3月29日に
母の告別式が
会津坂下町にある
葬儀会場で行われました。
雪が舞い散る肌寒い日でありましたが、
霊柩車が家を出発するときや
火葬場に向かうときなどは、不思議と雪も止みました。
会場はぎっしり埋まるほど
会葬者が参列し、盛大に
告別式が執り行われました。
約250人ぐらいの
参列者があったかと思います。当日参列できなかった方々も含めると、
450人以上の方々から
香典を賜りました。
ブログ仲間の方々からも、お悔やみのことばをたくさん頂きました。この場を借りて、改めて厚く御礼を申し上げます。
筆者は
喪主なので、
写真を撮っている時間はありませんでした。告別式の写真は、会場の担当者が撮っていただけです。筆者が撮影したのは、大半が
家で撮影したものだけで、アップできるようなものはあまりありません。誰かに
カメラを渡して、
撮影をお願いしておけばよかったと思いました。
会葬者の中には、
母がどのようにして亡くなったのか分からない方も多いと思います。そのために、
喪主といたしましても、
会葬御礼だけでなく
母の入院に至った経緯、容態の経過を十分に説明しました。次は、
告別式で
挨拶した内容です。当然ながら、筆者のこだわりである
「LIVE(ライブ:原稿読みなし)」で、延々と?
挨拶をさせていただきました。
<親族代表謝辞(喪主挨拶)>
本日は、公私共にご多忙のところ、また、おみ足の悪い中、母××子の告別式にご参列頂きまして、誠にありがとうございます。また、ご丁重なるお見舞い・ご香典を賜り、重ねて御礼を申し上げる次第でございます。私もいろんな場所で挨拶をする機会はたくさんありますが、喪主の挨拶だけは、ずっとやりたくないと思ってきました。しかし、定めというか、その日がやってきてしまったというのが、今の偽らざる心境であります。
母は、数年前から認知症を患い、デイサービスに通うなどリハビリに努めて参りましたが、昨年7月29日に脳梗塞を併発し、入院生活を余儀なくされました。自分で食事を摂ることができなくなり、流動食の生活となり、さらにはお腹に穴をあけて胃袋に直接栄養を送る「胃ろう」という処置をとって参りました。8ヶ月にわたる入院生活の間、懸命な治療と看病を尽くして参りましたが、家族の願いもかなわず3月26日に永遠の眠りについてしまいました。
母は、食べ物において特に好き嫌いがなく、何でも「うまいうまいなあ」と食べていました。いつも女房は料理の作り甲斐があると喜んでいました。腹に栄養を補給するだけで、それが美味(うま)いも不味(まず)いも分からず入院生活をしている母が不憫で、気の毒な思いで見ていました。病院生活でも家族の一員として生きているんだという思いはありましたが、一回でいいから家に戻って、我々家族と一緒に美味しいものを食べさせてあげたい、生活をともにしたいという願いはかないませんでした。
母は生来穏やかな性格でありました。認知症と言えども、暴言を吐いたり、物を投げたりすることは一切ありませんでした。また、徘徊癖もなく、回りに迷惑を掛けることもほとんどありませんでした。私なんか息子ですから、照れくさいこともありまして、優しい言葉を掛けてやることもなく、「何おんなじこと言ってんだべ」などと大声を出していましたが、母は怒りもせず終始穏やかにしていました。今では、そのようなお袋とのやり取りが懐かしいものとなっています。
また、母は、「××さ〜」「××姉〜」と回りから親しまれ、近所のばあちゃんたちとのお茶のみが、唯一の楽しみでもありました。お茶のみ仲間のばあちゃんたちが、お茶のみができなくなってしまったと涙を流して悔しがっている姿を見ると、母の死は残念でなりません。先ほどのスライドにもありましたが、5年前夫婦で行ったヨーロッパ旅行など、いくら語ってもお袋の思い出話は尽きません。これらを全部話していたら、私の挨拶は終わりません。
最後に、故人に賜りましたご厚情に深く感謝を申し上げ、残された家族にも変わらぬ御交誼を賜りますよう重ねてお願いを申し上げ、親族を代表しての御礼のご挨拶とさせて頂きます。本日は誠にありがとうございました。
【追記】4月2日
葬儀会場の担当者が撮影した写真をデジカメで写してみた。
会葬者で満杯になった会場に入るご導師様。格式高い
「緋の衣(ひのころも)」を身に纏っての読経とはありがたい。
世話になったばあちゃんに「お別れの言葉」を述べる娘
沈痛な中にも落ち着いて挨拶をするエンピロと親族
火葬場に向かう
霊柩車。もちろん霊柩車に乗ったのは初めてのこと。ナンバーは
「・983」(おくやみ)であった。
我が家に帰ってきた母の遺骨と遺影の前で焼香する親族。

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