今日は、あの震災から5年目の、追悼の日です。
午後2時26分には、職場で、全員、黙祷を捧げました。
栃木県や山形県に行きますと、テレビもラジオも、東日本大震災関連の情報は、ほとんど流れていません。
福島県に入って、カーラジオを「ラジオ福島」にチェンジすると、やはり、震災と原発事故の放射能被害が続いている現実に戻ります。
忘れてはいけないと思います。
今日は、震災前から震災後にかけて、楢葉町の天神岬公園から眺めた風景をたどっていきたいと思います。
この写真は、平成19年6月16日に天神岬公園から撮影した、楢葉町前原から山田浜にかけての風景です。
写真をクリックなされ980ピクセルの拡大画像をご覧いただきますと、お分かりになると思いますが、海岸に沿った、タブという照葉樹の林が、とっても美しいです。
楢葉町海岸のタブ林は、僕たちの誇りでした。
僕は、この風景が大好きでした。
こちらの写真は、平成21年5月26日に撮影いたしました。
カエデさんや福島民友の871さんと、浜通りの照葉樹林を観察した折の風景です。
このとき、浜街道の建設でタブ林が一部破壊される心配があるというお話をしたのを覚えています。
しかし、平成23年3月11日の大津波は、
もう、それどころではなく、
このとおり、海岸集落とタブ林を、ことごとく破壊してしまいました。
この写真は、平成23年4月9日、楢葉町が警戒区域に指定される前に撮影いたしました。
津波が襲った直後、東電福島第一原発の原子炉建屋が爆発して、半径20キロ圏内に避難指示が出されたので、復旧どころではなかったのです。
この後、一年にわたって楢葉町は警戒区域に指定されて、許可なく立ち入りすることが不可能となりました。
この写真は、平成24年9月1日に撮影しました。
警戒区域が解除されて、すぐに楢葉に帰って、天神岬から眺めた風景です。
津波で家屋が流された場所には夏草が茂っています。
しかし、津波が堤防を破壊した跡は、そのままです。
そして、
昨年、すなわち、平成27年9月23日に、彼岸のお墓参りに行った折に撮影した風景です。
復興工事が始まっていました。
楢葉町の海岸に、照葉樹のタブ林が繁茂したのは、今から約7300年前の縄文時代早期末葉〜前期初頭の頃と推定されます。海水準の上昇と完新世気候最温暖期で、照葉樹林が福島県の浜通りを北上しながら、その植生分布を拡大しました。楢葉町海岸のタブ林は、その時代の歴史遺産でもあるのです。
約7000年の長い歴史のなか、おそらく、何度も今回のような大津波が襲ったと思います。
縄文時代後期、弥生時代、そして貞観地震の大津波、慶長地震の大津波、、
少なくとも4回は大津波に襲われたと思います。
しかし、タブ林は、その大津波の被害を乗り越えて、そのつど、見事、復興してきました。
そして、震災前の写真にあるような美林となって、今に歴史を伝えてきたのです。
今回の東日本大震災大津波も、タブ林にすれば、歴史の1コマなのかもしれません。
おそらく、百年過ぎたあたりでは、美林が復興すると思います。
双葉郡の海岸の自然も人々の生活も、今までの歴史では復興してきましたが、、
しかし、
今回は、
今まで海岸の自然と共生してきた人々の生活は、原発事故によって、過去の歴史のようなわけにはいかなくなりました。
このような重い事実を直視しながら、過去の歴史と今後の見通しを考えなければなりません。
津波被害だけだったら、
将来的には、過去の歴史が示すように、美しい自然と人々の生活が戻ると思います。
しかし、原子力災害は、わけが違います。
原子力災害は、未来の歴史を断ち切る、恐ろしい災害なのです。
原子力発電所は、その周辺に住む人々の未来を断ち切る恐ろしい凶器となりうる危険性を併せ持っています。
今回の原発事故を、広島と長崎の原爆と同じように、歴史的事実として、きちんと将来に伝え、再び同じような悲劇が起きないようにする義務が課せられていると思います。
そのためにも、震災・原子力災害アーカイブズの保存と活用を目的とした組織と施設を、国の責任で、福島の地に立ち上げなければならないと思います。
以上、震災の日にあたり、思いを述べさせていただきました。