2018/9/10

楽しさという呪縛  ふと思いついた事。

◆ラジオを聴いていると「子供の教育について」の類の相談がよくあります。

楽しさと言う呪縛、束縛を利用すべきです。


一度でも楽しくて仕方がない経験をすると、再現するためにやり続ける。

ゲーム反対派は視野が狭くなぜゲームがそこまでハマるのかを全くを考えていません。

優秀な人間達が「いかに飽きさせずに続けさせるか」をプログラムした欲求装置の宝庫です。



◆学校の勉強→他人の点数と比較してしまう対人戦、という着眼点を持った方がいいです。

オンライン対人戦で一方的にぼこぼこにされたら、現実として受け止められないのでリセットボタンを押した経験はありませんか。

勉強は苦痛を我慢して続けるのではなく、自ら楽しくなるように設計する必要があります。



◆自分語り。


僕はお前は勉強できないだから人から教えてもらえ的な教育を受けて、勉強に関しては受け身でした。

残念なことに出会ってきた教育側は「苦痛を耐える」志向で個人的問題点は

・苦痛の上限を超えると一気にやる気がなくなる

・成果がでないと一気にやる気がなくなる

というようなやる気をくじく仕掛けがありこれは結構頻繁に経験します。


◆いつの日か「自分のため」ではなく「教育者のため」になります。

「教育者を満足させるため」に勉強します。苦痛を耐えた先は自分ではなく教育者です。

なので僕は「教育者」というのは害悪な存在だと考えています。


◆勉強をする本人が本人の教育者ではなければならないと考えています。

自分が設計した勉強方法の有能さを証明するために頑張るんですよね。もし設計に欠点があれど結果成長につながる。

「自らの人生の責任は最終的に自分しか不可能」という社会の事実を教える一方で「その分自由を享受できる」ことも知らせるべき。

この国での子供の権利条約と未成年に対する法の縛りを理解するまで、またなぜそれが必要なのか教えるべき。 

法に縛られるがその分、法に守られているんですよね。意識して能動側になってほしい。

他人の責任にできないが自分の意思を尊重できる。

これを中学生までには獲得したかったです。



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