2021/4/28

難しい、の向き合い方を変えなければならないと思った  1日まとめ記事


ゲームでもそう、というか僕の場合ゲームが発祥ですが。難しいの向き合い方について。

難易度が高いミッションをこなす=すごいこと。

これは間違いなく。

なので「自分ではできるかどうかわからないこと」に挑戦することに美徳を感じる。



だけど、それは自分には合ってないな、と今更。

といか人間に合ってないな、と。

再現性がないんですよね。「たまたまクリアした」みたいな。


「自分にとって難しいまま挑戦する」じゃなくて「難易度を下げる取り組み」をしないといけない。



システム構築。難しい事柄に挑戦するのは良いんですが、難しさは「ハードルを下げる」指標。

難しいまま挑戦するんじゃなくて、いかにイージーにするかシステム構築してから挑戦する。


難しい=
・成功の再現性がない
・成功した理由が「運が良かった」が大半
・本人の気力等のブレが大きいパラメータに依存。少しでも削られていると集中力が持たない。


難しいことに挑戦!
<今まで>
そのまま挑戦

<これから>
現段階で取り組み(システム構築)によりどれだけ難度を下げられるか検証。
結果やるかやらないかを判断。
どうしてもやらなければならない時は「その中でもイージーな部分の成功」を最低限の目標として挑戦する。




「難しい」って「挑戦するな!」ていう警告。

難しいことに挑戦!と決めた時は難しいけど、いざ挑戦する際は何度は下がっていてイージーの可能性すらある。


難しいの楽しみ方。

そのまま挑戦して何度も挑戦してクリア!ていうのが定番だったけど。

結局これも「何度も挑戦して経験を重ねて難度を下げる」作業をしているだけ。

なのにあたかも「難しい難度の状態のままクリアした!」と思い込む。

自分の中で「難度を下げている」ことに気付いていない。自分の中でゲーム難度を「イージー」に選択しているのと変わりない。

「自分の中での難度を下げる」作業が好きなんですよね。「難しい難度をクリア」じゃなくて。


クリアできた時点で、少なくとも法則性を見つけた時点で難易度は「難しい」ではない。

「難しいをクリアした!」じゃなくて「難しいから簡単にするシステムを構築できた」。








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2021/4/26

映画 メランコリック 感想  映画(見たもの、見たいもの)



監督は田中征爾。

ネタバレ全開感想。



この手の映画、というか映画全般ですが予防線というか思考が極端に偏らないような心構えが必要です。

映画はそれが素晴らしさの一つなのは間違い無いけど、人によっては過剰に人生の価値観に侵入を許してしまいます。

フィクションであり人がつくった作品、全ての人間の行動原理は作られたものでありその哲学も作り物。

だから現実では「絶対最悪」なことも「超幸せ」という方向性に持っていける。



この予防線を本作品に当てはまると、、、とか書いてると否定しているかのようなのでまず感想。

面白かったです。心抉られ作品、見てらんない!停止ボタン押したい!と思った作品はそれだけで良作。

それだけ自分の思考の深度まで侵入している証ですし。

めちゃくちゃ優しい映画だな、とも思いました。

気まずさとか馬鹿にされたり見下されたりとか、そういうところは見せないようにしてくれてる。

どキツい内容、人殺しとか倫理観の暴力性は高いけども、それを考慮し見てる人が傷つかないように配慮してくれてる。




で、序盤に書いた理屈の続き。

「毒になるな」と思ったのは周りから「そんな厳しいことやめろよ、もっと肩の力抜いて生きろよ」とアドバイスされながらもどうにかして自分の殻を破ろうともがき苦しんでいる人にとっては「ああなんかがばんらなくていいや」と踏ん張りをポキッと折ってしまう恐れがあるな、て。


