高山の原生林を守る会の達沢不動滝と原生林コース観察会の資料づくりで、あれこれ調べていて、資料には載せられなかったこぼれ話がいくつかありました。
達沢集落と戊辰戦役の母成峠の戦いに関わるこぼれ話で、このブログで余話(夜話)として、ご紹介いたしましょう。
余話その1
猪苗代町達沢の集落は、江戸時代に、檜原村の雄子沢(おしざわ)より木地師たちが移ってきたことが、村の始まりだそうです。
『新編會津風土記』巻之五十一 陸奥國耶麻郡之三に、
「○木地小屋 ○達澤 本村の東一里二十八町にあり、家数十七軒、東西一町、南北一町、深山の間に住す、享保三年、檜原村雄子澤小屋より爰に移せり、」
という記述があります。
木地小屋とは、山の中で伐採した木を材料に、お椀などの木製の器物(うつわもの)を製作する職能集団である木地師が住む家、または木地師の村のことです。
猪苗代町の達沢集落は、享保三年すなわち1718年、今から約300年前に、北塩原村の雄子沢にて木地師を営んでいた人達が移り住んだ集落ということなのです。
すなわち、ここに住んでいる人々の先祖は、元々は、裏磐梯の雄子沢にいて木地師を営んでおられたのですね。
雄子沢は、現在は、檜原湖畔から雄国沼湿原に通じる登山道があり、ニッコウキスゲの季節には登山道も混み合いますが、あのあたりの何処かに達沢集落の人々の先祖達が住んでいたのですね。
雄子沢登山道は、昨年と今年、ハルモモさんに案内されて雄国沼に行く時に通った懐かしい道ですが、達沢集落と縁があるとは知りませんでした。
余話その2
戊辰戦争の時、母成峠を守備する東軍(奥羽列藩同盟軍)には、元新撰組隊士が陣取っていた。
そうなんです。新撰組で鬼の副長として有名だった土方歳三が元新撰組部隊の隊長として、同じく新撰組で三番隊隊長や撃剣師範を勤めた斎藤一(はじめ)が隊長代理として元新撰組部隊を率いて西軍を迎え撃ったのです。
土方歳三は戊辰戦争の末期、函館の戦いで戦死しました。
斎藤一は戊辰戦争を生き残り、明治10年には警視局の警部補に任ぜられ、西南戦争には、抜刀隊として参加しています。
余話その3
戊辰戦争の時、母成峠を攻めた西軍(薩長土軍)には、後の明治の元勲たちが多く参加していた。
まさにそのとおりで、土佐の板垣退助、谷干城(たにたてき)、薩摩の川村純義 、伊地知正治、大山弥助、川村影明らが参加していました。
板垣退助は、自由民権活動で有名ですよね。自由党の党首であり、後に大隈重信とともに隈板内閣をつくりあげました。(板垣死すとも自由は死せず)の言葉はあまりにも有名です。
谷干城は、西南戦争の時に熊本鎮台司令長官として活躍し、陸軍中将にまでなりました。
川村影明は陸軍元帥、川村純義は海軍大将になっています。
面白いのは、大山弥助で、誰だと思いますか?
実は、陸軍元帥伯爵で、日露戦争の時、満州軍総司令官を務め、奉天の戦いでロシア軍に勝利した、大山巌(おおやまいわお)の若かりし頃の名前なのです。そして、大山巌の奥さんは山川捨松と言い、実は、会津若松出身なのですよ。
明治時代になってから、大山巌は留学のためヨーロッパに渡り、西洋かぶれになって帰って来ました。山川捨松は岩倉使節団に随行して津田うめ(津田塾の創始者)達とアメリカに渡って学んで来ました。
山川捨松は10年くらいアメリカに留学して帰国した、今で言う帰国子女なのです。
そして、山川捨松は、大山巌の2番目の奥さんになったのです。巌は1番目の奥さんとは死別いたしました。
大山巌と山川捨松は出会ってから、趣味も同じものだから相思相愛ラブラブ熱烈ハートになったのですが、結婚までには大きな難関が待っていました。
それは、山川捨松の家族の反対です。
なぜかというと、
戊辰戦争の時、大山弥助(巌)は薩摩軍にいて四斤(ポンド)山砲の砲弾をドガドガと会津若松城に雨霰のように打ち込んでいた砲兵隊長なのです。そして山川捨松は城内に着弾した焼玉の不発弾に濡れた布団をかぶせて炸裂を防ぐ「焼玉押さえ」という危険な作業の手伝いをしていて大けがしているのです。
すなわち、将来の旦那になる人が撃った熱い玉を、将来の奥さんになる人が冷やしていたわけですね。
旦那の火遊びを奥さんが消す話はありそうだけど………???
それはどーでも良いとして、会津からすれば薩摩は不倶戴天の敵ですよね。
だけど巌と捨松のラブラブ熱烈ハートは、山川家のかたくなな心を融かしていきます。
そしてハッピーウエディングを鹿鳴館で挙げました。これはすごい事なんです。今で言えば迎賓館でウエディングするようなもの。当時としては、ビッグウエディングですね。
捨松は、ご主人の大山巌のことをアメリカ流に「イワオ」と呼んでいたそうです。男尊女卑が当然な明治時代では考えられないこと。それを許していた大山巌もすごい太っ腹な人ですね。本当にメタボリックなお腹をしていたらしいですけど。
このような縁もあるのですね。
おもしろいことに大山(山川)捨松の兄に山川健次郎がいます。山川健次郎は知る人ぞ知る教育者で物理学者。東京帝国大学、京都帝国大学、九州帝国大学の総長を務めた人です。
まあ、こんな感じで、観察会の資料を作るのに色々調べていて、いくつかの余話が出てきたので、ご紹介いたしました。
やっぱり歴史って、面白いですねー!!!
最後ですが、観察会の帰りに、達沢森の石窯パンで、焼きたてのパンを買って帰ろう。