの名曲『レントより遅く』を意識したかどうか・・・。撮影:Incidents

 師・三善晃は現在もご活躍だが、弟子である毛利蔵人は惜しんでも惜しむ切れぬことに、1997年に46歳の若さで急逝している。
 寡作ではあり、作品数は極度に少ないのだが(劇映画としては小栗康平『泥の河』を残すのみ)、もし今も健在で、ジブリ作品で筆をふるっていたらと、惜しまれてならない。
 私見にすぎないが、野見祐二が担当した『耳をすませば』の音楽が、毛利蔵人の感性にもっとも近いように思う。

 なお、高畑勲は『翼は心につけて』(1978 堀川弘通)の主題曲が好きで三善晃に音楽を依頼したということは、しばしば自ら語っているが、この方の音楽センスはやっぱりズバ抜けている。
 それもそのはず、『風の谷のナウシカ』で久石譲を見事にコーディネートした人物なのだから。

 暑く寝苦しい夜、ふと美の結晶のようなこの曲集を広げてみた。


2010/6/12

バーブラ・ストライサンド『ライブ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』  音楽

Barbra Streisand“One Night Onle Live At The Village Vanguard” (COLUMBIA)

 つい昨年、ダイアナ・クラールをプロデュースに迎えたジャズ・ボーカル・アルバム“Love Is The Answer”を出したばかりの、バーブラ・ストライサンド。
 続けてライブ・アルバムがリリースされる。CDにプラスしてDVDもついた必携版。

 2009年9月26日。バーブラが民主党資金集めや、チャリティとはまったく無関係に、ステージを持った。珍しいことである。
 それもヴィレッジ・ヴァンガードという、キャパのきわめて小さいジャズ・クラブで。

 1935年にオープンしたこの伝統あるクラブは、今年75周年を迎える。ここでのライブは、ソニー・ロリンズ『ヴィレッジ・バンガードの夜』や、ビル・エヴァンス『ワルツ・フォー・デビー』といった超名盤を産み、おそらくここのステージに立っていないジャズ・レジェンドは一人もいない。

 私事になるが、私は2000年に1度だけここを訪れたことがある。人がすれ違う幅もない、細く狭い階段を下りたそこに、とても粗末な受付があり、しかし中に入るとジャズの王国が広がっている。
 この気分をこのCD+DVDのライナーが実にクールに、そしていきいきと表現している。執筆したのはジェイ・ランダース。本作のスーパーバイザーを務めた人物だ。

「狭い階段を追いきって、あなたがまず最初に気づくのは、湿っぽい、いささか歓迎しかねる香りだろう。それは75年分の香水、シガレット、そしてハイボールの匂いが混じり合ったものだ。薄暗い照明に次第に目が慣れてくると、今度は部屋全体から音楽のような囁きが聞こえてくるはずだ。ワイングラス同士がぶつかりあう、スタッカートの響き、突然起こる笑い声、椅子をずらす時その脚が床とこすれるひっかき音、すぐ近くの席の客が交わす会話の声また声。時には、足元から地下鉄の振動を感じることもあるだろう」(訳:Incidents)

 まさにこの通り。これこそヴィレッジ・ヴァンガードの空気感である。
 ここにバーブラは、かつて1962年に立ったことがある。今まさに全米を代表する歌手にならんとしていた彼女が、約50年の時を経て、今また同ここの伝統ある場所に立った。

 キャパは限られているので、限定123人。映像を見ると、可能な限り人を詰め込んでいる。おそらくこれほど、窮屈な場で音楽を聴く機会は滅多にあるまい人物が、ビルとヒラリーとチェルシーのクリントン一家、二コール・キッドマン(美人にも程がある、すごい美貌ぶりだ!)、ダナ・キャラン、サラ・ジェシカ・パーカーといった面々に、バーブラに近しい多数の人たち。そしてもちろん、夫ジェームズ・ブローリン。
 この場にいる123人がつまり、現代のアメリカで、まさに言葉通りの意味で“豊かな”人々と言って差し支えないだろう。

