写真をクリックしますと拡大画像がご覧いただけます。以下同じ。
福島市に3週間滞在していたある日、大森地区の近世墓群を観察することができました。上の写真がそうですが、背景に大森城跡を見ることができます。
この近世墓群は、墓が整然と並べてあり、墓石をコンクリートでつなぎ合わせて修復した痕跡も見られることから、昭和時代以降に整理されたものと推定されます。
この中に廟墓(びょうぼ)と呼ばれるタイプの墓石があり、仏教考古学的にも貴重な資料と思いました。
一般の近世墓については、いままで、文化財資料としては、あまり認知されていませんでしたが、近年になり研究が進んでいます。平成27年に立正大学の池上悟先生たちが立正大学博物館にて『近世の墓石と墓誌を探る』という展示解説資料を出版され、分かりやすく解説されています。今回も池上先生たちの業績を参考にさせていただきました。
さて、上の写真ですが5基並ぶ墓石の左端から順に紹介しますと、左端が舟形仏像(地蔵菩薩)、次が、上端が唐破風様の彫り窪み区画を施した墓標、そしてその右が廟墓(びょうぼ)です。その右が尖頂舟形墓標、右端が自然石に彫り窪み区画を施した墓標です。
こちらが廟墓(びょうぼ)の拡大写真です。
廟墓とは、中世末期から近世前期にかけて、他の墓標に先だって大名から有力町人層・庶民層までに造立された立体的な墓石(池上悟・池田奈緒子 平成27年『近世の墓石と墓誌を探る』立正大学博物館)です。造りは、屋根・本体・基礎の部材を重ねた屋根構造をなしています。
写真の廟墓は宝形造の屋根の前面に唐破風様の向拝を模した造り出しが認められます。向拝の前面には家紋が浮彫されています。屋根の上には、擬宝珠を模した石が重ねられています。本体は中空で、前面に区画を彫り窪め、「大森」の文字が彫られています。本体側面には年号などが彫り刻まれています。基礎は、ほぼ正方形の台石となっています。
最近になって近世墓石も観察して歩くのですが、廟墓との出会いは初めてです。
福島県内では例数が少ないのではないでしょうか。
廟墓屋根正面の唐破風様向拝造り出しの拡大写真です。
家紋は「丸に渡辺星」です。
もしかしたら渡辺さんという方のお墓でしょうか。
江戸時代で苗字を名乗れたのでは、庄屋様クラスの方のお墓かもしれませんね。
さらに、本体に大きく刻まれた「大森」の意味するところも知りたいですね。
本体側面には、年号が刻まれていました。
「享保十乙巳」とまでは何とか読めました。
享保十年ですと1725年。徳川吉宗の時代です。
暴れん坊将軍の時代の廟墓です。
型式的には、池上悟先生の分類によりますと、北関東型に似ています。18世紀前半、江戸時代中期前半の廟墓ですので、廟墓としては新しいタイプかもしれませんね。
とにかく、福島市内さらに福島県内でも例数が少ない、貴重な仏教考古学資料と言うことができます。
こちらは、尖頂舟形墓標です。
自然石を原材料として用い、正面のみ平滑に斫りしています。
墓石の上端を舳先状に尖らせ、正面には二つの尖頂形塔婆区画を並列して彫り窪め、文字を刻んでいます。
基礎部に蓮華文的な植物の図柄を浮彫しています。
苔むしていて、文字はよく読めませんでした。
周囲の田圃は稲刈りが終わり、稲束を棒杭にかけていました。
コンバインが進んだ現在では、あまり見られない、貴重な光景です。
今回、改めて江戸時代のお墓の大切さを感じました。
今回紹介しました福島市大森地区の近世墓は、かなり貴重な資料です。
正式にご親族様のご了解のもとに、福島市教育委員会などで調査する必要があるのかなと思いました。
近世墓は、地元の方々のご先祖の墓であると同時に、大切な歴史資料であり、考古学資料であり、文化財でもあるのです。
僕自身はまだお墓には入りたくありませんが、これからは、近世墓についても観察していきたいと思いました。