人が人を説得する時、その人の言葉だけではなくて第三者の意見の方を重要視するってことありますよね。

自分の言い分を重要視して折れなかったけど、第三者も反対意見なら「ああ自分は確かにおかしいのかな」と侵入を許してしまう。

映画は「第三者」の立場になり得るんですね。

母がいつも口煩く言ってたことが映画で同じようなセリフとかメッセーがあったら「母の言うことは正しかったんだな」と受け入れるようになったり。



だけどフィクションですし、そんな簡単に受け入れて言いわけ!?という反発が僕の中にあるんですよね。

この作品が悪い!というわけじゃないです。

この作品をみて前から思っていたことをただ書いているだけです。



この映画を見終わって僕が思ったのは「ああなんか幸せは意外と足元に落ちてるんだな」とか「無理に頑張ろうとせず周りの人にやさしくしよう」とか、「金持ちにならなくても幸せになれるよ」とかとか、そういう「柔軟な幸せな多様性を自分に当てはめる」ことでした。


でも、残念ながら僕の人生には合わないんですよね。

足元の幸せなんて「足元の幸せ」なだけですし、つまりいつでも拾えるものですし、無理に頑張らないと成長することができない能力の低さが僕ですし。

「そのままの君で良いんだよ」みたいな、人類補完計画のような取り込まれる感覚があるんですよね。

そっちの方が楽ですもん。そっちの方が幸せで楽しく生きていけますもん。


でも、それは僕じゃないんですよね。自分を痛めつけながら、周りの他人も傷つけながらじゃないと生きていけない。

「なんでそんな自分に厳しいの?」とか疑問に思われることあるけれど。


映画作品を利用した自分語りですね。でもこの記事を書く動機になっただけでもありがとうメランコリック。


疑問に思われるけど、そういう生き方しかできないんですよね。残念ながら。
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2021/4/26

勉強で大切なのは「支配=コントロール範囲を上げる」こと  1日まとめ記事



以前にも書いたと思いますが。

記憶できないのでこの記事以外にも同じようなことばかり書いている気がしますが。

でもそれでもいいんですよね。同じようなことでも日々少しずつは変わっているだろうしアップデートされるし。

もし全く一緒でも「あの頃と考え変わってないな」で一つの意味を為しますし。



勉強の際、例えば「特定の場所で」「特定の時間で」しか勉強ができない、学習塾とかですが、その時点で大きなハンデを抱えている。

どこでも、時間を選ばず勉強できるほうが良いに決まっている。

「技術力」って未だによくわからずかなり曖昧な表現に思えます。

この言葉よりも「支配力」「コントロール範囲」の方がクオリティを上げる要素としては具体的で効果がある。




いかに「短時間で」「自分にとってわかりやすい」システムの構築。

数学で言うと「わからなかったら答えを見ずにまずは考える」っておそわてきましたがこれは「支配力」からみるとやってはいけないこと。

答えがわからない時そのまま考えるってその問題に支配されていることになる。

支配力は「問題」ではなくて「自分が問題を支配する」ことなのでわからなかったらすぐ答え見て理解すればいい。


というか、いちいち支配力なんて使わなくても「わからないことがあればすぐ調べる」がデフォルトでこれをしないと社会についていけないのに「すぐわかることをあえて調べず考える」って勉強というより「趣味」なんですよね。