 セットリストはおおむね、直近のアルバム“Love Is The Answer”の曲から披露されている。肩の凝らないリラックスした、その優雅な曲の数々を、おしゃべりを交えて、まさにホームパーティでの歌のように披露されていく。
 バックはピアノ、ギター、ベース、ドラムのカルテット。このピアニストがまだ子どものように若いのに、恐るべきセンスとテクニックを見せる。

 やはり圧巻は、映画『スター誕生』から、自作のオスカー受賞曲“Evergreen”だ。
 この曲に入る前に、会場やや後方の座席に座るヒラリー、チェルシーに声をかけ、そしてビル・クリントンを紹介しつつ、こんな感動的なエピソードを語りかける。

「あなたがまだ大統領ではなかった頃、あなたは私の「エバーグリーン」が好きだと言ってくれた。だから私は言ったわね。じゃあ選挙に勝ちましょう。そして大統領就任式でその曲を歌ってあげるわ、と。私は今でもこれほど光栄なことはないと思っている。だって、あなたはその約束を実現させてくれたのだから」
 そして、印象的なハミングから始まるこの名曲。

クリントン大統領就任式での「エバーグリーン」熱唱。これがおそらく、この曲のベストパフォーマンス。
紹介するは、ウォーレン・ビーティとアネット・ベニング夫妻。必見の記録。


 エンディングは“The Way We Were”。しかし映画『追憶』のテーマとである、このバーブラの代表曲の熱唱を、生で聴くというのはいったいどのような体験なのだろうか。
 想像さえできないが、そのイメージを助けてくれるのが、かぶりつきの席でボロ泣きしているサラ・ジェシカ・パーカーの姿だ。こんな絶唱を目の前で聴いてしまったら、涙も止まらなくなるだろう。わかる。

 『セックス・アンド・ザ・シティ』の中で、実は私が個人的に最も好きなのが、第2シーズンの最終第30話のエンディングである。
 ここで、このドラマの4人組が、カフェで映画『追憶』の話で盛り上がる。
 状況としては、サラ・ジェシカ演じる主人公のキャリーが、恋人のビッグと別れて間もなく、その彼がすぐに他の女性と結婚することの愚痴をこぼすところだ。
「なぜそんなにすぐ他の女性と結婚できるのかわからない」とこぼすキャリー。
 キャリアウーマンのミランダは、それに応えていわく
「彼は要するにハベルなのよ!」
 ハベルとは、『追憶』でレッドフォードが演じた役柄である。ロマンチストのシャーロットがすかさず叫ぶ。「私、あの映画大好き!」

 そんな3人の会話を冷ややかに聞いていた、現実派のサマンサが「ハベルって誰よ?」と言い放つ。
 目を丸くして驚く他の3人。
「信じられない。『追憶』を見てない人間なんているの?」
 そのとき、キャリーは言う。
「それでわかった! この世にはケイティみたいな人と、そうでない人がいるのよ。私はケイティなんだわ!」
 もちろんケイティは、『追憶』でバーブラが演じた女性である。
 ここで『追憶』を歌い出す3人。白けるサマンサ。ちょっといい場面なのだ。

 そうした印象的なエピソードを綴った、サラ・ジェシカ・パーカーが涙をこぼしながら、この演奏を聴いているのは、なかなか悪くないものである。
 しかしこの人が、このステージで一番の特等席(夫のジョシュ・ブローリンよりも!)に座っている、ということ、この女優の現在のステイタスの高さがうかがえる。

 この123人の中に入ることなど、永久にできぬ身分の我々ではあるが、貴重な音と映像として、この日の演奏はしっかり残され、家庭の受像機で聴くこと、観ることができる。
 可能な限り大型のテレビで、そしてなるべく大きな音量で、部屋を暗くして視聴したい、究極のセットだ。



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