まもなく、あの3.11東日本大震災から1年が経過しようとしていますが、こと福島県に限れば、新聞やテレビなどマスコミ報道の震災関連記事は、その多くが原子力災害ばかりで、とうとうこの一年間津波被災地の詳しい被災情報や、警戒区域を除く津波被災地における復旧情報、瓦礫撤去や道路復旧のことなどが分からないままに過ぎてしまった感じです〜。
僕はネットでいろいろな方のブログ記事などを拝読して津波被災のことをある程度は知りましたが、まだまだ分からないことが多すぎます。
と言って、津波被災現場を歩き回るようなことはしたくないし、
僕が直接足を運んだ津波被災現場は、故郷楢葉町の北田字金堂地の父親の生家(甚大な津波被害を受けた。床上2.5mの高さまで津波を被った)や前原〜山田浜と、昨年の4月に親戚の安否を尋ねたり歴史史料レスキューで行ったいわき市の一部の海岸だけです。
同じ楢葉町でも井出浜や波倉海岸の津波被災については親戚の人から伝え聞いた情報しかないのです。
広野町の海岸はどうなってしまったのだろう? 富岡町の毛萱海岸も心配ですが、具体的なことは何一つ分かりません。富岡町の毛萱海岸では、聞くところによると親戚の家も津波に流されてしまったらしいけど、具体的なことが何一つ伝わって来ません。
毎日原子力災害の報道に紙面を割かれ、津波被災や地震被災の詳細な報道はたまに載るだけ、というよりも最近は津波被災の報道はなされていませんね。
だから浜通り出身者や浜通りに縁故関係のある方は、津波被災の情報不足で、心配でいたたまれなかったと思います。
福島県発表の情報によると、住家被害のうち全壊は、相馬市1,001棟、南相馬市5,432棟、広野町不明、楢葉町50棟、大熊町30棟、双葉町78棟、浪江町613棟、新地町439棟、いわき市7,646棟です。これらのほとんどが津波による被害です。浜通りでは15,289棟もの全壊家屋があるのです。上のデータに富岡町は入っていません。不明な広野町や情報のな「富岡町の分を加えると約16,000棟近くの住家が津波で全壊してしまった可能性があります。さらに津波による犠牲者の数も約1,900人を数えます。
この津波被害は、福島県災害史上最大規模です。福島県史を読んでも、浜通りの市町村史を読んでももこのような甚大な津波被害は記録にありません。
おそらく、貞観年間の大津波(869年すなわち貞観11年5月に発生し、『日本三代実録』に記載あり)以来の甚大な津波被害にもかかわらず、原子力災害があるにせよ、その詳細情報が県民に伝わってこないというのは、明らかに異常なことですね。
原子力災害で避難されている人の数、
2010年4月時点での警戒区域内の町村の人口は、楢葉町8,208人、富岡町16,091人、大熊町10,995人、双葉町7,381人、浪江町22,053人、南相馬市小高区12,932人です。それに川内村や葛尾村、計画的避難区域の飯舘村や川俣町山木屋地区の人口を加えると、約89,000人の人が故郷を離れて避難生活を送っておられます。
これも確かに最大の問題ですが、だからといって約16,000棟近くの住家が全壊して約1,900人の方が犠牲となられた甚大な津波被害の情報が県民に伝わらなくともいいという理由にはなりません。
僕も、昨年の母親の葬儀や今週参列した楢葉町の親戚の葬儀で多くの親戚の方の話を聞いたり、今回の東日本大震災等記録保存活用事業で現地の方のお話しを聞いたりすると、津波被害が“予想以上”に甚大だったことが分かりました。
そして親戚筋でも多くの人が家を津波で流されたことが分かったのです。
“予想以上”ということは、それだけ県内の津波被害について情報が得られていなかったということです。
頭の整理がつきませんが、
実は、昨日、東日本大震災等記録保存活用事業の打ち合わせで、いわき市の楢葉町役場の出張所などに行ってきたのですが、昼休みにいわき市の海岸を見てきました。
塩屋埼灯台です。
何と、おみやげ物屋さんが開店営業していました。道を挟んだ向かい側では食堂も営業しています。
話には聞いていましたが、塩屋埼灯台の真下はほとんど津波被害が無かったようです。
おみやげ物屋さんや食堂の営業が再開されたことは、復興への第一歩です。
みだれ髪の碑と塩屋埼灯台。
美空ひばりさんの碑と塩屋埼灯台。
灯台を訪れたのは震災以来初めてです。
塩屋埼から薄磯に通じる道路は通れるようになっていました。
このことも、昨日、現地に行って初めて分かりました。
薄磯地区はかなり甚大な津波被害を受け、海岸沿いの集落は壊滅してしまいました。
震災から11ヶ月を経過して、瓦礫は完全に撤去され、建物はコンクリートの基礎だけが残っていました。
豊間地区も同じように、津波で全壊した家屋は撤去され、コンクリートの基礎だけが残っていました。
避難されている方のこれから、全壊家屋が全て撤去された集落のこれから、全てはこれからですが、問題は山積していると思います。
久ノ浜にも行きました。
久ノ浜も津波による全壊家屋は撤去され、建物の基礎だけが残っていました。
いわき市は警戒区域外なので、瓦礫や全壊家屋の撤去などの作業は進みました。
しかし、まだ震災から11ヶ月しか経過していません。
全てはこれからです。
震災復旧・復興に向けて、原子力災害の問題はかなり困難な問題ですが、甚大な津波被災地の復旧・復興についても同様に困難だと思います。巨大津波に耐えうる堤防を造って集落をその場所に復旧するのか、それとも高台移転するのか、避難者の生活のこと、復興予算のこと、いろいろな問題を洗い出して解決してゆかなければなりませんね。
しかし、津波被害からの復旧・復興に向けての具体的な経過について、僕たちはほとんど情報を得ることはありませんでした。
この間、お葬式に参列した時、親戚の人から聞いたお話し。
3.11のとき、楢葉町波倉を襲った津波は、高台にある波倉稲荷神社拝殿の床下まで来たそうです。
これも、この間初めて聞きました。
平成18年に波倉稲荷神社が鎮座する高台の写真を撮りましたので、それに津波の高さを赤い線で示してみました。
僕が思っていた以上に(というか、倍以上の)高い津波の高さでした。ここは以前に何度も足を運んだので分かりますが、こんな高さの津波が来たのでは、波倉の集落は壊滅的な被害を受けてしまいます。親戚の人に聞いたら、やはり波倉の集落は、建物がほとんど流されてしまったそうです。
もうすぐ大震災から一年。この際周知できる被災情報については正しく周知し、震災被害を正しく理解できるように配慮してほしいです。
原子力災害も地震災害も津波災害も、その情報を等しく周知してほしいですね。
福島県における震災被害の正しい理解、
全てはそれから始まると思います。
福島県における震災被害の正しい周知、
それをまずお願いしたいです。
で、
このことって、
どこにお願いすればいいのでしょうか???
それからして情報不足です。