かなり古い写真ですみません。
18年前に鹿児島市に行った時、朝、目が覚めて、宿の近くの鹿児島中央駅まで散歩して、輝く朝日をバックに「若き薩摩の群像」のシルエットを撮影できました。
今朝、古い写真を整理していて見つけたので、載せてみました。
ちょうど今、大河ドラマ「西郷どん」をやっているのでタイムリーかなと思ったのです。
幕末にイギリスに密出国して留学した、若き薩摩藩士たちの群像です。
彼らの多くが、新しい日本の発展に貢献したということで、昭和57年に彫刻家の中村晋也氏が製作した群像を鹿児島中央駅前に設置しました。
朝日を浴びて立つ彼らの姿から、何となく、日本の夜明けを感じました。しかし、まったくの青空だったわけではなく、維新後も、西南戦争をはじめとする苦難の雲が次々と湧きました。
この日の朝は雨上がりで雲が流れており、彼らを待ち受ける夜明けと風雲の宿命にふさわしい風景かなと思ってシャッターを切りました。
いかがでしょうか?
ちなみに、前日の夕方には桜島が大爆発し、僕も火山灰を浴びました。
薩摩藩って、なかなか激しい土地柄ですね〜
鶴丸城です。
鹿児島城とも言いますが、地元では鶴丸城の呼び名が一般的です。
島津の殿様の居城です。
天守閣はありません。
薩摩では「城をもって城とせず、人をもって城となす」という方針があります。
外城制度と言って、藩内の要所にいくつもの外城を配置し、そこに「一所持」や「一所持格」といった島津家譜代の家臣を配置して、島津領の警備にあてました。
当時は徳川幕府の一国一城令があり、出城は公然と「城」とは言えません。外城を「麓」と呼び変えていました。
島津氏の居城に天守閣など建てなくとも、薩摩藩では、面的な防衛体制が整えられていました。
ちなみに島津氏おひざ元の鹿児島に勤番する武士は「城下士」と呼ばれていました。鶴丸城下に住む武士という意味だと思います。
武士の多い薩摩藩の土地柄は、尚武の精神にも表れています。東郷重位の創出した薩摩示現流は藩のお留流ですが、ほかに、薬丸示現流など、多くの剣術の流派があります。
示現流は、蜻蛉の構えといった独特の構えから、猿叫しながら走って立木撃ちを行う、独特の稽古で知られています。
手強い実戦剣術なのです。
薩摩藩は、奄美や琉球を支配して、琉球を拠点に中国との貿易を行い、国力を蓄えてきました。もちろん、幕府に知られたくないことも多くありました。
なので、薩摩領内への入国は厳しく制限され、外城衆と言われた武士団に密かに殺された公儀隠密や目付も多くいたことと思われます。
その財力と武力が、やがて明治維新そして戊辰戦争に使われることになったのですね。
是非の評価は別として、薩摩藩の組織と武士たちの尚武精神はすごいと思います。
鶴丸城の背後に聳える城山から眺めた桜島。
噴火しています。
西郷どん(せごどん)も、この景色を眺めたのでしょうね。
城山に、天璋院篤姫様のご尊顔に似た猫がいたので、撮影しました。
篤姫様と名付けました。