技術力、勉強の場合は他人と同じ勉強法をしても自分の方が成績がいい、みたいな個人の能力に大きく左右されるパラメータ。

これよりもコントロール範囲を上げるシステム構築の方が底上げできるのでこっちの方がいいんですよね。

モチベーションが違う。

暗闇の中色を塗るより、高演色LEDを複数設置しキャンパスに影を作らず塗る方が綺麗にぬれる、みたいな。

「暗闇の中でこんな綺麗な色を塗れるなんて!」は一つの付加価値ですし技術力に分類されますが。

でも「完成した絵」単体のクオリティ評価は制作環境と関係ないんですよね。



テストで80点だとしても「極貧」と「富豪」で点数変わらないですし。


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2021/4/25

僕は自発性好奇心がカス  1日まとめ記事



最近アニメを全く見なくなりました。

久しぶりに「あきまん」さんのツイキャスを見て、バックに流れるアニメ音声とあきまんさんの感想を耳にして。

アニメを見たくなりました。



結局そうなんですよね。

「他人に影響されるやつwwwwwばかwwww」とか煽っときながら。実際はそんな煽りしてませんが。

僕自身の好奇心は「自発性」はなくて「他人が楽しくしているもの」に興味を示す。



なんか空っぽな気がしてきました。

誰かが看板を立てて「これ面白いよ!」と教えてくれないと好奇心がわかない。

無の状態からわかない。自発性がない。



自信がないので、自分で見つけたものでも「いや、これ面白いって思う自分はおかしいのでは?」と疑う。

「自分だけ」の恐怖が沈殿してるんですよね。

自分だけが面白かったらそれでいいのに、自分以外の人がそうでなかったら不安になる。

誤った社会性の学習。

同一性を重視してしまいマイノリティを嫌う。


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2021/4/25

無力感から脱出するために自傷癖になる  1日まとめ記事


寝る前に少し考えていて。

未だ無力感に覆われてどうにか払拭したいと考えている。

この無力感は「努力よりも運で得たものの方が大きい」という経験をしたからだな、と。

そう感じたのは10歳前後で当時は「そういうものなんだな」というなんとなくの言語感で飲み込んでいた。




自分が努力して掴んだものよりも、他人から与えられたものの方が大きい。

他人から与えられたもの=運要素。


こどもの頃この考えにたどり着いてしまった。

こどもなんていくら努力しても自身で得られるものなんて限られている。

悪い書き方だけど、だからこそ大人は少しの努力、おやつにハーゲンダッツをあげるだけで子供から尊敬される対象となる。



この無力感から脱するために頑張るけど、自分は優秀じゃないので他人から与えられたものを超えられない。

不良行為、物を壊したり落書きしたり迷惑をかけたりするのはこの無力感から脱出するための一つの道なんだな、と。

そうすることで「自分だけの形」を生成ができるから。ベクトルが違えど自分の力を他人に見せつけることができるから。



感覚的に「他人から与えられたワインより自分の手で掬った泥水を飲む」という自分にはこんな美的感覚があるという自覚がある。

多分これは「無力感からの脱出」の言い換え。



同時に存在している感覚として「自分で行動するより運に任せる(他人から与えられたものに流される)方が良い」というのもある。

辞めたくても辞めない、逃げたくても逃げない。なぜならその方が自分にとってプラスになるはずだから、と。





経験上、そのまま抱っこされてたら成功していたのに「無力感からの脱出」のためそこから飛び降り、自分勝手な行動をすると100%といっていいくらい失敗する。

ただ「自分の手で泥水を飲むことを選んだ」という点では成功だといえるが。


完全な二者択一じゃないだろうけど、でもどちらかに偏ってしまう選択になってしまうんだと思う。

「運要素が大きく自分の力だとは思えない成功」か「損を被るし厳しい人生になるけど自分の力で生きる」か。



現時点での理想。

さっさと後項の欲を満たして前項にシフトチェンジしたい。



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2021/4/25

無力感から脱出するために自傷癖になる  1日まとめ記事


寝る前に少し考えていて。

未だ無力感に覆われてどうにか払拭したいと考えている。

この無力感は「努力よりも運で得たものの方が大きい」という経験をしたからだな、と。

そう感じたのは10歳前後で当時は「そういうものなんだな」というなんとなくの言語感で飲み込んでいた。




自分が努力して掴んだものよりも、他人から与えられたものの方が大きい。

他人から与えられたもの=運要素。


