昨日、僕が担当しています南相馬市の天化沢A遺跡に、カエデさんがいらっしゃいました♪
昨年、僕がカエデさん宅に忘れた物をお届けいただいたのです。
ほんとうにありがとうございました〜♪
その折、とっても大切なことを教えていただきました。
遺跡近くの農道に、東日本大震災の大津波によって運ばれた海砂の堆積が残されていたのです。
カエデさんに教えていただくまで、そのことに気が付きませんでした。
あらためて砂を観察いたしますと、正真正銘の海砂なのです。
現場は、南相馬市北泉海岸から1km近く内陸に入った場所なのですが、
カエデさんのお話では、あの日は現場まで津波が押し寄せたそうです。震災の翌日カエデさんがご覧になられたのは、現場近くの水田が海水に浸されていた光景だったそうです。
僕が思っていたより、津波は奥地に押し寄せていたのですね。
あらためて、津波の脅威を感じました。
それで、昨日教えていただきました津波砂層を観察しましたら、先月、宮城県山元町の熊ノ作遺跡で確認された平安時代の貞観年間大津波によりもたらされた海砂層と推定されている砂層に似ていると思いました。
そのことについて、ブログアップいたします。
南相馬市北泉の天化沢から海岸方面を眺めました。
東北電力原町火力発電所の煙突が見えます。
この場所で、海岸線から1km弱です。
この丘陵が、天化沢A遺跡です。
遺跡の東側の谷地田に沿った農道で、昨日、カエデさんに震災津波の砂層を教えていただきました。
これが、その、震災津波によって北泉海岸から運ばれてきた海砂です。
比較的薄く堆積していました。
ここまで津波によって海砂が運ばれて来たのですね。
砂粒を観察しても、細かくて、正真正銘の海砂です。
ここまで、津波は押し寄せて来ました。
ほんとうに恐ろしいくらいの津波の遡上距離です。
震災翌日は、目の前の水田あたりは、青々とした湖みたいだったそうです。
このような、谷地田の畔にも、
このように、津波によってもたらされた海砂が残っていました。
この海砂を観察していまして、その海砂の特徴が、先月、東北歴史博物館のIさんのご招待で拝見しました、宮城県山元町熊ノ作遺跡から検出された、平安時代の貞観年間大津波によるものと推定されている砂層に似ているな〜と思いました。
先月、山元町の熊ノ作遺跡に行く前に、海岸に行ってみました。
これが、山元町立中浜小学校の校舎です。
あの震災津波の時、屋上に避難した皆様が救出され、今後、震災津波の遺産として遺されるそうです。
ここが、熊ノ作遺跡で、平安時代の役所跡と推定されています。
遺跡の詳細は省きますね。
海岸からは1kmぐらいの距離で、今回の震災でも、遺跡の南端部まで津波が押し寄せたそうです。
遺跡の基本土層には、砂層があります。写真の白っぽい砂層がそうでして、これが、平安時代の貞観年間大津波の海砂層と推定されています。
平安時代の溝跡を埋めた海砂層。
平安時代の溝が、貞観年間大津波による砂層で埋没したと推定されています。
砂層に斜交葉理(cross‐lamination)、いわゆるクロスラミナが観察されます。
この間の現地検討会では、専門家の方から、この砂層が海砂層かどうか疑問が提示されました。
これが、遺跡にのこる砂層のクローズアップです。
このときは、なんとなく海砂に似ているな〜と思っただけでしたが、専門家の指摘で結論は先送りでした。
しかし、
昨日、天化沢に残る東日本大震災大津波によって運ばれた海砂層を観察して、
「似ているな〜!!!」と、直感で思いました。
やはり、津波は、海岸の海砂を内陸まで運ぶのですね。
そのことが確かめられました。
したがって、山元町熊ノ作遺跡に残る平安時代の砂層は、貞観年間大津波によってもたらされた砂層でいいのではないかしら、
そう思いました。
まだまだ検証は必要でしょうが、その可能性の大きさを感じました。
昨日、考えるヒントをいただきましたカエデさん、ありがとうございます♪
追伸です
今日、カエデさんが、ご自身のブログに、僕が今回記事にしました南相馬市北泉の天化沢地区における東日本大震災津波直後の津波被害の記録写真をアップなされました。
震災から3年近くを経過しました現在の風景からは信じられないような光景です。
以下のアドレスをクリックなされてご覧くださいませ。
http://sky.ap.teacup.com/warou/944.html
あれだけの高さに津波が押し寄せ、津波の泥と瓦礫にまみれた天化沢A遺跡東側の谷地田も、今は薄く堆積する海砂が残るばかりとなりました。