こどもの頃この考えにたどり着いてしまった。

こどもなんていくら努力しても自身で得られるものなんて限られている。

悪い書き方だけど、だからこそ大人は少しの努力、おやつにハーゲンダッツをあげるだけで子供から尊敬される対象となる。



この無力感から脱するために頑張るけど、自分は優秀じゃないので他人から与えられたものを超えられない。

不良行為、物を壊したり落書きしたり迷惑をかけたりするのはこの無力感から脱出するための一つの道なんだな、と。

そうすることで「自分だけの形」を生成ができるから。ベクトルが違えど自分の力を他人に見せつけることができるから。



感覚的に「他人から与えられたワインより自分の手で掬った泥水を飲む」という自分にはこんな美的感覚があるという自覚がある。

多分これは「無力感からの脱出」の言い換え。



同時に存在している感覚として「自分で行動するより運に任せる(他人から与えられたものに流される)方が良い」というのもある。

辞めたくても辞めない、逃げたくても逃げない。なぜならその方が自分にとってプラスになるはずだから、と。





経験上、そのまま抱っこされてたら成功していたのに「無力感からの脱出」のためそこから飛び降り、自分勝手な行動をすると100%といっていいくらい失敗する。

ただ「自分の手で泥水を飲むことを選んだ」という点では成功だといえるが。


完全な二者択一じゃないだろうけど、でもどちらかに偏ってしまう選択になってしまうんだと思う。

「運要素が大きく自分の力だとは思えない成功」か「損を被るし厳しい人生になるけど自分の力で生きる」か。



現時点での理想。

さっさと後項の欲を満たして前項にシフトチェンジしたい。



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2021/4/22

幼児性のマイペース構築  1日まとめ記事


嫉妬含めた感情、他人の成果や行動で自分の行動やモチベーションが変わる現象。


僕の理想は「自分が決めたペースでの行動であり」「マイペースで一番速く」。

生きている以上誰かと競争せざるえず、誰かと比較されることは避けられないですが。

だけどそれが行動の第一原理になってしまうと「自分のやりたいこと」を見失ってしまう。

だからすぐそばを他人が走っていてもスルーしてマイペースに、だけどゆっくりとという意味じゃなくて自分の中では速い速度で、が理想。





こんな理想を語っても現実はそうはいかず。

夜ゆっくりしている時、例えば知り合いがめちゃくちゃ活躍したニュースをみると「自分も頑張らなきゃ」と焦り活動の速度を高めようとしたり。

ドジ踏んだことを知ると「自分は大丈夫」だなんて思ってゆっくりしたり。



ブレがでかすぎるんですよね。

これを利用すると「第一線を張る人達がいる環境にいく」ことが自分を高めるため重要な要素。

確かにそうで万人におすすめできる方法なんですが条件が厳しい。

まず自分がその環境にふさわしい優秀さが必要ですし競争意識を前面に出さざる得ない。




それよりも「他人に興味をなくす」ことの方が実現性が高い。

実現性とは知り合いとかの近況でいちいち感情を揺さぶれないようにすることについて。

自己防衛本能的な感じで自然と身につきつつありますがまだまだ足りず。

定期課題ですね。多分このブログに1年に3回くらい書いてそうな課題です。



見捨てるとか切り捨てとか、他人とのコミュニケーションの拒絶じゃなくて。

自分と他人の間に繋がってるのは感情とか思考とかで、実体として目に見える形のものはなく。

なのに「同一性」を見出してしまい自分の想定の範疇で行動しているという錯覚に陥る。

だから「あいつは成功しない」とか「俺より下だ」みたいな不明瞭な自分視点のデータをまるで精査されたデータ並の正確性があると思い込んでしまう。



自分のペースを崩さないというのはかなり大事だなという認識が近頃形成されてきました。

先にも書きましたが「ゆっくりと」という意味じゃなくて、マイペースを掴めると速度の調整をしやすくなるんですよね。

マイペースを自分で知るためにも、マイペース構築は必要ですね。

知っておくことで「限界」もあらかた理解できるので引き際を心得たり他人に助けを求められるようにもなるし。



僕は環境だったり他人の言動でペースを調整する人生を送ってきたので今からマイペースを構築しないといけない。

「ひとりよがりかも」と自分ルール的な排外の促進ではなくて、殆どの人達は幼少期にすでに達成し習得してること。

幼児がひとりよがりな自分勝手な行動をしてもおかしいこととはされず見守られる。

だけど成長し社会性が必要になる一定の年齢以上だとおかしさが際立つ。


なのでこのような「ひとりよがりな自分ルール構築」を幼少期に形成できず、さらにその構築を社会性を学習した大人になってからする場合は「違和感」を抱えながら遂行しなければならない。

未熟な幼児性を突き放してはならずちゃんと向き合わないと習得できない。
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2021/4/21

「はじめの一歩の速度」を高めるのは才能がいるがその中でも自分で進化できやすい  1日まとめ記事



結果の作業量は同じ、変わるのは自分の考え方だけ。

何か行動を起こそうとするとまず結果を考える。

それで必要な作業量も同時に考えるけど、量が多いので面倒になり一歩が踏み出せないんですよね。



「はじめの一歩の速度」というのは速さ個人差あり、速い人は才能だと思います。

だけどこの才能は才能の中でも自分で変えられる可能性が高い部類。

さらに再現性があり応用できる能力。

所謂「ただしている人が少ないだけど普通にできること」だと思います。




そのあと続かなくてもとりあえずはじめの一歩に全力。

朝目が覚めたら布団を足でどける。

外行く時はとりあえず立つ。


料理する時もとりあえず立つ。

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2021/4/20

自己中心、人生の見方を自分に嘘ついてでも明る方向にする  1日まとめ記事




ジェーンスー、堀井美香のオーバーザサン聴きましたか。

EP29。


常に自分の思考の角度は変えられる、ということを意識するようにします。

人間の脳は甘えん坊で「猿が操縦している」と揶揄される程なので「あたかも選択肢は一つしかない」と思い込んでしまうことが多々あります。

思考は自由なので悲惨にも喜劇にもできる。



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2021/4/16

「心配性」なのか「対策をしっかりしている」なのか  1日まとめ記事

(1)
心配性=悪いことだと漠然として価値判断をしてきましたが。

でも「対策」、格ゲーとか何かの試験だったりでは有用な特性なんじゃないかと思い始め。

心配性なほど対策が深掘りができるというか。

感覚的にできるんですよね。


(2)
心配性を軽減する感覚に従って準備すれば自ずと対策になっていくからです。

でもこの心配性、第三者からみたら「神経質で独りよがりな危険なやつ」と見られる場合もある。


(3)
軽減するためにあらゆる対策を講じると「やりすぎ」と批判されがち。

人によっては「しっかりと対策していて偉い」と高評価に繋がるんですが、そんな人ごく稀だなと。

本人にとっては意味があるのに「意味がない」と断じたり。

そんなふうに「お前は変だ」と言われ続けると「対策をせず心配を解消しない、見て見ぬ振りでごまかす」ようになってしまう。


(4)
過去にあまりにも心配でひたすら勉強していた時「お前は大丈夫だよ」と声をかけられたことがあり。

その時は何も思わなかった逆に煽りかと思ってましたが、今振り返ると数少ない心配性を肯定的に見てくれた意見だった。



(5)
最近実験的に心配性を利用した対策を試みたんですがかなりいい線いったんですよね。

他人から「やりすぎ」「おかしなやつ」と言われるだろうけど、本来みんなそのくらいするべきなのにただしていないだけまであると思えてきました。

長年自分の心配性は障害的な何かではないかと、家族に指摘されてそう思い込んでいたんですが。

この類を相談するなら同じレベルまたはそれ以上の人としないと「変なやつ」で終わるんですよね。



(6)
自分の感覚を最優先、と書くと頑固で独りよがりに思われますが。

でもこれは同時に「他人の感覚も尊重する」ことにつながる。

自分の感覚を守るためには相手の感覚も尊重する。

個々人感覚が異なることを前提にする考え。



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